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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

民主党は悪徳商法そのものである!

2010-06-30 07:01:42 | 県知事選

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2010年6月28日(月)「しんぶん赤旗」

民主党 61項目の“言い訳集”

公約違反・政策変更などへの批判に

消費税増税など開き直り・強弁に終始


 民主党は今回の参院選で、消費税増税をはじめ昨年の総選挙で国民に約束した公約に反する政策を掲げたことから、いいわけ、いい逃れ、弁解、釈明を集めた内部資料を作成し、衆参国会議員、参院選候補者へ配布しています。

 問題の内部資料は『参院選マニフェストQ&A(ポイント版)』で67ページ。「民主党は総選挙で『消費税は引き上げない』と断言してきた。今回『消費税を含む税制の抜本改革』を掲げることは、マニフェスト違反ではないのか」、「『子ども手当』2万6000円を断念し、『暫定税率廃止』は記載もしていない。明確なマニフェスト違反ではないか」など消費税関連の16問を含む61項目の疑問や質問に答えるかたちで民主党の立場を説明しています。

 菅直人首相・代表になった民主党は従来の民主党の公約や基本政策を次々転換・変更し、有権者の批判を招いていることから、党執行部の指示で急きょ、用意されました。

 ただ、別表のように、総選挙公約を次々とひるがえし、消費税増税のように公約に真っ向から反する政策を打ち出していることについて開き直り、いいわけ、弁解に終始しています。

 公約違反の指摘には「マニフェストは生き物であり、…柔軟に見直すことも重要」、予算編成で歴代自民党政権の大枠を変えられなかったことには「1回の予算編成でできるものではない」、消費税増税には「消費税について一切論議しないといってきたわけではない」など強弁しています。

 「なぜ法人税率を引き下げるのか」では、日本共産党の批判を意識して、「法人税引き下げによる減収を消費税で確保するとの指摘があるが」と反問。しかし、なんの根拠も示すことができないまま「全くあたらない」と答えています。

 「こんな言い訳を聞かされた有権者は、ますます怒るだろう」との声が民主党内で聞かれます。

表
拡大図はこちら

 


                                                      ◇

常日頃、筆者は共産党には批判的立場にあるが、今回の赤旗の上記記事にはGJとして拍手を送り、多くの有権者に紹介したい。

石井一、山岡賢次両民主党副代表がマルチ商法信奉者であることを見ても分かるとおり、民主党はネズミ族の巣窟である。

これは当日記で何度も書いた。

民主党のネズミ汚染

 ⇒やはり民主はマルチの巣!増子議員がマルチの監査役! 

マルチ商法会社のパンフレットを見ると、自社はマルチではないし、そもそもマルチ商法自体が悪徳商法で無いという、「言い訳」の羅列である。 

マルチ商法がネズミ講まがいの悪徳商法であればこそ、Q&A方式で「言い訳」に必死になっていること自体、語るに落ちたということである。

まともな会社が自社の説明パンフレットで「私どもは悪徳商法ではない」と言い訳することは無いはずだ。

つまりマルチ商法は実現できない夢のような話で顧客を勧誘するため当初から「言い訳集」のパンフが必要なのだ。

実現できない話で選挙民を騙して政権を取ったのがネズミの巣窟民主党といえば当然、「言い訳集」が必要になってくるわけだ。

言い訳をしなければ悪徳商法、いや、悪党政党、もとい、ウソツキ政党として次の選挙で国民の厳しい糾弾を受けることなるからだ。

「しんぶん赤旗」がすっぱ抜いた、上記「言い訳集」を民主党がこっそりと配布していること自体、民主党には参議院のマニフェストも守る気はないし、マニフェスト等は国民を騙して選挙で勝つための道具だと思っている証拠ではないか。

それにしても他の大手各紙の優秀な記者たちが、民主党のこの「言い訳集」配布に気がつかないはずはない。

自分達が造ったウソツキ政権にまだ未練があるので、不都合な事実は隠蔽するのだろう。

悪徳商法は弱者に実現できない魔夢を売りつけるというが、

さすが二人の副代表にマルチ商法信奉者を擁する民主党だけあって、「子供手当て」「高速無料化」「農家の個別保障」等々、

実現できない魔夢を弱者に売りつける手口は悪徳商法そのものである。

政策を全て隠してしまい、代わりに悪徳商法まがいの「言い訳集」を事前に準備するようなウソツキ民主党に、これ以上政権を委ねると、

日本の将来に大きな禍根を残すことになる。

 

 

【おまけ】

民主党の「言い訳集」はどれを見てもいい加減な回答で、国民を煙に巻く魂胆がミエミエだが、特に密封したはずの「普天間移設」に関しては、全く答えになっていない。

Q: 普天間基地移設について・・・関係地域の合意をどうやって取り付けるのか

A: 沖縄県を始と地元の方々に誠心誠意説明し、理解を求める

「誠心誠意説明する」では答えにはなッていない。 

こんな場合に誠意を表す手段は「お金」、と昔から相場は決まっている。

だが、鳩山内閣は、既に北部振興事業費として新年度予算に70億円を計上しており、前原沖縄担当相などは就任早々の昨年10月に「基地の問題とは切り離し(資金援助を)、行っていきたい」と述べている。

相手が納得する前に既に北部振興事業費(お金)という切り札を切ってしまった後で、誠意を見せるといっても「更なる誠意」を要求されるのが落ちである。

そこで以前から筆者が危惧するのが「更なる誠意」としての「教科書記述とのバーター取引」である。 

お金は既に約束されたし、後は、

「教科書書き換えで誠意を見せろ!」

これが、杞憂に終わればよいが・・・。

 

沖縄県北部の振興事業、新年度も 政府予算案に70億円

朝日新聞 2010年1月3日9時47分
    
 米軍普天間飛行場の移設先とされた名護市など沖縄県北部の振興事業費70億円が、2010年度政府予算案に計上された。移設受け入れの事実上の見返りとして始まった事業で、09年度で終了する予定だったが、当面継続されることになった。鳩山由紀夫首相は名護市辺野古に代わる新たな移設先も探る考えを示しているが、現行計画も選択肢として残すためとみられる。

 内閣府によると、70億円の具体的な使い道は、名護市を含む北部12市町村の要望を踏まえ、関係省庁間で調整して決める。11年度以降は国の財政状況を踏まえ、継続するかどうか検討するという。

 北部振興事業は1999年12月、名護市の移設受け入れ表明を受け、閣議決定された。2000年度から10年間で総額1千億円を投じる計画だった。

 だが、県と名護市は09年8月、当時の自公政権に継続を要望。政権交代後も前原誠司・沖縄担当相が10月に「基地の問題とは切り離し、行っていきたい」と述べていた資料:基地の問題とは切り離し、行っていきたい

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菅首相の言論封殺!「どうせ答えないので」

2010-06-29 18:07:35 | 県知事選

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朝の首相取材、禁止を通告=「どうせ答えないので」
  菅直人首相は22日までに、新聞、通信、放送各社で構成する内閣記者会に、朝の首相公邸前での首相への「ぶら下がり」取材を今後許可しないと秘書官を通じて通告した。理由については、「(記者団の質問に首相は)どうせ答えないので」としている。
 これに対し、記者会側は同日、対応を協議。取材ルールの変更を一方的に通告してきたことは遺憾だとして、事務方ではなく官邸に常駐する正副官房長官ら政治家が直接、記者会に説明するよう求める方針を決めた。
 菅内閣は発足直後の9日、首相へのぶら下がり取材を従来の1日2回から1回に減らし、代わりに記者会見を月1回行うと提案した。記者会は理由を文書で示すよう求めているが、首相側は回答していない。 
 首相はぶら下がり取材に応じても、短時間で打ち切るケースが多い。これに関し、首相は22日夜、記者団に「いろんな形で国民の皆さんにはわたしの考え方を伝え、いろんな意見に対してもお答えしている。かなり国民とは必要なコミュニケーションはできていると思っている」と述べ、同日の党首討論会などで説明責任は十分果たしていると強調した。
(2010/06/22-20:17)

                                                   ◇

旅行中で気が付かなかったが、論戦が得意のはずの菅首相が言論封殺をしていたとは驚いた。

政治家は言論が命のはずだ。

とりわけ国政の最高責任者たる首相が「(記者団の質問に首相は)どうせ答えないので」という理由で、取材拒否するというのは尋常ではない。

これも参院選直前なので、「小沢隠し」「普天間隠し」「消費税隠し」と同じように「夫婦別姓法案」、「外国人地方参政権法案」を国民の目から隠すつもりなのか。

重要案件を全て国民の目から隠してしまい、国民が気がつかぬ間に一気に参院選で過半数を獲得すれば後は野となれ山となれ・・・これが、菅政権の参院対策である。

政府の意志を国民に伝えるぶら下がり取材を、首相自ら拒否するということは「政策隠し」に他ならないではないか。

国民を愚弄するのもいい加減にして欲しい。

民主党が国民の目から隠そうとしているトンデモ案件にはこんなシロモノもある。

サルでも分かる人権擁護法案・とんでもないファシズム法案です


民主党マニフェストの正体


言論封殺で国民をツンボ桟敷に追い込んで、選挙戦略だけで参院選過半数獲得を狙う民主党に鉄槌を加えるべきだと考える方、応援のクリックお願いいたします。

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三点隠しの菅首相 消費税論議で敵前逃亡!

2010-06-29 06:13:43 | 県知事選

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子ども手当 半額支給維持も容易ではない  (6月28日付・読売社説)


 
子育て支援は政策のバランスと、何より財源の裏付けが必要だ。

 民主党は参院選公約で子ども手当について、来年度から月2万6000円を支給するという「満額実施」の看板を取り下げた。

 半額でスタートした現行の月1万3000円に「財源を確保しつつ、上積みする」との表現にとどめている。上積み分も「保育所の拡充や給食の無料化など、現物サービスの充実策にも代えられるようにする」とした。

 財源がなければ上積みはせず、現金支給至上主義も見直す、ということだろう。

 国債発行額が税収を上回る非常事態の財政下で、年5・4兆円を要する子ども手当の満額支給は論外だ。路線変更は当然である。

 社会保障関連予算は、高齢化の進行により、毎年約1兆円ずつ膨らむ。来年度からは基礎年金の国庫負担引き上げに2・5兆円が必要になる。子ども手当は上積みどころか、半額支給の維持も容易でないのが財政の現状だ。

 政府は「子ども・子育てビジョン」で、保育所定員を年に5万人ペースで増やす、といった今後5年間の数値目標を掲げている。

 今後は、ビジョンの実現に軸足を移すということだろう。しかしこれにも、1・6兆円の財源が必要だ。予算の組み替えや無駄の削減で捻出(ねんしゅつ)できる金額ではない。

 消費税率を引き上げない限り、子育て支援を充実させることは難しい。民主党はその点をまず明確に認め、消費税の議論とセットで子ども手当の金額や支給方法、そして子育て施策全体の設計をやり直すべきだ。

 この姿勢は、野党にも求められよう。自民党は昨年の総選挙に引き続き、「幼児の保育料と幼稚園費の無料化」を公約に掲げるが、少なくとも8000億円は必要な施策である。

 自民党は「消費税率10%」を公約に明記し、必要財源を担保してはいる。だが、社会保障の思い切った充実策を実行するには、まず消費税率の引き上げ実現が大前提であることをもっと強く、国民に訴えるべきだろう。

 英キャメロン政権は財政再建のために、付加価値税率を20%に引き上げ、子ども手当を3年間凍結する方針を打ち出した。

 日本の財政状況は英国以上に厳しい。負担増なしに社会保障制度を維持することは不可能だ。

 それを真正面から有権者に語る政党はどこか、有権者は参院選で見極める必要があろう。

(2010年6月28日01時56分  読売新聞)

                          ◇

超党派に呼びかけ」までが公約 消費税論議で菅首相朝日新聞2010年6月27日)
    
 【トロント(カナダ)=西山公隆】G8サミットに出席した菅直人首相は26日夜(日本時間27日午前)、トロント市内で同行記者団との質疑に応じた。消費税については、超党派で議論しようと呼びかけた提案自体が参院選公約だとの考えを強調10%を参考に税率引き上げを検討するという自らの発言は、公約ではないとの認識を示した。

 首相は21日の記者会見では、「自民党が提案している10%を一つの参考にしたい、と申し上げた。そのこと自体は公約と受け止めていただいて結構だ」と述べていた。今回、この発言を事実上修正した。

 「選挙戦で消費税が強調されすぎている」(首相周辺)との判断から、争点化を避ける狙いとみられる。首相は26日、「消費税を含む議論をスタートさせましょうと提案していることを公約と言われるなら、その通りだと言った」と釈明。さらに、「財政再建の第一の柱はムダの徹底的な削減だ。同時に成長戦略で雇用を拡大し、需要を拡大してデフレから脱却する」と、ムダ削減を優先する姿勢を強調した。

 朝日新聞が24、25日に行った参院選情勢調査では、民主党の過半数確保は極めて微妙。内閣支持率では、政権発足当初の勢いにかげりも見える。党幹部の一人は26日、「民主党の伸び悩みには消費税が効いている。(主張を)薄めていかざるを得ないだろう」と述べた。また、小沢一郎前幹事長も25日、記者団に「地方経済は都会以上に非常に深刻だ。そこで、消費税10%という話になると非常に心配している」と語り、消費税が選挙戦に影響しているとの考えを示唆している。

 菅首相は26日、参院選の勝敗ラインについては「現有議席(54)をいかに確保し、超えていくことができるかだと当初から申し上げている」と述べて、54議席とする考えを改めて示した。

   ◇

 菅直人首相が26日夜(日本時間27日午前)、トロント市内で記者団の質疑に応じた要旨は、以下の通り。

 【参院選勝敗ライン】

 もともと代表になる前の段階では、民主党の置かれた状況は大変厳しかった。やはり現有54議席をいかに確保し、それを超えていくことができるか。その考えは変わっていない。

 【過半数に達しなければ】

 政権運営上なかなか難しい。いろいろな他党のみなさんとも、いろんな形でお話しすることが必要になる。

 【消費税】

 財政再建の第1の柱は、ムダの徹底的な削減だ。事業仕分けだけでなく、公務員や地方の出先機関の廃止など、制度論にいよいよ踏み込む。同時に成長戦略によって雇用を拡大する、需要を拡大する中で、デフレからの脱却。これが非常に大きな柱だ。

 その二つに加えて税制の抜本改正について議論すべきだ。消費税を含む議論を(超党派で)スタートさせましょうと提案していることを公約と言われるなら、その通りだと申し上げた。低所得者のみなさんにこれ以上の負担をかけない方法も考える。

                                                      ◇

見ザル言わザル聞かザル、とは何事にも我関せずの無責任な世渡り術のことをいうが、個人ならともかく天下の政権与党の公約が「三ザル」ならぬ、「三隠し」だとすると、こんな無責任な政党に政権を委ねるバカはいない。

昨日のエントリーで菅首相は「小沢隠し」と「普天間隠し」で、参院選を乗り切る魂胆だと書いた。

だが、前政権が挫折した二つの案件を隠し通せるものではない。 

有権者の視線を「政治とカネ」、「普天間移設」から逸らせるため、菅首相は目くらまし作戦を考えた。

それが「消費税10%」の自民党との抱きつき作戦だ。

選挙前に与党が増税を仄めかし惨敗した例は橋本内閣の先例を待つまでもなく、争点にするのはタブーとされている。 当然民主党のマニフェストに消費税の引き上げについては一行の記述も無い。

選挙目当てだけの「子供手当て」や「高校無料化」「農家の個別保障」とバラ撒きだけは公約なので財源確保に悩んでいた矢先、自民党の「消費税10%値上げ」を知るや、渡りに船とこれに抱きついた。

そしてマニフェストには記されていなくとも公約だと公言した。

当然国民の関心が消費税論議に移り、思惑通り「小沢隠し」と「普天間隠し」は成功するかに見えたが、消費税アップが争点になるや支持率低下の洗礼を受けた。

「小沢・普天間隠し」には成功しても、消費税アップに国民の関心が集中し過ぎてはては論点ズラシの意味を失ってしまう。

菅首相は、支持率続落の報せをG8サミット出席中のカナダで受けるや、「消費税については、超党派で議論しようと呼びかけた提案自体が参院選公約だ」と急遽前言を翻した。

「呼びかけ」までは公約で、それ以下は公約では無いって?

うーん、分かり難い。

いや、分かり難いというより、

国民を舐めているのか!

消費税を隠して、「子供手当て」も反故にする気か!

