狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

井筒監督はやはりアホだった! もう一人のアホ有田良生

2024-07-30 14:02:58 | 県知事選
窪塚洋介猛反撃「井筒監督はアホ」

映画「俺は、君のために-」のPR会見に出席した(左から)窪塚洋介、徳重聡、新城卓監督=大阪・東映関西支社

 石原慎太郎東京都知事(74)が製作総指揮した映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」(5月12日公開)のPR会見が19日、大阪市内で行われ、W主演の俳優・徳重聡(28)、窪塚洋介(27)と新城卓監督(63)が出席。特攻隊員を描いた作品で、井筒和幸監督(54)が「戦争の美化」と批判していることに対し、窪塚は「見る前に言うヤツはアホ」と猛反撃に出た!

 同時期に公開される2作で期せずして“映画戦争”がぼっ発した。窪塚は特攻を志願し、出撃する隊員の姿を熱演。自身も3年前、自宅マンション9階から転落した経験があり「簡単にはいえないけど、生きてることはありがたい」と、作品への思い入れは強い。井筒監督の批判に対し、窪塚は黙っていられなかったようだ。

 窪塚は「この映画を見て、戦争賛美だというヤツはアホだと思う。もう一回見た方がいい。見る前に言うヤツはアホ」とバッサリ。さらに「右だ、左だ、というけど、鳥は両方の翼がないと飛べないという思いで、日々、生きています」と“窪塚節”もさく裂させた。

 井筒監督は新作「パッチギ!LOVE&PEACE」(5月19日公開)の中に、「俺は-」を連想させる劇中映画を登場させた上、新作のPR会見の席上などで批判を展開。「戦争の美化はアカン。若者を右へならえさせたいだけ」などとこき下ろしていた。

 同じ映画監督として、新城監督も「映画を見てからコメントしてほしい。それがお互いの礼儀でありルール。パフォーマンスとしての発言は、やがて本人に返ってくる」と井筒監督への怒りをあらわに。「沖縄出身で国歌も聞いたことなく、上京しました。右翼というのなら、どうぞ。史実をとらえありのままに描きました」と強調していた。(デイリースポーツ )

                                              ◇

窪塚洋介と言うとマンションの9階からの落下事故でその名を知っいる程度と、偶々テレビで見た映画「Laundry」で変った演技をするヘンな俳優だな、と言う程度の認識しかなかった。(映画「Laundry」で窪塚はマンホールに落ちて打ち所が悪く言動がヘンだが心の純粋な主人公を演じていたが、制作はマンション落下事故より二年前に作られている。)

筒井監督はと言うとテレビでお笑いタレントに混じってアレな発言をするアレなオジサン程度の認識で,勿論その作品を見たことはない。

窪塚VS筒井「映画戦争」は窪塚の完璧な一本勝ち。

見もしないで公然と批判するのはアレな人の特徴だが、このバトル石原慎太郎御大の出る幕はなさそうだ。

見ないで批判は論外だが、見ていながら作品は評価しつつも石原慎太郎が関わるのが気に食わず批判しているもう一人のアレな人がいた。

以下、有田芳生の『酔醒漫録』よりの引用。http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2007/04/post_a86a.html

2007/04/05
鳥濱トメさんと特攻隊員
 
(略)「俺は、君のためにこそ死ににいく」はとてもよくできた映画だ。この自己陶酔的なタイトルはいかにも石原慎太郎的でセンスが悪くイデオロギッシュなのだけれど、内容は沖縄出身の新城卓監督やスタッフによって見事な反戦映画となっている。アンビバレント(両面)なのだ。

  それは鹿児島県知覧で富屋食堂を開いていた鳥濱トメさん(岸惠子)を中心にして毎日のように特攻隊に駆り立てられた17歳から24歳の青年たちの歴史に翻弄された真情などが、この日本の消すことのできない事実だったことによる。ところどころで挿入される特攻隊の実写フィルムが悲しさをさらに高めていく。朝鮮人差別、憲兵隊の横暴、強制された死の無惨、アメリカ人の被害者、生き残った兵士の悲しさなど、歴史的事実に忠実であるほどに、見るものに感動を与える。石原氏の国家観には理解できないことが多いけれど、本人の意図から独立して作品は独り歩きする。これは小説、ノンフィクション、映画などなど、どんな分野でも同じこと。20歳前後の若者を死に追いやった日本軍幹部は、単行本『X』の主人公となる木村久夫さんを戦犯とした張本人でもあった。戦中は「軍神」とあがめたて、戦後は「特攻くずれ」などと揶揄した日本人の精神構造も変わったとも思えない。わたしが東京に出てきてしばしば通っていた新宿の「薩摩おごじょ」は、トメさんの二女、赤羽礼子さんの店だった。何度も挨拶をしながら、歴史を知らないわたしは当時のことを聞くこともなかった。無知の悲しさだ。その礼子さんも2年前に亡くなってしまった。『きけ わだつみのこえ』(岩波文庫)に収録された学徒兵の遺書、鳥濱トメさんと特攻隊員を記録した石井宏『ホタル帰る』(草思社)などは改めて読まれるべきだろう。日本の若者の悲しみを凝縮している知覧特攻平和会館に近く行ってこようと思っている。

(引用終了)

これに対して同ブログの読者「一都民 」さんが見事に有田氏の「アホ」ぶりを指摘している。

以下引用。

>この自己陶酔的なタイトルはいかにも石原慎太郎的でセンスが悪くイデオロ
>ギッシュなのだけれど、内容は沖縄出身の新城卓監督やスタッフによって
>見事な反戦映画となっている。アンビバレント(両面)なのだ。


             2007/04/05「鳥濱トメさんと特攻隊員」

無視しようかとも思いましたが、やはり気になったので書きます。

この書き方だと(他にもそういう箇所がありましたが)、「石原氏の意図」とは違い、監督やスタッフというあくまで「外部の力」によって「感動の作品」ができたという言い方ですね
石原氏は脚本を書いてるんですよ? 確かに監督の手腕というか技量によって作品の内容は変わる場合もあるけれど、まるで好戦(とまではいくかどうか分からないが)映画から反戦映画という、テーマ・骨格そのものが変わってしまうことなんてあり得るでしょうか。

たとえが悪いかもしれないが、無名で地位もない新人の脚本家と、わがままで力のある監督。そういう組み合わせでもない。

あと、私が印象に残っている対談があります。この映画に主演された岸さんと、石原氏が、MXというローカル局で対談されておりました。

その時、岸さんは映画の中で、特攻隊が空に飛び立ってゆくとき、私の顔をアップで映してほしいのに監督はしてくれなかった、と嘆いてました。それは、若い命を戦争が奪ってゆく…その「怒り」の表情こそアップで撮ってほしいのに、と。石原氏はしっかりそういう岸さんの話を受け止めてました。

岸さんと石原氏は、この監督はいい監督なんだけど、師匠の影響なのかそういう手法で…とかいう話をしていました。
石原氏も「あなた主演なんだから言ったっていいよ」とか、僕も言おうかとか、そんなやりとりがあったように記憶してます。

つまり、有田さんが前で書かれたことは、自分の嫌いな石原氏の作品に感動してしまった自分を守ろうという、一種の「防衛本能」に過ぎません。私は、それゆえにおかしな解釈をされるのは、気持ちが悪い。

ですので、それは違うとここに指摘しておきます。
              
                             一都民

(引用終了)

因みに有田良生(よしふ)のヨシフはスターリンのファーストネームから取ったというから、石原慎太郎という名前に脊髄反射したのでしょう。

脊髄反射に思考は無い。

石原慎太郎と言う名前だけで見事なまでの思考停止。

やはりアレな人にはアホが多い。                    

 

◆俺は、君のためにこそ死にいけるhttp://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=6382

 

島唄:
http://shupla.w-jp.net/datas/flash/shimauta.html

 

新城卓http://www.worldtimes.co.jp/special2/hoppou06/060207-3.html

 

【付記】9:06

観て云うアホウに、観ず云うアホウ

同じアホなら観なけりゃ損。

「沖縄県民斯く戦ヘリ」さんに「俺は、君のためにこそ死にいける」の【予告・動画】のアップがありますので以下にリンクします。

◆【予告・動画】http://kakutatakaheri.blog73.fc2.com/

 

【追記・2】11:30

有田良生氏は「歴史的事実に忠実であるほどに、見るものに感動を与える」と原作・脚本に脱帽している。

沖縄出身の新城卓監督の次の言葉を、

沖縄の「プロ市民・平和活動家」に聞かせたい。

「右翼というのなら、どうぞ。史実をとらえありのままに描きました」

 

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特番「茂木誠さんと語る、激震!トランプ銃撃の余波とその闘い、その後の世界は・・・」松田政策研究所代表 松田学 ×作家・予備校講師 

2024-07-20 05:26:30 | 政治

特番「茂木誠さんと語る、激震!トランプ銃撃の余波とその闘い、その後の世界は・・・」松田政策研究所代表 松田学 ×作家・予備校講師 

特番「茂木誠さんと語る、激震!トランプ銃撃の余波とその闘い、その後の世界は・・・」松田政策研究所代表 松田学 ×作家・予備校講師 

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★★❷ゲンショウ、沖縄を歪めた戦後史の大ウソ

2024-07-13 13:35:38 | 政治
 

 

筆者は中学時代を米軍統治下の沖縄で過ごした。

当時、大東亜戦争の敵国アメリカを学校ではどのように教わっていたか。

アメリカを総大将とするGHQは、敗戦と同時に日本に乗り込んできて、自由と民主主義を、日本に指導するのがその目的の大半であった。

つまりGHQは自由と民主主義の本家・正義の連合国の一員であり、一方枢軸国の一員日本は、悪の独裁国の典型という構図だ。

■【戦果】をあげる

そこでもう一つ、学校で教わったアメリカ礼賛の言葉がある。フランクリン・ルーズベルト米大統領のニューディール政策である。

学校で教わったF・ルーズベルトの政策は、1929年以降世界を襲った世界大恐慌を、フランクリン・ルーズベルトがニューディール政策でアメリカを救ったというものだ。

 ニューディール とは、「新規まき直し」の意味で、救済(Relief)、回復(Recovery)、改革(Reform)の3Rを政策の理念として、アメリカ合衆国の経済を再建し、ドイツ・日本などのファシズム国家の台頭という危機への対応や社会主義国ソ連との関係の修復などの外交課題にあたろうとするものであった。

