狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

疑惑の銃弾はどうなったか マスコミには説明責任がある!

2009-04-30 07:04:25 | 金武町流弾事件

生き証人という言葉に人は弱い。

生き証人とは、ある出来事を体験あるいは目撃していて、なおかつ生きてい証言ができるということだろう。

だが、その証言が必ずしも正しいとは限らないことは数多くの事例が証明する。

渡嘉敷島、座間味島の集団自決に隊長命令があったという生き証人は数多くいるが、客観的検証に耐える証言は一つも無い。

沖縄のマスコミとそこに巣食う識者と呼ばれる人々が総力を結集して、「軍命令による集団自決」の証人を捜している。

だが、ただの一人として「軍命令による」と証言できるものはいない。

彼らが証言するのは悲惨な集団自決の証言ではあっても、

「軍命令による」という証言ではない。

                     ◇

 

たった一人の目撃証言が米軍と沖縄県警の調査能力を決める大変な事態になってしまった。

金武村で起きた「米軍流弾事件」のことである。

沖縄タイムス、琉球新報両紙の紙面から消えたまま遂に4月末を迎えた。

やはり、いつもの大山鳴動何とやらなのか。

いや、今回はネズミの代わりに一人のおばぁが目撃者。

事件が起きた当時は連日社説やコラム動員して米軍糾弾のキャンペーを張っていたはずだが、

4月に入ってからは沈黙を守ったままであった。

あれほどくり返し「事件をウヤムヤにするな」と叫んでいた勢いはどこへ消えたのか。

 

事件の決め手はアリバイだった。

 「11日発生」と関与否定 伊芸区流弾事件/最終報告書 米軍「訓練なかった」【04月11日】

  金武町伊芸区の流弾事件の発生日の特定が県警と海兵隊で異なっている件で、米海兵隊がまとめた最終報告書の詳細が10日、分かった。県警調査による事件発生日時の食い違いが新たに浮き彫りになったほか、米軍が銃弾について独自に調査した内容が明らかになった。

 1日、県警が米軍から受け取った最終報告書は書簡形式のA4判3枚、日本語訳3枚も添付されている。

 それによると米軍は、石川署が昨年12月19日に作成したとされる報告書を基に、発生日時を「昨年12月11日午後4時ごろ」と記述。キャンプ・ハンセンでの訓練を同11日から13日まで実施していなかったことから、「訓練場から発砲された証拠が見つからなかった」と結論づけた。

 
目撃者については「被害者の女性以外にはいない」などと記述。ナンバープレートに銃弾が突き刺さっていた乗用車は(昨年12月)11日午前零時から13日午前7時30分まで駐車されており、被害者が大きな音を確認したのは11日午後4時ごろとしている。

 さらに報告書は、県警が銃弾の鑑定結果として断定した50口径弾は、米軍キャンプ・ハンセンのレンジ7とキャンプ・シュワブのレンジ10で使用。弾芯には通常、銅などの被帽(ジャケット)がついているが現場では確認されず、さらに弾には若干のゆがみはあるが変形していない―などと記載されていた。

 県警は被害者の情報などから捜査の初期段階で発生日時を(昨年12月)10日午後3時ごろと特定。事件発覚後、米軍に発生日を随時伝えていたという。

              
                                 ◇

事件発生日が、県警発表と米軍側の調査と1日の差があることが決め手となった。

県警は住民の話などから事件発生日時を12月10日午後3時ごろと特定し、米軍側にも発生日時を伝えていた。

だが、米軍側は独自の調査により事件発生日時は12月11日と特定していた。

県警と米軍の主張するアリバイの誤差が数分間、いやせめて数時間でもあれば、推理小説の題材にもなろう。

だが、誤差がまる一日では、どちらかの捜査がずさんだったということであり、単純すぎて小説の題材にもならない。

事件発生日は、両者の主張によるとこうなる。 

◆県警⇒12月10日 午後3時ごろ

◆米軍⇒12月11日 午後4時ごろ

米軍は県警の報告を基にしながらも、独自の調査で問題の乗用車が事件現場の車庫に駐車していた時間を、次のように特定している。

駐車時間⇒11日午前零時から13日午前7時30分まで

事件発生(被害者が大きな音を確認)⇒11日午後4時ごろ

米軍がこのように具体的にアリバイ調査の結果を発表しているのに対し、県警も含めてこれに客観的に反論している事実はない。

県警によると、被害者らの情報などから捜査の初期段階で発生日時を10日と特定しているが、たった一人の目撃証言を鵜呑みにして初期の裏付け捜査を怠ったのではないのか。

事件発覚後、米軍に発生日時を随時伝えていたというが、これに対して米軍は証言を鵜呑みにしないで裏付け調査をして、最終調査報告で「事件発生は訓練終了以降の11日」との結論に到ったのではないか。

米軍が目撃者は一人しかいないと事実上の名指しをされている玉城さんは、事実上「嘘つき」と言われたことに憤りを示しているし、

儀武剛金武町長も「納得できるまで説明を求めていく」といっている。

にもかかわらず、その後沈黙を護っているのは結局納得したと言うことなのか。

発生日に食い違い 流弾事件/再三通報 県警10日→米軍11日【04月10日】
米軍側が示した事件発生日について、被害者の玉城ミツさんは「被弾が11日というのはあり得ない。米軍は事実を曲げ、真実を隠そうとしている」と批判。11日には町内の幼稚園の行事に出席していたといい、証言すら否定されたことに強い怒りを示した。

 池原政文伊芸区長は「11日の可能性はみじんもない。米軍はあくまでしらを切り通すつもりなのか」と憤った。

 儀武剛金武町長は「県警と米軍の間で日付が違うということは、簡単には済まされない問題。(米軍の)科学的なデータを含め、納得できる説明を求めていきたい」と述べた

結局米軍と県警のどっちが嘘つきかということになる。

それを基にこのようなエントリーをした。

ウソつきは誰だ!疑惑の銃弾 メア総領事とコーヒー

「米軍vs県警」疑惑の銃弾大戦争勃発!発生日に食い違い 

複雑そうに見えて問題は簡単だ。

目撃者の証言が正しいか、それともウソだったかと言うことにもなる。

いや、目撃には勘違いだってありうる。

米軍発表と県警発表といずれが正しいとしても、アレだけ大騒ぎした地元二紙がこのまま沈黙を守ることは読者に対する大きな裏切りだ。

 

事件は昨年12月、号外発行で大々的に報じられた。

【電子号外】米軍流弾か 車直撃 民家駐車場、ナンバー破損

2008年12月14日

   PDF版速報(653KB)

 【金武】13日午後7時半ごろ、金武町伊芸区に住む建設会社従業員の玉城陽一さん(25)から、自宅の駐車場に止めていた乗用車のナンバープレートに銃弾のようなものがめり込んで壊されているとの通報が警察にあった。
石川署が調べたところ、銃弾のようなものは長さ約4・5センチ、直径約1センチで、字光式ナンバープレートの表部分を貫通、裏側のプレートで止まっていた。米軍キャンプ・ハンセンからの流弾の可能性があり県警が銃弾を鑑定するなど捜査している。同演習場から現場までの距離は、最短で約300メートル。
 玉城さんは13日午前7時ごろに、ナンバープレートに穴が開いているのを確認。何者かのいたずらかもしれないとみて、いったん仕事に向かい、帰宅後にナンバープレートを外して調べると、裏板の中に銃弾のようなものがめり込んでいた。
 一方、10日午後3時半ごろ、玉城さんの祖母・ミツさん(70)がこの駐車場で作業をしていた際、「バーン」という大きな音を聞いた。同時に車付近から白い煙が出ていたという。ミツさんは周囲を確認したが、ナンバープレートの破壊には気付かなかった。銃弾のようなものは、この時にめり込んだ可能性が高いとみられる。(略)
 

                                            ◇

>10日午後3時半ごろ、玉城さんの祖母・ミツさん(70)がこの駐車場で作業をしていた際、「バーン」という大きな音を聞いた。同時に車付近から白い煙が出ていたという。

米軍調査団は問題の乗用車を車庫に駐車していた時間を「11日午前零時から13日午前7時30分まで」とかなり正確な時間を把握している。

しかも、米軍側はナンバープレートに突き刺さっていた銃弾について、次のようの疑問を呈している。

50口径弾は、米軍キャンプ・ハンセンのレンジ7とキャンプ・シュワブのレンジ10で使用。弾芯には通常、銅などの被帽(ジャケット)がついているが現場では確認されず、さらに弾には若干のゆがみはあるが変形していない」

 

事件直後、国会議員の照屋寛徳氏、や山内徳信氏らが米軍を沖縄県警に告発している。
 
これもウヤムヤにはして欲しくない。
コメント

「ハーバービューホテルの決闘」第六章 沖縄戦メモリアル構想

2009-04-29 06:48:34 | 未分類

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「1フィート運動」の事務局長の座を追われたその後の上原氏の活動に話は戻る。

反戦平和を標榜する沖縄の識者たちの策謀により、貴重な体験をした上原氏は、

1985年以後、太田氏への怒りを胸に秘めながらも、独自に沖縄戦や大琉球の研究を始めその結果を次々と新聞に発表し、本を出版していった。

そのときの成果が『青い目が見た「大琉球」』( 1987年発行、2000改訂版)で、その内容は沖縄に関する外国の歴史的資料を上原氏が翻訳、編著したものである。
 
そして、上原氏の頭の中に「1フィート運動」よりもインパクトが大きく、さらに重要な歴史的住民運動の構想が湧きあがってきた。

それが沖縄県メモリアル構想である。 

沖縄戦で亡くなった住民も兵士も、日本兵もアメリカ兵もすべて網羅した一大記念碑を建立する、という壮大なものだ。

そのとき上原氏の脳裏に浮かんだのは、1フィート運動の失敗を繰り返してはいけないという過去の教訓だった。

だが、太田氏は当時は既に県知事になっており、公的立場の知事が、このような上原氏のアイディアを個人的名誉欲達成のため再び奪い、かつ追放劇を演じるとは、神ならぬ身の上原氏は予測できなかった。 

又しても上原氏は、名誉欲の塊と化した太田氏に煮え湯を飲まされる羽目に陥ることになる。

上原氏が沖縄県メモリアル構想を準備していった過程を上原氏自身の著書から引用する。

89年、グレン・スローター、グレン・ネルソンらが沖縄戦の最中に、共に住民救出活動に命を投げて協力してくれた米須清一さんと涙の対面をしたが、その橋渡しをしてくれたのが、ロジャー・ピノー先生であった。 ぼくはピノー先生に沖縄戦メモリアル構想を話した。 ピノー先生は目を輝かせて、「これは素晴らしい構想だ。 アメリカ兵のリストはぼくが集めよう。」と言ってくれた。明けて90年初頭、ピノー先生から第一陣のリスト、海軍兵の5000人の膨大な名簿が届いた。 海兵隊、陸軍の名簿も次々、入手のよていだとのこと。 僕は既に川平朝申、照屋善彦、米須清一、ロジャー・ピノーの4人の代表に10人の信頼できる友人を委員に選んでいた。 90年6月22日、記者会見で沖縄メモリアル構想を発表した。

「1フィート運動」の場合、自分が苦労して会発足の記者会見までこぎつけたその会見現場で、識者の仮面を被った左翼集団に追放された上原氏だが、

今回の「沖縄戦メモリアル構想」の記者会見は前回の轍を踏まないように万全の準備の末、どうにか記者会見の発表までこぎつけることが出来た。

上記引用文には、上原氏の著書を読んでない人には馴染みの無いグレン・スローター、グレン・ネルソン、米須清一それにロジャー・ピノーといった名前が登場する。

すべて沖縄戦に関わる人物だが、沖縄戦を深く取材している鴨野守氏が上原氏に取材した時の「世界日報」サンデー版の記事に、これらの人物が登場する。

ドラマチックに描かれているので以下に抜粋して引用する。(太字強調は引用者)

沖縄戦で数千人を救った米須清一
 
沖縄戦で数千人を救った米須清一

 「軍は住民を助けない。これが沖縄戦の教訓だ」――。左翼勢力のこのような口車に乗って、沖縄の教育行政もまた、平和教育の教材に「集団自決」に関するテキスト作成などに熱心に取り組んでいる。だが、こうした教育が児童生徒に勉学への意欲をかきたて生きる希望を与えるとは到底思えない。戦争という心身の極限状態において発揮された気高き人間性の輝きこそ、後世に伝えるべき財産だと考える。          (編集委員・鴨野 守)

作家・上原正稔氏に会う

 五月中旬、記者(鴨野)は那覇市内の図書館で、作家の上原正稔氏とようやく会うことができた。昨年秋からずっと探していたが、なかなか連絡が取れなかった人物である。
 沖縄戦を通じて、人間の醜さや死にゆく人々の悲しみだけに焦点を当てがちな地元ジャーナリズムの中にあって、上原氏は異色の活動を展開してきた。
 氏は、アメリカ公文書館に保管されている、膨大な沖縄戦記録フィルムを独自ルートで取り寄せて、そこに登場する本人たちに届けるというユニークな取組みを行ってきた。

 また、米軍の戦時記録を入念に読み解き、そこから多くの「物語」を発掘して、著書にまとめてきた。それが『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』(三一書房、昭和六十一年)、『沖縄戦トップシークレット』(沖縄タイムス、平成七年)などにまとめられた。

 たとえば、『沖縄戦トップシークレット』に収録されている米須清一氏の活躍ぶりは、一本の映画にまとめるだけのドラマがある。戦場という極限状態で、発揮された人間愛の崇高さ、気高さを学ぶには最高の物語だ。
 スティーヴン・スピルバーグ監督の名作「シンドラーのリスト」は千二百人のユダヤ人の命を救った実話に基づくが、あの作品以上の迫力と感動を与えよう。

 なぜならば、米須は、沖縄戦で数千人の日本人を救ったからである…

米軍要請受け説得作戦

 沖縄戦で彼が捕虜になった時、すでに四十三歳だった。米軍の日本語将校、グレン・スローター中尉、グレン・ネルソン中尉らの要請を受けて、無数の壕に隠れている住民や日本兵に投降を説得する役目を担った男である。米軍はそれまでにも隠れている日本兵の説得を経験しているが、沖縄戦では自分たちの日本語のレベルでは全く沖縄の人々を説得する力がないと悟った。

 それで米軍は、「地下壕に隠れている君たちの仲間を救ってもらえないか」と日本人捕虜十人に要請した。すると全員が「やります」と承諾。彼らの必死の説得で恐る恐る壕から老人、女、子供が出てきたのである。しかし、住民の中に兵士も紛れ込んでいて、説得役の彼らはたびたび、壕から銃で狙われることもあったという。文字どおり命をかけた説得作戦である。

 米軍は、米須を含む五人を「正式な志願兵」と任命。だが、五月上旬、日米が最も熾烈な戦闘を展開したシュガーローフの戦いの後では、五人の沖縄人のうち四人が辞めたいと申し出た。残ったのは、米須ただ一人に。しかし、そのような状況でも米須は護身用の銃を持つことはなかった。

 彼らの説得に応じることなく、壕の中で自決した日本人も多くいた。また、投降しながらも、自決すべきかどうか迷っていた日本兵がいた。その日本兵は密かに、手に安全ピンを抜いた手榴弾を握りしめていた。安全ピンを押さえている指を離せば、数秒後には現場にいる者が吹っ飛ぶ。どうしたものかと本人も決断が決めかねていた――。その時、捜索部隊と一緒に行動していた軍曹が手榴弾を発見し、奪い取るや入江に投げ捨てた。次の瞬間、手榴弾は空中で爆発。危機一髪、そこにいた全員が助かったのである。

 こうして数千人の命を救った米須だが、後日談がある。

一九九一年五月、大好きな大リーグの野球を見るため、米須は初めてアメリカの地を踏んだのである。彼を知る元軍人の連絡で地元紙が彼を取材した。翌日、ボルティモア・サン紙は一面で彼のカラー写真を掲載し、「沖縄戦のヒーロー、アメリカ兵と共に数千人の住民救出、大リーグ見物で渡米」と大見出しで報じた。

 同月下旬、ボルティモア市のメモリアル球場に米須が到着すると、球場マネージャーは彼の切符を取り上げ、十㌦を返し、一週間前にエリザベス女王が座った特別席に案内した。大スクリーンには歓迎の文字が映し出され、大観衆の拍手が彼を包んだ――。

眠っている真実の物語

 記者は、上原氏に尋ねた。
 「米須さんとは何度ぐらい会いましたか」
 「もう、数え切れないよ。まさに、彼とは“戦友”だったな」と上原氏。

 米須氏の救出作戦で出てくる「手榴弾を握りしめた日本兵」は、単行本に掲載されている若者ではないのか、と尋ねた。
 上原氏は、「そうかもしれないが、スローター中尉はその兵隊が誰だったかを最後まで明言しなかった。それはスローター中尉が騎士道精神を発揮したためだ。なぜなら、その日本兵が生きていれば、彼を傷つけることになると配慮したのだ」。