自民党案に抱きついては見たが、「選挙戦で消費税が強調されすぎている」から、今度は突き放すつもりなのか。

薬が効きすぎたので今度は「消費税隠し」に走るつもりか。

因みに「子供手当て」は、もはや消費税アップなしには半額支給さえ覚束ないという。(上記読売社説)

「政治とカネ」を隠し、「普天間移設」も隠しておきながら、消費税まで隠して国民が納得するとでも思っているのだろうか。

政策は全て隠して、選挙対策だけの綱渡りで国民を騙す魂胆なのか。

これで民主党に投票する国民がおれば、全てを隠して何も実行出来ず、選挙に勝ちさえすれば何とかなるという無責任政党を妄信するバカな国民だと言われても仕方が無い。

菅内閣の支持率50%に続落…読売継続調査

 

【おまけ】

現在の菅首相のジレンマを簡単に説明するとこうなる。

参院選過半数獲得⇒子供手当て等のバラマキ公約⇒財源不足⇒消費税アップ⇒支持率急落⇒消費税撤回⇒財源不足⇒ 

子供手当て等の【バラマキ】【消費税アップ】という相反する公約の狭間に立って、二進も三進も行かない

これが菅首相のジレンマ。


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アキレス腱を狙え!民主党の過半数割れには

2010-06-28 06:54:31 | 普天間移設

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普天間移設 参院選まで協議停止 日本側が米に伝達
2010年6月27日        
 【米ワシントン26日=与那嶺路代本紙特派員】米軍普天間飛行場移設問題をめぐり、日本政府が7月11日投開票の参院選まで協議を停止するよう、米政府に申し出ていたことが分かった。21日に防衛省で開かれた実務者協議で伝えた。次回会合は参院選後の7月後半、米国で再開する。8月末までに代替施設の位置や工法など重要事項の詳細を決めることになっているが、
予定が大幅に狂ったことで、期限内の決定は困難な状況になってきた。
 菅直人首相が、参院選が終わるまでは対米交渉で日本案を提示しないよう、外務当局に指示した。同問題を進展させることで世論の注目が集まり、選挙の争点になることを避けるためとされる。
 8月末の決定事項について、政府内には「無理に一つの案に絞らず、複数案にとどめればいい」と、詳細決定を先延ばしする考え方も浮上。だが先延ばしすれば、今度は11月の知事選に近づくことから、米側は「選挙に与える影響を考慮し、結局何も決められなくなる」といら立ちを見せている。8月末までに何をどこまで決定するか、関係者間で認識のずれが生じており、協議は既に行き詰まりの様相を呈している

                      ◇

鳩山前内閣は「政治とカネ」と「普天間移設」の二つの案件で挫折し、未解決のまま政権を放り出した。 

引き継いだ菅内閣は「小沢隠し」で、参院選を乗り切ろうと企んでいるが、「普天間移設」」も参院選までは頬被りし「普天間隠し」で参院選を迎えるというのが上記記事の概略だ。

しかし、菅首相は鳩山首相が行った日米合意をそのまま踏襲すると公言しているが、菅首相こそもっとも日米合意を引き継ぐのに最も相応しくない首相である。

菅首相は以前からから日米安保体制については批判的発言を繰り返していたし、今回の普天間移設問題でも内閣の重要な地位にありながらほとんど積極的な発言をしてこなかった。

発言すれば従来の自身の発言と齟齬が生じ、唇に寒さを感じたからであろう。

日米合意に明記されている8月一杯の実行についても既に陰りが見え始めた。

8月一杯の日米合意を、参院選のため反故にしたとなると、民主党政権は鳩山内閣、菅内閣と一年も経たないうちに二度も日米合意を反故にしたことになる。

さらに11月の沖縄県知事選を考えると、日米合意は一歩も進まないことになりかねない。

日米同盟にとって最悪の首相の下、日米間の信頼度はさらに悪化することが予測される。

そもそも民主党にとって外交と安全保障問題はアキレス腱だといわれていたが、鳩山前首相があれほど自信たっぷりに「最低でも県外」を主張していたので、一国の首相がそう言うのなら、筆者のような凡夫の想像もつかない絶妙の「腹案」でもあるものと僅かながら期待もした。

だが、今回の菅内閣はその僅かな期待どころか鳩山内閣の挫折をそのまま引き継いだ内閣である。

「普天間移設」に関しては一点の解決策も見出せないまま放置しておくというのが、菅内閣の作戦とみた。

とんでもない魔法でも使わない限り「普天間移設」がそのまま頓挫するのは火を見るより明らかである。

菅首相は目下のところ「財政再建」と「成長政策」の両立を掲げ、国民の関心を普天間移設から逸らそうとしているが、国民の生命と財産を守る国防・安全保障問題を選挙を口実にスルーする内閣を信頼するわけにはいかない

一年足らずでその無能振りを暴露した民主党から政権を奪回するためには、二週間後に迫った参院選で民主党に惨敗を喫させることが必定である。

敵を攻めるには相手の嫌がる弱点を攻めるのが一番。

民主党のアキレス腱を攻撃すべきである。

「8月一杯の合意はどうなるのか」と追及し攻撃の手を緩めるべきではない。

今、民主党沖縄県連も民主党に反旗を翻す勢いで「辺野古回帰」に猛反対をしている。 

沖縄では今回の選挙で逆風が強すぎるため、民主党公認の候補者を見送ったくらいである。

沖縄タイムスと朝日新聞の共同調査によると、自民党公認の島尻候補が最有力だとのこと。

参院選で民主党を惨敗に追い込むことに同意する方、

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【おまけ】 狼魔人旅日記(2)

旅行初日の17日、大阪の夜。

今回の旅行は連れ合いとの二人旅で、出発初日の17日の大阪の宿は梅田駅近くの新阪急ホテル。

大阪に嫁いだ次女が「ホテルに奮発したね」と皮肉ったが、前回娘夫婦を訪ねたときの宿は娘の居住地(学研都市線)を考えて京橋シティホテルだったのでビジネスホテルに比較したのだろう。 新阪急ホテルは実は早い時期に予約してあったので早割でこちらの方が安かった。 ツインベッドで一泊9000円である。

梅田駅前で一人頭4500円は安いと思うがどんなもんだろう。

因みに那覇→関空の航空券は一人10000円で、これも早割。

その夜は娘夫婦が夕食を奢ってくれるというので、折角だからありがたくゴチになることにした。

一歳児を含む孫二人も一緒なので店への迷惑も考えて畳の間が良いということで、予約済みの京橋の居酒屋「和民」に向かった。(和民は未だ沖縄には進出していない)⇒語らい処 坐・和民 JR京橋北口店

久し振りに次女夫婦や孫達との食事にしばし時の経つのを忘れたが、子供連れの外食はいつでも騒々しいもの。 

孫二人で飲み物をひっくり返すやら机に頭をぶっつけて大泣きするやら。 

店員がお絞りを持って駆けつけること数回に及び、終いには娘も店に遠慮して自分で証拠隠滅に大童。 とにかく6名の宴席は楽しくもあったが大騒動であった。

娘婿のK君が「腹に余裕があったら」と前置きしながら、食い物屋の二次会に誘ってくれた。 

近くに絶品の坦坦麺屋があるので是非食べて欲しいという。

京橋駅裏の細い路地を坦坦麺屋に向かった。 途中の路地の客引きの多いのには驚いたが、目指す坦坦麺屋は満員で行列が出来る始末。 

幼児を二人も連れて行列で待つ気もしないので、その夜はこれで勘弁してやろうと、次の機会に繋いでその夜はそのままホテルに戻った。

久し振りに娘夫婦一家との旨い酒と旨い食事に満足し、翌日の奈良見物に備えて熟睡した。

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集団自決:沖縄タイムスの末期症状

2010-06-27 07:09:21 | ★集団自決

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沖縄タイムス 2010-06-24

戦禍語る 平和紡ぐ 力の限り二人三脚 糸満市・久保田さん母子
人が人でなくなる/歴史わい曲許さず

 多くの県民の命を奪い、そして運命を変えた沖縄戦から65年。戦争体験者が減り続ける中で、戦争の悲惨さを将来の世代へ伝える営みは続く。一方で、変わらぬ沖縄の過重な米軍基地の負担。「戦争が完全に終わったとはいえない」現実が横たわる。戦禍をくぐり抜けてきた人たちの願いが、実現する日はいつなのか。各地の慰霊碑には多くの人が足を運び、平和への誓いを新たにした。

 23日正午に合わせ、久保田千代子さん(88)=糸満市米須=は自宅の外で両手を重ねた。大病を患い慰霊の日の式典に出席しなくなってから、摩文仁の平和祈念公園の方向に黙祷(もくとう)をささげるのが決めごとだ。次男の曉(さとる)さん(65)と一緒に公民館や小学校に出向き、戦争体験を語りだして2年余り。「体が続く限り、証言したい」との思いをあらためてかみしめた。

 千代子さんが摩文仁国民学校の教員だった時、沖縄戦は始まった。生後3カ月の曉さんをあやしながら必死の避難。背中におぶっていた長男衛さん(当時2歳)は砲弾を受けて即死した。涙は出なかった。

 「人が人でなくなる。それが戦争」

 米須の壕で身を潜めていたある日、国民学校の教頭がやって来た。目当ては千代子さんが預かっていた学校保管の教育勅語。「命より大事なもの」として尊ばれた勅語の行方を案じ、避難先の本島北部から激戦の中に飛び込んできたのだ。教頭は戦死した。「戻って来なければ…」。皇民化教育が多くの命を奪った。

 あの時代を思い出すだけで眠れなくなる。千代子さんは小学校で約40年、教壇に立ったが、教え子たちに戦争の記憶をさらけ出すことはなかった。

 だが2007年、「集団自決(強制集団死)」の記述から軍強制が削除された教科書検定問題をきっかけに「今、語らなければ歴史をねじ曲げられる」と奮い立つ。

 公民館で、小学校で、保育所で。千代子さんが体験談を話し、曉さんが戦争の絵本を読み聞かせる。親子二人三脚の語り部活動に一歩を踏みだした。

 失意のどん底にあった敗戦直後。本島中部の石川にあった捕虜収容所で、日々成長する曉さんは希望の星だった。「この子には平穏な世の中を」と千代子さんは誓った。

 足腰は弱っても、気力は衰えない。「夜寝る前、いまだに軍歌を聞いて口ずさむことがある。沖縄戦が青春そのものだった悲劇を、若い人にも知ってほしい」

                        ◇

■皇民化教育⇒軍命説の破綻■

戦争の体験を語り継ぐことは重要なことである。 

だが上記記事が、慰霊の日の翌日社会面トップで飾り、親子二代の証言として写真入で大きく紹介されるほどの重要証言なのか。 

沖縄戦証言集でもあればその半ページでも割いて記録すれば済む程度の証言ではないのか。 

どうやらタイムス記者は、教育勅語を回収に来た教頭が爆撃で戦死したことを捉え、皇民化教育と集団自決の原因を強引に結び付ける魂胆のようだが、一方では皇民化教育の象徴を「戦陣訓」にして見たり、この場合には教育勅語に皇民化教育の象徴を見出そうとしているが、論理が破綻しているのはお気の毒だ。

証言者の久保田さん親子が戦争を体験した糸満市米須は、教科書の集団自決とは関係ない地域であり、久保田さんの《「集団自決(強制集団死)」の記述から軍強制が削除された教科書検定問題をきっかけに「今、語らなければ歴史をねじ曲げられる」》、という発言は事情を知らない読者にとっては、久保田さんが慶良間の集団自決の重要証人であるかのような誤解を与えかねない。

「戦陣訓軍命説」の破綻については次のエントリーに詳しい。

戦陣訓軍命説の神話

続・戦陣訓の神話

戦陣訓の神話完結編、軍人勅諭を全文暗記した沖縄人

役所や学校の緊急持ち出し書類に関しては、座間味村役所に勤務の宮城初枝さんの証言にもあるように、米軍上陸に供えて土地台帳を持ち出したというから、緊急の場合持ち出したものに特別の意味はないものであり、教頭が教育勅語を取りに来て爆死したからといって皇民化教育の証拠に決め付けるのには無理がある。

長年、皇民化教育の象徴にされていた「戦陣訓」が戦後ルバング島から奇跡の帰還をした横井庄一さんの帰国以来、後付けで流行した言葉であることが分かり、最近では、「軍命あり派」の林博史関東学院大学教授でさえも、集団自決は「皇民化教育」の影響は限定的であり、必ずしも集団自決の主たる原因ではないと作戦変更を余儀なくされている。

その後、地域社会の構造に着目して階層による人々の意識の違いを分析し、さらに「集団自決」が起きなかった島や地域と比較して皇民化教育の影響は限定的であり、日本軍の強制と誘導こそが決定的であるという主張が『沖縄戦と民衆』においてなされた》(林博史関東学院大学教授 「日本軍強制の証拠発掘」沖縄タイムス 2010年6月22日)

今頃になって前言撤回をして「戦陣訓」などの皇民化教育が集団自決の主たる原因とでないとは、この学者先生、一体今まで何を寝ぼけていたのか。

皇民化教育が行われたのは何も渡嘉敷、座間味両村に限って行われたわけではなく、当時の沖縄本島の他地域も、また日本全国であまねく行われていたわけであり、皇民化教育に集団自決の原因を求める論は遅かれ早かれ破綻するのは時間の問題であった。

■根拠のまるで無い軍命説■

しかし前言を翻してもその原因を「日本軍の強制と誘導こそが決定的」とは、随分と乱暴な断定ではないか。

集団自決における「軍の命令(強制)の有無」を論争するのに、何の根拠も示さずに「軍の命令と誘導が決定的」では、議論も何もあったものではない。

これではヤクザが「○○が決定的だと言えば決まりだ!」と理屈省略で恐喝するに等しい論法ではないか。

前述の6月22日付け沖縄タイムスの「日本軍強制の証拠発掘」と題する林博史教授の論文の何処を読んでも「日本軍強制の証拠」は記されておらず、結語部分にも論証の一欠けらも見出すことは出来ない。

論証明確に

07年以来の調査研究の進展によって「集団自決」についての解明は大きく進んだ。 隊長命令が重要なポイントではなく、日本軍が強制と誘導によって住民に死を強いていったことが一層明確になった。 もちろん細部についてはもっと詰めなければならない点もあるが、地域社会の構造とその中での人々の意識と行動を丁重に読み解き、かつ沖縄だけでなく日本軍がかかわった他地域の状況も視野に入れた研究が求められている。
また集団自決という呼称についての議論もあるが、ある用語を使うだけで非難するのではなく、具体的な分析を通して建設的な意見をおこなう必要がある
》(「日本軍強制の証拠発掘」林博史関東学院大学教授 2010年6月22日付け沖縄タイムス)

林教授の論文の「論証明確に」と題する結語部分を見ても、日本軍強制の証拠を例挙するどころか、大阪高裁で隊長命令が事実上否定されたのを受けて、先ず「隊長命令が重要なポイントではなく」と論点をずらし、

次に「日本軍が強制と誘導によって住民に死を強いていったことが一層明確になった」と、何の根拠も示さず断定している。 

ヤクザの恫喝と前に述べたが、最近のヤクザ屋さんは林教授のような根拠なしの断定はしないであろうから、ここでヤクザ屋さんに失礼を詫びておかなければならない。

また論点を慶良間島集団自決の「隊長命令の有無」から外して、「沖縄だけでなく日本軍がかかわった他地域の状況も視野に入れた研究が求められている」と範囲を広げているのは、「軍構造軍命説」に対して当初から指摘されていたことであり、日本軍の構造的問題は何も渡嘉敷、座間味両村にのみ限ったことではなく、日本全国他の地域でも当てはまることが再三言われていた。

だとしたら「皇民化教育軍命説」と同じように「軍構造軍命説」も遅かれ早かれ破綻する運命にある。

「隊長軍命説」を大阪高裁が否定して以来、「軍命あり派」の論理は羅針盤の無いまま大海に放り出されたドロ舟のようなもので沈没するのは時間の問題である。

因みにこの林教授の論文は沖縄タイムスの連載特集「沖縄本ナビゲーション」のシリーズ⑳の「集団自決」編であり、

林教授が選んだ《「集団自決」を学ぶための10冊》と称して10冊の本が紹介されているが、ご本人の林博史教授を含む、安仁屋政昭沖国大名誉教授、金城重明氏、宮城晴美氏、謝花直美沖縄タイムス記者、大城将保氏、等々といずれも「軍命あり派」の応援団の著作ばかりを並べて紹介している。

興味深いことに、これらの著者達は「集団自決訴訟」が提訴されるやいずれも自論を翻し「転向した」恥を知らないお方ばかりである。

それどころか、論文を書いた林教授などは「皇民化軍命説」「ジェンダー説」と次々とコジツケ軍命論が破綻する一方で「大城澄江証言」のような決定的証言の出現で、すっかり戦意を失って論文の結語部分では再度の「転向者」になりかねない気配を感じるの筆者だけだろうか。

「隊長命令が重要なポイントではなく、日本軍が強制と誘導によって住民に死を強いていったことが一層明確になった。」

この根拠も示さぬ結語部分に学者としての矜持はあるのか。

筆者には、自暴自棄で白旗を揚げたとしか見て取れないが。

 

【おまけ】

今回の関西、東京の旅の目的はいくつかあったが、初日、二日の関西と三日、四日を、いきなり飛び越えて五日目。

目的は、東京のミッドタウンを訪問することであった。

当初、娘の勤務場所を聞いて、ミッドタウンに本社があると聞き、東京郊外のどこかの団地「○○タウン」にでも事務所があるのかと思ったが、今やミッドタウンは東京は六本木でも有数の賑やかな場所だという。 

二昔も三昔も前の「昭和の東京」は知っているつもりでいたが、それでも当時でさえも六本木といえば芸能人が縄張りにする小シャレタ街で沖縄出身の筆者にとっては縁遠い存在であった。

当時は地下鉄六本木駅の近くに「アマンド」という喫茶店があるのと、明治屋という外国品の豊富なスパーがある程度しかあの界隈は知らなかったし、悲しいかな六本木で飲み食いした記憶は筆者には無い。

さらに時は下って、平成のIT時代の六本木といえばIT長者の棲息する場所。

そう、筆者にとっての六本木とは、ホリエモンを筆頭にしたIT長者の若者達が事務所や居を構える六本木ヒルズを、テレビのワイドショーを通して垣間見る程度であった。

それが今度は六本木ヒルズに取って代わって、今やミッドタウンが六本木の中心だと来た。

ついていけるはずはないだろう! 

それでも冥土の土産にと、そのミッドタウンとやらでメシでも喰おうかと娘に言ったら、目の玉の飛び出るような場所でメシを食したら体に良くないので冥土がより近くなる、とのアドバイスを受けた。 

仕方なく娘には内緒でランチを食いにミッドタウンとやらの食堂街に忍んで行くことにした。 

大枚二千円も払えば、いくらミッドタウンといえどもランチくらいなら何とか食えるだろう。 重大決意の下、地下鉄で六本木に向かった。

ミッドタウンでの食事にこだわるのには、他にも理由もあった。

堺正章さん経営の「もとぶ牛の焼肉店 An grill」がミッドタウンにあり、出来れば食事をしてみたかったから。

そう、「もとぶ牛」とは沖縄産和牛牛であり、筆者の婿殿のカウボーイ君が勤務する「もとぶ牧場」で育ったあのブランド牛である。

それが六本木に進出しているのだ。

六本木、ミッドタウン、ブランド和牛、堺正章プロディュースの店と並ぶと、大枚2千円で間に合うかどうか気になるところだが、

最悪の場合は店を覗くだけに止めて、堺さんの店は素通りし近くの吉野家にでも行って、牛は牛でも牛丼大盛り汁ダク、味噌汁お新香付きで千円もあれば釣りが来る。 

同じ牛でも一方は筆者の婿のカウボーイ君が勤務するあの牧場のブランド牛である。 これも本人に言ったらつまらんことをしてもとぶ牛の信用を落としては困ると止められると思い、これも婿には内緒の隠密行動である。

六本木くんだりまでノコノコ出かけて行って何を仕出かして信用を落とすのかって?

