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翁長知事の辺野古埋め立て承認の取り消し表明を受け、国側は無駄な時間の浪費を避け、さっさと法廷闘争に入るべきと決意したようだ。
防衛局は28日に予定していた県による意見聴取を拒否し、行政手続き法に則った取り消し手続きを要請した。 仲井真前知事が行政手続き法に則って承認したのだから、取り消すなら同じ法規の手続きを踏めという理屈だ。
菅官房長官は、「翁長知事は『埋め立て承認を取り消す』と、再三再四にわたって発言しており、それであれば行政手続法に基づいた『聴聞』を実施すべきだ」と述べ、沖縄県が埋め立て承認の取り消しを目指すのであれば、行政手続法など法律に沿った対応をとるべきだという考えを示めした。
つまり国側は一ヶ月の集中協議が決裂したので、今度は法廷闘争に進むと圧力をかけてきたのだ。
法廷闘争の理詰めの戦いでは、勝ち目がない翁長知事は、場外乱闘の世論闘争を目論んでいる。
つまり県民投票、県民集会などで世論を喚起する予定だが、世論闘争の第一段階として、国連人権理事会で、先住民問題に絡めて人権を訴えるという。
翁長知事の国連演説について昨日放映されたQABテレビ番組を再度引用する。
2015年9月17日
翁長知事が出席する国連人権理事会。各国の人権状況を審査し、重大な人権侵害に対しては勧告を出します。
島ぐるみ会議の国連部会長で、琉球大学教育学部の島袋純教授は次のように国連で訴える意義を語ります。
琉球大学教育学部・島袋純教授「日米両政府が基地を造って押し付けようとしている。そういうことが国際社会に世論を喚起して、そこから圧力をかけようという狙いがあります」
島袋教授は辺野古への基地建設反対の根拠として、沖縄の人々が土地や海、資源に関して決定できる「自己決定権」を主張しています。そしてその背景に、沖縄がかつて琉球王国として独自の道を歩んでいたことをあげています。
島袋教授「1879年以前は琉球王国を持っていたので、客観的条件としてわかりやすい。我々は少数民族、先住民族であると言う自己規定です。国連演説に関しては、自己決定権を持つ集団と言う自己規定をされるのが一番のポイントになるんじゃないかと思います」
昼夜に関係なく騒音をとどろかせながら飛ぶ戦闘機やオスプレイ。基地から派生する環境汚染や次々に起こるアメリカ軍人による事件や事故。
こんな状況が続いてもアメリカ軍基地がなくならない背景には、日本国憲法も、一般法からも適用除外された特別法の存在があるのだと島袋教授は指摘しています。
島袋教授「土地収用法の特別法とか、アメリカ軍が夜間であれ、何であれ、オスプレイであれ、いつも好きなように飛ばせる。そういうのは航空特別法によって保護されている。そういった様々な差別的な立法によって沖縄の権利を侵害し続けている。この部分を強く訴えたくて」
沖縄のことを国際社会がどう見ているか、注目すべき報告書が出されていました。
国連特別報告者のドゥドゥ・ディエン氏の報告書。沖縄の基地問題については次のようにあげています。
『沖縄にアメリカ軍基地が存在し続けることは、沖縄の人々の基本的人権の尊重と両立しうるのかという問題について、綿密な調査を行うよう要請すべきである』
島袋教授「平和を守り、人権を守ることは密接にかかわっていると思います。」
国連の人種差別撤廃委員会は2010年、沖縄へのアメリカ軍基地の集中について現代的な形の人種差別と認定。また2014年8月には沖縄の人々は「先住民族」だとしてその権利を保護するよう勧告する「最終見解」を発表しました。
翁長知事「沖縄のあるべき姿、日本のあるべき姿、この問題を通じて国民に問いたい、世界に問いたい」
そもそも沖縄の軍用地のほとんどが戦後強制的に接収された土地。島袋教授は沖縄の人たちの合意なしに基地が造られ今もあり続けていることを国際社会に訴えていく重要性を示しています。
島袋教授「好き好んで土地を差し出したことはないというのが、重要なポイント。これこそまさしく人権侵害」
☆
>国連特別報告者のドゥドゥ・ディエン氏の報告書
島袋純琉球大学教授が有難がる国連のドゥドゥ・ディエン氏について過去エントリーをサルベージしたら、こんな記事が出てきた。
☆
以下引用である。
小指の痛み 2010-05-02
