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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

怪人・上原正稔 沖縄戦メモリアル構想

2009-07-31 16:52:07 | 未分類

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【動画】[沖縄戦集団自決の強制否定証言

1974年英国で制作された秘録第二次世界大戦の第22話、一億玉砕・日本銃後の記録から沖縄戦の集団自決に関する証言部分を抜粋
 
                  ◆

 以下は「ハーバービューホテルの決闘」第六章 沖縄戦メモリアル構想を加筆したものです。

                 

「1フィート運動」の事務局長の座を追われたその後の上原氏の活動に話は戻る。

反戦平和を売りものにする沖縄の有識者たちの策謀により、貴重な体験をした上原氏は、

1985年以後、太田氏への怒りを胸に秘めながらも、独自に沖縄戦や大琉球の研究を始めその結果を次々と新聞に発表し、本を出版していった。

そのときの成果が『青い目が見た「大琉球」』( 1987年発行、2000改訂版)で、その内容は沖縄に関する外国の歴史的資料を上原氏が翻訳、編著したものである。
 
そして、上原氏の頭の中に「1フィート運動」よりもインパクトが大きく、さらに重要な歴史的住民運動の構想が湧きあがってきた。

それが沖縄県メモリアル構想である。 

沖縄戦で亡くなった住民も兵士も、日本兵もアメリカ兵もすべて網羅した一大記念碑を建立する、という壮大なものだ。

そのとき上原氏の脳裏に浮かんだのは、1フィート運動の失敗を繰り返してはいけないという過去の教訓だった。

だが、太田氏は当時は既に県知事になっており、公的立場の知事が、このような上原氏のアイディアを個人的名誉欲達成のため再び奪い、かつ追放劇を演じるとは、神ならぬ身の上原氏は予測できなかった。 

又しても上原氏は、名誉欲の塊と化した太田氏に煮え湯を飲まされる羽目に陥ることになる。

上原氏が沖縄県メモリアル構想を準備していった過程を上原氏自身の著書から引用する。

89年、グレン・スローター、グレン・ネルソンらが沖縄戦の最中に、共に住民救出活動に命を投げて協力してくれた米須清一さんと涙の対面をしたが、その橋渡しをしてくれたのが、ロジャー・ピノー先生であった。 ぼくはピノー先生に沖縄戦メモリアル構想を話した。 ピノー先生は目を輝かせて、「これは素晴らしい構想だ。 アメリカ兵のリストはぼくが集めよう。」と言ってくれた。明けて90年初頭、ピノー先生から第一陣のリスト、海軍兵の5000人の膨大な名簿が届いた。 海兵隊、陸軍の名簿も次々、入手のよていだとのこと。 僕は既に川平朝申、照屋善彦、米須清一、ロジャー・ピノーの4人の代表に10人の信頼できる友人を委員に選んでいた。 90年6月22日、記者会見で沖縄メモリアル構想を発表した。

「1フィート運動」の場合、自分が苦労して会発足の記者会見までこぎつけたその会見現場で、識者の仮面を被った左翼集団に追放された上原氏だが、

今回の「沖縄戦メモリアル構想」の記者会見は前回の轍を踏まないように万全の準備の末、どうにか記者会見の発表までこぎつけることが出来た。

上記引用文には、上原氏の著書を読んでない人には馴染みの無いグレン・スローター、グレン・ネルソン、米須清一それにロジャー・ピノーといった名前が登場する。

すべて沖縄戦に関わる人物だが、沖縄戦を深く取材している鴨野守氏が上原氏に取材した時の「世界日報」サンデー版の記事に、これらの人物が登場する。

ドラマチックに描かれているので以下に抜粋して引用する。(太字強調は引用者)

沖縄戦で数千人を救った米須清一
 
沖縄戦で数千人を救った米須清一

 「軍は住民を助けない。これが沖縄戦の教訓だ」――。左翼勢力のこのような口車に乗って、沖縄の教育行政もまた、平和教育の教材に「集団自決」に関するテキスト作成などに熱心に取り組んでいる。だが、こうした教育が児童生徒に勉学への意欲をかきたて生きる希望を与えるとは到底思えない。戦争という心身の極限状態において発揮された気高き人間性の輝きこそ、後世に伝えるべき財産だと考える。          (編集委員・鴨野 守)

作家・上原正稔氏に会う

 五月中旬、記者(鴨野)は那覇市内の図書館で、作家の上原正稔氏とようやく会うことができた。昨年秋からずっと探していたが、なかなか連絡が取れなかった人物である。
 沖縄戦を通じて、人間の醜さや死にゆく人々の悲しみだけに焦点を当てがちな地元ジャーナリズムの中にあって、上原氏は異色の活動を展開してきた。
 氏は、アメリカ公文書館に保管されている、膨大な沖縄戦記録フィルムを独自ルートで取り寄せて、そこに登場する本人たちに届けるというユニークな取組みを行ってきた。

 また、米軍の戦時記録を入念に読み解き、そこから多くの「物語」を発掘して、著書にまとめてきた。それが『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』(三一書房、昭和六十一年)、『沖縄戦トップシークレット』(沖縄タイムス、平成七年)などにまとめられた。

 たとえば、『沖縄戦トップシークレット』に収録されている米須清一氏の活躍ぶりは、一本の映画にまとめるだけのドラマがある。戦場という極限状態で、発揮された人間愛の崇高さ、気高さを学ぶには最高の物語だ。
 スティーヴン・スピルバーグ監督の名作「シンドラーのリスト」は千二百人のユダヤ人の命を救った実話に基づくが、あの作品以上の迫力と感動を与えよう。

 なぜならば、米須は、沖縄戦で数千人の日本人を救ったからである…

米軍要請受け説得作戦

 沖縄戦で彼が捕虜になった時、すでに四十三歳だった。米軍の日本語将校、グレン・スローター中尉、グレン・ネルソン中尉らの要請を受けて、無数の壕に隠れている住民や日本兵に投降を説得する役目を担った男である。米軍はそれまでにも隠れている日本兵の説得を経験しているが、沖縄戦では自分たちの日本語のレベルでは全く沖縄の人々を説得する力がないと悟った。

 それで米軍は、「地下壕に隠れている君たちの仲間を救ってもらえないか」と日本人捕虜十人に要請した。すると全員が「やります」と承諾。彼らの必死の説得で恐る恐る壕から老人、女、子供が出てきたのである。しかし、住民の中に兵士も紛れ込んでいて、説得役の彼らはたびたび、壕から銃で狙われることもあったという。文字どおり命をかけた説得作戦である。

 米軍は、米須を含む五人を「正式な志願兵」と任命。だが、五月上旬、日米が最も熾烈な戦闘を展開したシュガーローフの戦いの後では、五人の沖縄人のうち四人が辞めたいと申し出た。残ったのは、米須ただ一人に。しかし、そのような状況でも米須は護身用の銃を持つことはなかった。

 彼らの説得に応じることなく、壕の中で自決した日本人も多くいた。また、投降しながらも、自決すべきかどうか迷っていた日本兵がいた。その日本兵は密かに、手に安全ピンを抜いた手榴弾を握りしめていた。安全ピンを押さえている指を離せば、数秒後には現場にいる者が吹っ飛ぶ。どうしたものかと本人も決断が決めかねていた――。その時、捜索部隊と一緒に行動していた軍曹が手榴弾を発見し、奪い取るや入江に投げ捨てた。次の瞬間、手榴弾は空中で爆発。危機一髪、そこにいた全員が助かったのである。

 こうして数千人の命を救った米須だが、後日談がある。

一九九一年五月、大好きな大リーグの野球を見るため、米須は初めてアメリカの地を踏んだのである。彼を知る元軍人の連絡で地元紙が彼を取材した。翌日、ボルティモア・サン紙は一面で彼のカラー写真を掲載し、「沖縄戦のヒーロー、アメリカ兵と共に数千人の住民救出、大リーグ見物で渡米」と大見出しで報じた。

 同月下旬、ボルティモア市のメモリアル球場に米須が到着すると、球場マネージャーは彼の切符を取り上げ、十㌦を返し、一週間前にエリザベス女王が座った特別席に案内した。大スクリーンには歓迎の文字が映し出され、大観衆の拍手が彼を包んだ――。

眠っている真実の物語

 記者は、上原氏に尋ねた。
 「米須さんとは何度ぐらい会いましたか」
 「もう、数え切れないよ。まさに、彼とは“戦友”だったな」と上原氏。

 米須氏の救出作戦で出てくる「手榴弾を握りしめた日本兵」は、単行本に掲載されている若者ではないのか、と尋ねた。
 上原氏は、「そうかもしれないが、スローター中尉はその兵隊が誰だったかを最後まで明言しなかった。それはスローター中尉が騎士道精神を発揮したためだ。なぜなら、その日本兵が生きていれば、彼を傷つけることになると配慮したのだ」。

 米須氏の印象を聞くと、上原氏は懐かしそうに語った。

 「米須は数千人の日本人の命を助けたというのに、詳しく覚えていなくて、一緒に説得にかかわった元米兵が詳しく話してあげたほどだ。米須は、それほど無欲で無口な男だった。僕が米須ならば、沖縄戦秘話として書いてピュリツァー賞を獲得しようと思うけどね。どうやら本当の英雄というのは自慢しないようだ」

 沖縄戦の関係者のドラマを追って約三十年。その上原氏はこう語った。「人間が試される究極の舞台、それが戦争である。そこには数多くの素晴らしい真実の物語が眠っている。そのひとつひとつを掘り起こすのが僕の仕事だ。沖縄戦で本物のノーベル賞作品を何本も書けますよ」と。

                     ◇

なお、G・ネルソンさんが最近逝去されたことを新報は報じていた。⇒G・ネルソンさん死去 沖縄戦で投降呼び掛け(2009.2.26)

さて、沖縄戦メモリアル構想の委員の中で唯一人のアメリカ人であるロジャー・ピノー氏は上記記事には登場していない。

ピノー氏は、沖縄戦で活躍した日本語の話せる情報将校のグレン・スローター中尉、グレン・ネルソン中尉らが日本語を学んだ米海軍日本語学校の出身で、

1980年代から90年代にかけて、海軍日本語学校の歴史を書くために、史料収集や卒業生についての情報収集を始めた戦史研究家である。

丁度この時期に上原氏から沖縄戦メモリアル構想の相談を受け全面的に協力したことになる。

上原氏が沖縄戦メモリアル構想の記者会見をした年の3年後の1993年にピノー氏は死去する。

同時に海軍日本語学校史の編纂も未完となった。  

対米戦争中、日本は敵性語だとして英語の使用を禁止した。

だが情報戦で数段日本に勝っていた米国は日本が真珠湾攻撃を仕掛ける1941年の数年前から、日米関係の悪化を想定、さらに戦争に到る事態に備えて陸海軍で日本語学校を作り日本語の話せる要員の育成を開始していた。

陸軍の日本語学校は2世を中心とした日本語の訳、尋問などのための教育施設であり、1941年にサンフランシスコに設置された。

戦争開始後の1942年5月陸軍省直属となり、同年11月にはミシガン大に1年の集中コースを設けることを決定、1943年1月5日から授業が開始される。

150人の生徒からなる日本語コースで、白人の生徒を対象としていた。

これが陸軍日本語学校として知られるものである。

ハワイ出身の沖縄系二世が、スパイとして沖縄戦で活躍したことが知られているが、米軍統治下の沖縄から米留学をした沖縄人の受け入れ大学にミシガン大学が貢献したことは、

ミシガン大学が日系二世を中心にスパイの養成に関わったことに関連があると思われる。

一方、コロラド大学では、米海軍日本語学校史料の収集、整理、公開プロジェクトをすすめられていた。

この海軍日本語学校の史料収集作業を最初にはじめたのが、同日本語学校出身者でもあるロジャー・ピノー(Roger Pineau)氏である。

彼は戦後、日本での米戦略爆撃調査に参加、その後海軍情報局をへて米海軍史研究室へと配属され、その後も国務省や様々な大学、研究機関と連携した仕事を続けていた。

そんな時、沖縄戦メモリアル構想を上原氏から持ちかけられたのである。

続く

 

コメント

怪人・上原正稔 【動画】SAPIO、週刊新潮の紹介

2009-07-31 06:13:40 | ★集団自決

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                   ◆
 
以下は第三章ハーバービューホテルの決闘を一部加筆編集したものです。

一見まったく接点がないように思われる太田、上原の両氏だが、沖縄戦記を出版しているという点で同じ分野にあると前に書いた。

その二人が那覇市の最高級ホテルの宴会場で衆人環視の中、取っ組み合いの乱闘劇を演じた原因は一体何であったか。

その原因を辿ると、二人が始めて対面したときからお互いの胸中に爆弾の火種を抱えていたことがわかる。

時は「ハーバービューの決闘」から更に約10年遡る。

上原氏がまだ40歳になったばかりの1983年、ある出版パーティーの席上で初めて二人の怪人は歴史的対面をする。

その頃上原氏は若い仲間役10名とチームを組んで米国公文書館から沖縄戦の資料を精力的に発掘していた。

それが地元マスコミにも知られるようになり沖縄戦の資料発掘では少しは知られた存在になりつつあった。

初対面の時、意外にも最初に声をかけてきたのは、当時は琉球大学教授をしていた太田氏の方からだった。

「上原君、いい仕事をしているじゃないか」

太田氏との歓談の中で沖縄戦の映画フィルムの話題がでた。

今から考えると太田氏は一匹狼的存在の上原氏の実務能力と行動力を見くびっていたのだろう。

どうせ出来るはずもないとおもったのか、それとも自分のパシリにでもしてこき使おうと思ったのか、次のように話してきた。

「フィルムはアメリカに多数あるはずだが、誰も入手していない。 君の手で集めてみてはどうか」

当時の若い上原氏には琉球大学教授である太田氏が、後に分かるような売名欲の塊であるとは知る由もなかった。

その頃上原氏の頭にはフィルムに関する壮大な構想が湧き上がっていた。

沖縄戦記の出版では高名な大学教授の一言で、若い上原氏は勇気百倍、早速行動に取り掛かかった。

何事でも人間が行動を起こすにはそれなりの資金が要る。

ましてや何度も太平洋を往復して米国公文書館から資料を発掘するにはかなりの活動費が必要だ。

これまでも一匹狼的活動をしてきた上原氏は、少数の大口の資金援助を受けるより、誰でも気軽に支払える小額の援助金を広く集める構想を練った。

県民一人一人がフィルム1フィートにつき100円出せば充分な資金があつまり、世のため人のために尽くせるという上原氏の構想に、無名の若者たちはやる気満々であった。

だが、たとえ100円といえども人様から浄財を集める為にはそれ相応の信用が必要である。

若者たちの純粋な気持ちに同意してくれる人はいるとしても、より多くの県民にこの運動の趣旨を理解してもらう為には県内で知られた「識者」を運動に参加させえた方が理解は得やすい。

県民の理解を得るために純粋に燃えた上原氏は、新聞などでその名を知られた「識者」たちを訪ねて運動への参加を依頼した。

それまで一匹狼的行動をしていた上原氏は「識者」に面識はなかったが、訪ねて説明すると、皆、快く協力してくれるといった。

そのとき上原氏が何の疑いもなく「箔付け」のため協力を依頼した10名の「識者」の中には、仲宗根政善、牧港篤三、宮里悦、外間政彰、福地曠昭、宮城悦二郎、太田昌秀といったお馴染みの名前もあった。

列挙した名前を見て、沖縄の事情を知る人なら殆どが左翼イデオロギー臭のする人物だとわかるはずだ。

沖縄で沖縄戦を語る有名人を辿っていけば当然のことながら沖縄タイムスが発信する「鉄の暴風史観」に染まった人たちに行き当たる。

これは沖縄の言論空間を考えれば、仕方のないことともいえる。

ちなみに、太田昌秀氏はさておいても、牧港篤三氏は元沖縄タイムス記者で『鉄の暴風』の執筆者の一人である。

現在でも一フィート運動の会長を務める福地氏は復帰前からの左翼の闘士である。

また宮城悦二郎氏は、琉球大学教授だった太田氏の誘いで、米軍の機関紙の記者から琉球大大学教授になった人物で、英語が堪能なので資料収集などで太田氏の第一の子分であることは知る人ぞ知る事実である。

太田氏の県知事時代の1995年に開設された県公文書館の初代館長に宮城氏が就任したことは、太田氏が知事職以外の自分のアルバイトである沖縄戦の資料収集に、自分の第一の子分を配属させ、知事辞任後の沖縄戦史の出版のため、公費を使って米国民政府文書などを収集させたことになる。 太田氏は名誉欲の達成の為なら、なかなか悪知恵の働く男らしい。

宮城悦二郎氏は沖縄紙の紙面では識者として著名であるが、その一方、太田氏の子分として大活躍した事実は、太田知事時代に創設した反日思想のメッカとも言われる「沖縄県平和祈念資料館」の監修委員会会長を宮城氏が勤めたことでも分かる。

同資料館は太田知事から、稲嶺知事に政権が変わったとき、「子供を抱いた親子に日本兵が銃剣を向ける人形像があまりにも反日的」という理由で、

日本兵が持つ銃剣を壕の外部に向けるように作りなおす話が持ち上がった。

だが、太田氏が腹心として残しておいた宮城氏などの扇動もあって県内マスコミが稲嶺新知事を連日のように猛攻撃し、結局、従来通り「親子に銃剣を向ける悪逆非道の日本兵」という太田氏のメッセージは守られたママに放置されている。

 

当時の状況を伝える以下の記事はお約束通りの「大文字言葉」で書かれており、事情を知る者にとっては誠に噴飯モノである。

 新県平和資料館で開館式典  2000年3月30日
  沖縄戦の実相を次の世代に正しく伝えるため糸満市摩文仁に完成した新しい県平和祈念資料館が29日午後、開館記念式典を迎えた。
  式典には稲嶺恵一知事、友寄信助県議会議長、監修委員会ら多数の関係者が出席し、新たな平和発信拠点の誕生を喜んだ。
  稲嶺知事は式典で「新資料館が平和を何よりも大切にする沖縄の心を世界へ発信する拠点施設になるものと確信している」と述べ、新資料館が果たす役割に期待を寄せた。式典後、稲嶺知事、友寄議長、宮城悦二郎監修委員会会長、米須小学校5年の上原正稔さん、神里美加子さんらによるテープカットが行われ、多くの関係者が常設展示室を見学した。
  稲嶺知事は監修委員会の宮城悦二郎会長の案内で展示室を回り、銃が途中で取り外されたとして問題になったガマの模型展示や戦後の沖縄の展示などを見学した。見学後、稲嶺知事は「素晴らしい内容になっている。展示は戦前、戦後の流れを整理しており、大変感動を覚えている。関係者の努力に感謝したい。沖縄の誇るべき一つの財産で、各地各国から来られる多くの人に見ていただきたい」と話していた。
  また
昨年に表面化した展示変更問題について「私は一番大事なのは、きちんとした平和祈念資料館を完成させることが責務であると話している。きょうは大変うれしく思っていると同時に、ある意味ではほっとしている」と述べ、開館を迎えたことに安堵(あんど)感を表していた。
  同資料館は4月1日と2日は一般無料公開され、3日は休館日で、4日から通常開館となる。
  開館時間は午前9時から午後5時まで(常設展示室への入室は午後4時半)で、入館料は大人300円、小人150円。
 