 米須氏の印象を聞くと、上原氏は懐かしそうに語った。

 「米須は数千人の日本人の命を助けたというのに、詳しく覚えていなくて、一緒に説得にかかわった元米兵が詳しく話してあげたほどだ。米須は、それほど無欲で無口な男だった。僕が米須ならば、沖縄戦秘話として書いてピュリツァー賞を獲得しようと思うけどね。どうやら本当の英雄というのは自慢しないようだ」

 沖縄戦の関係者のドラマを追って約三十年。その上原氏はこう語った。「人間が試される究極の舞台、それが戦争である。そこには数多くの素晴らしい真実の物語が眠っている。そのひとつひとつを掘り起こすのが僕の仕事だ。沖縄戦で本物のノーベル賞作品を何本も書けますよ」と。

                     ◇

なお、G・ネルソンさんが最近逝去されたことを新報は報じていた。⇒G・ネルソンさん死去 沖縄戦で投降呼び掛け(2009.2.26)

さて、沖縄戦メモリアル構想の委員の中で唯一人のアメリカ人であるロジャー・ピノー氏は上記記事には登場していない。

ピノー氏は、沖縄戦で活躍した日本語の話せる情報将校のグレン・スローター中尉、グレン・ネルソン中尉らが日本語を学んだ米海軍日本語学校の出身で、

1980年代から90年代にかけて、海軍日本語学校の歴史を書くために、史料収集や卒業生についての情報収集を始めた戦史研究家である。

丁度この時期に上原氏から沖縄戦メモリアル構想の相談を受け全面的に協力したことになる。

上原氏が沖縄戦メモリアル構想の記者会見をした年の3年後の1993年にピノー氏は死去する。

同時に海軍日本語学校史の編纂も未完となった。  

対米戦争中、日本は敵性語だとして英語の使用を禁止した。

だが情報戦で数段日本に勝っていた米国は日本が真珠湾攻撃を仕掛ける1941年の数年前から、日米関係の悪化を想定、さらに戦争に到る事態に備えて陸海軍で日本語学校を作り日本語の話せる要員の育成を開始していた。

陸軍の日本語学校は2世を中心とした日本語の訳、尋問などのための教育施設であり、1941年にサンフランシスコに設置された。

戦争開始後の1942年5月陸軍省直属となり、同年11月にはミシガン大に1年の集中コースを設けることを決定、1943年1月5日から授業が開始される。

150人の生徒からなる日本語コースで、白人の生徒を対象としていた。

これが陸軍日本語学校として知られるものである。

ハワイ出身の沖縄系二世が、スパイとして沖縄戦で活躍したことが知られているが、米軍統治下の沖縄から米留学をした沖縄人の受け入れ大学にミシガン大学が貢献したことは、

ミシガン大学が日系二世を中心にスパイの養成に関わったことに関連があると思われる。

一方、コロラド大学では、米海軍日本語学校史料の収集、整理、公開プロジェクトをすすめられていた。

この海軍日本語学校の史料収集作業を最初にはじめたのが、同日本語学校出身者でもあるロジャー・ピノー(Roger Pineau)氏である。

彼は戦後、日本での米戦略爆撃調査に参加、その後海軍情報局をへて米海軍史研究室へと配属され、その後も国務省や様々な大学、研究機関と連携した仕事を続けていた。

そんな時、沖縄戦メモリアル構想を上原氏から持ちかけられたのである。

続く

 


 

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尖閣を狙う中国!香港に「尖閣」運動の新団体

2009-04-28 08:32:24 | 未分類

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戦後のどさくさがまだ落ちつかなかった1948年6月。

中国国民党の軍用機が、沖縄の石垣空港に強行着陸したが、同島駐留の米軍によって排除された。

石垣空港といえは、その3年前の1945年3月26日早朝、慶良間諸島を襲った米軍艦船の大群に決死の特攻攻撃をかけるべく、石垣市出身の伊舎堂大尉が慶良間を目指し飛び立った元帝国海軍白保飛行場である。

その日の早朝午前4時,特攻隊員伊是名用久大尉は、特別攻撃隊「誠第一七飛行隊」(四機編成)の隊長として「九九式襲撃機」に搭乗して石垣基地を出撃した。

座間味島を取り囲み島に「鉄の暴風」を降り注いでいた米艦隊に、果敢に《特攻》攻撃を加え、午前5時50分頃には慶良間諸島西方洋上の敵空母群に突入して散華した。

石垣市出身の伊是名用久大尉は陸軍士官学校第五十五期の満二十四歳、二階級特進で中佐となっている。

伊舎堂大尉が慶良間沖で散華した同じ3月26日、座間味島では米軍の猛攻でパニックに陥った多くの住民が集団自決をした。

伊舎堂大尉が見た沖縄の空と海

 
さて、国民党の航空機が強行着陸した1948年6月といえば、沖縄タイムスはまだ創刊しておらず(同年7月1日創刊)、

琉球新報が名前を変えて再出発したのは、さらに3年後の昭和26年(1951年)9月10日、サンフランシスコ平和条約締結をされてからである。

そのようなドサクサ状態に乗じて国民党は石垣島に事実上の占拠を試みたのであるが、

戦後米軍が沖縄に駐留していなかったら、現在の沖縄県の統治権はどうなっていたかわからない。

更には沖縄は国民党軍の進駐を受け、2.28事件という台湾の悲劇を沖縄住民が味わっていた可能性もある。


沖縄返還後も中国の侵犯に備えて駐留する同盟国に対し、あらわな敵意を見せる大浜石垣市長の愚劣さには言葉を失う。

同時にこれを英雄扱いで報道し、自衛隊の駐留にも敵意を示す地元新聞の愚劣さに再度言葉を失う。

香港に「尖閣」運動の新団体、親中派政党が支援?
【香港=竹内誠一郎】尖閣諸島(中国名・釣魚島)に対する中国の領有権主張運動の拠点となっている香港で、「保釣大連盟」と名乗る新手の団体が現れ、5月3日の反日デモを呼びかけている。
 団体は組織の実態を明らかにしていないが、親中派政党の支援で発足したと見られる。上陸強行などの過激な抗議行動で知られ、香港の「保釣」運動を13年にわたって支えてきた「保釣行動委員会」の陳妙徳会長は「我々には一言の連絡もない」と困惑している。

 複数の関係者によると、「大連盟」の発足には香港立法会(議会)で多数派を占める親中派の中心政党、民主建港協進連盟(民建連)がかかわり、代表は立法会議員を昨年落選した民建連所属の女性区議が務めているという。この区議は本紙に対し、大連盟のメンバーであると認めた上で、詳細を明かすことは拒否した。

(2009年4月27日  読売新聞)


                  ◇

石垣島は、同盟国アメリカの艦船の寄港には反対する一方、中国には気がねをして行政管轄権を有する尖閣諸島には視察を遠慮する媚中・反日市長が行政を司る地域だ。 

中国が新政党を組織し、尖閣領有を今まで以上に激しく主張することは当然だろう。

中国要人、沖縄視察へ 総領事館設置一環か2009年3月18日

 中国の全国人民代表大会の李建国常務副委員長(国会副議長)が25日から来日し、沖縄県を視察する方向で調整していることが17日、分かった。
 政権中枢に連なる中国要人の沖縄訪問は極めて異例。李氏側の希望だが、沖縄は在日米軍基地が集中している上、中国が領有権を主張している尖閣諸島にも近いことから日本政府の受け止めは複雑だ。
 県関係者によると、李氏をはじめ日中議員会議に参加する全人代代表団が28、29日に沖縄を視察する予定という。県は視察の際の案内など受け入れの手配を検討しているが、仲井真弘多知事と李氏との面談は現在のところ予定されていないという。
 沖縄は歴史的に中国と関係が深く、民間レベルで交流拡大を求める声が双方に根強い。中国は昨年、沖縄への総領事館設置を非公式に打診、日本側は武官が常駐した場合の「機密保持など安全保障上の懸念」(政府筋)を理由に応じなかった。中国は将来的な設置に向けた環境整備の一環として李氏の沖縄訪問を求めてきたとみられる。
 李氏は江田5月参院議長の招請で30日までの日程で来日。滞在中は江田氏との会談のほか、参院と全人代代表団による日中議員会議に参加する予定だ。

                     ◇

民主党の中国への「沖縄売り渡し政策」は夙に知られたことだが、その前段階として民主党は沖縄に「スパイ基地」を設ける予定らしい。

こんなお方も中国にべったりだし・・・    

 「花」を合唱し平和外交を

○・・・来沖していた中国・全人代の李建国常務副委員長(国会副議長)ら一行を、自身のライブハウスに招いた喜納昌吉参院議員(民主)。 中国でも任期が高い「花」を李副委員長と熱唱したり、「とても楽しい夜を過ごした」と喜ぶ。 「歴史的、地理的に関係の深い沖縄が中国と日本、アメリカを結び付ける重要な役割りを担っている」と平和外交の“大使”を自認。 「観光客が減少している今だからこそ、中国との関係強化を図り、誘客活動を展開するべきだ」とPRした。<記者のメモ>沖縄タイムス2009年3月31日

百戦錬磨の中国首脳にとって腑抜けの「平和バカ」を篭絡することなど朝飯前のことだろう。

何しろ、お題目のように「平和!平和!」と叫べば済むのだから。

この喜納昌吉というお方、北朝鮮に行って「武器を楽器に変えて平和になろう」とぶち上げたのは良いが、

「武器を集めてスクラップ屋(くず鉄商)でも始めるともりか」と問われて大汗をかいたとか(失笑)。

この人物が「平和を唄えば平和になる」とどこまでが本気で信じているかは不明だが、少なくともお相手をした国連安保理常任理事国である中国の李副委員長が信じていないことだけは間違いない。

中国が相手を篭絡する様はこのコラムが詳しい。

東海日報・コラム 2006年07月25日

指桑罵槐の裏を読めば


 よくやるよ――と思うのが中国の日本懐柔策あの手この手である。産経新聞が昨日付から中国の対日宣伝工作について特集を始めたが、そのタイトルに「友好の舞台裏」とあって、まさに表では友好を口にしながら、裏ではいかに日本国内世論を分断するかと秘術を巡らす中国政府の手口を紹介している。
 内容を要約すれば、要するに中国政府は利用できるものは徹底的に利用し、利用できないと分かる相手はこれまた徹底的に排除し、日本国内に親中派を増殖するため戦略的に宣伝工作を続けているというものである。
 こうした工作は中国のお家芸で、むろん相手に気づかれてはならない。さりげなくしかも当地方言でいえば「こそろに(こっそりと)」やるのをよしとする。これは情報戦の常道で、戦前から今日にいたるまでこうした老獪なやり方で日本はずいぶん煮え湯を飲まされてきた。なにせお人好しの国民性だから、あっさりとだまされる。日中友好とは決して互恵ではなく、あくまで中国を利するものでなくてはならないという原則を見抜かないとあとでホゾをかむことになりかねない。
 だが、現実には相手の思うツボにはまりつつある。これは中国四千年の歴史が育んできた生き残り術の精華であって、いかに相手を幻惑するか、戦わずして勝つかは「孫子の兵法」を生んだ国らしく極意に富んでいる。それに気付かず「日中間のノドに突き刺さった骨を取り除かなければならない」などと善意オンリーで取り組んでいると、しらず国益をおかす結果を招くことがあり得るのである。
 しかし日本人とてそこまで極楽とんぼでいられない。多くの識者(ここでは保守的といわれる人々で、むろん進歩的文化人はその範疇外である)が、中国政府のそうした高等戦術を見抜いてしかるべき対応を説いているが、なにせわが国のマス・メディアというのは反日・親中的だから中国のご機嫌を損ねるようなことは避けて書かない。ゆえに世論は素直に信じて、小泉首相の靖国参拝が友好を妨げていると考える。この問題に世論が二分しているのは、まさに婉曲な日本包囲網が徐々に広がっている証左であろう。つい先年までは中国が参拝云々を持ち出すことはなかったことからも、これは明らかに宣伝戦の効果である。
 中国には「指桑罵槐(しそうばかい)」ということわざがある。桑を指さしてエンジュをののしるということで、これは中国の遠交近攻戦略や、間接外交を表す言葉として最近とみに使われる?代名詞?となった。つまり「日本政府はけしからん」と直接指さすのではなく、周囲にそう思わせるようにすることだ。周囲とはむろん日本国民であり、みごとその術中にはまりつつあるのが国内世論というわけである。試しにポスト小泉の三候補(福田氏が一抜けたから)が揃って訪中したとする。
 胡錦濤主席が会うのは谷垣氏だけで、安倍、麻生両氏は冷淡にあしらわれるであろう。それは利用価値があるかないかが判断基準となるからである。実際「首相になっても靖国参拝はしない」と言明している谷垣氏を持ち上げることは中国の国益にかなうからである。その谷垣氏がハニートラップ(蜜の罠=色仕掛け)に引っかかったことは記憶に新しいが、その負い目がなお続いている印象を与えるのはマイナス要素であろう。
 いずれ中国が深刻な内政問題を抱え、いかに国内のガス抜きをするか国外にその利用材料を求めているのは明白で、この辺の事情を詳しく綴った杉本信行元上海総領事著「大地の咆吼」を読めば指桑罵槐戦略のすべてが氷解する。一筋縄ではいかないその外交、とりわけ対日宣伝工作が、国内の不満要素を取り除くためのきわめて必要性にかられた結果であることを思い知らされる。
 だが、そこは儒教の国である。戦略として必要ではあっても、向こうから近寄って来る人間は信用しない。利用するだけである。逆に信念を曲げない人間に裏では密かに信を置いているはずだ。媚びず、阿らず、諫言、直言することこそが互恵・平等、真の日中友好のカギであろう。     (英)

 

喜納氏の「平和外交」のついでに、「平和」についてしばし脱線する。

日本人の抱く概念の「平和」と言う言葉は国連安保理の常任理事国にはない。

少なくとも中国には「平和」と言う語彙は無い。

あるのは「和平」と言う概念だ。

「和平」の語源はPEACEだ。

そもそも「PEACE」とは「PACIFY(平定する)」と言う言葉の派生語だ。

要するに圧倒的軍事力が相手を平定し、そこに訪れる秩序が「和平」であって、日本の言う「平和」という概念は国連安保理では通用しない。

日本では「平和」は念仏のように唱えれば得られる物と思っている人が多い

曰く「平和憲法」「平和団体」「平和教育」等々。

黄門様の印籠じゃあるまいし、誰も「平和」の旗印に逆らうモノはいない。 

もしそんな勇気あるものがいたら、忽ち「軍国主義者」「右翼勢力」「ファシスト」等々のレッテルを貼り付けられて議論も何もあったもんじゃない!