沖縄に米軍基地が集中しているのは戦略的地位に沖縄が存在する宿命である、という沖縄宿命論がある。
その一方で東西冷戦が終わった現在、沖縄に戦略的価値を求めるのはナンセンスだという非宿命論もある。
非宿命論に従うと、日本の防衛に沖縄だけを盾にするのは不公平だから、米軍基地は日本全国に公平に分担させよということになる。
米軍基地はゴミ処理場なみに地元住民の同意とスペースさえ在るなら日本全国何処でもよいということだ。
普天間基地を「県外・国外」と叫ぶドサクサに、米軍基地の全面撤去を叫ぶサヨク勢力も蠕動し始めた。
「4・25県民大会」が開かれた日の沖縄タイムス社説はその勢力に呼応するように「[歴史の節目に]宿命論と決別するときだ(2010年4月25日 )という仰々しいタイトルだった。
沖縄に米軍基地が集中している理由を、沖縄の置かれている地政学的的位置に求める宿命論に対する反論のようだが、これに対する当日記の批判は後述するとして、
このところ連日紙面を飾る米軍基地に対する恨み辛みの記事を読んでいると、なぜかその昔、伊東ゆかり歌った「小指の想い出」の歌いだしを想いだす。
♪~あなたが噛んだ 小指が痛い~♪
好きな彼氏に噛まれる小指の痛みは、ほろ苦い、いや「ほろ甘い」想い出を伴うのだろうが、沖縄の新聞に時折現れる「小指の痛み」には、伊東ゆかりの甘ったるい歌声とは似ても似つかぬ「恨み辛み」がこもっている。
好きな彼に噛まれるしか能のない小指が、美食三昧に明け暮れる口を羨んで見たところで、仕方のないこと。 小指は小指として生まれた宿命である。
一方、足の裏に言わせると小指はまだマシな方で、臭い靴の中で一生踏みつけられ、おまけに水虫の攻撃を受ける足の裏の身にもなって見ろ、ということになる。
そう言い出したら切がない。
「口が美食を堪能したケツ末を一生処理し続ける自分は差別ではないか」、と肛門が騒ぎ出す。
だからと言って足の裏を頭の上に移動することは出来ないし、肛門を口の側に移動することも出来ない。
小指には小指の宿命があり、肛門には肛門の宿命がある。
沖縄が地政学的重要な位置に存在することを嘆いて、沖縄を浮島にして日本国中好きなところに移動させたいという白昼夢を見た沖縄タイムス記者がいた。
だが、所詮それは叶わぬ夢にすぎない。
ここに『鉄の暴風』の執筆者の一人であり沖縄タイムスの先輩記者でもある牧港徳三氏が書いた「沖縄宿命論」がある。
『うらそえ文藝』(第10号 2005年刊)に寄稿の「ある種の記憶」という随想の中で牧港氏は次のように書いている。
《私は、以前こんな風に書いた。「沖縄・地理の宿命論。この地理的宿命論は他にもある。陸の孤島と化したことのある東・西ベルリン、或いは現在の南北朝鮮。南・北ベトナム。その地域によって分かれている地理的宿命論である。沖縄の落ち込んでいる不条理は、純粋に地理の生んだ陥穽とはいえないが、アメリカによって生まれた基地の重圧を一身に背負う沖縄は、偶然とは言え、一種の『地理の宿命』であることは間違いあるまい。
仮りに、沖縄が、四国か、九州の海岸か、或いはオホーツク海の氷島の傍であっても、いっこうにかまわない。白昼のミステリーと笑いとばせばよい変幻夢を、沖縄の今日の歴史は刻んでいる。」・・・と、かつて私は書いたことがある。(「無償の時代」)》
この後、牧港氏は、自身の沖縄戦の悲惨な体験を回想記風に綴った後、この随想を次のように締めくくっている。
「私はいつか書いた。沖縄が洋上に浮かぶ島なら、・・・その地理的宿命論という奴を放り出したい思いの一途な思いが時々頭をもたげるのである。」と。
回りくどい表現ながら、沖縄が洋上に浮かぶ島なら、沖縄を宿命論の及ばない他の地域へ移動させたいと願望しているのである。
勿論はこれは牧港氏の夢想であり、現実には沖縄を他地域に移動させることは出来ない。 小指がそうであるように。
だが、沖縄が、マスコミが喧伝するような基地公害で住みづらい地域なら、現在の日本では基地のない他県へ移住することは自由である。
ところが逆に近年他県から沖縄へ移住する人が増加していると聞く。
米軍基地の公害を嘆くのなら基地のないところへ移住すればよいし、
雪の降らない暑い沖縄に生まれた宿命を嘆くより、雪見酒を楽しめる雪国へ移住することを考えればよい。
花見の宴を羨むなら、桜の名所に移住すればよい。。
「小指の痛み」は沖縄の宿命論と連動し、例えば次のコラムのように沖縄の新聞には頻繁に出てくる。
