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集団自決の証言者で、本人や身内のものが「殺人者」だったことを実名を出して告白する人は、
金城重明氏の他には見当たらなかった。
だが、控訴審を一ヶ月後に控えた5月25日の沖縄タイムス記事で、宮城晴美氏は、自分の祖父が「人殺し」であったことを告白した。
どういう作戦の変化があったのか、
今朝の沖縄タイムスは一面トップで「義父が身内を殺した」事実を告白する証言が掲載された。
集団自決訴訟の控訴審を2週間後に控え、これが沖縄タイムスの被告側に対する本格的援護射撃なのか。
今朝の朝刊の一面トップに、その特集記事を持ってきた。
刻む 沖縄戦「集団自決」
このワッペン記事の第一回。
沖縄タイムスは「第一部 語りだす人々①」の最後を次のように結んで、この裁判に対する“当事者”としての並々ならぬ決意を表現している。
<この国では沖縄戦や「集団自決」を美化する動きがある。 軍の強制を示す記述を削除させた文部科学省の検定意見は撤回されず、元戦隊長らが提訴した訴訟の控訴審が始まる。 沖縄戦をどう刻み、次代に継承するか、悲惨な体験を語り、伝え、動き出した人を追う。>
よく言われることではあるが、現在の感覚で過去を判断すると歴史を誤る。
平和な時代に生きる我々にとって、手榴弾という軍用品は、手にすることはおろか、見る機会さえなく一生を終える人がほとんどだろう。
集団自決が発生した当時は、米軍上陸を直前にした、戦時中でも最も緊迫した空気が流れていた時期である。
しかも島に駐屯していた軍人たちは島の民家に分宿しており、手榴弾などの軍備品は、現在よりはるか身近な存在だったはずだ。
しかも住民の中には防衛隊員として対米軍上陸に備えあらかじめ手榴弾の支給を受けていた。
そして、「戦後民主主義」の洗礼を受けて育った深見裁判長は、軍用品である手榴弾による自決を「深い軍の関与」とした。
沖縄タイムスなどの地元マスコミは、「軍用品⇒手榴弾⇒住民への支給⇒軍の関与⇒軍の強制」という公式で隊長命令を喧伝している。
だが、軍の命令で手榴弾が住民に配布されたという証言は全てが伝聞証言であり、推定の域を出た客観的証言は皆無である。
何よりも、手榴弾を入手出来た「幸運な人」は住民の一部であり、集団自決実行者のほとんどが農具やカミソリ、棍棒といった軍用品とは関係ないもので実行している。
座間味島の場合は、手榴弾で死んだ人は数人であり、それも他の人が誤って放り投げた手榴弾が、偶々傍に落ちての不幸な誤爆死だったという。(宮平秀幸さん談)
さらに「幸いにも」手榴弾を手に出来た人も、その使用方法が分からず不発だった例が多い。
手榴弾の支給が軍の正式な命令で行われていたとしたら、使用法も良く周知させずに貴重な軍備品を配布したことになり、当時の物資不足の状況から考えると「軍命説」は説得力に欠ける。
この辺で「集団自決=手榴弾=軍の強制」という公式を再検討してみる必要がある。
さて、タイムスの一面トップに戻るが、特集記事の見出しは次のようになっている。
幼子抱え「玉砕場」へ
夜道を義父らと7人で
手榴弾不発 死に方探す
「二度とあんなことは」
今回証言をしたのは渡嘉敷村の阿波連ビーチで売店を営む内原静子さん(82)。
当時19歳の静子さんは10ヶ月の長男を抱え、区長で地域のリーダーであった義父の家に住んでいた。
<どのように命令が出たのかよく分からないが、身を寄せていた義父は区長で、地域のリーダーとして早く動き始めたようだ。 「渡嘉敷にいかないと大変」と義父に言われ、義母とその娘3人、静子さん母子の7人でよるの山道を急いだ。 「捕虜になったら強姦され、男もひどい目に遭わされ殺される」とずっと聞かされていた。 米軍に捕まるわけにはいかない。
今では玉砕場と呼ばれる場所で村長が「天皇陛下万歳」と叫び、あちこちで
手榴弾が爆発した。 が、静子さんたちが囲んだ義父の手榴弾は不発だった。 人々は切羽詰まり死に方を探した。 「信管を抜いてにおいをかいだり、なめてみたり。 どうしたらしねるかねって・・・」。 隣では、男性が家族の首を一人ずつ、ひもで絞め殺していた。
義父は、いつの間にか立ち木を切った太い棒を、義母や娘たちに振り下ろしていた。 静子さんは待ちきれず「私も子供も、早く殺して・・・」と懇願。、義父の手が伸び、気を失った。 その後、義父はどうやって命を断ったか分からない。 >
7人家族のうち、静子さん母子と末娘の三人が生き延びた。
「義父は、まだ幼い孫と末娘を強く打てなかったのだと思う」と静子さんは述懐する。
