狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

白旗の少女、新(7)貶められた旧日本兵、石原昌家氏「歴史捏造を恥じる」靖国合祀取消で原告証人/「自決軍命は虚偽」と証言

2024-07-10 16:59:24 | ★原稿
 
 
 

 

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沖縄メディアに登場する日本兵は、幼児を抱く母親を銃剣で威嚇する蝋人形(沖縄県平和祈念資料館)が象徴するように、米軍と戦うというより沖縄住民を虐殺するために沖縄に派遣されたかのような印象さえ与える。



 

実際はどうだったのか。

典型的な日本兵の暴状として頻繁に証言される「壕の追い出し」は、実際は一般住民を米軍の馬乗り攻撃から守るためだった。 

米軍の馬乗り攻撃とは、壕の上に米軍が馬乗り状態になり壕の中に潜む日本兵を火炎放射器、手榴弾などで攻撃し、日本兵の全滅を図る攻撃。

その際民間人が壕に留まったら、玉砕の巻き添えを食うことになる

昨年の6月、「沖縄靖国合祀取消訴訟」の原告敗訴が確定し、原告側証人石原昌家氏の証言が拙ブログ「石原教授の致命的証言!援護法申請で」などで、批判されるようになった。

■歴史捏造を恥じた石原氏

その後石原氏はジャーナリスト佐野眞一氏の取材に応えて「(自分らが歴史を)捏造した」「恥ずかしい」とまで吐露している。(佐野眞一著『僕の島は戦場だった』)

佐野氏の最新著『僕の島は戦場だった』から該当部分を引用する。

ーー「援護法」の適用にあたって最も多かったケースは何でしたか?

「壕の提供でした」

ーー壕の提供というと、自ら申し出たように聞こえますが、実際には軍の命令で強制立ち退きをさせられたわけですよね。

「ええそうです。一般の人の感覚で言えば、壕を追い出されたと感じたと思いますね。」

ーーでも、「壕を追い出された」では「戦闘参加者」にならず、「援護法」の対象にもなりませんよね。

「ええ、だから、マニュアルに従がって、”戦闘参加者”になるようにわれわれが代筆してあげたわけです」

ーー「つまり捏造した?」

「はい、そういうことです。 最初の通達では”戦闘参加者”は14歳までだったんです。 それが7歳まで引き下げられ、最後は0歳児まで認められるようになった」

零歳児が”戦闘参加者”に認められたのは、アメリカ軍が最初に上陸した慶良間での「集団自決」のケースである。

ーーそうしたことも”戦闘参加者”と認める業務をやってきたわけですね。 いま振り返ってどう思いますか。

まあ、恥を感じますよ。 おっしゃる通り、ゼロ歳児が”戦闘参加者”になるはずがありませんしね。 いまでも後ろめたく思っています」(50頁~51頁、佐野眞一著『僕の島は戦場だった』)。

       ☆

石原昌家沖縄国際大学名誉教授は、「沖縄靖国合祀取消訴訟」の原告側証人として証言台に立った。

そして「戦闘参加者」という援護法の受理条件を与えるため、「虚偽記入」を指導して援護法を適用させた事実を認めた。

石原氏は「大江・岩波集団自決訴訟」では被告側を支援し「軍命あり派」の論陣を張った。

その一方で、「沖縄靖国合祀取消訴訟」では、「軍命は『戦闘参加者』を作るための虚偽記入」であると白状したのだ。

石原氏は、同じ事案を同じ証拠物件で検証しておきながら、学者としての意見と、サヨク活動家としての意見が全く正反対であることを恥もなく法廷で証言してしまった。

学者の立場では、存在もしない「隊長命令」を援護金受給の方便として書いたと主張した。

イデオロギー活動家の立場では、国が援護法により歴史を捏造した主張する。

 しかし、いずれの場合も、結局は軍命は援護金受給のために「軍命による集団自決」と虚偽記入した事実を自供した結果になるのは皮肉である。

【追記】

下記引用の琉球新報は、タイトルは「歴史を政府が書き換えた、不実の記録」となっているが、実際は政府が援護法認定のために「軍命令があった」と申請すれば良いと示唆した内容である

結局、存在しなかった「軍命令」を政府が無理やりでっち上げて「援護法」の対象にしたというのだ。

したがって、そもそも軍の命令はなかったという証明にもなっている。

なお筆者の石原昌家教授は「集団自決」の「軍命あり派」の1人である。

学者の良心とイデオロギーの狭間に立たされる悩ましい論文ではある。

                     ◇

琉球新報 2006年12月7日(水)文化面

問われる「沖縄戦認識」 4  石原昌家 沖縄国際大学教授

不実の記録 政府が書き換え指導  援護法認定、「軍命」基準に

「援護法社会」の沖縄では、日本政府が琉球政府を介在して、沖縄戦体験者に「不実の記録」を指導していた。その構図は、「援護課」資料が浮き彫りにしている。

援護法」適用にのためという日本政府の「善意の外形」によって、一般住民の沖縄戦体験は「軍民一体の戦闘」という「靖国の視点」による沖縄戦認識として決定付けられることになった。「援護法」で一般住民を「戦闘参加者」として認定するにあたって、日本政府は軍命があったか否かを決め手にしていた。それでは沖縄県公文書館の「援護課」資料で、日本政府の「沖縄戦書き換えの指導」を具体的に見ていきたい。

▼軍命と積極的戦闘協力

1957年8月以降、一般住民の「戦闘参加者の申立書」の提出業務が開始されるや、「援護課」は、58年12月までには38,700件を受付して、厚生省に進達した。その後、5万件受付した段階で、那覇日本政府南方連絡所から61年6月30日で受付業務を締め切るよう通達を受けた。それで「援護課」としては4ヵ年で52、682件を受付処理したが、保留してあるのが12、241件にのぼった(61年7月14日援護課「沖縄戦関係戦闘参加者の処理について」)。

これらの援護業務の記録である「援護課」資料の1960年「戦闘参加者に関する資書類」の中に以下のような具体的「書き換え」指導文書が含まれている。

それは昭和34年10月12日付けで、厚生省引揚援護局未帰還調査部第4調査室長から、琉球政府社会局援護課長殿という宛書きで、「戦闘協力により死亡したものの現認証明について」というタイトルの文書である。

その内容は「別紙記載の戦闘協力者に対し、遺族より弔慰金の請求をされましたが、戦闘協力の内容が消極的に失すると審査課より返却されましたので、死亡者は、要請(指示)事項のみに終始したのではなく、当時の戦況から判断して現認証明事項の如きこともあったものと推定されるので、其の旨、審査課に回答した処、死亡の原因が回答のような積極的戦闘協力によるものであれば現認証明書を添付されたいとのことですが、現認欄記載の如き事項は、当時何人かが現認していると思われるがそうであったら然るべく御とりはからい願います」とある。ここで注目すべき点は、積極的戦闘協力が認定基準になっている、と窺われることである。

更に、62年1月、「戦闘参加者に関する書類綴」(援護課調査係)には、「戦闘参加者の申立書」に対して、厚生省から琉球政府への「要調査事項」として「昭20・5・10食料を求めるため部隊に行ったのは軍命令か、申立書の記述ではその点が不明確であるから解明されたい」と、軍命令の有無を重視している。その点については、「現認証明書を要する戦闘協力者氏名」の一覧表ではより明確な文言が記されている。

当時50歳の県庁職員が、「壕生活の指導並びに避難誘導のため麻文仁村に派遣された」が、「麻文村麻文仁で難民誘導の任務遂行中砲弾の破片により胸部に受傷戦死」したという現認証明に対して、「上記の理由では積極的戦闘協力とは認めがたいとの審査課の意見であるが、積極的戦闘協力の事実はないか 例えば軍命令により弾薬運搬又は食料の輸送の指導若しくは陣地構築の指導等の如きものとか、公務遂行中殉(職)というが、公務の内容はなにか 軍の命令により何か積極的戦闘協力はしたのか」などと具体的に書き方を指導しているのである。

▼0歳児の「準軍属」決定

同じく戦闘参加者についての申立書で未認定の当時9歳の学童のケースとして「壕」提供の記述例をあげよう。日本軍による住民に対する一般的な「壕追い出し」行為は、「艦砲弾が激しいため殆どの壕が破壊されたので作戦上壕を提供せよと命じられたので、軍に協力して他に避難場所を探し求めて彷徨している際、敵の小銃弾で頭部を撃たれ治療も出来ず出血多量で数時間後に死亡した」という表現パターンで、「壕提供」ということに書き換えが行われていった。

62年の同書類綴には、援護法の認定が保留になっていた座間味村の明治9年生が昭20年3月28日、「隊長命令による自決」という内容で「戦闘参加者」として認定されている。さらに66年「援護関係表彰綴」には、宮村幸延座間味村総務課長の「功績調書」に、「1957年8月、慶良間戦における集団自決補償のため上京す 1963年10月 集団自決6歳未満から0歳児まで(148名)準軍属に決定」と記されている。

「援護法で」で一般一般住民を「戦闘参加者」として認定し、「準軍属」扱いするには、6歳以上のもの対して「軍命令」によって「積極的戦闘協力」したものに限られていた。しかし、この「援護課」資料によれば、例外的に軍の命令を聞き分けられないと判断した6歳未満児でも、63年以降確定することになったようである。しかし、それは6歳未満への適用が一般化されるのが81年以降であるので、「戦闘参加概況表」の⑮集団自決に該当するケースのみであった。

かくて、集団自決と認定されると、沖縄戦では0歳児でも「準軍属」扱いされ、軍人同様に「靖国神社」に祭神に祀られることになったのである。

                   

■少女の後ろに身を潜め投降する卑劣な日本兵

「白旗の少女」として有名な比嘉富子さんは、沖縄メディアが記録映画にでてくる自分の映像を利用し、「白旗を掲げる少女を盾に投降する卑劣な日本兵」などと日本兵を貶めている事実を知った。 