食うだけ食ってカネが足りなくて六本木交番あたりに突き出されるとか。

それとも筆者が靴擦れで足が腫れサンダル履きなので、腫れた足の爪と、もとぶ牛の香りに涎を垂らす筆者の姿を店員さんに口蹄疫と見咎められ、店外につまみ出されるとか・・・。

前置きが長くなったが、「もとぶ牛の焼肉店 An gril」は、実際はミッドタウンのビルには入っておらず、ミッドタウンの右手の道に面した場所にあり、週替わりランチが1000円なので門前払いされることなく、六本木のランチを食する目的を無事達することが出来た。 勿論口蹄疫に間違われてつまみ出されることもなかった。

なおその日の週替わりランチは焼肉ビビンバにワカメスープ、キムチと野菜サラダそれにコーヒーゼリーのデザートが付いて1000円は、店の落ち着いた雰囲気や場所を考えたらお勧めだと思うがどうだろうか。 量もランチにしては充分あったし、ドリンクは付いていなかったが希望者には別料金でホットコーヒーからジュースまでいずれも100円で提供しているのも好感が持てた。 特にワカメスープは今まで食した中では一番美味かった。

筆者の婿のカウボーイ君が丹精込めて育てている「もとぶ牛」を堺正章さんプロディュースの店で食したい方は⇒もとぶ牛の焼肉店 An grill

因みに筆者と上記店とは何の関係もありませんので念のため。

沖縄では梅雨も二週間ほど前には上がっており、昨日は夏本番の猛暑であった。

口蹄疫は暑さに弱いとのことで罹患の恐怖は一段落ついたとのこと。

くだんのカウボーイ君、昨日は久し振りに休みが取れたとのことで夫婦で孫を連れて筆者宅に遊びに来ていた。 (六本木探訪の話は当分内緒である)

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琉球新報のヨタ記事

2010-06-26 07:44:42 | 未分類

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沖縄戦記を憶測で自分の都合の良いように創作し、「残虐非道な日本軍」を印象操作する得意技は、『鉄の暴風』の出版元である沖縄タイムスの専売特許だと思っていた。 だが、最近の沖縄二紙を見ると「残虐な日本兵」糾弾のデタラメ記事はすっかり琉球新報にお株を奪われたようである。

歴史に刻んでおくべき沖縄戦記を、一新聞記者の憶測と先入観で書き散らす手法は『鉄の暴風』が創始したが、出版当時の1950年の沖縄の時代背景を考えるなら大田良博記者がウワサ話を頼りに記事を書き上げたのもある程度は理解できる。

だが、情報化時代の現在、琉球新報が60年前の『鉄の暴風』と同じ手法で憶測と先入観の沖縄戦記を書いても、賢明な読者はそれを鵜呑みにする筈はない。

それどころか、読者を愚弄した紙面構成に密かに失笑するだけである。

おどろおどろしい見出しで一旦その気になった読者がいたとしても、文面を精読すれば、それが記者の勝手な思い込みであることに即座に気が付くはずである。

IT時代の新聞読者は琉球新報記者がヨタ記事を書いて騙せるほどバカではないことを琉球新報は銘記すべきである。

琉球新報に比べて最近の沖縄タイムスが比較的おとなしいのは、上告中の「集団自決訴訟」の最高裁判断を真近に控え、二審判決を覆すと思われる「大城澄江発言」の持つ意味を理解し、二審差し戻しを予測した結果だと推測する。

沖縄タイムスは訴訟の直接の被告ではないが、全ての発端が同社発刊の『鉄の暴風』のデタラメ記事である以上、裁判で全面敗訴になった場合、同社が受けるダメージは琉球新報の比ではないはずだ。

敗訴が予測される現在、沖縄タイムスは、これ以上沖縄戦記に関するデタラメ記事を書き散らし、徒に傷口を大きくするの避けるため、しばらくは過激な推測記事は控えているのではないか。

その点、直接の当事者ではない琉球新報は「毒を喰らわば皿まで」の心境で、やけくそとも思えるヨタ記事を書き散らしているのではないか。

もしそうだとしたら、こんなに読者を馬鹿にした話はない。

旅行のため沖縄紙を読まなくなって約10日にもなるので、琉球新報のデタラメ戦記特集に関しては、

琉球新報ウォッチャーをされている縁側さんの逆風って気持ちいい!の記事を、6月21日、22日と二日に渡りご紹介したい。

◆以下引用。(原文はそのままですが、色付け、太字強調の一部編集は引用者)

昨日(20日ー引用者)は朝日新聞のいやらしさをエントリーしましたが、本日は琉球新報の社会面。あまりにひどい記事に朝から呆然としてしまいましたが、極めて琉球新報らしい記事ではありますね。ご紹介します。 

 虐殺の疑念 家へ帰り殺された祖父
 
 「きょうは家で寝るよ」。祖父の平良長太郎=当時(73)=はこの言葉を最後に、孫の當間タケ子(75)=浦添市、当時(10)=ら家族の元へ帰ることはなかった。2日後の早朝、捜しに出たタケ子らは、羽地村真喜屋=現在名護市=の海岸で変わり果てた姿の長太郎を見つけた。護岸のすぐ下でうつぶせに倒れ、後頭部を銃で撃たれていた。山中で避難生活を送っていた祖父が真喜屋の家に帰ると言い残し、亡くなったのは1945年4月半ば。米軍の支配下地域となっていた真喜屋では断続的に戦闘が繰り返され、その晩も村で銃撃戦があった。家々は焼かれ、日本兵の死体が転がっていた。

 米軍上陸直前の1945年3月末、母と姉ら5人で恩納村真栄田の家を出たタケ子は真喜屋の母の実家を頼ることにした。海沿いの県道は北部を目指す避難民であふれた。米軍の艦砲射撃は、日本軍の拠点・多野岳に撃ち込まれた。照明弾が光るたび、タケ子らは転げるようにして溝に身を隠した。

 夜通し歩いて真喜屋に着き、近くの山の避難小屋で祖父母と合流。避難生活の間、長太郎とタケ子は食糧を運ぶため、何度か真喜屋の家に戻った。雨漏りの激しい避難小屋。長太郎が「家で寝る」と言い出したのは食糧を運んだ後だった。

 当時の真喜屋は昼間は米兵が集落内を占拠。対照的に日本軍は山中に潜み夜になると攻撃してきた。日中に山と家を往復する際、2人は何度か米兵と遭遇した。砲撃で開いた穴に水がたまり、通り掛かった米兵はタケ子の手を引いて渡らせてくれた。「米兵は若い男は殺したが、老人と子どもに危害は加えない」。2人はそう感じていた。

 戦後65年間、タケ子は長太郎の死に疑念を抱え続けてきた。「祖父は日本兵に殺されたのではないか」。渡野喜屋(大宜味村白浜)の虐殺などを耳にし、疑念は膨らんだ。「軍服でもない野良着姿の老人を米兵は撃つだろうか。日本軍なら『米軍がいる集落でのうのうと暮らす住民はスパイだ』と思ったかもしれない」。

 14日、タケ子は65年前に祖父をその場で埋葬して以来初めて、祖父が最期を迎えた海岸を訪れた。護岸は形を変えたが元の場所にあった。「長い間ごめんね」。祖父がうずくまっていた砂地に水を手向け、手を合わせた。

 「祖父の最期は見ていないので推測でしかない。だがもし友軍に殺されたのなら、どんなに無念だったろう」。込み上げる涙をぬぐった。

                         ◇

 
 どーです皆さん。すごいですね。戦争犯罪か殺人事件かまったくわからない状況なのにもかかわらず、琉球新報ははっきりと「殺人事件」として孫であるタケ子さんに証言させて、「かもしれない」とその時その集落にいたであろう日本兵を貶めて殺人犯に仕立て上げようとしている。ほんとに恐ろしい新聞社です。

 
>当時の真喜屋は昼間は米兵が集落内を占拠。対照的に日本軍は山中に潜み夜になると攻撃してきた。

 
 :文中から抜き出したこの文に琉球新報のいやらしさ・醜さ・いい加減さ・無知さ・恥を捨て去ったその姿勢などすべてが凝縮している。お気づきでしょうか。賢明なる読者の方々はもうお気づきでしょう。そうです。この文をフツーに読めば昼間は米軍が占拠してるが夜になると日本軍が攻撃してきたんですよ。米軍に対して攻撃していたのではなく、避難民に攻撃していた!としか読めない。「してきた」わけですからね。つまり、沖縄戦というのは、日本対米国ではなく、沖縄対日本でついでに米国という構図だと琉球新報は言いたいのだ。ここまで日本が憎いならなぜはっきり「琉球独立」と言わないのか。部数が落ちるのが怖いんだろうが、もうすでに落ちてるんだよね。

 
>日中に山と家を往復する際、2人は何度か米兵と遭遇した。砲撃で開いた穴に水がたまり、通り掛かった米兵はタケ子の手を引いて渡らせてくれた。「米兵は若い男は殺したが、老人と子どもに危害は加えない」。2人はそう感じていた。

 
 :その次の言葉をいう前段としてこの文はどーしても入れておかなければならないわけだよな。まぁこのばーさんが当時10歳でそう感じたというのはいいとして、沖縄戦で米軍は民間人を無差別に殺しまくったってこと知らないわけじゃないだろうよ、この宮城とかいう記者も。まぁ次の言葉の信憑性を高めたいがために書いたんだろうことは見え見えなのだが。

 
>戦後65年間、タケ子は長太郎の死に疑念を抱え続けてきた。「祖父は日本兵に殺されたのではないか」。

 
>。「軍服でもない野良着姿の老人を米兵は撃つだろうか。日本軍なら『米軍がいる集落でのうのうと暮らす住民はスパイだ』と思ったかもしれない」。

 
>「祖父の最期は見ていないので推測でしかない。だがもし友軍に殺されたのなら、どんなに無念だったろう」。込み上げる涙をぬぐった。

 
 :この記者は戦争時のことなら何を書いても問題ないと思っているのだろう。よっぽど何か変な物でも食ったか、昔アタマでも打ったのかもしれない。これが事実だとしたら「殺人事件」なんですよ。時効になっているけれど、殺人事件に変わりはない。そしてまず間違いなく死刑だろう。また米兵ならば戦争犯罪ですね。まぁ米軍は大量虐殺も平気でできるから老人殺すのもわけないことではあるだろう。

 
 これを殺人事件とするならば、当時この界隈にいた日本兵すべてが容疑者となる。まだご壮健の方もおいでだろう。それを全てがこのばーさんの推測でしかない「茶飲み話」を20万部の新聞社の社会面に大きく特集記事として載せられるのか?私は電話したよ、社会部に。この宮城という記者は不在だったので変わりにKという記者が対応した。

 
 「すべて推測だけの証言で日本兵が殺したと捉えるように恣意的に操作してるように思いますが」と問うと、「いやタケ子さんの思いを記事にしただけです」ときた。

 
 「じーさんがいなくなってから2日後に死んでる姿を見て、日本兵がやったんじゃないかと勝手に推理してる、このばーさんの話をそのまま記事にしても問題ないんですか?」というと、

 
「戦争当時の証言は貴重で、推測がダメというなら何も書けない」ときやがった。

 
 「はぁ?そんなことない。書けますよ。私が言いたいのは、もしこのばーさんの推理が正しければ、これは殺人事件だということですよ。そしてこの付近にいた日本兵の方々の中にはまだまだ県内外にお元気で生きていらっしゃる方もいるでしょう。その方々を殺人犯扱いしかねないにもかかわらず、このような推測だけしか語れないばーさんを社会面に写真入で載せて、さも殺人事件だったんだと受け取るように恣意的な記事を書くことが琉球新報にとっては何の問題もないとお考えなのですか?とお聞きしてるんです」というと、あーだこーだと意味不明の言葉を連発したが、最後には、

       「問題ないです」と言い放ちました。

 
これが、これこそが琉球新報なのですよ。いい加減で、ずるくて、およそ新聞社としての体をなしていない組織であります。

 
最低の会社と言っていい。これからもこの会社の出す新聞という名の三流紙をバカにしていきたい。

 
 
追記:電話でのやりとりのさいちゅうに私が、「もし学生運動が盛んな頃に、学生が行方不明になってその人が死体で発見され事故か事件かわからないとして、今になってから『あれは革マルの仕業ではないか?』という人が出てきても社会面で載せるんですか?」と聞いたらず~っと黙ってましたね。同僚の中にいるんだからそりゃ何も語れんわな(T_T)/~~~

◆引用終了               ◇

 

いやはや驚いた記事だ。

縁側さんの適格な突っ込みに、これ以上のコメントは無用だが、あえて蛇足も書きたくもなる!

65年も前の10歳の子供の記事を現在75歳の老人にムリヤリ思い出させ、しかも見てもいない出来事を記者の想像にまかせて、読者を「残虐非道な日本軍」へと強引に導いて行く。

この記事をご本人の當間タケ子さんに読んでもらってその通りだと答えるとしたら、失礼ながらタケ子さんは「カニハンリている」(モウロクしている)と言われても仕方がないだろう。

だって見てもない出来事をあたかも見たように書いているのが事実というならモウロクではないか。

だが、幻視と実際との区別が出来ないのは當間さんではなく、実は聞き取りしたしたら記者だとしたら、とんだ罪作りな話である。

それにご本人の祖父への強い思いも、実際は記者の創作ではないのか。

14日、タケ子は65年前に祖父をその場で埋葬して以来初めて、祖父が最期を迎えた海岸を訪れた。護岸は形を変えたが元の場所にあった。「長い間ごめんね」。祖父がうずくまっていた砂地に水を手向け、手を合

縁側さんの電話の問い合わせに対し、「タケ子さんの思いを記事にした」と答えたというが、その割には、タケ子さんのお祖父さんへの「思い」を、65年前に埋葬した場所を初めて訪問して手を合わせただけで済ましている。

同じ沖縄に住みながら65年間も放置し、今頃になってお祖父さんの埋葬地を初めて訪問して、

「長い間ごめんね」だけで済ます話ではないだろう。

新報記者の思い入れたっぷりにの記事の割には、ご本人はお祖父さんのことはそれほど気にしていないのではないか。

さもなくばお祖父さんを埋葬した場所に 今回戦後初めて訪問し初めて手を合わせたというのはいかにも不自然である。

先祖を大事にする沖縄では、そんなことをしたら通常「タケ子さんの思い」とは言わず、罰当たりな行為という。
 
この記事を読んで筆者の知人の新報読者4人から「記者の妄想に満ちた酷い記事だ!」との連絡が入った。

確信犯の琉球新報は、このようなデタラメ記事を連発しながら地獄の底まで落ちて行くのだろうか。
 

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続々・出てくる「転向者」達ー大城将保・宮城晴美・宮村幸延

2010-06-25 07:05:44 | ★集団自決

 

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本日昼頃羽田を発って沖縄に変える予定です。

長い間、予約更新にお付き合い頂いたことを感謝いたします。

明日から通常の毎日更新の予定ですが、何しろ9日間もネットを遠ざかっていたので、果たしてうまく更新が出来るやら。

とにかく本日までは「転向者」の群れを予約更新でお付き合い下さい。


 続々・出てくる「転向者」達ー大城将保・宮城晴美・宮村幸延

■大城将保氏の「転向」強弁の本■

大城氏は原告弁護団が氏の著書『沖縄戦を考える』を原告側証拠品として提出したことに対して、その後証言を翻した。

更にそれをネタに『沖縄集団自決の真実と歪曲』を出版した。 

沖縄戦記なら何でも出版のネタにするところは、流石は作家と恐れ入るが、その研究者らしからぬ強弁ぶりは、作家の大先輩大江健三郎氏を見習ったのか。

原告側徳永弁護士は雑誌「正論」の論文で、大城氏の『沖縄戦を考える』から次の部分を引用して、大城氏は「軍命を否定した」と主張している。

曽野綾子氏は、それまで流布してきた赤松事件の神話に対して初めて怜悧な資料批判を加えて従来の説をくつがえした。『鉄の暴風』や『戦闘概要』などの誤記や矛盾点などを丹念に指摘し、赤松元隊長以下元隊員たちの証言をつきあわせて、自決命令はなかったこと、集団自決の実態がかなり誇張されている点などを立証した。 この事実関係について今のところ曽野説をくつがえすだけの反証は出来ていない。>(『沖縄戦を考える』)

