読者の皆様へ
沖縄タイムス編著『鉄の暴風』による歪められた沖縄戦の歴史を是正すべく、「慶良間島集団自決」を中心に長年当ブログで書き綴ってきた記事をまとめて出版する予定です。
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狼魔人日記
江崎 孝
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3月26日 (8月15日)発売を目途に皆様に献金をお願いした『沖縄「集団自決」の大ウソ』(仮題)の編集作業が現在進行中です。資金難により最低限の出版数400冊で調整中ですが、出来れば市場に出回る出版数も800冊~1000冊と一冊でも多い方が目立ちますし、本の体裁もより目立つ体裁にしたいと考えています。
そこで再度皆様の献金ご協力お願いいたします。
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管理人への連絡⇒ezaki0222@ybb.ne.jp
※申し訳ありません。 諸般の事情により発売日が8月15日(終戦の日)と大幅に遅れる公算が大きくなりました。 しかし、内容には自信を持っていますのでご期待ください。
「八月や六日九日十五日 」詠み人知らず
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021 沖縄タイムスを恐喝した男
沖縄タイムスが犯罪者・ 富村順一氏を「識者」として祭り上げ、その原稿を出版したり「作家」として紙面を提供していた。
この事実を知る県民はほとんどいない。
かつて富村順一氏は『鉄の暴風』に座間味島の戦隊長梅澤裕氏が「慰安婦と不明死した」などと嘘の記述をした件で、沖縄タイムスを恐喝し50万円を脅し取った。その後、富村順一氏に関連する記事は、沖縄メディから消えた。
沖縄タイムスの応援団である芥川賞作家目取真俊氏は、 沖縄タイムスが富村順一氏に恐喝され50 万円支払った「大事件」を、大した問題ではないといった書き方をしている。
だが、これこそが大問題なのだ。
富村氏は、沖縄タイムスが『鉄の暴風』の記事のデタラメな記事を指摘し、それに伴う「口止め料」を要求した。この恐喝事件は、沖縄タイムスにとって二つの意味で大きな汚点になる。
いや、新聞社としては致命的ともいえる大きな打撃でもある。
先ず恐喝した富山氏は、過去に沖縄タイムスから著書を出版したり寄稿をした重宝なタイムス御用達の左翼作家であること。
そして恐喝の理由が、問題の書『鉄の暴風』の記事削除(梅澤氏の不明死)であり、沖縄タイムスは富村氏の恫喝に屈して削除に応じたこと。
恐喝を受けた当事者の新川明氏(元沖縄タイムス社長)が、これを報じた『うらそえ文藝』を見て立腹し、何らかの対抗手段を打つと息巻いていた。 だが結局この事件(50 万円恐喝)には沖縄タイムスOB を含む複数の証言があるというので、問題化することを諦めた。
そして脅し取った50 万円(当時の50 万円は現在の数百万円に相当)は、当然タイムス社からの出費だが、その出金名目は「原稿料」として支出した、という生々しい証言もある。
さらに恐喝した当人の富山氏が高齢ながら当時は(現在は故人)大阪でお元気であることも沖縄タイムスが対抗手段を打つことなく沈黙を守る理由だ。
目取真氏はタイムスが恐喝されたことの真偽を同社に問い合わせ、それが事実だと知って愕然としたのだろう。
そこであのような目くらまし記事を書いて「沖縄タイムスが恐喝に屈した」という『うらそえ文藝』の告発を矮小化し、星、上原両氏のこれ以上の発言を封じ込めようとした。
■証言の信憑性■
「大江岩波訴訟」の特徴は、70 数年前の体験者の証言と、数十年前に彼らに聞き取り調査した人物の記録、という極めて曖昧な要素のある証拠物を根拠に争われている点である。
しかも数十年前に聞き取り調査に応じた体験者も大半は鬼籍に入ってしまった現在、彼らが残した記録に「思い違い」や「勘違い」などがあったとしてもそれを本人に確認する術はない。
いや、その聞き取りをした人さえ「聞き違い」などが考えられるが、聞き取りした人にも既に物故した方がいて、この問題の検証の難しさを倍化させている。
証言者がその時、その場所にいたからといって、その証言を無条件で信じることは出来ない。
