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★【再掲】
「「戦陣訓」追記し再申請 検定審「指針」で1社 (12/9 9:55)
【東京】高校歴史教科書の「集団自決」(強制集団死)検定問題で、訂正申請を出した教科書出版社6社に対し、教科用図書検定調査審議会が「集団自決」の背景にある複合的要素を詳しく記述するよう求める「指針」を示した件で、1社が軍人や住民に対し捕虜となることを禁じた「戦陣訓」を追記し、再申請する方針であることが分かった。
「戦陣訓」は1941年1月に東條英機陸軍大臣が全陸軍に通達した訓諭。この中で「生きて虜囚の辱めを受けず」として、軍人が捕虜となることを禁じた。沖縄戦において「戦陣訓」は住民にも浸透していた。戦前の皇民化教育や沖縄守備軍・第32軍の「軍官民共生共死」方針とともに、「集団自決」を引き起こした要因とされている。
教科書各社は検定審議会の「指針」を踏まえ、皇民化教育や軍から住民にもたらされた米軍に対する恐怖心などを新たに盛り込む形で訂正申請を出し直す方向で検討を進めている。
今後、再申請された訂正内容について、教科書各社と文科省教科書調査官との細かい調整が行われるものとみられるが、文科省は直接的な「命令」「強制」に関する断定的記述には難色を示していることから「軍の強制性」が教科書記述に明示できるかは微妙だ。
(琉球新報 12/9 9:55)
◇
先日、テレビドラマで松本清張の「点と線」を見た。
若い頃小説で読んだが、時代があまりにも変りすぎて、特にアリバイ崩しが売り物の小説をテレビドラマ化することの難しさを感じた。
「点と線」というタイトルは、点と点を結ぶと線になり、線が交差すると面になるが、松本清張は点と言う事実をつなぎ合わせてそこから導き出される刑事の推理の象徴として「点と線」という当時としても秀逸なタイトルを思いついたものと推測する。
「歴史事実」という一つの「点」を、解釈の余地を残さない一つのセグメントの事だと解釈すると、「歴史事実」を線でつなぎ合わせて、面を造り、そして「歴史認識」が生まれる。
「歴史認識」とは「歴史事実」を積み上げた「歴史に対する解釈」あるいは「事実と事実を結びつける解釈」だと考えられる。
当然、「解釈」には理解も有れば誤解もありうるし、中国の歴史認識と日本の歴史認識が違っても不思議ではない。
>「戦陣訓」は1941年1月に東條英機陸軍大臣が全陸軍に通達した訓諭。
1941年に東条英機が「戦陣訓」を陸軍に通達したことは、紛れも無い「歴史事実」であり歴史上の「点」である。
これに対して、「戦陣訓は兵隊に周知徹底されていた」と思い込んでしまうのが、「歴史認識」でしばしば後世の人の「誤解」を呼ぶ。
ところが、この「誤解」に更なる「誤解」が重なると、「戦陣訓は沖縄では兵隊のみならず民間住民にも周知徹底されていた」という大きな歴史の過ちに陥っていく。
そして、「誤解した歴史認識」を更なる誤解によって複数接続すると、「戦死者があんなに多く出たのは、戦陣訓のせいだ」とか、「集団自決は戦陣訓のせいだ」という“物語”が出来上がって来る。
*
◆「恥ずかしながら生きて帰りました」
終戦を知らずグアム島で28年間潜んでいた日本兵横井正一軍曹が日本に着いた時の第一声がこの言葉だった。
この言葉はその年の流行語にもなった。
「恥ずかしながら」という言葉は国民に向って発せられたが、深層心理学的に言うとグアムで戦死した戦友たちへ向っての「恥ずかしさ」と「申し訳なさ」だった推察出来る。
◆その2年後、今度はフィリピン・ルバング島から小野田寛郎少尉が30年振りに帰国した。
小野田少尉が天皇陛下との面談も断って彼が真っ先に行った行動は、
靖国神社への参拝であり戦死した部下・戦友の墓参りだった。
横井氏のような流行語は発しなかったが小野田も靖国参拝の時や、戦友の墓参りの時の心境は、同じく「恥ずかしながら」と「申し訳ない」の心境だったろうと想像できる。
◆「ビルマの竪琴」という映画を見た。
大戦末期のビルマ。ビルマからタイへ逃れようとしていた井上部隊は、 そこで戦争の終結を知り、 イギリス軍に降伏し、 捕虜収容所へと送られることになる。
疲れきった隊員達の心を唯一慰めるのは、 水島上等兵の奏でる美しい竪琴の音色。そんな中、 未だに徹底抗戦を続ける友軍を説得する任務を水島が任されることになった。
しかし、 彼の説得は受け入れられず、 友軍部隊は全滅する。
1人生き残った水島はおめおめと原隊に戻る事が出来ず、そのまま姿を消してしまう。
やがて収容所に着いた井上隊は、 そこで水島とよく似た僧侶に出会う。
「水島、一緒に日本に帰ろう」と柵の中から呼びかける戦友達の声に寂しそうに顔をそむけて立ち去る僧衣の水島の姿が印象的だった。
彼は、 戦死した日本軍の霊を慰めるため故国への帰還を拒絶してビルマに残ったのだ。
彼が帰国を拒否してビルマに残った心境は何だったのか。
投降説得に失敗して友軍を全滅させてしまい、ただ1人生き残ってしまったことだった。
そう、「恥ずかしながら」生き残ってしまったのだ。
◆横井軍曹や小野田少尉そして水島上等兵は「仲間」が全滅し自分だけが生き残ったことに「恥ずかしながら」或いは「申し訳ない」という心境だったと推測できる。
だが、彼らが一つだけ救われるのは「仲間」が全滅したのは、敵であるアメリカ軍の攻撃による戦死だったことである。
ところが「全滅」から生き残りながらも救われない人々がいた。
◆沖縄慶良間島の「集団自決」を生き残った人達である。
彼らの「仲間」は敵米軍の攻撃による戦死ではなく、お互いの手で親兄弟、或いは知人縁者を「全滅」させたのだ。
「恥ずかしながら」や「申し訳ない」では済まされない、
「贖罪意識」を胸に秘めて戦後を生き抜かねばなら無かった。
例え戦時中で敵に取り囲まれ無差別攻撃を受けたパニック状態の出来事だとは言え、
自分の手にかかって「全滅」した「自決者」のことを考えると、理由はともあれ「集団自決体験者が「贖罪意識」に駆られるの当然のことだろう。
「集団自決体験者」の「贖罪意識」に巧妙に入り込んだのが左翼学者集団の「反日思想」である。
「残虐非道の日本軍」という左翼の扇動に集団自決の生き残りの人々が引き込まれていくのは自然の成り行きであり、結果として「軍の命令説」が形作られていく。
「体験者達」は「軍の命令で仕方なく」親兄弟、知人縁者を手にかけたと主張することで、心の奥に潜む「贖罪意識」は少しは緩和されたのだろう。
これに「援護法」の適用の問題が絡み、更に問題を複雑にしていく。
◇
横井さんが帰国した時、マスコミは「恥ずかしながら生きて帰った」と言う発言に対し、それまであまり聞かれなかった戦陣訓という「点」と「横井さんの帰還」という点を強引に線で結んで一つの「面」を創造し報道した。
それは「生きて虜囚の辱を受けず」の精神に横井は縛られていたかのような報道だった。
ところが、自らも陸軍にいた司馬遼太郎氏は戦陣訓について、
「戦陣訓という訓令があるとは知っていたが、どんな内容であるかは全く知らなかった。その程度のものだった」と、
自らが理解できない出来事(横井氏の帰還)に明確な原因と結果を求めたがるマスコミの姿勢を批判した。
同じく陸軍経験のある山本七平氏も戦陣訓については次のように明言し、戦陣訓の影響は戦争を知らない戦後の人々の後知恵であると喝破している。
<たとえば横井さんが出て来たとき、すぐにその原因は戦陣訓ということになり、私自身も取材を受けたが、私は戦陣訓など読んだことはないし、部隊で奉読されたこともないと言っても、その人は信用しない。私は自己の体験を語り、その人は戦後生まれで軍隊を知らないのに信用しない。>(「私の日本軍」より)
陸軍経験のある多くの作家が戦陣訓について、司馬遼太郎氏と同じようなことを書き残しているが、安岡章太郎氏は前記山本氏を補足して次のように解説している。
≪ 戦陣訓に戻っていえば、私自身も一年半の軍隊生活で戦陣訓を強制的に講義されたりしたことは一度もない。それは軍隊内で、いわば体よく無視されていたと言えるだろう。
しかるに現代のマスコミは、なぜ戦陣訓を重視したがるのか?それは山本氏も言うように、戦陣訓は実は当時のマスコミにかつぎ上げられてマスコミの中だけで拡まっていたものであり、それは現代のマスコミにも体質的に通い合うものがあるからではないか。」≫
◇
◆「沖縄慶良間島の集団自決は軍の命令或いは強制によるものだ」と、主張する勢力は、これまでの論争の中で「軍命があった」という客観的証拠や、証言が無いと分かると戦術を変更し、「軍命の有無は問題ではない」と論点をすり替え始めた。
その論点すり替えの論拠が、
「軍官民共生共死」、「皇民科教育」、そして「戦陣訓」という三つキーワードであった。
ところが今回文科省が出したとされる指針によると、
「日本軍だけが住民に「集団自決」を強制したと読み取れる表現を事実上、禁じている。 一方で「集団自決」が自発的な死ではなく、住民が「『集団自決』せざるを得ない状況に追い込まれた」ことは認め、その「背景・要因」を詳細に記述するよう促している。」(「軍だけが強制」禁止/文科省指針 全容判明 )
つまり、文科省指針は、これまで「軍命あり派」が「命令、強制」の根拠にしていた「軍官民共生共死」や「皇民化教育」といった左翼用語を使用しても(背景・要因)、日本軍だけが「集団自決」を強制したと読み取れる表現を禁じたのだ。
「軍命あり派」にとっては表現上非常に困難な立場に追い込まれたことになる。
これが町村官房長官や渡海文科大臣が繰り返してきた「工夫と努力と知恵」の見せ所だというのだろう。
>沖縄戦において「戦陣訓」は住民にも浸透していた。
沖縄在住の戦史研究家・奥茂治氏は「沖縄では戦時中といえども戦陣訓の『生きて虜囚の云々』は殆ど知られていなかった」と証言している。
「生きて虜囚の・・・」が初めて沖縄で知られるようになったのは、
昭和19年頃沖縄で放映された戦意高揚のニュース映画のアナウンサーの声で、初めてそんなものがあるのだと知られるようになったと言う。
そういえば、物故した筆者の父も生前、晩酌等などで御機嫌の時、戦時中に「教育勅語」を暗記した例は話していたが「戦陣訓」の話を聞かされた記憶は無い。
◇
戦陣訓の「生きて虜囚の・・・」が亡霊のように甦ってきたのは戦後30年近くたって日本国民を驚かした横井さんや小野田さんの帰還により、主として朝日新聞を筆頭にした左翼マスコミによって作り上げられた「誤解」である。
そしてひとたびマスコミを通じて一人歩きを始めた「誤解」は、一つの「歴史認識」として左翼学者の「歴史解釈」に多大な影響を与えた。
それが後戻り出来ないのは陸軍体験者山本七平氏の次の言葉が全てを表している。
「(取材を受けて)私は戦陣訓など読んだことはないし、部隊で奉読されたこともないと言っても、その人は信用しない。私は自己の体験を語り、その人は戦後生まれで軍隊を知らないのに信用しない。」
沖縄でも戦陣訓の「生きて虜囚の・・・」が頻繁にマスコミに出てくるようになったのは左翼学者が主張する「日本軍の残虐さ」を議論し始めた戦後かなり経過してからである。(これについては稿を改めて書いて見たい)
左翼学者は横井さんや小野田さんの例と同じく、
「歴史事実」である「集団自決」(点)と「戦陣訓」(点)の間を強引に線で結び、「沖縄戦において戦陣訓は住民にも浸透していた」という戦後の誤った解釈で次の結論をひねり出した。
「軍命による集団自決」、
つまり「歴史の誤解」をでっち上げたのである。
「付記」
戦陣訓の本訓その二 第八「名を惜しむ」項
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。
【意味】
「恥を知る者は強いものだ。ふるさとの親類や家族の対面を考えて、(軍規に反して略奪や暴行などを行い)(憲兵に)捉えられてて収監されたり、死んでまでも罪人として扱われるような行動をしてはならない。」
【追記】2008年4月21日
「虜囚」は囚人であり、犯罪者の意味を持つ。
「俘虜」は捕虜の意味を持つが犯罪者の意味はない。
虜囚と俘虜という似た意味を持つ言葉を等式で結び、「犯罪を犯すな」、と「捕虜になるな」とを同じ意味に捉えるのは捏造である、と下記ブログで論証しています。
確かに、「生きて虜囚・・・」と言っても「生きて俘虜・・・」とは言っては居ない。
戦陣訓虜囚の辱の意味戦陣訓本意囚人を捕虜と63年間捏造(つまみ食い)報道
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★お詫び★
昨夜8時からのNHK≪九州沖縄スペシャル“集団自決”~沖縄渡嘉敷島 兄弟の告白~≫を見ながら、記事作成の為のキーワードを記したメモを間違ってアップしたまま放置して寝てしまいました。
その後、当ブログを訪問頂いた方は、何のことか意味不明の単語の羅列で、ご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。
見る前から、NHKの番組案内をみて、
2月に放映した番組の焼き直しだと予想してビールを飲みながら見ていたら、
予想にたがわず「新証言」とはかけ離れた、同じ役者の同じネタなので興味半減で眠たくなり、
メモを公開するという大恥をさらしをしたしだいです。
申し訳ありませんでした。
◆
さて、同番組を見た感想ですが、特に目新しい証言はなかったが、
次の2点は、既知の事実とはいえ、天下のNHKが放映したということで重要な意味を持つ。
①父親殺害の告白
これまで金城重明氏は「親兄弟」という表現で母親と弟、妹を殺害したことは繰り返し告白してきたが、父親のことは逃避行中はぐれてしまい、どこかで不明死したと述べていた。
それが雑誌『WILL』増刊号でジャーナリストの鴨野守氏が、父親も殺害した事実をレポートしたため、隠せないと思ったのか今回の番組では父親殺しもカミングアウトした。
数ある集団自決の証言では、一家の主が年寄りや女子供を殺害したという例はあるが、壮年と思われる父親をその子供が殺害したという例は未だないし、少なくとも筆者は知らない。
金城兄弟が、「親兄弟を手にかけた」といいながら、長いこと「父親殺し」を隠していた理由は一体なんだったのか。
勿論、番組ではこれには触れていない。
更に兄弟は、自分の親弟妹だけではなく、他の村人も数多く殺害している。
②金城重明氏は島で毎年行われる戦没者慰霊祭には一度も参加したことはなく、
島に住む兄の重栄氏は慰霊祭の日を避けて一人でそっと参拝していた。
これも知る人ぞ知る事実ではあったが、今回NHKが本人たちに取材した結果、確実な情報となった。
この事実から、二人が渡嘉敷島では村八分状態であることがわかる。
遺族としては、敵である米軍の攻撃で死んだのなら諦めもつくが、同じ村の兄弟に自分の肉親が殺害され、しかも加害者が揃って生きている事実には耐えられないのであろう。
村人の突き刺さるような怨嗟の視線を背に受けると、金城兄弟としては、何が何でも「軍の命令だった」と言い続けなければ、戦後生きてはおれなかった。