1939年の第二次世界大戦勃発後は、戦時体制へと転換していく。

ニューディール政策は多岐にわたるが、関連する国内主要法令は次の6項目に要約される。とは、「新規まき直し」の意味で、救済(Relief)、回復(Recovery)、改革(Reform)の3Rを政策の理念として、アメリカ合衆国の経済を再建し、ドイツ・日本などのファシズム国家の台頭という危機への対応や社会主義国ソ連との関係の修復などの外交課題にあたろうとするものであった。

■ニューディール政策の要点

銀行および通貨の統制:閉鎖された銀行の再開と通貨の管理。すべての銀行はきびしく連邦政府の監督を受け、健全な再建ができるところには貸し付けが行われ、救済不能な銀行は整理された(グラス=スティーガル法)。

また1933年4月19日には金本位制は停止され、金銀貨や硬貨は回収され政府に委託。合衆国政府当局の発行し管理する紙幣に切り替え、従来の紙幣と金銀貨を交換する権利は廃止された。

これで巨額の金銀をもつ銀行が持っていた合衆国の通貨発行への支配力はなくなった。


財政救済策:

財政難となった財産所有者および法人に対する連邦政府の貸付け。
農民の救済:小麦、とうもろこし、綿花、食肉などの膨大な余剰を従来のように外国に売りさばくと言うのではなく、また国内市場の拡大をはかるのではなく、生産を削減し、それによって生じた減収は補助金で償う、という農業調整法(AAA)の制定。個人の自由な経営に任され、国家はそれを統制してはいけないという従来の慣例を打破し、政府が農民の生産をコントロールしようとしたことが画期的である。


私企業の規制と奨励:

膨大な在庫と失業者に苦しむ産業界に対し、全国産業復興法(NIRA)を制定。建設活動に活気を与え労働者に購買力をつくりだす目的で、テネシー川流域開発公社(TVA)など公共土木事業に対して数十億ドルの支出を認め、また就業と生産と国内販路を増加促進するため商工企業を組織化し、需要に対する供給の調整、価格の協定を認めた。一方で、株式市場における投機の行き過ぎや大会社への融資の行き過ぎを抑える目的から証券取引委員会を設置した。
労働者の保護:全国産業復興法は雇主と被雇用者の団体協約権を規定したが1935年最高裁が同法の大部分を憲法違反と宣告、そこで議会は全国労働関係法=ワグナー法を可決し、団体協約の尊重を規定、その施行のために全国労働関係委員会が設立された。
社会保障の充実:要扶養や失業や貧困や老齢という特定国民層への社会保障を充実させようとして、数十億ドルの予算を立て、就業促進対策本部の設立し、1935年には社会保障法を制定した。<ビーアド『新版アメリカ合衆国史 』 P.444-447 などによる>
ニューディール政策の経済学上の理論的裏付けとなったとされるのがイギリスの経済学者ケインズの理論であった。しかし、1933年段階ではF=ルーズヴェルトは直接ケインズと話し合っているわけではなく、またケインズの主著であり、その理論を体系的に述べた『雇用・利子および貨幣の一般的理論』が発表されたのは1936年である。

              ★

 

■親川元帥とマッカーサー元帥

私が中学時代の頃、同じクラスに親川ゲンショウ(漢字の名前は忘れた)という友人がいた。

親川君は、あだ名は「元帥」と呼ばれていたが、どちらかというと目立たない少年で、あだ名をつけられても特に嫌な顔をする様子はなかった。

あだ名の理由は彼の名がゲンショウと発音するので、当時戦勝国の英雄として著名なマッカーサー元帥の語呂合わせでゲンスイ呼ばれていた。

親川君は口数も控えめで、少なくとも彼の言動が英雄とは縁遠いものであった。

 

■沖縄戦後史を歪めて集団自決の歪曲報道は『鉄の暴風』に始まる。 『鉄の暴風』が米軍のプロパガンダ本として米軍の厳しい検閲の結果だということを示す比較的最近の沖縄タイムスの記事がある。

<沖縄タイムス 1998年1月6日 朝刊 6面>

<翌日、座安さんと一緒に『鉄の暴風』の出版許可をもらいにライカムへ行ったことを覚えている。

現在のスーパーイオンライカム店は、米軍民政府のあったライカムの跡地に設立されている。上記記事の意味するところは、『鉄の暴風』の発刊にも米国の許可が必要であったことを示している。

                   ◇

これに加えて沖縄タイムスが自社の出版物で、しかも『鉄の暴風』のもう一人の執筆者・牧港篤三氏の談話として米軍の圧力について語っている。

こんな記述は珍しい。

沖縄タイムス発行の『沖縄の証言』(上巻)(沖縄タイムス編 1971年)が、『鉄の暴風』発刊の裏話を7頁にわたって掲載し、「米軍の“重圧”の中で」「三カ月かけて全琉から資料を集める」「書けなかった、ある一面」などの小見出しの下に、米軍の監視のもとに書かざるを得なかった執筆の内幕を書いている

1971年といえば沖縄が返還される一年前。

まさかその30数年後に『鉄の暴風』が原因となる裁判沙汰が起きようなどとは夢想もせずに、二人の執筆者は気軽に本音を吐いていたのだろう。

関連部分を一部抜粋する。

原稿は、翁長俊郎(元琉大教授)に翻訳を依頼し、英文の原稿を米軍司令部へ提出した。 当時の軍政長官シーツ少将が、感嘆久しくした、といううわさも伝わった。 にもかかわらず、しばらく反応はなかった。 あとでわかったのだが、米軍司令部で関係者が目をとおしたのち、「オレにもよませろ」と、ほかにも希望者が続出して許可が遅れたのだという。 米側にも公表だったわけである。>『沖縄の証言』(上巻)(303頁)

脱稿後翻訳して米軍に出版の許可を仰いでいることはこの記述で明らかである。

「鉄の暴風」(初版)の序文には、米軍のヒューマニズムが賞賛されている。 「この動乱を通し、われわれが、おそらく終生忘れ得ないのは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。 このことを特筆しておきたい」。 たしかに、戦場の各所で、多くの住民が米軍に救出され、米軍に暖かいイメージを抱いたとしても不思議ではない。 沖縄住民は日本に見離され、米国の被保護者に転落していたのだから。 
しかし、「鉄の暴風」が米軍のヒューマニズムを強調したのは、そこに出版の許可条件を満たすための配慮もなされていた、という時代的な制約を見落としてはならないだろう。>(304頁)

太字強調部分は多くの研究者が言及していたが、沖縄タイムス自らがこれを認めた記事は珍しい。

<1949年5月、具志川村栄野比で戦後のラジオ放送の第一声を放った琉球放送(AKAR)は、翌年10月1日の午後7時45分から、毎晩きまった時期に「鉄の暴風」-全文433ページを朗読放送した。 朗読担当者は川平朝清アナウンサー。 クラシックの音楽をバックに流して効果を出したという。>(305頁)

■「鉄の暴風」は沖縄版「真相はこうだ」

「鉄の暴風」のラジオ放送は、1945年(昭20)12月9日からNHKで放送された、ラジオ番組「真相はこうだ」を明らかにい意識していた。

「真相はこうだ」は、NHKの独自番組のように放送されたが、実際は脚本・演出までGHQの民間情報教育局が担当した。

内容は満州事変以来の軍国主義の実態を暴露するドキュメンタリーで、アメリカの都合で故意に歪曲された部分も少なくなかった。

ちなみに沖縄版「真相はこうだ」ともいえる「鉄の暴風」のラジオ朗読をした川平朝清アナウンサーは、ディスク・ジョッキーのジョン・カビラ、元日本マクドナルドマーケティング本部長の川平謙慈、そして俳優の川平慈英という3人の父親である。

<苦しかった執筆条件
牧港篤三談(執筆者の一人ー引用者注)

戦記執筆前に日本の戦記出版類をたいてい読み、太田君もトルストイの「戦争と平和」を精読したと言うことでした>(307頁)

「鉄の暴雨風」の問題の箇所「集団自決」を執筆した太田良博氏は、沖縄タイムス入社直前まで米民政府に勤務する文学愛好家であった。 

戦前からのベテラン記者であった牧港篤三氏が執筆の前に準備として目を通したのが日本の戦記物だったのに対し、文学青年の太田氏が精読したのは戦記の類ではなく、トルストイの「戦争と平和」であったという事実は「鉄の暴風」の性格を知る上で興味深いものがある。

米軍占領下の重ぐるしい時代でしたから、米軍関係のことをリアルに書けば、アメリカさんは歓迎すまい、といった、いま考えると、つまらぬ思惑があったのも事実です。 タイムリーな企画ではあったが、書く条件は苦しかった。>(307頁)

大江岩波集団自決訴訟で、「戦後民主主義」の呪縛に取り込まれた深見裁判長が、必死になって大江健三郎と岩波書店を守るための根拠となる『鉄の暴風』に誤った評価を与えても、執筆者の太田良博氏や、牧港篤三氏がその遺稿や談話で「『鉄の暴風』はウワサで書いた」とか「米軍重圧の思惑のもとに書いた」と吐露している以上、『鉄の暴風』に資料的価値を求める深見裁判長の判断は、逆説的意味で正しいという皮肉な結果になる。

つまり、書かれた昭和24年当時の沖縄が、戦記を書くにはウワサで書くのもやむえなかった時代であり、米軍のいやがることは書けなかった時代であった。このような歴史の真実を知るために、『鉄の暴風』の資料的価値は充分にあるということになる。

大江・岩波訴訟で判決のあった3月28日以降も、大江健三郎著『沖縄ノート』増刷されていることについて、原告代理人の徳永信一弁護士「大阪地裁判決を無視した行為であり、大阪高裁で行為の違法性が証明されるだろう」と語った。

■1月18日

マッカーサーの置土産

『鉄の暴風』は、後に沖縄タイムス社長になり豊平良顕氏の監修で、戦前からのベテラン記者牧港篤三、そして米軍民政府に勤務していた太田良博の3人で執筆することになった。それまで一読者に過ぎない太田は『鉄の暴風』の執筆を機タイムス社に入社した。
 