そしてその捏造記事に出てくる日本兵の汚名をそそぐ目的で、自著『白旗の少女』で、日本兵の壕追い出しについて次のように述べている。

 

 

(比嘉さんが壕に潜んでいたら、日本兵が入ってきた。)

以下引用。

「5、6人の兵隊さんがやって来て、「どけどけ、ここでまもなく戦闘が始まるぞ!はやくほかえいけ!」とどなりました。わたしは夜になるのを待ちきれず、まだ日のあるうちにぬけ出し、あちこちのガマ(壕)からガマへとわたって、「ネェネェ、ネェネェ(オネーチャン・引用者注)」といいながら覗いては、先にガマに住んでいる人から、シ、シとまるで犬か猫のように追い出されるしまつでした。」

(負傷兵がいる壕に逃げ込んだ比嘉さんに、日本兵が語りかける。)

「『ねぇ、そこの」女の子。逃げるならいまのうちよ!もうすぐ、入り口をふさいで、爆弾でみんながしぬのよ。 それとも、わたしたちといっしょに死ぬ?』 わたしは、ぴくっと体をふるわせて、あわててガマをとびだしました。そしてできるだけ遠くへ逃げようと崖をおりました。 しばらくすると、うしろで大きな爆発音がして谷間にごうごうとこだましました。」

 

別のアングルから撮られた写真

少女を盾に投降する「卑劣な日本兵」とは、はメディアによって捏造された真っ赤な嘘であることがわかる

(「卑劣な日本兵」を捏造したのは沖縄タイムスの新川明記者(後に社長)である)白旗の少女

 

 

■世界日報 7月15日掲載

【連載】貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実 (8)
「パンドラ訴訟」/
梅澤、赤松両隊長の名誉回復を

 近年、沖縄戦関連で三つの裁判が行われ、そのうち一つは係争中である。
 既に最高裁判決が出た「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判」(大江・岩波訴訟)と「沖縄靖国合祀取消訴訟」、それに福岡高裁那覇支部で係争中の「パンドラの箱連載掲載拒否訴訟」(以後、「パンドラ訴訟」)である。

 三つの訴訟はそれぞれ原告と被告、そして表面上の訴因は違っているが、実質の争点が沖縄戦をめぐる認識であり、さらに論点を絞ると「沖縄戦と援護法の関係」になるという共通項を持つ。

 「大江・岩波集団自決訴訟」は最高裁判断で原告側の座間味島元戦隊長の梅澤裕氏や渡嘉敷島戦隊長の故赤松嘉次氏の弟、秀一氏が敗訴した。一方、最大の争点である「集団自決の軍命」については被告側は立証することができなかった。

 2012年6月15日、「沖縄靖国合祀訴訟」で原告側である遺族の敗訴が確定した。この裁判は沖縄戦などで亡くなった戦没者の遺族5人が「家族を靖国神社に無断でまつられ、肉親を自由に追悼する権利を侵害された」と主張して、靖国神社のほか、神社に戦没者の名前を提供した国に、合祀の取り消しと慰謝料の支払いを求めたもの。

 原告のリーダーである金城実氏は、父親の戦死を「犬死に」と罵ったが、援護金を返納してから訴訟に踏み切るのが筋だった。

 他の原告は、避難壕の外で死を迎えた主婦や2歳の幼児らの遺族らだが、援護法適用のため「準軍属」とされ、合祀された経緯があった。

 「パンドラ訴訟」は、琉球新報夕刊に2007年5月から掲載中の連載「パンドラの箱を開ける時」が急きょ中断したことに対して筆者の上原正稔氏が損害賠償を求めているもの。未掲載の部分は、米軍兵士の手記に基づき、慶良間諸島における集団自決の真相を解明するもので、両隊長の名誉回復に向けてのメッセージでもあった。

 沖縄戦史の捏造(ねつぞう)は軍命を必須条件とする援護法適用により生み出された悲劇であり、その一番の被害者が「軍命で住民を自決させた極悪人」という汚名を着せられた梅澤、赤松両隊長ということになる。

 上原氏は2011年1月、提訴時の記者会見の席で、梅澤、赤松両隊長に沖縄県民を代表して謝罪。「存在しない軍命令」で援護金を受給した沖縄人の複雑な心境を代弁した。

 しかし、沖縄のメディアはまるで申し合わせたように提訴の事実を黙殺し続けている。沖縄県民でさえ、この裁判のことを知る者はほとんどいないのが現状だ。両隊長の実質的な名誉回復こそが歪められた沖縄戦史を是正する第一歩ではなかろうか。

 上原氏は提訴に際し次のように述べている。

 <最終稿(181回目)で、赤松さんと梅澤さんは集団自決を命じておらず、それは援護法の適用外の住民が援護金を貰うために嘘の報告を出し、そのために赤松さんと梅澤さんをスケープゴートにしたのだ、という旨の原稿を出したら、(琉球)新報はその最終稿をボツにするという前代未聞の暴挙に出た>

 7月29日、「パンドラ訴訟」の高裁判決が下される。

(「沖縄戦の真実」取材班)

=終わり=

                 ☆

 沖縄メディアが報じる「残虐非道な日本兵」による「壕の追い出し」について、沖縄メディアが決して報じることのない証言を、昨日に引き続き紹介する。

■2、中曽根源良元警部(沖縄戦当時警防課課僚)の証言

「沖縄県警察史」平成5年3月 第二巻 711頁〜712頁 

  知念半島が安全地帯になるということで、その方向に住民を誘導した。住民は「友軍が負ける事は無い。友軍と一緒にいた方が安全だ」という事で友軍と一緒に南下する者が多かった。

 その頃から米軍は、非戦闘員・住民にビラを撒いた。米軍のビラには、安全地帯とそこに行く方法が指示されていた。道は、どこを通りなさい。昼間行動しない。手を挙げて、男は裸になりなさい等と色々親切に書かれていた。

 このビラを本島に信じて、その通りに行動した人たちは効果的に良かったと思う。

 警察は、住民を知念方面に誘導しょうとするが、うまくいかなかった。

住民誘導が上手く行かなかった理由は、米軍側最高司令官のバクナー中将の戦死のせいだといわれている。

日本軍沖縄守備隊と激烈な戦闘を展開した連合軍最高指揮官のバクナー中将が、6月18日喜屋武半島真栄里の高台の前線において海兵隊視察中に戦死した。

司令官の戦死により報復の念に燃える米軍は、投降を呼びかけてもそれに応じなければ一転して、容赦無い攻撃を続けた。

馬乗り、催涙ガス、黄燐弾、手榴弾、火焔放射等による攻撃が多く、時にはガソリンを流して火を放つなどもしている。また、三和地区では、国吉、真栄里が米軍の無差別攻撃を受けている。 

 

■3、 池原徳英 (沖縄戦当時 宮里徳英 警察特別行動隊員警部補)の証言

 「沖縄戦・敵中突破 -沖縄警察別動隊の記録-」 (新沖縄文学20号1971年7月 沖縄タイムス社)157頁 

辻町方面に派遣された小隊等は、大きな自然壕に避難していた千名以上の市民に誘導しようとしたが、応じなかったので、抜刀して壕外に追い出し、隊員が一糸乱れぬ統制下の下に、冷静な行動で、郊外に避難させた。

 

■4、壕の追い出しという山川氏の証言

 1971年11月号 潮 「生き残った沖縄県民100人の証言」

 繁多川の壕には島田知事はじめ、那覇署の本部員、真和志村の玉城村長は職員とその家族など百数十名がこもっていた。

 5月10日ころ、球部隊のある中隊から那覇署に対し、作戦上の必要といって繁多川の洞窟を明け渡すように要求される。

 翌朝「真和志村長は何処だ!真和志村長はいるか」とどなる大声で、皆いっせいに飛おきた・・略・役場職員とその家族およそ70人を、那覇署員が手分けして誘導し、壕を探すことにした。こうしてこの人々は、50日間住み慣れた繁多川の洞窟をあとにした。・・・ 略・・彼等を誘導した警官たちの報告によると「途中で砲弾や機銃をうけ、幾人かが倒れ、また幾人かが傷つき、そのうえ行く先々のどの壕も、どの墓も負傷兵や避難民がいっぱいで中に入れてもえらえず、ついに散り散りになった」という。玉城村長も夫婦二人きりになって、転々と避難をつづけていたが負傷して死んでいったといわれる。《那覇市史 2-6(八)島尻郡旧真和志村戦争記28~29頁》

  

■ 《球部隊の壕の退去勧告は、避難勧告であった可能性が高いと判断できる記録》

 ①1993年3月22日発行 沖縄県警察史 第2巻(昭和前編)によると、

  5月12日、荒井警察部長は警察特別行動隊を編成し出発させる。その頃、戦線の切迫に伴って那覇警察署は繁多川の壕から真玉橋に移動した、と記されている。

 ②2003年4月25日発行 沖縄の島守 によると、4月24日 日本軍防御第二線が米軍によって突破された為、第32軍司令部は島田知事に「首里・那覇地区の非戦闘員は即刻立ち退き、29日ころまでに南部地区に非難せよ」と下令、島田知事は27日に南部の市町村長・署長会議を招集。

 5月4日黎明、日本軍防御第三線を死守する為、日本軍は総攻撃をかけるが、失敗。戦線はさらに押し下げられ首里周辺に危機が迫った。

 ③防衛省 沖縄戦の記録より 

 4月22日、第32軍司令部は、第24師団と独立混成第44旅団(島尻在)の北方陣地(首里付近)への転用を決心した。(前田高地以西は第62師団、以東は第24師団)この時独立混成旅団も北進を命ぜられた旅団司令部は識名にあった。独立混成第15連隊が真和志村一帯に展開する(28日から29日)第1大隊は松川付近、第2大隊は壷屋付近に展開。即ち、真和志村一帯は、独立44旅団が陣地を占領して、近く激戦が予想される地域である。

 