すくなくとも、6人家族のうち、兄弟二人で、残りの四人を皆殺しにしたのなら、計算上は四人分の「援護金」が遺族である兄弟二人に支給されていることになる。(未確認)
自分の手で殺害した父母弟妹の「遺族援護金」を金城兄弟が受けているとしたら・・・・・・・・、
どんなことがあっても、軍に責任転嫁しなければ生きてはいけなかったのだろう。
集団自決の被害者の遺族には援護金が支給されている。
弟重明氏に比べて、取材慣れしていない兄重栄氏は口が重く沈黙が多かったが、ナレーションでこれを補っていた。
兄がいう「軍の命令」とは,
「誰かが天皇陛下万歳」といったことと
「不発の手榴弾をコツコツ叩く音」
そして「戦陣訓」だと。
「天皇陛下万歳」と、集団自決の音頭を取ったとされる古波蔵村長は、自決せずに生き残っている。(戦後米田と改姓)
この村長も、戦後自分が自決を煽ったといわれたことに対して「軍命令」を主張しながら亡くなっている。
インタビューに応じていた本土出身の元兵士が、集団自決があったことを知ったのは四ヶ月後になってから述べていたが、軍人に対しての訓示である戦陣訓で死ななかった多くの日本兵がいる矛盾に番組は触れない。
もし触れるとしたら左翼学者を登場させて、
「彼らは卑怯にも、生き残った」と、得意の論点すり替えでごまかすだろうが・・・。
弟重明氏の「軍命論」は、戦後の後知恵の「軍民共死共生」に終始していた。
次に引用は、昨日の沖縄タイムス夕刊の同番組紹介です。
≪今から63年前、渡嘉敷島でおきた、“集団自決”。 一度に300人以上が犠牲となった。 そのほとんどが家族や親せき同士で互いに命を奪い合った。 今年、家族を手にかけてしまった当時10代だった兄弟が体験を告白。厳しい軍国主義、配られた手榴弾、天皇陛下万歳の声。≫
NHKは「軍の命令で兄弟は親兄弟を殺害した」と言いたくて、
軍の命令の根拠を、軍国主義、配られた手榴弾、天皇陛下万歳の声の三点に求めたようだが、
結果的には軍命も強制もなく、「集団自決」はパニックに陥った兄弟の「狂行」(判断ミス?)といった印象しか残らなかった。
もし、NHKが従来どおり、裁判直前(9月9日)の被告側支援の意図で「集団自決は軍命であった」というプロパガンダ番組を放映したつもりなら、
自爆番組だったといわざるを得ない。
◆
どうも、ほろ酔い加減でうつらうつらと見ていて番組に、
一夜明けてのコメントなので、まとまりが付かなくて申し訳ありません。
番組終了直後にコメント頂いた「なお」さんの感想が、
簡潔で要領を得ているので、以下に引用いたします。
≪金城兄弟は、
①村長の「天皇陛下万歳」という声
②手榴弾を叩く音
③生きて虜囚の辱めを受けずという教育
が自決命令だったとのナレーションでした。
③はさておき、①②ともに軍は直接関係ない。
また、金城兄の証言で、
なぜ集団自決が起きたか?という問いに対して、
教育が敵軍の捕虜になるな、と・・・・と答えていました。
その金城兄弟は軍に会ってみんなが生きていることを知ったんで死ななくてすんだというナレーションでした。
渡嘉敷島の特攻隊員100人のうち80人が生き残り、そのうちの一人の東京赤羽の新徳さんは自決があったことを4か月後に知ったと。
金城重明氏は一度も慰霊したことがないと。
最初はプロパガンダ満載でしたが終わりに近づくにつれ、軍命令がなかったという証明をしているような番組でした。
とにかく軍命令の根拠はゼロでした。≫(なおさんのコメント)
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2008年08月28日 (木曜日)
高校社会科教師 教科書検定問題考える
文部科学省の教科書検定意見に抗議する県民大会から間もなく1年が経ちますが、この問題について改めて考えようと、社会科の教師たちが8月27日夜、那覇市で集会を開きました。集会には高校の社会科の教師、およそ50人が参加しました。
教科書検定意見を巡っては2007年9月の県民大会以降も、沖縄から国に対し記述を元通りにするよう要請が続けられていますが、国は当初の姿勢を崩していません。教師たちからはこの問題を学校現場でどうとらえ生徒たちに教えていくか、悩みの声も上がっていました。
教師たちは、「(歴史を)調べているところと学校現場はとても遠いということが分かった」、「昨年来の活動には多くの高校生が参加したはずなのに、やはり学校現場の中では討論ができない」などと話していました。
教師たちは県民大会について授業でとり上げたいと考えていて、今後も教育現場で議論を重ねると話しています。
◇
>、「(歴史を)調べているところと学校現場はとても遠いということが分かった」、「昨年来の活動には多くの高校生が参加したはずなのに、やはり学校現場の中では討論ができない」
教師が「集団自決」についての授業で苦悩しているというが、教師自身がイデオロギーに捉われていたら、学校現場は授業という名を借りた政治集会になってしまう。
何よりも、「11万人集会」というデタラメを金科玉条に掲げている限り、まともな生徒なら授業をバカにするだろう。
ほとんどの高校の社会科教師が属している「歴史教育者協会」だって左翼教師の集団だし。
高校の社会科教師こそ、なまじ中途半端な知識があるだけに、こんなに始末に終えないものはない。
昨年の「11万人集会」前、30年近く高校の社会科の教師をして県会議員になったK女史と県議文教委員の一行が、アリバイつくりのため渡嘉敷島に現地聞き取り調査に行ったとき、とんでもない発言をしたが、同行していながらこれを報じる新聞はなかった。
集団自決を体験した金城武徳さん(75)が証言しようとすると、自分のイデオロギーと違うと見るや次のように発言したという。
「私は、社会科の教師を30年近くやってきました。よってこの問題には造詣があります。」「戦争を美化しないで下さい。」
実体験者の証言より詳しいとは、この女子は霊能者なのだろうか。
詳細はアリバイ作りの県議団調査 結論は決まっていた!にあるが、
下記に一部抜粋引用する。(説明する金城さんを見ているK女史が下記写真にバッチリ写っている)
◇
県議会文厚委 検定撤回へ現地調査 文部科学省の教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する日本軍強制などの記述が修正・削除された問題で、県議会文教厚生委員会(前島明男委員長)は6日午前、渡嘉敷島で「自決」現場を視察したほか、「集団自決」の生存者らから聞き取り調査を始めた。午後には座間味島に渡り調査する。 (7/6 16:05)全文 >>> |
「集団自決」の生存者から当時の話を聞く県議会文教厚生委員会の委員ら=6日午前10時半ごろ、渡嘉敷村 |
上記写真で調査団を先頭で案内している当時14歳の金城武徳さん(75)の証言は新聞では肝心の部分は完全に封鎖殺された。
一方、当時僅か6歳の吉川さん(67)の証言は事細かに取り上げ「軍命令はあった」と結論付けている。
■デタラメだった聞き取り調査■
島の人によると、聞き取り調査は実に酷いものだったという。
金城さんが「軍の命令は無かった」と証言すると、
議員団のK女史(社民党)は、金城さんの発言を封じるように次のように決め付けたという。
「私は、社会科の教師を30年近くやってきました。よってこの問題には造詣があります。」「戦争を美化しないで下さい。」
当時15歳で生き残ってきた証言者に対して、この「決め付け」発言がこの調査団の左翼的性格を物語っている。
証言者の発言を封じるなら何のための聞き取り調査だったのか。
そう、議会決議に合致する証言だけを聞けばよかったのだ。
「不都合な証言」を聞く耳など最初から持ち合わせてはいなかった。
社会科の教師をしていたら証言を聞かなくとも全てをお見通しだとは細木数子先生もきっとびっくりでしょう。
又調査団の団長で、後に「県民大会実行委員長」となる仲里県議会議長は、調査現場で驚くべき発言をしている。
あの「毒おにぎり」証言の仲里議長である。
「みんなで既に決めたこと(採択したこと)だから、早く話をまとめましょう」
もう既に決まった結論のアリバイ造りの調査だったことがこの議長の一言で、語るに落ちてしまっている。
この調査団の左翼偏向的性格は今更説明を要しないが、この一連の県議団の動きがマスコミのセンセーショナルな報道と相まって、
その後県民を狂乱の渦に巻き込んでいく。
沖縄タイムスは恥知らずにも、
「証言を聞き終えた前島委員長は「検定意見削除は県民の総意だ。文科省にさらに強く訴えていく」という文で締めくくっている。
そう、タイムスは己が創作した“県民の総意”が重要であり、
重要証人の証言などどうでも良かったのだ。
沖縄タイムスは結局、聞き取り調査の証言は封殺して、自分が作ったシナリオ・「県民の総意」さえあれば、歴史の事実を捏造できると信じているのか。
デタラメな調査で「県民の総意」を捏造される県民もたまったものではない。
◇
学校教師のデタラメぶりは、下記エントリーに詳しい。
小学生を洗脳! 左翼教師が「集団自決」創作
死者を冒涜する「プロパガンダ劇」 児童をを使った卑劣な行為
小学生を授業で洗脳/沖縄県民を洗脳しているテレビ
◆
今朝のテレビ案内のNHK総合欄に次のような案内がある。
≪8:00 九州沖縄スペシャル
集団自決・新たな証言
沖縄戦から63年の苦悩
“肉親を手にかけた”
渡嘉敷島・兄弟の告白≫
NHKは裁判が近くなってくると、被告援護の為の特集番組を放映する。
控訴審(大阪高裁)の第2回口頭弁論が9月9日なのでまたぞろNHKか、という感じで、「新しい証言」は期待できない。
未だ見ないうちにコメントも出来ないが、≪肉親を手にかけた”
渡嘉敷島・兄弟の告白≫から推測すると、第一審の判決前に放映された≪NHK「渡嘉敷島の集団自決」≫の「金城重明・重栄兄弟の告白」の焼き直しだとは思うのだが・・・。
弟の重明氏は戦後島を出て本島に在住し「集団自決」の語り部として地元マスコミは勿論本土大手新聞でも再三登場し、証言を綴った著書もある有名人である。
その男は手りゅう弾を二個ずつ呉れたが、彼が兵器係であったことは 後で知った。
自分達兄弟には手りゅう弾はなかった。
3時過ぎ村長が「天皇陛下万歳」を叫び、次々「集団自決」が始まった。
「生き残ることへの恐怖」が自決を加速させた。
木の枝で作った木の棒で肉親に自ら手を下す、・・・それは家族への愛であった。
このまま死ぬより1人でも敵を倒して死のうと切り込みに向かう途中、日本兵に遭遇し島がまだ玉砕していないと知った。
番組では語られなかったがその後二人は日本軍の陣地で数日過ごすことになる。
◇
重栄氏の顔が画面アップで「木の棒で肉親を手にかける」と言った時、一瞬表情がこわばって重栄氏の言葉が止まった。
その時彼の脳裏には肉親を自分の手にかけた地獄絵のほかにもう一つの地獄絵が思い浮んだと想像する。
重栄、重明兄弟は肉親の他に他人も手にかけていたのだ。
しかもそのうちの数人は生き残って島で生活している。
兄弟にとってこれ以上の地獄が他にあろうか。
弟の重明氏が戦後島を出て宗教の道に入った心境も理解できる。
だが、肉親どころか他人まで自分が手にかけた重明氏は自分達の取った行動を自責の念で「家族への愛だった」と弁明する。
その一方、責任転嫁で「軍の強制だった」と言い続けなければ生きてはいけなかった。
「集団自決」とは何だったのか。
追い詰められた末の、閉鎖空間における極限的な状況が生み出した「狂気」のなせる業であり、その「狂気」は元々人間の内部に潜む。
この解明には歴史家はもとより心理学者の検証研究が不可欠と考える。
◆
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一昨日のエントリーで米民政府の職員で新聞記者としては素人同然だった太田良博氏が、沖縄タイムスに呼ばれて『鉄の暴風』の執筆を始める事をかいた。
⇒『鉄の暴風』と米軍の呪縛 |
では、素人同然の太田記者に『鉄の暴風』に執筆という重責をゆだねた沖縄タイムス社が、交通も通信もままならぬ当時の沖縄で、現在の新聞社のような機動力をもって短期間で「体験者」を集めることが出来たのか。
当時の沖縄では、交通・通信等の手段を独占していた米軍の強大な力なくして、沖縄タイムスが情報源を確保することは考えられないことである。
昭和24年当時は民間人が沖縄全島を自由に通行することが許可されてからまだ2年しか経っておらず(昭和22年 3月22日許可)、何よりも、住民の足となる日本製トラックが輸入されるようになるのが、その年(昭和24年)の12月17日からである。
住民の交通事情をを考えても、その当時米軍の支援なくしての『鉄の暴風』の取材、そして執筆は不可能である。
太田氏が取材を始めた昭和24年頃の沖縄タイムスは、国道58号から泊高橋を首里城に向かって伸びる「又吉通り」の崇元寺の向かい辺りにあった。
その頃の那覇の状況といえば、勿論又吉通りは舗装はされておらず、通行する車両といえば米軍車両がホコリを撒き散らして通るくらいで、沖縄タイムス社向かいの崇元寺の裏手から首里方面に向かう高台には、まだ米軍の戦車の残骸が放置されているような有様であった。
太田記者はドキュメンタリー作品の基本である取材に関しては、何の苦労もすることもなく、米軍筋を通してでかき集められた「情報提供者」達を取材し、想像で味付けして書きまくればよかったのだ。
「取材」は沖縄タイムスの創刊にも関わった座安盛徳氏(後に琉球放送社長)が、米軍とのコネを利用して、国際通りの国映館の近くの旅館に「情報提供者」を集め、太田氏はそれをまとめて取材したと述べている。
三ヶ月という短期間の取材で『鉄の暴風』を書くことができたという太田氏の話も納得できる話である。
余談だが座安氏が「情報提供者」を集めたといわれる旅館は、当時国映館近くの浮島通りにあった「浮島ホテル」ではないかと想像される。
その後同ホテルは廃業したが、通りにその名前を残すほど当時としては大きなホテルで、米軍の協力で座安氏が「情報提供者」を全島から集められるほど大きな「旅館」は、当時では同ホテルを除いては考えにくい。国映館は今はないが、太田記者が取材した昭和24年にも未だ開業しておらず、後に世界館として開業し、国映館と名を変えた洋画専門館である。
このように太田記者の経験、取材手段そして沖縄タイムス創立の経緯や、当時の米軍の沖縄統治の施策を考えると『鉄の暴風』は、米軍が沖縄を永久占領下に置くために、日本軍の「悪逆非道」を沖縄人に広報するため、戦記の形を借りたプロパガンダ本だということが出来る。 当時の沖縄は慶良間上陸と同時に発布された「ニミッツ布告」の強力な呪縛の下にあり、『鉄の暴風』の初版本には米軍のヒューマニズムを賛美する「前書き」があったり(現在は削除)、脱稿した原稿は英語に翻訳され、米軍当局やGHQのマッカーサーにも提出され検閲を仰いでいた。