自分の妻や子を手にかけた義父は「どうやって命を断ったかはわからない」が、結局自分の命も断って果てた。
誤解を恐れず言わしてもらうと、ある意味で義父は「自決」に成功して幸いだったのだろう。
自分の肉親を手にかけていながら自分は生き残っていたら、
もっと悲惨な人生を過ごしたのかもしれない。
そう、自分の肉親はおろか他人の命にまで手にかけていながら、自分は生き残ってしまい、「軍の命令で仕方なかった」と言い続けている金城重明氏の心の内は理解できなくもない。
だが金城氏は当時未だ少年であり、静子さんの義父のような地域のリーダーではなかったから、いくらかは贖罪意識から救われる。
静子さんの義父のように区長として地域のリーダーであって、尚且つ生き残っていたら悲惨な人生だったことは予測できる。
だが、区長どころか村のリーダーたる村長として、住民を自決に導き、尚且つ本人が生き残っていたとしたらその罪の意識は常人の想像に絶するものがあっただろう。
静子さんの証言にも出てくる「天皇陛下万歳」を叫んで、
住民を自決に追い込んだ古波蔵村長は、幸か不幸か、生き残ってしまった。
戦後古波蔵から米田に改姓した村長こそ、最も「軍の命令」が必要だと思った人かもしれない。
そんな非人間的命令を発するには「鬼の赤松」の存在がどうしても必要だったのだ。
米田村長の証言には村のリーダーでありながら判断を誤った男の苦渋が滲んでいる。
渡嘉敷村長の証言
米田(?歳・村長)
集団自決
私たちは、米軍が上陸すると恩納川原に向っていた。恩納川原には恰好な陰れ場所があった。また一つ山越せば頼みとする日本軍が陣どっていた。恩納川の下流は細く二手に分れていて、左右は絶壁である。
ここからは、米軍は上っては来れまい。この谷間は全体が完全に死角になっていて、そこには十・十空襲後、村では、唯一の隠れ場所として小屋も二、三棟建ててあった。
安里喜順巡査が恩納川原に来て、今着いたばかりの人たちに、赤松の命令で、村民は全員、直ちに、陣地の裏側の盆地に集合するようにと、いうことであった。盆地はかん木に覆われてはいたが、身を隠す所ではないはずだと思ったが、命令とあらばと、私は村民をせかせて、盆地へ行った。
まさに、米軍は、西山陣地千メートルまで追っていた。赤松の命令は、村民を救う何か得策かも知らないと、私は心の底ではそう思っていた。
上流へのぼって行くと、私たちは、そこで陣地から飛び出して来た防衛隊員と合流した。その時米軍はA高地を占領し、そこから機関銃を乱射して、私たちの行く手を拒んでいるようであった。
上流へのぼると、渡嘉敷は全体が火の海となって見えた。ぞれでも艦砲や迫撃砲は執拗に撃ち込まれていた。盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。
集団自決はその時始まった。防衛隊員の持って来た手榴弾があちこちで爆発していた。(略)
私は防衛隊員から貰った手榴弾を持って、妻子、親戚を集め信管を抜いた。私の手榴弾はいっこうに発火しなかった。村長という立場の手まえ、立派に死んでみせようと、パカッと叩いては、ふところに入れるのですが、無駄にそれをくり返すだけで死にきれない。
周囲では、発火して、そり返っている者や、わんわん泣いている者やら、ひょいと頭を上げて見ると、村民一人びとりがいたずらでもしているように、死を急いでいた。そして私は第三者のように、ヒステリックに、パカバカ手榴弾を発火させるために、叩いていた。
その時、迫撃砲は私たちを狙っていた。私は死にきれない。親戚の者が盛んに私をせかしていた。私は全身に血と涙をあびていた。すぐうしろには、数個の死体がころがっていた。
私は起き上って、一応このことを赤松に報告しようと陣地に向った。私について、死にきれない村民が、陣地になだれ込んでいた。それを、抜刀した将校が阻止していた。着剣した小銃の先っぼは騒いでいる村民に向けられ、発砲の音も聞こえた。白刃の将校は、作戦のじゃまだから陣地に来るな、と刀を振り上げていた。
(略) 私自身、自殺出来ないことが大変苦痛であった。死ぬことが唯一の希望でもあったが、私は村長の職責をやっぱり意識していた。今に、日本軍が救いに来るから、それまで、頑張ろうと生き残った人たちを前に演説していた。
(略) 私には、問題が残る。二、三〇名の防衛隊員がどうして一度に持ち場を離れて、盆地に村民と合流したか。集団脱走なのか。防衛隊員の持って来た手榴弾が、直接自決にむすびついているだけに、問題が残る。私自身手榴弾を、防衛隊員の手から渡されていた。