琉球新報 コラム2009年11月9日
宜野湾海浜公園屋外劇場で開かれた「辺野古への新基地建設と県内移設に反対する県民大会」は、通路まで参加者で埋め尽くされていた。一言も聞き漏らすまいと発言者の言葉に耳を傾けていたのが印象的だ
▼鳩山政権に県外・国外移設の実現を迫り、「辺野古でしか解決策はない」と発言した松沢成文神奈川県知事を糾弾するあいさつを聞いていて、戦後史を象徴するあの言葉を思い出した
▼「沖縄同胞の心情を人ごとと思わず、小指の痛みは全身の痛みと感じ取ってください」。1969年2月、衆院予算委員会の公聴会で、祖国復帰協議会会長の喜屋武真栄さんが発した
▼喜屋武さんは「他国に軍事基地を提供している国が幾多あるが、人民まで売っている国家があることを知りません。(中略)そこに生存している人民の生命も、財産も、人権も無視」されているのは「地球上で沖縄県民だけ」、米国の不当な支配を許している日本政府も「同犯者」と訴えた
▼発言から40年たつのに差別的な状況は解消されていない。しかし解決が困難であっても決して不可能ではないはずだと、県民は政治に期待し続けた
▼鳩山由紀夫首相は7日配信のメールマガジンで「これまで基地問題で犠牲になってきた沖縄県民の思い」を「考慮する」と述べている。「小指の痛み」を感じ取れるかどうか、「友愛」政治が試されている。
◇
■米軍基地は差別か
「小指の痛み」は、「沖縄切捨論」や「沖縄捨石論」と同様の情緒的言葉だが、これを持ち出されると、論理は封じ込められ情緒的論議に引き込まれることになる。
さらに情念が過熱すると「沖縄差別論」が飛び出してきて、そうなると議論どころの騒ぎではなくなってしまう。
25日の「県民大会」でも発言者の興奮した言葉の中に、「差別」という言葉が何度も繰り返された。
他県に比べて沖縄に基地が多いことが事実だとしても、果たしてこれが差別なのか。
「基地差別論」を持ち出したのは、筆者の知る限り琉球大学教授時代の大田昌秀元県知事だと記憶するが、
これをマスコミに大きく扇動したのは2005年沖縄に来た左翼活動家ドゥドゥ・ディエン氏だと思う。
これに対しては当時の麻生外相が、大田昌秀参議院議員(当時)の国会質問に答えて次のように否定している。
外相「基地集中、差別ではない」 県内から批判
2006年5月19日
【東京】国連人権委員会の特別報告者・ドゥドゥ・ディエン氏が那覇市の講演で「狭い県土に米軍基地が集中する実態が差別を物語る」と指摘したことに麻生太郎外相は18日、参院外交防衛委員会で、「米軍専用施設の75%が沖縄に存在していることは事実だが、地政学的な需要、もしくは事実上の要請に基づくものであり、差別的な意図に基づくものではない」と反論した。ディエン氏が調査報告書を国連人権理事会に提出する意向に対しても、「日本として事前に反論書を提出したい」と述べた。大田昌秀氏(社民)への答弁。
これに対し琉球大学の島袋純助教授(政治学)は「地政学上の理由を根拠に、特定地域の住民に極端な負担を強いる政策や差別的な扱いは許されない、という考え方が国連の原則。日本の常識は世界の非常識だ」と指摘。「日本は人権後進国だ。外務省が反論書を提出しても人権理事会では通用しない」と強く批判した。
ドゥドゥ・ディエン氏沖縄調査&講演をすすめる世話人会の高里鈴代さんは「米軍基地の集中は歴史的な根深い差別が根底にある。政府は基地を置く状況が厳しくなると、知事の権限を奪う法律整備もしてきた。単純な地政学上の問題ではない」と憤慨した。
麻生外相が「(ディエン氏の)個人的見解であり、国連の見解ではない。法的拘束力も持っていない」と発言したことについても高里さんは「訪問は非公式とはいえ、特別報告者の立場で現地調査した。国連組織への認識があまりにも欠けている」と批判した。
ディエン氏は、日本での調査に協力する反差別国際運動日本委員会を介し、「国連人権理事会に調査結果を報告する」と述べ、外相発言へのコメントは控えた。
◇
国連と名がつけば何でも正義の使者のように妄信するグループがいるが、それはさておいても、
そもそもこのドゥドゥ・ディエンがいかにいかがわしい人物であるかを知る人は少ない。 詳細は長くなるのでここでは省略するが、興味のある方は過去エントリーで確かめて欲しい。⇒06・5・20基地は差別か ドゥドゥ・ディエンって何モノ?