『鉄の暴風』を書いた太田記者の取材源は、「社」が集め、「社」(沖縄タイムス)のバックには米軍の強大な機動力と情報網があった。
ちなみに民間人の足として「沖縄バス」と「協同バス」が運行を開始するのは翌年、『鉄の暴風』が発刊された昭和25年 の4月1日 からである。
『鉄の暴風』の出版意図を探る意味で、昭和25年8月に朝日新聞より発刊された初版本の「前書き」の一部を引用しておく。
≪なお、この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられ、更正第一歩踏み出すことができたことを特記しておきたい≫
米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。
実際、沖縄戦において米軍は人道的であったのか。
彼らの「非人道的行為」は勝者の特権として報道される事はなく、すくなくとも敗者の目に触れることはない。
ところが、アメリカ人ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』は、米軍の沖縄戦での残虐行為に触れている。
その一方、米軍に攻撃された沖縄人によって書かれた『鉄の暴風』が米軍の人道性を褒め称えている事実に、この本の欺瞞性がことさら目立ってくる。
沖縄戦で米軍兵士が犯した残虐行為をアメリカ人ヘレン・ミアーズが同書の中で次のように記述している。
≪戦争は非人間的状況である。自分の命を守るために戦っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、おびえきった若い米兵が、日本兵のあとに続いて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、おびえきっている人間なのである。戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。≫(ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」)
『鉄の暴風』が発刊される二年前、昭和23年に『アメリカの鏡・日本』は出版された。
著者のヘレン・ミアーズは日本や支那での滞在経験のある東洋学の研究者。
昭和21年、GHQに設置された労働局諮問委員会のメンバーとして来日し、労働基本法の策定に参加。アメリカに帰国した後、同書を書き上げた。
だが、占領下の日本では、GHQにより同書の日本語の翻訳出版が禁止され、占領が終了した1953(昭和28)年になって、ようやく出版されることとなった。
沖縄人を攻撃したアメリカ人が書いた本がアメリカ軍に発禁され、
攻撃された沖縄人が書いた『鉄の暴風』がアメリカ軍の推薦を受ける。
これは歴史の皮肉である。
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小型ながらも近代装備の高速艇の乗船券を持ちながら、あえてそれを捨て、沈没しかかった大型泥船に乗り換えようとする学者バカの面々がいた。
沖縄の近代史に名が出てくる人々は、紛れもなく当時の「学識者」たちである。
学ある人々が正しい判断が出来るとは限らない。
⇒学あるバカは恐ろしい!
タイムスの後田多敦記者は幸地朝常、林世功、蔡大鼎一行を、琉球近代史の英雄と捉えているようだが、
彼らこそ、「なまじ学あるバカ」の典型ではなかったのか。
歴史上の人物に「バカ」は礼を失するので、
「歴史の流れを見誤った人々」とでも言い換えておこう。
だが、現在でも泥船を援軍の黄色い軍艦と信じている人は、「本物のバカ」なのだろう。
◆『沖縄タイムス』大弦小弦 (2005年8月8日 朝刊 1面)
やんばるへ出かけたついでに、名護の湖辺底の港を訪ねてみた。高速道路の許田IC近く、周辺の木立や砂浜が昔の琉球の面影を残しているようで、味わいのある景観だ。琉球国時代は、薩摩への上納米を集積する四津口(港)の一つだったという。
この港から、一八七六年十二月十日に琉球から中国へ最初の政治亡命となる幸地朝常、林世功、蔡大鼎一行が出航した。その馬艦船には国王尚泰の密書を携えた幸地、通訳や医師、身の回りの世話をする者らおよそ四十人が乗っていた。
琉球と明治政府のせめぎ合いは、彼らの主体的な活動で清を巻き込んだ琉球の主権問題として拡大していく。その中で、琉球を二分し日清が分割所有するとの案を日清間で合意。その渦中の八〇年、林世功は抗議の自殺をしている。
つい最近、北京大学の徐勇教授が「沖縄が日本の領土になったのは琉球王国に対する侵略の結果であり、第二次世界大戦後の米国からの返還も国際法上の根拠を欠き『主権の帰属は未確定』」との論文を発表した。
共同通信が北京発で伝えた(二日付朝刊)。表面から消えたかに見えた琉球問題が、再び話題になり始めている。二十世紀もカイロ宣言からポツダム宣言、さらにサンフランシスコ平和条約と沖縄の位置は大きな課題とセットで動いた。
歴史の節目で翻弄されるのか、それとも自らかじを取るか。主体的なら、選択肢があることを歴史は教える。(後田多敦)
◇
>表面から消えたかに見えた琉球問題が、再び話題になり始めている。
やはり「本物のバカ」だ!
口直しに、太平山さんの「琉球処分」続編を以下に転載いたします。
◆
公開 琉球処分(5) 2008-08-22 21:44:02 太平山
中国の援軍と琉球処分
琉球処分(5) 幸地親方
先に私は「沖縄では先の琉球処分を日本の侵略としてとらえ琉球を被害者として見る向きがあり清国へ渡った幸地親方を始めとする頑固党一派を分島案を阻止した功労者として評価する偉い先生方もいます」と言いました。
その代表的存在が琉球大学教授の西里喜行氏だと思います。氏は平成10年6月1日~6月5日にかけて「琉球分割の危機」という題で沖縄タイムスに論考を寄せています。ちょうど10年前ですね。狼魔人さんも読まれたかと推察します。
それによると琉球分割案には3案あったことが記されています。以下のとおりです。
(1) 琉球列島二分割案(グラント提案)
前アメリカ大統領グラントが提起した案で実際には二分割案か三分割案か定かではないが日本政府は二分割案と受け止めたようです。すなわち北琉球の奄美、中琉球の沖縄本島、は日本が領有し宮古、石垣の南琉球は清が領有すると言った案です。
(2) 琉球列島三分割案(清国提案)
北島(奄美)は日本が南島(宮古、石垣)は清が領有し中島(沖縄本島)には琉球王国を復活させるという内容でした。
(3) 琉球列島二分割案(清国提案)
北島(奄美)、中島(沖縄本島) は日本が領有し南島(宮古、石垣)に琉球王国を復活させるという内容で交渉が難航した際の清国側からの代案というべきものでした。
以上ですが番号は交渉過程において提案された順に振ってあります。(1) ,(2)は大抵の人が知っていると思いますが(3)については西里教授の論文を読んで初めて知りました。宮古、石垣に琉球王国を復活させる。おもしろい話ですね。この件について、西里教授の論文を抜粋紹介しましょう。
(つづく)
公開 琉球処分(6) 2008-08-22 21:49:02 太平山 中国の援軍と琉球処分
琉球処分(6) 幸地親方
琉球大学教授西里喜行氏の論文「琉球分割の危機」より抜粋
>分島案については清国側も抵抗なく合意したが、尚泰およびその一族の引き渡し問題をめぐって難航した。清国側は割譲予定の南島に王国を復活させ、尚泰かその子息を国王に即位させるつもりで引き渡しを要求したけれども、日本側は尚泰一族の引き渡しを拒絶し、その代わり天津に滞在している琉球人の向徳宏(幸地朝常)を国王に即位させるよう勧告した。
当時、向徳宏(幸地朝常)は李鴻章への救援を要請中であった。分島案については、清国側代表は李鴻章の賛成を取り付けていたことから、李鴻章が説得すれば向徳宏(幸地朝常)は国王即位に同意するものと速断し、向徳宏の意向を確かめることなく、八〇年十月二十一日、日本側代表との間で琉球分割条約に合意するとともに、十日後に調印することを約束するのである。<
※以上ですが当の向徳宏(幸地朝常)はそれに対しどう対応したか、西里教授は次のように記しています。
>向徳宏の性格は忍耐強く忠誠心に富み、琉球王の親族であることも明白なので、尚泰以外の人物を琉球王に立てるとすれば、彼以上の人物はいない。ところが、当の向徳宏は貧瘠(ひんせき)の南部二島(宮古、石垣)に自立できる条件はないといい、分島=建国案は「断断として遵行(じゅんこう)し能わず」と泣いて訴え、どのような説得にも応じない等々。
「訴えに李の心動く」
琉球分割=南島建国に断固反対する向徳宏の悲壮な姿に感銘を受けた李鴻章は、ついにこれまでの分島案容認の態度を変更し、書簡の最後の一節で、日清交渉の妥結を延期するよう要請した。向徳宏は、李鴻章に態度変更を決断させる上で決定的役割を果たしたのである。しかし、十月二十一日の交渉妥結以前に、この李鴻章書簡が総理衛門(清国外務省)へ届いたのかどうかは明らかではない。いずれにせよ、李鴻章の態度変更は、琉球分割条約に調印すべきか否かをめぐる清国内の大論争の発端となる。<
※さて事態はどう動くか、全部紹介したいのですが西里教授の論文は大変長いものです。要約しながら向徳宏(幸地親方)について私見を述べてゆきたいと思います。
(つづく)
公開 琉球処分(7) 2008-08-23 12:11:35 太平山 中国の援軍と琉球処分
琉球処分(7) 幸地親方
向徳宏(幸地朝常)の嘆願と林世功(名城里之子親雲上)の自決をもっての請願に調印延期=再交渉論が大勢となり琉球分割の危機はひとまず回避されます。
「分割条約復活へ」
1881年6月24日、清国駐在のドイツ公使ブラントは、清国政府の意向を受けて、明治政府に琉球問題について日清再交渉を呼びかけます。明治政府は一旦ブラントの仲介を拒否しますが尚泰の嫡子尚典を清国側へ引き渡すことによって前年妥結済みの分割条約への調印を清国側に迫る方針を追求します。
外務卿の井上馨は香港総督ヘンネッシーにこの趣旨を清国側へ伝えるよう委嘱し、同時に清国側の意向を探らせます。ヘンネッシーが清国側に伝えたところ総理衛門(清国外務省)は難色を示しますが李鴻章はそれを積極的に受け止め、妥結済みの分割条約で決着をつける外に方法はないと判断します。そこへ駐日公使の黎庶昌(れいしょしょう)が妥結済みの分割条約に附帯条件(首里城の尚泰への返還)を追加する案を提案します。
「琉球の全面返還を」
黎庶昌から黎庶昌案を受け入れるよう説得された在京の馬兼才(与那原良傑、最後の三司官)はこれを拒否、この情報を北京在住の琉球人や琉球現地の士族層へ通報します。北京在住の毛精長らは馬兼才から情報を得るや直ちに総理衛門に請願書を提出し「琉球の全面返還なしには建国できず、黎庶昌案は亡国を意味するので断固反対して欲しいと訴えます。
一方、現地琉球側は連日会議を開き毛鳳来(富川盛奎、最後の三司官)を請願代表に選出します。それを受け毛鳳来は官職を辞し清国への亡命を決意し82年4月27日、随行者4、5人とともに福州へ向け出航します。福州へ到着するや、直ちに北上して北京に入り、琉球分割反対、全面返還要求を趣旨とする請願書を提出します。
新たに請願運動に加わった毛鳳来らの請願書は、清国内の対日強硬派を勢いづかせ、総理衛門の対日妥協案を牽制することとなり調印は再び延期されます。
1882年前半の第二次琉球分割の危機も、毛鳳来をはじめとする在清琉球人の懸命の分割阻止運動によって回避されるが、日清関係正常化の手段として、琉球分割条約が復活する可能性は90年代の初頭に至るまで潜在し続ける。したがってこの間、琉球人の分割阻止運動も継続する。
以上「琉球分割の危機」より要約紹介
琉球処分(8) 幸地親方
西里教授は琉球分割案が阻止されたのは、向徳宏(幸地親方)、毛鳳来(富川盛奎)、林世功(名城里之子親雲上)等の在清琉球人の懸命の分割阻止運動によるものと言われていますが、私はそれはおかしいと考えている。
そもそも琉球分割の危機を招いたのは誰か?向徳宏(幸地親方)らの請願運動が発端ではなかったのか。分割阻止運動は私から言えば、向徳宏らが自ら火をつけ自ら火消しに回ったに過ぎない。非情かもしれないがそう断定せざるを得ない。
「既得権を失うことを不服とした頑固党は新政府が佐賀の乱、西南の役で忙殺されている隙をつき明治10年3月琉球処分の撤回を求めて清国に救援の密使(幸地親方)を送った」
それにより本来国内問題であるはずの琉球問題が国際化しより複雑化してしまった。琉球分割案が出てきた時、向徳宏(幸地親方)は予想外の出来事に大変ショックを受けたことであろう。何としてでも阻止しなければならない。当然である。
西里氏の論文は琉球問題の発端となる向徳宏(幸地親方)の行動に全く触れていない。最も肝腎な部分だがそれへの考察がなされていない。それもそうだろう、それが否定されると後の向徳宏(幸地親方)らの阻止運動が全く意味をなさないものになってくる。私が「向徳宏らが自ら火をつけ自ら火消しに回った」と言ったのはその事である。
向徳宏(幸地親方)には琉球建国に対する何の戦略も戦術もビジョンもなかった。唯々、清国の情けにすがるより外はなかった。当時の国際情勢を見れば独立が如何に困難なことか、また問題を国際化すれば分島案も出てくるのは当然のことと何故予測できなかったのかと言いたい気持ちである。
そしてもっとも肝腎なことを忘れている。琉球国王尚泰は東京にいるのである。琉球建国に欠かせない存在であるならば、どうやって琉球国王尚泰を奪還するのかまずそれを考えねばならないのではないか。清国が日本と戦端を開き奪還してくれるとでも思っていたのだろうか。
清国がそれほど琉球のことを深刻に考えていなかったことは南島(先島)に琉球国を建国する案を出したことでも判る。清国は琉球をずいぶんと持て余していたのではないか。そんな余裕なんて無かったはずである。「かってにしろ!」というのが正直な気持ちではなかったのか。
私は問題をこじらせたのは明治政府にも責任の一端はあると考えている。何故に交渉に応じたのか。国内問題として突っぱねればそれで済むことである。大久保利通が生きておれば確実にそうしていたでしょう。大久保利通は清国を李鴻章を呑んでかかっていました。清国が当時日本と戦端を開くことはまずありえなかったのです。明治政府は分島案に同意したところを見ると先島なぞはどうでも良いと思っていたとも言える。
向徳宏(幸地親方)らの琉球建国運動は結局は琉球分割阻止運動にならざるを得なくなる。何という徒労であったことか。向徳宏の「生きて日本国の属人と為るを願はす、死して日本国の属鬼と為るを願はす」の言葉を聞くと本当に琉球国のことを考えていたのかと問いたくなる。
(終わり)
◆
太平山さんの「琉球処分前編」は以下のエントリーに転載してあります。
⇒中国の援軍と琉球処分
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やはり農水ポストは鬼門か。
太田誠一農相の首が風前の灯火。
だが、太田氏は「止めない」という。