同書の執筆開始以来、取材三カ月、執筆三カ月の予定で、春から夏にかけて突貫工事で脱稿した。
当時、タイムス社は那覇市崇元寺の向かいにあって、社屋はカマボコ型トタン屋根だった。編集局と隣り合わせた総務局のかたすみで、ひとつの机をはさんで、牧港と太田が向き合って、取材した資料を整理した。勿論現在のようなクーラーや扇風機さえない当時、夏の炎熱がトタン屋根にあたるため、部屋の中は、むし風呂のようであった。
 
当時トタン屋根の校舎で授業を受けた、沖縄の中学生は皆むし風呂地獄を味わっている。
年長者の豊平と牧港は、沖縄戦の体験者で、戦記編纂に対する熱意も体験から出たものだったが、体験者でもなければ記者としては素人の太田は、一度も現地に取材することも無く、なかば両氏の熱意に引きずられたような形であった。
執筆が終わると、原稿は全部アルバイトに清書させていた。
 
また、英文の全訳をアメリカ軍政府に提出する必要があったので、琉球大学の翁長俊郎に依頼して翻訳させた。当時、あのていどの本を出版する設備が沖縄にはなかったからで、結局、朝日新聞(東京)の刊行となった。
それには「現代人による沖縄戦記」というサブ・タイトルがついていた。
 
それから、ちょうど二十年を経た一九七〇年、沖縄タイムス社から『鉄の暴風』第二版が出ている。第二版では、初版の副題はとりのぞかれて、単に「沖縄戦記」としてある。第二版は同社で印刷製本したようだが、東京の朝日新聞で刊行された初版とくらべると、紙質といい印刷、製本といい、はるかによく、時代の流れを感じさせる。
 
沖縄タイムス編著『鉄の暴風』が沖縄戦を描いた最初の出版物と言われるが、
『鉄の暴風』がでる前に、すでに不戦兵士・市民の会の古川成美著の『沖縄の最後』がでていて、これが沖縄戦に関する最初の戦記だった。

そして古川 成美著『沖縄の最後』こそが『鉄の暴風』のネタ本であった。

本職の牧港記者は執筆前に「戦記もの」に目を通していたが、記者としては素人の太田が執筆前に目を通していたのはトルストイの「戦争と平和」などの文学作品や、吉川成美著『沖縄の最後』を読んでおり、特に『沖縄の最後』については「文章が美しく、映画のシーンを見るような鮮やかな印象を与えられた場面がいくつかあった」などと文学青年の心情を告白していた。

つまり戦前からのベテラン記者牧港篤三をさしおいて、それまで米軍民政府の職員だった文学青年・太田良博に執筆を委ねた真意を、後に『集団自決の真実』を著した本職の作家曽野綾子は、「戦記というより文学作品」などと褒め殺しで、すでに見破っていた。さらに曽野は太田の対談で『鉄の暴風』の表現を「戦記というより講談の類とこき下ろした。

英雄的であったのではない。元帥と呼ばれたら何のためらいもなく返事をしていたほどだ。

その当時のアメリカの大統領はアイゼンハワーだったが、戦後わずか十数年しかた経っていない米軍統治下の沖縄ではあったが、かつての敵国アメリカの大統領アイゼンハワーの名は知らなくても、マッカーサー元帥の名を知らぬ者は居なかった。それ程マッカーサーの勇名は沖縄の少年たちの心をとらえていた。

マッカーサーが沖縄の少年にカッコよく映っていたのは、彼がGHQの最高司令官として軍用機バターン号で厚木飛行場に降り立った時の映像が、沖縄の少年の脳裏に英雄のように刷り込まれていたのだろう。

■マッカーサーと覇を競った従軍記者

想い出ついでに、当時の沖縄の中学生が英雄として尊敬した人物を挙げてみよう。沖縄戦で米海兵隊に従軍したアーニーパイル記者のことだ。

アーニーパイルは、沖縄に上陸して後、進軍の途中で見た沖縄の村の様子についてはこう書いている。
 「実際に見た沖縄は、アメリカの大抵の土地とさして変わりなかった。海兵隊にとってはここ三年見てきたどこよりもアメリカに似ていた。気候も熱帯というよりも温帯的で、植物もそうだった。海岸にはたぶんパンダナスの茂みと思われる熱帯植物もあるにはあるが、枝を水平に張っている樅の類が豊富に生えている。私のいた隊が最初の2日間に通過した村はきれいに耕されていた。海岸から小さな段々畠がなだらかに延びているところなどインディアナ州の、ものみなが乾燥しはじめて褐色を帯びる晩夏のころをまざまざと思わせた。」
 

4月16日、アーニーパイルは沖縄での最後の取材をするために、米海兵隊第77師団とともに伊江島に上陸した。

2日後の18日、アーニーパイルは連隊の指揮官とジープに乗って前線に向かった。
村はずれにさしかかったとき、道路脇の丘に隠れていた日本兵から機関銃の狙撃を受けた。ふたりはジープから転がり出て、傍らの溝にうつぶせになった。

やがて、辺りが静かになったので、様子を見ようとパイルが頭をあげたとき、再び銃弾を受けた。銃弾は鉄かぶとの縁の下から、アーニーパイルの左こめかみを撃ちぬいた。
従軍記者アーニーパイルは、こうして戦場で命を失った。44歳だった。

「同僚ならびに兵隊からも将軍からもひとしく愛された従軍記者アーニーパイルは、今朝日本軍の機関銃弾に左こめかみを貫かれ、ついに戦死した。アフリカから沖縄にいたるまでのあらゆる戦線から報道を書き送った有名な寄稿家の死は午前10時15分、司令部から約一哩前方であった。(琉球諸島、伊江島司令部にて)」(「ウルマ新報」4月18日発のAP電)


アーニーパイルが犠牲になった3日後、伊江島は完全に米軍の手に落ちた。

その後、彼が戦死した場所に墓標が建てられ、沖縄戦終了後の7月1日、米軍によって除幕式が行われた。

碑には、こう記されている。

「第77歩兵師団はこの地で、戦友アーニーパイルを1945年4月18日に失う」

 

今では沖縄県人でさえアーニーパイルの名を記憶している人は少ない。

ただ、内外の観光客で賑う現在の国際通りの真ん中に位置するテンブス館に辛うじてその名を留めている。

現在の那覇市テンブス館界隈に、「アーニーパイル国際劇場」という映画館あった。 そこから、国際通りの名前がついた。

当時は何もなかった国際通り周辺に、戦後の人々に娯楽を楽しんでほしいとの事から米軍政府と琉球政府の協力で民間会社がこの劇場を建設し、アメリカの従軍記者で第二次世界大戦中に沖縄地上戦で亡くなったアーニーパイルの名前を付け、「アーニーパイル国際劇場がある通り」から「国際通り」と呼ばれるようになった。

国際通り(向かって右方向が現在の県庁方面)アーニーパイル国際劇場

日本は戦争中は鬼畜米英と言ってた敵国の総大将マッカーサーが復讐の年に燃えて日本占領を開始したが、マッカーサーの巧妙な占領政策では世界に類を見ないほど成功を収めた。

日本国民はマッカ―サーを、戦前の軍国主義日本から日本を解放しに来た自由と民主主義の伝道師として敬意の眼差しで仰ぎ見た。 

そして、マッカーサーがトルーマン米大統領により解任され日本を去る時は日本国民がその占領政策に謝意を示した。

「マッカーサー様、ありがとう」と約40万通の 感謝の手紙を送り、マッカーサーに日本の首相に成って欲しいと懇願する国民もいたくらいだ。

さて沖縄の中学校で親川君が親川元帥と呼ばれていたころ、学校の授業では日米戦争の事をどのように教えていたか。

米軍は『鉄の暴風』を出版する前に、米軍の出版許可を必要とし、手始めにラジオ放送による川平アナウンサーの朗読で、一般県民の洗脳に取り掛かった。

マッカーサー率いるGHQの占領政策は、公職追放に絡む日本の「非軍事化」であった。だが切り札はもう一つあった。

それは民間情報教育局(CIE)が担った「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」だった。

これは徹底的な言論統制とプロパガンダ(政治宣伝)で日本人に贖罪意識を植え付けるという非民主的な策謀だった。

言論統制の象徴である「新聞報道取締方針」は戦艦ミズーリでの降伏調印式から8日後の昭和20年9月10日に発せられた。GHQへの批判はもとより、占領軍の犯罪・性行為、闇市、飢餓-など30項目が削除・発禁対象として列挙された。

GHQは手始めに9月14日に同盟通信社(共同、時事両通信社の前身)を翌15日正午まで配信停止とし、事前検閲を始めた。9月18日には朝日新聞を2日間の発禁処分にした。原爆投下を批判する鳩山一郎(後の首相)の談話を掲載したためだった。これ以降、各紙はGHQの礼賛記事を競って掲載するようになった。

 
そう、GHQの公職追放は、沖縄の中学生にまで「マッカーサーは正義の味方」という情報を刷り込まれていた。

20年12月8日、日米開戦の日に合わせて新聞連載「太平洋戦争史」(計10回)が全国の日刊紙で始まった。中国やフィリピンで行った日本軍の残虐行為を断罪する内容で、GHQは連載終了後、文部省に対して太平洋戦争史を教科書として買い取るよう命じた。

■「真相はこうだ」の沖縄版が「鉄の暴風」だった。

12月9日にはNHKラジオ番組で「真相はこうだ」の放送を始めた。反軍国主義の文筆家が少年の問いかけに答える形式で戦争中の政治・外交を解説するこのシリーズは2年間も続いた。

CIE(戦後設立、CIAの前身)の手口は巧妙だった。「誰が日本を戦争に引きずり込んだのか」という問いには「人物を突き止めるのは不可能。責任者は日本人自身だ」と答えて「一億総懺悔」を促した。自らの言論統制は巧みに隠しながら、戦時中の検閲や言論弾圧を糾弾し、開戦時の首相、東條英機に怒りの矛先が向くよう仕向けた。