 写真説明:監修委員会の宮城会長(左)の説明を受けながら、銃を手にした日本兵の展示を視察する稲嶺知事(右)=糸満市摩文仁の県平和祈念資料館
 
 評価と不満の声 交錯/注目集めた壕模型/監修委、きょう最終確認
 
  開館式典を迎えた新しい県平和祈念資料館。式典後の関係者への内覧会では、沖縄戦に加えて沖縄戦前後の歴史も併せた展示を真剣なまなざしで見学する人の姿がみられた。見学者からは「素晴らしい展示内容になっている」と喜びの声がある一方で「今後も実相から外れないよう監視が必要だ」との声も聞かれた。初めて最終的な展示を目にした監修委員は展示内容が軌道修正されたことを評価しながらも「展示作業はまだ完全ではない」と指摘し、複雑な思いをのぞかせた。
 
 
日本兵から銃が取り外されて問題となった壕(ごう)模型には多くの見学者が熱い視線を注ぎ、迫りくる戦車の音、砲撃弾の音、ひんやりとする壕内の温度に沖縄戦の追体験をした。稲嶺恵一知事も監修委員会の宮城悦二郎会長の説明に緊張した面持ちで一つひとつうなづきながら、聞き入っていた。
  展示を見学した関係者からは「沖縄が誇れる資料館ができた」「県民世論で沖縄戦の実相を歪めることは免れた」など評価する声が次々に挙がった。
  初めて展示全体を見た監修委員会の新城俊昭委員は「何と言っても現物資料が足りない。それは時間も人も十分でなく、資料を探しに行くことすらできなかった。展示パネルでは間に合わないところもあり空白部分が目立った」と展示が万全でないことを残念がった。石原昌家委員は「県民世論の後押しで、監修委員会の承認案が通った展示になった」と述べ、展示が監修委員会の検討結果を尊重したことについては評価した。
  安里英子委員は「百パーセントではない。微調整が必要」、星雅彦委員は「まだ展示されていない展示物があった」などと一様に問題点が挙げ、県が開館を急いだあまりに生じたしわよせを指摘した。監修委員会では30日に開かれる同会で最終確認し、調整していきたいとしている。
 
 写真説明:ベトナム戦争のころの基地の町や商店が再現され、訪れた人たちの目をくぎ付けにしていた=糸満市摩文仁・県平和祈念資料館
 
 宮城悦二郎監修委会長に聞く/「住民の視点」の理念守って/責任を持って最後まで監修
 
  最終的には昨年3月の監修委員会で承認された案に沿う形での展示内容に落ち着いた新しい県平和祈念資料館。同館の監修委員会(宮城悦二郎会長)は約5カ月間で展示説明文の作成などの現場作業と並行して精力的に監修作業をしてきた。県行政による展示変更問題で、揺れた新資料館の開館式典が29日行われた。展示作業にかかわった同会の宮城会長に資料館の課題や展望を聞いた。
  -開館式典を迎えての感想は。
  「開館できて、ほっとしている。監修委員の先生方は五カ月という短い期間、開館に向けて熱意と誠意を持って作業をしていただいた。展示変更問題でゴタゴタが続いたが、資料館の展示は監修委員会で承認したものになっている。それは、県による展示変更を県民世論が許さなかったからだ。だがまだ展示されてないものもあり、若干調整が残っている。責任が持てるよう最後まで監修したい」
  -開館式典後、監修委員会が展示の最終的な監修をすることについてどう思うか。
  「開館を急ぐあまり、手順が間違っている。本来、委員による最終的な監修を終えてから、開館式典を行うべきだった。なぜなら同館の基本理念が監修委員会で修正が決まっているにもかかわらず県は修正せずに展示した。県からの説明も一切ない。修復されつつあった信頼関係もまた崩れていく。ほかでも誤りがないか、30日の監修委員会ではっきりしたい」
  -新資料館に望むことは。
  「運営協議会を早急に発足し、企画展の計画や調査研究など今後の運営の在り方を検討してほしい。展示に関しては恣意(しい)的に変更せず、住民の視点から見た沖縄戦という基本理念を守ってほしい。また資料館が平和発信の拠点になるよう、多くの県民に利用してもらいたい」

                   ◇

同資料館のイデオロギーを決定した「監修委員会」会長の宮城悦二郎氏が太田元知事が送り込んだ子分であり、新城俊昭氏や石原昌家氏といった「集団自決訴訟」の被告側応援団の面々が委員として顔を揃えている事実だけでも同資料館の偏向した性格が分かる。

なお上記記事に出てくる上原正稔さんが、太田氏と「ハーバービューホテルの決闘」を演じた怪人・上原氏とは同姓同名の別人であることは言うまでもない。

 続く
 
 
【おまけ】 コメント欄の紹介です。
 
2009-07-29 21:38:28 茨城県民  
 
目取真氏のブログにコメントしましたが
見事に封殺されました(笑)
高一の私にも反論してもらいたかったのに・・・残念です。
書いた内容は緑側さんのとよく似ていましたが
赤松隊長の事についてこう書きました
「赤松隊長のことについても書かせていただきます。元自衛官であった恵氏が言っていた事ですが仮に集団自決を命令した残虐な指揮官なら
戦後渡嘉敷島の慰霊祭に出席し、さらには
当時行動を共にした住民と抱き合って記念撮影もしています。残虐な指揮官とそんなことしますか?誰もしないと思います」
以上です、勝手に書きましたすみません(笑)
 
 
沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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コメント (1)

速報【動画】怪人・上原正稔 太田知事との大乱闘!

2009-07-30 13:10:35 | ★集団自決

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 2/2【沖縄集団自決】「1フィート運動」創始者 上原正稔氏 単独インタビュー[桜 H21/7/29]

 

以下は怪人・上原正稔氏について触れたハーバービューホテルの決闘!太田元知事vs上原正稔を一部加筆したものです。

                   ◆

佐野眞一著の『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』に登場する殆どの人物は、新聞等でお馴染みの名前なので、その「書かれたくなかった」実像に触れると、下手なコントよりよっぽど笑を誘う。

筆者が個人的に知る人物も複数登場する。 中には共に酒を酌み交わした人物も登場して笑いを誘ってくれる。

だが、夥しい数の登場人物の中でも、太田元知事と上原氏という特にキャラの立った怪人の乱闘場面は圧巻だ。 チャップリンもステッキを担いで逃げ出すほどの大喜劇である。

というわけで、二人の怪人の絡んだ場面を抜粋引用しし、同書読破の手引きとする。

<太田に会った目的は、米留体験を聞く以外にもう一つあった。太田の知事時代の業績に、沖縄戦最大の激戦地の摩文仁の丘に「平和の礎」を建てたことがあげられている。
その「平和の礎」と、やはり琉球大学教授時代の太田が、アメリカの国立公文書館に出向き、同館に所蔵されていた沖縄戦の未公開フィルムを調査、発見したことから大きな記録運動のうねりとなった「沖縄記録フィルム1フィート運動」の二つのアイディアは、自分のアイディアが盗まれたものだと、抗議する男がいる。
この人物は上原正稔(まさとし)という1943年(昭和18年)生まれのドキュメンタリー作家である。 上原には太田に会うだいぶ前に会った。 上原を人目見て、この男は現代のキジムナーだな、と思った。 キジムナーとは、沖縄の人々に昔から愛される伝説の妖怪である。
黄色のシャツにピンクと紫というちぐはぐな靴下を履いたファッションの配色感覚だけでも、この世のものとは思えなかった。 その奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)な出で立ちに小さな体を包んで登場したときは、立派な髭をたくわえた顔とも相まって、愛玩用の犬が二本足で立って現れたかと思った。 若者が被るようなキャップ、首のスカーフや茶色のサングラス、ポパイのようなパイプも、どこか現実離れしていた。
「1フィート運動も、“平和の礎”のアイディアも、最初に発案したのは僕です。 それを太田昌秀に盗まれた。 それ以来、太田とはケンカです。 僕は太田に首を絞められたこともある。 彼は知事失格というより、人間失格の酒乱男です。 売名欲の塊です」

ーー首を締められた? 穏やかじゃないですね。 どこで首を絞められたんですか。

「ハーバービューホテルです。 その件で僕は太田を告訴しました。
初めて聞く話だった。 後で入手した告訴状には、こう書かれていた。

〈被告人(引用者注・太田)は、告訴人(引用者注・上原)に対し、平成4年9月13日、午後9時頃、那覇市泉崎2-46の沖縄ハーバービューホテル二階「鳳凰の間」において、右手拳で告訴人の左わき腹を一回強く突き、さらにたじろぐ告訴人の左上腕部を痛みを感じるほど強く握り締めて、3メートルひきずるなどして暴行を加えた〉

告訴状に付随した陳述書には「太田氏が顔を上気させ、目を吊り上げ、恐ろしい形相で私に駆け寄り」といった、さすがはドキュメンタリー映像作家らしい臨場感あふれる記述もあった。>

 

著者の佐野氏が描く上原氏の描写が秀逸で思わず笑ってしまったが、対する太田知事もこれに決して引けをとらない。

筑紫哲也氏が「沖縄の良心」だと「大文字言葉」で紹介する太田元知事の素顔の怪人ぶりは、上原氏がキジムナーなら、太田氏は脂塗れのアンダケーボージャー(脂食い坊主)とでも言うべきか。

アンダケーボージャーとは沖縄の伝説の怪盗ウンタマギルの子分のこと。 

元知事のことを怪盗の子分に例えるの礼を失するとも思えるが、上原氏のアイディアを盗んだというのなら怪盗の子分程度に例えられても仕方がないだろう。

それにしてもかつて今上陛下もご宿泊したことのある沖縄の最高級ホテルの宴会場で、満座注目の中現役の知事が上原氏の首を絞め3メートルも引きずる暴挙にでたとは通常では到底信じられることではない。

まさに『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』に登場する人物の中でも際立つ千両役者である。

太田氏は琉球大学教授から県知事、そして参議院議員とエリートコースを歩む人物だが、一方の上原氏は組織に属しない一匹狼で、その名は知る人ぞ知る怪人である。

まるで接点のないように見えるご両人だが、沖縄戦記を発掘してそれを出版するという分野においてはご両人の活動分野は重なっている。

ここで佐野氏は上原氏が言う「乱闘劇」について裏付けのため再度太田氏にインタビューするのであるが、その部分を紹介する前にキジムナーこと上原氏について少し触れておきたい。

太田氏については「大文字言葉」のみで沖縄を語る筑紫哲也氏などによって「沖縄の良心」のように描かれているので、当日記の読者ならよく承知のことと思う。

沖縄タイムスに取り込まれた大江氏と筑紫氏

一方、上原氏については沖縄人でも知る人は少数派であろうが、古くからの当日記の読者なら、琉球新報に連載中の沖縄戦記を前日になって異例の突然中止という言論封殺を被ったドキュメンタリー作家として、また係争中の集団自決訴訟でも原告側の証拠となった『沖縄戦ショウダウン』の著者として記憶に新しいだろう。

 

「沖縄集団自決冤罪訴訟」の原告側の準備書面に出てくる上原氏に関連するくだりを抜粋すると次の通りである。

≪さて、今回新たに提出した重要な証拠のなかに、沖縄出身の作家上原正稔氏が記述した『沖縄戦ショウダウン』があります。上原氏は、琉球新報に「沖縄戦ショウダウン」を連載中、当時の集団自決の生き残りである金城武徳氏らを調査した結果、渡嘉敷村民の自決について、
「国のために死ぬのだ。だれも疑問はなかった。村長が立ち上がり音頭をとり、『天皇陛下万歳』と皆、両手を上げて斉唱した」ことを確認しています。

(2)続いて、被告らが依拠する富山証言の信用性を弾劾しています。被告らは富山証言をもとに米軍が上陸する直前の昭和20年3月20日、手榴弾を村民に配ったといいます。富山証言は第3次家永訴訟において、沖縄国際大学の安仁屋政昭氏が公に持ち出したものでありますが、日本軍の第32軍も渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も米軍が慶良間諸島を最初に攻撃することはないと考えていました。だから地上戦も予定していませんでした。安仁屋氏もそのことを明確に認めています。3月25日8時海上に敵機動部隊船影を確認するまで米軍の渡嘉敷島への上陸を全く予想していなかった赤松部隊が3月20日に米軍の上陸した場合の戦闘に備えて村の少年や役場職員に手榴弾を配布することはありえません。富山証言はデッチアゲそのものです。

(略)

(4)太田氏(「鉄の暴風の筆者」ー引用者)は沖縄タイムス上での論戦において、「あの玉砕は軍が強制したにおいがある。アメリカ兵が目撃した集団自決の資料の発見者で翻訳者である上原正稔は、近く渡米して目撃者を探すそうである」と記載しています。その上原正稔氏こそ、先に紹介した『沖縄戦ショウダウン』の著者でした
原氏は、『鉄の暴風』等によって沖縄のマスコミがつくりあげた虚偽の神話に対する怒りを隠さない金城武則氏、大城良平氏、安里喜順氏、そして知念朝睦氏といった集団自決当事者たちの証言に出会い、ようやく真実に気がつきました。そして、「われわれが真相を知ることが『人間の尊厳』を取り戻す、すなわち『おとな』になることだと信じる」と断ったうえで、「筆者も長い間『赤松は赤鬼だ』との先入観を拭いさることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。」と告白しているのです。 さらに、「国の援護法が『住民の自決者』に適用されるためには『軍の自決命令』が不可欠であり、自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることを赤松さんは知っていた。だからこそ一切の釈明をせず、赤松嘉次さんは世を去った」「一人の人間をスケープゴート(いけにえ)にして『集団自決』の責任をその人間に負わせて来た沖縄の人々の責任は限りなく重い」と結論しています。
『沖縄戦ショウダウン』の記事が沖縄の有力紙琉球新報に掲載されている意味は重大です。そのことは、沖縄の言論人にも事実を調査し、真実を見極めようという誠実な人がいること、そしてそうした沖縄でも赤松隊長命令説の虚偽が自明なものとして知られていたことを意味しているからです。
(沖縄集団自決冤罪訴訟・準備書面)

これに対する被告側は、

「『沖縄戦ショーダウン』は、赤松氏を一方的に評価する人物だけからの証言によって執筆されたもので信用性がない」と客観的反論を放棄し、「信用性がない」といった極めて情緒的文言で終わっている。

被告側は上原氏の著書は信用できないというが、上原氏は被告側のバイブルともいうべき『鉄の暴風』を出版した沖縄タイムス刊で、同じ沖縄戦を扱った 『沖縄戦トップシークレット』『1995年3月刊)を出版している。

同じ沖縄戦関連で同じ沖縄タイムスが出版した『鉄の暴風』はバイブル扱いして、他方では同じ沖縄タイムス刊で沖縄戦を出版する上原氏を自分の都合の悪い記述だから信用できないという。

これが「集団自決」訴訟を通じて被告側弁護団が取ってきたダブルスタンダード手法である。
 

■「一フィート運動」を始めたのは上原氏■

沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会

上原氏は、独自のルートで、アメリカで眠っている「沖縄戦映像」を取り寄せて、記録フィルムに残されている「場所と、人物を特定したい」と沖縄各地を調査し、証言を集めてきた。

上原氏は従来の沖縄戦の研究者のように、戦争の持つ影の部分のみを捉えて無理やりイデオロギー問題に摩り替える手法をとらなかった。

上原氏は、当初は『鉄の暴風』等によって沖縄のマスコミがつくりあげた虚偽の神話に対する怒りを隠さない多くの集団自決当事者たちの証言に出会い、ようやく沖縄戦の真実に気がついた

そして、「われわれが真相を知ることが『人間の尊厳』を取り戻す、すなわち『おとな』になることだと信じる」と断ったうえで、

筆者も長い間『赤松は赤鬼だ』との先入観を拭いさることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。」と告白している。

彼は言う。

「反戦平和なんてボクには関係ない!」

「大切なことは、沖縄戦を撮影したフィルムに、無数の沖縄住民の姿が映っているということだ。ボクは、フィルムの中の『主人公』たちに、この映像を届けたいんだ!」

そう、沖縄戦を記録した映像の中には、悲惨な戦闘シーンだけではなく、生き残った沖縄の人々の、驚くほどの「笑顔」が残されていた。

そして彼はフィルムに封印されていた沖縄戦の真実の物語を追求している異色の沖縄戦研究家でもある。

「1フィード運動」は、その後同運動に大田昌秀元知事や、新崎盛暉、安仁屋政昭、石原昌家等のサヨク学者が運営委員として加わり、運動がイデオロギー化していく。

創始者の上原氏は「一フィート運動」がイデオロギー化するのを嫌ったのか、組織を離れて独自の活動をするようになる。

上原氏の沖縄戦の記録発掘に対する姿勢がどのようなものかは、次の沖縄テレビ・サイトから垣間見ることが出来る。


第14回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/14th/05-330.html
『むかし むかし この島で』(沖縄テレビ制作)

 続く
 
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怪人・上原正稔 佐野眞一のベストセラーに登場!