新(7)貶められた旧日本兵、石原昌家氏「歴史捏造を恥じる」靖国合祀取消で原告証人/「自決軍命は虚偽」と証言

2021-06-28 11:08:59 | ★改定版集団自決

■世界日報 7月15日掲載

【連載】貶められた旧日本兵 石原昌家氏「歴史捏造を恥じる」「援護法」に隠された沖縄戦の真実(7)

石原昌家氏「歴史捏造を恥じる」靖国合祀取消で原告証人/「自決軍命は虚偽」と証言


   集団自決は、沖縄だけではなく樺太や満州でも起きていた。それでは、なぜ沖縄の集団自決だけが大きく問題にされるのだろうか。

 理由の一つが「援護法」の沖縄県民への拡大適用。もう一つが沖縄タイムス社編「鉄の暴風」(朝日新聞)、大江健三郎著「沖縄ノート」(岩波出版)などの沖縄戦関連書籍による元隊長に対するいわれなき誹謗(ひぼう)である。

   集団自決で特に問題にはならなかった沖縄本島中部の金武村(きんそん)(現在の金武町)では、援護金申請の依頼を受けた村の指導者が、すべての申請書に「軍の命令による」と記入し、命令を発した軍人の名を「田中軍曹」という架空の名前を使用した。

   架空の軍人を申請書に書いて援護金の受給を受けた成功談は、戦後金武町教育委員会町史編纂(へんさん)室に務めた奥間俊夫氏が高橋秀美著「からくり民主主義」(新潮社)の中でこう証言している。

   <もらえるものはもらいなさい、という役所の指導があって病気や空襲で死んだ人たちの遺族も便乗して申請したんです。申請書類には誰の命令で行動したか、を記入する欄があるんですが、なぜかほとんどが“田中軍曹”でして、調べてみるとそんな人は実在しないんです。

   「援護金」を受給するために“田中軍曹”という架空の日本兵をでっち上げ、村民が「口裏合わせ」をしたことで金武村の場合は丸く収まった。

   しかし、この場合、「戦闘参加者概況表」で示された集団自決の地域(座間味村、渡嘉敷村、伊江村)には該当しない。援護法が拡大適用され、それが黙認されたことが分かる。

   一方、渡嘉敷、座間味両村の場合は、実在の梅澤裕氏と赤松嘉次氏を「軍命を下した日本兵」と明記したため、その後に大きな問題を残した。歪曲(わいきょく)・捏造(ねつぞう)された証言も一旦、公的刊行物に掲載されると公式見解としての「沖縄戦史」として独り歩きすることになってしまう。

   石原昌家沖国大名誉教授は、「沖縄靖国合祀(ごうし)取消訴訟」では原告(遺族)側の証人となって法廷に意見書を提出した上、証人にもなっている。石原氏は、沖縄戦で犠牲になった住民を靖国に合祀するため政府主導で「軍命による自決」などと「戦闘参加者」をつくって援護金を与え口封じした、という趣旨の意見書を提出した。

   ところが被告側弁護士の尋問で「歴史の改竄(かいざん)」について次のような証言をした。


 <被告弁護士 「事実と異なる内容の申請書を最初から出して、何の問題もなく適用された人も当然いますよね

 石原証人 「そうです。圧倒的ですよ」>

 
   「戦闘参加者」という援護法の受理条件を与えるため、「虚偽記入」を指導して援護法を適用させた事実を認めた。

   石原氏は、「大江・岩波集団自決訴訟」では被告側を支援し「軍命あり派」の論陣を張った一方で、「沖縄靖国合祀取消訴訟」では、「軍命は『戦闘参加者』を作るための虚偽記入」であると主張したのだ。

   

                ☆

 

沖縄メディアに登場する日本兵は、幼児を抱く母親を銃剣で威嚇する蝋人形(沖縄県平和祈念資料館)が象徴するように、米軍と戦うというより沖縄住民を虐殺するために沖縄に派遣されたかのような印象さえ与える。



 

実際はどうだったのか。

典型的な日本兵の暴状として頻繁に証言される「壕の追い出し」は、実際は一般住民を米軍の馬乗り攻撃から守るためだった。 

米軍の馬乗り攻撃とは、壕の上に米軍が馬乗り状態になり壕の中に潜む日本兵を火炎放射器、手榴弾などで攻撃し、日本兵の全滅を図る攻撃。

その際民間人が壕に留まったら、玉砕の巻き添えを食うことになる

昨年の6月、「沖縄靖国合祀取消訴訟」の原告敗訴が確定し、原告側証人石原昌家氏の証言が拙ブログ「石原教授の致命的証言!援護法申請で」などで、批判されるようになった。

■歴史捏造を恥じた石原氏

その後石原氏はジャーナリスト佐野眞一氏の取材に応えて「(自分らが歴史を)捏造した」「恥ずかしい」とまで吐露している。(佐野眞一著『僕の島は戦場だった』)

佐野氏の最新著『僕の島は戦場だった』から該当部分を引用する。

ーー「援護法」の適用にあたって最も多かったケースは何でしたか?

「壕の提供でした」

ーー壕の提供というと、自ら申し出たように聞こえますが、実際には軍の命令で強制立ち退きをさせられたわけですよね。

「ええそうです。一般の人の感覚で言えば、壕を追い出されたと感じたと思いますね。」

ーーでも、「壕を追い出された」では「戦闘参加者」にならず、「援護法」の対象にもなりませんよね。

「ええ、だから、マニュアルに従がって、”戦闘参加者”になるようにわれわれが代筆してあげたわけです」

ーー「つまり捏造した?」

「はい、そういうことです。 最初の通達では”戦闘参加者”は14歳までだったんです。 それが7歳まで引き下げられ、最後は0歳児まで認められるようになった」

零歳児が”戦闘参加者”に認められたのは、アメリカ軍が最初に上陸した慶良間での「集団自決」のケースである。

ーーそうしたことも”戦闘参加者”と認める業務をやってきたわけですね。 いま振り返ってどう思いますか。

まあ、恥を感じますよ。 おっしゃる通り、ゼロ歳児が”戦闘参加者”になるはずがありませんしね。 いまでも後ろめたく思っています」(50頁~51頁、佐野眞一著『僕の島は戦場だった』)。

       ☆

石原昌家沖縄国際大学名誉教授は、「沖縄靖国合祀取消訴訟」の原告側証人として証言台に立った。

そして「戦闘参加者」という援護法の受理条件を与えるため、「虚偽記入」を指導して援護法を適用させた事実を認めた。

石原氏は「大江・岩波集団自決訴訟」では被告側を支援し「軍命あり派」の論陣を張った。

その一方で、「沖縄靖国合祀取消訴訟」では、「軍命は『戦闘参加者』を作るための虚偽記入」であると白状したのだ。

石原氏は、同じ事案を同じ証拠物件で検証しておきながら、学者としての意見と、サヨク活動家としての意見が全く正反対であることを恥もなく法廷で証言してしまった。

学者の立場では、存在もしない「隊長命令」を援護金受給の方便として書いたと主張した。

イデオロギー活動家の立場では、国が援護法により歴史を捏造した主張する。

 しかし、いずれの場合も、結局は軍命は援護金受給のために「軍命による集団自決」と虚偽記入した事実を自供した結果になるのは皮肉である。

【追記】

下記引用の琉球新報は、タイトルは「歴史を政府が書き換えた、不実の記録」となっているが、実際は政府が援護法認定のために「軍命令があった」と申請すれば良いと示唆した内容である

結局、存在しなかった「軍命令」を政府が無理やりでっち上げて「援護法」の対象にしたというのだ。

したがって、そもそも軍の命令はなかったという証明にもなっている。

なお筆者の石原昌家教授は「集団自決」の「軍命あり派」の1人である。

学者の良心とイデオロギーの狭間に立たされる悩ましい論文ではある。

                     ◇

琉球新報 2006年12月7日(水)文化面

問われる「沖縄戦認識」 4  石原昌家 沖縄国際大学教授

不実の記録 政府が書き換え指導  援護法認定、「軍命」基準に

「援護法社会」の沖縄では、日本政府が琉球政府を介在して、沖縄戦体験者に「不実の記録」を指導していた。その構図は、「援護課」資料が浮き彫りにしている。

援護法」適用にのためという日本政府の「善意の外形」によって、一般住民の沖縄戦体験は「軍民一体の戦闘」という「靖国の視点」による沖縄戦認識として決定付けられることになった。「援護法」で一般住民を「戦闘参加者」として認定するにあたって、日本政府は軍命があったか否かを決め手にしていた。それでは沖縄県公文書館の「援護課」資料で、日本政府の「沖縄戦書き換えの指導」を具体的に見ていきたい。

▼軍命と積極的戦闘協力

1957年8月以降、一般住民の「戦闘参加者の申立書」の提出業務が開始されるや、「援護課」は、58年12月までには38,700件を受付して、厚生省に進達した。その後、5万件受付した段階で、那覇日本政府南方連絡所から61年6月30日で受付業務を締め切るよう通達を受けた。それで「援護課」としては4ヵ年で52、682件を受付処理したが、保留してあるのが12、241件にのぼった(61年7月14日援護課「沖縄戦関係戦闘参加者の処理について」)。

これらの援護業務の記録である「援護課」資料の1960年「戦闘参加者に関する資書類」の中に以下のような具体的「書き換え」指導文書が含まれている。

それは昭和34年10月12日付けで、厚生省引揚援護局未帰還調査部第4調査室長から、琉球政府社会局援護課長殿という宛書きで、「戦闘協力により死亡したものの現認証明について」というタイトルの文書である。

その内容は「別紙記載の戦闘協力者に対し、遺族より弔慰金の請求をされましたが、戦闘協力の内容が消極的に失すると審査課より返却されましたので、死亡者は、要請(指示)事項のみに終始したのではなく、当時の戦況から判断して現認証明事項の如きこともあったものと推定されるので、其の旨、審査課に回答した処、死亡の原因が回答のような積極的戦闘協力によるものであれば現認証明書を添付されたいとのことですが、現認欄記載の如き事項は、当時何人かが現認していると思われるがそうであったら然るべく御とりはからい願います」とある。ここで注目すべき点は、積極的戦闘協力が認定基準になっている、と窺われることである。