放送当初は懐疑的・批判的な日本人も多かったが、情報に飢えた時代だけに聴取率は高く、次第に贖罪意識は浸透していった。

■逆コース

ところが、昭和23年に入るとCIEは方針をジワリと転換させた。2つの懸念が出てきたからだ。1つは広島、長崎への原爆投下への憎悪。もう1つは、東條英機が東京裁判で主張した「自衛戦争論」だった。この2つに共感が広がると日本人の怒りは再び米国に向きかねない。

こう考えたCIEは「侵略戦争を遂行した軍国主義の指導者層」と「戦争に巻き込まれた一般国民」という構図を作り出し、批判をかわすようになった。宣伝工作や検閲も日本政府に代行させるようになった。

文芸評論家の江藤淳が『閉された言語空間』でGHQの言論統制を暴いたのは戦後30年以上たった昭和50年代後半。ジャーナリストの櫻井よしこが『真相箱の呪縛を解く』でさらに詳しく告発したのは21世紀に入ってからだ。WGIPは戦後70年を経た今もなお日本人の歴史観を束縛し、精神を蝕んでいる。

■沖縄の公職追放

GHQ司令長官マッカーサーは、日本で行った「公職追放」は沖縄では実施しなかった。ところが後でわかったことだが、実は沖縄でも「公職追放」の影響を受けていたが、次の理由で「公職追放」の実施を免れた。

マッカーサーは沖縄を永久占領し、米国の領土にする予定であった。

マッカーサーは沖縄を永久占領するため、これまで米軍統治下にのみ流通していたB軍票を米国本土と同じドルに切り替えた。

■「コーンパイプの煙幕」が半世紀後の中学生の精神に食い込んでいった。

マッカ―サのコーンパイプの催眠効果は沖縄の中学生に持続していた。
「コーンパイプの魔のけむり」が、ボディブローのように効いててきた時--アメリカという名の巨大な生き物が、日本の精神文化の隅々にまで浸透し、この島国の社会全体を被いつくしてしまった時でもあったのだ。

コメント (7)

天皇メッセージ、沖縄タイムス阿部記者の歪んだ歴史認識、

2024-07-10 15:59:52 | 政治
 

 

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阿倍岳記者の歪んだ歴史認識、天皇メッセージ

2022-09-07 15:06:58 | 政治
沖縄タイムス紙面掲載記事

[ファクトデマ チェック]天皇文書の解釈「誤り」 「沖縄の共産化防ぐ事は大御心」 米の占領継続「日本守る」

2022年9月7日 05:00有料

 敗戦後、昭和天皇が米国側に沖縄の占領継続を提案した「天皇メッセージ」を巡り、SNSで「沖縄の共産化を防ぐ事は大御心(おおみこころ)だった」と主張する投稿や動画が広がっている。しかし昭和天皇が懸念したのは「日本の共産化」で、主張は「誤り」だ。

 米公文書によると、昭和天皇は1947年9月、側近を通じて連合国軍総司令部(GHQ)にメッセージを伝えた。「ロシア(ソ連)の脅威」に言及し、占領継続が「米国の利益になり、日本にも守りをもたらす」という内容だった。

 文書があったことは79年に判明した。沖縄では昭和天皇が自らの地位を守るために沖縄を米国に差し出した、との反発がある。

 ツイッターでは逆に昭和天皇が沖縄のことを思い、共産化を懸念していたという趣旨の文章や動画が出回っている。知事選の候補者名を記した投稿は千回以上の「いいね」や「リツイート」を集めている。

 本紙がNPO「ファクトチェック・イニシアティブ」(FIJ)のガイドラインを参照してファクトチェックした。(編集委員・阿部岳

「沖縄の共産化を防ぐ事は大御心」は誤り 米の占領継続を提案「...の画像はこちら >>
「沖縄の共産化を防ぐ事は大御心」は誤り 米の占領継続を提案「天皇メッセージ」解釈【ファクトチェック】
ファクトチェックの判定基準

 

               ★

政府要人が、ある場所で演説をする。その中のある発言が疑念を呼ぶ。一次データを確認したところ、発言内容は事実に反している。発言は「虚偽」と認められる――現在のファクトチェックはこのようなスタイルが一般的だ。

公人による公的な場での発言には説明責任が伴うため、その内容の真偽をデータに基づいて確かめていくことは、ジャーナリズムが担うべき役割でもある。

ジャーナリズムが担うファクトチェックには透明性が不可欠であり、「不偏不党」「情報源の透明性」「資金と組織の透明性」「手法の透明性」「オープンで誠実な訂正」という5つの「倫理規範」を掲げている。

ところが沖縄タイムスの場合、「偏向報道」を自認する阿部岳記者がファクトチェックを行うというのだから呆れてしまう。

沖縄では昭和天皇が自らの地位を守るために沖縄を米国に差し出した、との反発がある。

勝手に沖縄の代表者を気取っても迷惑だ。これこそ阿部記者の歪んだ歴史観そのものではないか。

そもそも、「中立報道している気はない」と公言する人物が、「天皇メッセージ」というデリケートな問題に、沖縄を代表する様な意見を述べても県民は大迷惑である。

 

雑誌『正論』2013年7月号に掲載文 2022-05-09

              ★

雑誌『正論』2013年7月号に掲載文の引用

「天皇メッセージ」の悪用に反駁せよ 江崎 孝

「屈辱の日」を生んだのは昭和天皇!?

 

 サンフランシスコ講和条約で、日本は米国の占領から解放され独立を果たした。 ところが、沖縄側から見ると「沖縄を米軍統治下に置いたままの独立」は屈辱的であり、講和条約が発効した1952年4月28日を、沖縄メディアやサヨク団体は「屈辱の日」と呼称する。

沖縄の祖国復帰50周年目の5月8日付沖縄タイムス・こども版(わらびー)には、次のような記事が掲載された。

沖縄タイムスは毎週日曜日に、「タイムス わらびー」と題する子供向け週刊新聞を発行している。(「わらび」とは子供(童ーわらべ)の沖縄方言)

5月8日付沖縄タイムス・「わらびー」の一面トップはこうなっている。

「4・28」 どんな日 なぜ特別?

【豊見城伊良波中学校で 平和学習】

敗戦日本「主権回復の日」

沖縄 米国支配「屈辱の日」

記事の内容は、左翼思想に被れた教員が「平和学習」と称する反日教育をしている様子を報じている。

一部抜粋してみよう。

≪「4・28は日本にとって国際社会へ復帰した『主権回復の日』です。しかし沖縄は日本から切り離され、米国の統治下に置かれて、アジアの戦略基地としての役割が強化されたことから『屈辱の日』ともよばれています。」

総合学習の時間。教頭の内山直美さん(51)はそう説明しました。社会科教師の内山さんは2012年から、4・28の特設授業を行ってきました。日本に在る米軍専用施設の約70%が集中する沖縄。 いまも続く問題を理解するためには、歴史的背景を知る必要があると考えたからです。≫

なるほど、自分の苔むしたイデオロギーを無垢な子供たちに押し付けるのが「平和教育」なら、子供たちこそいい迷惑であろう。

沖縄の左翼勢力が「主権回復の日」を「屈辱の日」を呼称するのは言論・思想の自由を認めた憲法の精神からいえば、特にことを荒立てる必要もない。

仲井真元沖縄県知事は、次のように述べている。

≪「屈辱の日」というのは一般県民の感覚から懸け離れたおかしな表現だ。これは一種の恨み節でしかない。当時の沖縄の新聞は、一斉に返還というわけにはいかないから、それで良しとしようと理解を示す論調だった。≫

仲井真氏は、「屈辱の日」どころか、沖縄が日本の一員になったことを実感した良い思い出はいくらかある、として平成5年の全国植樹大会の事を回想している。 そして「大田昌秀革新県政のもと副知事を務めていた当時のことだが、県民がこぞって日の丸の小旗を振って天皇・皇后両陛下を迎えた姿は感慨深い」と語っている。(2022年5月7日付「世界日報」)

仲井真氏が回想するように、主権回復の日は、当時の沖縄の新聞でさえ「一斉に返還というわけにはいかないから、それで良しとしよう」と理解を示す論調だった。

ところが、「屈辱の日」に絡めて「昭和天皇が保身のため沖縄を米国に売り渡した」と言う説に対しては看過するわけにはいかない。

ご自身が反論できない立場の昭和天皇を呪詛する「天皇メッセージ」がキーワードになっている点で、国民として反駁する必要に駆られるのだ。

雑誌『正論』2013年7月号に寄稿した拙論「『天皇メッセージ』の悪用に反駁せよ」に一部加筆の上、「天皇メッセージ」について解説してみよう。

天皇メッセージとは、昭和22年9月、宮内庁御用掛かりだった寺崎英成を通じて、GHQ政府顧問ウィリアム・シーボルトに伝えられたとされる琉球諸島の琉球諸島の帰属問題についての昭和天皇の”メッセージ”である。 「マッカーサー元帥の覚書」と題された文書として残され、沖縄の祖国復帰7年後の昭和54(1979)年、進藤栄一筑波大学助教授(当時)が米国の公文書館で発掘し、雑誌『世界』で発表した。

 

覚書には、こう書かれている。

「天皇のアドバイザーである寺崎英成氏が、沖縄の将来にに関する天皇の考えを伝える目的で、約束を取った上で訪ねてきた。/寺崎氏は、米国が沖縄とその他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると述べた。天皇の意見ではそのような占領は、アメリカの利益にも日本を守ることにもなる。天皇は、ロシアの脅威や、占領終了後に右翼や左翼が台頭し、ロシアに日本の内政に干渉する口実を与える”事件”を起こすことを恐れる日本国民の広範囲な承認を得ることが出来ると考えている。/さらに天皇は、沖縄(および要求される他の諸島)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残した形で長期の租借=25年か50年、あるいはそれ以上の擬制(フィクション)の上で行われるべきだと考えている。 天皇に拠れば、この占領方式は、アメリカには琉球列島に恒久的企図がないことを日本国民に納得させるだけでなく、他の国々、特にソビエト・ロシアと中国が同様(占領)の権利を要求すること拒むことになるだろう」(原文は英語、訳責・江崎)