2009-07-30 12:14:10 | 未分類

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『うらそえ文藝』による沖縄二紙への告発以来、県庁での記者会見、週刊新潮、サピオ、そしてチャンネル桜と立て続けに自論を展開する星、上原両氏だが、特に上原正稔氏は長い髭を蓄えた特異な風貌と遠慮のない率直な舌鋒が注目を浴びている。

上原氏について書いた過去ブログを一部抜粋、加筆してその人となりを振り返って見る。          

以下は沖縄を語る“大文字言葉”-『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』感想文の抜粋です。

                   ◆

 

 昨年末の発売以来ベストセラーを続ける佐野眞一著『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』を初めて本屋で見た時は、あまりにも分厚い(654頁)そのボリュームに圧倒され最近まで敬遠していた。

だが今月になって覚悟を決めて読破にかかったのだが、一旦読み始めたら時間を忘れて一気に読んでしまった。

登場人物が実に多彩で、現役の知事からヤクザの親分、そしてその親分をヒットした殺し屋に至るまでの膨大な数の人物を、著者は「アドレナリンが沸いてくる」という汲めどもつきぬ好奇心と、底知れぬ行動力で次々と芋ヅル式にインタビューを続ける。

今では左翼集団の巣窟と化した「一フィートの会」の創始者で、「この世の者とは思えない」風体のドキュメンタリー作家上原正稔氏とのインタビューのくだりには思わずコーヒーを吹いてしまった。

1フィート運動を太田昌秀元知事などの左翼集団に乗っ取られて、上原氏が組織を離れた話は当日記でも以前に触れた。

その経緯はこれ⇒琉球新報によって削除された「沖縄戦記」

1フィート運動の乗っ取り騒動に関連して、上原氏は太田元知事に暴力をふるわれ告訴騒ぎになったという。

筑紫哲也氏などに言わせると「沖縄の良心」のように褒め上げられる太田氏だが、「この世のものとも思えない」風体の上原氏に暴力を加えたという話は、沖縄人の筆者ならあり得ることだと納得すること。

だが、イモヅル式インタビューを得意とする佐野氏は、ウワサをそのまま記事にするようなどこかの記者さんとは根性が違った。

早速太田元知事に面会して同じ話の裏取りをするのだが、次の問答がとても元県知事へのインタビューには思えず笑いをこらえ切れなかった。

佐野氏:「上原正稔という人物をご存知ですか。 彼は太田さんに首を絞められたといっていました」

太田氏:「ええ、知ってます。 大げさなヤツです(笑)。裁判は、彼の方から取り下げたんです」

この後、太田氏の弁明がしばらく続くが、「大ゲサ」とは言っても暴力行為を否定してはいない。

ちなみに暴力行為の内容は、告訴状によるとこうなっている。

太田氏は那覇在の高級ホテル沖縄ハーバービューホテルの宴会場で、

「右手拳で告訴人の左わき腹一回強く突き、さらにたじろぐ告訴人の上胸部を痛みを感じるほど強く握り締めて、三メートルほどひきずるなどして暴行を加えた」と。

太田氏が否定はしないで「大げさ」というのは、三メートルもひきずったのが大げさであり、せいぜい一フィートしか引きずっていないというつもりなのだろうか。(爆)

太田氏の酒乱と暴力癖について、著者の佐野氏は太田氏をよく知る新聞記者にも尋ねている。

「(太田氏は)ちょっと批判的なことを言われると、すぐ顔を真っ赤にしさせる。鼻血まで流すこともありました。 酒乱? いまの(仲井真)知事の方が百倍酒乱です・・・・・」

酔うと批判者に暴力をふるい「一フィート」も引きずり廻す元知事にも驚くが、

その百倍も酒乱という現役知事の話にも言葉を失う。

だが、かくいう筆者も仲井真氏が知事になる前の沖縄電力社長時代、たまたま行った居酒屋で仲井真氏に遭遇しその酒乱の片鱗を拝ましてもらったがここでは省略する。

1フィート運動を上原氏が始めたことを示す記事が琉球新報に掲載されている。

10日付朝刊社会面は、ドキュメンタリー作家・上原正稔さんが米公文書館で入手した沖縄戦の映像を紹介した。沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会は顔なしである。上原さんの行動と成果を見るにつけ、かつて1フィート事務局で手伝いをしたことのある私は「何だかなぁ」と思わざるを得ない。もともと1フィート運動は上原さんたちが始めたと聞く。であるならば、上原さんに1フィート運動の会に戻っていただいて再生を図るくらいのことをしてもいいのではないか。>(久場由紀子さんの<紙面批評>を絶賛する ~沖縄王版『琉球新報』紙面批評(2004年1~2月分) より)

上原氏や太田氏のように登場する怪人たちを一々紹介していたら切がないないので、他の怪人達については同書を読んでいただくとして、目次の冒頭にある次の章について触れたておきたい。

「お約束」の島から「物語」の島へ

この章の最後の部分にこうある。

・・・私は沖縄を日本の暗部を一身に背負わされた被害者の島という文脈だけで語ろうとは思わない。・・・・・・

忘れてならないのは、被害、加害の「大文字」議論にはさまれて、当の沖縄人たちが、戦後つむいできた可笑しくも悲しい物語が封殺されようとしていることである。 私は本書で、その封印をすべて開封するつもりである。>

そう、沖縄の書店に並ぶ沖縄戦史モノや沖縄紙の紙面で識者が語るのは、「お約束」の「大文字言葉」であり、沖縄の実情を伝えていない。

これまで当日記が「お約束」の「大文字言葉」に反するような文言を書くと「この男は沖縄人を騙るヤマトンチュであり、沖縄人がこのようなことを書くはずがない」とか「コイツは裏切り者だ」といったコメントが殺到した時期があった。

これでは沖縄人である限りすべてが金太郎飴のように同じ意見、つまり「大文字言葉」の意見を持たねばならぬということになる。

これでは沖縄は「同調圧力」を超えた北朝鮮のような所だといわれても仕方がない。

佐野眞一氏が言う「大文字言葉」の意味は、『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』の「はじめに」に説明されているので一部を抜粋して以下に引用する。

                     ◇

 『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』佐野眞一著

「はじめに」より

沖縄についてはこれまで夥しい数の本が書かれてきた。だが私から言わせれば、ほとんどが“被害者意識”に隈取られた“大文字”言葉で書かれており、目の前の現実との激しい落差に強い違和感をおぽえる。
 
沖縄本を覆う違和感とは何か。大江健三郎の『沖縄ノート』に象徴される「本土から沖縄に怒られに行く」「戦争の被害をすべて引き受けた沖縄に謝りに行く」という姿勢である。
 渡嘉敷島の集団自決問題の論争で、大江をエキセントリックに攻撃する漫画家の小林よしのりを擁護する気は毛頭ない。
 だが、
大江は沖縄県民を一点の汚れもない純粋無垢な聖者のように描き、そうした中で自分だけは疚しさをもつ善良な日本人だと宣言し、ひとり悦に入っている、という小林よしのりの大江批判にはそれなりの説得力がある。
 沖縄県民を聖者化することは、彼らを愚弄することとほぼ同義だと私は考えている。そこには、沖縄の歴史を一九四五(昭和二十)年六月二十三日の沖縄戦終結の時点に固定化させ、この島にその後六十年以上の歳月が流れたことをあえて無視しようとする欺瞞と、それにともなう精神の弛緩が垣間見えるからである。
 
大江や、これに同調する筑紫哲也の話題が出るたび、心ある沖縄人たちから「われわれを“褒め殺し”するのも、もういいかげんにしてくれ」という台詞が出る場面に、私は幾度となく遭遇した。
 こうした跪拝意識に“大文字言葉”が加わって、沖縄は米軍に占領された被支配者の島である、といった左翼宣伝ビラでもいまどき書かないようなプロパガンダ本が、うんざりするほど生産されることになった。

“大文字言葉”とは何か。いい機会なので、ここで私がよく便う「大文字」と「小文字」の違いについて、少し噛み砕いて述べておこう。
「So what?」という英語の慣用句がある。私流に訳せば「それでどうしたの?」という意味である。私が言う[大文字」言葉とは、聞いたときにはわかったような気にさせるが、あとから考えると「So what?」という疑問がわく言葉のことである。
 テレビに登場するコメンテーターが口にする一見もっともらしい発言は、だいたい[大文字」言葉だと思って間違いない。私は彼らのおごそかな口調の割には無内容なコメントを聞くたび「雨が降るから天気が悪い。悪いはずだよ、雨が降る」という俗謡を思い出してにが笑いする。
 彼らは同義反復しているだけで、実は何も言っていないのに等しい。何かを言っているように聞こえるのは、彼らの顔や仕草を見て、こちらが情報を補ってやっているからである。
 これに対して「小文字」とは、活字だけで世界がくっきり浮かび上がる言葉のことである。それは小さい声ながら、有無をいわせぬ力で読者をねじふせる。
 物事を「説くにには「大文字」言葉が便利だが、物事を「語る」には「小文字」言葉を身につけなければならない。「語って説かず」。それがノンフィクションの最大の要諦だと、私は常々言ってきた。

                    ◇

なるほど、沖縄、特に沖縄戦を語る言葉には「お決まり」の「大文字言」が沖縄情報として巷に氾濫していることが良く理解できる。

「大文字言葉」を語る代表が大江健三郎氏と筑紫哲也氏だという例えも分かりやすい。

このお二人を沖縄の良心のように扱う沖縄紙も「大文字言葉」に溢れていることになるわけだ。

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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コメント (3)

ストックホルム症候群だって

2009-07-30 06:31:45 | 県知事選

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依存心芽生え逃走困難か  ストックホルム症候群指摘
千葉市花見川区の団地で店員豊田愛子さん(61)が殺害され、次女智美さん(22)が連れ去られた事件で、智美さんが逃げ出せなかった理由について千葉県警は、極度の緊張状態の下で犯人に依存心を抱くようになる「ストックホルム症候群」の可能性を指摘、カウンセラーによる心のケアを検討している。

 同症候群は、人質事件などで被害者が長い監禁状態に置かれているうちに犯人に親近感を覚える心理状態をいう。

 県警によると、智美さんは団地から栃木県内まで仲田敬行容疑者(28)と車の中で二人きりだったが、事件翌日には高速バスやタクシーを乗り継いで羽田空港に移動したり、那覇空港へ飛んだ後もタクシーを長時間利用しており、計5日間は第三者がそばにいた。保護されたとき、一緒にいた仲田容疑者は凶器を所持しておらず、逃げ出す機会はあったとみられている。

 県警幹部は、智美さんが6月に別れて間もない7月4日、仲田容疑者に車で連れ去りに遭い、愛知県内で保護されるまで1週間逃げ出せなかったことから、既にストックホルム症候群の兆候が芽生え、今回も逃げ出せる心理状態になかったとみている。

 智美さんについて、東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一研究員(精神医学)は、母親の殺害現場を目撃し「逃げたら危害を加えられると思った」と話している側面を重視。ストックホルム症候群にみられる依存心よりも、トラウマ(心的外傷)が深まり被害を訴え出る気力が失われたのではないかと分析。ストーカー被害を訴えた事件前の段階で智美さんを隔離するなどの措置を講じておくべきだったと指摘している。

2009/07/26 18:26   【共同通信】 

                                         

犯人と人質は沖縄で逮捕されたが、犯人より人質の女性の心理状況が話題になった。

逃げるチャンスがあったのに逃げなかった人質の女性の心境を、ストックホルム症候群のせいにする専門家がいるようだ。

恋人同士のようにビーチで仲良く泳ぐ姿に人質と拉致犯の緊迫感は見当たらなかったとは、二人を乗せたタクシー運転手の話。

でも、ストックホルム症候群とは、一寸こじつけが強引過ぎる気もする。

人質の気持ちはよくわからないので、以下のスレッドに任せるとして・・・。

【社会】千葉から沖縄まで連れ回された被害者、「ストックホルム症候群」で逃走困難か

 

更に強引に「ストックホルム症候群」を「鬼畜米英」に結びつけた過去エントリーを一部加筆して再掲です。

「鬼畜米英」と「ストックホルム症候群」■

8月15日の玉音放送で日本人の価値観はひっくり返ったと言われる。

しかしその約2週間後マッカーサーが丸腰で日本に上陸してから、日本人の心理状態は精神医学上極めて興味ある状況に陥る。

鬼畜米英と恐れたアメリカ軍は意外と紳士的だった。


それどころかマッカーサーは「自由と民主主義」を手土産に持ってきた紳士であった。

以後7年の間、このアメリカ紳士は占領下という閉鎖空間で日本人と共に暮らすこととなる。

ここに日本人は、後に精神医学用語となる「ストックホルム症候群」を全国的に体験することになる。

ストックホルム症候群とは、
1973年にストックホルムで起きた銀行立てこもり事件に由来する。


4人の人質の犯人に対する複雑で難解な心理状態を指す言葉で、彼らは被害者になったにも関わらず長い期間(6日間)犯人と時間を共にすることになる。

その結果、最終的には犯人に対して連帯感、親近感、同情を感じ、犯人逮捕の際に彼らは感謝するべき警察を非難し、非難すべき犯人に共感した。

この人質の心理状況が後にストックホルム症候群と言われるようになる。

米軍の日本占領時では、言うまでも無く、凶悪犯人は鬼畜米英の総大将マッカーサーであり、人質は敗戦国民の日本人、そして人質現場の銀行は占領下の日本(Occupied Japan)にあたる。


■敵の敵は味方■

「ストックホルム症候群」は特に地上戦の激しかった沖縄戦で顕著に現れた。

沖縄でも終戦を待たないで米軍の捕虜になった住民は価値観の逆転を味わった。

鬼畜が食料を与え怪我の治療をしてくれる。

一方、無残な姿で未だ逃げ回っている日本軍はその瞬間「敵」になった。

自分達の敵である日本軍の敵は米軍。 

「敵の敵は味方」という方程式が成立し、この瞬間米軍は解放軍になった。


更に沖縄を日本から永久分断するための米軍の心理作戦、そしてそのため善意を強調する米軍との共同生活は沖縄でも「ストックホルム症候群」の症状が群発した。

凶悪犯人は鬼畜と思った米軍であり、人質は捕虜、人質現場の銀行は捕虜収容所、いや沖縄全島といったほうがわかりやすい。

この辺の複雑な心境を当時沖縄で捕虜になったある女性は次のように書き残している

米軍に保護された住民にとって、それまでの『兵隊さん』は、いつしか『日本兵』という“敵”に変わっていた。住民は、すっかり”親米派”になっていたのである。『お国のために』と信じ、日本軍と行動をともにしてきた私の母・宮城初枝も、大けがをして投降したものの、島の人たちからあらぬ噂をたてられ、
日本軍に加担したとして批判の的にされていた。
戦争は終わった。しかし母にとっての”戦争”は終わらなかった。さまざまなできごとが戦後に尾を引き、母はその当事者になってしまうのである。≫
(宮城晴美著 「母の遺したもの」)


■マッカーサーの置き土産■

マッカーサーが7年後日本を去るとき「鬼畜」は「親愛なるマッカーサー様」に変わっていた。

彼のもとには日本国中から感謝と惜別の念に満ちた数万通の手紙と贈り物が届けられていたと言う。

だが、マッカーサーが日本に残したものは「言論の自由」ではなく、「焚書坑儒」、・・・いや、そんな直裁的な荒業ではなく、真綿で締め上げるような「3年殺し」の技だった。

古来沖縄に伝わる空手の秘技「3年殺し」については
「マッカーサーの三年殺し」【再掲】で書いた。

拳で突かれたときは痛くも痒くも無いが、3年目には内部の細胞が崩れて死に至るという必殺技だ。

しかしマッカーサーの秘技は3年どころか60数年の時を超えて、日本社会の内部組織を今でも壊し続けている。

■マッカーサーの焚書坑儒■

マッカーサーは当時のアメリカでも実施していなかった男女平等を始めとする数々の民主主義の理想を日本に持ち込んだ。

彼は軍人でありながら何故このような当時は勿論、現在でも類のない理想主義に満ちていたたのか。

その鍵をとく為に彼が日本に第一歩を印すまでの足跡を辿ってみる。

パターンの復讐

マッカーサー、この誇り高きエリート軍人は、フィリピンでは日本軍に敗走の屈辱を味合わされた。

挌下と見下していた黄色民族の軍隊に敗走する事は彼の辞書には無かった。

ダグラス・マッカーサーは1880年1月26日アーカンソー州リトルロック生まれ。父親のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は南北戦争の退役軍人であり名誉勲章を受章している職業軍人家系だった。

1898年、アメリカ陸軍士官学校に入学し、1903年に陸軍少尉になり卒業した。その成績はアメリカ陸軍士官学校史上最高で、マッカーサーの取った成績以上の成績で卒業したものは未だに現れていない。

1942年5月7日、その誇り高きマッカーサーがフィリピン・コレヒドールで日本軍本間中将との戦いに敗れてオーストラリアに敗走する。

この屈辱の負け惜しみに「I shall return」(必ず戻る)という有名な言葉を残した。

彼の屈辱の敗走の2年後、彼より10歳若いアイゼンハワーがヨーロッパ戦線でノルマンディ作戦を指揮して世界的英雄になった。

アイゼンハワーは軍人として必ずしもエリートコースを歩んでおらず一時は閑職で燻っていた時期もあった。

またアイゼンハワーはマッカーサーの部下として彼の補佐官を務めた時期もあった。

軍人のエリートコースを歩みながら、むしろ政治家志向のマッカーサーが後年大統領予備選に敗北をして、立候補を再三辞退していたアイゼンハワーが大統領になった。

日本占領までのマッカーサーはフィリピンでの屈辱を晴らす復讐の念に燃えていた。

それには日本の軍隊を徹底的に壊滅させる必要があった。

日本を手足のもぎ取られた子羊のように、二度と米国に反抗できない状態にしておく意図に燃えていた。

そのためには日本国憲法の設定、その中でも交戦権の否認は不可欠であった。

■マッカーサー 皇居を睥睨しながら執務をした■

マッカーサーは皇居に面した第一生命ビルの6階に占領軍の本部を構えた。

そこから皇居を見下ろして天皇の権威の上に君臨する全能の権力者となった。

日本の歴史上権力と権威を1人で独占して日本を統治した者は彼をおいて他に例が無い。

日本の歴史では朝廷の権威と幕府の権力は常に補完しあってきた。

マッカーサーと言えば日本に「自由と民主主義」を普及させた恩人と見られている。

しかし彼が日本で最初に行ったことは「自由と民主主義」とは逆の「焚書坑儒」であった。

「焚書坑儒」とは中国の専売特許かと思ったらマッカーサーもこれを行った。

秦の始皇帝にも劣らぬ絶大な権力を振るったマッカーサーなら「焚書坑儒」もけして不思議ではない。

マッカーサー司令部は昭和21年3月に一通の覚え書きを出して、戦時中の日本の特定の書物を書物の存在すべきあらゆる場所から没収し、廃棄することを日本政府に指示した。

書物没収のためのこの措置は時間とともに次第に大がかりとなる。

昭和23年文部省の所管に移って、各都道府県に担当者が置かれ、大規模に、しかし、秘密裏に行わた。

没収対象の図書は7千7百余種に及んだという。

そのとき処理し易いように作成されたチェックリストが分厚い一冊の本として公開されている。

これは戦後のWar Guilt Informasion Programの一環であり、私信にまで及ぶ『検閲』の実態はかなり知られている。

だが、数千冊の書物の『焚書』の事実はほとんど知られていない。

チェックリストは、昭和57年に文部省社会教育局編として復刻され、やっと公開されるようになった。

失われた書物の内容を、殆んどの日本人は知らない。

つまり、先の大戦に関して、戦後の日本人は偏った情報を与え続けられ現在もそれが継続していることになる。

 