更に、62年1月、「戦闘参加者に関する書類綴」(援護課調査係)には、「戦闘参加者の申立書」に対して、厚生省から琉球政府への「要調査事項」として「昭20・5・10食料を求めるため部隊に行ったのは軍命令か、申立書の記述ではその点が不明確であるから解明されたい」と、軍命令の有無を重視している。その点については、「現認証明書を要する戦闘協力者氏名」の一覧表ではより明確な文言が記されている。

当時50歳の県庁職員が、「壕生活の指導並びに避難誘導のため麻文仁村に派遣された」が、「麻文村麻文仁で難民誘導の任務遂行中砲弾の破片により胸部に受傷戦死」したという現認証明に対して、「上記の理由では積極的戦闘協力とは認めがたいとの審査課の意見であるが、積極的戦闘協力の事実はないか 例えば軍命令により弾薬運搬又は食料の輸送の指導若しくは陣地構築の指導等の如きものとか、公務遂行中殉(職)というが、公務の内容はなにか 軍の命令により何か積極的戦闘協力はしたのか」などと具体的に書き方を指導しているのである。

▼0歳児の「準軍属」決定

同じく戦闘参加者についての申立書で未認定の当時9歳の学童のケースとして「壕」提供の記述例をあげよう。日本軍による住民に対する一般的な「壕追い出し」行為は、「艦砲弾が激しいため殆どの壕が破壊されたので作戦上壕を提供せよと命じられたので、軍に協力して他に避難場所を探し求めて彷徨している際、敵の小銃弾で頭部を撃たれ治療も出来ず出血多量で数時間後に死亡した」という表現パターンで、「壕提供」ということに書き換えが行われていった。

62年の同書類綴には、援護法の認定が保留になっていた座間味村の明治9年生が昭20年3月28日、「隊長命令による自決」という内容で「戦闘参加者」として認定されている。さらに66年「援護関係表彰綴」には、宮村幸延座間味村総務課長の「功績調書」に、「1957年8月、慶良間戦における集団自決補償のため上京す 1963年10月 集団自決6歳未満から0歳児まで(148名)準軍属に決定」と記されている。

「援護法で」で一般一般住民を「戦闘参加者」として認定し、「準軍属」扱いするには、6歳以上のもの対して「軍命令」によって「積極的戦闘協力」したものに限られていた。しかし、この「援護課」資料によれば、例外的に軍の命令を聞き分けられないと判断した6歳未満児でも、63年以降確定することになったようである。しかし、それは6歳未満への適用が一般化されるのが81年以降であるので、「戦闘参加概況表」の⑮集団自決に該当するケースのみであった。

かくて、集団自決と認定されると、沖縄戦では0歳児でも「準軍属」扱いされ、軍人同様に「靖国神社」に祭神に祀られることになったのである。

                                 

           

■少女の後ろに身を潜め投降する卑劣な日本兵

「白旗の少女」として有名な比嘉富子さんは、沖縄メディアが記録映画にでてくる自分の映像を利用し、「白旗を掲げる少女を盾に投降する卑劣な日本兵」などと日本兵を貶めている事実を知った。 

そしてその捏造記事に出てくる日本兵の汚名をそそぐ目的で、自著『白旗の少女』で、日本兵の壕追い出しについて次のように述べている。

 

 

(比嘉さんが壕に潜んでいたら、日本兵が入ってきた。)

以下引用。

「5、6人の兵隊さんがやって来て、「どけどけ、ここでまもなく戦闘が始まるぞ!はやくほかえいけ!」とどなりました。わたしは夜になるのを待ちきれず、まだ日のあるうちにぬけ出し、あちこちのガマ(壕)からガマへとわたって、「ネェネェ、ネェネェ(オネーチャン・引用者注)」といいながら覗いては、先にガマに住んでいる人から、シ、シとまるで犬か猫のように追い出されるしまつでした。」

(負傷兵がいる壕に逃げ込んだ比嘉さんに、日本兵が語りかける。)

「『ねぇ、そこの」女の子。逃げるならいまのうちよ!もうすぐ、入り口をふさいで、爆弾でみんながしぬのよ。 それとも、わたしたちといっしょに死ぬ?』 わたしは、ぴくっと体をふるわせて、あわててガマをとびだしました。そしてできるだけ遠くへ逃げようと崖をおりました。 しばらくすると、うしろで大きな爆発音がして谷間にごうごうとこだましました。」

 

別のアングルから撮られた写真

少女を盾に投降する「卑劣な日本兵」とは、はメディアによって捏造された真っ赤な嘘であることがわかる

(「卑劣な日本兵」を捏造したのは沖縄タイムスの新川明記者(後に社長)である)白旗の少女

 

 

■世界日報 7月15日掲載

【連載】貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実 (8)
「パンドラ訴訟」/
梅澤、赤松両隊長の名誉回復を

 近年、沖縄戦関連で三つの裁判が行われ、そのうち一つは係争中である。
 既に最高裁判決が出た「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判」(大江・岩波訴訟)と「沖縄靖国合祀取消訴訟」、それに福岡高裁那覇支部で係争中の「パンドラの箱連載掲載拒否訴訟」(以後、「パンドラ訴訟」)である。

 三つの訴訟はそれぞれ原告と被告、そして表面上の訴因は違っているが、実質の争点が沖縄戦をめぐる認識であり、さらに論点を絞ると「沖縄戦と援護法の関係」になるという共通項を持つ。

 「大江・岩波集団自決訴訟」は最高裁判断で原告側の座間味島元戦隊長の梅澤裕氏や渡嘉敷島戦隊長の故赤松嘉次氏の弟、秀一氏が敗訴した。一方、最大の争点である「集団自決の軍命」については被告側は立証することができなかった。

 2012年6月15日、「沖縄靖国合祀訴訟」で原告側である遺族の敗訴が確定した。この裁判は沖縄戦などで亡くなった戦没者の遺族5人が「家族を靖国神社に無断でまつられ、肉親を自由に追悼する権利を侵害された」と主張して、靖国神社のほか、神社に戦没者の名前を提供した国に、合祀の取り消しと慰謝料の支払いを求めたもの。

 原告のリーダーである金城実氏は、父親の戦死を「犬死に」と罵ったが、援護金を返納してから訴訟に踏み切るのが筋だった。

 他の原告は、避難壕の外で死を迎えた主婦や2歳の幼児らの遺族らだが、援護法適用のため「準軍属」とされ、合祀された経緯があった。

 「パンドラ訴訟」は、琉球新報夕刊に2007年5月から掲載中の連載「パンドラの箱を開ける時」が急きょ中断したことに対して筆者の上原正稔氏が損害賠償を求めているもの。未掲載の部分は、米軍兵士の手記に基づき、慶良間諸島における集団自決の真相を解明するもので、両隊長の名誉回復に向けてのメッセージでもあった。

 沖縄戦史の捏造(ねつぞう)は軍命を必須条件とする援護法適用により生み出された悲劇であり、その一番の被害者が「軍命で住民を自決させた極悪人」という汚名を着せられた梅澤、赤松両隊長ということになる。

 上原氏は2011年1月、提訴時の記者会見の席で、梅澤、赤松両隊長に沖縄県民を代表して謝罪。「存在しない軍命令」で援護金を受給した沖縄人の複雑な心境を代弁した。

 しかし、沖縄のメディアはまるで申し合わせたように提訴の事実を黙殺し続けている。沖縄県民でさえ、この裁判のことを知る者はほとんどいないのが現状だ。両隊長の実質的な名誉回復こそが歪められた沖縄戦史を是正する第一歩ではなかろうか。

 上原氏は提訴に際し次のように述べている。

 <最終稿(181回目)で、赤松さんと梅澤さんは集団自決を命じておらず、それは援護法の適用外の住民が援護金を貰うために嘘の報告を出し、そのために赤松さんと梅澤さんをスケープゴートにしたのだ、という旨の原稿を出したら、(琉球)新報はその最終稿をボツにするという前代未聞の暴挙に出た>

 7月29日、「パンドラ訴訟」の高裁判決が下される。

(「沖縄戦の真実」取材班)

=終わり=

                 ☆

 沖縄メディアが報じる「残虐非道な日本兵」による「壕の追い出し」について、沖縄メディアが決して報じることのない証言を、昨日に引き続き紹介する。

■2、中曽根源良元警部(沖縄戦当時警防課課僚)の証言

「沖縄県警察史」平成5年3月 第二巻 711頁〜712頁 

  知念半島が安全地帯になるということで、その方向に住民を誘導した。住民は「友軍が負ける事は無い。友軍と一緒にいた方が安全だ」という事で友軍と一緒に南下する者が多かった。

 その頃から米軍は、非戦闘員・住民にビラを撒いた。米軍のビラには、安全地帯とそこに行く方法が指示されていた。道は、どこを通りなさい。昼間行動しない。手を挙げて、男は裸になりなさい等と色々親切に書かれていた。

 このビラを本島に信じて、その通りに行動した人たちは効果的に良かったと思う。

 警察は、住民を知念方面に誘導しょうとするが、うまくいかなかった。

住民誘導が上手く行かなかった理由は、米軍側最高司令官のバクナー中将の戦死のせいだといわれている。

日本軍沖縄守備隊と激烈な戦闘を展開した連合軍最高指揮官のバクナー中将が、6月18日喜屋武半島真栄里の高台の前線において海兵隊視察中に戦死した。

司令官の戦死により報復の念に燃える米軍は、投降を呼びかけてもそれに応じなければ一転して、容赦無い攻撃を続けた。

馬乗り、催涙ガス、黄燐弾、手榴弾、火焔放射等による攻撃が多く、時にはガソリンを流して火を放つなどもしている。また、三和地区では、国吉、真栄里が米軍の無差別攻撃を受けている。 

 