沖縄の左翼やメディアは、この「天皇メッセージ」のために、沖縄は講和条約発効後もアメリカの施政権下に置かれ続けたと主張している。

たとえば、4月28日付琉球新報は社説で「4・28が(沖縄)県民にとって「銃剣とブルドーザー」によって強権的な土地接収、過酷な米軍支配の源流であることを軽く見て、日本の独立を祝う無神経さ憂う」と主権回復記念日を設けた政府を批判したうえで、「沖縄分離の背景として、昭和天皇が米軍による沖縄の長期占領を望むと米側に伝えた『天皇メッセージ』が影響したとされる」と指摘。

石原昌家沖縄国際大学名誉教授は3月20日付同紙で「『主権回復の日』で祝うという安倍首相と、その首相を支持する約7割の日本国民。人間の尊厳を奪っておきながら、安倍首相に取って沖縄の人の感情は全く念頭にない。ただ沖縄というものを日米軍事同盟の安全保障の軍事基地としか認識していない。対日講和条約第3条は昭和『天皇メッセージ』と全く同質同根だ。昭和天皇が沖縄を『軍事占領し続けることを希望』した通りに、米軍の実質的な占領が続いた」と「天皇メッセージ」を糾弾している。

5月15日に発足した「琉球民族独立学会」中心メンバーの友知政樹・沖縄国際大学准教授もQABテレビに出演し、講和条約と「天皇メッセージ」の関係を問われこう述べた。「この言葉(天皇メッセージ)によって(沖縄は)斬り捨てられた、それによって「屈辱の日」だというふうに捉えられがちですけども、切り捨てられた、置いて行かれたとの屈辱ではなくて、日本に強制的な施策をかぶせられてしまったという意味合いで非常に屈辱と考えています」。

学者やメディアだけではない。沖縄県高等学校障害児学校教職員組合(沖教組)は、講和条約が発効した「4月28日」を高校生に周知徹底させるためと称し、資料「『4・8』について考える」と題する文書を県立高校に配布した。資料では、1952年4月28日を「沖縄の米軍統治が合法化された『屈辱の日』と位置づけ、祖国復帰運動のきっかけとなった日と紹介。政府が4月28日に「独立を記念する日」とした式典を開くことについて新たな『屈辱の日』。沖縄が切り捨てられた日に式典を開くねらいは何なのか考えてみましょう」呼び掛けた。

まるで政治ビラを彷彿させる資料は「4・28について考える」「主権回復の日? 主権喪失の日?」というタイトルが付され、祖国日本への呪詛が綴られている。

≪1949年5月、米国政府は沖縄を日本本土から切り離し、長期的に保有して基地の拡大を図る政策を決定した。これによって沖縄を「太平洋の要石」に変貌させられることになる。/だが、この政策は、米国が一方的に日本に押し付けたものではなかった。/琉球諸島の長期保有をアメリカ側に求めた「天皇メッセージでも明らかなように、日本側の意図が強く働いていたのである。/日米両政府は、日本の独立によって平和憲法に基づく非軍事化と民主化を実現するため、沖縄に軍事基地を押し付けたのである。》

新城俊明昭・沖縄大学客員教授が作成した同資料には「天皇メッセージ」の意図について、「沖縄を米兵に提供することで、天皇制の護持をはかろうとした」と解説されている。

■当時の日本が置かれていた危機的状況

では、日本の講和条約締結や「天皇メッセージ」は、沖縄メディや地元識者などが喧伝するように、沖縄を犠牲にしたりする意図でなされたのか。日本は沖縄を切り捨てることにより主権を回復したのか。

結論から先に言えば、否である。彼らの主張は、悪意に満ちた曲解と言わざるを得ない。

まず、「天皇メッセージ」は、天皇自ら「延命のため沖縄をアメリカに売り渡す」と書いた文書だと誤解している人が沖縄には多い。 筆者の周囲にも終戦当時既に米軍占領下にあった沖縄が米軍の米国統治になったのはやむを得ないとしても、「天皇自ら延命のため沖縄を売り渡す」と書いたのは許せないと息巻く人もいるが、「天皇の密書」が存在するわけではない。 寺崎が昭和天皇の会話の中から沖縄についての陛下の「思い」を斟酌してシーボルトに伝え、それがシーボルトの手紙と言う形でワシントンに伝えられたのだ。

「天皇メッセージ」が伝えられたとされる昭和22年前後の情勢を振り返ってみよう。

国際的には、昭和21年(1946年)には元英国首相チャーチルが「鉄のカーテン」演説を行い、東西冷戦が幕を開けていた。冷戦はアジアでも激化し、中国では国共内戦で毛沢東率いる中国共産党が次第に優位になり、24年に中華人民共和国が成立。朝鮮半島では23年9月に金日成の北朝鮮が成立し、25年には朝鮮戦争が勃発した。

国内では進駐当初のGHQの「民主化」方針や戦争への反動で共産党や社民党、その傘下の労組が勢力を伸ばし、22年2月1日には空前の規模のゼネラル・ストライキ(「2・1ゼネスト」)は計画された。GHQの命令で中止されたものの、強行されていたら政権は倒れ、共産革命が起きたと言われていた。5月には社会党の片山内閣も成立した。まさに「革命前夜」であった。国内には、アジア共産化への野心をむき出しにして軍事力を用いることも厭わなかったソ連や中国共産党に呼応する勢力がいた。

このような状況下、敗戦で丸腰状態になったわが国は、経済的にも軍事的にもアメリカの支援なくして独立を果たすことも、東側陣営や国内勢力による共産主義の脅威を防ぐこともできなかった。戦前との価値観が180度変わったと言われる日本国民は新憲法の謳う戦争放棄や平和主義、「平和の府・国連」へのバラ色の夢に浸っていた。国民も政治家たちの関心も、食うや食わずの経済的国内事情に集中し、国際情勢にまで真剣に気を配る余裕はなかった。そんな中、わが国の安全保障に一番気を配ったのが昭和天皇であった。

 先に引用した「天皇メッセージ」でのロシア(ソ連)中国への言及が、その証左である。

近代史の専門家である秦郁彦氏は「天皇メッセージ」などに見られる昭和天皇の情勢分析について、その著書『昭和天皇五つの決断』(文芸春秋)で、次のように述べている。

「23年早々という早い時点で、アメリカのアジア戦略の動向を正確に探知して、適切な情勢判断をした天皇の洞察力には脱帽のほかはない

■外交文書が語る日本側の外交努力

アジアの冷戦が激化する中、アメリカが共産主義陣営の軍事的膨張の防波堤として重視したのが沖縄だった。

昭和26年(1951)年1月末から2月にかけ、アメリカが特使として派遣した国務省政治顧問のダレスと吉田首相との間で講和をめぐって話し合いがもたれたが、領土問題に関する米側の態度は、極めてシビアであった。アメリカは沖縄、奄美、小笠原について信託統治領にすると主張し続けた。

当時の日米両国の力関係を言えば、一方の日本は、首都東京をはじめ地方の各都市も空爆により焦土と化した軍備も持たない米軍占領下の敗戦国である。両者の力の差は歴然としており、日本側が、アメリカの要求を拒むことは極めて困難だった。現在の日米関係では、首相には大統領が対応するのが外交慣例だが、当時吉田首相と講和条約について話し合ったのはトルーマン大統領でもなければ国務長官でもなく、公的役職の無いダレスだったこと一つとっても、そのことがよく表れている。

それでも、吉田政権には沖縄を犠牲にして本土だけで主権を回復しようという意図はなかった。

発言権の強い米国との条約締結交渉に際し、微力ながら必死に抵抗した外務省の苦労話が、平成13(2001)年、に公開され、翌年刊行の『日本外交文書-平和条約の締結に関する文書』に記されている。

それまでの交渉で沖縄の統治を譲らない米側に対し、外務省は沖縄に対する案を一部変更した。外交官出身の吉田が、自ら指示して「バーミューだー方式による租借も辞さない」という一文を、アメリカ側に伝える外交文書「わが見解」に付け加えさせたのだ。

「バーミューダー方式」とは、1940年にイギリスの植民地バーミューダーに米軍基地を置くため、イギリスから99年間租借した協定を指す。 当時事務方だった西村熊雄条約局長は、この吉田の態度について、のちにこう回想している。「(沖縄を)『租借地』にして提供してもいいから信託統治にするのは思いとどまってほしいと言われる総理の勇断にいたく感激した」

だが、吉田に対してダレスは率直にこう述べている。

「国民感情はよく解るが、(この問題は)降伏条項で決定済みであって…セットル(解決)したとして考えて貰いたい」

このダレスのすげない態度に接した日本側は、次善の策を講じて「沖縄の完全分離」に抵抗を示すことになる。 「肉を切らせて骨を断つ」にも似た捨て身の策である。

米側の信託統治構想を拒否するには困難と判断した𠮷田は「信託統治を提案されても辞さず」との覚悟を固め、それに異論を挟まないと断ったう上で、次の条件などを米側に求めていくのである。

(1)沖縄住民の日本国籍確保(潜在主権)

(2)バーミューダー方式(分離ではなく期限付き租借)

(3)本土と同様な教育方針の継続(文部省教科書の使用=日本語教育、無償措置法の適用)

(4)本土と沖縄の経済関係の維持(援護法の優先的適用)

先の石原昌家・沖縄国際大学名誉教授の言葉を借りれば、この吉田首相の条件提案こそ「天皇メッセージ」と「同質同根」という。 

「天皇メッセージ」のポイントは、「潜在主権」、つまり日本の主権を残したまま米国に統治を委ねることである。

親子に例えると、子(沖縄)を育てる経済力のない親(日本)が、金持ち(米国)に、戸籍はそのまま一時里子に出すようなものであり、戸籍も移す養子縁組(米国領にすること)とは根本的に異なる。

昭和26(1951)年9月8日に署名された講和条約では、領土問題はつぎのように第3条に記された。「日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする」

歴史にIFはないというが、仮に米国が、日本の潜在主権を認めず沖縄を「米国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におく」と国連に提案していたら、どうなっていたか。

沖縄はいずれ、現在のグアムやプエルトリコのような米国の自治領に移行することは必至であった。

ところが不思議なことに米国は、喉から手が出るほど領有権を望んだ沖縄の信託統治を提案しなかった。日本の主権を残したまま、統治権のみを継続したのだ。まさに昭和天皇の「メッセージ」の通りになったのだ。