ところがどっこい、「家政婦は見ていた」、じゃなくて、
池田信夫は見ていた。
しかも7年間にわたって。
天網恢恢疎にして洩らさず、というところか。
<太田氏側は「活動の主たる担当者である秘書官の自宅を事務所とした」と説明しているそうだ。しかし私は隣に7年間住んでいるが、この家で政治活動が行なわれている形跡(ポスターなど)を見たことがない。そもそも家族以外の人がこの家に出入りしたのを一度も見たことがない。>
一戸建てだというが池田氏とは壁一枚の隣同士(タウンハウス)だという。
悪代官のような人相の太田氏、「とんだところに池田信夫」。
そろそろ年貢の納め時のようだ。
悪代官の前職が学者先生だったとは驚きだが、「なまじ学あるバカは始末におえない」の典型だろう。
⇒学あるバカは恐ろしい!
悪代官の前職⇒福岡大学経済学部 助教授 、米国ブラウン大学 客員助教授
事務所費問題再燃も太田あ農相辞めない
(8月27日 06:02)
「日本の消費者はやかましい」発言で物議を醸したばかりの太田誠一農相に「事務所費問題」が浮上した。太田氏の政治団体が2005年以降、秘書官の自宅を事務所として届け、計約2340万円の経常経費を計上していたことが26日、判明。太田氏は「問題はない」と述べ辞任の考えがないことを表明した。しかし事務所費は裏金の温床ともされ、安倍前内閣では2人の農相を含む3閣僚がその座を追われる要因になっている。太田氏は極めて厳しい立場に立たされた。
安倍前内閣を崩壊に追い込んだ閣僚の事務所費問題が、鬼門の農相ポストで再燃した。
太田氏の政治団体「太田誠一代議士を育てる会」が東京都選挙管理委員会に提出した政治資金収支報告書によると、同会では05、06年分として事務所費計約550万円など、計約2340万円の経常経費を計上。事務所として届けられていた秘書官宅は、東京都目黒区の一戸建てで、それと分かる看板や表札などはなく、外見上は通常の民家と変わりはない。
太田氏は閣議後の会見で「事務所の届け出にはいろんな見方がある」と説明した。しかし経費を計上し始めた時期などを問われると「正確には覚えていない」と、あいまいな答えに終始。一方で辞任の意図を尋ねられると「そういう質問は理解できない」と語気を荒らげた。
しかし、領収書をそろえ架空計上の疑惑をぬぐい去ることが出来なければ、太田氏のみならず政権にとっても大きな痛手になりかねない。自民党の麻生太郎幹事長は「説明責任は政治家個人に問われている」と述べ、農相自らが説明を果たすべきだと強調したが、福田首相の任命責任も問われることになりそうだ。
政治ジャーナリストの伊藤達美氏は「明らかに問題があることを『問題はない』としか認識できないような人間を、閣僚にしてしまったこと自体が問題」と指摘。「政権に与える傷が深くなる前に辞めるべき。そうしないと、また問題を起こすでしょう」と話した。
これまでも、太田氏は失言と暴言を繰り返してきた。今月10日に出演したテレビ番組で「消費者としての国民がやかましくいろいろ言うと、応えざるを得ない」と発言。野党ばかりか、野田聖子消費者行政担当相からもひんしゅくを買った。
03年6月には、早大のサークル・スーパーフリーのメンバーによる女子大生集団暴行事件をめぐり、「集団レイプする人はまだ元気があるからいい」と話し問題化。同年11月の総選挙で民主党新人に敗れ落選の憂き目にあっている。
政治ジャーナリストの山村明義氏は「もともと学者あがりで気難しく空気の読めない人。また問題言動のフォローをしてくれる人間も周囲にいない」と指摘。辞任の可能性については「一人を辞めさせると雪崩現象が起きかねないので、福田首相は辞めさせたくないようです」と話した。
◇
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昭和24年、沖縄タイムスの太田良博記者は、『鉄の暴風』の取材のため、山城安次郎氏(当時の座間味村助役)に取材している。
太田記者の執筆手法には証言や史料の収集を基本とする新聞記者の姿勢はない。
渡嘉敷島や座間味島での現地取材をしていないことは勿論、取材といえば専ら「社」が集めた人々の話が主で、それも発言者の名前を記したメモの類もないという。
新聞記者の太田良博氏が、ドキュメンタリー作品の基本ともいえる当事者への取材もしないずさんな記述で『鉄の暴風』を書き上げたのに対して、それを批判する立場で『ある神話の背景』を書いた作家・曽野綾子氏のルポルタージュ的記述手法は極めて対照的であった。
曽野氏は伝聞に頼る太田氏のずさんさんな取材手法を同書の中で次のように指摘している。
<太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。一人は、当時の座間味の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起こった事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。もちろん、二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった>
この部分に関して太田氏は、後に沖縄タイムス紙上の曽野氏との論争で宮平、山城の両氏は辛うじて那覇で《捕えた》証言者ではなく、「(両氏が)沖縄タイムス社に訪ねてきて、私と会い、渡嘉敷島の赤松大尉の暴状について語り、ぜひ、そのことを戦記に載せてくれとたのんだことである。そのとき、はじめて私は『赤松事件』を知った」と反論し、「(両氏は)証言者ではなく情報提供者」とも述べている。
太田氏が宮平、山城の両氏とどのように接触したかはともかく、そのとき山城氏は渡嘉敷島の伝聞情報である「赤松大尉の暴状」について語り、「そのことを戦記に載せてくれ」とたのんでおきながら、何ゆえ自分が体験した座間味島のことを語らなかったのか。それが大きな問題なのである。
戦時中、南方に居たという宮平栄治氏のことは論外としても、山城安次郎氏は太田記者が言う情報提供者の枠を超えた実体験者であり、座間味島の集団自決を証言できる証言者のはずである。
事件を追う事件記者が、飛び込んできた事件の当事者を目前にして、他の事件の情報提供だけを受けて、実体験の事件に関しては何の取材もしなかった。
しかしこれは記者としてはいかにも不自然である。
太田氏の言うように、その時、何のメモも取らなかったということも、にわかには信じがたいことである。
このように新聞記者としては不適格にも思える太田氏が何ゆえ沖縄タイムスが社を上げて企画をした『鉄の暴風』の執筆を委ねられたのか。
その謎を解く鍵は太田氏の沖縄タイムス入社直前の職にあった。
太田良博記者の略歴を見ると、『鉄の暴風』の監修者の豊平良顕氏や共著者の牧港篤三氏のような戦前からの新聞記者ではない。
そもそも太田記者と沖縄タイムスとの関係は、沖縄タイムスの月刊誌にエッセイ、詩などを寄稿していたが、昭和24年に発表した『黒ダイヤ』という短編小説で注目を引いた、いわば投稿者と新聞社という関係だったという。
太田氏が戦後米民政府に勤務しているとき、沖縄タイムスの豊平良顕氏に呼ばれ、企画中の『鉄の暴風』の執筆を始めたことになっている。
米軍政府が沖縄の統治権を米民政府に移管するのは太田氏が沖縄タイムスに職を変えた後の昭和24年の12月15日以降になっている。
『鉄の暴風』の執筆時に米軍側と沖縄タイムスそして太田氏の間に「共通の思惑」があったと考えても不思議ではないだろう。
曽野氏は『ある神話の背景』の取材で太田氏に会ったとき、米軍と『鉄の暴風』の関係について、同書の中で次のように述べている。
≪太田氏は、この戦記について、まことに玄人らしい分析を試みている。 太田氏によれば、この戦記は当時の空気を反映しているという。 当時の社会事情は、アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。太田氏は、それを私情をまじえずに書き留める側にあった。「述べて作らず」である。とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその儘、記録することもまた、筆者としての当然の義務の一つであったと思われる。
「時代が違うと見方が違う」
と太田氏はいう。 最近沖縄県史の編纂をしている資料編纂所あたりでは、又見方がちがうという。 違うのはまちがいなのか自然なのか。≫
驚いたことに太田氏は『鉄の暴風』を執筆したとき、その頃の米軍の思惑を執筆に反映させて「アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばく」といった論旨で同書を書いたと正直に吐露していたのである。
このとき太田氏は後年曽野氏と論争することになるとは夢にも思わず、『鉄の暴風』を書いた本音をつい洩らしてしまったのだろう。
この時点で曽野氏は太田氏が記者としては素人であることを先刻見抜いていながら、「玄人らしい分析」と「褒め殺し」をして『鉄の暴風』の本質を語らしめたのであろうか。
曽野氏は、後年の太田氏との論争で,「新聞社が伝聞証拠を採用するはずがない」と反論する太田氏のことを「いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない」と「玄人」から一変して、今度は、「素人」だと一刀両断している。
◇
以下引用の太田記者の「伝聞取材」という批判に対する反論は、「はずがない」の連発と、
「でたらめではない」とか「不まじめではない」とまるで記者とも思えない弁解の羅列。
これでは曽野氏に「素人のたわごと」と一刀両断されるのも仕方のないことである。
「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載4回目
<体験者の証言記録
『鉄の暴風」の渡嘉敷島に関する記録が、伝聞証拠によるものでないことは、その文章をよく読めばわかることである。
直接体験者でないものが、あんなにくわしく事実を知っていたはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を、新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないものの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。永久に残る戦記として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私(『鉄の暴風』には「伊佐」としてある)は、そんな不まじめな態度でのぞんだのではなかった。 >
「「沖縄戦」から未来へ向ってー太田良博氏へのお答え(3)」
(曽野綾子氏の太田良博氏への反論、沖縄タイムス 昭和60年5月2日から五回掲載)
<ジャーナリストか
太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある。
太田氏は連載の第三回目で、「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と書いている。
もしこの文章が、家庭の主婦の書いたものであったら、私は許すであろう。しかし太田氏はジャーナリズムの出身ではないか。そして日本人として、ベトナム戦争、中国報道にいささかでも関心を持ち続けていれば、新聞社の集めた「直接体験者の証言」なるものの中にはどれほど不正確なものがあったかをつい昨日のことのように思いだせるはずだ、また、極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったということを承認した例がある。いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない。 >
太田 良博
本名、伊佐良博。1918年、沖縄県那覇市に生まれる。早大中退。沖縄民政府、沖縄タイムス、琉球放送局、琉球大学図書館、琉球新報などに勤務。その間詩、小説、随筆、評論など発表。2002年死去
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やはりロシアはせっかく相手(グルジア)が仕掛けてきた絶好の喧嘩の口実を、そう簡単に手放すはずはなかった。
話し合いとしょうして握手をしながらテーブルの下では蹴り続けていた。
米艦艇がグルジア沖に到着…露軍、石油輸送列車を爆破か (8月24日 20:59)
【バトゥーミ(グルジア南西部)=松浦一樹】ロシア軍によるグルジア侵攻で、グルジア向けの人道支援物資を積んだ米第6艦隊所属のイージス駆逐艦マクフォールが24日、グルジア西部バトゥーミ港沖に到着した。搭載している毛布や食料など人道物資約55トンは、小型船で港に順次、陸揚げされるという。
当初、米艦船はバトゥーミ港の北約80キロのポチに入港すると伝えられていた。しかし、ロシア軍がポチを管理下に置き、港湾地帯の警戒を強化したため、寄港地を変更したと見られる。
一方、AP通信などによると、ロシア軍部隊が撤退を完了したグルジア中部ゴリの近郊で24日、石油搬送中の輸送列車が爆発、30両のうち約10両が炎上した。死傷者はいないという。列車は、隣国アゼルバイジャンからグルジアの黒海沿岸の港に向かう途中だった。
グルジア内務省スポークスマンは、「線路に仕掛けられた地雷が原因」と指摘。ロシア軍部隊がグルジア領内に侵攻した際、石油輸送に使う鉄道の鉄橋や港湾を破壊したことに触れながら、「爆発はロシア軍によるものだ」と非難した。
(8/24)グルジアで石油貨車が爆発 ゴリ近郊 ロシアが地雷敷設か
【モスクワ=坂井光】「撤退完了宣言」後もロシア軍の一部駐留が続くグルジアで24日、中部ゴリ近郊で石油を輸送していた鉄道貨車が爆発した。ロイター通信などによると、現地の警察当局は地雷に触れた可能性があると説明した。ロシア軍が撤退前に地雷を敷設したとの情報があり、新たな対立の種になりそうだ。
一方、黒海沿岸のグルジア西部バトゥーミに人道支援物資を積んだ初の米海軍のミサイル駆逐艦1隻が同日到着した。
貨車の爆発が起きたのはゴリ西方約5キロの地点。現地テレビには赤い炎と黒煙をあげて燃える様子が映し出された。貨車が積んでいた石油はアゼルバイジャン産で黒海沿岸の輸出港であるポチやバトゥーミに輸送される予定だった。
◇
第二次大戦の終結直前、1945年3月、ルーズベルト米大統領、スターリンソ連首相、チャーチル英首相が黒海の北岸クリミヤ半島にある宮殿で戦後処理に関するクリミヤ会議を行った。
あれから63年。
黒海艦隊 のホームグラウンドである黒海の波が高い。
⇒ロシア部隊、ポチ港に駐留継続=米艦船の人道支援で緊張も-グルジア
⇒【露・グルジア紛争】 独、スペインのフリゲート艦も黒海入り (8月23日 00:04)
そして、負けじとポーランドも。
えっ? ポーランドとロシアは一触即発ではなかったの?