■3、 池原徳英 (沖縄戦当時 宮里徳英 警察特別行動隊員警部補)の証言

 「沖縄戦・敵中突破 -沖縄警察別動隊の記録-」 (新沖縄文学20号1971年7月 沖縄タイムス社)157頁 

辻町方面に派遣された小隊等は、大きな自然壕に避難していた千名以上の市民に誘導しようとしたが、応じなかったので、抜刀して壕外に追い出し、隊員が一糸乱れぬ統制下の下に、冷静な行動で、郊外に避難させた。

 

■4、壕の追い出しという山川氏の証言

 1971年11月号 潮 「生き残った沖縄県民100人の証言」

 繁多川の壕には島田知事はじめ、那覇署の本部員、真和志村の玉城村長は職員とその家族など百数十名がこもっていた。

 5月10日ころ、球部隊のある中隊から那覇署に対し、作戦上の必要といって繁多川の洞窟を明け渡すように要求される。

 翌朝「真和志村長は何処だ!真和志村長はいるか」とどなる大声で、皆いっせいに飛おきた・・略・役場職員とその家族およそ70人を、那覇署員が手分けして誘導し、壕を探すことにした。こうしてこの人々は、50日間住み慣れた繁多川の洞窟をあとにした。・・・ 略・・彼等を誘導した警官たちの報告によると「途中で砲弾や機銃をうけ、幾人かが倒れ、また幾人かが傷つき、そのうえ行く先々のどの壕も、どの墓も負傷兵や避難民がいっぱいで中に入れてもえらえず、ついに散り散りになった」という。玉城村長も夫婦二人きりになって、転々と避難をつづけていたが負傷して死んでいったといわれる。《那覇市史 2-6(八)島尻郡旧真和志村戦争記28~29頁》

  

■ 《球部隊の壕の退去勧告は、避難勧告であった可能性が高いと判断できる記録》

 ①1993年3月22日発行 沖縄県警察史 第2巻(昭和前編)によると、

  5月12日、荒井警察部長は警察特別行動隊を編成し出発させる。その頃、戦線の切迫に伴って那覇警察署は繁多川の壕から真玉橋に移動した、と記されている。

 ②2003年4月25日発行 沖縄の島守 によると、4月24日 日本軍防御第二線が米軍によって突破された為、第32軍司令部は島田知事に「首里・那覇地区の非戦闘員は即刻立ち退き、29日ころまでに南部地区に非難せよ」と下令、島田知事は27日に南部の市町村長・署長会議を招集。

 5月4日黎明、日本軍防御第三線を死守する為、日本軍は総攻撃をかけるが、失敗。戦線はさらに押し下げられ首里周辺に危機が迫った。

 ③防衛省 沖縄戦の記録より 

 4月22日、第32軍司令部は、第24師団と独立混成第44旅団(島尻在)の北方陣地(首里付近)への転用を決心した。(前田高地以西は第62師団、以東は第24師団)この時独立混成旅団も北進を命ぜられた旅団司令部は識名にあった。独立混成第15連隊が真和志村一帯に展開する(28日から29日)第1大隊は松川付近、第2大隊は壷屋付近に展開。即ち、真和志村一帯は、独立44旅団が陣地を占領して、近く激戦が予想される地域である。

コメント

★琉球新報の原稿削除の経緯。「全体主義の沖縄」狙われる沖縄、雑誌「WILL」で暴露!

2022-12-23 00:37:57 | ★原稿

 

 

 

 

「全体主義の沖縄」、雑誌「WILL」で暴露!2011-01-31

沖縄集団自決「軍の命令ではない」 地元誌が特集記事
産経新聞 2009.6.10

上原氏は長く「鉄の暴風」を疑ったことがなく、現地調査した作家の曽野綾子氏が1973年に「ある神話の背景」で疑問を呈したさいも、軍命による集団自決を事実として信じて疑わなかった。ところが、沖縄タイムスや琉球新報などで沖縄戦に関連した連載記事を書くうちに、新たな住民の証言や米軍の報告書などを入手、「(『鉄の暴風』は)現地調査しないまま軍命による集団自決をでっち上げたという結論に達した」という。

 上原氏によると、こうした結論を2年前に琉球新報で長期連載中の沖縄戦をめぐる記事に盛り込もうとしたところ、「新聞社側の圧力で断念せざるを得ず、『うらそえ文藝』での発表に踏み切った」と説明している。

 また、星氏も沖縄県史編纂(へんさん)で40年ほど前に、集団自決事件の起きた渡嘉敷島を訪問した際、住民の話から軍命の存在に疑問を抱いたが、「鉄の暴風」が沖縄県民の間で定着し、疑問を差し挟めない状況だった。しかし、「今回は勇気を持って真実を知らせるべきと決心した」と、話している。

 富田詢一・琉球新報社編集局長の話「上原氏への圧力はありません」

                        ◇ 

■琉球新報の言論封殺、雑誌「WILL」が暴露!

星、上原両氏の勇気ある告発にも関わらず、沖縄メディアは己が行った言論封殺を否定している。

だが、次に述べるように、筆者(狼魔人)は、何時でも琉球新報の言論封殺を読者として体感しており、法廷でも証言できる立場にある。

当時、筆者は琉球新報を購読し、上原氏の問題の連載記事を愛読していた。

 ところが、琉球新報は読者に一言の断りもなく同連載を「無期限中止」にした。 

筆者は何度も琉球新報に問い合わせの電話をした。

だが、対応した新報職員は中止の理由はもちろん、再開するかどうかについても納得できる説明はできず、「目下調整中」の一言しかなかった。 

その詳しい経緯については当日記でもしつこくエントリーしてある。

⇒ 【再掲】琉球新報の言論封殺に抗議します

琉球新報の上原正稔氏についての言論封殺については、さらには筆者(狼魔人)は、その年(2007年)の月刊誌『WILL』8月増刊号でも「偏向報道ウォッチング これが沖縄の言論封殺」と題する小論を書いている。

月刊誌『WILL』の一部を引用するとこうだ。

・・・平成19年6月19日は、琉球新報の長期特集記事(火曜から土曜の夕刊に掲載)の第二話「パンドラの箱を開ける時 沖縄戦の記録」の掲載予定日であった。 第一話「みんないなくなった 伊江島戦」が前日で終了、19日からは第二話「慶良間で何が起きたか」が始まる予定であった。 筆者上原正稔氏は掲載日の前、知人に「集団自決」に関するもので、圧力に屈することなく執筆する」と語っていたと聞いた。
「集団自決」というテーマは地元二紙を中心に沖縄メディアが“民意”を煽っている最もホットなテーマのはずだった。 言うまでもなく慶良間とは「集団自決」に関する「軍命令の有無」が問題になっている座間味島と渡嘉敷島を含む、慶良間諸島のことを指す。 
だが、その特集記事は、読者に何の断りもなく、突然、中止になった。執筆者あるいは新聞社側の「お知らせ」や「弁明」等は一行も掲載されていなかった。 
地元を代表する新聞が、「集団自決」に関する連載記事を突然中止したことに対しては当然、いろんな憶測が飛び交った。
「新聞を中心に展開されている教科書検定運動に水をかけることになる内容になるため」だとか、「編集担当者の態度に変化があり、今回の事態になった」とも言われた。 偏向記事で知られる沖縄紙ではあるが、連載中止という非常手段に打ってでるのはよっぽどのことがあったに違いない。 
上原氏の連載が中止された日の朝刊、文化面のトップに林博史関東学院大学教授の「沖縄戦」特集の第一回目が掲載されていた。 林教授といえば日本軍は残虐非道だと糾弾するサヨク学者で、「集団自決訴訟」でも被告側の証拠を収集したことで知られている。
上原氏の記事「慶良間で何が起きたか」には、一体、琉球新報を動揺させるどんな内容が書かれていたのだろうか。(月刊誌『WILL』より)

上原氏の封殺された原稿には、まさに琉球新報が動揺するような「慶良間島の真実」が描かれていたのである。

上原氏は琉球新報のあからさまな言論封殺に遭い、遂に地元の文芸誌『うらそえ文藝』に「慶良間島で何が起きたか」の内容を発表するという非常手段に訴えたのだ。

ところが沖縄二紙は、『うらそえ文藝』が発刊された後一か月経過しても黙殺を続けた。

上原氏は沖縄二紙の黙殺という卑怯な態度に業を煮やし、記者会見に踏み切った。

さて、琉球新報に突然の連載中止を受けた後、琉球新報は読者に向かってその顛末をどのように説明したのか。

当日記はこれについても、しつこくエントリーしている。

 ⇒再開された上原正稔氏の特集  パンドラの箱は開くか?