■「天皇メッセージ」と独立論、そして中国の野望

昭和27(1952)年、4月28日、講和条約発効の日、当時の沖縄住民は日の丸を掲げて祖国日本の独立を祝賀した。祖国日本が主権を回復してこそ、沖縄の祖国復帰が始まることを承知していたからだ。日本が主権を回復したからこそ、20年後の「5・15 復帰の日」は実現したのだ。

約60年前の講和条約発効の日の沖縄の状況を、今年(2013年)4月20日付琉球新報がこう伝えている。

《対日講和条約が発効した1952年4月28日、県内の新聞は「祖国の独立を祝う」と日本が国際社会に復帰することを歓迎する一方、沖縄の「日本復帰を確信する」との比嘉秀平主席のメッセージを掲載した。当時は日本に沖縄の潜在主権があるから、いつか日本に帰れるという安心感があったから、祖国の独立を喜ぶことの方が大きかった。元琉球新報の記者下地寛信さん(87)は振り返る。(略)52年当時、大学生で、琉球新報東京支社でアルバイトの記者をしていた親泊一郎さん(81)は「当時沖縄は里子だという言葉がよく使われた。親に帰るときは立派に成長して帰り、親に喜ばなければいかん、それまでじっと我慢して頑張っていこう。そんな雰囲気が有った」と話した。

当時筆者は10歳だったが、おぼろげな記憶をたどると、学校では先生が「祖国日本が独立したので、沖縄の祖国復帰も近い」といった喜びの言葉で説明した。 

「現代の感覚で過去を判断すると史家は歴史を過つ」といわれる。

「天皇メッセージ」や講和条約の功罪を問うものは、終戦直後の日本を取り巻く国際情勢、即ち「米ソ冷戦の幕開け」と日米両国の圧倒的な国力及び交渉力の格差を思慮にお入れなければ、その解釈を誤ってしまう。

秦郁彦氏も驚嘆するように、終戦直後の社会党政権(片山内閣)下で、当時の社会情勢では政府の誰もが思いも及ばなかった「『潜在主権のまま』で、いつかは祖国に帰る日のために米国に統治を委任する」という方法を思いつかれた昭和天皇の判断力の確かさは「天皇メッセージ」というより、「昭和天皇の大御心(おおみごころ)と表現したほうが的を射ている。

講和条約締結の結果、沖縄は米軍の統治下になったものの、「潜在主権」による期限付き租借(リース)という奇手で、米国の「信託統治の国連提案」に牽制を掛けたことは、まぎれもない歴史の事実である。

「日本の主権を残した(潜在主権の)まゝリースする」という天皇メッセージの意をサンフランシスコ講和条約に反映させ、アメリカに認めさせたことが、国際的に弱い立場の当時の日本が出来た精一杯、かつ最善の方策だったのだ。

なお、沖縄では「天皇メッセージ」の意図について、沖縄高教組の資料のように「天皇制の護持をはかろうとした」とか「天皇自身の延命のため」など不遜極まりない見方をする者もいる。これらの大半は、シーボルトが「覚書」を国務省宛てに送る際にそえられた手紙の次のくだりを根拠にしている。

《a hope which  undoubtedely is largely based upon self-interest》

だが、そもそも、前述したとおり「天皇メッセージ」とは昭和天皇直筆のメッセージが存在するわけではなく、寺崎とシーボルトの間に交わされた伝聞をシーボルトがまとめた過ぎない。 とくにこの個所はシーボルトの主観に基づく表現になっていて、昭和天皇の御真意を反映しているものとは言えないのである。

山本七平著『昭和天皇の研究』によると、昭和天皇はマッカーサーに「(戦争の)全責任は私にある。という意味のことを言われた」とされる。 「『戦争はすべて私に責任があるから、戦犯の追及をやめ、処刑するなら私一人にして他は免訴して欲しい。そして国民に責任はないから飢えさせないで欲しい』の意味であろう」(同書)。

”self-interest”の意味を敢て考えれば、反日サヨクの批判する「自身の延命」などではなく、戦犯や国民の利益を考えたまさに「大御心」と訳した方が的を射ていているだろう。

沖縄では5月15日、「琉球民族独立総合研究会」が設立され、一部の左翼学者が日本からの独立を煽っているが、これに呼応したように、中国も沖縄に対する野望を露わにし始めた。 8月8日の中国共産党機関紙「人民日報」が「歴史上(帰属が)未解決の琉球問題について再び議論できる時が来た」との論文を掲載し、同紙系列の「環球時報」は11日の社説で、沖縄の独立勢力を「育成すべきだ」とまで言い出している。

沖縄が独立して日米同盟力という対中抑止力がなくなれば、東シナ海のみならず西太平洋の軍事支配を狙う中国の絶好の餌食になる。 その意味で「天皇メッセージ」を悪用して日本への反感を煽る者たちは、まさに中国と連携する「独立勢力」ではないか。 知識も判断力もない高校生たちに「天皇メッセージ」を曲解して教え、「日本憎し」の感情を刷りこむ「反日洗脳教育」も「独立勢力の育成」そのもののように思えてならないのである。

【補記】米軍統治下の沖縄の教育に関しては、文部省(当時)は教科書で祖国日本と同じ教育を施した他に、政府は沖縄の学生だけに限る選抜試験を行い、全国の国立大学に国の負担で受け入れている(国費留学制)。ちなみに仲井真弘多県知事はこの国費留学制度の恩恵で東京大学を卒業している。

【おまけ】

天皇メッセージ”

沖縄公文書館は、米国国立公文書館から収集した“天皇メッセージ”を公開しました。(平成20年3月25日)

同文書は、1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモです。【資料コード:0000017550】

内容は概ね以下の通りです。
(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。
メモによると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています。1979年にこの文書が発見されると、象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関わりを示す文書として注目を集めました。天皇メッセージをめぐっては、日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や、長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり、その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。
≫PDF画像(2頁)(226KB)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

琉球新報 2015年4月28日

 

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【武田邦彦】※緊急配信※ 円安どころではない!日本の大企業に恐ろしい事態が起きています!!

2024-07-08 14:49:40 | 政治

【武田邦彦】※緊急配信※ 円安どころではない!日本の大企業に恐ろしい事態が起きています!!

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【メディアの嘘がバレる】石丸伸二→大熱狂、小池→ヤジ飛び交う。両者の街頭演説を比べた結果...【石丸伸二/石丸市長/東京都知事選】

2024-07-02 14:39:55 | 政治

【メディアの嘘がバレる】石丸伸二→大熱狂、小池→ヤジ飛び交う。両者の街頭演説を比べた結果...【石丸伸二/石丸市長/東京都知事選】

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「信託統治制度の下におく」ことに置祖国復帰の事実誤認と屈辱の日

2024-07-02 11:07:57 | 政治

 

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祖国復帰の事実誤認と屈辱の日

2018-05-19 11:38:50 | マスコミ批判

 

 

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5月19日付八重山日報本島版のコラム「ちゅうさん 車窓から ⑮」は、「復帰46年目のオキナワ」を述べている。

執筆者のちゅうさん氏は1986年生まれの沖縄県民。

全体的に現代の若者としてはバランスの取れた考えで好感が持てる。

だが、残念ながら一つだけ重要な事実誤認がある。

沖縄の祖国復帰を説明する次の部分だ。

「世界史を振り返ってみても、戦争で失った領土を平和的な話し合いによって、しかも短期間のうちに祖国に復帰した例はほとんど例を見ません。一度失った領土を外交交渉で取り戻すことがどんなに難しいか・・・」

確かに沖縄は1953年4月28日発効のサンフランシスコ講和条約により、米軍の統治下に置かれた。

だが、アメリカが沖縄を戦利品としてアメリカの領土にしたわけではない。

あくまでも沖縄の主権は日本が有し、行政権のみ米軍に委ねるという特殊な統治形体だった。(潜在主権)

したがって、当時の沖縄住民は米軍統治下といえども、国籍はあくまでも日本国民だった。

沖縄県民が日本国民だった事実は当事者の沖縄住民や大学教授ら「識者」の面々でさえ勘違いするくらいだ。

執筆者のちゅうさん氏が事実誤認するのも仕方がない。

米軍統治下の沖縄住民が日本国民であった根拠は思いつくだけでも、次の通りだ。

①復帰前の沖縄の教育は文部省教科書で行われた。

②日本軍人の遺族が対象の「援護法」が沖縄住民に適用された。

③「国費留学制度」により、沖縄の学生を日本の国税で全国の国立大学に留学させた。

④沖縄住民が日本旅行の際、日本の通関は、当時パスポートと呼ばれた「日本旅行証明書」に「日本への帰国を証明する」とスタンプした。(【おまけ】参照)

 

⑤沖縄は米国が日本から租借したのであり、「信託統治」でさえなかった。(サンフランシスコ講和条約)

【関連動画】 【沖縄の声】沖縄県知事選挙 予想候補者の顔ぶれ/琉球新報爆笑辺野古アンケート[桜H30/5/9](中間部分、ティータイム)

 

沖縄県民のちゅうさん氏が事実誤認するのも仕方がないと書いたが、沖縄の大学教授の事実誤認を紹介しよう。

 

石原昌家沖国大名誉教授は、米軍統治下の沖縄の法的地位に間違った理解のまま「天皇メッセージ」を批判している。

とりあえず石原氏の事実誤認の該当部分を引用する。

消える日本への期待 非軍事化の道模索を/石原昌家氏 沖国大名誉教授

琉球新報 2013年3月20日(水)