特に「平和学習」が盛んなこの沖縄では。

 

沖縄を伺う中国の野望に話を戻す。

沖縄の琉球大学にはこんな工作員が「沖縄人の四人に一人は独立希望である」とデタラメなアンケートで中国に誤ったメッセージを送り続けている。

県立公文書館でも連続で講演会をして県民の洗脳に懸命である。

沖縄アイデンティティとは何か

講師の林先生 【演題】 沖縄アイデンティティとは何か 
【講師】 林泉忠 氏
(琉球大学准教授)

                      ◇

同盟国の艦船が寄港するのを僅か30人程度の左翼勢力が抗議運動する様を、あたかも島中が反対するように報じる新聞がまかり通る沖縄。

しかもその新聞でご高説を垂れる識者たちが米総領事への県民の暴力行為を褒め讃え、扇動する・・・、中国が「沖縄は中国の解放軍を待っている」といった誤ったシグナルをが受けたとしても可笑しくはない。

 

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第五章「ハーバービューホテルの決闘」 「1フィート運動」の正体

2009-04-27 06:21:19 | 未分類

上原氏と若い仲間たちが、右も左もない純粋な気持ちで沖縄戦の記録発掘のため立ち上げた「1フィート運動」は、

設立当初から「良識者」の仮面を被った沖縄の左翼勢力の卑劣な乗っ取り劇により左翼の巣窟と化してしまう。

彼らが、自分のイデオロギーの宣伝、浸透のために「1フィート運動」の名を有効に利用していることは前に書いた。

その典型的な例がこれだ。

白旗の少女の神話ー改定版

さらに最近では「集団自決訴訟」で被告側の弁護のため、くり返し「1フィート運動」の名を利用しているいることは周知のことである。

⇒ 「集団自決」の本質探る 1フィートの会 証言ビデオ制作【12月22日】  <謝名元慶福さん監督/慶良間は沖縄戦の縮図>

当日記でも「1フィート運動の会」が「集団自決訴訟」の被告側応援のプロパガンダ映画を作製して全国で上映会をしていることをエントリーした。

集団自決の映画制作 朝日が記事に

集団自決の島座間味で上映会 

 

「集団自決」の「平和ツアー」にも「1フィート運動」の名を表に出して、

1フィート運動⇒ 平和運動⇒ 「集団自決訴訟」被告応援

といった印象操作に懸命である。

「集団自決」悲劇学ぶ 1フィート運動の会が平和ツアー カメラ 2008年3月23日

「集団自決」など渡嘉敷島の戦争について語る吉川嘉勝さん(右)=22日、渡嘉敷島

 【渡嘉敷】子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会(通称・沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会)が今年12月に設立25周年を迎えるのを記念して渡嘉敷島平和ツアーが22日、行われた。同会の会員ら12人が参加し、渡嘉敷村教育委員長で「集団自決」生存者の吉川嘉勝さん(69)の案内で「集団自決」跡地、朝鮮人慰安婦の慰霊碑「アリラン慰霊碑」など島内の戦跡を回り、現場で当時の悲劇について考えた。
 同村北山の「集団自決」跡地で、自身の体験を語った吉川さんは「当時少なくとも500人以上がここに集まった。1カ所に集められなければ『集団自決』は起きなかった。赤松隊長本人が手記に『ここに集めたほうがいいと示唆した』と記している。閉ざされた地域での隊長の示唆は命令以外の何物でもない」と強い口調で訴えた。
 同会の福地曠昭代表は「教科書検定のように沖縄戦の歴史を歪曲(わいきょく)しようとする動きもあり、会の活動は今後も重要視されていくと思う」と述べた。フィールドワーク終了後は、村中央公民館で米軍の慶良間上陸実写フィルムなどの上映会が行われた。

                   ◇
 
上記引用は昨年の記事だが、「1フィート運動の会」は今年の3月22日には渡嘉敷島でフィルムの上映会を行う予定であった。

1フィート運動の会設立25周年記念企画
沖縄戦の歴史歪曲を許すな上映会

先日、座間味村で映画の上映会があったが、

渡嘉敷村での上映会は何故か延び延びになっており、予定日を過ぎても上映会が行われたという報道はなかった。

その渡嘉敷村でのフィルム上映会が一か月遅れて、一昨日の4月25日(土)にやっと開催された。

脱線するのは当日記の常なので、「1フィート運動の会」の渡嘉敷村での上映会の顛末に話は飛ぶ。

「1フィート運動の会」の上映会は約5~5人のスタッフで、大体次のような式次第で行われている。

プログラム
(1)沖縄戦・未来への証言(1986年作品・脚本 嶋津与志・55分)
(2)ドキュメント沖縄戦 (1995年作品・脚本 柴田昌平・57分)
(3)沖縄戦の証言  (2005年作品・脚本 謝名元慶福・35分)
(4)中村文子1フィートの反戦   (2003年RBC放送・33分)

 ちなみに中村文子とは沖縄の女性団体の大ボス宮里悦女史が上原正稔氏の後釜に1フィート運動の会の事務局長に推した人物である。

で、25日の上映会だが約300人収容の渡嘉敷村中央公民館に当日集まったのはスタッフも含めて約35人で、だだっ広い会場は閑散としたものだった。

スタッフを除いた約30名の参加者には新報、タイムスの通信員も含まれ、観光客らしき人が2~3人。他は地元の住民で戦争体験者の年齢層の方も5名ほどいた。 更に住民の中には移住者らしき人が7~8人ほどいた。

以下はたまたま上映会に参加した知人の情報を基に映画の感想を書いたもの。

新作ということで、当時の映像に少しは期待もしていたが、内容は案の定、米軍の記録映像は都合の良い所だけカットして使ったのか、断片だけで、殆どがタイムスの証言集で登場した人物の話だけで都合よくまとめられていた。

「1フィート運動」で米軍の記録フィルムを都合の良いように悪用して歴史を捏造する例である。

加えて赤松隊の本部跡の壕の映像では、小さな入口の映像のみを映して次のシーンで内部の映像には、長野県松代市の立派な司令部壕が、

あたかも赤松隊の本部壕でもあったかのようにナレーションで説明、印象刷り込みを行い、次に元慰安婦の証言や朝鮮人軍夫の証言等へと続く。

赤松隊の実際の本部壕の中は落盤していて現在入れないし、当時でもとても村民を収容する余地はなかった。 

つまり本部の映像をそのまま放映したら広大の本部壕に赤松隊がいたという印象操作が出来ないと判断して、何の脈絡もない長野県の壕の映像をツギハギしたものと思われる。

最後の部分には当時の前島区長の子息の証言が出てくるが、

要旨は「父は、隊長に島を守るため軍の駐留は必要かと聞かれ、時の校長と二人して『この島は自分たちで守りますから』と答えたので軍は駐留しなかった。」

つまり前島には軍隊はいなかったのだが、

「米軍は戦力のない島を攻めては来なかった→従って自決に追い込まれることもなかった。」となるべきところが、

「日本軍が居なかったので集団自決は起こらなかった」と言うこと言いたいらしい。

登場する証言者の話も、都合の良いところだけ取り入れ、継ぎ接ぎして捏造に近い。

当時の記録映像は一握りの被告側応援団が「目的を達成するために作った宣伝道具だといえる。

期待して観たが、「やっぱりなー」とがっかりした。

これはフィルムを観た知人の総体的感想。

ウソも繰り返せば歴史になる。

そのために「1フィート運動」制作の映画がツギハギ映像を「繰り返し繰り返し宣伝する」・・・これはナチスの情報相ゲッペルスによる手法である。

どんな意見、思想でも繰り返し何度でも伝えることによって正当な物に感じるようになる。

続く

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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あばかれた「神話」の正体
鴨野 守
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重要告知ー『あばかれた「神話」の正体』発売!-田母神沖縄講演会

2009-04-26 00:03:12 | ★集団自決

 

 

今日はお知らせが2件です。

お知らせその1。

集団自決を扱った『真実の攻防』シリーズでお馴染みの鴨野守さんが、長年の精力的取材・検証の結果を満を持して出版した『あばかれた「神話」の正体』が発売されました。

最高裁判決を前にして、是非裁判の真実を知るためにお一読をお勧めします。

 

『あばかれた「神話」の正体』  
沖縄「集団自決」裁判で何が明らかになっているのか
鴨野 守 著    1,680円


・「大江健三郎氏たちへの断罪を岩盤に刻み、
         赤松・梅澤両氏の潔白を末代まで伝える本」

・「自決するな」と隊長は厳命した!
         
・「軍による強制」という神話は、いつ、誰によって、
          いかにして作られたか。

・続々と重い口を開きはじめた当事者たちが語る事件の真相とは? そして、いまこそ真実が明かに!

渡部昇一氏推薦

推薦の辞
アメリカの日本占領政策の基本の一つに、「軍民分断」があった。
それをいつの間にか忘れさせられて、日本国民と日本軍は相反する立場にあったという史観が蔓延してしまった。
支配階級と民衆を分断して論ずるやり方―これは左翼の特徴的論法である。
「われわれの敵は日本軍閥であり、日本民衆でない」という発言は、中国共産党からもよく言われていたことを記憶している人もあるだろう。
そもそも大陸で日本軍が動かざるをえなくなったのは、そこにいた普通の日本人の生命財産が犯されたからであることをかくして、アメリカの占領軍も、これと同じ手を使ったのである。
元来、日本軍の将校も兵士も、同じ村や町の出身の普通の人たちであり、「兵隊さん」は親しいものだった。二、二六事件の時も、普通の人たちが見物に出かけても、こわくなかったぐらいである。
これではアメリカが困るのだ。日本軍は民衆と隔絶した鬼畜の如きものでなければならない。この使い易い材料として沖縄の二つの小さい島が利用された。
つまり「集団自決」は、島民の自発的意思ではなく、「軍の命令だった」ということにされたのである。そして軍民分断は左翼の最も好むところであるから、朝日新聞をはじめとして、この沖縄の「神話」―本当は「詐話」―を徹底的に利用した。
戦前の日本軍を知る者の中には「本当だろうか」と疑うノーマルな人もいた。
曽野綾子さんが実地で聞き取りをして、『ある神話の背景』を書いたら、彼女は右翼にされてしまった観があった。
しかし真実は強い、その後も続々と重要な証言が出てきた。証拠も出てきた。
それなのに、詐話を堅持しようという勢力は大江健三郎氏をはじめとして反省の色を見せない。
著者の鴨野氏は、日本共産党の機関紙「赤旗」に連載され、その後単行本としてベストセラーとなった森村誠一氏の『悪魔の飽食』(正・続)の写真や記述の重大な間違いを指摘し、また広島県の校長自殺問題でも、最も大胆な、また最も信頼できる正確な本を書いた人である。氏が「沖縄集団自決」という話に、最も信頼できる本を書いてくれたことを、日本人の一人として感謝したいと思う。
真実は強い、裁判における判決はどのようであっても、大江健三郎氏たちに対する断罪は永久に、岩盤に刻まれた碑文の如く残るであろうし、守備隊長だった赤松、梅澤両氏の潔白も子孫に伝えられるであろう。

 

内容紹介
沖縄戦の初期、慶良間諸島の渡嘉敷島と座間味島で住民の集団自決が起こった。従来自決は「日本軍による強制」によるものというのが定説だったが、その後生存者や関係者の新たな証言が明らかになるにつれ、それが事実無根である可能性が高まっている。そのため出版物や教科書でも従来の記述を改めつつあるが、一方でその記述を一貫して改めようとしないのが、大江健三郎氏の『沖縄ノート』である。今回、その命令を下したと名指しされた本人とその家族が、大江氏と出版元の岩波書店を相手取り、記述の訂正を求める訴えを起こした。本書は、裁判の経緯を追うとともに、「軍の強制」が、いつ誰によって、いかなる思惑をもって作られていったのか、なぜ、それがいままで明かされて来なかったのかを、丹念な取材を通して解き明かす。
渡部昇一氏が推薦の辞を寄せ、その中で「本書の著者である鴨野氏は、ベストセラーとなった森村誠一氏の『悪魔の飽食』(正・続)の写真や記述の重大な間違いを指摘し、また広島県の校長自殺問題でも、最も大胆な、また最も正確な本を書いた人である。氏が沖縄集団自決という話に、最も信頼できる本を書いてくれたことを、日本人の一人として感謝したいと思う」と述べている。

著者について
昭和30年富山県生まれ。金沢大学教育学部卒業。ジャーナリスト。「世界日報」編集委員。校長自殺で国会でも議論となった広島の教育問題を2年半にわたって丹念に取材し、『広島の公教育はなぜ崩壊したか』『広島の公教育に再生の道はあるか』(いずれも世界日報社刊)にまとめて、大きな反響を呼ぶ。「戸塚ヨットスクール」に2カ月体験入校して取材に当たるなど、体当たりの現場取材を信条とする。
 
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鴨野 守
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沖縄紙では、4月28日付琉球新報で、この一冊で半5段で広告の予定。

全国紙では、30日に朝日で、半5で同時新刊の本と一緒に掲載と聞いています。

                   ◇

 

 

お知らせその2。

田母神俊雄前空幕長 沖縄講演会

昨年10月、民間の懸賞論文へ応募した作品が日本の過去の侵略行為を正当化する内容で政府見解と対立するものであったとして航空幕僚長を更迭され、空将として定年退職した田母神俊雄氏がいよいよ沖縄にやってきます。論文の意図したものは何だったのか。 今、日本にとって何が必要なのか。将来の日本と日本人はどうあるべきなのか。 田母神俊雄氏が沖縄県民の皆様に直接語りかけます。
ご多忙とは存じますが、県民の皆様方には万障お繰り合わせの上、多数ご参加くださいますようお願い申し上げます。


演題  「日本は本当に侵略国家だったのか」

       -日本の歴史をもう一度見直そうー

【日時】  平成21年5月30日(土)午前11時30分受付
       正午開会~午後2時閉会

【会場】 パシフィックホテル沖縄 万座の間 
      那覇市西3-6-1  電098ー868-5162

【会費】  1000円

【主催】  田母神俊雄を歓迎する沖縄実行委員会

【連絡先】 沖縄実行委員会 担当 錦古里
       電話: 090-9780-7272  FAX: 098(868)3037

★懇親会(14:30~16:30)

講師を囲んで食事を含めた懇親会を行います。
お時間の許す限り、お気軽にご参加ください。

【会場】 パシフィックホテル沖縄
      

【会費】 5000円 (70名限定)

 ※懇親会で次の訂正がありました。

会場: ×かりゆし琉球⇒ ○パシフィック

時間: ×18:00~20:00⇒ ○14:00~16:30

 

 

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秦 郁彦
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第四章「ハーバービューホテルの決闘」

2009-04-25 06:19:15 | 未分類

 

太田元知事の子分である宮城氏に話が及ぶと芋ずる式に話が脱線していくので、現代のキジムナーこと上原正稔氏と太田氏の乱闘の経緯に話を戻す。

上原氏は従来から活動を共にしていた若者集団に、沖縄の識者を「箔付け」のため参加してもらい、

1983年の12月8日、沖縄戦記録フィルム収集運動(1フィート運動)を正式に開始することになる。

マスコミの反応は凄まじく、新聞テレビは連日「1フィート運動」の発足を報じた。

だが、そのとき既に「ハーバービューの決闘」の原因となる火種が組織内部で燻っていた。

発足の当日、会場で事務局長の上原氏が用意した声明文を福地曠昭氏が読み上げていたとき、突然声明文にない文言を発言し始めた。

「上原君は若いから事務局長は誰か外の人にやってもらおう」と、宣言したのだ。 それも事前に上原氏に一言の了解もなく。

会発足の日に、突然のクーデター劇が起きて、結局上原氏は否応なく事務局長を外されてしまったのである。

後に分かったことだが、この運動に共鳴して協力的だった那覇市役所職員の宮里千里氏が、「実は福地さんから事務局長になってくれと頼まれたが断った」と告白していた。

この運動を最初から立ち上げた上原氏に事前に一言の相談もないのも不可解だが、何よりも福地氏は上原氏に依頼されて後から「広告塔」的意味合いで参加したはずだが、その「広告塔」が事務局長を追い出すというのも実に不可解である。

これは純粋に沖縄戦史を解明しようという上原氏の姿勢が何者かの逆鱗に触れた結果、会発足早々からクーデター劇に至ったのではないか。

その何者かが、会の性格をイデオロギーで染めてしまうのに上原氏は邪魔者だと判断して、強引に上原氏を排除したのではないか。

福地氏が用意された開会宣言に付け加えた文言のウソがあることでも、上原排除劇の強引さが分かる。

上原氏は当時40歳になったばかりの働き盛り。

決して若いから不適当だといえる年齢ではない。

何よりも不可解なのは福地氏が上原氏の代わりに事務局長を依頼し断られた宮里千里氏は上原氏より7歳も若いということだ。

これだけをみても上原氏の追放劇が強引過ぎると分かる。

更にこのクーデター劇の真相を示す事実が次々と判明してくる。

沖縄の新聞などで我が物顔にその偏った考えを披露している「識者」にとって、読者は馬鹿に見えるのか

読者や一般県民は無条件に自分らの考えを受け入れてくれる従順な羊のような存在だという驕りが見られる。

だが、彼らの傲慢不遜な考えに反発を持ちながらもそのはけ口のない現状に悶々としているサイレントマジョリティがいることを忘れてはいけない。

上原正稔氏を1フィート運動から追放する策謀が次々と内部告発も含め明らかにされてきたのだ。

先ず、生協(沖縄県民生活協同組合)の上仮屋貞美事務局長が「上原君にこの運動を任せると、反戦運動の映画どころか、戦争賛美の映画さえつくりかねない」との怪文書を1フィート運動の運営委員会に配っていたことが内部告発により判明する。