■「三年殺し」に潰された安倍政権■
   
マッカ―サーの「焚書」という「三年殺し」の荒業は彼の予想を遥かに越えて、60数年経った現在でも日本の内部組織を破壊しつづけている。

マッカーサーの負の遺産である「戦後レジーム」。

それは「戦後民主主義」という形で、今でも左翼マスコミの中に奥深く染み込んでいる。

その解消に果敢に挑んだ安倍前首相は、「戦後レジーム」そのものともいえるマスコミと左翼官僚によって見事に潰されてしまった。
 
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速報・チャンネル桜 星雅彦氏の単独インタビュー

2009-07-29 15:15:26 | ★集団自決

 

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「うらそえ文藝」関連のチャンネル桜の動画の続編です。

 
                                                ◆
 
沖縄に在住し且文筆で生活するものは、沖縄タイムスと琉球新報に楯突いたら生きてはいけないと再三述べてきた。

座間味島の集団自決で、宮城初江、晴美親娘が2代に渡って証言をコロコロ変えても、その度に沖縄の有識者達は後追いするよう自己の主張を変えて来た。

これらを見ても、沖縄の特殊な言論空間が推して知ることができる。

『うらそえ文藝』で星雅彦、上原正稔両氏が沖縄二紙を告発したとき、両氏の沖縄での文筆活動が二紙によって締め出しを食うことは容易に予想できた。

「集団自決訴訟」の一審、二審で被告側が勝訴している現在、沖縄の識者たちが自説を曲げても沖縄二紙におもねるのは生活のためには止むを得ぬことかもしれない。

星氏と上原氏が沖縄二紙を告発したとき、次のようなことを書いた。

《勝ち馬に乗るという言葉には、 優勢側につくとか、時流に乗るという意味がある。

その伝で言えば「集団自決訴訟」で一審、二審とも原告側の全面敗訴で、残された最高裁では事実審議はしないという現状で、勝ち馬は大江・岩波という被告側であろう。

星、上原両氏も勝ち馬に乗って時流におもねるなら被告側の応援をした方が文筆家としては稼げただろう。 

そうすれば上原氏も琉球新報に連載中の記事を突然掲載中止させられるような屈辱的仕打ちを受けなくても済む。

ウソまみれの勝ち馬を拒否した両氏は、裁判の結果に関係なく、あえて茨の道を選んだ。

『うらそえ文藝』(4号)の集団自決特集を読むと、星、上原両氏は裁判の勝ち負けにはそれほど関心を示しておらず、事実審議が一審、二審と原告側の敗訴に終わった現在、最高裁でも原告敗訴を予想したような節が例えば次のようなくだりからも垣間見れる。

 それでね、この裁判は最高裁までもっていかれても現在の動向では、結果は同じになるだろうと思う。ただね、ここには厳しい教訓があると思うんです。
  ・・・・・・・・・・              
 この裁判によって勝った沖縄側の心の傷は深まるばかりでなく、本当の反省資料を見失うことになりそうだ。沖縄側はこの問題に対して真剣に取り組んだかどうかというと、私にほ疑問が残るんです。要するに、怒りで一丸となったというのはおかしいけど、驚くほど多数が賛同している。県民総決起大集会とマスコミの力で裁判も国も動かしたわけね。一一万人の県民が集まって。しかし、あの人数は眉唾だと思います。実際は半分以下でしょうね。(『うらそえ文藝』より)


そして、両氏は早い時期に集団自決の現地調査に関わった者としての責任感から裁判の結果はともかく、

沖縄県民が沖縄タイムスを先頭にした左翼グループに扇動され、歪曲された歴史を沖縄の歴史として刻むことに良心が耐えられなかったのだろう。

その意味で言えば両氏は「大江・岩波」という勝ち馬に乗るどころか、火傷も覚悟で火中の栗を拾う役目を買って出たのである。》

勇気ある記者会見!産経と世界日報が報道!

 

以下の引用は目取真俊氏の星、上原両氏への批判らしいが、沖縄二紙に「異例の厚遇」されているのに、原稿を拒否されたのを不服に思い、その「恨み辛み」で両氏が今回沖縄二紙に反旗を翻したと言いたいらしい。

さすがは護送船団の沖縄二紙で護られた方の意見。

見当違いもはなはだしいと、逆に感心させられる。

星、上原両氏は沖縄文壇から締め出されるのを覚悟の上で、真相を告白した。

その覚悟の告発を本当にご存知ないのだろうか。

上原氏ほど沖縄の県内紙に厚遇されてきた書き手も少ないと思います。
星氏にしても、『週刊新潮』7月16日号の桜井良子氏の記事に「私はこの三十数年来、琉球新報で3ヶ月に1回、『美術月報』を執筆してきました」という発言があります。
三十数年にも渡って「美術月報」を書けるということは、異例の厚遇ではないでしょうか。
そういう人たちが、原稿掲載を拒否されたことをもって、琉球新報、沖縄タイムスを潰す云々とまで言っているのですから呆れます。
それにしてもこのお二人は、太田良博氏や牧港篤三氏をはじめ、渡嘉敷島の元村長らが健在の時に、どうして議論を起こさなかったのでしょうか。
関係者が故人となって反論できなくなってから、言いたい放題しゃべっている姿を見ると情けないですね。》
 コメント欄
 
宮城初江さん、晴美さん親娘の2代に渡る心変わりで、
 
「集団自決」の「定説」がコロコロ変わったことは、目取真氏もご存知だと思うのですがね。
 
ご存知なかったらここを⇒女心と沖縄戦の「定説」
 
 
 
【おまけ】
 
NHKの捏造報道」
 
沖縄集団自決の問題、軍命令はあったのか? あったとは言わないが、あったとほのめかす朝日的方法。番組を見 れば 軍による自決命令はあったと思い込みますね。編集でいかようにも なるテレビ報道、見るほうの知的レベルも要求されます。
 
 
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『鉄の暴風』発刊の黒幕座安盛徳 おまけー目取真様への伝言

2009-07-29 06:00:18 | ★集団自決

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昨日公開されたチャンネル桜の上原氏のインタビューの中で登場する座安盛徳氏は、沖縄タイムス創設者の一人だが、『鉄の暴風』発刊の黒幕として知られていている。

座安氏が米軍側からの情報収集のパイプ役を果たしていたことは研究者の間ではよく知られたことが、この座安氏と米軍との関係を如実に示す沖縄タイムス記事がある。

それも比較的最近のウェブ記事である。 

タイムスも削除しそこなったのか、それがこれ。

<沖縄タイムス 1998年1月6日 朝刊 6面>

忘れ得ぬあの取材
比嘉敬さん
岸・高嶺会談
写真撮影に没頭 メモ忘れた
 入社したのは一九五〇年。新聞広告を見て応募したが、正直言って、新聞社なのかどうか、よく分からずに応募した。比嘉博さんら採用予定枠の二人はすでに決まっていたので、どうなるのか分からなかった。そこへたまたま通りかかった専務の座安盛徳さんが私の兄をよく知っているということで、机の上にあった紙に簡単な略歴を書かされて「あしたからすぐ来い」と言われた。

 翌日、座安さんと一緒に『鉄の暴風』の出版許可をもらいにライカムへ行ったことを覚えている。

 入社三年ほどで東京勤務になった。五七年六月十一日、日本規格協会理事長の高嶺明達さんを介して、訪米前の岸信介首相と本社の高嶺朝光社長の対談を企画することができた。明達さんは岸首相のブレーンの一人だった。

 取材では、写真が肝心といわれていたので、頭には写真のことしかなかった。フラッシュをたかずにバチバチやっていたら、岸首相が「そこは逆光だから、こっちにいらっしゃい」と明達さんを明るいところへ呼ぶなど、気を使ってくださった。

 写真撮影に一生懸命なあまり、メモを取ってなかったので、対談の内容はほとんど覚えてなかった。あとで「どんな話でしたかねえ」と社長に聞いたら、「君は取材に来て、メモも取らないのか」とこっぴどく怒られた。(談)(元沖縄タイムス社長・現琉球朝日放送社長)

                     ◇

記事の主題は岸首相だが、『鉄の暴風』がライカム(米軍)の許可の下に出版されていることが、何気なく語られている。

ちなみに座安氏と新人記者の比嘉さんが『鉄の暴風』の出版許可を貰いに言ったライカムとは、

在沖米軍を統率した琉球米陸軍司令部(Ryukyu Command)の略称のこと。

『鉄の暴風』の執筆者の太田良博氏は、タイムスの記者になる1949年まで、ライカムと同じく沖縄住民統治に強権を振るったユースカーに勤務していた。

ユースカーとは、琉球列島米国民政府の略称で、アメリカ軍が沖縄に設けた統治機構。英語での正式名称はUnited States Civil Administration of the Ryukyu Islands、略称USCAR(ユースカー)。

米国民政府に直前まで勤務し、新聞記者としては素人同然の太田良博氏が、沖縄タイムスに呼ばれれて『鉄の暴風』の執筆を始める事は次のエントリーで触れた。

『鉄の暴風』と米軍の呪縛


 では、素人同然の太田記者に『鉄の暴風』に執筆という重責をゆだねた沖縄タイムス社が、交通も通信もままならぬ当時の沖縄で、現在の新聞社のような機動力をもって短期間で「体験者」を集めることが出来たのか。
  当時の沖縄では、交通・通信等の手段を独占していた米軍の強大な力なくして、沖縄タイムスが情報源を確保することは考えられないことである。

 昭和24年当時は民間人が沖縄全島を自由に通行することが許可されてからまだ2年しか経っておらず(昭和22年 3月22日許可)、何よりも、住民の足となる日本製トラックが輸入されるようになるのが、その年(昭和24年)の12月17日からである。

 住民の交通事情をを考えても、その当時米軍の支援なくしての『鉄の暴風』の取材、そして執筆は不可能である。

 太田氏が取材を始めた昭和24年頃の沖縄タイムスは、国道58号から泊高橋を首里城に向かって伸びる「又吉通り」の崇元寺の向かい辺りにあった。

 その頃の那覇の状況といえば、勿論又吉通りは舗装はされておらず、通行する車両といえば米軍車両がホコリを撒き散らして通るくらいで、沖縄タイムス社向かいの崇元寺の裏手から首里方面に向かう高台には、まだ米軍の戦車の残骸が放置されているような有様であった。

 太田記者はドキュメンタリー作品の基本である取材に関しては、何の苦労もすることもなく、米軍筋を通してでかき集められた「情報提供者」達を取材し、想像で味付けして書きまくればよかったのだ。

 「取材」は沖縄タイムスの創刊にも関わった座安盛徳氏(後に琉球放送社長)が、米軍とのコネを利用して、国際通りの国映館の近くの旅館に「情報提供者」を集め、太田氏はそれをまとめて取材したと述べている。
  三ヶ月という短期間の取材で『鉄の暴風』を書くことができたという太田氏の話も納得できる話である。

 余談だが座安氏が「情報提供者」を集めたといわれる旅館は、当時国映館近くの浮島通りにあった「浮島ホテル」ではないかと想像される。 
 その後同ホテルは廃業したが、通りにその名前を残すほど当時としては大きなホテルで、米軍の協力で座安氏が「情報提供者」を全島から集められるほど大きな「旅館」は、当時では同ホテルを除いては考えにくい。国映館は今はないが、太田記者が取材した昭和24年にも未だ開業しておらず、後に世界館として開業し、国映館と名を変えた洋画専門館である。

 
 このように太田記者の経験、取材手段そして沖縄タイムス創立の経緯や、当時の米軍の沖縄統治の施策を考えると、『鉄の暴風』は、米軍が沖縄を永久占領下に置くために、日本軍の「悪逆非道」を沖縄人に広報するため、戦記の形を借りたプロパガンダ本だということが出来る。 当時の沖縄は慶良間上陸と同時に発布された「ニミッツ布告」の強力な呪縛の下にあり、『鉄の暴風』の初版本には米軍のヒューマニズムを賛美する「前書き」があったり(現在は削除)、脱稿した原稿は英語に翻訳され、米軍当局やGHQのマッカーサーにも提出され検閲を仰いでいた。
  『鉄の暴風』を書いた太田記者の取材源は、「社」が集め、「社」(沖縄タイムス)のバックには米軍の強大な機動力と情報網があった。

 ちなみに民間人の足として「沖縄バス」と「協同バス」が運行を開始するのは翌年、『鉄の暴風』が発刊された昭和25年 の4月1日 からである。

 米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。

平成19年11月5日
真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から62年 第2部 <13>

『鉄の暴風』誕生(1) 全社を挙げて取り組む
「米軍の人類愛で更生」
 若きアナーキストたち。右は城田徳明(大杉栄を崇拝して小杉栄と記してある)、中央は山城亀助、左は座安盛徳(県立農林校生)。座安氏は後に沖縄タイムス専務として腕を振るう(浦崎康華『逆流の中で』より) 
 新聞社は、自社の紙面に掲載した連載が、読者からの反響を呼び好評だったものを単行本にまとめるのが通例だ。沖縄タイムス編『鉄の暴風』(昭和二十五年八月、朝日新聞発行)もまた、同じ手順で作成されたと思っていたが、そうではなかった。
 沖縄タイムス社は昭和二十三年七月に創刊するが、その直後から、社を挙げてこの単行本プロジェクトが進められていたのである。本の監修を担当した常務の豊平良顕氏が「月刊タイムス」昭和二十五年一月号に、「“鉄の暴風”と記録文学 沖縄戦記脱稿記」という一文を寄せている。

 「高嶺社長以下全社員の熱意によつて、沖縄タイムス創刊当初より戦記刊行が企てられ、終戦四年目の昨年五月、本書編さんを、豊平(監修)、牧港(執筆)、大田(同上)の三名に託し、半年を経て、上梓の運びに到つたのである」(原文のまま)

 同社の専務の座安盛徳氏は、取材記者のために証言者を旅館にかき集めたり、沖縄に本の印刷機がないため上京し、朝日新聞社と発行の交渉のため骨を折るなど、まさに会社挙げての事業だったのである。

 豊平氏は脱稿記で『鉄の暴風』が「記録文学」と強調している。

 「記録文学というからには、どこまでも記録によつて、文学たるほかなく、記録というからには事実を基礎とするほかはない。而して文学というからには、作者が事実をどのようにうけとり、いかに自分の血肉と化したかを考えなければならない。しかし主観が働き過ぎてはいけない。事実をみくびり、なめてかかつてはいけない」

 さらに、「事実の中味の重さを尊重するならば、おのづから最小限の言葉の中に事実の全重量を受け止めねばならない」と、「事実の重さ」を格調高く綴(つづ)っている。しかし併せて脱稿記で目を引くのは、米軍へのすさまじいまでの心配りである。

 「なお、この動乱(沖縄戦)を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく、終生忘れることができないことは、米軍の高いヒユーマニズムであつた。国境を民族を、越えた米軍の人類愛によつて、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。われわれは、そのことを特筆した。米軍の高いヒユーマニズムを讃え、その感恩を子々孫々に伝え、ひろく人類にうつたえたい。戦いの暗たんたる記録のなかに珠玉の如き光を放つ、米軍のヒユーマニズムは、われわれをほつと息づかせ、よみがえらせ理解と友情がいかに崇高なものであるかを無言のうちに教えてくれる。血なまぐさい戦場で、殺されもせずに、生命を保護されたということを沁々(しみじみ)と思い、ヒユーマニズムの尊さをありがたく追想したい」

 文中の「更生」とは、好ましくない状態を改めて元の良い状態に戻るという意味だ。ヒューマニズムあふれる米軍を相手に戦った日本軍も住民も愚かでした、そんな自分たちを殺すことなく保護し、あらゆる支援を与えてくださり更生できました、と。「そのことを特筆した」のが、『鉄の暴風』であるというのである。

 筆者の牧港篤三、太田良博両氏は昭和二十四年春から取材三カ月、執筆三カ月という短期間で仕上げて同年十一月に脱稿。その後、原稿を清書して、琉球大学の教授に英訳を依頼して、その全訳を軍政府に出すという作業があった。

 このような手間暇がかかることを考えれば、新聞紙上で一回一回事前チェックを受けて連載するという発想は初めからなかったのであろう。

 結局、米軍政府の許可が下りるのは脱稿から七カ月後の昭和二十五年六月十五日。許可が長引いたのは、時の軍政長官シーツ少将が読み始めて「これは面白い」と、手元に置いて手離そうとせず、部下連中はお手上げだったという。(高嶺朝光著『新聞五十年』)

 だが、それにしても豊平常務はなぜ、許可が下りる前に、大きなスペースで堂々と前宣伝とも言える脱稿記を書けたのだろう。不許可になる可能性を想定していなかったのか。それとも既に、許可については軍政府から暗黙の了解があったのだろうか。

 豊平氏の脱稿記の終わりに気になる一文がある。「沖縄戦記の刊行をタイムス社が承つたことは、あるいは、最適任者を得たものではあるまいかと思う」というくだりだ。果たして豊平常務が、「承る」という丁寧な言葉を使う相手は誰なのか。それを占領下の当時、絶対的な権限を誇示していた米軍政府と読めば、『鉄の暴風』の早過ぎるとも思えるこの手記の発表も合点がいくのである。

(編集委員・鴨野 守)

                      ◇

【おまけ】コメント欄の紹介です。

2009-07-28 18:49:20 縁側   . 
狼魔人さま こんにちは

目取真ブログにいってきました。「書評狙われた集団自決」のエントリーへコメントを入れてきました。おそらく無視されると思いますので、こちらでお邪魔させてください

(転載はじめ)