ついこの前こんなことがあったばかりなのに。
⇒「ポーランド防衛の義務ある」…露の警告に米国務長官 (8月21日 14:30)
「平和の祭典」が終わったばかりなのに、
「黒海戦争」とは・・・。
⇒【グルジア紛争】空爆、略奪、痛々しい痕跡…中部ゴリ、恐怖の2週間
こんな状況では戦争も延長戦になる模様。
戦争は勘弁してほしいものだ。
【グローバルインタビュー】グルジア紛争とプラハの春を比較、ホープ・ハリソン元国家安全保障会議(NSC)ヨーロッパ・ユーラシア部長
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「北京の空は青かった」
「紅衛兵の目は澄んでいた」
「新中国には鼠もハエ一匹いない」
「新中国では鍵をかけずに外出できる」
・・・、などと日本を代表する大新聞社が大真面目で報道していた時代があった。
今時こんなことをいったら、お笑いのギャグにもならない。
だが、一旦吹き込まれた思い込みは,なかなか消えるものではなく、
沖縄タイムスの中国への思い込みは、未だに変わっていない。
だが、中国が抱える数々の問題を世界の目に晒したことと、一部の者が未だ抱き続ける「中国幻想」を木っ端微塵に粉砕したことでいえば、
北京オリンピックは有意義な大会であった。
沖縄タイムスは北京派遣の嘉数よしの記者のオリンピック特集記事で、
「環境問題や貧富の格差、少数民族の弾圧、国内問題の多さから『前代未聞のオリンピック』」としながらも、
「中日友好の鍵は沖縄」(沖縄タイムス 8月24日見出し)
(「日中」ではなく、「中日」というところにタイムスのこだわりがある)
と、相変わらず中国への幻想を捨てられずにいる。
◇
北京オリンピックは「戦争と平和」という人類歴史上の大テーマについても象徴的な大会だった。
大会期間中、「平和の祭典」をあざ笑うように勃発した、ロシアとグルジアの戦争については二度ほどエントリーした。
⇒ロシアの陰謀と中国の面目 「虐殺のオリンピック」の舞台裏
⇒グルジアの軽挙かロシアの陰謀か
「話し合いをしなさい」、と書生論を述べる新聞もあったが、
グルジア紛争 停戦合意は行動で示したい(2008.8.16)
話し合いで済むなら人類の歴史から戦争は消える。
「話せばわかる」といった瞬間、
「問答無用」と暗殺されたエライ政治家もいた。
話し合いをして、握手をしながらもテーブルの下では、相手の足を踏みつけたり、急所を蹴り続ける。
これがロシアのような喧嘩上手のやり口。
プーチンがせっかく手に入れた喧嘩の口実を簡単に手放すとも思えなかった。
日本人はよく、喧嘩両成敗というがが、現実は必ずしもそうはいかない。
喧嘩している当事者の方が「成敗する」側より強力だったら、
逆に成敗されてしまう。
ロシアは撤兵を約束しながら、グルジアからまったく撤退しないのは、当初からこの戦争には大きな目的があったから。
欧米が口先だけでロシアを非難するだけで何も出来ないのは逆に成敗されるのが怖いから。
ロシアはグルジア大統領をアメリカの傀儡とみており、この政権とは話し合わないというのが本音。
ロシアのもう一つの本音は親米の現グルジア大統領を反米・親露の大統領と交替させること。(アフガニスタンのカルマル?政権を想起すればよい)
その口実を作るためにグルジアに先に手を出させるという喧嘩上手の高等戦術を使った。
日本のマスコミの一部にグルジアのほうが先に手を出したのだから悪いと論評する人がいるが、
嘗てKGBが世論工作で、日本のマスコミを世論操作したことを思い起こせばよい。
プーチンがKGB出身であることをゆめゆめ忘れてはいけない。
日本は先に真珠湾攻撃をして、
すっかり悪者にされてしまったが
喧嘩上手のルーズベルトの陰謀は、
プーチンに現在でも引き継がれている。
【産経抄】8月23日
2008.8.23 03:35
チェコの生んだ作家、フランツ・カフカは子供時代にプラハ市内を転々としている。父親の仕事の都合で家族が転居をくり返していたからである。生まれて間もなく移り住んだのが、救国の英雄の名が付けられたバーツラフ広場の近くだった。
▼池内紀氏の『となりのカフカ』によれば、広場は「ポッカリとあいた長方形の箱」といった感じだという。カフカは広場に面したホテルのカフェで友人と落ち合い、おしゃべりしていた。そしてプラハ市民も、何かあると「この広場にやってくる」のだそうだ。
▼カフカの死後44年たった1968(昭和43)年8月、ソ連軍がチェコ全土に侵攻してきたときもそうだった。市民たちはこの広場に集まり、ソ連の戦車を取り囲み抗議した。しかし圧倒的な軍事力の前にチェコの民主化「プラハの春」は押しつぶされてしまった。
▼当時、カフカの小説は日本でもよく読まれていた。若者たちにとって「知性」のシンボルのようなものだった。ところが、そのカフカの故地、プラハがソ連によって蹂躙(じゅうりん)されても、日本の若者が抗議の声を上げることは少なかった。むろん「文化人」たちもそうだった。
▼抗議の矛先はむしろ日本の政治や社会、米国へと向けられていた。社会主義への幻想がまだ強かったのか、他国を他国と思わぬソ連の横暴には「鈍感」だった。そしてこの鈍感さは、ソ連を継承するロシアによるグルジア侵攻が起きても、変わっていないようだ。
▼北京五輪の陰に隠れたということもある。だがロシア軍の居座りより、米露の対立激化を心配するような論調が現れては首をかしげたくなる。日本にとってグルジアはプラハ、そして北方領土へとつながる問題だということを忘れてもらっては困る。
◇
>抗議の矛先はむしろ日本の政治や社会、米国へと向けられていた。社会主義への幻想がまだ強かったのか、他国を他国と思わぬソ連の横暴には「鈍感」だった。そしてこの鈍感さは、ソ連を継承するロシアによるグルジア侵攻が起きても、変わっていないようだ。
産経抄は触れていないが、この当時の日本のマスコミは完全にKGBの世論工作の術中にはまっていた。
◇
以下は話し合いしながらも、
喧嘩を止めたくないロシアの本質を表す記事。
なるほど、軍隊は撤退完了しても「和平維持部隊」は残留させるというわけだ。
これをまやかしだという人は、自衛隊を軍隊と認めなければならない。
そのためには、憲法を改正しなければならない。
露軍「グルジア撤退完了」 緩衝地帯設置し、監視ポストに450人駐留
【モスクワ=佐藤貴生】グルジア紛争をめぐり、ロシアのセルジュコフ国防相は22日、メドベージェフ大統領への報告で、南オセチア自治州の境界を越えグルジア領内に設けた「緩衝地帯」でロシア軍が監視活動を開始したことを明らかにした。
国防相はロシア軍が同日夜、南オセチアへの撤退を完了したと発表。ただしロシアは、南オセチアの境界を越えたグルジア領周辺を「緩衝地帯」に設定し、18カ所の監視ポストを置いて計450人の部隊を駐留させる方針を示していた。
フランス通信(AFP)によると、グルジア中部のゴリ近郊では、ロシアの軍用トラックや装甲車が砂ぼこりを上げながら南オセチアへと向かった。これに代わり、待機していたグルジアの警察隊がゴリに戻りつつある。
ロシア軍は南オセチアを経由してロシア領内に戻る予定。ロシア軍司令官は、グルジアへの軍事介入に伴い増派した部隊については、10日以内に南オセチアからロシアに撤退させると表明している。
また、ロシア軍のノゴビツィン参謀次長は、南オセチアと同様に分離独立を主張しているアブハジア自治共和国の境界を越えたグルジア領内にも「緩衝地帯」を設定し、18カ所の監視ポストを置くことを明らかにしている。黒海沿岸のポチ港付近では、ロシア軍が22日、幹線道路で検問所の設置を始め、撤退とは逆行する動きも見せている。
グルジアのサーカシビリ大統領は国家安全保障会議で、ゴリなどからのロシア軍の撤退について「(完全撤退に向けた)良いスタートで、正しい方向への歩みだ」と評価したが、グルジア内務省報道官は「撤退完了は事実ではない」とロシア側の主張を否定している。
◇
ロシア軍が南オセチアへ撤退発表、グルジアは緩衝地帯に反発
グルジア・トビリシ(CNN) グルジアの南オセチア自治州をめぐるロシアとの軍事衝突で、ロシアのセルジュコフ国防相は22日、グルジア領内に展開していたロシア軍が南オセチア自治州へ撤退したと述べた。インタファクス通信が伝えた。
欧州連合(EU)の議長国フランスの調停で先に合意した和平原則に基づく措置。ただ、ロシアは、南オセチア州境を越えたグルジア領に設定した緩衝地帯にロシアの和平維持部隊は残留させる方針。制圧していたグルジア中部の要衝ゴリからも撤退した。ロシア政府は22日までにロシア軍撤退を完了させると約束していた。
一方、グルジア内務省は、増派部隊が和平維持部隊を装っているだけだと反発している。緩衝地帯の設置についてロシアは和平原則6項目に含まれていると主張。グルジア、米国などは否定しており、新たな対立点となっている。ロシア軍は緩衝地帯で監視ポストなども構築し、グルジア軍ににらみを利かせている。
また、南オセチアと同じくグルジアからの分離独立を主張するアブハジア自治共和国近郊でも緩衝地帯を設定した。南オセチア、アブハジアとも親ロ路線を進めている。
◇
国連本部(CNN) グルジアに侵攻したロシア軍部隊について、ロシアのチュルキン国連大使は21日、報道陣とのインタビューで、全部隊が22日夜までに撤退すると述べた。同大使は一方で、「一部の司令官は、撤退を実行するのに10日間かかるとの見方を示している」とも語った。
ロシア軍、緩衝地帯で監視開始 グルジアや米は反発
【モスクワ23日共同】グルジア・南オセチア自治州情勢をめぐり、ロシアのセルジュコフ国防相は22日、メドベージェフ大統領への報告で、自治州の境界を越えてグルジア領内に設けた緩衝地帯でロシア軍が監視活動を開始したことを明らかにした。
ロシア大統領府が発表した。しかしAP通信などによると、グルジアや後ろ盾の米国は緩衝地帯の設置を「違法」と非難しており、新たな対立の火種となるのは必至だ。
国防相は同日、グルジアからの撤退が完了したと述べたが、米ホワイトハウスによると、グルジア情勢の和平原則を仲介したフランスのサルコジ大統領とブッシュ米大統領は電話会談し「ロシアが(合意した和平原則に)従っていない」との認識で一致、ロシア軍の撤退完了を疑問視した。
ロシア軍は「責任ゾーン」「安全地帯」と呼ぶ緩衝地帯を自治州境界外のグルジア領内に設け、18カ所の監視ポストと約450人の平和維持軍部隊を配備し、グルジア軍を排除する計画。
◇
「責任ゾーン」「安全地帯」と呼ぶ緩衝地帯がかつてドイツにあった。
⇒「ベルリンの壁」
現在もある緩衝地帯は
⇒「板門店」
冒頭に戻って
「中日友好の鍵は沖縄」
なんて記事を平気で書く沖縄タイムスは、
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沖縄は99%の良い人と1%の悪い人から成り立っていると書いてある掲示板を見たことがある。
この数字の当否は別にして、沖縄の「民意」が左翼メディアにを根城とする、一握りのインテリ層である大学教師、教職員や作家達によって振り回されている事は事実だ。
大多数の沖縄人は意見を述べる場も持てず、振り回される「民意」の波に右往左往するばかり。
その伝統は明治期の土地、税制、教育そして保健衛生の改革断行時にまで遡る。
琉球王国の一握りのインテリ層である王族、支配層の役人達は親中国派が多く「頑固党」を結成し、明治政府の各種改革に抵抗した。
中国(清)の軍艦が琉球王国救援にやって来ると本気で信じる時代の流れの判らないインテリも居た。
中には既得権を失うのを恐れて、清に亡命をした「脱清人」と呼ばれるインテリもいた。
そして彼らの「パラダイスであった琉球王国が日本の侵略により悲惨な沖縄県になった」という思想は脈々と「琉球処分」と言う言葉で現代に受け継がれている。
この一握りのインテリ達は現在でも軸足を日本に置くことを拒否し、「在日琉球人」を自称する新聞記者さえいる。
琉球王国時代の各種旧弊を改めるため明治政府が行った各種の近代化政策を「皇民化政策」と捉え反日教育に専念する。
ちなみに明治政府が沖縄県設置当初行った「旧慣温存策」は、現在の政府が行っている各種の「県民配慮」のはしりだったとも思える。
もっとも、当時の状況から「県民」という概念より、既得権を失った「一部支配層」である頑固党への懐柔策だったのだが。
ん?