上仮屋氏は更に那覇市立中央図書館長の外間政昭・米子夫妻と連日のように市立図書館で上原氏の追い落とし工作を練っていた。

今から立ち上げようという1フィートの会の主導権を巡って別のグループも水面下で策動した。 

沖縄の各種婦人団体の大ボスともいわれる宮里悦女史が事務局長の椅子を自分の子分の中村文子氏に与えて会の主導権を婦人連合会で握ってしまおうと動いたのだ。

一方太田昌秀氏は自分の子分の一人保坂氏(当時琉球大学助手で後に教授)を事務局長に推薦した。 

トンビに油揚げをさらわれるようにして自分達が苦労して立ち上げた1フィート運動を乗っ取られた上原氏に対して、

仲宗根政善氏は「上原君、苦しいだろうが我慢してくれ」と慰めたが、太田昌秀氏は「私のメンツをつぶすな」と怒鳴った。

沖縄戦の記録を発掘し、その真相を解明するのには右も左も関係なく識者たちが一致協力してくれるものと純粋にも信じていた上原氏は、

これまで尊敬していた沖縄の識者たちが、実はイデオロギーのみならず自分の名誉欲を満足させるためには手段を選ばない我利我利亡者の集いであることに気がついた。

上原氏が遅まきながら振り返って見ると、「1フィート運動」で最もショックを受けたのは「反戦平和」を主張している文化人や団体だったのだ。

彼らは何かというと「反戦平和」を金科玉条に拳を突き上げるが、その拳は自分のイデオロギーや名誉欲達成のために天に向かって叫んでいるに過ぎないのだ。

自分達の醜悪な目的達成の為には真実の解明は犠牲にしてでも、「反戦平和」の名の下に、上原氏とその仲間を抹殺し、若者たちの純粋な夢を奪って平然としていた。

彼らの偽善に満ちた態度に、上原氏は大きな犠牲を払ったが、一つ大きなことを学んだ。

沖縄の識者が唱える反戦平和とは鬼畜米英の裏返しのお題目であり、それを美化するための単なる標語に過ぎないということを上原氏は学んだのだ。

以後、上原氏は沖縄戦の真実を解明するのに右も左も無いと公言して、いわゆる沖縄戦研究者とは離れて独自の活動をするようになる。

さて、40歳が若すぎるという理由で事務局長の座を追われた上原氏だが、

沖縄の女ボス宮里悦女史の息の掛かった人物であれば、

ご高齢の中村文子女史でも事務局長の座が務まることになり、何とかの賞までもらえるのだから、沖縄の新聞記事は相も変わらず「大文字言葉」で溢れていることになる。

以下は今では左翼集団の牙城と化してしまった「1フィート運動」を報じる記事。

「1フィート運動の会」発足当時の、名誉欲の亡者たちのドロドロとした権謀術とそのイデオロギー的性格を知る人が読めば,

「地道な活動に取り組んできた云々」の受賞理由には爆笑してしまうだろう。

地の塩賞受賞/「1フィート」の中村文子さん 
2001年12月9日
  地道な活動に取り組んできた女性に贈られる「白井博子・地の塩賞」の実行委員会(東京)はこのほど、第三回表彰として沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会事務局長の中村文子さん(88)に同賞を贈ることを決めた。県内からの受賞は初めて。12日午後6時から那覇市女性センターで表彰式が行われる。
  同賞は平和と人権の女性誌「あごら」(東京)が中心となり、平和と女性運動に取り組んできた故・白井博子さんを記念して1999年に設立された。
  中村さんは長年にわたる1フィート運動の取り組みなどが評価された。
  中村さんは「引っ張られても抜けないような強い草の根のように平和を守りたいと思ってきた。地の塩も草の根と同じように大切なもの。受賞は大変ありがたく、後輩とともに地の塩の大切さを考えていきたい」と受賞を喜んでいた。問い合わせは事務局03(3354)3941。

                   ◇

 

新報特別賞の受賞喜び合う 一フィートの会記念の集い(2005.8.12)

琉球新報特別賞の受賞を喜び合う一フィート運動の会の関係者ら=11日夜、那覇市の八汐荘

 平和運動への貢献が認められ、6月に琉球新報特別賞を受賞した沖縄戦記録フィルム一フィート運動の会(福地曠昭代表)は11日、那覇市松尾の八汐荘で「受賞記念の集い」を開催した。会場には50人以上の関係者が集まり、受賞を共に喜んだ。
 福地代表は「戦争のことだからお祝いというよりも、評価は評価として頂き、賞に応える活動を続けていくことがわれわれの使命だと思う」と語った。
 中村文子事務局長は全県民からのカンパに感謝し、「体験者が少なくなっていく中で、平和を希求する心と戦争に反対する行動力をどう育てていくのか。沖縄戦を二度と繰り返さず、沖縄、世界の恒久平和のために精いっぱいの努力を続ける」とあいさつした。(略)

                  ◇

上原正稔氏を追い出して、「1フィート運動の会」の事務局長や会長職の椅子を、沖縄の識者、いや、名誉欲の亡者たちが奪い合う理由は何なのか。

その最大の理由は「1フィート運動」のいかにも地味に見える草の根運動的印象にある。

創始者の上原氏が純粋に考えた「数多くの県民から1フィートにつき100円の寄付を仰ぐ」という発想が、

この団体は地道に沖縄戦の記録を発掘するイデオロギーに無関係な識者の集いという印象を与える。

イデオロギーと名誉欲の亡者達は、自分の策謀を「1フィート運動」の世話役という中立的印象で思想ロンダリングして次々と政治的発言をしていく。

これが彼らが「1フィート運動の会」にこだわる最大の理由である。

「1フィート運動」を隠れ蓑にした沖縄の識者たちの左翼活動の例を一部拾うとこのようになる。

「つくる会」教科書の県内採択やめて/1フィート運動の会が要請 

 改憲阻止をアピール 「沖縄・女性九条の会」結成2006年2月15日

「自由の侵害」「押しつけ」/国旗国歌法案/県民に募る危機感/反対運動強化の声も

 続く

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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無礼な中国の言いがかり! 麻生首相の靖国奉納へ

2009-04-24 06:58:53 | 県知事選

 

 

 戦争も外交も、外国との関係を調整する手段であるという事実から論ずれば、クラウゼヴィッツが『戦争論』で言う「戦争は政治(外交)の延長である」は外交の真理を突いていて正しい。

日本が主権国家を自認するならば、主権国家は何ものからも指図を受けることのない至高の存在である故、他国が日本に命令・指示することはできない。

だとすれば、日本が外国との関係を調整するためには、話し合いで一致点を求めるには外交か、力ずくで戦争に訴えるしか解決の方法はない。

だが、戦争がハイリスクでハイコストであることは貴重な歴史の教訓である。

そこで可能な限り外交で問題を解決するのが世界の常識と成っている。

だが、建前上は友好を掲げた外交でも、法衣の下に鎧をちらつかせるのが外交の常道であり、恫喝や圧力を伴わない外交は常に相手の意のままに従う屈辱的結果に終わる。

「相手の嫌がることはしない」という平和ボケ首相は論外としても、外交の裏には軍事力による恫喝や圧力で自国の有利な条件に導くのが外交の要諦である。

 

首相の靖国供物奉納に「不満」  中国、日本に表明
 【北京23日共同】中国外務省の姜瑜副報道局長は23日、麻生太郎首相の靖国神社への供物奉納に対し、外交ルートを通じて日本側に「不満」を表明し「誤った行為」が日中関係に深刻な影響を与えるとして歴史問題での慎重な対応を求めた、と発表した。

 姜氏は21日の定例記者会見でも、日本側に慎重な対応を求めるとの見解を表明したが、歴史問題に対する中国国内での根強い対日批判に配慮し、あらためて抗議したとみられる。

 姜氏は「日本政府が歴史問題を適切に処理することが日中関係の政治的な基礎」と指摘。日本側はこれまでの中国側との約束を守り「言行一致」で対応すべきだとしている。

2009/04/23 14:03   【共同通信】

                    ◇

中国様にご注進するのをお手柄と思う共同通信なので、報道内容をそのまま鵜呑みにはし難いが、

もし共同が報じる通り中国が不満をあからさまに表すようだったら、安倍首相はそれに対して毅然とした態度で反論しておくべきである。

今回の靖国神社への供物奉納は「国のために戦って亡くなった方々に敬意を表し、ご冥福をお祈りするため奉納した」という日本国民なら当然の行為であり、本来なら首相自ら靖国神社に赴いて参拝すべきが首相自身の本音であったはず。

その証拠に、麻生首相は過去に総務相当時は参拝していたが、首相就任後は靖国参拝について「首相の立場は個人的信条と異なっているが、状況を見て判断したい」と中国の立場に「適切かつ慎重に」考慮した今回の奉納という譲歩ではなかったのか。

一方が譲歩したら相手も相応に譲歩すると考えるの日本人的美徳ではあるが、外交、特に中国を相手の外交に日本人的美徳は屁のツッパリの役目も果たさない。

こちらが譲歩すれば、その分だけ自分の条件のハードルを高くするのが、中国外交であるということは今回の中国の「不満」や「誤った行為」の文言で明確である。
 
中国の立場を考えて適切かつ慎重に対応した結果、遺族やの国民の強い要望に対し供物奉納という妥協の手段で我慢してもらったのだ。

その「熟慮・・」結果を、「誤った行為」と断じるなら、小泉前首相が言った「何をしても(中国から)文句が出るなら8月15日に参拝した方がよい」という名言を思いださす必要がある。

小泉元首相に倣って、麻生首相自ら「来る8月15日には靖国参拝をする」と宣言することだ。

さうすれば、靖国参拝は攻守所を変えて、今度は日本側の強力な外交カードになり得る。

「つべこべ抜かすと靖国に参拝するぞ」と。

小泉首相時代に、靖国問題は外交カードにはならないと悟った中国だが、ここに来て残り少なくなった外交カードみ再度靖国を組み入れようとする魂胆が見て取れる。

その中国の目論見を後押しするのが、次に引用のニュースだ。

情報戦も戦争の延長戦だと一つければ、中国は一方ではお特異の友好平和を唱えながら、他方では常に情報戦の攻撃の的を日本に絞っている。

言論の自由を認めず、自国を批判する論調は厳しく規制する一方では、このように日本を非難誹謗する映画などの上映は野放しにしている。

その点、外国人はおろか日本人まで日本を貶める出版や映画を野放しにしている日本は情報戦では中国に対し連戦連敗の体たらくである。

残虐強調…中国映画「南京」公開 暴行・殺戮シーンに観客悲鳴
2009.4.22 19:06
 【上海=河崎真澄】いわゆる「南京虐殺事件」をテーマにした中国映画「南京!南京!」(陸川監督)が22日、上海など中国各地で公開された。事件をめぐる認識は日中で異なるが、全編を白黒フィルムで製作するなど記録映画に似せた手法が使われ、観客には映画の内容が、さも“史実”であったかのような印象を与える演出となっている。

 陸監督など平均35歳という若い中国人スタッフが4年をかけて製作した。「従軍慰安婦」とする中国女性を多数出演させ、暴行や殺戮(さつりく)シーンをことさら残虐に強調した。この日、初上映された上海市内の映画館では20代の若者がめだち、女性への暴行、大衆の殺害シーンでは観客の悲鳴や激しい怒りの声が渦巻いた。

 一方、主人公の若い日本兵を上官の命令で虐殺を強要された「軍国主義の被害者」と描くなど、反日一辺倒ではないストーリーに仕立てた。この日本兵が最後に中国人を逃して自殺するシーンがあり、映画を見たOLの陳維蔚さん(29)は涙をふきながら、「日本人の人間としての一面も見て印象が変わった」と話した。

 さらに、29日には「南京虐殺事件」を扱った中独仏の共同製作映画も公開されるほか、来月4日には1919年に中国全土で起きた大規模な反日運動の契機となったデモ「五・四運動」から90周年を迎える。このため日中関係筋では「一連の動きが日中間の新たな火種になる恐れもある」として神経をとがらせている。
    

日本人俳優が号泣、『南京!南京!』の試写会で

Y! 2009/04/23(木) 14:42
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  陸川監督の映画『南京!南京!』の試写会が17日に浙江省の杭州大会堂で行われ、会場は杭州の観客たちの熱気で包まれた。ある観客が日本人俳優の中泉英雄さんに、この映画に出演した気持ちをたずねた時だった。会場からは「打倒帝国主義」や日本語で「バカ」と罵る声が上がった。

  中泉さんは少し気まずそうな表情を浮かべて黙りこみ、会場の雰囲気が重くなった瞬間、「日本人の俳優に対してこんなふうなのはよくない」や「彼らは尊敬すべき人だ」、「彼らは勇敢です」と観客が叫び、熱烈な拍手が送られた。そして拍手が鳴り響く中で、「ありがとう日本の友人」と日本語で叫ぶ若い観客までいた。

  拍手の音は止まらなかった。『南京!南京!』の出演者たちは感動し、中泉さんも通訳の人から中国の観客が言った言葉を聞いて涙を流した。

  休憩室に戻った中泉さんが突然激しく泣き出したため、映画館の責任者が嫌な思いをさせたと謝ると、「違います。私は中国や中国の人たちがすばらしいと思ったのです。侵略も戦争もしてはいけない。永遠にしてはいけないのです」と中泉さんは言ったという。写真は『南京!南京!』の試写会での様子。

                        ◇

麻生首相の靖国奉納に話題を戻す。

中国のイチャモンに対して、麻生首相が毅然と反論できるかどうか。

これが、靖国問題という外交カードを、再度中国の手に渡すか、それとも日本が奪還するかの分水嶺になる。

麻生首相よ次のように反論せよ。

「これ以上他国の内政干渉をするなら、自国民の要望通り靖国に首相自ら参拝するぞ」と。                        

 

 

                                     

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第三章ハーバービューホテルの決闘

2009-04-23 07:12:24 | 未分類
 

 

 

一見まったく接点がないように思われる太田、上原の両氏だが、沖縄戦記を出版しているという点で同じ分野にあると前に書いた。

その二人が那覇市の最高級ホテルの宴会場で衆人環視の中、取っ組み合いの乱闘劇を演じた原因は一体何であったか。

その原因を辿ると、二人が始めて対面したときからお互いの胸中に爆弾の火種を抱えていたことがわかる。

時は「ハーバービューの決闘」から更に約10年遡る。

上原氏がまだ40歳になったばかりの1983年、ある出版パーティーの席上で初めて二人の怪人は歴史的対面をする。

その頃上原氏は若い仲間役10名とチームを組んで米国公文書館から沖縄戦の資料を精力的に発掘していた。

それが地元マスコミにも知られるようになり沖縄戦の資料発掘では少しは知られた存在になりつつあった。

初対面の時は意外にも最初に声をかけてきたのは当時は琉球大学教授をしていた太田氏の方からだった。

「上原君、いい仕事をしているじゃないか」

太田氏との歓談の中で沖縄戦の映画フィルムの話題がでた。

今から考えると太田氏は一匹狼的存在の上原氏の実務能力と行動力を見くびっていたのだろう。

どうせ出来るはずもないとおもったのか、それとも自分のパシリにでもしてこき使おうと思ったのか、次のように話してきた。

「フィルムはアメリカに多数あるはずだが、誰も入手していない。 君の手で集めてみてはどうか」

当時の若い上原氏には琉球大学教授である太田氏が後に分かるような売名欲の塊であるとは知る由もなかった。

その頃上原氏の頭にはフィルムに関する壮大な構想が湧き上がっていた。

沖縄戦記の出版では高名な大学教授の一言で、若い上原氏は勇気百倍、早速行動に取り掛かかった。

何事でも人間が行動を起こすにはそれなりの資金が要る。

ましてや何度も太平洋を往復して米国公文書館から資料を発掘するにはかなりの活動費が必要だ。

これまでも一匹狼的活動をしてきた、上原氏は少数の大口の資金援助を受けるより、誰でも気軽に支払える小額の援助金を広く集める構想を練った。

県民一人一人がフィルム1フィートにつき100円出せば充分な資金があつまり、世のため人のために尽くせるという上原氏の構想に無名の若者たちはやる気満々であった。

だが、たとえ100円といえども人様から浄財を集める為にはそれ相応の信用が必要である。

若者たちの純粋な気持ちに同意してくれる人はいるとしても、より多くの県民にこの運動の趣旨を理解してもらう為には県内で知られた「識者」を運動に参加させえた方が理解は得やすい。

県民の理解を得るために純粋に燃えた上原氏は、新聞などでその名を知られた「識者」たちを訪ねて運動への参加を依頼した。

それまで一匹狼的行動をしていた上原氏は「識者」に面識はなかったが、出会って説明すると、皆、快く協力してくれるといった。

そのとき上原氏が何の疑いもなく「箔付け」のため協力を依頼した10名の「識者」の中には、仲宗根政善、牧港篤三、宮里悦、外間政彰、福地曠昭、宮城悦二郎、太田昌秀といったお馴染みの名前もあった。

列挙した名前を見て、事情を知る人なら殆どがイデオロギー臭のする人物だとわかるはずだ。

沖縄で沖縄戦を語る有名人を辿っていけば当然のことながら沖縄タイムスが発信する「鉄の暴風史観」に染まった人たちに行き当たる。

これは沖縄の言論空間を考えれば、仕方のないことともいえる。

ちなみに、太田昌秀氏はさておいても、牧港篤三氏は元沖縄タイムス記者で『鉄の暴風』の執筆者の一人であり、現在も運動の会長を務める福地氏は復帰前からの左翼の闘士である。

また宮城悦二郎氏は、琉球大学教授だった太田氏の誘いで、米軍の機関紙の記者から琉球大大学教授になった人物で、英語が堪能なので資料収集などで太田氏の第一の子分であることは知る人ぞ知る事実である。

太田氏の県知事時代の1995年に開設された県公文書館の初代館長に宮城氏が就任したことは、太田氏が知事職以外の自分のアルバイトである沖縄戦の資料収集に、自分の第一の子分を配属させ、知事辞任後の沖縄戦史の出版のため、公費を使って米国民政府文書などを収集させたことになる。 太田氏は名誉欲の達成の為なら、なかなか悪知恵の働く男らしい。

宮城悦二郎氏は沖縄紙の紙面では識者として著名であるが、その一方、太田氏の子分として大活躍した事実は、太田知事時代に創設した反日思想のメッカとも言われる「沖縄県平和祈念資料館」の監修委員会会長を宮城氏が勤めたことでも分かる。