四ヶ月にも渡る長期中断の後(その間に「11万人集会」が行われた)、連載再開に当たって琉球新報は連載中止には一言も説明せず、卑怯にも執筆者の上原氏に苦しい弁解を強いてお茶を濁した。

『WILL』にその後の経緯についても書いてあるので、引き続き同記事を引用する。

10月16日、連載再会の冒頭で、執筆者の上原氏は次のような弁明をした。《「パンドラの箱の順序も中身もちょっと変更を加えることにしたのでご了承お願いしたい。 だが、読者が「あっ」と驚く話が続くことには何ら変わりはない》
前述のように事前の予告では「慶良間で何が起こったか」を明らかにし、集団自決の真実を白日の下にさらすとのことだった。 
しかし、再開した上原氏の原稿タイトルは「軍政チームは何をしたか」であった。 「集団自決」が起きた1945年3月下旬の慶良間を飛び越えて、4月以降の沖縄本島の米軍上陸、投降住民の管理の模様を記しており、「慶良間に何が起こったか」については触れていない。(『WILL』より)

では、問題の『うらそえ文藝』で上原氏は自分が琉球新報から受けた言論封殺をどのように語っているのか。

 そうですね。現在でもある意味では統制されているわけですからね。

 上原 もう完全に右も左も統制です。僕は琉球新報のⅯ(※)記者たちに「パンドラの箱…」の掲載をストップさせられた。怒鳴りつけてやった。「君らは表現の自由を知ってるか」ってね。しかし動じる様子もなかった。連載は二〇〇七年四月から四ケ月も中断した。

  社の方針に反するということだろうね。それはまたその人たちも統制の枠の中にいるってことだが、意識してないかもしれない。

 上原 彼らはまず沖縄の知識人、自分たちは文化人だと思い込んでいるんですよ。それで自分たちの発言や行動はすべて正しいと思っているわけです。

 星 正しいかどうかは何十年か何百年か経たないと分からない。

 上原 いつも彼等は正しいと思ってる。だから、僕が本当のことを書こうとしたら、もう読みもしないうちからストップかけるわけです。これは新報の編集方針に反するからといってね。僕は二回にわたって四人組の記者から吊し上げられ、連載を申止させられた。一番腹が立ったのはM記者だったが、彼も新聞社をバックに空威張りしたのにすぎない。彼等も統制のオリの中にいるわけですよ。

注(※)Ⅿ記者とは当時上原さんの原稿を担当していた前泊盛博記者。

前泊記者は上原さんを言論封殺した功績で、沖縄国際大学教授に出世している。

一方上原さんを批判する沖縄タイムスの屋良朝博記者はめでたく国会議員に出世した。

一方、上原さんを支援した星雅彦さんは琉球新報・沖縄タイムスへの連載を断られ失職中である。

             ★

産経新聞はどのように報道したか。

産経新聞の那覇支局は、県庁近くの琉球新報の旧本社社屋内に事務所を間借りしている。 

沖縄タイムス社内に事務所を構える朝日新聞那覇支局なら、お互いに同じ論調なので問題はないが、琉球新報が大家さんに当たる産経那覇支局としては、大家が報道しない記者会見を報じるのは大家の顔に泥を塗るとになるとでも思ったのか、昨日の記事でも記者会見そのものについては触れていない。

だが、産経は昨日の記事で、上原氏が琉球新報で長期連載中の沖縄戦をめぐる記事に盛り込もうとしたところ、「新聞社側の圧力で断念せざるを得ず、『うらそえ文藝』での発表に踏み切った」というくだりに関して、富田詢一・琉球新報社編集局長の裏付けのコメントを取っている。

当然のごとく琉球新報の富田詢一・編集局長は「上原氏への圧力はありません」と上原氏の発言を否定している。

だが執筆者の上原さんが前日に予告までした最も書きたい記事、同時に読者も最も読みたがっていた記事が掲載予定日になって、何の断りもなく「無期中断」を強いられた。 富田編集局長は、これが新聞社の圧力でなければ一体誰の圧力だったと強弁するつもりか。

この「圧力の有無」で訴訟が起きるとは思わないが、その時は「狼魔人日記」と『WILL』の記事が大きな証拠物となるであろう。(笑)

【追記】(その後、上原さんは琉球新報を提訴している)

上原さんの勝訴確定については、次回掲載。

何しろ電話で問い合わせたときの新報職員の動揺ぶりはただ事ではなかった。

なお『WILL』(2008年8月増刊号)の記事にはほかにも、小林よしのり氏が琉球新報の罠にかかって、沖縄紙を根城にする「サヨク知識人」たちに袋叩きに遭う様子も「罠にかかった小林よしのり」という項目を設けて書いているので、興味のある方は一読をお願いしたい。

 

今回の星、上原両氏の沖縄マスコミへの挑戦に対して、沖縄タイムスや琉球新報に相手にされないのでその鬱憤晴らしの記者会見といったデマを流しているサヨクブログがある。

両氏は、少なくとも沖縄では知名人であり、上原氏は琉球新報に長期連載記事を書いていたし、星氏は沖縄紙の文化面の常連ともいえるほど頻繁にその論が掲載されており、昭和44年3月には第3回沖縄タイムス芸術選賞奨励賞を受賞しているくらいで、両氏とも沖縄メディアに冷たくされるどころか、大変重宝されていた知識人である。 

サヨクブログの誹謗は両氏の勇気ある発言に動揺し、これに反論しようとしても、やっかみと中傷の暴言を吐く以外に打つ手がないのであろう。これをゴマメの歯軋りと人はいう。

沖縄県庁での記者会見の内容を、地元紙が黙殺し、ほとんどの県民はつんぼ桟敷に置かれている。 わずかに全国紙を購読している一部の県民が会見の模様を全国紙で知るという異常な事態が沖縄の言論空間である。

これこそ沖縄が「全体主義の島」と呼ばれる所以である。

 

沖縄戦「集団自決」
狙われる沖縄

■目次 
 緊急特別対談 
■田久保忠衛×櫻井よしこ
「沖縄的なるもの」の正体

■渡部昇一
歴史教育を歪めるもの

 梅澤少佐独占手記 
■梅澤裕 (聞き手・鴨野守)
私は集団自決など命じていない

■藤岡信勝
教科書記述問題の決定版
文科省再検定で大膨張する反軍記述

■曽野綾子
強制された死か、個人の尊厳か

■鴨野守
村民多数を手にかけた
「悲劇の証人」金城牧師

 【特集】大江健三郎に問う! 
■曽野綾子
神の座に就いた作家と裁判官
■藤岡信勝
大江健三郎“勝訴”の深見判決を斬る
■徳永信一
ノーベル賞作家のまやかしのレトリック
■松本藤一
大江健三郎と岩波書店は不誠実だ
■松本藤一
沖縄の言論封鎖で住民は再び殺される
■飯嶋七生
母の「遺言」はなぜ改変されたか

 「反日」の沖縄 
■藤岡信勝・鴨野守
沖縄タイムスの「不都合な真実」
■皆本義博
渡嘉敷島、中隊長が語る「集団自決」の現場
■奥 茂治
沖縄タイムスを使った米軍の住民洗脳工作
■勝岡寛次
米軍の「心理作戦」で日本軍は沖縄の敵となった
江崎 孝
偏向ウォッチング これは沖縄の言論封殺だ

■グラビア特集
沖縄の「戦争」

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 ■「潜在主権」と「天皇メッセージ」

2022-12-19 17:22:44 | ★原稿
 

 

 ■「潜在主権」と「天皇メッセージ」

大田海軍中将の電文や関係者の努力だけで法治に厳しい日本の官僚機構である厚生省が、違法とも取れる拡大解釈までして沖縄住民に援護法の適用をした理由は解明できない。


ここで忘れてはならないのが沖縄の「潜在主権」にこだわった昭和天皇による「天皇メッセージ」の存在である。

もとより1979年にその存在が公表された「天皇メッセージ」を、1950年当時の関係者が知るはずもなかった。

 ただ昭和天皇が大田少将の電文を読んだ可能性は充分考えられる。理由は昭和天皇が20歳の皇太子時代、ヨーロッパ旅行時の船旅の第一歩を印されたのが沖縄であり、その沖縄が米軍の銃弾に蹂躙されたことを大田少将の電文で知り心を痛めたことも想像に難くないからだ。

人間誰しも多感な青春時代に訪れた土地の想い出が深く心に刻まれるもの。ましてや長いヨーロッパ旅行の船旅のお召し艦の艦長が沖縄出身の漢那憲輪和少将とあれば、皇太子時代の昭和天皇が船旅の最初に上陸した沖縄のことを特に身近な土地と考えてもおかしくはない。

裕仁親王は沖縄訪問を大変喜ばれ、外遊の日を記念して、毎年三月三日、艦長の漢那少将を始め関係者を宮中に招いて午餐会を催したという。

お召し艦「香取」が宮古列島沖を航行中、艦の甲板上に飛び魚が躍り込んできた。それから46年後の67(昭和42)年、宮中新年歌会始で、昭和天皇は皇太子時代沖縄で見た飛び魚を回想し和歌を詠まれた。

「わが船にとびあがりこし飛魚をさきはひとしき海を航きつつ」(「さきはひ」は幸いの意味) 

昭和天皇は青春時代に訪問された沖縄のことをしっかり心に刻んでおられ46年の時の経過を乗り越え青春時代の想い出を和歌に詠まれたのだ。御製碑は宮古神社に建立されている。

皇太子(裕仁親王)の沖縄訪問時、特筆すべきエピソードがある。最近の沖縄ブームで、沖縄ソバやゴーヤーチャンプルーなどが全国区になったが、それでも「エラブ海蛇」を食する人は極めて少ない。

 裕仁親王は沖縄県民でさえ好き嫌いの激しい沖縄特産の「エラブ海蛇」に興味を示され、漢那艦長に食べてみたいと所望された。

 艦長は急遽、「エラブ海蛇」を取り寄せて食卓に供した。裕仁親王は「たいへんおいしかった」と漢那艦長に告げている。

ここまで縷々と青春時代の昭和天皇と沖縄の関係について書いたのは、終戦直後の1947年の時点で、昭和天皇が当時既に米軍統治下にあった沖縄の将来について思いを馳せ、「臣吉田」と自称するほど昭和天皇を敬愛していた吉田茂首相を通じ、何らかの影響を厚生省に及ぼしていた事実を明らかにしたいからだ。 

吉田茂とダレスの熾烈な戦い/肉を切らせて骨を断つ

米軍は沖縄を「信託統治」により、将来は米国の自治領にしようと目論んでいた。 

昭和天皇は米国に対し「天皇メッセージ」と言う形で、次の4点を認めさせた。

(1)沖縄住民の主権の確保、「潜在主権」

(2)沖縄の分離ではなく期限付き租借、

(3)本土と同じ教育制度の継続(文部省教科書の使用)、

(4)本土と沖縄の経済関係の維持(援護法の優先的適用など)、を米国側に認めさせた。

これは紛れもない歴史の事実だ。

昭和天皇を敬愛していた吉田茂首相は、1951年の講和条約締結にあたり、米国務省顧問のアレン・ダレスと丁々発止の外交交渉をしたことが外交文書の公開で明らかになっている。