■証言者のバックグラウンド■
アリバイ証言を求める場合、家族や、親族の証言がその信憑性を疑われるように、証言者のバックグラウンドが証言に及ぼす影響を無視することはできない。
ここで「大江岩波集団自決訴訟」に登場する証人をそのバックグラウンドによって、大きく二つに分けてみる。
①本人または近い親族が「援護金」を受給している証人
②「援護金」とは無関係な証人
この二種類の証人はつぎのような特徴を持つ。
①の証人は金城重明氏や、宮里春子氏、宮村幸延氏のように「軍の命令があった」と証言しているのに対して、
②の証人は宮平秀幸氏のように「軍命令はなかった」と証言している。
通常の刑事裁判ならこの時点で「援護金受給」という経済的バックグラウンドを考慮すれば、①の証言は信憑性に欠けるとして却下されてしかるべきである。
だが、奇怪なことに「大江岩波訴訟」では①の証言はほとんどそのまま採用されている。
その一方で、②の「援護金受給」に無関係な人びとの証言はことごとく虚言として却下されている。
■証言者のプラス派とマイナス派■
裁判には集団自決当時、現場にいなかった戦後生まれの学者や関係者も多く登場するが、彼らはその「証言」が経済的、社会的に見て本人にプラスかマイナスかによって二つに分類できる。
①プラス派⇒宮城晴美氏、林博史、安仁屋政昭、大城将保、石原昌家など
②マイナス派⇒照屋昇雄、星雅彦、上原正稔、安里巡査、知念少尉
外にも①の【プラス派】には高校教師から琉球大学教授に駆け上がった、高嶋伸也氏や元県知事で沖縄戦戦記本を多数出版した太田昌秀氏などの大物もいるが、
中でも宮城晴美氏は、那覇市役所の臨時職員だったのが『母の遺したもの』を出版した後、わずか三カ月足らずで那覇市歴史博物館の主査のポストを得た。
その後は女性史研究家の肩書きで新聞その他の団体から講演会等で引く手あまたの地元知名士になり、母校の沖国大では講師を努めている。
更には琉球大学に博士論文提出中というから高嶋教授の後釜でも狙おうかというほど社会的にも経済的にもプラス派の代表者であろう。
一方、②の【マイナス派】の証言者が少ないのは地元のマスコミが証言しても取り上げないせいもある。 だが、経済的、社会的にマイナスになるなら、でしゃばって証言するより沈黙を選ぶのは人間の常なので、人数が少ないのも仕方がない。
例えば、戦後早い時期に現地で聞き取り調査をした、照屋昇雄さん(故人)などは、「軍命があった」と証言しておれば地元ではチヤホヤされ、各地で集団自決の重要証人として執筆や講演会などを請われ、社会的にもプラス面が多かったはずだが、「軍命はなかった」と証言したばかりに嫌がらせなどを受けた。
照屋さんの場合も当然マイナス面ばかりである。
最近『うらそえ文藝』で沖縄タイムスに捏造記事の訂正と謝罪を要求した、星雅彦氏と上原正稔氏が、その後沖縄の文壇から締め出され兵糧攻めに遭っていると聞くが、これも証言したための典型的なマイナス面であろう。
■富村順一・・・・・最大のマイナス派証言者■
もう一人、最大のマイナスを被った証言者がいる。
自ら座間味島を訪問し、聞き取り調査をした結果、これまでの極左的言動から一変し、沖縄タイムスの『鉄の暴風』のデタラメな記事を批判する側に「転向」した富村順一氏こそ、「転向」で最も激しいマイナスを被った人物だろう。
富村氏については別の機会に改めて詳述したい興味ある人物だが、ここでは概略を述べる。
■天皇糾弾を叫んで東京タワージャック事件を起こした男
富村氏は、沖縄返還の前年、天皇糾弾を叫んで東京タワージャック事件を起こし逮捕された 。
服役中、彼を支援する左翼弁護団と交した獄中記がベストセラーになり、出所後は「作家」として生計を立てるようになる。
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勿論出版物の内容は左翼弁護団が「天皇糾弾・反日・沖縄人」というキーワードでおだて上げ、その結果『棄民・戦争・天皇』とか『皇軍とアイヌ兵』といったいかにも左翼が喜ぶタイトルで10 冊ほど出版するほどの売れっ子作家になる。
沖縄では沖縄タイムスを始め、出版社と新聞社からの原稿依頼が殺到し、沖縄の知識人・文化人から大歓迎をされ、さらに、各大学、各地で講演することもあった。