同資料館は太田知事から、稲嶺知事に政権が変わったとき、「子供を抱いた親子に日本兵が銃剣を向ける人形像があまりにも反日的」という理由で、

日本兵が持つ銃剣を壕の外部に向けるように作りなおす話が持ち上がった。

だが、太田氏が腹心として残しておいた宮城氏などの扇動もあって県内マスコミが稲嶺新知事を連日のように猛攻撃し、結局は従来通り「親子に銃剣を向ける悪逆非道の日本兵」という太田氏のメッセージは守られたママに放置されている。

 

当時の状況を伝える以下の記事はお約束通りの「大文字言葉」で書かれており、事情を知る者にとっては誠に噴飯モノである。

 新県平和資料館で開館式典  2000年3月30日
  沖縄戦の実相を次の世代に正しく伝えるため糸満市摩文仁に完成した新しい県平和祈念資料館が29日午後、開館記念式典を迎えた。
  式典には稲嶺恵一知事、友寄信助県議会議長、監修委員会ら多数の関係者が出席し、新たな平和発信拠点の誕生を喜んだ。
  稲嶺知事は式典で「新資料館が平和を何よりも大切にする沖縄の心を世界へ発信する拠点施設になるものと確信している」と述べ、新資料館が果たす役割に期待を寄せた。式典後、稲嶺知事、友寄議長、宮城悦二郎監修委員会会長、米須小学校5年の上原正稔さん、神里美加子さんらによるテープカットが行われ、多くの関係者が常設展示室を見学した。
  稲嶺知事は監修委員会の宮城悦二郎会長の案内で展示室を回り、銃が途中で取り外されたとして問題になったガマの模型展示や戦後の沖縄の展示などを見学した。見学後、稲嶺知事は「素晴らしい内容になっている。展示は戦前、戦後の流れを整理しており、大変感動を覚えている。関係者の努力に感謝したい。沖縄の誇るべき一つの財産で、各地各国から来られる多くの人に見ていただきたい」と話していた。
  また
昨年に表面化した展示変更問題について「私は一番大事なのは、きちんとした平和祈念資料館を完成させることが責務であると話している。きょうは大変うれしく思っていると同時に、ある意味ではほっとしている」と述べ、開館を迎えたことに安堵(あんど)感を表していた。
  同資料館は4月1日と2日は一般無料公開され、3日は休館日で、4日から通常開館となる。
  開館時間は午前9時から午後5時まで(常設展示室への入室は午後4時半)で、入館料は大人300円、小人150円。
 
 写真説明:監修委員会の宮城会長(左)の説明を受けながら、銃を手にした日本兵の展示を視察する稲嶺知事(右)=糸満市摩文仁の県平和祈念資料館
 
 評価と不満の声 交錯/注目集めた壕模型/監修委、きょう最終確認
 
  開館式典を迎えた新しい県平和祈念資料館。式典後の関係者への内覧会では、沖縄戦に加えて沖縄戦前後の歴史も併せた展示を真剣なまなざしで見学する人の姿がみられた。見学者からは「素晴らしい展示内容になっている」と喜びの声がある一方で「今後も実相から外れないよう監視が必要だ」との声も聞かれた。初めて最終的な展示を目にした監修委員は展示内容が軌道修正されたことを評価しながらも「展示作業はまだ完全ではない」と指摘し、複雑な思いをのぞかせた。
 
 
日本兵から銃が取り外されて問題となった壕(ごう)模型には多くの見学者が熱い視線を注ぎ、迫りくる戦車の音、砲撃弾の音、ひんやりとする壕内の温度に沖縄戦の追体験をした。稲嶺恵一知事も監修委員会の宮城悦二郎会長の説明に緊張した面持ちで一つひとつうなづきながら、聞き入っていた。
  展示を見学した関係者からは「沖縄が誇れる資料館ができた」「県民世論で沖縄戦の実相を歪めることは免れた」など評価する声が次々に挙がった。
  初めて展示全体を見た監修委員会の新城俊昭委員は「何と言っても現物資料が足りない。それは時間も人も十分でなく、資料を探しに行くことすらできなかった。展示パネルでは間に合わないところもあり空白部分が目立った」と展示が万全でないことを残念がった。石原昌家委員は「県民世論の後押しで、監修委員会の承認案が通った展示になった」と述べ、展示が監修委員会の検討結果を尊重したことについては評価した。
  安里英子委員は「百パーセントではない。微調整が必要」、星雅彦委員は「まだ展示されていない展示物があった」などと一様に問題点が挙げ、県が開館を急いだあまりに生じたしわよせを指摘した。監修委員会では30日に開かれる同会で最終確認し、調整していきたいとしている。
 
 写真説明:ベトナム戦争のころの基地の町や商店が再現され、訪れた人たちの目をくぎ付けにしていた=糸満市摩文仁・県平和祈念資料館
 
 宮城悦二郎監修委会長に聞く/「住民の視点」の理念守って/責任を持って最後まで監修
 
  最終的には昨年3月の監修委員会で承認された案に沿う形での展示内容に落ち着いた新しい県平和祈念資料館。同館の監修委員会(宮城悦二郎会長)は約5カ月間で展示説明文の作成などの現場作業と並行して精力的に監修作業をしてきた。県行政による展示変更問題で、揺れた新資料館の開館式典が29日行われた。展示作業にかかわった同会の宮城会長に資料館の課題や展望を聞いた。
  -開館式典を迎えての感想は。
  「開館できて、ほっとしている。監修委員の先生方は五カ月という短い期間、開館に向けて熱意と誠意を持って作業をしていただいた。展示変更問題でゴタゴタが続いたが、資料館の展示は監修委員会で承認したものになっている。それは、県による展示変更を県民世論が許さなかったからだ。だがまだ展示されてないものもあり、若干調整が残っている。責任が持てるよう最後まで監修したい」
  -開館式典後、監修委員会が展示の最終的な監修をすることについてどう思うか。
  「開館を急ぐあまり、手順が間違っている。本来、委員による最終的な監修を終えてから、開館式典を行うべきだった。なぜなら同館の基本理念が監修委員会で修正が決まっているにもかかわらず県は修正せずに展示した。県からの説明も一切ない。修復されつつあった信頼関係もまた崩れていく。ほかでも誤りがないか、30日の監修委員会ではっきりしたい」
  -新資料館に望むことは。
  「運営協議会を早急に発足し、企画展の計画や調査研究など今後の運営の在り方を検討してほしい。展示に関しては恣意(しい)的に変更せず、住民の視点から見た沖縄戦という基本理念を守ってほしい。また資料館が平和発信の拠点になるよう、多くの県民に利用してもらいたい」

                   ◇

同資料館のイデオロギーを決定した「監修委員会」会長の宮城悦二郎氏が太田元知事が送り込んだ子分であり、新城俊昭氏や石原昌家氏といった「集団自決訴訟」の被告側応援団の面々が委員として顔を揃えている事実だけでも同資料館の偏向した性格が分かる。

なお上記記事に出てくる上原正稔さんが、太田氏と「ハーバービューホテルの決闘」を演じた怪人・上原氏とは同性同名の別人であることは言うまでもない。

 続く
 
 

 

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麻生首相のGJ!「朝日に説明は不要」靖国奉納

2009-04-22 08:24:56 | 県知事選

 

 

麻生首相が靖国に真榊料奉納、中韓の反応<4/21 21:14>

 麻生首相が、21日から始まる靖国神社の春の例大祭に「内閣総理大臣」という肩書で供え物を奉納した。中国、韓国の反応は以下の通り。
 中国外務省の報道官は「靖国は中日関係における重大かつ敏感な政治問題である」とした上で、「適切かつ慎重に対応するように望む」と述べるにとどめた。現在の良好な日中関係に一定の配慮を示したものとみられる。

 また、韓国・外交通商省は「正しい歴史認識を確立するという意味で、大変遺憾に思う」というコメントを発表したが、盧武鉉前政権のような強い非難は避けた。

                                              ◇

またまた中国の代理新聞・朝日のお約束通りの「ご注進」記事が始まった。

靖国神社関連で首相に何か動きがあると、朝日が誇大に取り上げ中国様に「てーへんだ!てーへんだ!」とご注進記事をかく。

「侵略⇒進出」の教科書問題も同じく、ご注進記事に端を発した。

これらを見た中国様は、時には挙げたくない拳でも振り上げざるを得ない。

今回は日中会談を控えて、朝日に騒いで欲しくなかったのは実は中国様の方だ。

中国も朝日に対して「そろそろ勘弁して欲しい」と思っているかも。

朝日は、「適切かつ慎重に対応するように望む」との中国様のお言葉を引き出したようだが、「適切かつ慎重に対応」した結果が今回の奉納であり、

それにもケチをつけるようだったら本音をだして首相自ら参拝するに決まっている。

中国が首相の奉納にケチでもつけようもんなら、こういってやればよい。

「しゃらくせー!つべこべ抜かすと参拝するぞ!」

と脅しの一つもかけてやれば青い顔するのは中国の方だろう。

また韓国からは「正しい歴史認識を確立するという意味で、大変遺憾に思う」というコメントを引き出したが、

そもそも日本国の首相を韓国の歴史認識に従わそうということが可笑しいわけで、

このような無礼な発言をする国とは付き合わないでもよい。

【麻生首相ぶら下がり詳報】靖国神社への真榊奉納「朝日新聞に説明する必要ない」(21日夜)

2009.4.21 20:55

 麻生太郎首相は21日夜、靖国神社の春季例大祭に合わせて「真榊(まさかき)」を奉納したことについて「真榊料を納めるか、自分で行くかの理由を朝日新聞に説明する必要は感じない」と述べた。首相官邸で記者団の質問に答えた。

 ぶら下がり取材の詳細は以下の通り。


【靖国神社真榊奉納】


 --最初の質問です。靖国神社に「内閣総理大臣」名で真榊を奉納したということだが、いかなる考えに基づいているのか

 「昨年10月も、真榊を納めたと記憶しますが。昨年10月にはこの種の質問をいただいていないのかしら」


 --おそらく。記憶が確かなら…

 「はい。昨年の10月にも納めさせていただいたと記憶しますぞ。僕は基本的に、国のために尊い命を投げ出された方々に対して、われわれとして、国民として、感謝、敬意というものを表するものだと思ってますけど」


 --今年、靖国神社に参拝する考えはあるか

 「適切に判断させていただきますと。その質問も、毎回、同じことをお答えさせていただいていると思いますが」


 --過去には何度も参拝されているが、今回、例大祭に参拝、参列ではなくて…

 (秘書官)「名前、名前(を言ってから質問して)」

 「まず、自分の名前を言ってから、質問をやってよ」


 --朝日新聞です。

 「朝日新聞? あぁ、見ない顔ですね。初めて見る?」


 --いえ、何度も質問している

 「あっ、そう」


 --過去には何度も参拝していると思うが、今回、真榊奉納という形にした理由を改めて聞きたい

 「あの、真榊料を納めるか、そのとき、自分で行くか、理由を朝日新聞に説明する必要は感じませんので、お答えは致しかねます」


 --靖国神社をめぐっては、参拝を首相に望む方、反対される方もいろいろいるが、そういう状況を勘案した上での判断か

 「いろんな状況を勘案して判断する。当然のことだと思いますが」


 --関連の質問になるが、今回、真榊を奉納したことに関連して…

 「今回と言われないでね。前回もですから」


 --あのー…

 「昨年の10月も、そうでしたから。今回はと言われると、ちょっとお答えの仕方も変わりますね。今回だけしたように言われると違いますよ。昨年10月に引き続いて今回もと言われていただくとお答えのしようがありますが」


 --昨年に引き続いて今回も奉納したことについて、日中首脳会談も控えているが、日中関係に悪影響を及ぼす懸念は

 「中国に関して、中国とはこれまでも、何回となく、未来志向ということを考えてやっていくということを申し上げてきましたし、歴史を直視して、とも申し上げてきたところで、今まで通りです」(略)

                   ◇

名を名乗れといわれて産経では「朝日新聞です」となっているが朝日記事によると伊東という記者らしい。

お約束の行事とはいえ、朝日の質問はまるで、首相の悪事が露見しそれを追及するような雰囲気だ。

それに対する麻生首相の受け答えは実にGJだった。

まるで首相の行為を犯罪行為であるかのように印象つけるのが、共同記事も同じだ。

<訪中直前に発覚しただけに、中国側が強く反発することも予想される。韓国も懸念を表明する可能性がある。>

何が「発覚」だ!

何が「中国の反発だ!」

何が「韓国の懸念だ!」

首相はこのように言っている。

国のために戦って亡くなった方々に敬意を表し、ご冥福をお祈りするため奉納した」と。

これに対して中国や韓国の反発や懸念を期待するような新聞は売国新聞と言われても仕方あるまい。


首相、靖国例大祭に供物奉納  中韓反発の可能性
 麻生太郎首相が21日から3日間の日程で始まった靖国神社の春季例大祭に合わせ、「内閣総理大臣」名で「真榊」と呼ばれる供物を奉納していたことが同日、分かった。首相は昨年10月の秋季例大祭でも同様に供物を納めたという。いずれも私費から支出した。首相周辺が明らかにした。

 首相は29、30日に中国を訪問し、胡錦濤国家主席、温家宝首相との首脳会談を行う予定。訪中直前に発覚しただけに、中国側が強く反発することも予想される。韓国も懸念を表明する可能性がある。

 現職首相の奉納は2007年4月、当時の安倍晋三首相が真榊を納めて以来。それ以前では1985年8月15日の終戦記念日に当時の中曽根康弘首相が奉納した。麻生首相周辺は「国のために戦って亡くなった方々に敬意を表し、ご冥福をお祈りするため奉納した」としている。

 真榊はサカキの鉢植えで1個5万円。靖国神社側は首相が真榊を納めたかどうかについて確認しなかったが、本殿に昇殿するための階段付近に置かれているとみられる。

 靖国神社をめぐって、麻生首相は2006年に神社を非宗教法人化し「国有化」する私案を発表。総務相当時は参拝していたが、首相就任後は靖国参拝について「首相の立場は個人的信条と異なっているが、状況を見て判断したい」として参拝の有無を明確にしていない。

2009/04/21 13:48   【共同通信】

                   ◇

ちなみに首相の「国のために戦って亡くなった方々に敬意を表し、ご冥福をお祈りする・・・」という文言は日本人なら当然考えることであり、田母神前空幕長の著書『田母神塾』(双葉社)の次のくだりと重なる。

<戦争によって犠牲となられた方々に、あらためて哀悼の意を表します。 同時に、戦死された方々のおかげで私たちの今日があることに深く感謝の意を表します。>

 

ちなみついでに、もう一つ。

田母神前空幕長の沖縄での講演会が来る5月30日(土)の午後12時から那覇市のパシフィックホテルで開催されます。

演題は「日本をいい国と言って何が悪い」です。

詳細は追って連絡いたします。


 

 

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続・ハーバービューホテルの決闘!太田元知事vs上原正稔

2009-04-21 12:29:49 | 未分類

 

 

 

沖縄には琉球新報と沖縄タイムスという2大新聞に逆らっては生きてはいけない職種の人たちがいる。

政治、教育から文化に至るまで網の目のように張り巡らされた2紙の影響を逃れられない大学教授や歴史研究者など文筆で日々の糧を得ている職種の人々のことである。

県内を独占する二紙の紙面を締め出されたら、意見発表の場を完全に失ってしまい、生活の糧を得ることさえ脅かされかねない。

他県に比べて多いといわれる出版物だって、殆どの出版社は2紙の関連会社が多く、2紙との友好関係なくしては出版社としての存立さえ危うくなってくる。

当然のことながら、県内でまかり通る論調は佐野眞一氏のいう「大文字言葉」で書かれた「お約束」ごとになってしまう。

県内の論調だけではない。

本土中央で活躍の沖縄通を自認する識者達も、こと沖縄となるとその論調はたちまち金太郎飴のような「大文字言葉」で塗されてしまう。

佐野氏がその代表として挙げた大江健三郎と筑紫哲也両氏はいずれも沖縄タイムスにその論調がロンダリングされた状態にある点では言い得て妙である。

さて、これまで数多くの「大文字言葉」のみで語られてきた太田昌秀像を知る者にとって、「小文字言葉」で描かれる太田氏の実像には驚かされるであろう。

平和主義、非暴力を叫び基地撤去を叫び続ける太田氏に一番似つかわしくないのが暴力行為だと思うだろうが、

何よりも太田氏を一番知るはずの太田夫人が太田氏の酒乱と暴力でハワイに逃げて長年別居状態であり、選挙のときのみ沖縄に戻って夫婦円満を演じる「選挙妻」であることは沖縄人の間では公然の秘密といえる。

ただ太田氏を援護するマスコミがこれを報じないだけだった。

 