戦勝国の権威をバックに、自国の権益を要求するダレスに対し、まだ独立もままならぬ敗戦国の首相がどのような秘策で対応したのか。



吉田首相とダレスの交渉の前哨戦は、それに先立つマッカーサーと昭和天皇との「外交交渉」によって大方の下地は出来上がっていた。

 昭和天皇は、マッカーサーの6年間の在任中に11回も会談を持っている事実から、終戦直後のこの時期に「君臨すれども統治せず」という自身の信念を破って「天皇親政」による外交交渉を行っていたことがわかる。

 その期間に沖縄の将来を慮る「天皇メッセージ」が寺崎御用係を通じてワシントンに伝わった。

吉田首相は、昭和天皇の意を受け「潜在主権」という切り札を根拠に、骨を切らせて肉を断つ覚悟で、沖縄に関する上記の「本土と同じ教育制度の継続(文部省教科書の使用)」「本土と沖縄の経済関係の維持(援護法の優先的適用)など」、を米国側に認めさせた。

天皇メッセージとは何か

そもそも「天皇メッセージ」とは何か。 1979年、進藤栄一・筑波大学助教授(当時)が米国の公文書館から「マッカーサー元帥のための覚書」を発掘し、雑誌『世界』で発表したものを「天皇メッセージといいう。 

同覚書には、宮内府御用掛かり寺崎英成がGHQ政府顧問ウイリアム・シーボルトを訪れ、天皇からのメッセージを伝えたと記されている。

これがいわゆる「天皇メッセージ」とされるもので、概略こう述べられている。

「天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する考えを私に伝える目的で、時日をあらかじめ約束したうえで訪ねてきた。 寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。(略)さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の諸島)に対する米国の軍事占領は、日本が主権を残したままの長期租借ー25年ないし50年、あるいはそれ以上ーの擬制(フィクション)にもとづいてなされるべきだと考えている」

沖縄に流布する大きな誤解の一つだが、沖縄保守系にも「天皇メッセージ」とは昭和天皇が自身の延命のため「沖縄をアメリカに売り渡す」と書いた文書が米公文書館から発見された、と誤解する人が多い。

 だが、実際は「天皇の密書」が存在するわけではない。寺崎が昭和天皇の会話の中から沖縄についての陛下の「思い」を斟酌してシーボルトに伝え、それがシーボルトの手紙という形でワシントンに伝えられたのだ。

「天皇メッセージ」の重要ポイントは昭和天皇が、沖縄に「潜在主権」を強く望んだこと。つまり日本の主権を残したまま米国に統治を委任すること希望したことだが、これを親子の場合で言えば、次のように例えることができる。

破産状態で子(沖縄)を育てる経済力のない親(日本)が金持ち(米国)に、戸籍はそのまま残して一時里子に出したようなものであり、戸籍を移籍する養子縁組(米国領にすること)とは根本的に異なる。

当時戦勝国のリーダーであり世界一の経済力を誇る米国の統治下にあった沖縄では、食糧不足で喘ぐ祖国日本では食すること出来ない米国産の豊富な食料供給の恩恵に浴した。

 その名残の一つがランチョンミート(スパム)文化であり、戦前の沖縄にはなかったビーフステーキやハンバーガーなど現在も続く牛肉文化の繁栄である。

                    ◇

大江岩波訴訟は2005年に提訴されるが、2005年の時点で軍命派の先頭に立つ沖縄タイムスは未だ提訴の情報を得ていない。したがって「援護法のカラクリ」似ついて解説した当時の記事がオウンゴールになるとは夢にも思わなかったのだろう。 援護法の概略を知る参考になるので、古い沖縄タイムスの記事を引用する。

<沖縄タイムス 2005年3月4日 朝刊30面>

[戦闘参加者とは誰か](6)
申請
「救えるものは救おう」
役場職員も事務研究

 一九五七年、厚生省は、沖縄戦で亡くなった一般住民のどのような行動が「戦闘協力者」として、該当するかを調査した。その後、実際の受け付け業務は、琉球政府から委託され、各市町村役所が担当した。

 申請の過程でも、援護法が「軍への協力」を前提としていたため、そのことが、強調されていくこととなった。

 長嶺秋子さん(70)=糸満市=は五三年、兼城村役場(当時)の初代の援護係に着任し、その後八年間担当した。

 援護法の申請手続きは、兵隊や現地召集の防衛隊など軍人軍属が先だった。

 「軍人の場合は、政府から一次名簿というのが届いていた。しかし、戸籍がなく、仮戸籍で受け付けた。防衛隊の場合は名簿もないので、各字を回って、誰が隊員なのかを申告してもらった」

 地域の公民館に机を置き、住民が申請に来るのを待った。「援護金の支給があると言っても、なかなか信用してもらえなかった。『戦争のことは思い出したくない。辛いことを思い出すからやりたくない』。そんな声が聞こえてきた」と振り返る。

 その後に、一般住民が対象となる「戦闘参加者」の申請が続いた。

 申請には、戦没者氏名、生年月日、死亡月日、死亡場所に加え、どのようにして亡くなったかを記した「戦闘参加概況書」を添付する必要があった。

 職員は、概況書を基に、「戦闘参加者」の基準となる二十項目、「義勇隊」「直接戦闘」「弾薬運搬」「戦闘協力者」などの、どれに当たるのかを判断した。

 申請は、琉球政府を通して、厚生省援護局未帰還調査部に送付。厚生省は、添付資料を基に、「戦闘参加者」に「該当」するのか、否かの審査をした。その結果を「戦闘参加該当予定者名簿」として、市町村に送り返され、該当遺族に通知が送られた。

 厚生省へ送付される「戦闘参加概況書」では、住民が協力した、軍隊の部隊名も特定する必要があった。住民の立場からすると、混乱した戦場での正確な記憶が求められるのは、土台無理な話だった。しかし、書類はそれを要求していた。

 結局、申請を受け付けた役場職員が、日本軍の作戦状況を把握して、日時場所から、部隊名を記入することもあった。

 市町村の援護課職員は事務研究の連絡会をつくり「戦闘概況」について、どう記せばいいのかを検討し、連携したという。長嶺さんは「琉球政府の方針も、沖縄は復帰できるかも分からない、援助できるものは援助しようということでした」と振り返る。

 同村役場三代目の援護課担当だった大城美根子さん(62)は六五年に着任。当時の業務は、「戦闘参加該当予定者名簿」の中から、「『非該当』の人を『該当』となるように救うことだった」と振り返る。「沖縄戦で亡くなった人たちが、救えないのはおかしい。亡くなった人たちは、皆『戦闘協力者』だと思っています」と語る。(社会部・謝花直美)

 

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覆された集団自決の大嘘!「援護法」に隠された沖縄戦の真実

2022-12-19 13:19:50 | ★原稿
 

 


貶められた旧日本兵 「援護法」に隠された沖縄戦の真実
壕の提供/「軍の命令」記入で援護対象に

 昭和31年(1956年)、戦闘参加者の範囲を決定するため、厚生省援護課の職員らが沖縄に派遣され、沖縄戦の実態調査を行った。琉球政府社会局が昭和33年に発行した援護法関係出版物「援護のあゆみ」によると、沖縄県遺族連合会が職員と協議会を重ね、集団自決や壕(ごう)の提供などの事例についても援護法が適用されるよう強く求め、厚生省に陳情した。
 戦争の実態調査や要望を踏まえて厚生省援護課は、昭和32年7月、援護法の適用例を20種の分類で示した「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」を発表した。これまであいまいだった「戦闘参加者」の定義がこれによって明確になった。「戦闘参加者」の分類は以下の通りだ。

 ①義勇隊②直接戦闘③弾薬・食糧・患者等の輸送④陣地構築、⑤炊事・救護等雑役⑥食糧提供⑦四散部隊への協力⑧壕の提供⑨職域(県庁職員報道)関係⑩区(村)長としての協力⑪海上脱出者の刳船(くりぶね)輸送⑫特殊技術者(鍛冶屋)⑬馬糧蒐集(しゅうしゅう)⑭飛行場破壊⑮集団自決⑯道案内⑰遊撃戦協力⑱スパイ嫌疑による斬殺⑲漁撈(ぎょろう)勤務⑳勤労奉仕作業。

 20項目のいずれかに該当すれば、一般住民であっても軍属・軍人と同様に「戦闘参加者」として認定され「準軍属」に扱われた。その場合、軍命令に従い、「自己の意思」で戦闘に参加・協力したか否かだけが問われることとなった。当初は「小学校適齢年齢6歳以上」とされた。

 しかし、当時の厚生省、琉球政府、市町村、そして、遺族という四者の共同作業により、6歳未満にも援護法が適用されるようになった。

 金城和信遺族連合会会長(当時)は「援護のあゆみ」の中で、「遺族は勿論全住民が一体となってこれら戦没者の報国の精神に充二文(ママ)に応えるべく全機能を上げて一人でも時効失効なき様処理に万全を期さなければならないと強く日本政府及び琉球政府に訴えるものであります」と述べている。

 実際に「戦闘参加者」として援護法の申請をした事例を示す、沖縄県公文書館に保管されている「現認証明書」(請求時の障害が公務上の傷病であることを認めることができる書類)の文面を引用する。

 <右は昭和二十年六月二十日沖縄本島摩文仁村字摩文仁付近の戦闘間に於て球部隊司令部の下士官兵数名に避難壕を立ち退くよう要請され止むなく同壕を戦闘員のため提供して立ち退き、他の壕を求めて移動する際、至近に砲弾炸裂し、全身に砲弾破片創を負い、即死したことを同一行動中に確認致しましたのでその事実を証明します。
一九六〇年二月二十日>

 沖縄県遺族連合会のある幹部は「軍に積極的に協力して戦死したという表現でも厚生省から突っ返されました。『軍の命令によって』と書き込んで再送して受理されました」と振り返る。そこで、現認証明書に「軍の命令・要請による」という虚偽事実の記入をしたが、そのうち大半が「壕の提供」に関する内容だったという。