目取真さま こんにちは

被告側支援者のお書きになったものですね。早速拝読させていただきます。情報に感謝します。

>村の幹部としての立場上、座間味島の「集団自決」で大きな役割を担わされてしまった宮里盛秀氏は、大江・岩波沖縄戦裁判のなかでも焦点となった人物である。その宮里氏が、米軍が上陸したら「玉砕」するよう軍から命令を受けていたことを示す証言を、妹の宮平春子氏が行った。裁判や教科書検定問題のただ中で明らかにされた同証言は、大きな注目を浴びた。

:この宮平春子証言は県内二紙も大見出しで扱い、「決定的な証言」としておりましたが、果たしてそうでしょうか。彼女は宮里盛秀氏の妹にあたりますね。私の持つ情報では、座間味島の多くの方々は、宮里盛秀氏の墓に唾を吐きかけていたようです。たぶん集団自決でご家族を失ってしまったご遺族なのでしょうね。そんな島で生活している宮平春子さんも居心地のいい環境ではなかったのではないでしょうか。毎年やってくる慰霊祭、ウシーミーなどの時期には、否応なしに皆が思い出しますからね。そこで昨今の、当該裁判と教科書検定問題が噴出したことでまた、「忘れたい過去」が蘇ることになります。当然ながら兄の墓に唾を吐きかける者たちも思い出しますね。彼女のお立場なら、肉親である兄盛秀の名誉を回復したいとお考えになられるのは極めて自然な感情でしょう。そのための「軍命」と考えるのはこれまた自然だと思いますが・・。
目取真さんが仰る太田良博氏、牧港篤三氏ご存命中に星・上原両氏は議論を起こさなかったのか?関係者が故人になってから言いたい放題、は「うらそえ文藝」を精読してない証拠ですよ。その時から「軍命なし」の考えではなかったはずです。逆に宮平春子さんは、なぜ、今頃になって「重大な史実」をしょうげんしたのでしょうか?妹・家族の証言は、過去の県内二紙でも取り上げるに値する証言とは見ないと考えたのでは?もしかしたら、証言しても過去の県内二紙がスルーしたとも考えられますね。

(転載おわり)
 
 
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コメント (1)

【速報】星雅彦、上原正稔両氏に桜チャンネルがインタビュー

2009-07-28 06:52:12 | ★集団自決
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星雅彦、上原正稔両氏の沖縄二紙への衝撃的告発にも関わらず、沖縄タイムスと琉球新報は依然として沈黙を守ったままである。

そこで週刊新潮、サピオに続いて、チャンネル桜が両氏の告発の真意を知るため現地取材した。

以下はその動画です。

1/2【沖縄集団自決】うらそえ文藝・星雅彦氏、1フィート運動・

 2/2【沖縄集団自決】「軍命令」とせざるを得なかった事情・照屋昇雄氏に聞く[桜 H21/7/27]

 

インタビューで出てくる、「一フィート運動」は、上原正稔氏が創設したものだが、その後太田元知事を初めとする左翼学者に乗っ取られ、現在は左翼の巣窟になっていることは、過去のエントリーで触れた。

以下は「第五章「ハーバービューホテルの決闘」 「1フィート運動」の正体」の再掲です。

                     ◇

上原氏と若い仲間たちが、右も左もない純粋な気持ちで沖縄戦の記録発掘のため立ち上げた「1フィート運動」は、

設立当初から「良識者」の仮面を被った沖縄の左翼勢力の卑劣な乗っ取り劇により左翼の巣窟と化してしまう。

彼らが、自分のイデオロギーの宣伝、浸透のために「1フィート運動」の名を有効に利用していることは前に書いた。

その典型的な例がこれだ。

【必見】白旗の少女の神話ー改定版

さらに最近では「集団自決訴訟」で被告側の弁護のため、くり返し「1フィート運動」の名を利用しているいることは周知のことである。

「集団自決」の本質探る 1フィートの会 証言ビデオ制作【12月22日】  <謝名元慶福さん監督/慶良間は沖縄戦の縮図>

当日記でも「1フィート運動の会」が「集団自決訴訟」の被告側応援のプロパガンダ映画を作製して全国で上映会をしていることをエントリーした。

集団自決の映画制作 朝日が記事に

集団自決の島座間味で上映会 

 

「集団自決」の「平和ツアー」にも「1フィート運動」の名を表に出して、

1フィート運動⇒ 平和運動⇒ 「集団自決訴訟」被告応援

といった印象操作に懸命である。

「集団自決」悲劇学ぶ 1フィート運動の会が平和ツアー カメラ 2008年3月23日

「集団自決」など渡嘉敷島の戦争について語る吉川嘉勝さん(右)=22日、渡嘉敷島

 【渡嘉敷】子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会(通称・沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会)が今年12月に設立25周年を迎えるのを記念して渡嘉敷島平和ツアーが22日、行われた。同会の会員ら12人が参加し、渡嘉敷村教育委員長で「集団自決」生存者の吉川嘉勝さん(69)の案内で「集団自決」跡地、朝鮮人慰安婦の慰霊碑「アリラン慰霊碑」など島内の戦跡を回り、現場で当時の悲劇について考えた。
 同村北山の「集団自決」跡地で、自身の体験を語った吉川さんは「当時少なくとも500人以上がここに集まった。1カ所に集められなければ『集団自決』は起きなかった。赤松隊長本人が手記に『ここに集めたほうがいいと示唆した』と記している。閉ざされた地域での隊長の示唆は命令以外の何物でもない」と強い口調で訴えた。
 同会の福地曠昭代表は「教科書検定のように沖縄戦の歴史を歪曲(わいきょく)しようとする動きもあり、会の活動は今後も重要視されていくと思う」と述べた。フィールドワーク終了後は、村中央公民館で米軍の慶良間上陸実写フィルムなどの上映会が行われた。

                   ◇
 
上記引用は昨年の記事だが、「1フィート運動の会」は今年の3月22日には渡嘉敷島でフィルムの上映会を行う予定であった。

1フィート運動の会設立25周年記念企画
沖縄戦の歴史歪曲を許すな上映会


 

先日、座間味村で映画の上映会があったが、

渡嘉敷村での上映会は何故か延び延びになっており、予定日を過ぎても上映会が行われたという報道はなかった。

その渡嘉敷村でのフィルム上映会が一か月遅れて、一昨日の4月25日(土)にやっと開催された。

脱線するのは当日記の常なので、「1フィート運動の会」の渡嘉敷村での上映会の顛末に話は飛ぶ。

「1フィート運動の会」の上映会は約5~5人のスタッフで、大体次のような式次第で行われている。

プログラム
(1)沖縄戦・未来への証言(1986年作品・脚本 嶋津与志・55分)
(2)ドキュメント沖縄戦 (1995年作品・脚本 柴田昌平・57分)
(3)沖縄戦の証言  (2005年作品・脚本 謝名元慶福・35分)
(4)中村文子1フィートの反戦   (2003年RBC放送・33分)

 ちなみに中村文子とは沖縄の女性団体の大ボス宮里悦女史が上原正稔氏の後釜に1フィート運動の会の事務局長に推した人物である。

で、25日の上映会だが約300人収容の渡嘉敷村中央公民館に当日集まったのはスタッフも含めて約35人で、だだっ広い会場は閑散としたものだった。

スタッフを除いた約30名の参加者には新報、タイムスの通信員も含まれ、観光客らしき人が2~3人。他は地元の住民で戦争体験者の年齢層の方も5名ほどいた。 更に住民の中には移住者らしき人が7~8人ほどいた。

以下はたまたま上映会に参加した知人の情報を基に映画の感想を書いたもの。

新作ということで、当時の映像に少しは期待もしていたが、内容は案の定、米軍の記録映像は都合の良い所だけカットして使ったのか、断片だけで、殆どがタイムスの証言集で登場した人物の話だけで都合よくまとめられていた。

「1フィート運動」で米軍の記録フィルムを都合の良いように悪用して歴史を捏造する例である。

加えて赤松隊の本部跡の壕の映像では、小さな入口の映像のみを映して次のシーンで内部の映像には、長野県松代市の立派な司令部壕が、

あたかも赤松隊の本部壕でもあったかのようにナレーションで説明、印象刷り込みを行い、次に元慰安婦の証言や朝鮮人軍夫の証言等へと続く。

赤松隊の実際の本部壕の中は落盤していて現在入れないし、当時でもとても村民を収容する余地はなかった。 

つまり本部の映像をそのまま放映したら広大の本部壕に赤松隊がいたという印象操作が出来ないと判断して、何の脈絡もない長野県の壕の映像をツギハギしたものと思われる。

最後の部分には当時の前島区長の子息の証言が出てくるが、

要旨は「父は、隊長に島を守るため軍の駐留は必要かと聞かれ、時の校長と二人して『この島は自分たちで守りますから』と答えたので軍は駐留しなかった。」

つまり前島には軍隊はいなかったのだが、

「米軍は戦力のない島を攻めては来なかった→従って自決に追い込まれることもなかった。」となるべきところが、

「日本軍が居なかったので集団自決は起こらなかった」と言うこと言いたいらしい。

登場する証言者の話も、都合の良いところだけ取り入れ、継ぎ接ぎして捏造に近い。

当時の記録映像は一握りの被告側応援団が「目的を達成するために作った宣伝道具だといえる。

期待して観たが、「やっぱりなー」とがっかりした。

これはフィルムを観た知人の総体的感想。

ウソも繰り返せば歴史になる。

そのために「1フィート運動」制作の映画がツギハギ映像を「繰り返し繰り返し宣伝する」・・・これはナチスの情報相ゲッペルスによる手法である。

どんな意見、思想でも繰り返し何度でも伝えることによって正当な物に感じるようになる。

続く

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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コメント (6)

脱清人の呪い? 沖縄の自衛隊差別

2009-07-26 12:25:23 | 未分類

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ある種の言葉が放送禁止用語として、テレビ・ラジオでは自主規制するとはよく聞く話。

国の安全を守る職務の自衛隊が、沖縄のテレビ・ラジオでは、その名を連呼することも、その姿を映像で流すことも自主規制していた。 

いや、単なる自主規制だけではない。

マスコミ会社とマスコミ組合で「自衛隊は画面に出さない」という労使協定を結んでいるというから驚きだ。

つまり自衛隊は、沖縄では放送禁止用語だということになる。

とりあえず2年前の、自衛隊への憎悪に満ちた沖縄タイムス記事を熟読して頂きたい。

(10)侵食する「軍隊(6月28日朝刊社会面)
「戦略うまく抵抗感除かれている」
市民に融合 一方で監視

 たくましい二の腕をした短髪の男たちが、上半身をいっぱいに使って櫂を漕ぐ。「さあ、どちらのタイムが早いか」。アナウンサーの実況が映像に重なった。

 今年五月の那覇ハーリー。海保や消防など、日ごろから体を鍛える職場に属する人々が参加する一般競漕Bの決勝レースは、陸海空の各自衛隊による三チームで争われた。

 チーム名には「航空自衛隊レキオウイング」などと、それぞれの隊名がはっきりとうたわれ、テレビの実況中継では決勝を伝える約六分間の放送中に計十八回、「自衛隊」が連呼された。

 「私たちの活動が理解された証しだと思う」。優勝した陸上自衛隊第一混成団(那覇市)は自信をみせる。那覇ハーリーには、最初は参加も認められなかった。「1CBシーサーズ」「陸自シーサーズ」とチーム名に徐々に隊名を出し、三年前から堂々と「陸上自衛隊第一混成団」と名乗り始めた。

 民間チームの舟のかじ取りや会場設営、大会運営の手伝い。有給休暇を取った隊員が自主的に汗を流す姿が、那覇ハーリーの実行委員会に徐々に認められてきた結果とみる。

 「民間企業はみんな社名で出場する。隊名を隠す方が不自然でしょう」。市民からの苦情などはなく「むしろ会場で激励を受けるくらい」と胸を張る。

 今年四月ごろ、県内の民放テレビ局各社に広告代理店から打診があった。「自衛隊の隊員募集のコマーシャルフィルム(CF)を、そちらで放送できないか」。各社とも「県民感情にそぐわず、公共の電波に乗せることはできない」と断った。

 自衛隊のテレビCFが県内で流されそうになったのはこれが初めてだ。

 県マスコミ労働組合協議会の宮城歓事務局長は「自衛隊の広報戦略のうまさで、沖縄でも徐々に抵抗感が取り除かれている」とみる。「報道機関は広告などの収入部門にまで食い込まれると、批判的な報道が難しくなる」と危機感を強める。

 柔らかな自衛隊のイメージを浸透させる一方、政府は今年五月、米軍普天間飛行場の代替施設建設に伴う海域の現況調査(事前調査)のための機器設置で、基地移設に反対する市民の活動をけん制する目的などで、海上自衛隊の掃海母艦「ぶんご」を沖縄に派遣した。

 一月には、熊本で陸上自衛隊第一混成団と在沖米海兵隊第三師団が共同演習し、四月には嘉手納基地に暫定配備されていた米空軍のステルス戦闘機F22Aラプターと、沖縄の空自・南西航空混成団のF4戦闘機などと模擬空中戦を展開した。

 今月に入り、陸上自衛隊の情報保全隊が、市民の活動を監視している実態も明らかになった。

 それらから浮かび上がる自衛隊の姿は、まぎれもない「軍隊」だ。

 沖縄で自衛隊が存在感と軍事機能を増す中で、昔の日本の軍隊が沖縄で犯した罪が教科書から消されていく。

 今回の教科書検定問題について発言を続ける作家の目取真俊さんは、「対中国を想定した島嶼防衛のために、宮古・八重山地域をはじめとして自衛隊の強化が進められ、沖縄は米軍だけではなく自衛隊の拠点にもなろうとしている。今回の教科書検定問題と沖縄における有事=戦争態勢づくりは密接に結びついている」と指摘する。(社会部・吉田啓)=おわり

                                            ◇

>チーム名には「航空自衛隊レキオウイング」などと、それぞれの隊名がはっきりとうたわれ、テレビの実況中継では決勝を伝える約六分間の放送中に計十八回、「自衛隊」が連呼された。

中国人と同じ視点の吉田記者は、テレビの実況中継で六分間に計十八回も「自衛隊」が連呼されたことを、怒りに震えながらカウントいたのだろう。

それにしても、である。

自国の自衛隊が県のハーリー行事に参加するというのに、地元テレビが、画面に映像を出すのはおろか、その名を連呼するのを怒りに震えて批判する新聞も新聞だ。

一体どこの新聞なのだ。

と思って呆れていたら、おやおやこんなところでも。

中国を母国と慕う目取真センセが、脱清人のDNAを引き継ぐように中国の代弁をしてておられる。

対中国を想定した島嶼防衛のために、宮古・八重山地域をはじめとして自衛隊の強化が進められ、沖縄は米軍だけではなく自衛隊の拠点にもなろうとしている」

なるほど、これでは「琉球処分」の際、日本を嫌って中国に亡命した脱清人そのままの意見ではないか。

中国に軸足を置く目取真氏ならば、与那国に自衛隊を配備することも反対だろうし、石垣に同盟国の艦船が寄港するのも当然反対だろう。

過去に何度も引用したが、同じく脱清人の遺伝子を受け継いでいると思われるタイムス記者のコラムを紹介しよう。

◆<2005年5月16日> 沖縄タイムス
[大弦小弦]

 黄色軍艦がやってくる…。船体に黄色の龍の文様を描き、黄龍旗を掲げる清国の南洋艦隊は黄色軍艦と呼ばれたという。知人とこの話をしていたら、黄色軍艦が沖縄を侵略すると、勘違いして話がややこしくなった▼実際は逆で、明治の琉球人にとって清国軍艦は援軍だった。武力で琉球国を併合した明治政府に対し、琉球の首脳らは清へ使者を送って救援を求めている。そして、沖縄側はその黄色軍艦を待ちわびたのだった▼一八八六(明治十九)年に大迫貞清県知事が上申した「事変準備ノ件」が残る。清が軍艦を派遣するとの報に対し、政府派遣の知事は、対策十項目を提案。政府も北洋艦隊から戦艦九隻が派遣されると情報を得て、県に指示を出した▼日清戦争時にも清国の援軍は話題になった。それから百余年が経過し、あれほど待ちわびた援軍をも敵と間違うところに今の位置があるのか。林泉忠著『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス』は当時の言葉を紹介する▼「生きて日本国の属人と為るを願はす、死して日本国の属鬼と為るを願はす」。生きても死んでも日本とは一緒にならないという激しい決意。中国で死んだ幸地朝常が李鴻章へ送った書簡に残る言葉。歴史の反転は大きかったようだ▼百余年前はともかく、少なくとも最近の銃口や占領者を忘れてはいけない。境で揺れる島だからこそ、平和の選択肢を選び取る覚悟も必要だろう。(後田多敦)

ちなみに中国(清)に援軍を求めたのは琉球士族の一部であり、琉球士族の中でも、琉球王府で既得権を享受していた一部中国系士族とした方が正確であろう。  

沖縄タイムスコラムが言うように「沖縄」(明治の琉球人)全てが中国に援軍を求めたのではない。

それは現在の沖縄でも一部の親中国の知識人だけがが反日であるのを、あたかも沖縄人全体が反日であるかのようにマスコミが報じる状況と同じである。

                    ◇

ところで、沖縄のマスコミは本当に自衛隊をテレビ画面から締め出す労使協定を結んでいたのか。

単なる悪い冗談ではないのかという人もいる。

以下はその証拠を示す地元マスコミの「自衛隊憎悪」に関する過去エントリー「自衛隊は画面から消せ!」 沖縄テレビの労使協約よりの抜粋です。

<毎年、GWに開催されている「那覇ハーリー」という伝統行事があり、沖縄テレビではこの模様を中継しています。
那覇ハーリーというのは、簡単にいえば、学校や地域、会社などでチームを組んで参加するボートの競漕です。
この中継放送の際、出場した自衛隊の部隊名などがテレビ画面に露出したことに対して、組合は会社と団交を行ったそうです。

沖縄テレビでは「自社事業には自衛隊並びに自衛隊員は参加させない」との協定を組合と結んでおり、「ハーリーの中継や総集編などの放送では、宣撫工作に加担しないため自衛隊の露出について可能な限り控えるよう会社側に配慮を求めてきましたが、申し入れが守られなかったことは遺憾であり会社に抗議します」とあります。 >