大城氏がこれに反論している章に「木を見て森を見ず」という見出しをつけているが、

ある著書を引用する場合、本全体(森)は引用するのは不可能なので、重要な結論部分(木の幹)を引用するのは議論の常套手段である。

よくあるパターンの「○○著の『○○』を読め」では、反論はおろか議論にもならない。

核心を突かれて「木を見て森を見ず」と逃げるのは、林教授の「抗弁」に負けない詭弁である。

何しろ自分の「転向」の強弁を出版して金儲けするくらいだから、流石は作家と感心してしまう。

大城氏は、上記引用の自己の文章に続いて、次のような「強弁」を続ける。

いま読み返すと『ある神話の背景』に随分甘い点数をつけたものだと我ながら恥ずかしくなるのが、しかし右(上記引用文:引用者注)に引用された文章を評価する場合は、当時の沖縄戦研究をめぐる状況を考慮に入れていただく必要がある。 『沖縄戦を考える』は新書版シリーズの一冊であって、右(同上)の文章には、実はもとになる論文がある。同書の巻末の参考文献一覧に示してあるように、『青い海』(77年5月号)に掲載された「慶良間島の惨劇」それである。 この文章を書いた1977年は復帰後5年、『ある神話の背景』が発行されて4年後、『沖縄県史10巻・沖縄戦記録②』が刊行されてから3年という時期である。沖縄戦に関する記録・調査・研究に立って、「慶良間島の惨劇」の文中で私はこう書いている。
「慶良間島の戦争体験の全体像をゆかむうえで、また、集団自決という世にも悲惨な事件の本質に迫る上で、従来の記録類は質量共に不十分と言わざるをえない。 従来の記録が、事実関係の多くの誤りを含んでいることを曽野綾子氏の『ある神話の背景』で指摘されたところである。同書が発行されたのが今からちょうど4年まえ、その後の4年間に、はたしてどれほどの事実解明がなされ、従来の「神話」の修正がなされただろうか」
じっさい私自身、『沖縄県史10巻・沖縄戦記録②』の編集を終えて3年経っていたが、調べれば調べるほどいまだ道遠しという感は深まるばかりで、県史の沖縄戦関係3巻で終わらせることに不満が残っていたのである。
>(『沖縄集団自決の真実と歪曲』高文研)

>『沖縄戦を考える』は新書版シリーズの一冊であって、右(同上)の文章には、実はもとになる論文がある。

本の出版はその本に記載されている文章から読者が受け取るものこそ著者の主張であり、その他の巻末掲載の参考文献などは著者の主張を証拠立てる参考資料に過ぎない。

それを、後になって「実はもとになる論文がある」なんて言われても読者にとっては知ったことではない。

これは『沖縄ノート』の読者に対して「『罪の巨塊』とは、実はもとになるラテン語の単語があり、辞書の二番目の訳語の他殺体という意味云々」と、恥もなく言い訳するノーベル賞作家と同じ論法である。

それで、その論文にはどのように書いてあるかというと、ますます自身の「転向」を証明する記述になっているので呆れてしまう。

本人が言う論文「慶良間島の惨劇」には、引用をあえて繰り返すと、こうある。

慶良間島の戦争体験の全体像をつかむうえで、また、集団自決という世にも悲惨な事件の本質に迫る上で、従来の記録類は質量共に不十分と言わざるをえない。 従来の記録が、事実関係の多くの誤りを含んでいることを曽野綾子氏の『ある神話の背景』で指摘されたところである。同書が発行されたのが今からちょうど4年まえ、その後の4年間に、はたしてどれほどの事実解明がなされ、従来の「神話」の修正がなされただろうか

これはどう読んでみても、従来の(『ある神話の背景』発刊以前の)沖縄戦記録のズサンさに対する大城氏を含む沖縄の研究者の反省と懺悔の言葉ではないか。

このように『ある神話の背景』に対して全面降伏ともいえる文章を書いておきながら、「集団自決訴訟」が始まるや瞬時に「転向」して被告側応援に加わる変わり身の早さには脱帽するしかない。

しかも、自著が原告側の証拠者類として提出されるや、それに対する反論の本を出版し、その反論と称する内容が反論どころか転向の証明だとしたら呆れて言葉を失ってしまう。

これを更に批判したら更に、再反論の出版を続けるのだろうか。

金儲けのネタは何処にも転がっているものである。

大城氏は自分の「転向」の弁明を活字にすると、更なる墓穴に繋がるとでも思ったのか2007年10月に東京で行った講演会で、次のような愚にもつかない弁明をしたらしい。

●裁判の原告は、大城氏が、自ら執筆した「沖縄県史」において隊長命令のことを覆したと主張している。そんなことはありえない。単に主張だけなら自由だから、「研究紀要」に掲載されただけだった。(沖縄「集団自決」問題(10) 沖縄戦首都圏の会 連続講座第3回

「単に主張だけなら自由」だとか、「掲載されただけ」とか、このお方本当に研究者なのだろうか。

被告側応援団である大城氏の弁明の出版は、法廷の証言の一か月前に「転向」し、その転向の弁明本を出版した宮城晴美氏とも相通ずるものがある。

■もう一人の「最強転向者」■

おっと、既に亡くなった方なので失念していたが、

もう一人強力な「転向者」がいた!

元座間味村遺族会会長宮村幸延氏は、座間味島の自分が経営するペンションに訪ねてきた梅澤元戦隊長に「軍命を出した」と濡れ衣を着せたことを謝罪し、次のような自筆の「詫び状」を梅澤氏に書いていながら、突然「転向」し、「梅沢氏に無理やり泥酔させられて書いた)として前言を翻した。

< 証言  座間味村遺族会長

昭和20年3月26日の集団自決は梅澤隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行われた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむを得ず隊長命令として申請した、ためのものであります

右 当時援護係 宮村幸延 捺印

 

梅澤裕 殿

昭和62年3月28日 
『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(秦郁彦編著 PHP研究所)より

 

「集団自決」問題では「転向」する人物が多いと縷々書いてきたが、自筆捺印の「詫び状」まで書いていながら、「泥酔していたから」という子どもでも使わない言い訳で「転向」した当時座間味村援護係の宮村幸延氏も「最強の転向者」の一人に加えてよいだろう。

それにしても、裁判長がこんなミエミエの言い訳を信じたことも、「集団自決訴訟」七不思議の一つである。

 

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続・「転向者」- 二足の草鞋を履く男

2010-06-24 07:01:49 | ★集団自決

 

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■やはり最強の「転向者」は宮城晴美氏■

「集団自決訴訟」の被告側証言者たちが、次々と前言を翻し「転向」する例を林博史関東学院大学教授を例に挙げ、

その「転向」の強弁を検証した。

だが、数ある「転向者」の中でも最も非難されるべきは、母の遺言を破棄して沖縄左翼に魂を売り渡した宮城晴美氏であろう。

彼女の「転向」について当日記でも再三述べた。

今話題の『うらそえ文藝』でも星氏と上原氏の対談でこれについて語っているので引用する。

星: それからこの裁判で、証言者たちが前言を翻して、逆な発言をするのも不思議な現象だ。例えば、宮城晴美さんのお母さんの宮城初枝さん、以前は宮平初枝さんだが、その人が軍命につぃて嘘の証言をしたこことを告白したのを、娘が後でまた裏返してあの告白は嘘だったという経緯がある。その上、戦後生まれの宮城晴美さんは自分の証言の真実性を訴えたりする。また、二重の虚言的な操作をする人が出てきたりして、非常に疑心暗鬼になる。ただ、住民が本当のことを言えなくて、奥歯にものの挟まったような状能で証言するのを、私は数人から何度も感じてきたわけです。
 
 また、四〇年ほど前に渡嘉敷島と、座間味島に宿泊して、私は当時の村長と駐在巡査と宮城初校に会って話を聞いたわけです。そのとき何かしっくりせず隠しているなと感じたものです。隊長命令があったとは誰も言わなかったし、なかったとも言えないふうに、非常に曖昧だった。私は七一年の「潮」に「集団自決を追って」という文章を物語風に書いたけれど、わざとぼかして書いた。ある程度の確信はあったが、あの私の逃げ口上的な表現に対しては、今でも忸怩たるものがある。

上原: 集団自殺と関係者の発言はまさに援護法というものが作用しているんです。実は一九五一年九月八日に「サンフランシスコ平和条約」が締結され、それで沖縄は日本から切り離されて、沖縄から抗議の声が上がったわけですよ。どこにもこの記録はないんですが、僕の推定では、沖縄の声を日本の政府は開き入れて、沖縄はアメリカに自由に使ってくださいと提供したが、そこで沖縄に申し訳ないという気持ちがあったわけですよ。そのために沖縄にお金を落とすことにしたわけでですよ。これが援護法の拡大適用というやつです。
 それで、この援護法というのは、本来は軍人と軍属だけにしか下ろされないものなんです。ヤマトでは東京でも大空襲の被害者にはお金は一銭も下りてません。また、原爆被害者にもお金は一銭も下りていません。それは原爆手帳というかたちの診療を受ける権利しかないわけです。それなのに、日本政府は自国民には一銭も出してないが、沖縄には集団自決者にも援護法を拡大適用して給付金を出した。沖縄の人たちはそれを隠し通したわけですよ。

星: 一般住民にも遺族年金が支給されたのは、『鉄の暴風』が隊長命令で集団自決が起きたと書きたてたために、後で援護法が適用されるようになったと、そんなふうに解釈している人もいる。

上原: いや、『鉄の暴風』が書かれても書かれなくても援護法は、拡大適用されたのです。沖縄だけなんです。

星: 「沖縄住民に特別配慮を賜つた」わけだ。

上原: この援護法というものに、厚生省は条件を付けた。それは軍協力者であるということ。そうであれば五歳以上の者は受ける権利があるということだった。後年、幼児も含めるようになつたようです。

星: 隊長の命令とは関係ないが、追いつめられ住民は軍民一体にさせられた・・・。

上原: それでね、渡嘉敷村役場でも、それから座間味村役場でも偽の報告書を作ったわけですよ。それぞれ「赤松隊長の命令によって我々は集団自決しました」と。座間味でも「梅澤隊長の命令によって集団自決しました」と出して、遺族年金がもらえることになったわけです。それで、それに立ち会つた県援護課の照屋登雄(ママ・引用者注;昇雄の誤植と思われる)さんは非常に重要な証人なんですね。まだ那覇に健在の照屋さんは、、二〇〇六年の一月の産経新聞のインタビューの中で、そのことを証言している。

■沖縄側研究者の「転向者」-大城将保氏■

学者にあるまじき強弁をくり返す、林博史関東学院大学教授もさることながら、沖縄側の研究者の中にも大城将保しのように、その「転向」の強弁を書き連ねた本『沖縄戦の真実と歪曲』を出版し、儲けのネタにする強かな人物もいる。

大城氏の略歴とその「転向」ぶりについては『ウィキペディア』が要領よくまとめているのでそのまま引用する。

大城将保 (おおしろまさやす、昭和14年(1939年) - )は、沖縄県出身の歴史研究者、作家。ペンネーム「嶋津与志」(しま つよし)で作家活動を行っている。沖縄国際大学講師。「沖縄平和ネットワーク」代表世話人。特定非営利活動法人沖縄県芸術文化振興協会理事長、新沖縄県史編集委員。

沖縄戦での住民の被害調査、平和研究、小説執筆などを行っている。沖縄戦研究では沖縄県史の編集に携わった後、県立博物館長などをつとめた。嶋津与志名では『琉球王国衰亡史』や映画『GAMA―月桃の花』のシナリオ作品などがある。また家永教科書裁判や大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判では原告側(集団自決への日本軍による強制を否定する側)の引用文献著者として登場する。2007年、沖縄戦「集団自決」の教科書検定意見撤回運動の高まりの中で、教科書検定の内容、「集団自決」訴訟での状況について告発書『沖縄戦の真実と歪曲』を執筆した。

大城氏の「転向」ぶりを書く前に、一昨年の「11万人集会」の熱気も覚めやらぬ頃、氏が東京で行った講演会に触れたエントリーから1部加筆して抜粋引用する。

以下引用

大城将保氏の講演会の参加人数はタイムスも新報(ウェブサイトには記事自体が無い)も参加人数については何故か触れてないが、実際に参加した人の情報によると「40名~50名」の小規模集会だった模様。

ウェブサイトに載せたタイムス記事には特に目新しい内容は無いが、ネットを避けた?新報には突っ込みどころが満載だ。

津堅島で住民が「集団自決」に」追いつめられたとき、女児が突然大声で泣きだしたため大人たちが我にかえり、死を思いとどまった事例を紹介し、「軍命から逃げられない。 隊長の一言が生死を分ける。 梅沢隊長は本当に『自決するな』と」言ったのか。自己弁護に過ぎない」と強調。 隊長が住民を制止していたら「集団自決」は起こらなかったと訴えた。≫(琉球新報 2007年 10月26日 夕刊 ウェブサイトには無い)

講演会は「集団自決」は軍の命令以外にはありえない、といった主旨で、

大城氏は独自の調査でそれを証明しているつもりのようだが、新報記事が正しいとすれば、

逆に「軍の命令は無かった」と証明したことになる。
 
>住民が「集団自決」に」追いつめられたとき、女児が突然大声で泣きだしたため大人たちが我にかえり、死を思いとどまった・・・

誰に追いつめられたかを具体的に書いていないが、文脈からいって「米軍の上陸、艦砲射撃によるパニック」追いつめられた、としか考えられない。

女児の泣き声で我に返るくらいだから「パニック」から我に返ったのだろう。

という事はこの事例は、命令が無くとも孤絶された島で、あのような状況になれば誰でもパニックに陥るということの証明になる。

「死を思いとどまった」ことは自分の意思で「自決」を中止したことになる。

>軍命から逃げられない。

係争中の裁判の証人・金城重明氏を始め、軍命を主張する人は多数いるが、全て「軍命を逃れて」生きているではないか。

何よりも上記新報記事の「女児が突然大声で泣きだしたため大人たちが我にかえり、死を思いとどまった事例」があるではないか。

>隊長が住民を制止していたら「集団自決」は起こらなかった・・・

梅澤隊長は自決現場にはいなかった。

現場に居合わせていない隊長に対して、「制止していたら・・」とは単なる言いがかりに過ぎない。

参加者の情報によると、講演内容は「日本軍の悪行」の追求に終始したという。

≪「軍隊は国民を守らない、米軍より日本兵のほうが怖かった、命どぅ宝、」、この3つの言葉は集団自決体験者がみんな口をそろえて言った≫、これを特に強調していたとの事。

講演の結びで次のように言ったと聞き、あきれ返った。

「慶良間諸島での軍命の有無についても、なかったとする隊長の証言を裏付けるものはまったくない」。

軍の命令で自決を強制したと糾弾する相手に「軍命が無かったとする証言」に裏付けを要求するとは、これこそ「悪魔の証明」だ。

当日は講演の始めに、大城氏の小説を原作にし、アニメ映画『かんからさんしん』の最後の部分が上映されたとのこと。

講演会でも研究者、作家と二つの顔を交互に出して「暴虐非道の日本軍」を糾弾すれば、聴講者は虚実の境目が分からなくなる。

                     ◇

引用終了ー

続きを読みたい方は⇒「沖縄戦」都内で講演会  作家と研究者二足の草鞋を履く男 (コメント欄がおもしろい!)

                   ◇

大城氏の講演会についてはこのブログが詳しい。

沖縄「集団自決」問題(10) 沖縄戦首都圏の会 連続講座第3回

同ブログで大城氏の主張を箇条書きにしてあり、読む方は分かりやすいがツッコミどころ満載で一々対応するのは疲れる。

一部取り上げると以下のようなもの。

●生き残った者には、後ろめたさ、加害者意識もある。大城氏自身も5歳のときに本土に疎開したことがいまだ後ろめたい。

⇒大城氏自身が軍が住民の安全を考えて県外疎開させた見本ではないか。

大城氏の集団疎開はこれにも矛盾する⇒

≪「軍隊は国民を守らない、米軍より日本兵のほうが怖かった、命どぅ宝、」、この3つの言葉は集団自決体験者がみんな口をそろえて言った≫


●読谷村の米軍上陸地点に近いチビチリガマでは「集団自決」があったが、その近くのシムクガマではなかった。旧日本軍がいて、義勇隊も含め、竹槍での最後の斬り込みを行うといった状況も同じだ・・・略

⇒チビチリガマには日本軍はいなかったが集団自決は起きた。

●裁判の原告は、大城氏が、自ら執筆した「沖縄県史」において隊長命令のことを覆したと主張している。そんなことはありえない。単に主張だけなら自由だから、「研究紀要」に掲載されただけだった。

⇒こんな開き直りで、己の「転向」を強弁することに納得できる人がいるのが不思議。


●そして慶良間諸島での軍命の有無についても、なかったとする隊長の証言を裏付けるものはまったくない

⇒軍命があったとする証言を裏就けるものはまったくない、というのが論争の基本ルールでは?