さて、「太田元知事に首を締められた」と怒りを露にする上原氏の言葉を確認するため、佐野氏は再度太田氏にインタビューを求める。

前回に引き続き佐野眞一著『沖縄 書かれたくなかった戦後史』からの引用である。

<告訴された以上、もう一人の太田に話を聞かないわけにはいかなかった。

ーー上原正稔という人物をご存知ですか。 彼は太田さんに首を絞められたといっていました。

「ええ、知っています。 大げさなヤツです(笑)。 裁判は、彼の方から取り下げたのです」

ーー原告の方から取り下げたのですか。

「そうです。 まったく話になりません。 彼が(沖縄本島南部の)具志頭村(現・八重瀬町)に世界平和を祈念する施設のようなものを作りたいといってきたのは事実です。 でもそのとき僕はもう、“平和の礎”構想をスタートさせていたのです。 1フィート運動では、彼はアメリカでよくフィルムを集めてくれました。 でも、会計のことでほかの役員から文句が出たので、事務局を下ろされたと聞きました。 それを彼は、僕が彼の首を切ったと思っているんじゃないのですかね」

後で信頼できる関係者に上原の人となりを聞くと、「英語力をはじめ能力は抜群ですし、金銭に関しては非情に潔癖です。 ただ、元々一匹狼的ところがありますから、組織人としては疑問符がつけられかも知れません」という一方に偏らない答えが返ってきた。 
上原と太田をよく知る新聞記者は、太田が上原に暴力をふるったかどうかは知らないが、太田が興奮しやすい体質であることは間違いない、と言った。
「ちょっと批判的なことを」言われると、すぐ顔を真っ赤にさせる。鼻血まで流すこともありました。 酒乱? いまの(仲井真)知事の方が百倍酒乱ですが、その気(け)はありましたね。 売名欲の塊? 僕に言わせれば、学歴コンプレックスの塊だと思います。 グラビアアイドルのC・C・ガールズが知事室に表敬訪問したとき、太田さんは開口一番、『君たち大学はどこをでているの?』と聞いた。 C・C・ガールズの一人が『私たち、全員高卒です』と答えたら、みんなシーンとなってしまったことがあります(笑)」
“鉄血勤皇隊”体験が“米留”につながり、そのキャリアが結果として、太田を沖縄の代表的パワーエリートの座に押し上げ、知事の椅子にのぼらせる原動力となった。 それがもし、事大主義や権力志向、売名欲や学歴コンプレックスなど、太田の中で眠っていた負の資質まで引き出すきっかけになったとすれば、“米留”体験は、大田にとっても沖縄にとってもプラスの要素ばかりではなかったことになる。
“米留”という異文化交流体験者の訪問から始まった取材は、一方で、上原正稔という怪人物の偏向プリズムを通して、太田昌秀の隠された負の部分を浮かびあがらせた。>

                     ◇

佐野氏に、上原氏の首を絞めたかとの問に対する太田氏の返答が、とても筑紫氏の描く太田像とかけ離れているのに驚かされる。

「大げさなヤツです」ということは暴力をふるったことは否定はしないが、話がオーバーだということか。 

前のエントリーでは、首を絞めた後3メートル引きずったというのがのが大ゲサなのか、と書いたが、その後の太田氏の素行を調べると酒乱での暴力沙汰は日常茶飯事なので、

「たかが首を絞めたり引きずったくらいで告訴するのが大げさ」なのかとも思ったりする。

何が大げさかはさておいて、太田氏が上原氏の発案である「1フィート運動」と「平和の礎」の構想を知事の権力にモノを言わせて盗作し、それが原因で上原氏に暴力をふるったことは間違いないようだ。

1992年9月23日午後9時、沖縄県庁近くの高級ホテル「沖縄ハーバービュー」の宴会場で起きた事件の詳細は次回に・・・。

続く

 

 
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ハーバービューホテルの決闘!太田元知事vs上原正稔

2009-04-20 06:59:29 | 未分類

 

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佐野眞一著の『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』(集英社)の一部を引用したところ、太田昌秀元知事とドキュメンタリー作家上原正稔氏の「ハーバービューホテルの乱闘」について、知人友人からもっと詳しく知りたいという声があった。

詳しくは同書を読めば済むことだが、何しろ650頁を超す膨大な本ゆえ読破するにも覚悟がいる。

だが、沖縄に在住する者なら殆どの登場人物は新聞等でお馴染みの名前なので、その「書かれたくなかった」実像に触れると下手なコントよりよっぽど笑わせてくれる。

筆者が個人的に知る人物も複数登場する。 中には共に酒を酌み交わした仲の人も登場して笑いを誘ってくれる。

だが、夥しい数の登場人物の中にあって、太田元知事と上原氏という特にキャラの立った怪人の乱闘場面は圧巻で、喜劇の王様チャップリンもステッキを担いで逃げ出すほどである。

というわけで、お二人の絡んだ場面を抜粋して同書読破の手引きとして、引用する。

<太田に会った目的は、米留体験を聞く以外にもう一つあった。太田の知事時代の業績に、沖縄戦最大の激戦地の摩文仁の丘に「平和の礎」を建てたことがあげられている。
その「平和の礎」と、やはり琉球大学教授時代の太田が、アメリカの国立公文書館に出向き、同館に所蔵されていた沖縄戦の未公開フィルムを調査、発見したことから大きな記録運動のうねりとなった「沖縄記録フィルム1フィート運動」の二つのアイディアは、自分のアイディアが盗まれたものだと、抗議する男がいる。
この人物は上原正稔(まさとし)という1943年(昭和18年)生まれのドキュメンタリー作家である。 上原には太田に会うだいぶ前に会った。 上原を人目見て、この男は現代のキジムナーだな、と思った。 キジムナーとは、沖縄の人々に昔から愛される伝説の妖怪である。
黄色のシャツにピンクと紫というちぐはぐな靴下を履いたファッションの配色感覚だけでも、この世のものとは思えなかった。 その奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)な出で立ちに小さな体を包んで登場したときは、立派な髭をたくわえた顔とも相まって、愛玩用の犬が二本足で立って現れたかと思った。 若者が被るようなキャップ、首のスカーフや茶色のサングラス、ポパイのようなパイプも、どこか現実離れしていた。
「1フィート運動も、“平和の礎”のアイディアも、最初に発案したのは僕です。 それを太田昌秀に盗まれた。 それ以来、太田とはケンカです。 僕は太田に首を絞められたこともある。 彼は知事失格というより、人間失格の酒乱男です。 売名欲の塊です」

ーー首を締められた? 穏やかじゃないですね。 どこで首を絞められたんですか。

「ハーバービューホテルです。 その件で僕は太田を告訴しました。
初めて聞く話だった。 後で入手した告訴状には、こう書かれていた。

〈被告人(引用者注・太田)は、告訴人(引用者注・上原)に対し、平成4年9月13日、午後9時頃、那覇市泉崎2-46の沖縄ハーバービューホテル二階「鳳凰の間」において、右手拳で告訴人の左わき腹を一回強く突き、さらにたじろぐ告訴人の左上腕部を痛みを感じるほど強く握り締めて、3メートルひきずるなどして暴行を加えた〉

告訴状に付随した陳述書には「太田氏が顔を上気させ、目を吊り上げ、恐ろしい形相で私に駆け寄り」といった、さすがはドキュメンタリー映像作家らしい臨場感あふれる記述もあった。>

 

著者の佐野氏が描く上原氏の描写が秀逸で思わず笑ってしまったが、対する太田知事もこれに決して引けをとらない。

筑紫哲也氏が「沖縄の良心」だと「大文字言葉」で紹介する太田元知事の素顔の怪人ぶりは、上原氏がキジムナーなら、太田氏は脂塗れのアンダケーボージャー(脂食い坊主)とでも言うべきか。

アンダケーボージャーとは沖縄の伝説の怪盗ウンタマギルの子分のこと。 

元知事のことを怪盗の子分に例えるの礼を失するとも思えるが、上原氏のアイディアを盗んだというのなら怪盗の子分程度に例えられても仕方がないだろう。

それにしてもかつて今上陛下もご宿泊したことのある沖縄の最高級ホテルの宴会場で、満座注目の中現役の知事が上原氏の首を絞め3メートルも引きずる暴挙にでたとは通常では到底信じられることではない。

まさに『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』に登場する人物の中でも際立つ千両役者である。

太田氏は琉球大学教授から県知事、そして参議院議員とエリートコースを歩む人物だが、一方の上原氏は組織に属しない一匹狼で、その名は知る人ぞ知る怪人である。

まるで接点のないように見えるご両人だが、沖縄戦記を発掘してそれを出版するという分野においてはご両人の活動分野は重なっている。

ここで佐野氏は上原氏が言う「乱闘劇」について裏付けのため再度太田氏にインタビューするのであるが、その部分を紹介する前にキジムナーこと上原氏について少し触れておきたい。

太田氏については「大文字言葉」のみで沖縄を語る筑紫哲也氏などによって「沖縄の良心」のように描かれているので、当日記の読者ならよく承知のことと思う。

沖縄タイムスに取り込まれた大江氏と筑紫氏

一方、上原氏については沖縄人でも知る人は少数派であるが、古くからの当日記の読者なら、琉球新報に連載中の沖縄戦記を前日になって異例の突然発表中止という言論封殺の被害を被ったドキュメンタリー作家として、また係争中の集団自決訴訟でも原告側の証拠となった『沖縄戦ショウダウン』の著者として記憶に新しいだろう。

 

「沖縄集団自決冤罪訴訟」の原告側の準備書面に出てくる上原氏に関連するくだりを抜粋すると次の通りである。

≪さて、今回新たに提出した重要な証拠のなかに、沖縄出身の作家上原正稔氏が記述した『沖縄戦ショウダウン』があります。上原氏は、琉球新報に「沖縄戦ショウダウン」を連載中、当時の集団自決の生き残りである金城武徳氏らを調査した結果、渡嘉敷村民の自決について、
「国のために死ぬのだ。だれも疑問はなかった。村長が立ち上がり音頭をとり、『天皇陛下万歳』と皆、両手を上げて斉唱した」ことを確認しています。

(2)続いて、被告らが依拠する富山証言の信用性を弾劾しています。被告らは富山証言をもとに米軍が上陸する直前の昭和20年3月20日、手榴弾を村民に配ったといいます。富山証言は第3次家永訴訟において、沖縄国際大学の安仁屋政昭氏が公に持ち出したものでありますが、日本軍の第32軍も渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も米軍が慶良間諸島を最初に攻撃することはないと考えていました。だから地上戦も予定していませんでした。安仁屋氏もそのことを明確に認めています。3月25日8時海上に敵機動部隊船影を確認するまで米軍の渡嘉敷島への上陸を全く予想していなかった赤松部隊が3月20日に米軍の上陸した場合の戦闘に備えて村の少年や役場職員に手榴弾を配布することはありえません。富山証言はデッチアゲそのものです。

(略)

(4)太田氏(「鉄の暴風の筆者」ー引用者)は沖縄タイムス上での論戦において、「あの玉砕は軍が強制したにおいがある。アメリカ兵が目撃した集団自決の資料の発見者で翻訳者である上原正稔は、近く渡米して目撃者を探すそうである」と記載しています。その上原正稔氏こそ、先に紹介した『沖縄戦ショウダウン』の著者でした
原氏は、『鉄の暴風』等によって沖縄のマスコミがつくりあげた虚偽の神話に対する怒りを隠さない金城武則氏、大城良平氏、安里喜順氏、そして知念朝睦氏といった集団自決当事者たちの証言に出会い、ようやく真実に気がつきました。そして、「われわれが真相を知ることが『人間の尊厳』を取り戻す、すなわち『おとな』になることだと信じる」と断ったうえで、「筆者も長い間『赤松は赤鬼だ』との先入観を拭いさることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。」と告白しているのです。 さらに、「国の援護法が『住民の自決者』に適用されるためには『軍の自決命令』が不可欠であり、自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることを赤松さんは知っていた。だからこそ一切の釈明をせず、赤松嘉次さんは世を去った」「一人の人間をスケープゴート(いけにえ)にして『集団自決』の責任をその人間に負わせて来た沖縄の人々の責任は限りなく重い」と結論しています。
『沖縄戦ショウダウン』の記事が沖縄の有力紙琉球新報に掲載されている意味は重大です。そのことは、沖縄の言論人にも事実を調査し、真実を見極めようという誠実な人がいること、そしてそうした沖縄でも赤松隊長命令説の虚偽が自明なものとして知られていたことを意味しているからです。 

 いま、上原氏の「沖縄の人々の責任は限りなく重い」という言葉に込められた沖縄の良心の叫びを、噛みしめる時が来ているのです。≫
(沖縄集団自決冤罪訴訟・準備書面)

これに対する被告側は、

「『沖縄戦ショーダウン』は、赤松氏を一方的に評価する人物だけからの証言によって執筆されたもので信用性がない」と客観的反論を放棄し、「信用性がない」といった極めて情緒的文言で終わっている。

被告側は上原氏の著書は信用できないというが、上原氏は被告側のバイブルともいうべき『鉄の暴風』を出版した沖縄タイムス刊で、同じ沖縄戦を扱った 『沖縄戦トップシークレット』『1995年3月刊)を出版している。

同じ沖縄戦関連で同じ沖縄タイムスが出版した『鉄の暴風』はバイブル扱いして、他方では同じ沖縄タイムス刊で沖縄戦を出版する上原氏を自分の都合の悪い記述だから信用できないという。

これが「集団自決」訴訟を通じて被告側弁護団が取ってきたダブルスタンダード手法である。
 

■「一フィート運動」を始めたのは上原氏■

沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会

被告側が沖縄戦の実践的研究者である上原氏を論理的に反論できないので、情緒的に排斥した理由は上原氏の次のような調査姿勢にあると思われる。

上原氏は、独自のルートで、アメリカで眠っている「沖縄戦映像」を取り寄せて、記録フィルムに残されている「場所と、人物を特定したい」と沖縄各地を調査し、証言を集めてきた。

上原氏は従来の沖縄戦の研究者のように、戦争の持つ影の部分のみを捉えて無理やりイデオロギー問題に摩り替える手法をとらなかった。

上原氏は、当初は『鉄の暴風』等によって沖縄のマスコミがつくりあげた虚偽の神話に対する怒りを隠さない多くの集団自決当事者たちの証言に出会い、ようやく沖縄戦の真実に気がついた

そして、「われわれが真相を知ることが『人間の尊厳』を取り戻す、すなわち『おとな』になることだと信じる」と断ったうえで、

筆者も長い間『赤松は赤鬼だ』との先入観を拭いさることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。」と告白している。

彼は言う。

「反戦平和なんてボクには関係ない!」

「大切なことは、沖縄戦を撮影したフィルムに、無数の沖縄住民の姿が映っているということだ。ボクは、フィルムの中の『主人公』たちに、この映像を届けたいんだ!」

そう、沖縄戦を記録した映像の中には、悲惨な戦闘シーンだけではなく、生き残った沖縄の人々の、驚くほどの「笑顔」が残されていた。

そして彼はフィルムに封印されていた沖縄戦の真実の物語を追求している異色の沖縄戦研究家でもある。

「1フィード運動」は、その後同運動に大田昌秀元知事や、新崎盛暉、安仁屋政昭、石原昌家等のサヨク学者が運営委員として加わり、運動がイデオロギー化していく。

創始者の上原氏は「一フィート運動」がイデオロギー化するのを嫌ったのか、組織を離れて独自の活動をするようになる。

上原氏の沖縄戦の記録発掘に対する姿勢がどのようなものかは、次の沖縄テレビ・サイトから垣間見ることが出来る。


第14回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/14th/05-330.html
『むかし むかし この島で』(沖縄テレビ制作)

 続く
 
 
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民主党の沈没!日本郵便、不正DM一度は拒否 牧議が覆す

2009-04-19 08:52:27 | 県知事選

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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「小沢秘書逮捕」で政局の風向きは完全に向きを変えた。

あれほど麻生バッシングに終始していたテレビコメンテーターたちは、

「定額給付金」の支給開始で沸く商店街のニュースに、これまで反対していた手前、民意を見誤った弁解をするのに四苦八苦する様が可笑しい。

民主党への逆風はこれだけではない。

今朝のTBS「時事放談」で野中広務氏が、以前も一寸触れた小沢民主党代表に関するマスコミが報じない衝撃発言をしていた。

いわく次の通り。

「小沢氏が岩手4区で立候補しないでお国替え立候補をするというのは対立候補の高橋嘉信氏のせいである」

「高橋氏はかつての小沢秘書で、益田県知事のとき小沢氏が

知事秘書に潜り込ませ、次期の知事のときも秘書を潜り込ましていた」

「高橋氏は小沢氏のすべてを知っているので直接対立は避けた」

高橋氏についてはここで書いた。

「真相は墓まで」小沢元秘書 小沢の闇を知る男?

小沢氏のタマを握る男、高橋氏を事情聴取!