現在でも同じだって?
一部の「ノイジィーマイノリティ」への懐柔策」だって?
頑固党の例⇒義村朝明 (よしむら・ちょうめい)、
亀川盛武 (かめがわ・せいぶ)
彼らも「ノイジィーマイノリティ」だったのか。
琉球王国の幻は果てしなく広がり、「武器を持たない平和を愛する国だった」はともかくとして、「琉球王国時代は殺すと言う言葉が無いほど平和だった」という文を見るに及んで「平和幻想」もここに極まれりと思った。
復帰直後の笑い話で、本土出身の検事が容疑者が「殺す(クルス)」と発言したことを捉えて、殺意の証拠だと主張した話がある。
沖縄語の「殺す(クルス)」には文字通りの「殺す」という)意味で使われるより、「打つ」「殴る」といった意味で使われる方が多い。 関西弁でいえば「ドツク」だろうし、関東でいえば「ブットバス」にでも相当するのだろうか。
だが、文字通りの「殺す」という意味もあるし、更に「殴る」と区別して念入りに「ソークルス(ン)」という言葉もある。
最近では「クルス(殴る)」と区別して、「死なす」を使うヤツも入るようだが・・・。
⇒3秒で殺せる うーん、殺せるか。
琉球処分以前の沖縄はは平和なバラ色の琉球王国だったと主張したい沖縄タイムスはこんなコラムも書いていた。
<2005年3月21日> 朝刊 2版 総合1面(月曜日) カラー
自社
[大弦小弦]
「これまで寸鉄を備えず、礼儀をもって道を立て外国には会話のみで対応してきた。兵営を置けばそれだけ外国も強くでてくる」。軍隊を置くという明治政府に対し、琉球人はそう答え断った▼百三十年前の一八七五年のこと。台湾出兵の事後処理を終えた政府は中国・清との関係一掃や兵営設置などを要求、琉球処分に本腰を入れる。琉球国(藩)首脳の池城安規らは陳情特節として上京し、折衝するが流れは変わらなかった▼陳情を無視された池城は東京で「悶死」した。使節の一人幸地朝常はその後、尚泰王の密書を持って清へ渡り客死。最高幹部の富川盛奎も清へ亡命する。彼らの苦悩は西里喜行氏編『琉球救国請願書集成』などで読むことができる▼現代の陳情使である稲嶺県知事が訪米し、沖縄の基地負担軽減を訴えてきた。軍変革、基地再編では自国の利益が優先されるから、沖縄の要望は二の次となるのだろうか。沖縄が利用されるのではなく、考慮されるための壁は高い▼かつての使節は明治政府に相手にされなかった。しかし、琉球の亡命者が清で運動を展開。政府は問題を国内に封じ込めようとするが、清やグラント米国前大統領らを巻き込み国際化させた▼東アジア情勢が加熱する今だからこそ、歴史に学んで長い関係を持つ中国や米軍基地のある韓国と連携を深めることが大切ではないか。そうすれば、要望は通らなくても心強い友人が残る。(後田多敦)
◇
第2の創刊期・「平和」「民主主義」の拠点に(2005.4.26)
那覇市天久に琉球新報社の新社屋が完成、落成祝賀会がきょう二十六日開かれる。
本紙は、新社屋完成を「第二の創刊期」と位置付け、今後とも地域住民の視点に立ち、「時代の証人」「社会を映す鏡」として沖縄の諸問題を掘り下げていくと同時に、沖縄戦の体験を踏まえ、世界の恒久平和を実現するために、なお一層、努力していく決意である。
本紙が沖縄初の新聞として産声を上げたのは一八九三(明治二十六)年九月十五日。創刊の中心的役割を担ったのは、尚泰王の四男尚順を中心に旧士族階級の二十代の青年たちだった。
創刊時は日清戦争勃発(ぼっぱつ)前夜で、県内では旧体制を守ろうとする頑固党と新体制に移行しようとする開化派が激しく対立していた。そういう時代を背景に、本紙は沖縄の改革を主張し、文明開化を告げる役割を担って誕生した。
◇
戦後、米軍のプロパガンダ紙の使命を持って発刊された歴史の浅い沖縄タイムス(今年は創刊60周年)に比べて、
琉球新報は一世紀以上の歴史を持つ日本でも伝統のある部類に属する新聞である。
さすがに創刊当時の明治期の新報記者たちは、大国という名の上に胡坐をかいて、旧幣温存で列強の蹂躙にあえぐ中国(清)には見向ききもしないで、近代化で前途洋洋の日本に将来をかける先見性があった。
それが、何をトチ狂ったのか戦後、特に本土復帰後は沖縄タイムスとタッグを組んで反日論調に路線変更。
さすがにタイムス記者のように「祖国中国」に義理立てして、日本人であることを恥じ、
「在日琉球人」を名乗る記者はいないようだが・・・。
★「在日琉球人」⇒後田多 敦「琉球人の再定義」(「海邦小国記②」より
沖縄タイムスは、沖縄県民を「在日琉球人」にして、
一体どうするつもりなのだろう。
【おまけ】
沈没寸前の清からは多くの学徒が日本に勉強に来ていた。
その清を「張子のトラ」と見抜けなかった、琉球王府の「頑固党」はよっぽど「思考停止」状態にあったのだろう。
その点、「開化党」支持の論陣を張っていた当時の新報記者たちはエライ!
【明解要解】中国語を支える日本語
≪日本語導入のきっかけは、欧米列強によって亡国の危機感に襲われていた清朝の志士たちの「日本に学べ」の精神だった。
王氏は「われわれが使っている西洋の概念は基本的に日本人がわれわれに代わって翻訳してくれたものだ。中国と西洋の間には、永遠に日本が横たわっている」(同著)と指摘。日中戦争が始まる1937年までの40年間に、留学生だけでも延べ6万人が来日。明治維新を経て近代化を急ぐ日本で西欧を学び、そして和製漢語を取り入れたのである。≫
【追記】
上記記事を資料として全文保存しておきます。
【明解要解】中国語を支える日本語 (1/2ページ)
2008.8.20 07:58
■外来語の1割が日本からの“輸入”
「中華人民共和国 共産党一党独裁政権 高級幹部指導社会主義市場経済-という中国語は中華以外すべて日本製(語)なのをご存じですか」-。東京都台東区の中国語講師、劉美香さん(51)からこんなお便りをいただいた。産経新聞の「朝の詩」と「産経抄」を教材に毎日、音読と書き写しで日本語を磨くという劉さん、「明治時代の日本人が、欧米の学問を漢字で翻訳してくれたから、当時の中国は世界を理解できた。平仮名や片仮名に翻訳されていたら今ごろ、中国はどうなっていたでしょうね」。(特集部 押田雅治)
中国語には約1万語の外来語があり、その大半が「仏陀(ぶっだ)」や「菩薩(ぼさつ)」「葡萄(ぶどう)」「琵琶」などインドやイランなど、西域から入った言葉といわれている。
その残り1割、1000語余が清朝末期以降、日本から取り入れた言葉で、社会科学や自然科学などの学術用語の約7割が、英語やドイツ語などから翻訳した和製漢語といわれている(『現代漢語中的日語“外来語”問題』・王彬彬著)。
日本語導入のきっかけは、欧米列強によって亡国の危機感に襲われていた清朝の志士たちの「日本に学べ」の精神だった。
王氏は「われわれが使っている西洋の概念は基本的に日本人がわれわれに代わって翻訳してくれたものだ。中国と西洋の間には、永遠に日本が横たわっている」(同著)と指摘。日中戦争が始まる1937年までの40年間に、留学生だけでも延べ6万人が来日。明治維新を経て近代化を急ぐ日本で西欧を学び、そして和製漢語を取り入れたのである。
本来、漢字だけで成立する中国語が外来語を取り入れる場合、「電視機」=テレビや「電氷箱」=冷蔵庫などの意訳型と、「可口可楽」=コカ・コーラなど音訳型の2つに大別される。
当時の日本が欧州の言葉を日本語に翻訳する場合はほとんどが意訳だったため、和製漢語でも、漢字本来の意味を踏まえて翻訳した「哲学」や「宗教」などは中国人にも理解しやすかったようだ。
ただ、中には「経済」のように、本来の意味と異なり、混乱した言葉もあった。元になった中国の古語「経世済民」は、「世の中を治め、人民の苦しみを救う」という政治を意味する言葉だったため、中国人が考えた「計学」や「資生学」などと共存した時期もあったという。
劉さんは「不倫や電話詐欺など“悪い言葉”や癌(がん)などの医学用語も含め、日本語はいまなお、中国語に大きな影響を与えています。漢字は中国で生まれましたが、その漢字を生かした和製漢語のおかげで中国は世界を知り、学ぶことができたのです。この事実を多くの日本、そして中国の人に知ってもらいたい」と話している。
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コメント欄で太平山さんが「琉球処分」について詳述されているので、本欄に記事として転載します。
従って、コメント欄は削除させてもらいますのでご了承ください。
◇
沖縄タイムス、琉球新報の偏向報道をブログネタにさせてもらっているが、両紙は偏向を通り越して、反日新聞ではないかいう声も聞く。
沖縄タイムスが戦後、米軍政府のプロパガンダ紙の性格で創刊されたことは再三述べたが、その軸足は最近では「中国が祖国」といった論調に立っているように思える。
タイムスがその論拠を琉球処分に求め、そのとき「侵略者日本」を撃退する為に「解放者中国(清)」が援軍をよこすといった「タイムス史観」を書いたのが、
再三引用するタイムス・コラムの「大弦小弦」。
何度も繰り返して恐縮だが「絶滅危惧文」として以下にしつこく引用して、それに対する大平山さんのコメントを転載します。
その前に、復習の意味で「琉球処分」の概略を琉球新報の解説で参考までに。(煩雑と思う方はスルーしてください)
琉球処分 (りゅうきゅうしょぶん)
明治政府による琉球藩設置から分島問題の終結までをいう。明治維新にともない、1872(明治5)年、明治政府は〈琉球国〉を廃して〈琉球藩〉とし、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王(国王)自ら上京することなどを再三迫った。が、琉球が従わなかったため、79年3月、処分官、松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、ここに事実上琉球王国は滅び、〈沖縄県〉となる。華族に叙せられた藩王(国王)尚泰は東京在住を命じられた。しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど、問題は尾を引いた。外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、調印の段階まできたが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、琉球に対する日本の領有権が確定した。
◇
琉球新報はタイムスと違って、中国(清)に援軍を求めたのは琉球士族の一部と正確に記述している。
付け加えさせてもらうと琉球士族のなかの中国系士族で、琉球王府で既得権を享受していた一部士族とした方が正確であろう。
沖縄タイムスの言うように「沖縄」(明治の琉球人)全てが中国に援軍を求めたのではない。
◆<2005年5月16日> 沖縄タイムス
[大弦小弦]
黄色軍艦がやってくる…。船体に黄色の龍の文様を描き、黄龍旗を掲げる清国の南洋艦隊は黄色軍艦と呼ばれたという。知人とこの話をしていたら、黄色軍艦が沖縄を侵略すると、勘違いして話がややこしくなった▼実際は逆で、明治の琉球人にとって清国軍艦は援軍だった。武力で琉球国を併合した明治政府に対し、琉球の首脳らは清へ使者を送って救援を求めている。そして、沖縄側はその黄色軍艦を待ちわびたのだった▼一八八六(明治十九)年に大迫貞清県知事が上申した「事変準備ノ件」が残る。清が軍艦を派遣するとの報に対し、政府派遣の知事は、対策十項目を提案。政府も北洋艦隊から戦艦九隻が派遣されると情報を得て、県に指示を出した▼日清戦争時にも清国の援軍は話題になった。それから百余年が経過し、あれほど待ちわびた援軍をも敵と間違うところに今の位置があるのか。林泉忠著『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス』は当時の言葉を紹介する▼「生きて日本国の属人と為るを願はす、死して日本国の属鬼と為るを願はす」。生きても死んでも日本とは一緒にならないという激しい決意。中国で死んだ幸地朝常が李鴻章へ送った書簡に残る言葉。歴史の反転は大きかったようだ▼百余年前はともかく、少なくとも最近の銃口や占領者を忘れてはいけない。境で揺れる島だからこそ、平和の選択肢を選び取る覚悟も必要だろう。(後田多敦)
◇
以下は上記タイムス記事に対する、
太平山さんのコメントの転載です。
◆
公開 タイムス記事 2008-08-20 18:22:34 太平山 thz11 李登輝氏の沖縄講演
狼魔人さま
こんばんは。またまた出しゃばることご了承の程を。タイムス記事を読み、黙っておられなくなりました。李登輝氏についてはさておきタイムス記事に言及してみたいと思います。
相変わらず何が言いたいのか、論理の一貫性がなく意味不明の文章が多いですね。例えば以下の文章です。
>日清戦争時にも清国の援軍は話題になった。それから百余年が経過し、あれほど待ちわびた援軍をも敵と間違うところに今の位置があるのか<
これは何が言いたいのか?知人が「黄色軍艦が沖縄を侵略する」と勘違いしていることを現在の沖縄の人が、かつて中国が琉球の宗主国であったことを知らないでいることを嘆いているものなのか?今の位置とは?沖縄が日本であることなのか?何か嫌らしい表現ですね。沖縄が日本であることが不満で中国へ帰るべしと言っているように思われます。次に