本職の作家でありながら「沖縄戦史の研究者」という二束のわらじを履く大城将保氏は、ここでもが主張する「軍命から逃げられない」は実は生き残り証言者の心の葛藤に深く突き刺さる言葉である。

「軍命に逆らって」生き延びた金城重明氏。

沖縄県人なら誰でも密かに考えることだが口に出し難いことがある。

集団自決という「肉親殺し」は、自分で一生十字架を背負うべきことである。

「肉親殺し」の汚名から逃れるためには、何が何でも軍の命令でやったことにしなければならないという態度こそ歴史のわい曲ではないのか。

続く

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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「転向者」ー林教授の「強弁物語」!『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』より

2010-06-23 07:23:39 | ★集団自決

 

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現在上告中の「集団自決訴訟」で被告側の応援団をしている沖縄の学者、研究者のほとんどは宮城晴美氏著『母の遺したもの』(2000年刊)の発刊以降、従来の「通説」を覆して「軍命なし派」に転向した。

ところがその5年後に「集団自決訴訟」が提訴されるや、一斉に「軍名あり派」に再転向するのであるから彼らの辞書には恥と外聞という文字は無いのであろう。

過去に書いた恥知らずの列伝を補筆して掲載する。

■簡単に証言を翻す「転向者」たち■ 

「集団自決訴訟」の特徴の一つは、被告側証言者が次々と証言を翻したことがある。
 
分かりやすく言えば、「軍命はなかった」から「軍命はあった」への転向である。
 
特に信じられら無いのは実体験者である母初枝さんの遺言であり原告側の証拠物にもなっている自著『母の遺したもの』 の記述を、証言台に立つわずか一ヶ月前になって翻し、その後改訂版を出版して「軍命はなかった」から「軍命はあった」に「転向」したた戦後生まれの娘・晴美氏の行動である。 
 
他にも自著の記述を翻した学者と称する人物が被告側には数多くいるが、中でも被告側の学術的中心人物とされる林博史関東学院大学教授の「前言撤回」が一際目につく。
 
転向理由を強弁をする様は、とても学者の言説とは信じがたい破廉恥ぶりである。
 
林氏を良く知る現代史の重鎮・秦郁彦氏が、『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』で、林氏がこのように安易に「転向」した理由を「三つ子の魂、百まで」とか「同じ癖が出たな」述べているくだりは興味深い。
 
林氏は「論文盗用」など学会で問題を起こし、止むを得ず専門の「大正期の労働運動」を途中から「沖縄戦史」に変更した経緯を解説し、それが「三つ子の魂」だとしている。
 
林氏の「転向」の理由はさておいても、それを弁解する手法を秦氏はその内容によって「開き直り型」、「こじつけ型」等七種類に分類して解説しているくだりは秦氏の意外なユーモアセンスが光って思わず笑ってしまう。
 
以下『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』からの引用です。(太字強調は引用者)
 
文科省は「近年沖縄戦に関する研究者の著書で隊長の命令の存在は必ずしも明らかでないとするものも出てきており、その後、これを否定する研究者の著書等が見られないことから、軍の命令の有無が明らかでないという見解が定着しつつある」と判断して、「軍の命令の有無について確定的な記述を避けるのが適当」だとして、一部を修正させた。 ただし「この検定意見は、集団自決に関する軍の関与(手榴弾の配布や壕からの追い出しなど)を否定するものではない」と付言している。
教科書会社や執筆者は当然の要請と思った、特段の抵抗なしに受け入れたが、「研究者の著書」とは何かと聞かれ、担当官が林博史『沖縄戦と民衆』(大月書店、2001)を挙げたことから、本人が激烈な反論をくり返す事態となった。 そしてそれに連動する形で興奮した沖縄の世論が政府、文科省へ検定意見の撤回を求める激しい抗議運動へ発展する。
どんな反論かを示す前に、彼が『沖縄戦と民衆』Ⅱ5「集団自決の構造」で集団自決に触れた部分を抜き出してみよう。
 
A 「赤松隊長から自決せよという形の命令は出されていないと考えられる。(161ページ)=渡嘉敷島
 
B 「軍から明示の自決命令は無かった・・・・(自決)を主導したのは村の幹部や校長ら学校の教師たちと見られる。(162ページ)=座間味島
 
C 「慶留間に上陸した米兵が、保護した住民になぜ(自決)したのか聞いたところ、15歳の少年は「日本兵が死ねと命令したわけではなく、みんなただ脅えていたんだ」と答えた。 さらに別の住民も『彼らは脅えていた』と答えたという」(166ページ)=慶留間
 
D 「家族のもとへ逃げてきた防衛隊員が、持っていた手榴弾で家族ごと自爆したケースも少なくない」(167ページ)=沖縄本島
                  
 
私も刊行直後通読して、さすがに10年かけた労作だけのことはあると感銘し、事実関係、特にA~Dの部分は共感する思いが強かった。 最左翼と目されていた林さえ「軍の命令があったというような記述はない」と認識しているのだから、検定意見に異存はあるまいと文科省が考えたのもむりはない。
教科書検定にさいし、著書が参考にされたと聞けば喜ぶ著者は多いだろうが、林は違った。謙虚に傍観するでもなく、血相を変えて、あちこちで抗弁に乗り出したのである。 目についたものを列挙し、類型化してみたのが表4である。
 
 
 
■林教授の強弁物語■ 
 
1ページにわたる「表4」は省略する。
 
秦氏によると「林博史の文科省への強弁例」の型は次の7種類に分類される。
 
a【開き直り型】⇒「問題なのは当日の軍命の有無ではなく、従来の研究成果を無視した暴論」(毎日新聞 07・3・31)
 
b【こじつけ型】⇒「日本軍が住民に手榴弾を配り、自決せよと言っている。 これは命令以外の何ものでもない。(季刊戦争責任 (07 夏)
 
c【強弁型】⇒「防衛隊長である助役の『指示』は、戦隊長の『命令』となる構造になっている」(通販生活 07・11)
 
 
d【すり替え型】⇒「村の幹部が『集団自決』を主導したとしても(軍は無関係ではない)」(同上)
 
e【局所肥大型】⇒「怒りを通り越してあきれてしまう・・・全体の文脈を無視して一行だけ利用するのは極めて悪質だ」(沖縄タイムス 07・11・9)
 
f【肩すかし型】⇒「日本軍がいない島では<集団自決>は起きなかった」(歴史地理教育 08・3)
 
g【闘争型】⇒「貴審議会の重大な歪曲、悪用に対して厳重に抗議したい」(文科省日本史小委員会への意見書 07・12・25)

言い訳と居直り風強弁が揺れながら混交しているふしぎな言説で、特徴は文科省と検定審議会の控えめな表現とは対照的に、「詭弁」「支離滅裂」「歪曲」「暴論」といった日本語が乱舞していることであろうか。 しかし、こうした汚い日本語は林の言説自体にそっくり返上すべきだと思う人は少なくないだろう
たとえばfの引用部分につづいて83人が集団自決した読谷村の「チビチリガマでは、日本軍はいなかったが、中国戦線の経験のある元軍人と元従軍看護婦が日本軍の代弁者の役割りを果たしていた」」との言い訳が同居している。 当時の日本全国を見渡して、健常な成人男子で軍人か元軍人でなかった者はほとんどいなかったのにである
 
秦氏も感銘を覚えるほどの林氏の労作『沖縄戦と民衆』で、「軍命はなかった」と明言しておきながら文科省が教科書から「軍命削除」の根拠の参考にされたと知って、突然自論を翻し抗弁して廻る様を次の章「言い訳と強弁の狭間」で詳しく述べているが、林氏が米国の公文書館を漁って、どうでもいいような史料を「軍命の証拠」として、鬼の首を取ったように舞い上がり新聞に発表するおなじみのパフォーマンスを、当日記でも過去に何度か取り上げた。

又しても? 林教授の新発見  集団自決の米軍文書

林氏は米軍資料を鵜呑みにし、・・・いや、鵜呑みならまだしも、恣意的誤訳をつけて新聞発表するほどの手の込んだことをするお方である。

一例を挙げると、住民が「soldiers told」(兵隊さんが言った)というくだりが、

このお方の翻訳にかかると「軍が命令した」(commanded )となるから驚きである。

 
つまり前述の「言い訳と強弁の狭間」で述べられている林氏の学者にあるまじき行状が、「三つ子の魂」として復活し、米軍資料を恣意的に誤訳して新聞発表するという姑息な行動の原点であるようだ。
 
現在「軍命あり」派の論者には、外にも自説を「転向」した学者が見られるが、一方の「軍命なし」派の論者に自説を「転向」したものは筆者の知る限り皆無である。
 
長年沈黙を守っていた照屋昇雄さんの場合のように、沖縄に在住していながら「軍命はなかった」と証言すると脅迫まがいの嫌がらせを受けるのは必至なので発言する人が少ない。
 
ただ、沖縄出身で天皇糾弾の極左活動していた人物が、ひょんなことから座間味島の集団自決を聞き取り調査し、地元マスコミが真相を歪曲報道をしている事実を知って「軍命はなかった」と「転向」した例はある。
 
だが、この反戦活動家は集団自決に関する「転向」で、左翼グループに「裏切り者」として襲われ、車椅子生活を余儀なくさせられている。
 
この沖縄出身の極左活動家・富山順一氏については『うらそえ文藝』掲載の「星、上原対談」で触れているが、当初その極端な反日活動のため沖縄のマスコミや文化人にちやほやされ、執筆や講演会活動で著名人となり沖縄タイムス刊で出版もしていた。
 
だが、集団自決の「転向」以来、浪々の身となり現在は大阪に在住し、「集団自決訴訟」の原告側応援をしているという。
 

詳しくは国民新聞に⇒左翼に襲われ車椅子生活に!

集団自決問題に思ふ

沖縄の「真」と「偽」

座間味島の梅澤裕元隊長、渡嘉敷島の赤松嘉次元隊長が住民に玉砕を命令・強制もしなかつた事実が明らかになつたのも、かつての自分の誤解や嘘を率直に認めて告白した何人もの沖縄人の道義的勇気に負ふところが大きい。

座間味について申せば、住民に自決を命じながら自らは「不明死」を遂げたと『鉄の暴風』で非難された梅澤元隊長の健在を突きとめ、隊長命令のなかつたことを確認し、その事実を座間味の宮城初江さんに伝へた沖縄出身の反戦運動家・富村順一氏こそ、真実究明への端緒を開いた第一の功労者である。(略)>

                    ◆





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日本兵と米兵を入れ替えた捏造の沖縄戦史

2010-06-22 07:26:51 | ★集団自決

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沖縄戦史を記した出版物が、それが新聞や一般刊行物にとどまらず公的刊行物にいたるまで捏造の記述にあふれている事を再三指摘してきた。

「残虐非道の日本兵」と「人道精神に満ちたアメリカ兵」というイデオロギーを強調するあまり、聞き取りした執筆者の主観で想像を交えた作文の例は多く見られるが、「日本兵」と「アメリカ兵」そのものを意識的に入れ替えて「残虐非道な日本兵」を作り上げた例は前代未聞である。

それも証言者が「(残虐行為をしたのは)アメリカ兵」であると二度も念を押したにもかかわらず元琉球新報の記者である取材者は、公的刊行物である『那覇市史』に「残虐非道の日本兵」として記録している。

ことほどさように沖縄で発刊されている沖縄戦史はすべて眉につばして読む必要がある。

                           *

沖縄の地方文芸誌『うらそえ文藝』(15号)が、昨年に続き「集団自決」の特集を組み、研究者の間で静かな話題を呼んでいる。 静かな話題という意味は地元マスコミは一切スルーという意味。

中でも同誌編集長星雅彦氏の執筆による「『集団自決』 その真相を墓場まで」は、原稿用紙50枚にも及ぶ長大な論文で、集団自決の先駆的研究者の星氏ならではの新しい「発見」が数多く記されていて興味深い。

星雅彦氏は、県の依頼を受けて県内の知識人として誰よりも早く、というより『鉄の暴風』の著者よりも早い時期に、集団自決の行われた座間味、渡嘉敷両村の現地取材をした人物である。

今回の論文は、当初雑誌『正論』に、12月号の論文の続編として執筆を依頼されていたものだが、書き綴るうちに依頼された枚数より大幅に内容が増えたため、内容の省略や削除されるのを嫌って、敢えて『正論』への掲載を辞退し、『うらそえ文藝』の「集団自決特集号」の柱にしたのだという。

内容はこれまでの星氏の論考の整理に加えて、沖縄紙がこれまで報じることのなかった新らたな証言者にも複数取材し、驚くべき新証言を得ている。

沖縄タイムス等の地元マスコミや、イデオロギーに染まった沖縄戦史研究者達に一矢どころか二矢も三矢も報いるに充分な内容である。

例えば、次のような氏独特のソフトな表現で、従来の沖縄戦史を批判し、集団自決の核心に迫っている。(引用文の太字強調は引用者)

《隊長命令や軍命の有無について考えてみる。 すると思い付くことは、根拠がないのに当然あるかのような形を示し得るスタイルで、うまく誤魔化している場合があるということだ。また根拠や理由は不明瞭でも当然起きた筈だと言うような、妥当性の範疇の推量でもって真実性を想像させ得る背景もある。 たとえば軍命令の有無が裁判で争点になっていようとも、その背景や根本問題に真摯にむきあっていると受け取られることによって、賛同が得られる場合もある。 そしてそれらの間隙に、「捏造」が挿入され得るのである。

「軍命あり派」が軍命の重要な根拠とする「富山証言」についても、これまで沖縄マスコミが報じなかった富山氏の手記を新たに発掘し、「富山証言」の矛盾点を資料を基に指摘している。

数多くの証言の他に星氏が特に強調するのは、沖縄で発刊された数多くの沖縄戦史の信憑性についてである。

「ウソの暴風」と揶揄される『鉄の暴風』は言うまでも無く、沖縄で出版された戦記物がイデオロギー塗れであることが、最近の「集団自決論争」の結果として一般の人にも知れ渡るようになった。

■捏造された公的刊行物■

その一方で、「県史」とか「村史」といった公的刊行物はイデオロギーと全く無縁だと考える人がまだ多く存在する。 従って「○○村史」に記載されているということが真実の証明だと考える人も多い。

ところが、これら公的刊行物も執筆者を辿れば、現在「軍命あり派」としてイデオロギーに染まった主張をくり返している沖縄の知識人達である。

いくつかの公的刊行物の記述に疑念を持った星氏は、その中から御存命の証言者を精力的に追跡調査し、改めてその証言を採録した。

そして公的刊行物と実際の証言との矛盾点を指摘している。 ほとんどの証言者が、自分の証言が「歪曲」というより、ほとんど捏造されて記述されている事実を知らないままに長年過ごしてきた。 

そして今回の星氏の指摘によって初めてその事実を知ったというから驚きである。

本文中の「避難壕の自決とその謎」という章から例を挙げてみる。

《去年(2009年)12月中旬に、筆者は那覇市の繁多川図書館で同地在住の知念勇(76歳)からミー壕(新壕)にまつわる話を聴かせてもらった。 そのいろいろ含みのある話の中には驚くべき事実が隠されていた。》

このような書き出しで始まるこの章には、当時国民学校6年生であった知念勇さんが、学校の授業はほとんどない毎日を壕掘り狩り出された様子が記されている。

そして昭和19年のいわゆる10・10空襲の時、警察署員と住民が逃げ込んだ壕に日本軍の将校が現れ、この壕は軍が使用するから民間人は移動せよと命ぜられた話を次のように記している。

《将校たちが去ったあと、壕内は打ちひしがれたように悄然となったが、それでも住民たちの多くは、身の回りの品をまとめはじめた。 署長代理は「今出て行くと危険だから、様子を見てから署員の誘導に従ってください」と告げた。
数時間後にはミー壕から次々と住民は出て行き、民間人は具志堅夫婦とその息子の古康さんと勇さん(証言者・引用者注)と父親の五名が残った。(略)

突然、歩哨が駆け込んで来た。 とすぐ、那覇署員たちは移動し始めた。 その後、日本軍も間もなく撤退して出て行った。 米軍が押し寄せてくる予報があったのだろう。 小一時間後に、数人の米兵がどかどかと入ってきた。 彼らはすぐ合図しあって、具志堅古康さんと勇さんの父親を黙って引っぱって壕から外へ連れ出した。 
一人の米兵は残って勇さんたちを見張っていたかと思うと、2、3分もたたぬうちにカービン銃の音がバラバラと外から聞こえた。 すぐに米兵が立ち去った後、少し間をおいて勇さんたちは父親たちを探しに外へ出た。 一面瓦礫の空間には人影らしきものは見当たらず誰もいなかった。 勇さんの父親は50歳くらいで一般住民の姿をしていたが、古康さんの父親は軍服を着ていたからまぎれもなく日本兵に見られたのだろう。 二人は抵抗しようとしたのか分からないが、何かトラブルで射殺されたに違いない。 連れていかれた二人はその後永久に姿を見せなかった
・・・年老いた知念さんの話はここまでである。》

■日本兵と米兵を故意に入れ替える悪質な歴史捏造■

この面談の後、星氏は公的史料である『那覇市史」に掲載された知念さんの聞き取り調査の記述に明らかな作為的捏造部分を発見し、確認のため再度知念さんに面談することになる。

その驚きに満ちた経緯を上記文に続けてを星氏はこう記述している。

《ところが、筆者は『那覇市史 資料編弟3巻7』の中に「子どもと沖縄 繁多川の警察壕で」と題して知念勇さんの手記が載っているのを見つけた。 「《前略》父親はある日突然日本兵に連れ出された。 父親が連れ出された後、2、3発の銃声がしたが、父と共に連れ出された20歳くらいの青年と共に、再び壕には帰ってこなかった(後略)」(410頁)と記されている。 末尾に採話者「嘉手川重喜」とある。 筆者の知人であるがすでに鬼籍の人である。 
後日、再び知念勇さんに会って確かめてみた。 「自分も不思議に思っている。なぜ、米兵に連れ出されたということを、取材する人に2度も3度も言ったのに、どうして日本兵に入れ替わったのだろう?」と本人はいぶかしがるのであった。》

この部分を読んだ時、星氏が昨年、雑誌『正論』12月号に寄稿した『「鉄の暴風」はGHQの宣撫工作だった』と題する論文の次のくだりを、とっさに連想した。

■安仁屋教授の歴史捏造■

《私が同書に疑問を持つようになったのは、県資料編纂所が刊行する『沖縄県史第九巻 沖縄戦記録ー』の執筆のため、北谷村から南部・中部の集落を回って聞き取り調査をしたことがきっかけだった。

あれは確か1970年の暮れのことだった。 私は県資料編纂所の職員のAとBの訪問を受けた。 Aは私の書いた原稿について「なぜ日本兵の善行などを書き入れるのか」と詰問してきたのである。 取材は各区長の家に集まってもらい、これを記録するという形で行った。 取材は私一人ではなく資料編纂所の名嘉正八郎と一緒であった。 この取材で日本兵が住民を助ける話も幾つか出たので「そういうものも記録すべきだと思った」とだけ答えた。 

因みにAはマルクス主義で、一つのイデオロギーに全ての物事をはめて判断しようとする傾向があったのだ。
この取材を通して私は『鉄の暴風』は、日本軍を「悪」とするために創作された、ノンフィクションを巧みに交えた推理小説風読み物ではないかと考えるようになった。
 そこには日本軍部と国民、また日本軍と沖縄住民を二極に分離させ対立させる仕掛けが巧みに織り込まれているのである。 まさしく江藤淳が『閉ざされた言語空間』で指摘したように、日本と米国の戦いを、日本の「軍国主義者」と「国民」との戦いにすり替えようとする米軍の底意が秘められているのである。(190~191頁)》