1972年、沖縄返還とともに自衛隊が移駐した沖縄では、那覇市をはじめとする革新自治体が住民登録の拒否をした。

これにより、保護者の住民票が取れず生徒は事実上の入学拒否となった。(→参考:沖縄タイムス社説 2004年9月22日

又琉球大学のの夜間学部に入学した自衛隊員が学生や職員の入学拒否ピケにあい結局入学出来なかった例もある。

一方、自衛隊に偏見を持つ勢力に限って、沖縄では珍しくない「不発弾処理」は自衛隊に任せて知らん顔。

それを問うと、「自分達の先輩(旧日本軍)の後始末をするのは当然だ」と自衛隊員の決死の処理作業に水をかける。

上記労使協約書の存在は、図らずも、沖縄テレビが労使ともに日本軍、そして自衛隊に対して創業以来、言われ無き偏見を持ち続けていることを暴露してしまった。 

復習の意味で「琉球処分」の概略を琉球新報の解説で。(煩雑と思う方はスルーしてください)

琉球処分 (りゅうきゅうしょぶん)
明治政府による琉球藩設置から分島問題の終結までをいう。明治維新にともない、1872(明治5)年、
明治政府は〈琉球国〉を廃して〈琉球藩〉とし、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王(国王)自ら上京することなどを再三迫った。が、琉球が従わなかったため、79年3月、処分官、松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、ここに事実上琉球王国は滅び、〈沖縄県〉となる。華族に叙せられた藩王(国王)尚泰は東京在住を命じられた。しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど、問題は尾を引いた。外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、調印の段階まできたが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、琉球に対する日本の領有権が確定した。

                    ◇    

 琉球新報は脱清人のことを琉球士族の「一部」と正確に表現している。   

「琉球処分」とは、琉球王府の特権階級を処分したものであり、「琉球王府処分」と表現した方が正確である。

沖縄の知識人の中には、常に軸足を中国に置いて発言する人が多いのは、「琉球処分」の折、中国へ亡命をし損なった脱清人の呪いを現在に引き継いでいるからなのだろうか。

差別を声高に叫ぶ人ほど差別主義者である場合が多い。                

沖縄マスコミの自衛隊への仕打ちは、差別であると思う方、クリック応援を。               

参考:
「那覇ハーリー中継における自衛隊の露出についての抗議文」

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コメント (19)

ボロボロ出てくる「現実路線」 非核三原則

2009-07-26 07:41:34 | 県知事選

 

 

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真実ではあっても政治家とマスコミが決して口にしてはいけない言葉がある。

それがこれ。

「国民はバカである」。

これを口にしたら、政治家は投票権で、マスコミは視聴率で国民に厳しいしっぺ返しを受けるからである。

だが、政治家がこれを発言した場合、国民を盾にしたマスコミに攻撃を受ける場合がある。

地味なキャラクターであった、細田幹事長がこの禁句を発してしまった。 

では、この禁句の代わりに政治家やマスコミは何と言っているのか。

「国民はそれほどバカではない」

だが、一番国民をバカだと思っているのは実はマスコミであり、そのミエミエの扇動で、支持率を上下させる国民が、バカにはちがいないが・・・、

「そういうお前はどうなんだ」と言われそうなので、

「民度が低い」くらいに言い換えておこうか。(笑)

 

国民程度低い?自民・細田氏が発言撤回
自民党の細田幹事長は24日の報道各社のインタビューで、自民党役員人事の見送りが大きく報じられたことについて、「役員人事だろうが閣僚人事だろうがどうでもいいことだ。だけど、その方がみんな面白いんだから。それは日本国の程度を表している。国民の程度かもしれない」と語った。


 細田氏はインタビュー後、「マスコミ批判をしようとしただけで、国民を批判したわけでない。誤解を招く表現なので、撤回して謝罪する」と報道各社に伝えた。役員人事を巡る混乱などで内閣支持率が低迷し、衆院選でも党の劣勢が伝えられるだけに、いら立ちが思わず口をついたようだ。

(2009年7月24日22時27分  読売新聞)

                 ◇

禁句を発したと感じた細田幹事長、慌てて前言撤回したが、「マスコミを批判」といっても、その「バカなマスコミ」の扇動に乗る国民は更にバカだということになり、今度はマスコミと国民を敵に廻すことになる。

自民党の失敗は、「対マスコミ対策」だという由縁である。

 

そして又してもマスコミは麻生首相の言葉尻を捉えた。

マスコミが攻撃し野党がこれに付和雷同するパターンである。

見事にマスコミに「細田発言」のしっぺ返しを受けた形だ。

【動画】⇒http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00159764.html
 麻生首相「高齢者は働くことしか才能がない」 民主・鳩山代表が厳しく批判(07/25 18:01)

麻生首相は25日午前、横浜市内で開かれた日本青年会議所の会合であいさつし、「高齢者は、働くことしか才能がない」と述べた。高齢者をやゆしたともとれる表現に批判も出ている。
麻生首相は「日本という国は、高齢者、いわゆる65歳以上の人たちが元気。その元気な高齢者をいかに使うか。この人たちは皆さんと違って、働くことしか才能がないと思ってください」と述べた。
また、麻生首相は「80歳をすぎて遊びを覚えても遅い。遊びを覚えるなら、青年会議所の間くらいだ」とも語った。
活力ある高齢化社会を目指す考えを示した中での発言だが、野党からは、早速批判の声があがっている。
大阪・柏原市内で街頭演説を行った民主党の鳩山代表は、「お年寄りは働くことしか才能がないという言い方は、どう考えてもおかしい」と述べ、麻生首相を厳しく批判した。
鳩山代表は「人生は、まさにいろいろあるんです。どうしてご高齢の方々は、働くしか能がない。そのような言い方を時の総理がおっしゃるんでしょうか」と述べた。

(07/25 18:01 関西テレビ)

                  ◇

自民党を打倒すべき当面の敵と捉えるマスコミは、次々露見する民主党の「政策転換」には決して「政策のブレ」とは言わない。

非核三原則で不協和音 社民、民主に法制化要請 '09/7/24 
 
 「核を持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核三原則をめぐり民主、社民両党の不協和音が大きくなってきた。

 社民党は国会決議に基づく三原則を「国是に等しい」(幹部)とし、24日には法制化への取り組みを民主、国民新両党に要請。一方、民主党の鳩山由紀夫代表は、核持ち込みに関する日米密約を前提に三原則の扱いを日米で協議すると表明するなど立場の違いが明らかで、衆院選後の連立協議への影響は不可避だ。

 密約について鳩山氏は14日の記者会見で「必要性があったからこそ、現実的な対応がなされてきた」と指摘。15日にも「日本は被爆国なので密約にせざるを得なかった」と密約を含めて米国の核抑止力の有効性を評価する立場を示した。

 これに対し、社民党の福島瑞穂党首は「密約の存在を認めた上で、『持ち込ませず』という非核三原則を堅持する立場で米国と協議するべきだ」と猛反発している。

 社民党は24日、三原則の法制化に向けた協議を民主、国民新両党に求めた要請文でも「非核三原則は日本の基本的な姿勢を内外に示したものだ。密約に合わせて『非核二原則』に縮めてはいけない」と強調した。

 これに対し、民主党の岡田克也幹事長は記者会見で「戸惑いを覚えつつ受け取った。民主党は今の段階で法制化は検討していない」と消極姿勢を示した

 社民党が強い態度に出ているのは、仮に民主党が衆院選で単独過半数を制しても、参院で過半数を占めるためには社民党の協力が欠かせないとみているからだ。

 しかし「『この政策を入れなければ駄目だ』と言われて丸のみするような連立はしない」(野田佳彦幹事長代理)のが民主党の基本姿勢で、社民党の主張がどこまで通るかは見通せない。
 

                    

「現実政策への転換」がボロボロと噴出。

非核三原則どころか、もう一つ「議論せず」を加えて「非核四原則」とも叫ぶ、空想的安保論の鳩山民主党代表が、

次々と「現実路線への転換」を発表して、連立予定の福島社民や、党内の隠れ社会党を驚かせている。

やはり、安全保障は民主党のアキレス腱。

選挙戦スタートからこの有様では、8月に入ったころは民主党も更なる「現実路線への転換」を連発して結局内部分裂してしまうだろう。

社民党が強い沖縄では、非核三原則には密約があったとか、なかったとか、空想的平和論者が騒いでいるが、

次期首相候補の鳩山代表が、次のように「発言転換」するようでは、沖縄の革新支持層はそっぽを向くだろう。

「必要性があったからこそ、現実的な対応がなされてきた」

「日本は被爆国なので密約にせざるを得なかった」

これって本当に民主党代表の発言なの?

あまりにもあからさまな「現実路線」にはあきれ返る。

鳩山代表の非核三原則発言が波紋、連立に暗雲

 非核三原則を巡る民主党の鳩山代表の発言に社民党が反発している。


 政権獲得後、核兵器搭載の米艦船の寄港などを黙認する日米両政府の密約の存在を明らかにした上で、核の持ち込みについて米国と議論するとした主張が非核三原則見直しにつながると見ているからで、両党の連立構想にも暗雲がたれ込めている。

 社民党の重野幹事長は16日の記者会見で鳩山氏の発言を「『本音(密約)と建前(非核三原則)を使い分けるな』と言っているのだろうが、非核三原則の一角を壊すことは到底容認できない」と批判した。

 鳩山氏はかつて、日本の核武装に関する議論を封じるべきではないとする趣旨の発言をした麻生外相(当時)らを「非核三原則の国是に反する」などと非難した経緯があり、その矛盾を指摘する声もある。2000年の「民主党核政策」では核搭載艦船の寄港に関し「米政府との間で事前協議の対象とし、拒否することを原則」としている。「政権を取れば現実的対応をせざるを得ないのに、党内対立の懸念や政局優先で論議を避けてきたツケが来た」(中堅議員)との声も出ている。

 ◆鳩山代表の発言◆

 「非核三原則が堅持される中で、現実的対応がされてきた側面がある。北朝鮮の問題も含め、必要性があったからこそ、現実的な対応がなされてきた。(今後も)その方向で考えるべきだ」(14日、記者会見で)

 「現実を無視はできないので、政権を取ったら日米で協議して、非核三原則をオープンで守れるなら一番望ましい」(同、記者団に)

 「近未来において、非核三原則は十分に守られる状況にある。しかし、遠い将来どうなるか、米国の考え方なども徹底的に聞きながら、議論していく必要があるだろう」(15日、記者団に)

(2009年7月16日23時26分  読売新聞)

                   ◇

今まで散々麻生首相に「政策のブレ」と噛み付いてきたが、一連の鳩山発言は「路線転換」なんてものではない。

信念のヒトカケラもない「政策のブレ」そのものではないか。

国の政策の根幹をなす安全保障問題で、このように信念無き「政策のブレ」を露呈する民主党に、政権を渡すことは日本の将来に取り返しの付かない大きな禍根を残すことになる。

 

【おまけ】

昨日のエントリーで鳩山民主党代表の「現実路線への転換」をひはんしたら、このお方もご立腹の様子。

でも、くれぐれも「こんな民主党に投票する国民はバカだ」なんて、口が裂けても言わないように。

国民はこんな政策のブレを信じるほどバカではない」といえばよい。

代わりに当日記が言ってあげるから。

バカだ!

 

民主党の路線修正批判=外交・安保の対応に怒り-農水相
 石破茂農水相は24日の閣議後会見で、民主党が2009年版政策集で外交・安保分野に関し現実路線に修正したことについて「今まで言ってきたことは何だったのか。政権を取れそうになったから(態度を)変えるというのは、選挙の意義を愚弄(ぐろう)するものだ」と厳しく批判した。
 石破農水相は、インド洋での海上自衛隊による給油活動が一時中断した07年11月当時の防衛相としての立場から、「国民の負託を受けた国会議員で構成する政党の在り方として、相当な怒りを覚える」と強調した。 (2009/07/24-12:37)

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空想的平和から現実的平和へ 民主党のリップサービス政策

2009-07-25 06:41:37 | 県知事選

 

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【09衆院選】麻生首相、民主の安保政策転換を批判

麻生太郎首相は23日夜、民主党がマニフェスト(政権公約)の原案で、海賊対策での自衛隊派遣や北朝鮮関連船舶への貨物検査実施などの容認を打ち出したことを受け、「現実的対応になったというのは違う。あれだけ国会でテロ対策などに反対だったのに選挙直前になったら変わるのか。理解できない」と強く批判。自らが「ぶれた」と批判され続けたことを念頭に「『ぶれた』というのはそういうことではないのか、と言いたくなる」と皮肉った。首相官邸で記者団の質問に答えた。

 公明党の北側一雄幹事長も23日の記者会見で「これまでの民主党の国会対応はなんだったのか。現実路線に転換したと言うなら今まで現実的でない国会対応をしてきたのか。政策よりも政局で判断をしてきたと言わざるを得ない」と批判した。

(産経新聞 2009.7.23 20:47)

                    ◇

昨日、長々と空想的平和論についてエントリーしたが、今日はその続編になりそうだ。

というのは、民主党が選挙を目前にしたら、突然、従来の「空想的安全保障政策」から「現実路線への転換」と言い出したからだ。

これまでの政策は「空想路線」だったことを認めたわけだ。

民主党の「現実路線への転換」とは、「海賊対策での自衛隊派遣や北朝鮮関連船舶への貨物検査実施などの容認」に対する

TBS「朝ズバツ!」の与良解説員の苦しい解説である。 

このお方、前にも民主党の政策のブレを称して「政策の調整」と言い訳していたが。

空想的安全保障論をぶつ民主党が、選挙が近いからといって、唐突に現実的防衛論に変化できるのものだろうか。

事実上の選挙戦に突入し、前記与良氏などのテレビ芸者達は声を揃えて過去のVTR(麻生首相の漢字読み違え、「マンガ館構想」等)

を繰り返し放映し、一斉に自民党バッシングを始めている。

■マンガ、ハイテク、和食は世界の注目■

だが、この方々、欧米人が今最も憧れている日本文化は「マンガ、ハイテク、和食」の三点だということをご存知だろうか。

2007年の世界ツーリスト・ランキングというのがあって、日本人はヨーロッパのホテルの中で受け入れたい外国人のナンバー・ワンに選ばれたんですよ。日本人ほどマナーが良くて礼儀正しい人達はいないということです。そして、マンガ、ハイテク産業、和食という欧米人が欲しくて堪らないものを持っている。でも日本国内にいるとそういうことに気付きづらいんですよ。外に出ると分かることは多いから、もっと海外を旅して外国人の人達と接触をして、立ち位置を理解するのが必要かなと思いますね。(ANA WORLD AIR CURRENT)>

テレビで声を揃えて麻生首相をバッシングするコメンテーターの中の果たして何人が、欧米人が憧れる「日本のマンガ」について、知って発言しているのか。

彼らは、おそらくは子供の頃、親に「マンガばかり読んでいないで、勉強しなさい!」といわれた程度の認識で、マンガバッシングしているのだろう。

目下のところ支持率では民主党に大幅に負けているが、麻生首相の敵は民主党ではなく、麻生バッシングを執拗に続けるマスコミであった。

解散時の記者会見で、麻生首相は自身の失言について謝罪したが、政策にかかわる重要な失言ではなく、もっぱらマスコミによる麻生発言の重箱の隅を突く失言もどきに過ぎず、謝罪する類のものではなかった。

その意味で、数々の重要法案を成立させ、これと言った政策ミスの無かった麻生政権で唯一の失策といえば「対マスコミ対策」ぐらいのものだろう。

マスコミが発表する支持率、世論の類はマスコミの扇動によって作られたもの。 

そして女心とマスコミ世論は、一夜にして変わるもの。

民主党のアキレス腱とも言われる空想的・安全保障論そして空想的財源論、それに加えて党代表と副代表の悪事の数々、それに石井一ネズミ議員の障害者郵便物悪用疑惑を、このもまウヤムヤにせずに、ネット有志が告発大キャンペーンを張れば、マスコミ誘導の世論なんて一夜にして変わる。

何しろ民主党が政権を取ればこの方々に日本の将来を任すことになるのだ。

国民がバカでなければ、今後次々と露呈する民主党の「現実路線への転換」や「幹部の悪事」というメッキがボロボロ剥げ落ち、マスコミ扇動の支持率も一夜にして変わってしまう。

おやおや、早速沖縄でも空想的基地撤去から現実的基地撤去に路線変更ですか。

これでは、沖縄の空想的・平和主義者には、そっぽを向かれるだろうに。↓

民主党、県外移設言及せず 地位協定は「改定提案」(2009.7.24)

 【東京】衆院選での民主党の政権公約(マニフェスト)の原案となる「政策集インデックス2009」が23日までにまとまった。鳩山由紀夫代表が、米軍普天間飛行場の県外移設を目指すと公言しているだけに在沖米軍基地問題への対応が注目されたが、「普天間県外移設」の文言はなく、「米軍再編や在日米軍基地のあり方等についても引き続き見直しを進める」との表現にとどまっている。
 対等な日米関係を掲げる同党の安保政策を不安視する声に配慮し「現実路線」へ転換したとの見方がある一方、県外移設に言及した07年版に比べ「後退」した内容となった
 同党は月末にもマニフェストを発表する予定だが、基地問題でどこまで踏み込んだ対応策を盛り込むかが注目される。
 08年版では「抜本的な改定に着手する」としていた日米地位協定については「改定を提起する」と表現を弱め、「不断の検証を行う」としていた在日米軍駐留費負担「思いやり予算」については言及していない。在沖米軍基地の県外移設について07年版では「在沖海兵隊基地の県外への機能分散をまず模索し、戦略環境の変化に応じて国外への移転を目指す」としていた。
 「沖縄政策」の項では従来通りの表現を踏襲し「ひもつき補助金の廃止・一括交付金化について、沖縄県をモデルとして取り組むことを検討する。基地縮小に際して生じる雇用問題にいてはセーフティネットの確保も含め十分な対策を講じる」とした。

                   ◇

■民主党の「にわか現実路線」はリップサービスである■

「空想的安全保障論」の他にもう一つの民主党のアキレス腱は、財源を考えない国民の耳に響きのよい「約束」がある。

今週のSAPIOは沖縄の発売日の都合で未読だが、池田信夫氏が同誌に「ワーキング・プアを『ただのプア』に転落させる『派遣禁止法案』の大欺瞞」と題して寄稿しており、それをブログで紹介しているので引用する。

成熟できない民主党

《・・・特に強調したのは、派遣規制が労使の結託によって非正社員を労働市場から排除する身分差別だということである。それは当の派遣労働者の組合である人材サービスゼネラルユニオンが派遣規制に反対していることでもわかる:

このところ格差社会を論じる際に、間接雇用である派遣がその元凶であるという意見がたびたび出てきます。私たちは、マスコミや一部の労働界、政党から出されている、派遣イコール「ワーキング・プア」、派遣イコール「不本意な働き方」という見方には強く違和感を覚えます。

組合員の話を聞き、さらに厚生労働省の調査結果をみると、こうした見方が一方的であることが浮かび上がってきます。 間接雇用であるがために「不安定である」、「かわいそう」、「ひどい働き方だ」などといわれ、信念・プライドをもって派遣労働者として働く仲間は傷ついています。職業選択の自由の下、間接雇用も直接雇用も同等に「労働」であることの評価がされるべきです。

福島みずほ氏は、法案発表の記者会見で「すべての労働者を正社員にさせる」と息巻いていたが、彼女の望むように「いったん雇った労働者は絶対に解雇してはならない」という法律をつくったら、パートもアルバイトもすべて失業し、日本の失業率は大恐慌なみの25%ぐらいになるだろう。さすがに菅直人氏は「政権を取っても同じ法案を出すのか」という質問に答を濁していた。どうせ社民党との選挙協力の方便だから、総選挙で民主党が単独過半数をとったら反故にするのだろう。

このように選挙のときだけ、お涙ちょうだいのリップサービスをするのは、昔ながらの万年野党だ。こういう無原則な機会主義が国民の信用をなくして政治の混乱が続いてきたのが「政界の失われた16年」だということは、鳩山氏も岡田氏も身にしみて知っているだろう。同じSAPIOで土居丈朗氏も書いているように、民主党の掲げる子供手当などの「17兆円の抜き打ち増税」も実現可能な政策ではなく、自民党に矛盾を攻撃されたら崩壊する。》

                   ◇

>彼女の望むように「いったん雇った労働者は絶対に解雇してはならない」という法律をつくったら、パートもアルバイトもすべて失業し、日本の失業率は大恐慌なみの25%ぐらいになるだろう

このように個々にはよいと思われる行為が総体で見ると、マイナスの効果を生むことを「合成の誤謬」という。 労働市場における「合成の誤謬」は既に韓国が実体験している。

労働者の敵は労働者 ワークシェアリング

空想的政策の社民党党首の空虚な論はともかく、民主党内部にも旧社会党から逃げ込んだ「隠れ社会党員」が多数いるので、結局民主党の「にわか現実路線」が内部分裂することは火を見るより明らかである。

                   ◇

賢明な国民がやってはいけないこと。

×「自民党も随分長くやったが、ここらでウミを出すため一度は民主党に任せてみるか」⇒これをやったら日本沈没!