さて、話題を戻すが、「沖縄差別論」がさらに狂気を帯びてくると、今度は「沖縄奴隷論」へと、日本政府への恨み辛みは止めどもなくエスカレートしていく。
八重山毎日新聞 2010年4月22日
ドイツの哲学者ヘーゲルに「主人と奴隷」…
ドイツの哲学者ヘーゲルに「主人と奴隷」という言葉がある▼主人は自分は何もせずいろいろと奴隷に命令し奴隷は忠実にそれを実行する。主人は何もしないのだからそのうち無能力者となり、一方仕事に励んだ奴隷はさまざまな能力を身につけるという話▼われわれ沖縄人は激しい歴史的重圧にひしがれてきた。特に沖縄戦、米軍占領、異民族支配、また沖縄に対するヤマトゥの徹底的無責任、無関心など▼そしてただ今現在では普天間基地移設問題に矮小化されてしまった基地問題群(それは嘉手納基地をはじめとする米軍の圧倒的威圧感からすれば矮小化と言わざるを得ない)その矮小化された問題さえまともに考えようとしない日本政府と日本人。彼らは主人よろしく「日米安保は日本を守る」と涼しい顔だ。奴隷沖縄はその苦境に耐えそれを乗り越えようと艱難辛苦、その結果おのずから透視力、分析力、論理力、構想力、判断力などがついてくる▼さて来たる25日に開催される普天間基地県外移設要求大会は、今や政治的無能力化しつつある主人・日本政府に対する奴隷・沖縄の決定的「否(ノン)」である▼それは必ずや人格となった沖縄がその歴史経験を鍛錬して得た平等、人権、平和、倫理感覚とその思想を総結集する場となるにちがいない。(八重洋一郎)
沖縄の知識人に多いのだが、沖縄にいる時は優越感の塊で、本土へ行くと一変して劣等感とヒガミ根性の塊に変身する。 その好例が上記コラムである。
これに対し次のような読者のコメントが寄せられているが、コラム執筆者の感情的恨み節に対して、読者のfuruikeさんの方が、よっぽど冷静に物事を見ているようだ。
《本土が「主人」で「沖縄県」が奴隷なのでしょうか??それではあまりにも卑下しすぎじゃないですか。また、「ヤマトゥの徹底的無責任、無関心~」ではなく「政治の徹底的無責任、無関心~」じゃないですか?沖縄の人と本土の人の闘争を煽るようなことをコラムに書くのってどうなの?
内容が抽象的だったり、知識の披露にすぎなかったりで何を伝えたいのかよく分かりません。詩の心のない私に理解するのは難しい・・ furuike: [2010-04-23 13:46:24] 》
ここで冒頭に引用した沖縄タイムスの社説「[歴史の節目に]宿命論と決別するときだ」を批判しようと思うのだが、脱線が過ぎたので次の機会に回したい。
■御知らせ■
●【石原昌家沖国大名誉教授による「援護法」についての講演会】
日時:9月19日(土) 14時~16時
開場:県立公文書館
会費:無料
*石原先生、「軍命」は捏造それとも書き換え、真実はどっちですか!