これについて筆者はA氏の正体を続々・星氏が『鉄の暴風』を批判!県資料編纂所職員の正体のなかで次のように暴露しておいた。

1970年の暮れに星氏を訪問し、氏が提出した原稿に「なぜ日本兵の善行など書き入れるのか」と詰問したマルクス主義者の県資料編纂所のA職員のことである。

ご本人の星氏は「A氏はまだ元気で沖縄で活躍されている方なので・・・」と実名を語るのを憚っておられるが、沖縄は狭いところで調べればすぐ正体はばれるもの。

1970年当時に県資料編纂所の職員であり、しかもこのような過激な発言で星氏に詰問する人物は自ずと限られてくる。

安仁屋政昭沖国大名誉教授は、沖国大の前は1967年から5年間、沖縄県資料編纂所の職員であり、そのマルクス主義的発言は現在も衰えてはいない。

なお、安仁屋教授は「集団自決」訴訟の被告側応援団の理論的中心人物であり、宮城晴美氏の恩師であることは夙に知られたことである。

その後、「沖縄県史」から星氏が聞き取りした「日本兵の善行」は削除されたと聞く。

県資料編纂所のA職員は県史編纂時の検閲の役割りを担っていたことになる。

                         ◇

しばし『正論』の記述に脱線したが、再び話は『うらそえ文藝』に戻る。

沖縄戦の証言者がほとんど物故された現在、知念勇さんの例のようにご存命の方に証言を再確認して公的刊行物の意識的捏造を発見するのは奇跡に近い。

もし星氏の再調査が遅きに失し、不幸にして知念さんがなくなられていたら「知念さんの父親ら二人が、日本兵に壕から連れ出され射殺された」ということが、歴史の真実として刻まれることになる。

危うく沖縄タイムスが目論む「残虐非道な日本兵」の捏造の歴史に新たな頁が加わるところであった。

星氏はさらに、集団自決の史料として研究者なら一度は目を通したはずの『座間味村史』下巻の「村民の戦争体験記」を取り上げ、そこに記された20数名の体験記を「それらすべては伝聞であるが、隊長命令があったと記された証言が多い」として、各証言者の動きを検証している。 ここでその内容は省略するが、沖縄で集団自決を研究するに当たり異論を述べることが、いかに困難であるかを自分の経験を基に次のように述べて、論を結んでいる。

《ここで、沖縄の新聞を代表する世相を端的に言えば、沖縄では一般的に、二人の隊長の命令によって、集団自決が決行され、惨たらしく多数の住民が犠牲になったという見解だ。 それでは、もっともらしいが、よく考えると奇々怪々にさえ思えてくる。 今や軍命に意を唱えて探求すると、変人扱いされるか、他人の傷跡を暴く悪趣味に過ぎないと批判されるのだろう。 しかし沖縄戦の真実は、隠蔽されない限り、見えてこないのであろうし、そのような視線にこそ重要な意味があるような気がしてならない。(了)》

星氏は、沖縄で沖縄紙を代表する論壇に異論を唱えることは「変人扱い」と婉曲な表現に止めているが、昨年の5月に『うらしえ文芸』14号で沖縄タイムスと琉球新報を真っ向から批判して以来、それまで両紙から定期的にあった原稿依頼も全く途絶えたと聞く。 これは同時に沖縄二紙に反旗を翻した上原正稔氏についても同じことが言える。

全体主義の沖縄で軍命に異論を唱えるのは変人扱いされるに止まらず、文筆で糧を求める人にとっては死活に関わる大問題でもあるのだ。

集団自決といえば沖縄タイムスやサヨク出版社の高文研や岩波書店によって発刊された本しか読まない人々にとって、星氏の今回の論文は是非とも一読を薦めたい最新の「集団自決研究」の書である。

   

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完結編!アイヌに乗っ取られた慰霊塔 イヨマンテの夜と魔女の洞窟

2010-06-18 07:07:07 | 未分類

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完結編!アイヌに乗っ取られた慰霊塔 イヨマンテの夜と魔女の洞窟

南の島にある小さな戦没者慰霊の塔を巡る北と南の本家争い・・・関係ない読者にとっては興味のもてないと思われる話題を二日に渡ってエントリーした。

昨日の続編で終わりにしようと思ったのだが、予測に反してアクセスが多くコメントも頂いたので、しつこく本日も「南北の塔」についてのエントリーです。

 

この話題を書くにあたり、「南北の塔」に関わった北海道の方々を「アイヌ人」と一くくりで書くことに抵抗は感じた。

だが、「沖縄で反戦平和」を叫ぶ人々のことをマスコミは一くくりで「沖縄人」と書いている。 一くくりにされても困る沖縄人が多数いても、マスコミは馬耳東風である。

「南北の塔」の北海道の関係者もそれに対応して敢えて「アイヌ人」と書かしてもらった。

因みに知人の沖縄在住20年の元北海道民に「南北の塔」について聞いてみたら、「南北の塔」はおろか、アイヌ人との逸話も聞いたことがないという。

「真栄平区民が建立した慰霊塔にアイヌ人が寄付をして、それが縁で毎年アイヌの慰霊祭が行われる」

これだけの話だったら、「イチャリバ(行き会えば)チョーデー(兄弟)」で、

北と南の心温まる交流の話題でこれに異論を挟むものはいなかったはずだ。

ところがこの話に「左翼」という接着剤が関わってくると「在日」や「」といった団体が金魚の糞のようにくっついてくる。

当然のように沖縄マスコミが針小棒大に騒ぎ立てるといういつものパターンである。

 

このように「南北の塔」の建立者である真栄区民にとって迷惑なことがまかり通っている原因は、間違いだらけの出版物やマスコミの一方的な報道にある。

糸満市が発行した「糸満市における沖縄戦の体験記集」(平成8年発行)に記載の「南北の塔を考える会」の手記を続けて引用しよう。

手記ではデタラメな記述の本やマスコミ報道の例を次のように列記している。

・真栄平に「わしは南北の塔をたてました。」

・これは、まぎれもなく、アイヌの建てた塔です。

・アイヌの人が建てた塔がある。

・南北の塔を建てたのは、アイヌの下級兵士と住民です。

・住民と相談して慰霊の塔をつくることにした。

・アイヌの墓がある。

・アイヌ兵士39柱を合祀した。

・塔名も、ごく自然に南北の塔にしたのです。

このような表現が、国民や県民、市民の誤解をまねいている。しかし、事実は、塔の建築中に、T氏(アイヌ人)が世話になった真栄平出身のK氏を通じて寄付の申し込みがあった。そこで塔碑をつくることになり、役員会で塔名を決定し、K氏の紹介である石材店に発注することになった。 そこで石材店に寄付申込者のK氏を呼んで「費用の件で200ドル以上かかるがよいか」と再確認して了解を得た。 その場でT氏から「私のきぼうだが、キムンウタリと関係者の氏名を刻んでくれないか」との要望があり刻名することに決定した。 これが真実である。

したがって、本にあるようなことは、誰かが作り出したものである。 寄付を受けるまでは役員の誰一人としてT氏を知らなかったし、会ったこともない。 

従って、「すすめて建てさせた」、「名前も自然にきまった」などありえない話である。 南北の塔はマスコミや関係図書の中ではアイヌ中心に書かれたり、報道されたりするので、市民権はアイヌにあるように思われている。 このままでは、戦争体験者が語れなくなる頃には、籍はアイヌに移ってしまうおそれがあり、今、区民がその解決に向けて立ち上がっている。≫

                      ◇

南北の塔の所有・管理について真栄平区民がこだわるのには訳がある。

沖縄戦で多くの身元不明の遺骨が魂魄の塔に葬られたが、真栄平区民にも多くの身元の確認できない戦没者がでた。

自分の墓に埋葬することの出来ない身元不明の区民の遺骨が南北の塔に祀られている。 真栄平区民は墓参のとき「南北の塔」に向かってウタンカー(遥拝)をして身近な人は線香をあげて供養をしている。 自分の先祖の遺骨を祀る南北の塔を他人に任すことは出来ないという心情が、真栄平区民が南北の塔にこだわる理由である。

マスコミの歪曲報道により、南北の塔が「アイヌ化」されていくのを憂い、「南北の塔を考える会」の手記は次のように結んでいる。

これを解決するには、公の記録として残し、民間資料にあるアイヌ中心の記事を訂正することである。 子々孫々に、南北の塔はまぎれもなく真栄平の塔であると語りつぐために筆を取りました。 市民の、ご理解、ご協力をお願いします。≫

                   ◇

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【おまけ】

「まよなかしんや」といい「喜屋武マリー 」といい、売れなくなった沖縄歌手は左翼の支援でなんとか生き延びようとする。

今回の沖縄行では、恨之碑沖縄建立、南北の塔(イチャルパ)、アイヌ・沖縄・コリア
在日コリアなど、有意義な交流ができました。

関係者のみなさま、ありがとうございました
。≫(談話室(BBS)

「恨之碑」や「慰安婦の碑」と同じように「南北の碑」も沖縄左翼のシンボルとなりつつある。

「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を反日の島へ!

朝鮮軍夫  「恨之碑」


【おまけ】2

左翼が接着剤になると、沖縄とアイヌに、ヒロシマ.がくっ付いてしまう⇒北と南で連携の波動/52年目の出発(7月17日)

 

【おまけ】3

筆者が初めてアイヌ人を意識したのは小学四年ごろ少年雑誌・少年クラブに連載されていた北海道を舞台にした冒険小説「魔女の洞窟」(久米元一)によってである。 勿論筋書きは覚えていないが登場人物にアイヌ人が登場し、ピリカメノコやコタン、イヨマンテといったアイヌの単語を知り、マリモや雄阿寒、雌阿寒といった地名も知りほのかに北海道の大地に憧れを持った。

それから7年か8年後の大学の2年の頃、北海道旅行への憧れは、函館出身の友人とリュックを背負って北海道の無宿旅行により実現した。

無宿旅行というのは、テント、食料持参で旅館、ホテルには泊まらず野宿をするという意味。 洞爺湖湖畔にテントを張ったり、十勝岳頂上でテント泊したことも懐かしい想い出。

 

伊藤久男が歌うイヨマンテの夜 は好きな歌の一つだが、南北の塔の前でこれを歌われたら、静かに先祖を供養したい真栄平区民にとって迷惑な話かも知れない。

 伊藤久男の朗々とした声が聞けます⇒イヨマンテの夜

イヨマンテの夜
 
 
【おまけ】4
「魔女の洞窟」について書いているブログを見つけた!http://hennahon.at.webry.info/200612/article_29.html
 
≪では北海道が舞台の本を。

「魔女の洞窟」 久米元一 昭和28年 ポプラ社

画像


「湯島博士の娘あや子の首にかけた
 アイヌ人形の秘密をめぐり、
 恐るべき北斗星団の一味の暗躍!
 莫大な洞窟の砂金をめぐる
 息づまる大冒険!」

……と、あらすじにはあるが、
またしても内容が思い出せない。

大学の図書館で「日本の作家一覧」とかいう
本を読んでいたら、ちゃんとこの
久米元一先生の欄もあって、

「『魔女の洞窟』が内容、構成共に優れている」
と書いてあった。

とにかく、本書は砂金をめぐる話らしい。

私もウソタン川で砂金を採ったことがある。
半日かかって、耳掻き一杯分ほどしか採れなかった≫
 
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続・アイヌに乗っ取られた南北の塔⑰

2010-06-17 12:05:57 | 未分類

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私事で恐縮ですが、本日(17日)より25日までの9日間、関西から東京と旅行をしてきます。

関西では奈良、唐招提寺などを訪ね、東京では大学時代の友人に逢ったり、池波正太郎の本で無性に食べたくなった念願のドジョウ鍋などトライしてみるつもりです。

ネットはいばらく遠ざかる予定ですが、更新は予約で継続します。

その間も勝手ですが、変らぬご支援のクリックなどをお願いいたします。

今日のエントリーも沖縄紙のウソ報道関連の過去記事に手を入れたものです。

「プロ沖縄人」「プロアイヌ人」の連帯による反日活動、そしてそれを支援する沖縄紙のウソ報道に騙されてはなりません。

続・アイヌに乗っ取られた南北の塔

人間には悲しい習性があるもので、自分の生まれ育った地域では当然と思っていた習慣と違うものに接すると奇異の眼で見る傾向がある。

若かりし頃初めて上京したとき、居酒屋に入り「さけ茶漬け」のメニューを見て

「ヤマトンチュは酒で茶漬けをするのか」と恐れ入った友人の話には笑った。⇒沖縄の食文化雑感

習慣の違いは、特に食べ物に関して著しい。

が、それが一歩誤ると差別に向かうので要注意である。

沖縄の方言で「イチャリバチョーデー」という言葉がある。

直訳すれば「行き会えば兄弟」、何かの縁で知り合ったものは兄弟みたいなものだという意。

「袖触れ合うも他生の縁」に近い意味を持つ。

アイヌ人が毎年糸満市の真栄平地区にある「南東の塔」の前で行う先祖供養祭「イチャルパ」を行うという。

何かの縁でアイヌ人も塔建立に関わったたわけだから、地元の人がこれを排除する理由は無い。

それこそアイヌ人でも皆「イチャリバチョーデー」である。

ただ、アイヌの供養祭「イチャルパ」は発音が似てはいるが、沖縄方言「イチャリバチョーデー」とは言語的には何の関係もないし、

地元住民は、マスコミの歪曲報道により、真栄平区民が建立した「南北の塔」が、あたかも「アイヌ人が造ったアイヌ兵士の遺骨を祭る」と喧伝されているのに困惑している。 つまり軒を貸して母屋を取られることを危惧しているのである。 

沖縄南部の戦跡巡りをした人なら気が付くことだが、沖縄には全国46都道府県の碑はあるが、「沖縄県の碑」だけはない。

筆者が小学校時代、遠足といえば決まって「南部戦跡巡り」と「中城(なかぐすく)公園」だった。 

南部戦跡といっても現在のように碑の乱立はなかったので、行く場所は「ひめゆりの塔」、「健児の塔」そして「 魂魄の塔」の三つの塔と相場は決まっていた。

各県の塔が乱立する中、あえて「沖縄の塔」を挙げるとすれば、この「魂魄の塔」がそれに相当するだろう。

肉親の遺骨を確認できなかった多くの遺族にとっては、「魂魄の塔」がその遺骨を納めた場所となっているからだ。

真栄平区民が建立した「南北の塔」は真栄平地域界隈で亡くなった身元不明の遺骨を納めた碑であるから、そこにアイヌ兵士の遺骨が収納されている確証はない。

マスコミが流布させた「アイヌの塔」の神話は一人歩きを始めて、止まることを知らない。

苦難の歴史や芸能紹介 アイヌ民族と交流の夕べ カメラ 2006年5月17日

バッタの飛ぶ様子を表したアイヌ民族舞踊を披露する川村さん(手前)=名護市幸喜区公民館

 【名護】「第2回アイヌ民族と交流の夕べ」(協賛・アイヌ民族と連帯する沖縄の会、ティダの会)が12日、名護市の幸喜区公民館で開かれ、アイヌ民族でアイヌ文化資料保存館の川村シンリツ・エオリパック・アイヌ館長が、住民ら約50人と交流した。
 
川村さんは糸満市真栄平の「南北の塔」で、沖縄戦で亡くなったアイヌ出身兵を供養するために来県。交流会は、伝統芸能を紹介することでアイヌと沖縄の交流を図ろうと、昨年から行われている。
 交流会では琉球民謡ショー、まよなかしんやさんによるライブも行われた。川村さんは、アイヌの苦難の歴史などを紹介し、アイヌの民族衣装を身にまとって弓矢を使った踊りやバッタの飛ぶ様子を表現した踊りなど、アイヌの民族芸能を披露した。

                 ◇

何事も左翼活動家が絡んでくると話が妙な方向に歪められてくる。

まよなかしんや↓
http://naha.cool.ne.jp/mayonakashinya/020310.html

[AML 69 94] 5月沖縄行動のご案内  

左翼団体にはこのように蝿がたかってくる。

月間「解放」⇒アイヌ文化振興法10年

左翼団体が「南北の塔」を扱うとこうなる。

http://blogs.yahoo.co.jp/tatakau_yunion_okinawa/
20818212.html
  たたかうユニオンへ!