 「屈辱」とは、単に日本から分断されたので屈辱という意味ではなく、対日講和条約第3条にある「信託統治制度の下におく」ことに置かれたことだ。沖縄の人は自治能力がないから、米国が国連に提案して信託統治に日本は同意するということ。沖縄はかつて琉球王国、独立国として存在してきた。それを明治政府が武力を背景に、「廃琉置県」をした。そのような沖縄に「自治能力がない」と、いわば無能呼ばわりしているのだ。その意味で「屈辱」だ。
 苦痛の歴史が68年も続く沖縄にとって「4.28」は、人間の尊厳を奪われた決定的な日だ。「主権回復の日」で祝うという安倍首相と、その首相を支持する約7割の日本国民。人間の尊厳を奪っておきながら、安倍首相にとって沖縄人の感情は全く念頭にない。ただ沖縄というものを日米軍事同盟の安全保障の軍事要塞地としか認識していない。
 対日講和条約第3条は昭和「天皇メッセージ」と全く同質同根だ。昭和天皇が沖縄を「軍事占領し続けることを希望」した通りに、米軍の実質的占領が続いた。天皇が「主権回復の日」式典に出席予定だが、天皇の出席はそれを踏襲するという意味になりかねない。天皇は皇太子時代から何度も沖縄を訪問し、親近感を持つ人たちも多い。天皇にとっても不本意なことではなかろうか。

            ☆

石原教授は歴史的事実を事実誤認しているため、それを前提とする同氏の「屈辱」が空しく空中分解してしまっている。 

大学教授としては噴飯ものだ。

石原氏が「自治能力がある」と主張する琉球王国が、サンフランシスコ講和条約締結の1951年当時でも果たして独立国として自立できたかどうかはさて措くとしても、沖縄を信託統治にするという話を持ち出したのは、当時既に沖縄を米軍統治下においていた米国であり、日本側ではない。

>「屈辱」とは、単に日本から分断されたので屈辱という意味ではなく、対日講和条約第3条にある「信託統治制度の下におく」ことに置かれたことだ。沖縄の人は自治能力がないから、米国が国連に提案して信託統治に日本は同意するということ。沖縄はかつて琉球王国、独立国として存在してきた。

石原教授は沖縄が信託統治制度の下に置かれたことに、屈辱を感じたようだが、そもそも沖縄は米国の統治下にはあったが、信託統治制度の下におかれたことは歴史上一度たりともない。

これは条文をよく読んでいない素人が犯す典型的な間違いだ。(石原氏はあえて間違った素振りをしているのか?)

念のためサンフランシスコ講和条約の該当条文を引用するとこうなる。

<サンフランシスコ講和条約 第三条>
 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。

           ☆

確かに当該条文には「南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する」と明記されている。

米国は沖縄侵攻当初から沖縄を「太平洋の要石(かなめいし)」と捉え、日本と沖縄を分断の上永久占領を目論んでいた。

サンフランシスコ講和条約締結時の日米両国の力関係を言えば、米国は世界一の経済力と軍事力を誇る戦勝国。

一方の日本は、首都東京をはじめ地方の各都市も空爆により焦土と化した軍備も持たない米軍占領下の敗戦国である。

両者の力の差は歴然としている。

仮に米国が条文に明記されているように、「(沖縄を)米国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におく」と提案したら、日本は否応なしに同意せざるを得なかった。 

沖縄を信託統治にすればいずれは現在のグアムやプエルトリコのように米国の自治領に移行することは必至であった。

いずれ米国の領土になっていただろう。

ところが不思議なことに米国は、喉から手が出るほど領有を望んだ沖縄を信託統治にする提案はしなかった。

したがって日本が沖縄の信託統治に同意することなかったし、当然沖縄が米国の信託統治の下におかれることもなかった。

米国は沖縄を日本の主権を残したまま、統治権のみを継続したのだ。

沖縄は米国の信託統治制度の下に置かれたことはない。

これが歴史の事実である

その理由は何か。

その裏には昭和天皇が発したと言われる「天皇メッセージ」の大きな影響力があった。

当時日本の政治家の誰もが思いつかなかった沖縄を「日本の主権を残した(潜在主権の)ままリースにする」という「天皇メッセージ」こそが当時の日本として実行できる最善の策であった。

■戸籍は残したまま一時里子に出す

日本の主権を残したまま米国に統治を委任することを、親子に例えると、子ども(沖縄)を育てる経済力のない親(日本)が金持ち(米国)に戸籍はそのままにし、一時里子に出したようなものであり、戸籍を移籍する養子縁組とは根本的に異なる。

したがって米国統治下の沖縄人はあくまでも日本人であり、沖縄から祖国に日本の土を踏んだ沖縄人は通関で「パスポート」に「日本国への帰国を証明する」というスタンプを貰った。

参考⇒自爆した琉球新報!「屈辱の日」で - 狼魔人日記 - Gooブログ

 

■本当に米国は信託統治の提案をしなかったのか。

筆者のような何の肩書きもない者が大学教授の肩書きを持つ石原氏を無知蒙昧と批判したら、肩書きの偉そうな人物の言説を信じるだろう。

だが真実は肩書きで語るものではない。

米軍統治下の沖縄の法的立場については保守系の論客の中にも誤解の多い論点なので、最近の国会質疑で岸田外務大臣が、共産党の赤嶺政賢議員の質問に答えた記録を引用する。

2013年3月12日

第183回国会 衆議院予算委 普天間基地問題について質問(速記録) 赤嶺政賢

○赤嶺委員
 (前略)
 次に、政府は、本日の閣議で、来月二十八日に政府主催で主権回復を記念する式典を開催することを決めました。四月二十八日というのは、一九五二年、サンフランシスコ講和条約が発効した日であります。敗戦でアメリカの占領下に置かれた日本は、この日をもって主権を回復したと、自民党の皆さんは国民運動を展開してこられた方々もいらっしゃいました。

 そこで、外務大臣に伺いますが、この条約によって、奄美、沖縄、小笠原はどのような取り扱いとされたのか、その点を説明していただけますか。簡潔にお願いします。

○岸田国務大臣
 サンフランシスコ平和条約第三条におきましては、御指摘の、奄美、小笠原及び沖縄等を「合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。」と規定するとともに、「このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」と規定しております。

 これらの諸島につきましては、同三条のもとで、我が国は領有権を放棄しない状況で米国が施政権を行使していたということでございます。なお、この信託統治の提案は結局行われずに、その後、奄美諸島につきましては一九五三年、小笠原諸島については一九六八年、沖縄県につきましては一九七二年に返還が行われております。

○赤嶺委員
 沖縄は、サンフランシスコ講和条約によって、アメリカの信託統治領に置かれようとして、それが提案されるまでは、永久にアメリカが施政権を握るという状態に置かれていたわけです。

 その間、沖縄は、日本本土から切り離されて、米軍の、土地強奪やあるいは人権侵害、まさに、今のような広大な基地というのは、サンフランシスコ講和条約があったから、ああいう人権侵害を含む広大な基地建設ができたわけであります。これが何で主権回復の日になるんですか、総理。

○安倍内閣総理大臣
 この四月の二十八日は、まさにサンフランシスコ講和条約が発効した年であります。あのときも、この講和について反対をする人たちがいたわけでありました。いわば、当時のソビエト連邦は反対をしていたわけでございますが、日本は、その中において、まずは占領政策を終えなければ主権を回復できない。

 確かに、今、赤嶺委員が指摘されたように、沖縄、そして奄美、小笠原については、これは残念ながら一緒に施政権を回復することはできなかったのでありますが、しかし、それは、それを認めなければ、その後もずっと占領下が丸ごと続いていくということになるわけであります。まずは何とか、我々は占領下から主権を回復して、その後、沖縄についても、小笠原についても、奄美についても、何とか日本に返ってこられるように、交渉力を持って米国と交渉するということでありました。

 その後、総理になった佐藤栄作も、政治生命をかけて、この沖縄返還にかけたわけでありまして、沖縄の返還なくして日本の戦後は終わらないとの考えであった。それは、私もそういう思いであります。

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 だからこそ、この四月の二十八日は、そうした意味において、沖縄返還、あるいは奄美、小笠原に向けてのまずは第一歩をしるしたということではないか、このように思うわけであります。(以下略)

コメント (2)

沖縄靖国合祀取消訴訟 那覇地裁 石原昌家証言

2024-07-02 10:52:41 | 政治


 

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メモ: 8:00大 17:45大

集団自決、証人の石原昌家教授が馬脚、靖国合祀訴訟の二枚舌

2021-06-27 11:21:19 | ★改定版集団自決

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茶番劇の靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するなだって

2010-10-31

 

那覇地裁で沖縄靖国合祀訴訟の判決が出た。

結果は、もちろん原告の敗訴。

常識ある人なら誰でも予想できた。

さらにこの真っ当な判決に「不当判決」といきり立つ「識者」がいるのも想定できる。

これだから世の中は面白い。(笑)⇒靖国合祀取り消し訴訟不当判決

この裁判は根っこで「集団自決」「援護法」そして「教科書記述」と複雑に絡み合う。 

筆者が一番注目したのはこの裁判の勝ち負けではない。

原告側証人の石原昌家沖国大教授の二枚舌発言だ。

石原教授「援護法に適用されることが結果的に(沖縄戦を)歪めないと適用されなかった」

それでは石原氏に聞こう。 援護金受給のため沖縄戦を歪めて「集団自決は軍の命令」との論陣を張ったのは、一体誰だったのか。

沖縄タイムスに援護された石原昌家氏らではなかったのか。

石原教授「存在しない軍の命令を、『軍の命令による集団自決』と申請したら、援護法に適用された」と証言している。

石原教授を当日記がブログで取り上げるのは今回が初めてではない。

集団自決に関してはしつこいほど書いている。

当日記がこれまで「靖国合祀取消訴訟」を避けてきた理由は、きわめて単純。

裁判の内容自体馬鹿馬鹿しくて論評に値しないと考えたからだ。

だが、その馬鹿馬鹿しい裁判も新聞が一面や社会面のトップで誇大に報道すると、多くの読者が誤解する。

それにしても「集団自決訴訟」の当事者といえる沖縄タイムスが、この裁判について社説を書いていないのは不可解だ。

沖縄タイムスは、この訴訟が「死者の尊厳」の問題にみせながら、その実イデオロギーがらみの茶番劇であることを一番分かっているからだ。

まあ、沖タイの社説はしばらく待つとして、この問題で張りきっている琉球新報の社説を引用する。

靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するな

琉球新報社説 l2010年10月28日               

 沖縄戦で肉親を亡くした上、無断で靖国神社に「英霊」として合祀(ごうし)され、精神的苦痛を被ったとして、県内の遺族5人が起こした合祀取り消し訴訟で、那覇地裁は国、靖国神社双方への請求を退け、損害賠償も棄却した。
 今回、原告が問題視したのは、戦争の被害者である肉親が、加害者側に立つ軍人・軍属と同列視されているからだ。判決は、尊い肉親の御霊(みたま)を無関係な宗教団体が勝手に祭ることで当然生じる精神的苦痛に背を向け、非戦に向けて沖縄戦の歴史を正確に刻む営みに対する理解が欠けている。
 沖縄戦で犠牲になった人たちの意思確認がない無断合祀を追認した上で、神社側の「信教の自由」を認める形の筋違いの司法判断が及ぼす影響は大きい。先例となる大阪地裁判決をほぼ踏襲し、激しい地上戦があった沖縄戦の特殊事情を深く考察した形跡もない。
 判決理由で、平田直人裁判長は、英霊として祭られたことへの原告の嫌悪感も理解できないわけではないとしながら、「合祀によって社会的評価が低下するとは想定できず、遺族の信教の自由の妨害とは認められない」と指摘した