>中国で死んだ幸地朝常が李鴻章へ送った書簡に残る言葉。歴史の反転は大きかったようだ。百余年前はともかく、少なくとも最近の銃口や占領者を忘れてはいけない。境で揺れる島だからこそ、平和の選択肢を選び取る覚悟も必要だろう<
上記も全く意味不明!歴史の反転とは?最近の銃口や占領者とは誰のことなのか?沖縄戦と米軍のことか、それとも日本軍のことか?そして「平和の選択肢を選び取る覚悟も必要だろう」について何故黄色い軍艦や幸地親方の言葉がこれに繋がるのか全く解らない。一体何が言いたいのか。
援軍を頼むのが平和の選択肢なのか?幸地親方の言葉のように日本を拒否するのが平和の選択肢なのか?援軍を頼まないのがそうなのか?あの文章では中国に帰ることが平和の選択肢であるように受け取れるのだが。添削して大きな×を沢山つけたいですね。はっきり書け!と。
そして「武力で琉球国を併合した明治政府に対し」これも大間違い。軍隊は送ったがそれは不測に事態に備えるためであって当然のこと。その軍隊は人民に銃口を向けてはいないし、実際死者は一人も出なかった。明治政府はその前に琉球藩を置いている。突然に併合したわけではない。全く姑息で悪意を感じさせる文章ですね。平和さえ唱えれば論理なぞどうでも良いと思っている。
琉球処分(1) (太平山)
2008-08-20 18:43:06
≪琉球処分について、
「つまり琉球は当時は日本への帰属をいやがっていた。住民の意思を無視して無理矢理日本領にしてしまったわけです」
上記については王府や役人達はそうであったかもしれないが一般民衆の大半を占める農民は明治新政府の大和世に期待していました。特に史上希にみる悪法の人頭税に長年苦しめられていた宮古、石垣の先島地方の農民はそうでした。もちろん正確な情報が伝わるわけではありませんが噂で光明を見る思いだったでしょう。
http://www.beats21.com/ar/A01051824.html
http://www.tabiken.com/history/doc/J/J226R200.HTM
明治4年明治新政府から琉球側に最初の琉球処分((王国解体)の通達がなされて琉球王国は琉球藩となりましたが王府側では頑固党(親シナ派)と開明党(親大和派)がそれをめぐって相争うようになります。明治新政府は宮古島島民の台湾遭難事件(明治4年)を奇貨とし明治7年台湾征伐を行い大久保利通を全権大使として清国との交渉に当たらせ琉球の日本帰属を認めさせました。
明治新政府は同8年それを琉球側に伝え清国側との朝貢関係を断つよう命じますが既得権を失うことを不服とした頑固党は新政府が佐賀の乱、西南の役で忙殺されている隙をつき明治10年3月琉球処分の撤回を求めて清国に救援の密使(幸地親方)を送ります。それは軍や軍艦の派遣要請といったものでなく琉球を見捨てないでくれと訴えるものだったでしょう。
琉球側の要請を受け清国は翌11年日本に抗議しますが国際問題になりつつある状況に内務卿伊藤博文(大久保利通は5月に暗殺される)は先手を打って翌12年3月松田道之に命じ軍隊を伴わせ琉球処分(廃藩置県)を断行します。そこではじめて首里城が明け渡され沖縄県が誕生します。
しかし頑固党の密使(幸地親方)はそれでも諦めず時の宰相、李鴻章に何度も嘆願しその情意に動かされた李鴻章はその頃清国を訪れていたアメリカ前大統領のグラント将軍に日本政府との仲介を頼みます。グラント将軍はこれを聞き入れ琉球2分割案すなわち北琉球(奄美)中琉球(沖縄本島)は日本が領有し南琉球(宮古、石垣)は清国が領有すると言った内容の仲裁案を日本政府に提示します。
琉球処分(2) (太平山)
2008-08-20 18:49:17
(NO.2)
日本政府はアメリカ前大統領の調停とあって無視もできず国際問題となった琉球問題に再度交渉の場につきます。その際日本政府は明治4年に締結した日清修好条約の改正を代償条件としてその案に同意することを清国に提示しますが清国はそれには同意せず日本を警戒し別案(奄美は日本が宮古、石垣の先島は清が領有し沖縄本島は琉球王国に復活させるという案)を提示しました。
しかしそれは日本政府の拒否にあい清国はやむなく日本政府の提示した2分割案に合意します。条約は10日後に調印する予定でしたがしかし事はそう簡単には終わらず清国が調印をずるずると引き延ばしたため結局分島案は決着を見ることなく曖昧のままに終わりました。
清国が調印を遅延した理由として
① 条約内容をリークした琉球密使幸地親方が合意撤回を必死に清国側に嘆願したこと
② 欧米列強の圧力に屈して結んだ不平等条約と同等な特権を日本側に与えることに対し国内の抵抗が大きかったこと
③ ロシアとの国境紛争の最中であったこと(イリ条約で解決)
③フランスの安南侵攻があったこと(後に清仏戦争となり天津条約を締結)
④朝鮮をめぐって日清間に軋轢があったこと(後に日清戦争となる)
以上が考えられます。
琉球処分(3) (太平山)
2008-08-20 18:54:30
(NO.3)
沖縄では先の琉球処分を日本の侵略としてとらえ琉球を被害者として見る向きがあり清国へ渡った幸地親方を始めとする頑固党一派を分島案を阻止した功労者として評価する偉い先生方もいます。
http://www.jca.apc.org/~runner/oki_sosyo/oki-jyunbi3/dai2.html
http://w1.nirai.ne.jp/ken/rekishi.htm
しかし琉球王国は1609年薩摩の侵攻により実質的には滅びていますからその後は薩摩藩の支藩であり続けたと考えるのが妥当でしょう。外交権は薩摩が握っていました。
幕末まで琉球王国はさも独立国であったかのような前提でもって文化人・学者達は琉球論を展開するため大半の人が琉球処分即日本の侵略として捉えがちです。しかし当時の国際情勢の中にあってはそれが琉球にとっては最善であった少なくとも最良であったことは言うまでもありません。
琉球側も現実的にこれ以外の選択肢はなかった。薩摩藩という日本最強の雄藩が背後にいたからこそ欧米列強の植民地支配からも免れたとも言えるのです。
そもそも明治維新も奇跡と言われる程当時の欧米列強進出による日本の対外状況は非常に危うかった。それが成就したのは日本側に幸運があったからだとも言われる。即ちクリミヤ戦争でロシア、フランス、イギリスが、南北戦争でアメリカがそれぞれ釘付けとなり一時期本格的に日本に進出することができなかった。
戦後処理を終え体制を整えるには時間が要る、少なくとも結果的に日本は時間を稼ぐことができた。その僅かな空白と間隙をつき明治維新が成功したそれが僥倖だったと言える所以で、その明治維新後の日本に統合された琉球もまた幸運だったとも考えられるのです。
琉球処分(4) (太平山)
2008-08-20 18:57:35
幕末期、明治初期の琉球国首脳は国際情勢が見えなかった。何より琉球国は独立国であると錯覚してしまった。あるいは錯覚はしなくとも過度に清国を過大評価し期待し過ぎていた、その反動として当然のことながら維新後の明治新政府を見くびり清国が出れば日本は譲歩するだろうと考えていた。
当時の清国はアヘン戦争、太平天国の乱と欧米列強の進出に遭い内外共に難題を抱え争乱期にあって国力の低下が著しかった。琉球を顧みる余裕等無かったのではないか。
琉球は260年間薩摩の支配下にありながら己の立場がどういうものか解せず現状認識が非常に甘かった。その認識の甘さは他でもない清への過度の期待に因るものでありそれはまさしく1609年慶長の役(薩摩侵攻)で明を頼った謝名親方の轍と全く同じである。260年後再び同じ轍を頑固党の幸地親方、林世功は踏みつつあった。
明治12年(1879年)の琉球処分(廃藩置県)以降も頑固党による琉球王国復興の工作は尚も執拗に続く。日清戦争(1894)時には清国の黄色い軍艦が琉球に大挙してやって来るとの報に、頑固党は狂喜乱舞するがそれは一時のうたかたと消えた。黄色い軍艦が現れることはとうとうなかったのである。
頑固党はそれでも日本の勝利をデマだと信じて疑わず清国艦隊襲来を期待する。しかし那覇港に目にするのは台湾に往来する旭日旗の軍船のみでそこでようやく清国は敗れたと悟るのである。清国へ渡った頑固党一派26人が沖縄へ帰ってきたのが日清戦争2年後(1896)で彼らは清国には琉球を救援する意志は無しと伝えるのでした。
(終り)
勝手にこの板を借りて好き放題言って来ました。非常に不快な言動も多々あったと思います。これまでの投稿、もし不都合があれば遠慮なく削除して下さい。
私だけが書いてしまって他の人が書き込むことを阻害してきたように思われます。しばらくコメントすることは控えますが、また頭に来た場合には書き込むことをお許し下さい。このコメントもしばらくしてから削除して下さいね。お願いします。
それではこれにて失礼します。
◆
太平山さん
>また頭に来た場合には書き込むことをお許し下さい。
頭にこなくてもコメントは歓迎します。(笑)
特に琉球処分に関するこのコメントは大変勉強になりました。
以下は当日記で過去に「琉球処分」について触れたエントリーです。
琉球処分報じた中国紙入手 沖縄は日本ではない? |
「琉球処分」Ⅱ 王朝の春 優美に幕開け
司馬遼太郎も読んだ『鉄の暴風』 「琉球処分Ⅲ」 |
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沖縄タイムス
今晩の話題 (2008年8月20日 夕刊 1面)
「ヘリ墜落「事件」」
沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故から四年目の十三日、同大の学生たちによって、ヘリの激突で焼け焦げた旧校舎の壁をプリントした大型シートが、新校舎に掲げられた。
中心メンバーの社会文化学科四年の阿波根優斗さん(21)=読谷村=から話を聞いていて、彼が墜落事故のことを「事件」と繰り返すのが気になった。否、正直に言うと、そのときは彼の言い間違えだと解釈し、記事でも「事故」と言葉を置き換えた。
だが、時間がたつにつれ、事件という言い方は彼が最も腑に落ちる、当を得た表現だったのではないかと思うようになった。
阿波根さんは当時、高校三年生。事故の実体験はない。それでも、風化させてはならないと切実な思いを抱くに至ったのは、おそらく先輩から聞いた話が墜落した瞬間の出来事だけではなく、その後の「事件」も含んでいたからではないか、と。
米軍が大学を一時封鎖し県警の現場検証を拒否したこと、夏休みを理由に小泉純一郎首相が稲嶺恵一知事の面談要請に応じなかったこと、今も米軍ヘリが大学上空を飛び回っていること、これらはいずれも事件だ。
事故というと、偶発的に発生したように聞こえるがそうではない。いつ起きてもおかしくないと指摘されながら、政治の怠慢で放置された末に起きた事件であることを忘れてはならない。(渡辺豪)
◇
記者の渡辺さんは、学生の誤記をあえて 「ヘリ事件」とし、
自分のイデオロギーに当てはめようとしているが、
誰が何といおうと、これは「ヘリ事件」ではなく、
「ヘリ事故」に違いはない。
米軍のヘリだという特殊性はあっても「交通事故」には違いなく、
その中の「航空事故」の一種に分類される・・・これは記者さんが一番ご存知のはず。
航空事故といえば、今朝のニュースでスペイン空港で離陸失敗の為45人が死亡している。
⇒航空事故:スペインの空港で離陸失敗、45人死亡 滑走中、左エンジン出火か(8/21) この一ヶ月間を見ただけでも航空事故は二件も発生している。 | |
⇒航空事故:国道に小型機墜落、2人けが--大阪・八尾の市街地(8/19) | |
⇒航空事故:小型機墜落、1人重体 長崎空港離陸直後(7/27) 沖縄に限って見ても、去年はこんなことがあった。
「ヘリ事故」を再発させないように、学生たちが運動を起こすのは結構なことだが、 イデオロギーを前面に出しすぎると、かえって逆効果にもなりかねない。 「ヘリ事故」を「原爆遺構」とを同レベルで扱おうという運動があったが、これは明らかに行き過だ。 |
「航空事故」と、日本国民を無差別攻撃した「大虐殺」とを、
同じ扱いにして大騒ぎするのは原爆被害者に礼を失する行為だと書いた。