アイヌ儀式で供養、沖縄-アイヌ連帯

 

糸満・南北の塔でアイヌ儀式でアイヌ戦死者哀悼・供養

 沖縄戦に動員され戦死したアイヌ民族の日本兵らを追悼するアイヌの儀式「イチャルパ」が十七日、糸満市真栄平の南北の塔前の広場で行われた。北海道旭川市から参加した川村シンリツ・エオリパック・アイヌさん(川村アイヌ民族記念館長)ら県内外の五十人が、火の神に酒をささげ、アイヌの言葉でみ霊を慰めた。
 供養祭はアイヌ民族と連帯する沖縄の会(まよなかしんや代表)が主催。毎年、5・15平和活動の一環として行っており、今年で九回目。
 まよなかさんは「日本の先住民族であるアイヌと琉球民族が一緒になって、日本に住むすべての人々の権利が保障される社会をつくっていこう」と呼び掛けていた。
 川村さんは「アイヌの戦没者を沖縄の方々が祭っていただき大変ありがたい。これからも毎年、続けていきたい」と話していた。
南北の塔は一九六六年、真栄平区とアイヌの元兵士らによって建立された。沖縄戦で亡くなった、北海道から沖縄までのすべての人々を祭っている

                     ◇

昨日のエントリーの「南北の塔を考える会」の手記の続きを引用する。

間違った記述の本が多い

昭和56年に『南北の塔』という本が出版されている。 この本は、元アイヌ兵士からの聞き取りで書かれたというが、その中に地元を無視したような書きぶりがある。 元アイヌ兵士の行動を称えることと、アイヌ兵士が真栄平の人々に呼びかけて南北の塔を建てたようなことが書かれている。 寄付をしたことが美談になることはよいが、誇張しすぎている。 その後、この本を参考にして書かれた本が沖縄でも出版されているが、間違った記述が多い。 沖縄タイムスの『大百科事典』(『沖縄大百科事典』-引用者注)、太田昌秀著の『慰霊の塔』、高教組南部支部の『歩く、見る、考える沖縄』、沖教組島尻支部の『南部戦跡巡り』、本土でも『沖縄戦でたたかった兵士』等まだまだあるが、これらの出版物にはこれらの出版物には南北の塔は全てアイヌとの関係で書かれている(ただ一冊、沖縄県から出された『沖縄の聖域』だけは正しい)。≫

ウソの情報を撒き散らしている新聞社、発刊者を拾ってみると、

沖縄タイムス⇒『沖縄大百科事典』

太田昌秀⇒『慰霊の塔』

高教組南部支部⇒『歩く、見る、考える沖縄』、

沖教組島尻支部⇒『南部戦跡巡り』

なるほど左翼団体がドキュメンタリーを著すると「反戦平和」に捉われて事実を歪曲することは『鉄の暴風』の場合と同じだ。

赤い脳ミソの著者が発刊すると、事実が歪曲されるということを見事に証明するリストだ。

沖縄タイムスは、取材相手が沖縄にいるにも関わらず、取材もせずにデタラメを書き散らした。

この点でも『大沖縄辞典』は『鉄の暴風』と軌を一つにしている。

 

さて、糸満市真栄平の「南北の塔を考える会」の手記引用を続けよう。

・・・ラジオ、テレビは墓参団が来沖するたびに、アイヌのことを中心に報道するので、ウソも百回いえば本物になるとかで、私達がいくら努力しても訂正されそうもない。 不可解なことだが、北海道のある町から、真栄平の区長や役員等に感謝状と記念品が贈られている。 南北の塔の維持管理に感謝するとのことらしい。 又、地元の知らない中に、アイヌ兵士が30余柱合祀したなどのマスコミ報道もある。 ところが、南北の塔にアイヌ出身者の遺骨があるという確証はないとおもう。 なぜならば、他県人からすれば無名戦士の墓であり、魂魄の塔と同じだからである。≫(続く)

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アイヌに乗っ取られた慰霊の塔⑯

2010-06-16 23:55:14 | 未分類

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沖縄戦に関連する記事で、沖縄紙が明らかなウソを流し続ける例を、過去記事に加筆して紹介する。

「ウソも繰り返せば真実になる」とはよく言われることだが、本来そのウソを正すべき立場の新聞が、実はそのウソの発信源であるという例は枚挙に暇がない。

周知の通り、集団自決に絡む沖縄の新聞報道でも、自分のイデオロギーを押し通す為に確信犯的に誤報を流し続けた例は数多い。

沖縄紙が「平和」、「連帯」、「差別」といった枕詞の付く運動に敏感に反応し、検証もなく誤報を垂れ流すことはよく知られたこと。

糸満市の真栄平地区の住民が建立した「南北の塔」が、左翼集団と連帯したアイヌの団体によって、あたかもアイヌによって建立された「アイヌ人の戦士」を祭る塔であるかのようなウソの報道が一人歩きを始めている。

沖縄にある慰霊塔は南部に集中しているが糸満市真栄平にある「南北の塔」について、そのいわれを知るものは県民はおろか糸満市民でさえ少ないといわれる。(筆者自身も最近まで知らなかった)

「南北の塔」の建立者である真栄平地区の関係者に取材することもなく、確信犯的に「アイヌの塔」の印象操作をする琉球新報、沖縄タイムスの恥知らずな記事がこれ。

平和へアイヌの祈り 南北の塔、戦争犠牲者弔う 糸満市  琉球新報2006年5月18日 

沖縄戦で犠牲になった人々を供養する参列者=糸満市真栄平の南北の塔

 【糸満】アイヌ民族の先祖供養祭「イチャルパ」が14日、糸満市真栄平の南北の塔で行われ、アイヌ民族を含む沖縄戦で犠牲になった人々を弔った。川村アイヌ民族記念館長の川村シンリツ・エオリパック・アイヌさんが主宰。アイヌ民族と連帯する沖縄の会(まよなかしんや共同代表)のメンバー、真栄平区民ら約70人が参列して祈りをささげた。
 アイヌの衣装を着た川村さんらが火を取り囲み、酒をささげた。続いて参列者らは果物などを供え、同じように酒をささげ儀式を行った。
 儀式を終えた川村さんは「沖縄戦で亡くなった北海道の人の名簿を見たが、名字だけでアイヌと分かる人はたくさんいて、もっとしっかり調べなければならない。平和を願うこの儀式をこれからも続けていきたい」と話した。
 南北の塔は1966年、真栄平区民とアイヌ民族の再会の中で建立され、南北の戦争犠牲者を追悼するという意味から「南北の塔」と名付けられた。

                   
 アイヌ儀式で供養/糸満・南北の塔 戦死者に哀悼(沖縄タイムス)

2008年5月18日(日) 朝刊 22面
アイヌ儀式で供養/糸満・南北の塔 戦死者に哀悼
 【糸満】沖縄戦に動員され戦死したアイヌ民族の日本兵らを追悼するアイヌの儀式「イチャルパ」が十七日、糸満市真栄平の南北の塔前の広場で行われた。北海道旭川市から参加した川村シンリツ・エオリパック・アイヌさん(川村アイヌ民族記念館長)ら県内外の五十人が、火の神に酒をささげ、アイヌの言葉でみ霊を慰めた。
 
供養祭はアイヌ民族と連帯する沖縄の会(まよなかしんや代表)が主催。毎年、5・15平和活動の一環として行っており、今年で九回目。

 まよなかさんは「日本の先住民族であるアイヌと琉球民族が一緒になって、日本に住むすべての人々の権利が保障される社会をつくっていこう」と呼び掛けていた。

 川村さんは「アイヌの戦没者を沖縄の方々が祭っていただき大変ありがたい。これからも毎年、続けていきたい」と話していた。

 南北の塔は一九六六年、真栄平区とアイヌの元兵士らによって建立された。沖縄戦で亡くなった、北海道から沖縄までのすべての人々を祭っている。

                    ◇
アイヌ人と沖縄人は毛深いとか、顔の造作が濃いとかで共通点があり、そして独特の文化を持っているということで連帯したイベントが、沖縄でも行われていることは筆者も承知していた。
 
だが、それが左翼勢力に結びついてウソを垂れ流しているとは知らなかった。
 
アイヌ人と沖縄人が人類学的にどのような関係にあるのかは、本稿の主旨ではないのでここでは触れないが、違う民族との「連帯」が左翼勢力と結びつくと、結局「反日」運動に繋がるのは「恨之塔」建立の場合と同じである。
 
人類学的(遺伝学的)興味のある方は⇒http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071105/acd0711050810001-n1.htm
【試行私考 日本人解剖】
 
次の引用文は左翼社会科教師の集団である「北海道歴史教育者協議会」の教師の文である。
書き換えられた碑文に思う~沖縄 南北の塔 ~ 沖縄 南北の塔

                札幌市立石山中学校     平井 敦子
☆南北の塔
 
沖縄県南部戦跡。有名な摩文仁の丘から、少し離れたところに真栄平という集落がある。180戸900人の住民が、沖縄戦でわずか349人になってしまったという激戦の地だ。バス停を降り、緩い傾斜地の畑の間を登り気味に5分ほど歩くと雑木林の中に「南北の塔」はある。官立ではなく、住民ら有志によって建てられた慰霊碑だ。戦後、地域に散乱していた遺骨を集めて納めた大きな納骨堂。そのうえに小さめの墓のような形の碑石がのせられ、「南北の塔」と刻まれている。ふと碑の右側面をみると「キムンウタリ」と朱文字が彫り込まれている。
 キムン、アイヌ語で「山」。ウタリ、「仲間」という意味だ。「山部隊」と称される日本軍の部隊にアイヌ出身兵が含まれていた。この部隊の兵士たちも、真栄平の住民とともに多く犠牲になっている。
 戦時中住民と交流のあったアイヌ兵のひとり、弟子さんがこの住民有志による慰霊碑建立の話を聞き、アイヌの仲間たちに募金を訴え、碑石の費用の一部として寄付したという経緯がある。この「南北の塔」にまつわる話は、草の根出版会「母と子でみる 沖縄戦とアイヌ兵士」(橋本進編)に詳しい。
 
☆南北の塔再訪
 2001年の夏、私は13年ぶりに「南北の塔」を訪れた。友人にぜひ見せたくて案内をしたのだ。久しぶりに訪れたその場所は、碑の周囲が整備され、壕のあたりの戦争の残存物も目立たなくなっていた。
「あれ、おかしいな。無い…。」
 私の記憶に鮮明に残っている碑の解説板が見あたらない。友人に碑の由来を話しながら、少し焦り気味に私はその解説板をさがした。「たしかにあったんだよ、そこにアイヌのことも書いてあるんだ…」と言いながら。しかし思いこみとは怖いもので、“木製”と思っているからみつけられなかったのだ。
「あった!そっか新しくしたんだ。」
 そう、粗末な木製解説板は、それは見事な石碑文になって、しっかりあった。安堵して私たちは碑文を読み始めた。ところが、最後まで読み通しても“アイヌ”という文字がどこにも無いのである。私の記憶違いか?前回の解説文にはあったはずなんだ。そうじゃなければ、「南北の塔」という名の由来も、そこに刻まれている「キムンウタリ」の意味も来訪者には何がなんだかわからないじゃないか。焦る私に友人が言う。「書き換えられたんじゃない?」
 疑問を残したまま、私たちは真栄平をあとにした。札幌に戻ってからさっそく私は前回訪れた時のアルバムをめくってみた。
「間違いない」
 写真には、くっきりと“アイヌ”の文字が見える。新しく石碑に作り替えるときに意図的に消された、そうとしか思えない。でもなぜ?
 今でも、南北の塔にはウタリ協会からアイヌの人々が訪れイチャルパ(供養祭)が開かれている。その主催団体、アイヌ民族と連帯する沖縄の会の人に電話で聞いてみた。碑文が変わったことは知らなかったという。ただ、数年前、イチャルパをしているところに数人の住民がチラシをまきにきて「歴史をねじまげるな」「アイヌの墓ではない」というような批判めいた内容だったという。確かに、この碑はあの沖縄戦で散乱した地域住民の納骨場であって、アイヌ民族のための墓などではない。しかし、この地で南北の民族が共に戦争の犠牲となったという思いが響きあってこの碑があることには違いない。
 少なくとも、碑を訪れた人の拠りどころは碑文と塔の文字しかないのだ。このままでは「キムンウタリ」の意味はなぞのまま埋もれてしまう。


*木製板は昭和62年6月、石碑は平成元年3月。私が見た木製板はわずか1年7ヶ月の仮設板だったらしい。あくまでも「仮」であればなおさら、そこにあったアイヌの文字を正式には消したことの意味を考えたい、と思う。(北海道歴史教育者協議会)
                   ◇

筆者の平井敦子先生?は「南北の塔」建立の経緯はある程度知っているようだが、以前に来たときにあったアイヌの文字が消えているのをみて北海道民として不快感を味わったのではないかと推察される。

碑文を書き直した理由は、戦後真栄平地区の住民が建立した「南北の塔」が、改築の際寄付をした一人のアイヌ人弟子(てし)さんの話だけがクローズアップされ、これに左翼集団が飛びついて毎年塔の前でアイヌ民族衣装を着たアイヌ人たちと連帯し「平和活動」を展開し、これを地元新聞が大々的に報じるので、県民でさえ「南北の塔はアイヌ人によって建立されたアイヌ人の慰霊塔」であるといった誤解が一人歩きをはじめ糸満市議会でも問題になったからだという。

⇒糸満市議会喜納 正治  議員

では、糸満市が言う「南北の塔建立の」の実相はどうなっているのか。糸満市が発行した「糸満市における沖縄戦の体験記録」(平成8年3月23日発行)によるとこうなっている。

≪『南北の塔』は泣いている

ー戦争の落とし子である私はいったいだれなのかー

糸満市真栄平南北の塔を考える会

塔は真栄平区民の意思で建立

先月、ある用件で糸満市役所に行った時、「この前北海道の塔でアイヌの祭りがありましたね。」 Aさんの挨拶である。 やっぱりそうだったのか。 糸満市職員でも南北の塔はアイヌの塔になっているのだ。 テレビ、ラジオ、新聞等のマスコミや図書の威力を改めてみせつけられた思いである。 

南北の塔が真栄平区民の意思によって建立された塔であると知っているのは真栄平区民だけになった

昭和21年、収容所から帰ってきて最初にやった仕事は遺骨収拾であった。それから毎年のように遺骨集めをして、これまで塔も何回か改築し、場所も二転三転したと思う。

昭和41年の改築には県との協力で、立派に作ることになり、区民常会を何回も開いて計画的にすすめた。さらに他県の遺族の方々からのご奉仕(ご寄付)もあった。 その中の一人が北海道出身の元アイヌ兵士T氏である。≫

では、「南北の塔」は一般的にどのように紹介されているのか。

≪南北の塔は、糸満市舞栄平(まえひら)の裏側に建立された納骨堂である。戦後、元アイヌ兵の弟子豊治氏らが住民と協力してこの一帯から四五〇〇体を収骨して納めた。≫

≪「南北の塔」建立(昭和41年 1966年)
かつて沖縄戦を戦った兵士であった、アイヌ民芸使節団の弟子豊治が沖縄に訪問。弟子豊治の戦った場所であった真栄平の地域住民と共に、アイヌの兵士、沖縄の人々など、あの戦いで亡くなった全ての人々を祭る慰霊碑を建立。北から南まで、多くの人々がここに眠ることから「南北の塔」と名付けた。碑の側面には「キムンウタリ」の銘も刻まれている。蘇るアイヌとしての自覚(戦後から現在まで)

                     ◇

「南北の塔」建立の実相を知るものは今では、糸満市民はおろか糸満市職員でもいない。 勿論北海道のアイヌ側も関わったとされるTが亡くなってしまって事実を知るものはいない。彼らは「真栄平地区の住民たちがアイヌの塔を善意で管理している」と本気で信じているようだ。

アイヌ人と沖縄人が共に慰霊の塔の前で慰霊行事を行うことに異論を唱えるものはいないだろうが、マスコミによって事実が歪められ、左翼運動に利用されるとなると真栄平区民でなくとも異論を唱えたくもなる。

沖縄の新聞は、真実を明らかにすべきだと思うのだが、それをすると、例年「アイヌの塔」の前で行われる「反戦平和イベント」に水をさすことになるので、あえてそんなことはしないだろう。
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沖縄よさらば!菅首相の本音

2010-06-16 07:17:42 | 県知事選

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菅首相「基地問題どうにもならない」「もう沖縄は独立した方がいい」と発言 喜納参院議員が暴露
2010.6.15 23:57

自民など5野党が街宣車で演説した=15日午後、東京・新宿駅西口(鈴木健児撮影)自民など5野党が街宣車で演説した=15日午後、東京・新宿駅西口(鈴木健児撮影)

菅直人首相が副総理・国家戦略担当相だった昨年9月の政権交代直後、民主党の喜納昌吉参院議員(党沖縄県連代表)に対し、「基地問題はどうにもならない」「もう沖縄は独立した方がいい」などと語っていたことが15日分かった。

 首相は23日に沖縄訪問を予定しているが、就任前とはいえ、国土・国民の分離を主張していたことは大きな波紋を呼びそうだ。

 喜納氏が、鳩山前政権末に記した新著「沖縄の自己決定権-地球の涙に虹がかかるまで」(未来社)で明らかにした。

 この中で喜納氏は政権交代後、沖縄の基地問題に関して菅首相と交わした会話を紹介。喜納氏が「沖縄問題をよろしく」と言ったところ、首相は「沖縄問題は重くてどうしようもない。基地問題はどうにもならない。もうタッチしたくない」と漏らし、最後は「もう沖縄は独立した方がいい」と言い放ったという。

 喜納氏は著書の中で「半分ジョークにしろ、そういうことを副総理・財務相であり、将来首相になる可能性の彼が言ったということ、これは大きいよ。非公式だったとしても重い」と指摘している。

                        

微塵の国家観も持たない市民運動家上がりの首相のお里が知れる発言であり、今さら驚くに値しないだろう。

何しろ、拉致された自国民の人権より、拉致犯の人権を重んじる首相だ。

国土・国民の分離を主張していた

こんな人物に自分の国や国民を思いやる気持ちを求めるのは、魚屋にジョゴンノの肉を求めるようなもの。 そう、簡単に言えばは無いものねだりということ。

沖縄の革新勢力は今、民主党県連代表の喜納昌吉議員を中心にして、共食い状態にある。

昨年夏の衆院選では、沖縄伝統の「革新共闘」を展開し、自民党系候補を全員落選させたことは記憶に新しいが、今回の参院選では民主党県連は政府与党に反旗を翻し、社民党候補を独自に応援するという話もある。

菅首相の発言について、喜納議員は「菅首相は当時、間違いなくそのようにお言った。 『独立』の下りは冗談めかしてもいたが、それも含めて本音と受け止めた」、「しばらくは(首相の沖縄への対応を)見る。 なにもしないいうなら突き上げていく」と話している。(沖縄タイムス6月16日)

喜納議員はそのキテレツな言動で、民主党の厄介者から民主党の「不発弾」になりつつある。 一触即発ということである。

因みに元々共産党支持者だった喜納氏が政党入りする際に民主党に決めたのは小沢一郎氏の勧誘があったからだという。

昨日の国会代表質問で、菅首相は、国旗、国歌を含めて以前の市民運動家的発言を縷々問い質されたが、そのたびに「過去の発言を否定するものではないが、そのときの状況からやむを得なかった(要旨)」と逃げていた。

が、「やむ得なかった」で通るならサルでも首相は務まる。 サルだって反省するではないか。

菅首相の発言を、喜納議員は「本音ととらえた」といっているが、民主党の「沖縄ビジョン」見れば、冗談の中に本音が見えるものであり、「本音と受け止めた」という喜納発言の意味は大きい。 

「民主党の沖縄政策」 沖縄を中国に売ります!