 

今度の選挙でやるべきこと。

「自民党に不満は多々あるが、消去法をすればやはり自民党しかない」⇒これが日本再生のスタート。

何にでも反対の空想的平和主義を唱え、

その一方で、選挙が決まると突然現実路線に変更する民主党に日本の将来は任せられないと思う方、

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空想的平和主義 憲法九条はカルト宗教の経文です!

2009-07-24 08:32:38 | 未分類

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平和の概念ほど現実主義者と理想主義者で捉え方の違うものはない。

人間の歴史は加害者と被害者、あるいは侵略者と被侵略者の歴史であり、その意味では戦争の歴史であるとも言える。

「平和とは何であるか」

そう自問した現実主義者 福田恆存(つねあり)は、次のように平和を説明した。

「それは戦争の事前と事後にある戦争の欠如状態、即ち、戦争してゐないといふだけの事」

そして平和を勝ち取るために福田は次のような現実的認識を示している。

「何かを守る為には戦争をも辞さぬといふ、その何かが無ければ、平和そのものも守れまい」

また福田のいう戦争の欠如の状態である「平和な時」でも、情報戦争は常に行われているわけだから、人類の歴史に平和はないと言えないことも無い。

ここでいう理想主義者がいう平和とは、しばしば「空想的平和」と言い換えられる。

空想的平和主義者とは、念仏のように、平和・平和と唱えていれば、世界は平和になる、とする新興宗教の信者のことなのだが・・・。

空想的平和が落語のネタに?

平和でこそ落語も 古今亭菊千代さん、9条大切さ訴える2007年6月10日

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「平和でなければ落語はできない」と話す古今亭菊千代さん=石垣市健康福祉センター

 【石垣】憲法9条の大切さを訴えようと、講演と落語の夕べ「9条ってなに?」(いしがき女性9条の会主催)がこのほど、石垣市健康福祉センターで開かれた。講師には落語家の古今亭菊千代さんが招かれ、講演と落語に集まった市民が耳を傾けた。 古今亭菊千代さんは1956年生まれ。大学卒業後、広告代理店に勤務していたが、27歳で落語の道に進み、これまで手話落語や北朝鮮で朝鮮語による落語などにも取り組んできた。
 菊千代さんは、普段から着用しているという憲法9条の「9」の文字が入った紋付きで登場。「海外では、日本が戦争に加担していないことを評価する声が多いが、日本で憲法9条のことを話すと『危ないことを言っている』と言われてしまうような風潮がある」と紹介。
 「生活にかかわることなのに話しにくい風潮がまん延している。平和でなければ落語はできない」と語り、
憲法9条の条文を書き写す「写九」の活動へ参加を呼び掛けた。
 講演後の落語は、天神参りをおもしろおかしく話す「初天神」を披露。親子のやりとりの中に、9条の大切さを訴えた。

                   

かつて流行った「空想的平和論」をからかって、次のようなことがよく言われた。

「憲法九条をお経のように唱えても平和は訪れない!」

この場合「お経」を「お題目」に言い換えてもいいが、いずれにせよ現実から目を逸らし、ひたすら「九条」を念ずれば平和が来ると狂信する団体を、宗教に例えて「九条教」と揶揄したもの。

常日頃宗教に縁のない人でも、ガンなど生死に関わる重病を患うと、「写経」などに心の落ち着きを求める人が多い。

筆者の知る某先輩も、ガンを患い晩年は「般若心経」の写経をしていた。

個人が心の安らぎを求めて、お経を念じたり写経をしたりするのは自由だが、イデオロギーの塊のような団体が、

九条の「写経」(シャキョウ)ならぬ「写九」(シャキュウ)とは、どこまでが本気なのか、悪い冗談なのか判断に苦しむ。

ネットには親しんでいるはずの当日記だが、「写九」のニュースは恥ずかしながらつい最近知った。

調べてみたら「痛いニュース」さんが、既に三年前に取り上げて、皆で散々からかっていた。 さすがです!

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/800912.html

【憲法第九条】「心をこめて書き写せば理解が深まるはず」 写経ならぬ「写九」が人気

1 名前:西独逸φ投稿日:2006/09/19(火) 19:36:26 ID:???0
憲法九条を書き写す「写九」の取り組みがじわりと広がっている。昨年、熊本市の主婦が発案し、長野県の大学講師がインターネットで紹介したところ、全国から百件近い反響があった。神戸にも今年夏に、「平和写九をすすめる会」が発足。呼びかけ人の団体職員、宮本加光さん(59)=神戸市北区=は「九条はたった百三十一文字。心をこめて書き写せば理解が深まるはず」と話している。

熊本市の主婦、円藤純子さん(61)が一昨年、お寺で写経を体験。正座をして背筋を伸ばし、深呼吸した後毛筆でゆっくりお経をなぞると、聞いているだけでは難しい経文が心に染みた。

「これを九条でやれば」。改憲の動きに危機感を抱いていた円藤さん。友人の印刷屋に頼み、上質の和紙にうっすらと九条を書いた「写九用紙」を作った。

http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000116483.shtml

これを知った清泉女学院短大(長野市)の元非常勤講師、加瀬清志さん(53)が、護憲、改憲の立場を超えて条文を知ってもらおうと授業に導入。学生から「書くと、ものすごく頭に残る」と感想が寄せられた。
自分のホームページで紹介すると「やってみたい」などの反響が百件近くあった。

神戸では宮本さんが賛同。円藤さんから写九用紙を取り寄せ、「余白にメッセージを添えて首相官邸に送ったり、平和の学習会で利用したり、色々活用法を考えて」と呼びかけている。


ソース:神戸新聞
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000116483.shtml


17 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/09/19(火) 19:40:20 ID:Y9ElWCao0
いよいよ宗教がかってきたか

27 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/09/19(火) 19:42:14 ID:nht99kuFO
これ何て洗脳?

34 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/09/19(火) 19:43:30 ID:Qkq3GdcF0
9条教もここまで来たかwwwwwww
そのうち宗派とか出来るんじゃねーの?www


43 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/09/19(火) 19:45:23 ID:xNPAZKR40
ずいぶん短いな・・・・・
どうせやるなら憲法全文くらいやれよ。


48 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/09/19(火) 19:46:08 ID:ip+3+HIi0
写すならもっと名文がいくらでもあるだろうに・・・

109 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/09/19(火) 19:58:16 ID:mbN9yuQRO
その時間でもっと他の事を勉強すりゃ
もっと理解が深まるだろうに


142 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/09/19(火) 20:05:23 ID:DMv6FztA0
そんなヒマがあるなら、
公園行ってゴミ拾うなり雑草抜くなりしろよ。

そのほうがよほど世の中のためになる。

どんだけヒマなんだよ。


174 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/09/19(火) 20:12:19 ID:5vP+Rk+w0
そのうち憲法9条を唱えれば空中浮遊が出来るようになる!
とか言い出しそうな勢いだなw


186 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/09/19(火) 20:15:09 ID:mbN9yuQRO
そのうちDVDで学ぶ写九条とか出たりして
十万円位で


234 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/09/19(火) 20:24:44 ID:WILtenVSO
終いには『某は九条への信仰が足りない』とか言われてリンチしたり
『某は九条に反対する敵だから〇〇しろ』とかなったりする。
オウムとか日本赤軍化したりするんだな。


246 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/09/19(火) 20:27:48 ID:WMlGM8930
9条教。お題目の憲法9条を毎日唱えて書き写せば極楽に逝ける

274 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/09/19(火) 20:34:38 ID:yTLDlTLD0
スピーカーしょって歩く日も近いな。

281 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/09/19(火) 20:35:22 ID:V2LpYdHs0
九条の条文だけを、延々と打ち続けるだけの
タイピングゲームとか

九条を読み上げる、音声入力とか


色々出来そう

332 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/09/19(火) 20:45:59 ID:h1EQEubs0
そのうち「憲法九条壺」とか「九条平和お札」とかを売り出すに10ヲン

333 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/09/19(火) 20:46:08 ID:Bg+OTnuT0
そのうち『憲法9条原理主義者』が爆弾テロとか起こす時代が来るんだろう。

377 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/09/19(火) 20:55:47 ID:YrmrIhXx0
百件程度反響があった程度で新聞に載るのか。

382 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/09/19(火) 20:56:52 ID:HzIDkU280
こうして伝統文化の写経を踏みにじっていくのですね

407 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/09/19(火) 21:00:43 ID:Pmc0ikNs0
そのうち、一向一揆ならぬ9条一揆でも起こすんじゃないかw

448 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/09/19(火) 21:09:14 ID:i1rWm3rS0
「皆さん9条は最高ですかーー!!!」
「最高でーす!」

「9条は定説です」

「9条を守らない奴はポアしろ」

538 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/09/19(火) 21:25:53 ID:0yAipWhqP
リベラルな平和主義者の俺ですら、この連中からはカルト臭を感じるよ

600 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/09/19(火) 21:39:28 ID:VkJgWyjm0
>>1
コレはイイ記事だね。

コレを読んで共感する奴はまず居ない上に、
「平和主義者」が実質はカルトだと云うことを紹介してるからね。


                    ◆

 

この手の話を,「平和教」とか「九条教」とからかう場合、

「落語のネタにもならない」ととよく言うが、冒頭記事の落語家・古今亭菊千代さん、どこまで本気なのだろうか。

売れない落語家が売り込むためには手段を選ばない例だろう。

【おまけ】

空想的平和主義者の巣窟「沖縄平和運動センター」を縁側さんが、例によって快調に切り刻んでいます。

与那国に武力はいらない!

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コメント (18)

老人性ボケをカニハンリルという

2009-07-23 06:50:50 | 沖縄語講座

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琉球舞踊が、組踊りに次いで重要文化財に認定され、沖縄文化は今や真っ盛りの感がある。 

地元の各大学には「沖縄語講座」が設けられているし、これから8月に入ると各地でエイサー大会が催される。 エイサーは県内に留まらず、本土各県に飛び出して東京の繁華街新宿でもエイサーを踊りまくっていると聞く。

しつこいようだが、差別・弾圧により沖縄文化消えかかっていると叫ぶ方々、そして先住民認定をして沖縄文化を保護せよとトンチンカンな主張をしている方々よ、

早くどこかへ消えて欲しい。

最近沖縄紙でも沖縄語の解説記事が多いので、当日記の「沖縄語講座」の出る幕がなく、ここのところ開店休業の有様だった。

何とか開店の機会を伺っていたら、やっとその機会を見つけた。

琉球新報 金口木舌      2009年6月6日
 50代後半から物忘れがひどくなった。模合などでそのことが話題に上ることも珍しくない。沖縄では「カニ ハンリル」という
カニとは番匠矩(ばんじょうがね)(大工道具のL字型の物差し)で、尺を誤る(ハンリル)と建物に歪(ひず)みが生じ住居として用を成さないこととなる。人間もしかり―と指摘したのは南部地区の介護施設で認知症に取り組んだ照屋善助さん
▼その施設を訪れた折のことだが、一人の女性がロの字型の廊下をひたすら歩いている光景に出合った。女性の傍らを職員がメモ帳を手に付いている。時折、他人の部屋に入っては小物を袋に詰めて出てくる
▼「徘徊癖(はいかいへき)があるんですよ」と照屋さん。「ただ歩いているようですが、彼女にはちゃんと目的があるのです」と説明を加えた。女性と歩きだした照屋さんが声を掛けると煩わしそうに口を利いた
▼外出先からの帰りで雨が降りだしそうな上に、じき夫が帰宅するので急いでいるのだ、と話した。他人の部屋からタオルや目覚まし時計などを持ち出すのは、洗濯物を取り込み、買い物をしていると解説する
▼「認知症は放っておくと悪化する。何をしたいのか常に問い掛け、会話を絶やさないこと、やりたいことを抑えつけないことが改善につながる。人間って変わるんだよね。現場で学んだよ」と語った照屋さんの笑顔が忘れられない。

                                             ◇

最初に断っておくが当日記の沖縄語講座は、前にも謳ってあるように「独断と偏見による」狼魔人流・沖縄語講座であり、いうまでもなく沖縄語専門家の論文の類とは趣を異にするものである。

従って、その独断が正当かどうかについては責任を負いかねるので念のため申し添えておきたい。

さて、歳を取ってモウロクし認知症気味になることを、沖縄語ではカニハンリルという。

沖縄選出の革新系某国会議員が、かつてNHKの中継放送中の首相質問時にカニハンリてしまった。

同じ質問(印刷物を読んだ)を繰り返し長々と読み上げ、異常にに気が付いた同僚議員が飛んできて注意したが、くだんの議員、状況が良く飲み込めず、更に意味不明の別ページを読み続けたため首相は困惑し、ただ笑顔でごまかす以外になす術を知らなかった。

結局、その議員はそのまま引退したが、全国に生放送されたその議員のカニハンリた状況を地元紙は「惻隠の情」とでも思ったのか一切報じなかった。

既に物故された同議員の名誉の為名前は敢えて伏せるが、地元選出議員が質問すると言うことで、NHK国会中継を見ていた筆者は、冷や汗をかきながらそのシーンを見た事を昨日のことのように想い出す。

さて、引用の新報の「カニハンリル」の解説は、一読して当を得ているように思われるが、方言専門家の意見はともかく、狼魔人の腑にはストンと落ちかねる説明である。

先ず記事では「ハンリル」を「誤る」と解しているが、確かに広い意味では「誤る」ともいえる。 だが、元の意味からいえば「外れる」が正しい。

つまり「カニハンリル」とは何かが外れてしまい、これまで正常だったモノがバラバラになって統合不能・制御不能になる状態をいう。

要(かなめ)という言葉は、元々扇の要が、蟹の目に似ていることから、「カニメ⇒カナメ」と呼ばれるようになるが、重要を意味する漢字の「要」にこれを当てた。

昔の扇子は力点が加わるカナメの部分を丈夫にするため、その部分に金具を使った。

つまり沖縄語のカニハンリルは扇の要の部分の金具(カニ)が外れて(ハンリて)バラバラになり、本来の用途をなさない状態に由来する、というのが狼魔人流の解釈。

画像

 写真では要部分はプラスチックのようだが、昔は金具でカニの目のように出ていたという。⇒

 

 

 

 

言葉の語源を辿るには音便から辿る場合と意味から辿る場合がある。 扇の要は意味、音便の両方からいっても説明がつくが、意味を先行して考えると「箍(たが)が外れる」という説も有力である。

「たが」とは、桶の周囲にはめ、その胴が分解しないように押さえつけてある、金や竹で作った輪のことである。

で、「たがが外れる」の意味には、組織などの規律が緩むという意味のほかに、

年をとったりして、気力・能力が鈍くなる。」という意味がある。

最近では見かけなくなった桶だが、金具の「たが」外れたら使い物にならなくなるのは人間も同じ。(寂しい!)

 

 

さて、カニハンリルの「ハンリル」の語感から新報の「尺を誤る」説に異論を唱え、扇の要(金具)説を独断で主張する狼魔人流だが、読者の皆様、どちらに説得力がありますか?

それよりも、自分のカニハンリに気をつけなさいって?