以下は再掲です。 ◆ これに対して、8月10日のエントリーで次のように書いた。 <沖国大構内に墜落した米軍ヘリコプターの油煙跡の残る壁を保存する運動には理解も出来る。 だからと言って、幸いにして一人の死傷者も出なかった事故の“壁”と、死者数10万にも及ぶ広島、長崎の原爆遺跡とを同列に扱う神経を疑う。 基地被害を訴える余り「事故」と「大惨劇」を同列に扱うことは広島、長崎の被爆者に礼を失すると言うものだろう。 原爆遺跡と沖国大の“壁”を実際に見た者として、その余りにも大きな“意味”の差に、この文章をコラムとして報じる琉球新報に怒りさえ感じる。>原爆遺構と沖国大の“壁” >基地被害を訴える余り「事故」と「大惨劇」を同列に扱うことは広島、長崎の被爆者に礼を失すると言うものだろう。 ここで原爆投下のことを「大惨劇」と表したが、これでは「事故」との本質的違いを表してはいない。 「大惨劇」ではなく、アメリカによる「大虐殺」と訂正しおく。 ヘリ事故も原爆投下も主体はアメリカだが、ヘリ事故の操縦士は事故を起こす意思はなく、ましてや「加害の意思」などなかったはずだ。 ところが原爆投下機の操縦士は明らかに「加害・虐殺の意思」で原爆を投下をしている。 ここで再び言おう。 一米兵の起こした「交通事故」と人類が犯した最大の罪である「原爆投下」を同列に扱うような「ヘリ事故跡保存運動」は原爆被害者を冒涜することになる。 沖縄には米軍基地を売り物にしているお笑い集団もいる。 ◆ 何度も繰り返すが「住宅密集地に隣接する普天間基地が危険である」ということに異論はない。 ジュゴンのことを心配する前に、 まず危険なモノはとりあえず移転させるのが、 緊急の優先順位だと思うなだが・・・。 伊波宜野湾市長は、危険物の近くに建築の許可を次々としている。 普天間基地司令官は、区域内に小学校があるなど、伊波市長らが安全基準に違反していると指摘している。 ⇒クリアゾーン「違反ではない」 普天間司令官(2008.8.20) 「逆に滑走路の近くの基地外に、なぜ、宜野湾市が建設を許しているのか疑問」と反論した。」 痛いところを疲れるとヒステリックになるのは人の常。 問答無用! 出て行け! 理屈に負けたら出て行けかよ。 よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします
ヘリ墜落3年 決意新た【写真】 沖縄タイムス沖国大の減り墜落事故跡を、原爆遺跡やゲルニカの壁絵に並ぶ戦争の遺跡にしようと言う運動がある。
⇒「ヘリ墜落」は事故であり、「攻撃」ではない
笑いの力(8月11日朝刊26面)
⇒“無理解”メア氏 「近くに建設許す宜野湾市に疑問」
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「相手の嫌がることはしない」福田首相なら、中国がもっとも嫌がる「李登輝来日」を沖縄で認めるとは・・・。
しかも国立大学の琉球大学での講演も認めるとはどういう風の吹き回しなのかと思った。
李登輝氏、9月に沖縄訪問 大学で講演
≪【台北10日共同】台湾の李登輝元総統が9月22日から25日までの4日間、大学での講演のため沖縄を訪問する。・・・関係者によると、講演は9月23日、琉球大で予定されている。≫
だが、やはり琉球大学での講演は中国様の逆鱗にふれると思ったのだろう。
講演会の場所は、宜野湾の「沖縄コンベンション劇場」で落ち着いた。
沖縄問題も語る/李登輝氏来月23日講演
≪台湾の李登輝元総統を招いた講演会を企画する実行委員会の永井獏・琉球大工学部教授らは十三日、県庁で会見し、来月二十三日午後三時から宜野湾市の沖縄コンベンション劇場で、「学問のすすめと日本文化の特徴」と題した講演会を開くと発表した。沖縄問題にも触れるという。≫
李登輝氏の日本の大学での講演会については、これまで紆余曲折があった。
2002年10月、慶應義塾大学の学術サークル「経済新人会」が学園祭「三田祭」での講演を依頼し、そのため李登輝氏の来日が伝えられた。
ところが、突然11月7日に学園祭の実行委員会が講演を却下した。
その後、会場を変更して講演が行われる予定だったが、
日本政府が李登輝へのビザの発給拒否し、
訪日と講演は幻に終わった。
≪2004年12月から翌年1月にかけて曽文恵夫人や長男(故人)の嫁、孫娘の李坤儀らを伴い観光旅行として来日。私人に対するビザを断る理由はないとしてビザが発給された。ただし、政治的行動をしないなどの条件を日本政府は求めたとされる。登輝は名古屋市、金沢市、京都市を訪れた。京都では母校である京都帝国大学(現・京都大学)時代の恩師である柏祐賢・京大名誉教授と再会を果たしたほか、京大にも訪れたが時計台のある本部キャンパスの敷地へ入ることはできなかった。≫(ウィキペディア)
李登輝氏は、慶応大学での講演会より、むしろ母校である京都大学での講演会を望んでいたと思われるが、
国立大学である母校での講演会を中国の目を気にする日本政府が黙認するわけはないのだろう。
京都大学はこんな非礼なことをしでかしている。↓
京都大学が李登輝氏を門前払い http://dqn.news2ch.net/read.php/1104484604/
◇
琉球大学も国立大学には違いないので、「李登輝氏、9月に沖縄訪問 大学で講演」を認めてしまうと、
私立である慶応大学はおろか、母校の京都大学での講演も断る理由がなくなってしまう。
講演会場が、琉球大学から沖縄コンベンション劇場に変更になった舞台裏には、
李登輝側、琉球大学側、県、福田内閣そして中国様の思惑が入り乱れ火花を散らしたのだろう。
結局、福田首相が中国様にひれ伏して一件落着したと想像される。
◇
でも、当初は講演会場が琉球大学に決まっていたことは、中国側から事前に何の許諾も得てなかったとは考えがたい。
今朝の沖縄タイムスの次の記事で納得した。
≪・・・李氏は「(ともに19世紀に)日本に併合された沖縄と、植民地となった台湾は歴史的に似たところがある」と指摘。「21世紀の沖縄で、かつての日本文化を伝えることは意味があると思う」と話した。・・・≫(沖縄タイムス 2008年8月20日)
なるほど、中国様は李登輝氏のこの辺の歴史観を捉えて、
「沖縄は日本の一県ではあっても、潜在的には中国に領有権がある」という本音を露にして、琉球大学での講演を認めたのだろう。
当初は、琉球大学での講演会と、
慶応大学や京都大学での講演会とは、
似て非なるものと考えていたのだろう。
琉球大学といえば、
「琉球独立」を煽る中国人の林準教授がいる大学。
⇒沖縄併呑計画 林准教授のアンケート調査はヨタ話の類
琉球大学は自分の庭だと考えていたのだろうか。
ところが、こんな声が巷に上がってきて、
急遽会場変更を指示したのだろう。
≪琉球大学といえば、もちろん国立大学法人だ。報道では主催がどこなのかが不明なので、琉球大学が主催者なのか、単に会場だけなのかは明確でない。
しかし、例え会場であったとしても国立大学で開かれる意義は小さくない。なぜなら、母校の京都大学で李登輝元総統の講演会が開かれてもおかしくないからだ。確かに昨年6月6日、総務省及び文部科学省の設立認可を受けた公立大学法人である秋田・国際教養大学で講演されているので国立大学法人での可能性も開けた。それが琉球大で開かれるとなると確実性が増したことになり、母校・京都大学での講演が完全に視野に入ることになる。≫『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html
【おまけ】
この記事によると、つい最近まで台湾も、
自身を沖縄の宗主国と思っていたようだ。
中国が台湾の宗主国と思うのなら、
当然、沖縄も中国の宗主国となるわけだ。
親亀の背中に小亀。
その背中に孫亀?
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昭和20年3月26日、米軍が「ニミッツ布告」を公布。
その日は沖縄戦にとって象徴的な日であった。
米軍の沖縄上陸は、公式には翌月の4月1日となっており、戦後の米軍占領時代には4月1日は記念日として公休日になっていたが、米軍が座間味島をはじめとする慶良間諸島に上陸したのはその6日前の3月26日である。
そして米軍の上陸を開始で、逃げ場を失いパニック状態に陥った座間味島の住民172人がその日の未明に集団自決をしている。
その日の米軍の動きは実にあわただしい。
先ず米合同遠征部隊第51機動部隊司令官ターナー海軍中将が、南西諸島海軍軍政府首席軍政官に任命されている。
そして米第77歩兵師団により慶良間諸島に最初の軍政府(陸・海合同)が設置された。
3月26日に慶良間諸島に上陸したアメリカ軍は、チェスター・ニミッツアメリカ海軍元帥の名で米国海軍軍政府布告第一号(いわゆるニミッツ布告)を公布した。
この「ニミッツ布告第一号」は沖縄に於ける日本政府の全ての統治権の行使を停止し、その居住民に関するすべての政治及び管轄権並びに最高行政責任が、占領軍司令官兼軍政府総長、米国海軍元帥であるニミッツの権能に帰属すると宣言するものであった。
米軍のこの措置は、国際法上疑問に思うのだが、日米両国がまだ交戦中であるにも関わらず、ニミッツ元帥は、軍政府の根拠となる《海軍軍政府布告第1号》(ニミッツ布告)の公布により、慶良間諸島における日本政府のすべての統治権を勝手に停止したことになる。
米軍のこのやり方は沖縄が日本の一県であるという事実を無視して、フィリピンやサイパンと同じく日本軍の占領地域としての扱いで、沖縄住民を終戦を待たず「解放し」、“準アメリカ人”として米軍政府の施政権下に置いたことになる。
米軍は沖縄攻撃の前から、沖縄は日本軍に侵略された植民地であり、米軍は沖縄を日本から解放するためやってきた解放軍であるという姿勢を一貫して取り続けていた。
これは「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(“War Guilt Information Program”、略称“WGIP”)」の一環であるといわれ、沖縄人を日本帝国主義に侵略された被害者と位置づけし、対する日本軍は「極悪非道」であるというイメージはここに端を発していると思われる
■スパイ容疑を生んだニミッツ布告■
ニミッツ布告は以後沖縄の憲法のような存在となり、占領下の沖縄住民の言動を規制し、その影響は後に問題になる『鉄の暴風』(昭和25年刊)にも大きな影を落としている。
この布告のため、米軍の指令を受け住民が、山中や壕に隠れている日本兵や住民に投降を勧告し、そのためスパイ容疑で処刑されるといった悲劇を生んでいる。
交戦中の敵国の住民を、その国の統治権を停止すると宣言し、以後は自国(米国)の住民として行動するように指示するこの布告に、事情(ハーグ陸戦条約等の国際法)を知らない島民たちは翻弄されることになる。
米軍側の記録によると、翌4月の初旬には、比較的戦火の被害の少なかった沖縄本島の北部地域では民間人による米兵相手の慰安所が営業を開始している。
捕虜になった住民が、食料を対価に「軍作業」を手伝わせたり、投降勧告の使者にさせられたのは、明らかに、沖縄県民を日本国民とは看做していない措置であり、ハーグ陸戦条約等の国際法に違反していると考えられる。
このような米軍の国際法違反がなければ「スパイ容疑」による住民処刑の悲劇はもっと少なかったと思われる。
特に「ニミッツ布告(1945年)」の次の条項は、投降した住民を“準米国民”と規定し、日本軍に「敵のスパイ」と疑惑を持たす行為を強いることになった。
三 各居住民は、本官又は部下指揮官の公布するすべての命令を敏速に遵守し、本官下の米国軍に対して敵対行動又は何事を問わず日本軍に有利な援助をせず、且つ不穏行為又はその程度如何を問わず治安に妨害を及ぼす行動に出てはならない。
六 本官または本官の命令によって解除された者を除く全ての官庁、市庁、及び町村又は他の公共事業関係者並びに雇用人は本官又は特定された米国軍士官の命令の下にその職務に従事しなければならない。
ニミッツ布告は沖縄を日本から分断し永久占有する目的で発せられたが、結果的に戦時国際法の混乱に住民を巻き込む原因となり、更に米軍が意図した「悪逆非道の日本軍」のイメージ作りにも大きく寄与することになる。
5年後に「日本軍の悪行」を糾弾するため発刊されることになる『鉄の暴風』も、このニミッツ布告の呪縛の下に書かれた事が、多くの史料によって明らかにされている。
◆
沖縄タイムス 「ニュース あんやたん」8月18日
■米民生府が布令116号(琉球人被雇用者に対する労働基準及び労働関係令」を公布
1953(昭和28年)年、琉球立法院による労働三法制定に対し、米民生府が三法の公布直前に布令116号を発布。基地関連の事務所に雇用されている労働者には、立法院が制定した労働法は適用されないとされた。さらに55年3月には労働組合の結成も米民生府の許可制になるなど、労働運動は大きく制限された。
◇
占領者たるアメリカに対する沖縄タイムスの複雑な思いは、昭和20年3月26日の米軍の慶良間諸島上陸以来、ねじれた形で現在まで続いている。
米軍の慶良間上陸と同時に米軍は沖縄統治の為の軍政府を設立し、そして「ニミッツ布告」発布でその法的根拠とした。
以後、「ニミッツ布告」は「布令」という形で沖縄人の上に大きくのしかかっていく。
民主主義の理解者と思われてアメリカが、
実は「布令」という超法規で沖縄に君臨する独裁的権力者である、という本性を露にしたのが上記記事である。
同記事は、その三年前の、『鉄の暴風』で「解放者アメリカ」を高らかに謳いあげ、「悪逆非道の侵略者日本軍」を糾弾した沖縄タイムスの一方的「民主アメリカ幻想」が、
もろくも崩れ去った瞬間を回想する皮肉な記事でもある。
それ以後「布令」という言葉は、米軍占領下の生活を経験した者にとって、
「対米従属」という自嘲的響きを持つ言葉として記憶に留められることになる。
「布令弁護士」とか「布令大学」とか。
そういえば沖縄タイムスも「布令新聞」だったっけ。
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