【おまけ】

国会の代表質問で「君が代」について、問われた菅首相は「君が代は嫌いではないので、自分も歌う」と発言したが、それが真っ赤なウソであることを佐藤優氏が暴露している。

これも「あの時はやむ得なかった」と言い逃れるつもりなのか。

【産経抄】6月10日
2010.6.10 02:58
 
 「『君が代』はどういう位置を占めているのだろう」。作家の佐藤優さんが、5日付「サンケイエクスプレス」紙への寄稿のなかで、菅直人首相に対して、こんな疑問を呈している。出演者とスタッフ全員が「君が代」を斉唱するのが習わしのラジオ番組に出たとき、首相は一人だけ歌わなかったそうだ。

 ▼平成11年に成立した国旗国歌法案にも、反対票を投じている。首相となった今の考えを、小欄も聞きたい。市民運動の活動家出身で、「草の根」という言葉を好む首相の、国家観を知る道しるべでもあるからだ。

 ▼もっとも、菅首相は、自分に都合の悪い質問を極力避けようとしている。おとといの就任記者会見では、メディアの取材によって、「政権運営が行き詰まる」との、驚くべき発言を行っていた。

 ▼ことさら小紙は目障りな存在らしい。会見で拉致問題に触れなかった首相に対して、小紙の記者が対北朝鮮政策について質(ただ)そうと挙手したものの、指名されなかった。先月28日の鳩山由紀夫前首相の会見に続いての「取材拒否」である。

 ▼首相は「煙たい存在」だった仙谷由人氏をあえて官房長官に起用した人事を自賛しているではないか。「煙たい」メディアを排除するのは理屈にあわない。自らの内閣を「奇兵隊内閣」と名付けるほどに、隊を結成した高杉晋作を敬愛している首相である。高杉が作ったといわれる奇兵隊の歌にあるこの文言をご存じだろう。

 ▼「聞いて恐ろし見ていやらしい、添うてうれしい奇兵隊」。時に耳に痛い報道や論評の方が、頼りになることもある。高杉の「逃げる」ときの速さをたたえているが、常に投獄、暗殺の危険にさらされていた高杉とは立場が違う。首相は、逃げてはいけない。

                                                        ◇

2010/06/07 09:46更新
【佐藤優の地球を斬る】「畏敬の念」欠く新政権に不安

  6月4日の民主党両院議員総会で、菅直人副総理が民主党代表に選出された。これで来週初め、菅氏が日本国内閣総理大臣に就任する。社交辞令で「おめでとうございます」と言いたいところだが、そういうわけにはいかない。筆者には、菅総理の誕生に関して、どうしてもひっかかる点があるからだ。それは、「君が代」をめぐる問題だ。
 筆者は、ミッキー安川さん(本年1月18日に逝去。ちなみにこの日は筆者が50歳になった誕生日だった。だから筆者はミッキーさんの命日を一生忘れない)から、菅氏の「君が代」に対する姿勢について、こんな話を聞いたことがある。

 ■君が代を歌わない
 ミッキー安川さんは、RFラジオ日本で人気番組を何本かもっていた。そのうち深夜に放送される「朝まで勝負」では、深夜0時の時報が鳴るとともに、ミッキーさん、スタッフとゲストが全員立ち上がり「君が代」を斉唱する。この番組に筆者が初めて出たとき、ミッキーさんがこう言った。
 「あんたクリスチャンだよな。俺の番組では『君が代』を歌うけれど、問題ないよな」
 「問題?」
 「いや、歌いたくないならば、無理しなくていいから。ただ起立だけはしてほしいんだ」
 「ミッキーさん、僕は日本のキリスト教徒ですよ。『君が代』を歌うのは当たり前じゃないですか。キリスト教徒だからこそ、目に見えないものに対する畏敬の念をもっています。天皇様の弥栄(いやさか)をお祈りするのは、当たり前じゃないですか」
 それを聞いて、ミッキーさんはにっこり笑った。そして、こう言った。
 
「政治家でも『君が代』を歌わない人がいるんだよ」
 「誰ですか」
 「例えば、
菅直人さんだ。この番組のゲストで来てもらったんだけど、『君が代』は歌いたくないと言うんだ。俺は、それはわかったから、俺たちが『君が代』を歌う間は、立っていてくれと頼んだ」
 「それでどうなりましたか」
 「ちゃんと立ってたよ。ただ、俺は菅さんの態度は立派だと思うんだ。自分の信念で『君が代』を歌いたくないと思うならば、歌わないというのは、周囲の雰囲気に合わせて、ほんとうは歌いたくないと思っているのに、義理で歌うよりは政治家としてずっと誠実だよ」
 ミッキーさんは、寛容と多元性を尊重する日本の保守思想を体現した人だった。それだから、菅直人氏の「筋の通し方」を尊重し、かつ評価したのだ。
 内閣総理大臣は日本国家を政治的に体現する。菅氏も総理として「君が代」を唱うことになると思う。それは、「君が代」が国家であると法律に定められているからだ。しかし、菅氏の世界観において、「君が代」はどういう位置を占めているのだろうか?

 ■日本国家の本質
 日本国家の根本は祭祀共同体である。目に見える制度や法律ではなく、目に見えない高天原(たかまのはら)の神々によって、日本は支えられている。南北朝時代の南朝の忠臣・北畠親房(きたばたけちかふさ)は、わが国の本質について、「大日本者神国也(おおやまとはかみのくになり)」と述べた。当時、京都には軍事官僚(足利尊氏一派)による北朝がたてられていた。これに対して、親房、そして「悪党」と呼ばれた楠木正成たちは、奈良の吉野に逃れた後醍醐(ごだいご)天皇による南朝を命がけで支えた。
 参議院選挙の結果がどうなろうと民主党は権力を手離さない。民主党という巨大な権力の器の中に、超越的なものに対する畏敬の念を欠いた、合理的計算で理想的社会を構築することができると考える人々が、官僚と手を組み、イタリアのムッソリーリ首相が理想としたファッショ体制が、知らず知らずのうちに形成されるのではないかという不安を筆者はもっている。この不安が消え去るまでは、菅直人新政権に対し、「おめでとうございます」と言うことを差し控えたい。
 (作家、元外務省主任分析官 佐藤優/SANKEI EXPRESS)
 
                      ◇

ミッキー安川さんは、君が代斉唱を拒否した菅直人氏を逆説的ではあるが、正直だとして評価している。

国会答弁での「君が代は嫌いでない。 自分も歌う」という首相発言を聞いて、ミッキー安川さんは草葉の陰で怒り心頭で、自分が評価したことを悔いているのではないか。

結局権力を手に入れた瞬間、「君が代を歌わない」という市民運動家の信念さえも、弊履のように捨て去るクズが日本の総理大臣になったことになる。

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琉球新報の妄想記事!記者の妄想書き放題!

2010-06-15 07:08:09 | ★集団自決

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筆者の購読紙は沖縄タイムスである。

購読の理由は偏向記事をブログネタにするためである。

三年ほど前までは、友人が以前論説委員長をしていた付き合いで、琉球新報を購読していた。

だが、ブログで沖縄紙の偏向報道をネタにするようになり、より偏向度の激しい、沖縄タイムスに切り替えた。

ところが、この数年の琉球新報の偏向の激しさは、ご本家沖縄タイムスをはるかに凌ぐ。

特に沖縄戦に関する捏造報道は到底まともな人物が書いたものとは思われない酷さである。

来る6月23日の沖縄戦・戦没者慰霊の日を控えて、沖縄タイムスが目下のところ比較的おとなしい記事を書いているのに対し、この数日の琉球新報の記事の酷さは尋常ではない。

二日続けて新報ネタをエントリーしたので、本日は菅首相の所信演説に対する代表質問関連をエントリーしようと思っていた。

が、逆風って気持ちいい!さんの記事を読んで、怒り心頭の境地に至った。

沖縄タイムスが発行した『鉄の暴風』が現場に取材することも無く伝聞やウワサのみで書かれたのは、終戦直後の米軍統治の厳しい情報管理を考えれば多少は同情も出来る。

だが、最近の琉球新報の沖縄戦に関する捏造記事は『鉄の暴風』より、数倍悪質である。

何しろ、琉球新報の記者は、目撃もしていない証言者を、自分の「仮想空間」で勝手に目撃者に仕立て上げて物語を創造するのだ。

そんなに創作の才能が溢れているのなら、一刻も早く記者を辞めて小説家に転身することを勧めたい。

一人でも多くの読者に琉球新報の捏造体質を知ってもらうため、逆風って気持ちいい!を、そっくりそのまま引用させていただいた。

念のため付け加えると、丸ごと引用したのは決して手抜きではない。縁側さんの記事が的を射ておるので、それにコメントを加えると蛇足になるからである。

以下引用。

逆風って気持ちいい!

今朝の琉球新報の総合一面と社会面トップ。この二つは関連記事です。例によって日本軍の悪行を書き立てております。たぶん23日の慰霊の日までは続くことでしょう。以下紹介します。

まずは一面の記事から。

 東村有銘で住民2人虐殺 日本兵、米兵を銃殺後

 1945年4月、当時県立三中 大城さんが目撃証言 

 沖縄戦さなかの1945年4月、東村有銘で日本兵が住民2人を殺害したとみられる虐殺事件があったことが12日、明らかになった。当時、県立第三中学校から独立混成第44旅団第2歩兵隊(国頭支隊)に動員され、撤退の途中で事件を目撃した大城晃さん(81)が12日、名護市教育委員会が主催し、本島北部で行われた平和体験学習で証言した。大城さんが事件を公の場で発言するのは初めて。

 大城さんによると、45年4月26日ごろ、米軍の斥候兵3人が有銘集落に入り、日本兵と銃撃戦になった。米兵2人が銃で撃たれ死亡。米兵1人は逃げる途中、海岸沿いの避難小屋で生活していた10代半ばの中南部出身とみられる避難民の男性2人を人質に取った。

 日本兵は、2人を連れて海岸を南へ逃げる米兵を追い、泳いで沖合に回り込んで射殺。さらに、2人の避難民を山まで追って殺害したとみられる。同日、大城さんは2人の遺体が日本兵によって山から下ろされるのを目撃した。

 石原昌家沖縄国際大学名誉教授は「初めて聞く事件だ。米軍上陸直後で緊迫した状況が、追いかけてまで殺した行為に表れている。日本軍で『方言を使う者は処分する』との方針が既に出ていた時期で、その流れの中で起こった事件だろう」と話した。(一面引用おわり)

                         ◇
 日本兵の悪行をどこまでも追い続けて記事にすることが「社是」であるかのような琉球新報の面目躍如と言ったところか。この記事の内容が事実なら、戦争の悲惨な一面をはっきりと表しているといえるだろう。この記事を補足するかのような記事が社会面トップに掲載されている。紹介する。

 
遺体け飛ばす日本兵 証言した大城さん 残虐行為を批判

 東村有銘 住民虐殺

 東村有銘で日本兵による住民虐殺を証言した大城晃さん(81)は「人質を助けるどころか、殺すとは。今でも信じられない思いだ」と事件の衝撃を振り返る。日本軍は不審に感じた住民をスパイ視する状況があり、大城さんは避難民もスパイの嫌疑を掛けられたのかもしれない。好んで人質になるはずはない」と残虐行為を批判する。

 有銘に入った国頭支隊に同行していた大城さんは1945年4月26日ごろ、隣接する故郷名護市の有津(ありつ)に住む家族と面会。有銘に戻る途中、人質の避難民2人を連れた米兵に遭遇した。米兵が銃を向けたため大城さんは有津へ引き返した。その日の夕方、丘の上から有銘方面を見ると、日本兵にけ飛ばされ、山から下ろされる避難民2人の遺体を目撃した。

 大城さんは戦後、殺害された避難民2人と米兵3人の身元を調べるため有銘を訪れ、米兵を埋葬したという住民から当時の状況を聞いた。米軍にも問い合わせたが、確かな情報はないという。「身元が分かれば平和の礎で花束を供えたい。遺族に会えれば彼らの最期を伝えたい」と語る。

 大城さんが証言した12日の平和体験学習(名護市教育委員会主催)には県立第三中学校同期で国頭支隊に所属した3人も参加。北部8高校の生徒ら約80人と伊豆味国民学校跡など国頭支隊の移動経路をたどった。

 東江新太郎さん(81)は国頭支隊の部隊内で、上官の命令で兵士が殺害された事件を証言した。本島北部から多野岳へ撤退する途中、今帰仁村湧川付近のサトウキビ畑を通る際、日本兵の1人が畑に下りてキビを折った。

 上官が「勝手な行動は隊を危険にさらす」と激怒。キビを折った兵士をあぜ道にひざまずかせ、隣にいた兵士に銃剣で突き刺すよう命じた。腹を刺された兵士は「残念」と言って絶命した。東江さんは「軍隊の非情さを感じた。その後は皆、一言も発せなかった」と振り返った。(社会面引用おわり)

 
                        ◇
 朝っぱらから読むような記事ではないな。こんなのを毎日読まされればそりゃあ立派な「反日家」が育つことでしょうね。ムカムカして吐き気がしてくる記事です。

  この記事で変なのが、最初の一面の記事中の

大城さんによると、45年4月26日ごろ、米軍の斥候兵3人が有銘集落に入り、日本兵と銃撃戦になった。米兵2人が銃で撃たれ死亡。米兵1人は逃げる途中、海岸沿いの避難小屋で生活していた10代半ばの中南部出身とみられる避難民の男性2人を人質に取った。

 日本兵は、2人を連れて海岸を南へ逃げる米兵を追い、泳いで沖合に回り込んで射殺。さらに、2人の避難民を山まで追って殺害したとみられる。同日、大城さんは2人の遺体が日本兵によって山から下ろされるのを目撃した。


 :これが事件のあらましです。非常に詳しく憶えていらっしゃいますね。もう80歳を超えておられるのに、ご立派なことです。

 
ところが、この記事を補足した社会面の記事にはこうある。

 
有銘に入った国頭支隊に同行していた大城さんは1945年4月26日ごろ、隣接する故郷名護市の有津(ありつ)に住む家族と面会。有銘に戻る途中、人質の避難民2人を連れた米兵に遭遇した。米兵が銃を向けたため大城さんは有津へ引き返した。その日の夕方、丘の上から有銘方面を見ると、日本兵にけ飛ばされ、山から下ろされる避難民2人の遺体を目撃した。

 
 ん?なんだ?一面と違うぞ。一面では事の詳細まで記憶しておられる記事に「やっぱり悲惨な体験したから憶えてるんだろうな」と思ったのだが、この社会面を読むと、人質取った米兵と遭遇した刹那、逃げてるじゃん。それじゃあ、沖合まで泳いで追いかけて射殺したのも、避難民を山まで追って殺害したのも目撃しておらず、目撃したのは「山から2人の遺体を下ろすところ」なんだ。

 
なんだ随分違う話になってるじゃねーか、と琉球新報に電話で確認した。

 
 「この大城さんは米兵が2人射殺されたのも、避難民と見られる者2人を連れ逃げる米兵も、その米兵が泳いで回り込んだ日本兵に射殺されたところも、避難民と見られる者2人が山に逃げ込むところも、それを追いかける日本兵も、避難民2人が殺害されるところも目撃してないんですよね?」

 
 との私の問いに

                  「はい、そーですね」

 
愕然とした私だが、ここは気力を振り絞りさらに聞いた。

 
 「避難民を人質に取って逃げた米兵や避難民を殺害したところを大城さんは目撃してないのにいったい誰の証言なのですか?それとこの避難民はホントに人質だったのでしょうか?」と問うと、

 
 「多分、大城さん以外にも兵隊はいたわけですからその人たちの中に目撃した人はいたのでしょう。それとその避難民は本島中南部から避難してきた住民だと思われますから、やはり人質ではないかと思います。」だとよ。

 
おいおい、何も見てない人をここまで「目撃者」にしていいのか?何も見てねーじゃねーか。それに何も知らねーんじゃねーか。

ご遺体を下ろしてるとこを丘の上から遠目に見ただけだろ?け飛ばしてってなー、下ってる土地を武装して遺体運ぶのは想像しても大変だぞ。下ってる状況を想像してもご遺体には申し訳ないが、転がしながら移動するしかなかったんじゃねーか?それが遠目には「け飛ばしていた」ように見えたんじゃねーのか?単純にフツーに想像すればそう考えるな。

 
それに人質かどーかもわからないな。一面には「中南部出身と見られる10代半ばの男性」とあるが、米軍は4月1日に読谷村という本島中部から上陸したわけね。そして、この射殺された米兵は「斥候兵」という。ならば、その10代半ばの男性2人は「案内役」であった可能性は十分にある。脅されて不慣れな沖縄を道案内させられたとしてもおかしくはない。

 
まだ疑問はある。避難民殺害に関して一番のポイントは、なぜ山に行ったかである。米兵に人質にとられた避難民だったが、米兵を射殺したことで逃げる理由はなくなる。そこに米兵を射殺した日本兵やその他の日本兵がいるわけだからな、友軍が。たぶん話もしただろう。それがどうして山に逃げるのか・・。スパイ容疑をその場でかけられたのなら、何人いたかはわからないが、武装する日本兵のまえで話すほどの距離にいて海岸から山へたやすく逃げおおせるものではないと思うのだがな。

 
 それに避難民2人を「スパイ」だと見て射殺したのなら、どうして山からわざわざ遺体を下ろす必要があったのか?

 
いずれにしろ、このように一面と社会面を使って記事にするような目撃証言でもない。だって何も見てないんだもん。フツーの目で読めば簡単に見抜けるのだが、毎日毎日このようなおぞましい記事は誰も好んで読みたくはない。よって大見出しだけ見て流す人がほとんどだろう。だから琉球新報は見出しを「誇大表現」どころか「大嘘」にしなければならないわけだ。さすが沖縄民主主義の砦であるオピニオンリーダーです。

 
社会面の記事の最後の方に書かれているサトウキビ畑の事件はホントなら許しがたい行為だと思います。兵隊さんの命をここまで軽く扱ったら戦には勝てんよ。

 
追記:県内の二大紙である沖縄タイムスと琉球新報。はっきり言えるのは、記事のいやらしさ、獣性、などどれをとっても琉球新報が一枚も二枚も上です。褒めてないからな。

(引用終了)

                       

これほど記事の捏造が酷いと、

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