この問題を残したから、死に場を失って、赤松隊と自決しそこなった村民とがこの島で、苦しい永い生活を続けることになった。
赤松と私
集団自決以後、赤松が私に対する態度はいよいよ露骨に、ヒステリー症状を表わしていた。私を呼びつけ、命令ということを云い、おもむろに腰から軍刀をはずし、テーブルの上に、右手で差し出すように立って、「我が国の軍隊は…」と軍人勅諭をひとくさり唱えて、今日只今から村民は牛馬豚のを禁止する、もし違反する者は、処刑すると云い放っていた。
(「沖縄県史10巻」から)
村長という村のリーダーの最高責任者でありながら判断を誤って、集団自決というとんでもない悲劇に村民を導き、しかも自分は生き残ってしまった。
村長の責任感が強ければ強いほど、その反動としての贖罪意識は深く大きい。
その分だけ「鬼の赤松」の存在は必要であり、上記証言の最後の部分にも村長が求める「鬼の赤松」の片鱗が見え隠れする。
上記証言で、死に切れなかった村長が
「今に、日本軍が救いに来るから、それまで、頑張ろうと生き残った人たちを前に演説していた」
というくだりは村民に死を強制する残虐非道な日本軍とはどうしても重ならないし、
死に切れなかった村長や村民が軍基地に押しかけて「殺してくれ」と迫るくだりも、
軍は、圧倒的敵の艦砲射撃の前になす術を知らず、住民の集団自決にかまっておれる状況ではなかったことが伺える。
「軍隊は住民を守らない」は左翼の合言葉になっているが、彼らは守備隊の装備をしていない特攻隊でありとても守れる状態ではなかったのが真相だろう。
そのような状況では住民の行動は村のリーダーたちが自発的に決めていたのではないか。
米軍が座間味、渡嘉敷両島に殺到して猛攻撃を開始する約二ヶ月前の「沖縄新報」(昭和19年12月8日)に次のような記事がある。
けふ大詔奉戴日
軍民一如 叡慮に応え奉らん
一人十殺の闘魂
布かう滅敵待機の陣
戦時の新聞なので見出しと記事がやたらと勇ましいのは何処の新聞も同じだが、
沖縄新報の見出しによると、特に昭和19年の大詔奉戴日は10月10日の那覇大空襲の後だけに、
県庁、県食料営団、県農業会などの各団体が主催して沖縄各地で関連行事が行われた様子が報じられている。
ちなみに大詔奉戴日とは日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことをいう。
真珠湾攻撃の翌月の1942年1月8日から、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされた。
そして、同記事では「鬼畜米英」についても各界の体験者の談話を交えて、次のような大見出しを使っている。
米獣を衝く 暴戻と物量の敵を撃て
お題目で獣性偽装
野望達成で手段選ばぬ
昔も今も新聞が国民を扇動するのは同じこと。
新聞が舞い上がって県民を鼓舞しているのが分かる記事だが、慶良間島からも県庁で行われた「大詔奉戴日」式典には島のリーダーたちが参加している。
村長を始め村のリーダーたちはこの雰囲気に煽られて、島に帰った後数ヶ月で目前に迫った米軍上陸にパニックを起こし判断を誤ったのではないのか。
島のリーダーたちにとって、「鬼畜米英」の話は単なる新聞記事の見出しだけではなく、その数ヶ月まえの7月ににサイパン陥落の際、鬼畜米兵から逃れた多くの日本人が、崖から身を投げた「集団自決」があり、その大部分は慶良間出身の沖縄県人であったという。
米軍の投勧告に従って投降した婦女子の悲劇を世界日報は次のように帰している。
<「虐待しない」という米軍の宣伝を信じて投降した婦女子が全員素っ裸にされてトラックで連行された。 老人子供は火の海に投げ込まれた。 発見された赤ん坊は両足から真っ二つに引き裂かれて火の中へ投げ込まれた、という目撃証言もある。 不運にも犠牲者の半数以上が沖縄出身者であり、しかも慶良間諸島(座間味、渡嘉敷)の多かったとされる。 米英はまさに『鬼畜』として受け止められていたのである。>(Sunday世界日報 2008年3月30日)
そう、座間味、渡嘉敷両島の集団自決は、島中を米艦隊に取り囲まれ逃げ場を失った住民に対し、「鬼畜米英」の恐怖を「体験者から」じかに聞いた島のリーダーが判断を誤って起こした悲劇であった。
そして、生き残った生存者は贖罪意識から「軍の命令」を必要とした。
後に、「援護法」の問題が起きると、更に「軍の命令」は島全体にとって必要かくべかざるもの担っていく。
そして、真相を語ることはいつしか島のタブーとなっていった。
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