そして沖縄タイムス刊『沖縄にとって天皇制とは何か』(1976。 タイムス選書)の執筆者の一人にもなる。
ところが座間味島で聞き取り調査をしているうちに、『鉄の暴風』の余りのデタラメさが徐々に発覚し、極左が売りものの富村氏も、沖縄左翼の捏造体質にあきれ返ってしまう。
特に「朝鮮慰安婦と不明死した」と侮辱的に書かれている梅澤元隊長は存命という情報を島の古老から得て、富村氏は梅澤元隊長探索の旅を開始する。
元隊員や多くの人脈を辿って大阪で警備会社の重役をしていた梅沢氏と大阪の梅田で会うことになる。 その頃は未だ『鉄の暴風』には梅沢氏の「死亡記事」が平気で記載されていた。
富村氏の慶良間島取材後に「梅澤生存」を記した『隠された沖縄戦記』をするのだが、その出版年(1979 年)から判断して1978 年ごろのことである。
その後30 年経って梅澤氏は「大江岩波訴訟」の原告の一人になるわけだが、その時は『鉄の暴風』の存在さえ知らなかったようだ。
梅澤氏は、作家というより刑務所を出たり入ったりのヤクザ者といった方が似合う富村氏に梅田の居酒屋に呼び出され、二人は酒を酌み交わしながら座間味島のことを語り合った。
そのとき梅沢氏はこう語った。
「確かに悲惨な島であった。私は自決命令を出していない。 だが、私が自決命令出したとして公表されれば、助かる島の人は一杯いるでしょう。(援護法に該当) またお金も降りるでしょう。それでいいんじゃないでしょうか。もう終わったことです。」
「私は自分が悪者になってもいいよ。座間味は大きな犠牲を出したんだから、自決した人もいる。 私は生きのびて、こうやって生きのびているだけでありがたい。それから考えると、あまり重視する問題じゃない」(富村順一著『沖縄戦語り歩き』拓植書房1995 年』)
富村氏は梅澤氏の言葉に大きなショックを受ける。
そあいて沖縄の論壇から総スカンを食う覚悟で『隠された沖縄戦』を出版し、沖縄タイムスの歪曲報道を暴露する。
通常のパターンだったら沖縄人が沖縄戦記を出版した場合、沖縄マスコミは揃って宣伝記事を書くものだ。
だが、『隠された沖縄戦』の場合、沖縄マスコミ、知識人、文化人は皆これを黙殺し、沖縄の書店でもこれを販売するものはほとんど無かった。
従って富村順一氏のことを知る沖縄県人は、左翼文化人と古い記者以外ではほとんどいない。
ましてや富村氏が沖縄タイムスに乗り込んで「捏造記事」をネタに恐喝した話など知る人は少ない。(タイムスを恐喝した話は『うらそえ文藝』に詳しい)
何よりも不可解なのは、『鉄の暴風』で「死亡記事」を書かれた「悪鬼のような梅澤元隊長」が生存していることが判明したのだから、新聞にとっては重大ニュースであり一面トップで扱ってもおかしくなかったはずだ。
だが、実際は『鉄の暴風』から該当記事をソッと削除しただけで、タイムスも新報もこの重大ニュースを報道することはなかった。
それ以降、富村氏はあれほどチヤホヤされていた沖縄マスコミからも絶縁されてしまい、多くの出版物も今ではほとんど絶版になっている。
おまけに左翼集団に襲われ重傷を負って車椅子生活を余儀なくされるのだから、富村順一氏ほど「転向」によって損害を被った人物もいないだろう。
富村順一氏は、沖縄マスコミの徹底した黙殺により、沖縄では忘れ去られた沖縄戦記作家であり、元極左活動家であり、そして「転向者」でもある。
従って現在「集団自決」に興味を持つ人でも、その名を知る者は少ない。
『鉄の暴風』から「梅澤死亡」の記事が削除されるのは、出版後30 年経過した1980 年になってからだが、沖縄タイムスはその年にはどうしても「削除版」を発行せねばならぬ理由があった。
それは、富村氏が削除の件でタイムスを恐喝しただけでなく、前年の1979 年発行の自著『隠された沖縄戦』で、梅澤氏が生存している事実を書いて『鉄の暴風』の捏造体質を暴露していたからである。
富村氏が「梅澤生存情報」を使ってどのように50 万円を脅し取ったのか。
おそらくは沖縄タイムスが、「そのうちソッと削除するから、騒ぎ立てないでくれ」と口止めの意味で50 万円を支払ったのであろう。
だが、富山氏は50 万円を脅し取った上、口止めどころか自著でも暴露して大儲けした。富村氏のならず者体質が良くでている。
富村順一獄中手記『わんがうまりあ沖縄』 | ブロッギン・エッセイ~自由 ...