 国が神社に情報提供したことが合祀につながった点についても、「宗教的な色彩はなく、合祀の一部を構成しているとまでは言えない」と国の責任を否定している。
 判決によると、靖国神社は援護法と絡んだ国による情報提供に基づき、遺族の同意なしに10人を合祀した。うち6人は避難壕から追い出され、砲弾の雨の中で死を迎えた主婦や2歳の幼児ら一般住民だが、「準軍属」として合祀された。判決はこうした矛盾と非人間性を正当化、追認した。
 遺族の苦痛が法的保護の対象か、権利侵害になるか否かという狭い解釈論にとらわれ、大局を見失ったという印象を抱かざるを得ない。

 法廷でも証言した石原昌家沖縄国際大名誉教授は「壕から追い出され死亡した住民が壕を提供したとされるなど、沖縄戦の真実を捏造(ねつぞう)した」と強調し、合祀取り消しが沖縄戦の真実を正す手段と指摘してきた。
 事実と違う合祀に伴う遺族の二重の苦しみは救済されず、原告は控訴をすぐ決断した。控訴審は沖縄戦の本質に迫りつつ、被害者を戦争に馳せ参じた英霊として祭る無神経さを常識で問う曇りのない裁きにしてもらいたい。

                       ◇

 

突っ込みどころ満載だが、「集団自決訴訟」と「靖国訴訟」では真逆のことを平気で主張する石原昌家沖国大名誉教授と「援護金」について2、3述べてみたい。

 

■政府主導の「公金横領」■

原告は、肉親が英霊として靖国に祭られているのは精神的苦痛だという。

だが、戦死した親の墓を暴いて遺骨を靖国神社に持ち込んだわけでもなければ、また合祀して皆で英霊を侮辱し貶めているわけでもない。

それどころか毎日多くの参拝者が手を合わせて戦死者の鎮魂を祈っているのだ。

それが精神的に我慢できないというのなら、せめて金銭面では身辺をきれいにしてから言うべきではないか。

まず靖国に合祀された根拠となる「援護金」の受け取りを拒否し、過去に受け取った援護金の総額を国に叩き返してから、大口を叩くべきだろう。

英霊としての援護金はしっかりもらっていながら、精神的苦痛もヘッタクレもないだろう。

軍人でもない一般住民が、沖縄に限って靖国に合祀さたれた経緯は、戦後沖縄の市町村が援護法の一般人への適用を熱心に国に働きかけ、それに同情した国側が「拡大解釈」で支給するために軍人扱いしたことが原因である。

 その過程で2歳の子供も軍人あるいは軍属として靖国神社に連絡が行き、それが合祀に繋がった。

従って「援護法」を何とか沖縄の民間人に適用したいという国側の善意が、「軍への協力」や「軍の命令」を考え出させたのだ。

現在の弛みきった厚生省官僚達と違って、当時の厚生省援護課には、担当窓口職員にわざわざ沖縄出身者を配属し、沖縄の声を出来るだけ聞くという心優しき官僚がいた。 これは後述のタイムス記事から窺い知ることが出来る。

石原教授は、援護法について「靖国訴訟」では、「戦闘行為が不可能な2歳児が軍属扱いで合祀されるのは、国家による歴史捏造だ」と主張している。

 つまり国が援護金を沖縄の民間人に支給するため民間人が「壕提供」や「食料提供」等を軍の命令・強制で行ったと申請書の作成を指導したというのだ。これらは自らの意思で行ったのでははなく、国が指導した書類上の方便であるため、事実ではない。 

従って国の歴史捏造という論法だ。

ところがこの人物、「集団自決訴訟」では「集団自決」は軍の命令だと主張している。

一方では国が援護金支給の口実にするため「軍の命令」を捏造したと言いながら、その同じ口で「軍の命令」で集団自決をしたと主張する。

こんないい加減な人物が沖縄の新聞では「識者」として意見を吐くので事情を知らない読者は皆騙されてしまう。

軍への協力」「軍命による行為」が書類上に記載されなければ、遺族は「擁護法」で救済されなかったのだ。

そこに国側の「善意」の思惑が働き、「援護法」が適用されるに文章を改ざんしてまで救済の道を開いた。 これがが事実である。

ところが石原教授は、この事情を一番良く知る人物でありながら、「靖国訴訟」では「国が歴史を捏造した」と原告側の応援団になり、その一方で「集団自決訴訟」では、国側が自決命令と方便を使った事実には目を閉ざし「集団自決は軍の命令だ」と被告側の応援団にまわるような二枚舌の人物である。

そこに教科書問題が絡むと石原教授はさらに、教科書にも「残虐非道な日本軍」と記述しなければならないと主張する。 

当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。

拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っている。

沖縄への支給は政府ぐるみ(国・村役場・遺族)の公金詐取

言葉を変えれば当時の厚生省の措置は、村役場と遺族を含む三者が口裏を合わせて公金を詐取したと言われても仕方のない強引な処理であった。

従って靖国に合祀された戦死者の遺族が「合祀取り消し」を訴える裁判など馬鹿馬鹿しくて付き合ってはおれないのである。

ただ、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を詐取したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

原告は、控訴をするというが、援護金の受け取りを拒否してからの控訴でなければ、恥の上塗りになるだけだ。

【追記】

沖縄戦遺族の敗訴確定 靖国合祀訴訟で最高裁決定: 日本経済新聞

https://www.nikkei.com › article
2012/06/16 — 
沖縄戦などで死亡した家族を無断で靖国神社に「英霊」として合祀(ごうし)され精神的苦痛を受けたとして、沖縄県内の遺族5人が靖国神社と国に合祀取り消しなどを求めた訴訟で、最高裁第2小法廷(竹内行夫裁判長)は15日までに、遺族側の上告を退ける決定をした。遺族側敗訴の一、二審判決が確定した。決定は13日付。

訴えていたのは、死亡した旧日本兵や民間人計10人の遺族。一、二審判決によると、靖国神社は1950~67年、10人を遺族の同意なく合祀し、国は戦没者の氏名などを神社に提供した。

一審・那覇地裁は「合祀で遺族の信教の自由を妨害したり、戦没者の社会的評価を低下させたりしたとは認められない」と指摘。「神社が何を信仰対象とするかは絶対的に保護されるべき価値。遺族感情を根拠に法的救済を認めることはできない」と判断。国の責任も「宗教的色彩はない」と否定した。二審・福岡高裁那覇支部も支持した。

一方で、一、二審判決は「英霊としてまつられることへの不快感や嫌悪感は理解できないわけではない」などと遺族感情に言及していた

 

【おまけ】

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) 

                    ◇

【おまけ2】

政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と申請するように示唆した。

その「政府の書き換え指導」を調査した石原昌家沖国大教授の論文はこれ。

政府が書き換え指導  援護法認定、「軍命」基準に

語るに落ちたとはこのことだが、石原教授は「集団自決」という言葉さえ「強制集団死」とすべきだと主張している。

                ★

以下は沖縄靖国合祀拒否訴訟の主任尋問抜粋。


沖縄靖国合祀取消訴訟 那覇地裁 石原昌家証言

 

ー:事実と異なる内容の申請書を最初から出して、何の問題もなく適応された人も当然いますよね。

 

石原氏:そうです 圧倒的ですよ

 最初の頃はその基準が分からないものだからどんどん突き返されたというふうに、遺族会の会報に書かれてありますね

 

ー:貴方の見方としてもほとんどの人は、最初から事実と違うことを申請書に書いて適応を受けているんじゃないかという考えですか

 

石原氏: 考えじゃなくて、もうその証言があるわけですよ。そうゆうことをやっていて、何でこんなに突っ返されるか分からんと。それで、この日本政府のノウハウというのが分かって、もう後はどんどん、この申請が受付られて受理されたというふうに、遺族会報に書いてあります。・・・・・・・・・中略

・・・要するに、戦闘参加者という身分を与えるためですから、日本政府がそのような基準に合うように仕向けたというか・・・中略

・・・・・・・・要するに、日本軍の命令要請、それを受けたという時点での国と雇用類似の関係が発生したということから、積極的な戦闘協力をしたということで、一番わかりやすいのは壕の提供というのが、これが軍事行動だと」いうんですよね。そして、現認承認があれば準軍属として認めるという仕組み。

・・・・中略・・・

だから、突き返されたということは、結果的に書き換えですよ。

 

ー:・・・中略 (原告のひとりの証言内容を示して)

 事実と違って、援護法の適応を受けるためにそういった申請をしたんで、本来間違えたというのではないのでしょうということを貴方は認識されているんですかという質問に、そうですというお答えをされているんですが、こういった方が大多数だということでよろしいですか

 

石原:そうです。 僕はだから、いい質問をされたなと思ったんですよ。ここは靖国裁判の代理人でしたから、事実を引き出したなというふうに思って聞いておりました。

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【大物が寝返る】政界との繋がりを持つ、最強の大物も石丸を支持!【石丸伸二/石丸市長/東京都知事選/安芸高田市】

2024-07-02 09:58:27 | 政治

【大物が寝返る】政界との繋がりを持つ、最強の大物も石丸を支持!【石丸伸二/石丸市長/東京都知事選/安芸高田市】

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