 

そして、民主党に止めを刺すのはこのニュース。

日本郵便、不正DM一度は拒否 牧議員秘書の来訪後覆す2009年4月19日3時1分

 家電量販大手「ベスト電器」のダイレクトメール(DM)広告をめぐる郵便不正事件で、自称・障害者団体「白山会」(東京都文京区)の刊行物を装ったDMが郵便事業会社(JP日本郵便)の新東京支店(同江東区)から発送される前、埼玉県の郵便窓口で一度断られ、民主党の牧義夫・衆院議員(51)=愛知4区=の秘書が、関係支社を訪れていたことが関係者の話でわかった。白山会については注意文書が日本郵便内で流され、不正の窓口になった新東京支店にもDMのサンプル付きで届いていたが、秘書の訪問後に発送が認められていた

 注意喚起の文書について、大阪地検特捜部は、DM発送の審査にかかわった日本郵便の社員らが不正に気づきながら黙認した可能性を示す文書として重視。牧議員の秘書が動いた経緯についても、白山会会長の守田義国容疑者(69)=郵便法違反容疑で逮捕=らから詳しく事情を聴いているとみられる。

 関係者によると、白山会側は07年1月末、ベスト電器の不正DMを埼玉県の二つの郵便窓口に持ち込み、通常のDMなら郵送料金が1通120円かかるところ8円に割り引かれる「心身障害者用低料第3種郵便物制度」を使って送ろうとした。しかし、郵便物が相手に届かなかった場合の返送先が刊行物発行元の白山会ではなく、ベスト電器になっていたことから窓口で利用を断られたという。

 これを受けて、白山会の名前を挙げたうえで制度の悪用が疑われる不審なDMの取り扱いに注意を呼びかける文書が、埼玉県の郵便窓口を管轄する日本郵便関東支社や、近隣の東京支社の管内で配られ、新東京支店にもサンプルとともに届いていたという。

 一方、埼玉の窓口で断られた白山会側は、牧議員側に経緯を説明し、協力を求めたとされる。牧議員の秘書は、白山会の関係者とともに日本郵便の関係支社を訪ね、低料第3種郵便物の条件などについて問い合わせたという。

その後、新東京支店側が最終的に、白山会名義で持ち込まれたベスト電器の不正DMの発送に割引制度を適用し、格安で送ることを承認。埼玉の郵便窓口が適用を拒否してからまもなくの07年2月2日から4日までの3日間で7回に分けて計約158万通が発送され、守田会長らは正規料金との差額約1億8千万円の支払いを免れたとされる。

 秘書が白山会関係者と日本郵便側を訪れたことについて、牧議員の事務所はこれまでの朝日新聞の取材に、「事実を確認中で、何もコメントできない」としている。

                    ◇

いやいや、これは驚いた。

日本郵政側が、判断力の甘さで不正を黙認したのかともとれる報道がされていたが、窓口担当者が不正と気がつき断っていたというではないか。

しかもその後、このような不正には気をつけるようにとの文書が内部で流れていたという。

そして民主党牧議員側が日本郵政側にねじ込んだろ、以後不正発送が認められたという。 典型的な悪代官の谷内口ではないか。

しかもこの牧議員、以前からマルチ商法などの悪徳商法がらみで悪徳組織を援護するような国会質問をしていたという札付きのネズミ議員である。

 

支援者の競合団体を国会で批判 郵便不正で民主・牧議員

2009年4月14日3時0分

チャート:  拡大  

 民主党の牧義夫・衆院議員(51)=愛知4区=が、障害者団体向けの郵便割引制度が悪用された事件で捜索を受けた「福祉事業支援組織・白山会」(東京都文京区)のライバル団体を批判する質問を国会でしていたことが分かった。白山会の会長は牧議員の長年の支援者で、会長側は議員側に政治献金もしていた。

 批判された団体は、郵便事業会社(JP日本郵便)の調査を受けて、ダイレクトメール(DM)広告に悪用していた刊行物を廃刊。一方で白山会側は業務を継続。関係者によると、DM広告の「顧客」を増やしていたという。

 国会質問があったのは、08年5月23日の衆院経済産業委員会。牧議員は、兵庫県尼崎市内などの三つの障害者団体が制度利用の承認を受けて発行していた定期刊行物を掲げながら、精力剤やアダルトグッズの広告が載っていることなどを指摘。「悪徳商法の温床になっている」などと批判し、日本郵便の対応を求めた。

 批判された団体は、尼崎市内の広告会社と提携する形で、制度を悪用したDM広告を取り扱っていたが、広告の受注をめぐって、白山会や白山会と提携していた大阪市西区の「新生企業」=大阪地検特捜部が郵便法違反容疑で社長らを逮捕・起訴=と、激しい価格競争をしていたという。

 白山会は昨年末、制度を悪用していたとして日本郵便から利用の承認を取り消され、免れた数億円の郵便料金を請求されているほか、今年2月には特捜部から、新生企業の容疑の関係先として捜索されている。

 一方、複数の関係者によると、白山会の会長は牧議員の長年の支援者で、97年から02年にかけて複数の会社の役員として共に名を連ねていたほか、白山会の運営に関係している男性が牧議員の秘書を名乗っていた時期もあったという。

また、白山会の会長は自ら社長をしている興信所名で、牧議員が代表を務める「民主党愛知県第4区総支部」に07年2月に12万円を寄付している。

 牧議員は、国会議員の秘書などを経て00年に衆院議員に当選。現在3期目。昨年10月には、マルチ商法業界の政治団体から資金提供を受けていた問題が発覚している。

     ◇

 牧議員の事務所は取材に対し、「白山会の会長とは議員に当選する以前からの付き合いであることは事実です。しかし、白山会との関係は現在も過去もありません」などと回答。白山会の会長は、牧議員について「牧さんは長年の知り合いで、応援のために献金した。違法なことは何もない」と言っている。

                   ◇ 

 
>牧議員は、国会議員の秘書などを経て00年に衆院議員に当選。現在3期目。昨年10月には、マルチ商法業界の政治団体から資金提供を受けていた問題が発覚している。

>批判された団体は、郵便事業会社(JP日本郵便)の調査を受けて、ダイレクトメール(DM)広告に悪用していた刊行物を廃刊。一方で白山会側は業務を継続。関係者によると、DM広告の「顧客」を増やしていたという。

>牧議員は、兵庫県尼崎市内などの三つの障害者団体が制度利用の承認を受けて発行していた定期刊行物を掲げながら、精力剤やアダルトグッズの広告が載っていることなどを指摘。「悪徳商法の温床になっている」などと批判し、日本郵便の対応を求めた。

この牧ネズミ議員、何とも分かりやすいことをしてくれている。

自分の関連団体である白山会と競合関係にある団体の刊行物にアダルトグッズや精力剤の広告があり、悪徳商法の温床になっているとして、特別郵便料金によるDMを廃止させ、自分は悪用を続行する。

おまけに自分は悪徳商法業界の献金を受ける。

こんな絵に描いたような悪代官も最近の時代劇では珍しくなった。

民主党に止めを刺すのはもう一人のこの男。

民主・鳩山幹事長「日本列島は日本人だけの所有物ではない」

日本列島は日本人のものでなければ一体誰のものなの?

日本を売り渡す前に、沖縄を中国に売り渡すのが民主党の政策だから、日本列島を売り渡すのも当然というわけだろうか。

いずれにせよ、これで民主党も終わった。

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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疑惑の銃弾ー米軍報告、被弾は第三者の「破壊」と指摘

2009-04-18 07:05:06 | 金武町流弾事件

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事故や事件の新聞報道が容疑者の職業によってその報道の大きさが違うのは理解したとしても、

沖縄の新聞が事件や事故の内容より容疑者の人種、特に米軍属であるかどうかによって報道の大きさが著しく異なる。

容疑者が沖縄人ならスルーするような些細な交通事故でも米兵が起こしたとなると新聞は針小棒大に報じる。

米兵が米軍基地がらみで起こした事故・事件なら即座に特集記事を組んで連日抗議のキャンペーンを張るのは周知のことであるが、

昨年の12月に発生した金武村伊芸区の「米軍被弾事件」に対する沖縄紙の報道は不可解な様相を呈してきた。

米軍の実弾演習地に隣接する民家に装甲車をぶち抜くといわれる重機関銃の銃弾が撃ち込まれたのだ。

このような住民の生命に関わる重大事件に対しては保革に関わりなく、また米軍基地の反対、賛成に関係なく早期の解決が望まれた。

筆者のように新聞記事をそのまま信用しないヘソ曲がりでも、当初は次のような報道から推して犯人は米軍だとほぼ断定していた。

①被弾の民家が実弾演習所に隣接していること

②撃ち込まれた銃弾が米軍使用のもの

③事件当日米軍の演習が行われていた

これだけ状況証拠が揃い、新聞が連日煽り立てれば誰だって米軍を犯人と思っても仕方がないだろう。

早急にしかるべき米軍の責任者が被害者宅を訪れ謝罪して相応の補償をすべきだと考えていた。

ところがである。

3ヶ月以上に及ぶ米軍側の専門家の調査・検証の結果、3月末に「被弾は米軍の訓練ではない」との最終結論を発表して以来、

あれほど声高に「訓練以外なら何が原因か」と叫んでいた新聞が急に静かになった。

伊芸被弾事件 訓練以外なら何が原因か(2009.2.13)

沖縄タイムスなどは、米軍最終発表の翌4月1日付の一面と社会面のトップで大きく報じ更に2日の記事でも連続報じたので、

「お約束」通り、連日蜂の巣を突いたようなキャンペーン記事が始まるのかと思った。

米軍「訓練と関連なし」 金武流弾で最終見解【04月01日】

沖縄タイムス 2009年04月02日 社会 

訓練との関連否定 金武流弾事件/米軍最終報告「証拠みつからず」

金武町伊芸区で昨年12月13日、乗用車のナンバープレートに銃弾の金属片が突き刺さっていた事件で、在沖米海兵隊は1日、「訓練場から発砲された証拠が見つからなかった」として、最近の訓練との関連性をあらためて否定する最終報告をまとめ、調査を終了した。一方、県警は事件の解明に向け、引き続き捜査を行う考え。金武町議会は2日、米軍基地問題対策調査特別委員会を開き、今後の対応を協議する。

 これまでの県警の鑑定では、金属片は米軍が使用する50口径通常弾「M33BALL」の弾芯と同種であることが判明している。

 海兵隊によると、今年1月末に来沖した訓練教育司令部所属の弾道専門家の解析調査で、50口径弾がキャンプ・ハンセンから伊芸区の方向に流れ出ることは、「統計学的にも確率が極めて低い」とされたという。

 また、昨年12月9、10の両日に実施された部隊訓練で、7トントラックの砲塔に搭載したM2機関銃から8000発の50口径弾が発砲されたとしたが、乗用車が事件現場に駐車されたのは訓練終了以降となっていることから、「訓練とは関連がない」と結論付けた。

 儀武剛金武町長は「大変残念で強い憤りを感じる。このままうやむやにさせてはいけない。町としても出来る限り対応したい」と話した。池原政文伊芸区長は「予想通りの内容。訓練を継続したいがための言い訳にすぎない」と指摘。

 仲井真弘多知事は「米軍が現に使っている同種の弾なので、納得しにくい感がある」とコメントした。

伊芸被弾事件「訓練と日時一致せず」 目撃者証言と矛盾も2009年4月2日 

                  ◇

再度繰り返す。

ところがである。

沖縄タイムスの関連報道は4月2日の朝刊一面と社会面で派手に報じて以来、急に腰が引けてしまった。

翌4月3日の記事は急に小さなベタ記事で「金武町抗議の声も」と捨て台詞を残したきり。

以後沖縄タイムスの紙面から「流弾事件」は姿を消してしまった。

本来の沖縄タイムスなら抗議の社説を1~2回は書いてだろうしコラムでも糾弾の手を緩めるはずはない。

にもかかわらず紙面から2週間以上も完全に消えてしまったわけは何なのだ。

いや、完全に消えてしまったというのは必ずしも正確ではない。

社説やコラムの代わりに、卑劣にも読者を使って「論壇」で抗議の姿勢は保っているつもりらしい。

4月14日の沖縄タイムスオピニオン面の「論壇」は東村在住の教員・KKさんが、先日暴漢にコーヒーをかけられたメア米国総領事の「流弾は訓練と関係ない」という発言を逐一取り上げて批判している。

タイムス4月14日の「論壇」タイトルはこれ。

常識疑う米総領事発言>

<米艦船、流弾めぐり次々と

批判の対象のメア発言とはこれ。

「訓練の弾」に疑義 メア氏、米軍発射を否定(2009.2.26)
「訓練の弾」に疑義 メア氏、米軍発射を否定2009年2月26日 ケビン・メア在沖米総領事は25日、定例記者会見で金武町伊芸被弾事件に関連して「(発見された銃弾は)第2次世界大戦の前から沖縄戦でも使われている弾であちこちにあるものだ」と述べ、現代の弾かどうかにも疑義を呈した。その上で「米軍と同じ弾だからといって、訓練から発射されたものだとは違う。個人的にもこの弾が米軍の訓練場から発射されたものだと考えていない。まず、発射されたのかどうかという疑問もあるが憶測はしない」とも述べた。(略)

                   ◇

投稿者のKKさんは沖縄紙のオピニオン面ではお馴染みの左翼教員だが、左翼でなくともこれまでの新聞の論調を見たら誰だってメア発言を「盗人猛々しい」と批判するだろう。

米軍の最終発表までの主な記事を琉球新報に限って拾ってもこの通りの有様だ。

メア米国総領事に抗議の投稿をする気も良く理解できる。

金武被弾事件一覧

米軍報告、発生日にずれ 伊芸被弾事件(2009.4.10)

金武・伊芸被弾事件 県警、米軍に書簡送る(2009.4.9)

伊芸被弾 金武町議会が「無関係」報告に抗議決議へ(2009.4.4)

伊芸被弾事件「訓練と日時一致せず」 目撃者証言と矛盾も(2009.4.2)

訓練との関係否定 金武町被弾事件で海兵隊最終報告(2009.4.1)

 「銃の特定難しい」 伊芸流弾事件で日高刑事部長(2009.3.23)

 事件解明を要求 金武町伊芸被弾、区民ら400人決起(2009.3.2)  

「訓練の弾」に疑義 メア氏、米軍発射を否定(2009.2.26)

1日に向け実行委 伊芸被弾区民大会(2009.2.20) 

県警「立件は困難」 伊芸被弾事件(2009.2.19)

 「米軍の可能性極めて高い」 儀武剛金武町長(2009.2.12) 

伊芸被弾 海兵隊「訓練と関係ない」(2009.2.11)

 

沖縄タイムスが4月3日以降、事実上「流弾事件」には頬被りを決め込んでいるのに対し、まだ比較的良心の欠片は残っていると思われる新報は、

タイムスが報じない次のような客観的記事を報じている。

伊芸被弾、第三者の「破壊」と指摘2009年4月11日

 3月31日に発表された金武町伊芸被弾事件に対する米軍の最終報告で、米軍はレンジ内から発射された弾が駐車場の車両に突き刺さった証拠は一切ないとした上で、「道路上の危険」や第三者による「故意による破壊」といったほかの可能性を指摘していることが10日、分かった。「50口径弾は沖縄本島のほぼ全域で土中から発見されるもの」との記述もあり、米軍以外の第三者がどこからか弾を入手し、犯行に及んだ可能性があるとの見方を強く示している。米軍から県警に提出された最終報告文書で明らかになった。
 石川署の初動捜査報告書を基にした事実として、被害者は11日正午ごろに駐車場に駐車し、
同日午後4時ごろ女性が「バン」という音と白煙を確認したことを記述しているが、併せて「(女性)以外の目撃者が存在しない」と証言の信憑(しんぴょう)性を疑う記述もある。県警は「音」と「白煙」の確認は10日だったとしており、大きく食い違っている。
 9、10日にレンジ7で実施された射撃は、7トントラックの砲塔に搭載されたM2重機関銃を使い、縦、横方向とも固定された位置で使用したことを強調。
 レンジ7の安全対策では、50口径弾が「跳弾」した上で訓練場内から伊芸区に飛び出す確率は極めて低い、としている。結論として、問題の弾芯は「訓練場内で行われたどんな武器訓練とも関係がない」と断定している。

                   ◇

琉球新報は目撃者の名前を明記していないが、沖縄タイムスは女性の目撃者の名前を挙げて激しく米軍を糾弾していた。

米軍発表によると「目撃者が虚偽の証言をしている」「何者かが流弾被害の細工をした」とも取れる主張である。

だとしたら沖縄タイムスはこれまで読者を煽っていた手前このまま沈黙で通すのは可笑しいではないか。

沖縄タイムスは記事で名前を明記した目撃者の名誉のためにも抗議の米軍糾弾キャンペーンを張るべきではないのか。

2週間以上にも及ぶタイムスの沈黙は、目撃者がウソをついたとも取られかねない。

米軍がウソツキなのか目撃者がウソツキなのか、いずれにせよ沖縄タイムスはこの問題をウヤムヤに終わらしては読者に対する大きな裏切りである。

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秦 郁彦
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中国様には従順な反骨市長ー大浜市長、尖閣上陸断念

2009-04-17 08:03:19 | 未分類


 