はい、スミマセン、気をつけます。

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殺人者の陶酔!キラーズ・ハイ?39年前の金城重明氏の証言

2009-07-22 06:31:10 | ★集団自決

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「軍命あり派」のシンボルである金城重明氏は、現在でも学生相手に破綻した「軍命論」を講演し続けている。

何時まで続く金城重明の強弁 渡嘉敷島の集団自決

彼の詭弁が反対派の攻撃に晒されるのは自然の帰結であり、小林よしのり氏の金城兄弟の「攻撃」も当然予想は出来たことである。

これに対し、沖縄の作家目取真氏がブログで、金城兄弟への攻撃を許してはならないとご立腹のようだが、その的外れな論はおいても、反論は認めないと言う姿勢には呆れてしまう。

これでは、自身が狢だと批判する「言論封殺魔」(佐藤優氏)と同じではないか。

これを世間では敵前逃亡と言う。

折角、小林よしのり氏が金城兄弟の原罪についてわかりやすく漫画で説明してくれたし、かつての論敵目取真氏も問題提起をしてくれているので、これを機会に金城氏の過去の証言を検証してみる。

宮城晴美氏は先日、自著によって論破されるという世にも奇妙な論文を書いて大方の失笑をかったが、過去の新聞記事の発言で自分が論破されるという点では、金城重明氏も負けてはいない。

以下は続・39年前の金城重明氏の証言を加筆したものである。

■殺人者の陶酔--39年前の金城重明氏の証言■

今を遡る39年前、曽野綾子氏の『ある神話の背景』が発刊される3年前のこと。

金城重明氏は沖縄タイムスのインタビュー記事で、記者の「集団自決は軍の命令だ」との執拗な誘導質問を拒否し、心の内を正直に語っている。

米軍の無差別な艦砲射撃を受け、肉親殺害に至る心理を、

一種の陶酔感」に満ちていたと証言している。

「ランナーズ・ハイ」とは聞いたことがあるが、まさか「キラーズ・ハイ」(殺人者の陶酔)が世の中に存在するとは氏の証言で初めて知った。

その状況を「異常心理」だと正直に認めながらも、一転して「あの光景は軍部を抜きにしては考えられないことだ」と強弁する矛盾に、

贖罪意識と責任転嫁の狭間で揺れる心理が垣間見れる。

後年、訴訟が起きるとは夢想もしなかったのか、正直に心の内を吐露してはいるが、当時から金城氏にとって「軍命」とは一生叫び続けねばならぬ免罪符であったのであろう。

1970年3月27日付沖縄タイムス

集団自決の生き残りとして

ー牧師となった金城重明さんの場合ー

記者:当時の状況はどうでしたか。

牧師:わたしは当時16歳だったが、当時のことはよく覚えている。しかし、あくまで自分の考えていたことと自分のやった行為だけだ。

記者赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが。

牧師直接命令を下したかどうかはっきりしない。 防衛隊員が軍と民間の連絡係りをしていたが、私の感じでは、私たちの間には生きることへの不安が渦まいていた.。 つまり敵に捕まったらすごい仕打ちを受けるとか生き恥をさらすなというムードだ。 そして戦況も、いつか玉砕するというところに少なくとも民間人は追いこまれていた。

記者自決命令についてはどう思うか。

牧師:わたしの感じでは、離島にあって食料にも限界があったし、民間人が早くいなくなればという考えが軍にあったように思う。 しきりにそうゆうことがささやかれ、村民の中では、足手まといになるより自決して戦いやすくしたら・・・ということがいわれていたし、こうした村民の心理と軍の命令がどこかでつながったか、はっきりしない。

記者:自決命令は別として西山盆地に集結させたのは軍の命令ですか。

牧師:わたしたちは阿波連にいたが、とくに集結命令というものはなく、人づてに敵は南からくるもので北部に移らなければならないということがいわれた。 事実、米軍の攻撃も南部に集中し、南部は焼け野原になっていた。 二日がかりで西山についた。

記者:村民の集結から自決までの間が不明だが。

牧師:集結した村民は米軍の攻撃にさらされ、絶望のうちに一種の陶酔が充満していた。軍部もすでに玉砕したというのが頭にあった。肉親を殺し、自分もしぬという集団自決がはじまった。今にして思えば、まったくの異常心理としかいいようはないが、とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ。 私自身母親や兄弟を兄弟を殺し、自分も死ぬつもりだったが、どうせ死ぬなら敵に切りこんでやれということで米軍のいる方向へむかった。 しかし、そこで玉砕したはずの日本軍が壕にたてこもっているのをみて、なにか悪夢から覚めたようになった。 この壕は赤松大尉がずっとたてこもり村民を近づけなかったところで、住民を保護すべきはずの軍隊が渡嘉敷では反対になっていた。はっきり言って、沖縄戦で最初に玉砕したのは渡嘉敷であるが、日本兵が最後まで生き残ったのも渡嘉敷であった。

記者:赤松大尉のこんどの来島をどう思うか。

牧師:わたしの立場からすれば、赤松大尉個人を批判するつもりはない。しいていえば、天皇のために死ねという軍国主義教育が渡嘉敷の悲劇で、赤松大尉が何の目的で来たのかわからないので何とも言えない。 しかし悲劇の島、渡嘉敷をしっかり確かめ、戦争は二度といやだという気になれば意味があると思う。 当時の責任者として今後平和運動のため証人としてやっていく気持ちがあれば・・・・ということだ。 わたしが聖職についた直接の動機はこの集団自決事件だ。 わたしは自ら肉親の生命を断ったが、なぜ戦争に責任のない肉親たち、村民たちがあんな死に方をしなければならなかったという疑問を解くために。 そしてわたしはいま渡嘉敷の生き残りとして平和を守ることに努めたい。 

記者:戦争の傷跡をわすれないということですか。

牧師:戦争の傷跡というのも、ただ被害者意識だけでいつまでも思い悩んでいては意味がない。 済んだことは済んだこととして、大事なことは過去が現在にどう生きているかということだ。その意味ではわたしはせんそうは絶対に許せない。 赤松大尉にも、渡嘉敷の責任者だった人として、いま何をどう感じているかその戦争責任をきびしく問いたい。(1970年3月27日付沖縄タイムス)

                   ◇

金城氏は「西山盆地に集結したのも軍命ではなかった」と証言している。

沖縄人は概して時間にルーズであり、集合時間にもなかなか集まらないとは良く聞く話だ。

沖縄人の習性を熟知する村役人が、何事かを村民に指示するとき「軍命」を借用して村民に敏速な行動を促したことは容易に想像できる。

同じ「軍命」でも「○○に集合」程度なら、軍から直接聞かなくとも(現場に軍人がいなくとも)村役人よりの伝聞のみで容易に「軍命」に従うだろう。

だが、「自決せよ」という生命に関わる重大な「軍命」に対して、伝聞やウワサだけで、発令者の臨場もなく自主的に実行できるものだろうか。 先生の臨席しない「自習」は「遊び」と昔から相場は決まっている。

■死者の命令で肉親を殺害する不可解■

軍命による村民の自決とは、どのような状況が考えられるか。

村民が銃剣で装備した軍人に囲まれ、自決拒否や逃亡をすれば直ちに銃殺されるような状況に追い込まれたのなら、やむなく自分で自分の命を断つことも考えられるだろう。

だが、渡嘉敷島の集団自決は、自決実行の現場に隊長は勿論、自決を強制する軍人の姿はない。

それどころか、自決実行の際は、金城氏は「軍部もすでに玉砕した」というのが頭にあったというではないか。

だとしたら自分の生命に関わる重大な「軍命」を下した命令者は、自決実行の際すでに死んだと思われていたことになる。

既に死んでしまった人の命令を厳守して「親兄弟を殺害する」のはいかにも不自然ではないか。

自分がパニック状態による「まったくの異常心理」肉親を殺害しておきながら、

「とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ」と強弁するのは責任転嫁もはなはだしい。

くり返していう。 命令を下したとされる軍部は「既に玉砕している」と考えられていたのではないか。

インタビィーした記者は「軍命」を何とか引き出そうと、核心を突く質問を連発しているが、軍命を直接軍から聞いた者は一人もいない。

「赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが」

「自決命令についてはどう思うか」

結局、軍命による集団自決はウワサであり、伝聞であり、幻であった。

■金城兄弟は父親殺害を隠していた■

もう一つ疑問がある。

金城重明氏は早い時期から母親と兄弟を殺したことは告白していながら父親を殺害していたことを長期間隠していた。(去年になってジャーナリスト鴨野守氏が金城氏が隠蔽していた父親殺害を暴きだしている)

沖縄紙が報じない金城重氏の闇の部分

多くの証言によると、自分で自分の命を断つことのできない女子供は父親や祖父などの年長者が手を下したという。

だが、金城兄弟の場合未成年の重明、重栄兄弟が壮年の父親を殺害した他に類を見ない例である。

やはりこれは、本人が吐露するように「キラーズ・ハイ」ともいえる「異常心理」が働いたのであり、これを軍命だと強弁しても誰も信じるものはいない。

【おまけ】

読者の岸本さんから以下のコメントがありましたのでそのままコピペします。

 

◆<Unknown (岸本)
2009-07-21 14:02:18
たった今、目取真氏のブログに以下の内容のコメントを入れてきました。

はじめまして。
狼魔人日記というブログで、縁側さんという方が、このブログに以下のようなコメントを入れたということが紹介されていましたので、引用します。

~縁側さんのコメントのコピペ~

私もこの方と同意見です。このブログでこのコメントを探しましたが、未だ見つかっていません。私の探し方が悪いか、縁側さんが嘘をついたのかはわかりませんが、もし万が一、目取真さんがコメントを封殺してしまったというのであれば、大変遺憾なことです。「沖縄は全体主義の島」という認識に拍車がかかってしまうのではないでしょうか。

このコメントを投稿し、このブログに来られる方達がどのような意見を仰るのか、また目取真さんがどのようなアクションを起こされるのかを自分の目で確かめてみたいと思います。願わくは「沖縄は全体主義の島」という認識を覆すに足るものであってほしいと思います。》

このコメントに対し、目取真氏がどのような反応をするか、自分の目で確かめてみたいと思います
。 >

 

◆< Unknown 2009-07-21 14:22:43 岸本


↑と思っていたら、私のコメントはもう消されていました。もう一件批判的なコメントがありましたが、それも一緒にあっさりと。

あまりに早く、考えうる最も最悪な対応を取られたのは少しショックでしたが、目取真氏がどのような方なのか、自分の目で確かめることができたので良しとします。

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コメント (12)

琉舞、重要無形文化財に認定

2009-07-21 07:00:02 | 未分類

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琉舞、重要無形文化財に 関係者ら発展へ決意新た(2009.7.18) カメラ2009年7月18日

「大先生方のご尽力に報いるためにも、しっかり頑張りたい」と決意を新たにする玉城節子さん=15日午前、那覇市若狭の玉城節子琉球舞踊道場
組踊の小道具を製作する「組踊道具・衣裳製作修理技術保存会」のメンバー=14日、那覇市の光史芸能小道具製作研究所

 「やっと認められた」―。「組踊」以来、37年ぶりに国の重要無形文化財の総合認定を受けた「琉球舞踊」。琉球王朝時代の宮廷舞踊から大衆の踊りへとすそ野を広げ、ウチナーンチュが愛する文化が国に認められた。地道に芸を引き継いできた誇りを胸に、関係者らは長かった道のりを振り返り喜びをかみしめた。国選定保存技術に選定された「組踊道具・衣裳製作修理」は、技術保持者が亡くなり同指定を解除された「組踊道具製作」を継ぐもの。技術者たちは選定を喜ぶ一方、技術を次世代に継ぐ責任の重さを受け止めた。
県民の誇り/保存会代表 玉城節子さん
 「沖縄ではすべての人が琉球芸能にかかわっているようなもの。舞踊家だけでなく、県民の誇りと喜びにもなる。みんなで頑張ってきたかいがあった」。琉球舞踊が国指定重要無形文化財に指定され、その保持者に認定された琉球舞踊保存会代表の玉城節子さん(68)=那覇市=は声を弾ませながら、長年の念願がかなった喜びをかみしめた。
 琉球舞踊は琉球王朝時代から脈々と伝えられ、沖縄戦による荒廃の中では県民の生きる力となった。特に戦後は女性が中心となり、琉球芸能全般を盛り上げてきた。復帰直後の1972年には「組踊」が国指定重要無形文化財となったが、保持者認定は規定で男性のみ。玉城さんは「組踊の正式な舞台には立てずに悔しい思いをしたこともあった。今回は(保持者として)女性も認められたことが大きな進歩だと思う」と話し、戦後の琉球芸能を支えてきた女性舞踊家の一人として素直に喜んだ。
 芸歴63年。5歳で玉城盛義師に入門し、高校3年生の時に師範免許を取得した。玉城さんは道場に飾られている盛義師の写真を見上げ「先生がお元気な時に指定されればもっと良かった」と涙を浮かべながら、「これからは国指定の保持者として大きな責任と義務を負うことになる。伝統を継承してきた大先生方のご尽力に報いるためにも、しっかり頑張りたい」と決意を新たにした。

工夫し良い物を/道具・衣裳保存会 金城裕幸代表
 「工夫して良い物を。それだけを胸に、日々頑張りたい」。国選定保存技術に選定された「組踊道具・衣裳製作修理」技術の保持団体「組踊道具・衣裳製作修理技術保存会」の金城裕幸代表(38)は、認定を機に新たな決意を述べた。
 保存会は金城代表ら道具製作技術者と衣裳製作修理技術者、学識経験者など合計13人で構成されている。
 金城代表らは、2006年に亡くなった島袋光史氏の下で道具製作の研鑽(けんさん)を積んできた。生前、島袋氏が口酸っぱく言っていたのが「工夫して良い物を作りなさい」という言葉だった。
 組踊出演者から注文を受け、その人の体に合った道具を作る。同じ物を作れるよう、竹や紙、布など、いつでも手に入る身近な素材を材料にするのも島袋氏から学んだ。
 戦災で失われ「何もないところから」(金城代表)道具製作技術を復興させた島袋氏の下、技術者として取り組んできたことを「運が良かった」と思う一方、プレッシャーも感じている。
 目標は「(組踊の道具は)こういうものだったであろう」と言えるような基準になる道具を作ること。金城代表は「学識経験者の意見を聞きながら、焦らず、じっくりと取り組んでいきたい」と今後を見据えた。

                                             ◇

37年前沖縄伝統芸能の「組踊り」が国の重要文化財に認定され、国立組踊り劇場が建造された。

そして今回は琉球舞踊が重要文化財に認定された。

沖縄県民としては喜ばしいことだ。

喜久里康子女史の意見が聞きたい■

「琉球民族は差別を受け、文化遺産を抹殺されているので、先住民人認定をして保護すべきだ」

と叫ぶ、琉球民族派の方々は、この慶賀すべきニュースをどう受け取るのだろうか。

沖縄タイムスもこんな記事で扇動していたけど。

《沖縄タイムス 2008年11月01日

国連「琉球民族は先住民」/人権委認定

文化保護策を日本に勧告

 【東京】国連のB規約(市民的および政治的権利)人権委員会は三十日、日本政府に対して「アイヌ民族および琉球民族を国内立法下において先住民と公的に認め、文化遺産や伝統生活様式の保護促進を講ずること」と勧告する審査報告書を発表した。》

国連に「先住民認定」を働きかけたのは、市民団体を騙る極左グループで、「沖縄市民情報センター」の喜久里康子というまだ30代の女。⇒喜久里康子さん:<先住民としての権利>と沖縄 
 
彼女によれば沖縄は日本に差別されており、被差別団体の「」や在日朝鮮人、左翼アイヌと連帯すべきだというが、
 
彼女には、大きなお世話だと再度言っておきたい。
 
この県民こぞって喜ぶべきニュースを聞いても、喜久里女史は、
 
重要文化財認定は、国による琉球文化の管理・弾圧に他ならない!」「そんなもの即刻返上して先住民認定を行え!」とでも仰るのだろうか。
 
バカバカしい。
 
                   ◇
 
上記記事の写真で紹介されている玉城節子さんは、何を隠そう筆者の高校時代の同期生である。 
 
でも同じクラスになったことはないので、当時から舞踊家として有名人だった玉城さんをこちらが知っていても、先方はご存知ないのかもしれないが。
 
遠い昔の既に時効と思われる玉城さんに関するする思い出話をご披露しよう。
 
とは言っても、当の玉城さんは全くご存知ないはずの話なので彼女の名誉に関わることはない。
 
月に一度集まって飲み会をする仲間の一人A君が、高校一年の時彼女(玉城さん)にラブレターを書き、それがどこでどう間違ったのか先生の手元に届くという青春映画「青い山脈」の一場面を彷彿とさせる事件があった。
 
生物が担任の若いN先生、そのラブレターを授業中に途中まで声を出して皆に読み聞かせていたが、余りの内容の熱烈さに赤面して途中で読むのを止めてしまった。 確かN先生はその頃まだ独身だった。
 
ラブレターを書いたA君は当時としてはかなり「進んだ生徒」であったが、玉城さんとは同じ上ノ山中学の出身で中学のときから思いを寄せていたという。
 
ラブレターの音読に動揺した先生もそうだが、聞いて一緒に赤面した他の学友達も純情だったのが懐かしい。
 
ちなみに玉城さんは同じ同期生で新聞記者のY君と結婚した。
 
沖縄の二つある新聞社の一つに勤めたY君、定年後に行われた同期生の集まりで、「定年で退職しましたが、今後は玉城節子のマネージャー業が忙しくなります」と挨拶して、満座の笑を取っていた。
 
その後の夫人の活躍を見ると「マネージャー業」もあながち冗談ではなかったのかもしれない。
 
ところで、ラブレターを書いて純情な先生を赤面させたA君はその後どうなったかって?
 
東京の大学を卒業後、地元の高校の英語教師になったA君、歳の差のある教え子とめでたく結婚した。
 
やはり高校時代の「進んだ素質」は、自分が教師になっても存分に発揮され、青春映画を地で行くように「教師と生徒の愛」を見事成就させた。
 
その後のA君は教師は辞めて実業界に乗り出し、現在は那覇市内にある某ホテルの社長である。
 
 
A君は、高校時代からその道で「進んでいる」割には、その頃から熱心な空手マンでもあった。 
 
社会人になってからもその修行を怠らず、二年ほど前の酒の座で、その空手の技をDVDの記録に残すため、元テレビ・カメラマンの同期生S君と共同制作するという話が持ち上がった。
 
若い時から通い続ける道場の師範代も勤めるA君、その空手技を記録として残すのは意義のあることなので、飲み仲間もDVD制作には応援することに満場一致で決まった。
 
だが、あれから二年余、いや三年にもなるか。
 
一向に話が進んでいる様子はない。 
 
歳月は人を待たない。
 
そのうち演武者もカメラマンもヨレヨレ、ヨボヨボになってしまい、
 
空手の技か、はたまた酔っ払いのカチャーシーか、区別がつかなくなる懸念もあるのだが・・・。
 
定番どおり話は脱線したが、何はともあれ、
 
玉城節子さん、琉球舞踊の重要文化財認定、おめでとうございます。
 
 
 


 

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