■究極の逆転向者ー富村順一■
沖縄タイムスは、極左作家富村順一氏の恐喝に屈して『鉄の暴風』の記事を人目を避けるように削除し、その歴史に致命的汚点を残した。
大阪西成区に在住の元極左活動家、富村順一氏は、「大江・岩波訴訟」には不自由な車椅子の体で大阪地裁まで駆け付け、梅澤・赤松両元隊長の無実を訴え、大江に謝罪を求める文書を配布した。
⇒左翼に襲われ車椅子生活に!
それまでの極左的発言から、ドラマチックな「転向」をし、原告側応援団の仲間入りした富村氏は、それまでの作家として、あるいは沖縄の「文化人」としての安逸な生活を失ってしまった。
富村氏が「転向」の代償として受けたのは社会的経済的マイナスの他に、「裏切り者」として左翼集団による肉体的暴力だった。その結果現在車椅子生活を強いられている。
富村氏は、左翼集団の暴力により、手にも損傷を受け、原稿を書くことさえママならない状態であるという。
■富村氏が極左作家になった経緯■
富村順一氏は1930 年5 月3 日、沖縄県国頭郡本部に生をうける。生来の反抗心から学校でトラブルを起こし小学校二年で放校となる。
15 歳で終戦を迎えるが、戦後は窃盗、暴力行為と刑務所の出入獄を繰り返し、1955 年保釈中にクリ舟で米軍統治下の沖縄を脱出し、奄美徳之島経由で島伝いに鹿児島に上陸する。
以後全国を放浪するがその間も犯罪を繰り返し、各地の刑務所の出入獄をくり返す。
1970 年7 月8 日、「70 年安保騒動」に刺激をうけ、「東京タワー占拠事件」を引き起こす。
その日、富村氏は牛刀二丁を手に、たまたま東京タワー見学中の米人宣教師を人質にとり、タワー特別展望台を占拠して、次のように叫んだ。
「日本人よ、君たちは沖縄のことは口をだすな」
「天皇は第二次世界大戦で300 万人を犠牲にした責任をとれ」
「沖縄の女性みたいに、正田美智子も売春婦になり、沖縄人民のためにつくせ」
結局、逮捕、起訴され、懲役3 年の実刑を受けるが、公判中その過激な言動に共鳴した左翼弁護士の支援団体が結成され、獄中で弁護団と交した手紙が『わんがうまりあ沖縄」(富村順一著 拓植書房 1972 年)として出版されることになる。
出版日が沖縄返還の日の直前という話題性と、特異な犯罪を起こした沖縄出身者という好奇の目もあったが、そのたどたどしい日本語の文体をそのまま校正なしに出版したことが読者の興味をそそり、この類の本には珍しく重版を続けベストセラーの仲間入りをする。
ちなみに同書の前書きには「富村公判対策委員会 富村順一手記編集委員会」の名で次のような解説が付いている。
<○原文中、ら行とだ行の置き換えが、たとえば「やられる」が「やだでる」のように用いられています。これを17頁~35頁までの間のみ、ルビをつけ例としました。 それ以降は原文のままにしておきました。
○原文の漢字の誤用はカタカナに書きかえました。しかし、これはすべてではなく、誤解をまねくものを主にし、本人の原文中、カタカナで記されているものとの区別はつけません。
○送りガナはあえて統一しませんでした。
○原文中、促音がないものが大部ありますが、それも原文のままです。
○原文中、「 」の部分を傍点をつけ、「 」をはずしました。>
支援弁護団と出版社の描いた「小学校もろくに出てない虐げられた沖縄人が書いた日本に対する抗議の書」、といったイメージは見事成功した。
同書の成功以後極左集団の支持を受け、次々とサヨクが狂喜するような過激なテーマの出版を続け、沖縄に戻っても沖縄タイムスを始めとする左翼メディアや左翼文化人にちやほやされ、講演会や執筆活動に追われるようになり、すっかり沖縄左翼のヒーロー的存在になる。
富村氏の著作を拾ってみても沖縄の左翼文化人が喜ぶような過激なそのタイトルが並んでいる。
『沖縄にとって天皇制とは何か』沖縄タイムス社 編。 沖縄タイムス社。 1976。 タイムス選書
『沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』 富村 順一 編著。 柘植書房。 1995。
『沖縄戦に散った愛 天皇の押し花になった子供たち』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。
『隠された沖縄戦記』 富村 順一 著。 JCA出版。 1979。
『韓国の被爆者』 富村順一 著。 JCA出版。 1980。
『皇軍とアイヌ兵 沖縄戦に消えたアイヌ兵の生涯』 富村 順一 著。 JCA出版。 1981。
『最敬礼拒否の足跡 戦犯天皇を裁く』 富村 順一 著。 破防法研究会。 1974。
『十字架と天皇。 富村 順一 著』 たいまつ社。 1977。 (たいまつ新書18)。
『富村順一氏意見陳述集 「東京タワー事件」』 富村 順一 著。 富村公判対策委員会。 1971。
『もう一つのひめゆり部隊 -戦後沖縄の売春婦-』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。
『琉球慰安婦 天皇制下の闇の性』 富村 順一 著。 JCA。 1977。
『わんがうまりあ沖縄 富村順一獄中手記』 富村 順一 著。 柘植書房。 1972。
◇
富村順一氏の人となり知るための参考に、本人を良く知ると思われる人物のネット記事を次に紹介する。
嘗て「東京タワ- 事件」というのがあった。1970年7月8日の『朝日新聞』に「8日午前11時半ごろ、東京芝公園の東京タワ- 特別展望台(地上250メト- ル)のエレベ- タ- 前で、男が刃物を持ち『韓国人と20歳以下の者はおろしてやるが、日本人と、アメリカ人はおろさない』とわめいていると愛宕署に連絡があった。20人ほどいた客をエレベ- タ- で降ろしはじめたとき、男は新潟市の日本ル- テル教会宣教師ヒンズ・ダビテさん(39)のところへ男がかけより、ダビテさんの首に刃渡り20センチの包丁をつきつけた。愛宕署員が『刃物を捨てろ』と説得する一方で、さらに応援がかけつけ、約15分後にすきをみてとびかかり、警棒で包丁をたたき落とし、脅迫、銃刀法違反で逮捕した。調べに対し男は沖縄・本部東区富村順一(40)」と報じられていた。 1972年発行の富村順一公判資料『怨念は永遠に』によれば、事件当日の富村はシャツに「日本人よ君たちは沖縄のことに口を出すな」「天皇は第二次大戦で200万人を犠牲にした責任をとれ」と書いていたという。また、意見陳述では『天皇の娘である島津貴子や皇太子の妻美智子も皇后も、天皇や皇太子の前で米軍に強姦させてみたい」と述べたという。(『青い海』)
私はこの資料を『青い海』大阪編集室で見た。編集長の津野さんから色々来と話を聞かされたが私には関心がなかった。あんなことで世の中が変わるのか、というのが正直な感想であった。大阪でも沖縄でも敬愛する先輩たちが富村裁判の応援に名前を連ねていた。 1974年発行の沖縄婦人連絡会議なるビラには「富村の女性解放への敵対を糾弾する、 また、白老出身のアイヌ・ウタリは「どうか我らウタリよ、この富村順一なるシャモ(蛆虫)にだまされないでください」などと富村への批判が続出した。 私は、1989年ごろ、大阪ナンバ高島屋前で富村順一を見かけるようになった。このとき貰った名刺には『新日本文学会/富村愚童」とあった。駅のタバコ自動販売機でピ- スを買ってあげると色々と話(「新川明の弱みをにぎっている」など) をしてくれたが、詳細は省く。数日後、富村は自分の本の宣伝をしながら、自分が載っているいる新聞記事(新聞名不詳)コピ- をくれた。新聞記事の題は「さがし続けた夏」で「富村順一、沖縄出身。62歳。かつて、新左翼から「反権力」の象徴にまつり上げられたことがある 。若いころは、ならず者だった。 胸に骸骨、背中に竜の入れ墨がある。『骸骨の順』と呼ばれた。(略)