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泰山鳴動ナンとやら。

尖閣には皇帝ペンギンの一匹も現れなかった。

尖閣上陸と大風呂敷をぶち上げていた大浜石垣市長が、なんとも神妙に「尖閣渡航を断念」(4月16日付沖縄タイムス)とのこと。

その理由が政府への「申請却下」だとは情けない。

大浜市長といえばつい先日も同盟国の艦船の寄港を反対派プロ市民の先頭に立って扇動した“反骨”の市長ではなかったのか。

近海を中国艦船が徘徊する国境の島の市長が同盟国や自衛隊に嫌悪感を示すのみならず、自ら実力行使にでる様を当日記は売国奴呼ばわりした。

ただし、尖閣諸島に上陸を果たしたら前言(売国奴)を取り消して謝罪すると宣言したが、当初からその可能性はないと考えた。

政府の方針でも米軍がらみでは猛反対するが、相手が中国がらみだと素直に政府方針に従う腰抜けだと判断したからだ。

16日付沖縄タイムスの小さな記事(ウェブ記事にはない)は、断念の理由を次のように報じている。

同市長は「行政管轄権を持つ市として、固定資産税の実施調査のために上陸を申請した」と説明。政府からは必要なしの却下する連絡があり、問題が複雑化するのは本意ではないとして渡航をあきらめたという。>

先ず自国の領土に管轄権を持つ市長が視察するのを却下するいつもの政府の弱腰はさておいて、政府が同意しようが反対しようが同盟国にも拳を突き上げて、反対行動をするのが大浜市長の政治姿勢ではなかったのか。

その一方、“適性国”の意向には卑屈にも従うダブルスタンダードがこの方の本性だ。

やはり売国奴の言葉がこの方には相応しいようだ。

尖閣沖に中国艦船

石垣市長は「(尖閣は)自国の領土」と主張する中国に共同調査の意向を示し、批判を浴びると撤回した経緯がある売国市長である。

尖閣諸島「中国、台湾と共同調査を」 石垣市長が発言撤回
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/diplomacy/
206232/

2008/12/19 21:47更新
 沖縄県石垣市の大浜長照市長が市議会で、日本固有の領土である東シナ海の尖閣諸島(中国名・釣魚島)について、「日本、中国、台湾で共同で研究調査すべきだ」と発言していたことが明らかになった。中国の海洋調査船が今月8日に尖閣諸島の領海を侵犯したばかりで、「中国につけ込まれるすきを与える発言だ」(石垣市議)と市長の見識を問う声が噴出した。一方、沖縄県議会と石垣市議会は19日、中国政府への抗議決議などを採択した。領海侵犯に関して、沖縄県議会が中国への抗議決議を採択するのは初めて。(佐々木類)

 中国による尖閣諸島の領海侵犯をめぐっては、麻生太郎首相が今月13日の日中首脳会談で、「日本の固有領土であり遺憾だ」と抗議し、政府として引き続き実効支配していく考えを示している。それだけに、尖閣諸島を行政区域とする石垣市の市長が最終的に発言を撤回したものの、中国、台湾との共同調査に言及したのは明らかに日本政府の方針を逸脱したものだ。

 大浜市長の発言は、18日の石垣市議会における議員への答弁で出た。仲間均議員によると、中国の領海侵犯について、仲間氏と伊良皆高信議員らが見解を求めたところ、大浜市長は「尖閣諸島はガラパゴス諸島のように貴重な動植物が存在する。日本、中国、台湾で共同で研究調査し、人類の福祉に役立てるべきだ」と答えた。

 同諸島が日本固有の領土であることを強調した上での答弁だったが、仲間氏らが「軽率だ」と発言の撤回を求めた結果、市長は「世界情勢が極めて微妙な時期なので、言い過ぎた発言のように思う」とその日のうちに発言を撤回した。

 また、質疑の中で仲間氏が米軍機の石垣空港の使用に関連し、自衛隊や米軍への見解をただすと、大浜市長は「自衛隊も米軍も基本的には軍隊だ。人を殺すための国家の物理的な暴力装置だ」と述べたが、尖閣諸島をめぐる発言同様、19日に発言を撤回した。

 一方、沖縄県議会は19日の定例会で、歴史的、国際法上からも尖閣諸島が日本固有の領土であることを指摘した上で、中国政府への抗議決議と日本政府に対し中国政府に抗議するよう求める意見書の2つを全会一致で採択した。石垣市議会は日本政府に対し、尖閣諸島周辺の警備強化を求める要請決議と中国政府に「強い憤り」を示す抗議決議をそれぞれ採択した。

 大浜市長の発言について河村建夫官房長官は19日の記者会見で「撤回した(大浜市長の)発言に対するコメントは差し控えたい」とし、県議会と市議会の決議については、「警備状況も含めて十分検討して回答したい」と述べた。

                                           ◇

このような売国奴市長が中国艦船が虎視眈々と領有を狙う国境の島の市長としては相応しくない!

と思う方、プチッと応援お願いいたします。


 

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沖縄を語る“大文字言葉”-『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』感想文

2009-04-16 06:49:05 | 未分類

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前に沖縄は他県に比べて異常にローカル出版の多い県だと書いた。

書店の沖縄コーナーを見ると、単行本に雑誌と、その数の多さは長年沖縄に住む筆者も驚くばかりである。

その取り扱う内容は観光からグルメ案内、それに沖縄歴史モノが我が物顔に書棚を占めているが、特に沖縄戦に関する地元の出版物の多さが目に付く。

本土の出版社でも沖縄戦のみで成り立っているような感さえするお馴染みの高文研一社だけを見てもこの通りである。

沖縄の「現実と真実」を伝える高文研の沖縄シリーズ

沖縄戦モノをザッと立ち読みすると「お約束」の「大文字言葉」を羅列した被害者史観に満ちた本が覇を競っている。

ところで、昨日のエントリーで引用した「大文字言葉」についてもう少し詳しく書いてみよう。

沖縄観光、沖縄戦に関わらず、これまでマスコミで沖縄について語られる物語は「人情が厚い」「癒しの島沖縄」は「沖縄戦で日本軍の虐殺を受けた」といった「お約束」の文言を大文字言葉というらしい。

その「大文字言葉」で溢れて一時は全盛を誇った沖縄の雑誌にも不況の影が差してきたようであるが、「大文字言葉」で溢れた沖縄紙の夕刊が廃刊になったことと軌を同じくしているようだ。

沖縄雑誌苦戦 休刊も 広告収入が激減(2009.4.15) カメラ

昨年末から相次いで発行回数減や休刊を迎えた県内発行の雑誌。左から「カラカラ」「うるま」「沖縄スタイル」「ハンズ」
 昨年秋から今年春にかけて、沖縄の文化を県内外に発信してきた雑誌の発行数減や休刊が相次いでいる。世界的な景気悪化による広告収入の減少や近年関心を集めていた沖縄移住の動きが落ち着いてきたことに加え、若者の活字離れも影響しているとみられる。出版関係者は2001年のNHK連続テレビ小説「ちゅらさん」の全国放映以降に続いていた「沖縄ブームの終焉(しゅうえん)」が到来したと分析している。
 2000年に創刊し、泡盛や沖縄の旅や暮らしを紹介してきた「季刊カラカラ」は08年11月発行の28号を最後に休刊し、「沖縄の元気を伝える亜熱帯マガジン」と題して1998年から発刊してきた月刊誌「うるま」も09年1月発行の130号でいったん幕を閉じた。「沖縄スタイル」(04年創刊)は09年3月発売号から年1―2回の不定期刊になっている。
 このほか沖縄の音楽や文化などを先取りして紹介し、若者に絶大な人気を獲得してきた「月刊ハンズ」(98年創刊)も4月25日発売の128号を最後に7月からウェブマガジンとフリーペーパー(無料誌)に移行する。
 団塊世代の移住者を対象に創刊した「沖縄スタイル」は移住者向けの不動産情報も充実させ人気を集め、07年には4万部を発行した。発行人の猪田昌明さんは「07年をピークに移住ブームが落ち着いた」と話し、さらに08年春ごろから主要な広告主のリゾートマンションなどを扱う不動産業者の広告が激減し「採算割れが予想される」として発行回数減に迫られた。
 ハンズは05年には20―30代を中心に3万部を売り上げたがそれ以降、1年ごとに約20%ずつ部数が減った。ハンズ・コムの金城悟代表取締役は「若者の活字離れも一因」と分析する。
 出版事情に詳しいボーダーインク編集者の新城和博さんも「01年の『ちゅらさん』前後から始まった沖縄ブームが終焉を迎えた。沖縄の生活様式を売るビジネスが曲がり角に来ている」と話す。(荒井良平)

                     ◆

 

 昨年末の発売以来ベストセラーを続ける佐野眞一著『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』を初めて本屋で見た時は、あまりにも分厚い(654頁)そのボリュームに圧倒され最近まで敬遠していた。

だが今月になって覚悟を決めて読破にかかったのだが、一旦読み始めたら時間を忘れて一気に読んでしまった。

登場人物が実に多彩で、現役の知事からヤクザの親分、そしてその親分をヒットした殺し屋に至るまでの膨大な数の人物を、著者は「アドレナリンが沸いてくる」という汲めどもつきぬ好奇心と、底知れぬ行動力で次々と芋ヅル式にインタビューを続ける。

今では左翼集団の巣窟と化した「一フィートの会」の創始者で、「この世の者とは思えない」風体のドキュメンタリー作家上原正稔氏とのインタビューのくだりには思わずコーヒーを吹いてしまった。

1フィート運動を太田昌秀元知事などの左翼集団に乗っ取られて、上原氏が組織を離れた話は当日記でも以前に触れた。

その経緯はこれ⇒琉球新報によって削除された「沖縄戦記」

1フィート運動の乗っ取り騒動に関連して、上原氏は太田元知事に暴力をふるわれ告訴騒ぎになったという。

筑紫哲也氏などに言わせると「沖縄の良心」のように褒め上げられる太田氏だが、「この世のものとも思えない」風体の上原氏に暴力を加えたという話は、沖縄人の筆者ならあり得ることだと納得すること。

だが、イモヅル式インタビューを得意とする佐野氏は、ウワサをそのまま記事にするようなどこかの記者さんとは根性が違った。

早速太田元知事に面会して同じ話の裏取りをするのだが、次の問答がとても元県知事へのインタビューには思えず笑いをこらえ切れなかった。

佐野氏:「上原正稔という人物をご存知ですか。 彼は太田さんに首を絞められたといっていました」

太田氏:「ええ、知ってます。 大げさなヤツです(笑)。裁判は、彼の方から取り下げたんです」

この後、太田氏の弁明がしばらく続くが、「大ゲサ」とは言っても暴力行為を否定してはいない。

ちなみに暴力行為の内容は、告訴状によるとこうなっている。

太田氏は那覇在の高級ホテル沖縄ハーバービューホテルの宴会場で、

「右手拳で告訴人の左わき腹一回強く突き、さらにたじろぐ告訴人の上胸部を痛みを感じるほど強く握り締めて、三メートルほどひきずるなどして暴行を加えた」と。

太田氏が否定はしないで「大げさ」というのは、三メートルもひきずったのが大げさであり、せいぜい一フィートしか引きずっていないというつもりなのだろうか。(爆)

太田氏の酒乱と暴力癖について、著者の佐野氏は太田氏をよく知る新聞記者にも尋ねている。

「(太田氏は)ちょっと批判的なことを言われると、すぐ顔を真っ赤にしさせる。鼻血まで流すこともありました。 酒乱? いまの(仲井真)知事の方が百倍酒乱です・・・・・」

酔うと批判者に暴力をふるい「一フィート」も引きずり廻す元知事にも驚くが、

その百倍も酒乱という現役知事の話にも言葉を失う。

だが、かくいう筆者も仲井真氏が知事になる前の沖縄電力社長時代、たまたま行った居酒屋で仲井真氏に遭遇しその酒乱の片鱗を拝ましてもらったがここでは省略する。

1フィート運動を上原氏が始めたことを示す記事が琉球新報に掲載されている。

10日付朝刊社会面は、ドキュメンタリー作家・上原正稔さんが米公文書館で入手した沖縄戦の映像を紹介した。沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会は顔なしである。上原さんの行動と成果を見るにつけ、かつて1フィート事務局で手伝いをしたことのある私は「何だかなぁ」と思わざるを得ない。もともと1フィート運動は上原さんたちが始めたと聞く。であるならば、上原さんに1フィート運動の会に戻っていただいて再生を図るくらいのことをしてもいいのではないか。>(久場由紀子さんの<紙面批評>を絶賛する ~沖縄王版『琉球新報』紙面批評(2004年1~2月分) より)

上原氏や太田氏のように登場する怪人たちを一々紹介していたら切がないないので、他の怪人達については同書を読んでいただくとして、目次の冒頭にある次の章について触れたておきたい。

「お約束」の島から「物語」の島へ

この章の最後の部分にこうある。

・・・私は沖縄を日本の暗部を一身に背負わされた被害者の島という文脈だけで語ろうとは思わない。・・・・・・

忘れてならないのは、被害、加害の「大文字」議論にはさまれて、当の沖縄人たちが、戦後つむいできた可笑しくも悲しい物語が封殺されようとしていることである。 私は本書で、その封印をすべて開封するつもりである。>

そう、沖縄の書店に並ぶ沖縄戦史モノや沖縄紙の紙面で識者が語るのは、「お約束」の「大文字言葉」であり、沖縄の実情を伝えていない。

これまで当日記が「お約束」の「大文字言葉」に反するような文言を書くと「この男は沖縄人を騙るヤマトンチュであり、沖縄人がこのようなことを書くはずがない」とか「コイツは裏切り者だ」といったコメントが殺到した時期があった。

これでは沖縄人である限りすべてが金太郎飴のように同じ意見、つまり「大文字言葉」の意見を持たねばならぬということになる。

これでは沖縄は「同調圧力」を超えた北朝鮮のような所だといわれても仕方がない。

佐野眞一氏が言う「大文字言葉」の意味は、『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』の「はじめに」に説明されているので一部を抜粋して以下に引用する。

                     ◇

 『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』佐野眞一著

「はじめに」より

沖縄についてはこれまで夥しい数の本が書かれてきた。だが私から言わせれば、ほとんどが“被害者意識”に隈取られた“大文字”言葉で書かれており、目の前の現実との激しい落差に強い違和感をおぽえる。
 
沖縄本を覆う違和感とは何か。大江健三郎の『沖縄ノート』に象徴される「本土から沖縄に怒られに行く」「戦争の被害をすべて引き受けた沖縄に謝りに行く」という姿勢である。
 渡嘉敷島の集団自決問題の論争で、大江をエキセントリックに攻撃する漫画家の小林よしのりを擁護する気は毛頭ない。
 だが、
大江は沖縄県民を一点の汚れもない純粋無垢な聖者のように描き、そうした中で自分だけは疚しさをもつ善良な日本人だと宣言し、ひとり悦に入っている、という小林よしのりの大江批判にはそれなりの説得力がある。
 沖縄県民を聖者化することは、彼らを愚弄することとほぼ同義だと私は考えている。そこには、沖縄の歴史を一九四五(昭和二十)年六月二十三日の沖縄戦終結の時点に固定化させ、この島にその後六十年以上の歳月が流れたことをあえて無視しようとする欺瞞と、それにともなう精神の弛緩が垣間見えるからである。
 
大江や、これに同調する筑紫哲也の話題が出るたび、心ある沖縄人たちから「われわれを“褒め殺し”するのも、もういいかげんにしてくれ」という台詞が出る場面に、私は幾度となく遭遇した。
 こうした跪拝意識に“大文字言葉”が加わって、沖縄は米軍に占領された被支配者の島である、といった左翼宣伝ビラでもいまどき書かないようなプロパガンダ本が、うんざりするほど生産されることになった。

“大文字言葉”とは何か。いい機会なので、ここで私がよく便う「大文字」と「小文字」の違いについて、少し噛み砕いて述べておこう。
「So what?」という英語の慣用句がある。私流に訳せば「それでどうしたの?」という意味である。私が言う[大文字」言葉とは、聞いたときにはわかったような気にさせるが、あとから考えると「So what?」という疑問がわく言葉のことである。
 テレビに登場するコメンテーターが口にする一見もっともらしい発言は、だいたい[大文字」言葉だと思って間違いない。私は彼らのおごそかな口調の割には無内容なコメントを聞くたび「雨が降るから天気が悪い。悪いはずだよ、雨が降る」という俗謡を思い出してにが笑いする。
 彼らは同義反復しているだけで、実は何も言っていないのに等しい。何かを言っているように聞こえるのは、彼らの顔や仕草を見て、こちらが情報を補ってやっているからである。
 これに対して「小文字」とは、活字だけで世界がくっきり浮かび上がる言葉のことである。それは小さい声ながら、有無をいわせぬ力で読者をねじふせる。
 物事を「説くにには「大文字」言葉が便利だが、物事を「語る」には「小文字」言葉を身につけなければならない。「語って説かず」。それがノンフィクションの最大の要諦だと、私は常々言ってきた。

                    ◇

なるほど、沖縄、特に沖縄戦を語る言葉には「お決まり」の「大文字言」が沖縄情報として巷に氾濫していることが良く理解できる。

「大文字言葉」を語る代表が大江健三郎氏と筑紫哲也氏だという例えも分かりやすい。

このお二人を沖縄の良心のように扱う沖縄紙も「大文字言葉」に溢れていることになるわけだ。

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