20項目のいずれかに該当すれば、一般住民であっても軍属・軍人と同様に「戦闘参加者」として認定され「準軍属」に扱われた。その場合、軍命令に従い、「自己の意思」で戦闘に参加・協力したか否かだけが問われることとなった。当初は「小学校適齢年齢6歳以上」とされた。

当時の厚生省は、本来なら民間人には適用されないはずの援護法を、可能な限り、というより「拡大解釈」をしてまで沖縄住民に適用しようとした。 そこに「軍命捏造」という意図せぬ結果が生じ、後に反日左翼勢力の付け込む隙を与えることになる。

政府(厚生省)は、軍命と明記されていない申請書には「軍命」という不実(嘘)を書くように暗示する「書き換え」の指導をした。

例を挙げると、厚生省の1960年「戦闘参加者に関する書類」に、次のような記載がある。

■昭和34年(‘59年)10月12日付け 厚生省引揚援護局未帰還調査部第四調査室長から琉球政府社会局援護課長 「戦闘協力により死亡したものの現認証明について」

≪別紙記載の戦斗協力者に対し、遺族より弔慰金の請求をされましたが、戦斗協力内容が消極的に失すると審査課より返却されたので、死亡者は要請(指示)事項のみに終始したのではなく、当時の戦況から判断して現認証明事項欄記載の如きこともあったものと推定されるのでその旨、審査課に回答した処、死亡の原因が回答のような、積極的な戦斗協力によるものであれば現認証明書を添付されたいとのことですが、現認証明欄の如き事項は、当時何人かが現認していると思われるがそうであったら然るべく御とりはからい願います≫

厚生省から琉球政府側への「指導」も1959年ごろまでは、「積極的な戦闘協力」などと曖昧な指導をしているが、沖縄住民の援護金申請は全て受理してあげたい、という善意が働き、厚生省の「指導文書」も1962年になると、以前に比べてあからさまな「軍命捏造」の指導が目立ってくる。

その例がこの文書だ。

 ■1962年1月「戦闘参加者に関する書類綴」(援護課調査係)

「戦闘参加者の申立書」に対して、厚生省から琉球政府

≪「要調査事項」昭和20年5月10日食糧を求めるため部隊に行ったのは、軍命令か 申請書の記述ではその点が不明であるから解明されたい≫

と軍命の有無を重視するよう明確に指導している

さらに具体的に個々の「戦闘協力者」を、「軍命による」と記入するように、その時の状況に至るまで「指導」した例が、次の例である。

これは現在のお役所の常識から考えれば、「越権行為」といわれても仕方がない「指導」である。

 

「現認証明書を要する戦闘協力者氏名」の一覧 

■当時50歳の県庁職員についての「指導」

≪壕生活の指導並びに避難誘導のため摩文仁村に派遣されたが、摩文仁村摩文仁で避難誘導任務遂行中砲弾の破片により胸部に受傷戦死したという現認証明に対して、「上記の理由では積極的戦闘協力とは認め難いとの審査課の意見であるが、積極的戦闘協力の事実はないか。 例えば軍命により弾薬運搬又は食糧の輸送の指導若しくは陣地構築の指導等の如きものとか、公務遂行中殉職というが、公務の内容はなにか軍の命令により何か積極的戦闘協力はしたのか・・≫
などと具体的に書き換えの仕方を指導している。

 
当時9歳の学童についての「指導」

≪艦砲弾が激しいため殆どの壕が破壊されたので作戦上壕を提供せよと命じられたので、軍に協力して他の避難場所を探している際、敵の小銃弾で頭部を撃たれ治療も出来ず出血多量で数時間後に死亡した≫
という表現パターンで、書き換えが行われている。

 ■1962年1月「戦闘参加者に関する書類綴」

認定保留者=座間味村 明治9年生まれ、昭和20年3月28日隊長命令による自決」という内容で戦闘参加者として認定されている。   

>「隊長命令による自決」

ここで座間味村の隊長は梅澤裕氏と指名されたことになり、後に反日左翼勢力が「残虐な日本軍」と主張する根拠となる。

 

■1966年「援護関係表彰綴」

宮村幸延座間味村総務課長の功績調書

宮村幸延座間味村総務課長は、1957年8月、慶良間戦に於ける集団自決補償のため上京 1963年10月集団自決6歳未満から0歳児まで(148名)準軍属に決定と記されている。

宮村幸延氏は、連載の第6回目に登場するが、沖縄側は琉球政府社会局援護課のみならず、援護金申請書の直接の窓口である座間味村の援護係の宮村氏が直接上京し、厚生省と掛け合って援護金受給に大きな功績を成し遂げている。座間味村役所には宮村氏の「功績を讃える表彰状があるという。 幸延氏は梅沢氏に「侘び状」を書いた事で、とんだ騒動に巻き込まれることになる。その顛末は連載第6回をご期待下さい。

 国(厚生省)、琉球政府援護課、各市町村の援護係そして遺族会のメンバーの4者が一致協力し、祖国防衛の戦ため、軍人・軍属に負けずとも劣らない戦いをした沖縄の民間人に対する援護金支給の努力をしたのである。

その結果、1981年には6歳未満への援護法の適応が認められることになる。 

                 ☆

 【おまけ】

援護法㊙公文書

1960年12月28日付琉球政府社会局より琉球政府駐日代表事務所宛ての問い合わせ。

➀11月26日付「沖縄タイムス」に掲載の「『戦斗協力者に新措置』『援護法は拡大適用厚生省は方針を決定」という記事の「適用者の数字」の問い合わせ。

 

 

琉球政府社会局の数字の問い合わせに対し、琉球政府駐日代表事務所から回答。

「ご紹介の数字は、記者自体の数字であり、新聞記事については当局は関知しないことで、記者の情報収集によるもので当局も迷惑している」というもの。

 

 

戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄は、「遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」「戦後、島の村長らが赤松嘉次元大尉に連絡し、命令を出したことにしてほしいと依頼し、赤松元大尉から同意を得て(本当は命令していないが)命令があった事となった」と語っている

ただし実際には、赤松自身は単に自決は自分の命令したものではないと語ったことしかない。(なお、座間味の梅澤の方は、宮城初枝から自決命令は聞いていなかったとの告白を受けた時に、島の人が助かるならば自分が悪者になるのはかまわない、自身の家族に真実が伝われば十分と語っている

 

 

沖縄集団自決の真実

「沖縄人の見た沖縄戦」①

――座間味戦の裏側にあるもの――

 

ルポライター(沖縄県国頭郡出身)   冨村順一(大阪市西成区77歳)

 

平成20年1月10日  昭和史研究所会報 第129号

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

残されたわずかな時間の中で歴史の証言を収集記録し、後世に伝えます。

これは本来国家のなすべき事業なのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

〔解説〕

平成19年11月9日、大阪地裁。大江・岩波裁判の日。

傍聴券を求める人々の中に車椅子の人物がいた。

この人が配布したA4判3頁の文書は、梅沢・赤松両元隊長の無実を訴え、

大江健三郎に謝罪を求める切々率直な内容のものであった。

 

この人こそ誰あろう。

かつては左翼反戦平和運動に携わりながら、梅沢裕隊長の「自決命令」の

なかったことを知るや、翻然梅沢氏弁護の運動を開始し、それが宮崎初枝

女史の告白を決意させ、また神戸新聞に「梅沢隊長の命令なし」の記事

を掲載させるきっかけをつくった冨村順一氏(『隠された沖縄戦記』などの著者)だ。

 

いわば梅沢隊長の冤が晴れる大きな一歩を刻んだ富村氏の正直で義に

強い人柄に、かねて中村は敬服していたが、大江裁判の折に氏の配布した

文書を読んで感銘を新たにし、氏に二、三の質問を含んだ書簡を送った。

 

それに対して11月30日、氏からテープレコーダーに録音した

委曲を尽した返事を頂戴した。貴重な体験と証言を含む内容なので、

一部を割愛して掲載させて頂くことにした。(中村)

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

〔註〕「中村」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E7%B2%B2

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★以下、富村順一氏のテープおこしの本文です。★

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 中村先生、今晩は。

先生からの御手紙を拝読し、直ぐに手紙を出そうと思いましたが、

何分にも手足が不自由で遅れたこと申し訳ありません。

 

話は違いますが、近所に梅南座という芝居小屋があります。

そこの主は沖縄出身の渡口さんというお婆ちゃんです。

このお婆さんは、娘さんやお孫さんも毎日のように私の家に来て

よく私の面倒を見てくれます。

そのような方ですから、私は先生から来た御手紙を劇場のママに見せました。

ママが「返事を書いたのか」と聞くので、ヘルパーに代筆を頼んで、

毎日四、五枚づつ書いていると話したところ、「このように大切なことは

ヘルパーの代筆では駄目だ。

貴方は手足は不自由でも口は利ける。

録音を取って生の声を包み隠さず、テープで差し上げなさい」と仰有った

ので、「テープレコーダーがありません」と話したところ、ママが

「じゃ、買えばいいんじゃないか」と仰有ったので、「そのようなお金は

ありません」と云ったところ、「じゃ、金は私が出すから録音テープで

自分の気持を先生に伝えた方がいい」と仰有って金を置いて行って下さった

ので早速テープレコーダーを買い、録音で先生に座間味戦記のことを

お伝えしようと思っています。

 

大城明さんの自殺

 

 私はここ十四、五年間、大衆の前へ出たことがありません。

故に梅沢さんはじめ私の知ってる方には、

私が死んだという噂が飛んでいる現在です。

何故、そのような私が今頃、大江裁判傍聴に行こうと思ったのか、

訳があります。

 

 一昨年(平成17年――中村)の10月1日、大阪西成区の津守公園で

大城明さんという沖縄出身の方が自殺いたしました。

彼は若い頃、ベトナム戦争反対、基地反対、部落開放運動なんかに

首を突っ込んでました。また非常に読書家でもありました。

 

 彼が自殺一週間前、突然私の家に来たのです。私の家に来るなり跪いて

「富村さん、本当に申し訳ありませんでした。

富村さんが練馬区の元町公園で二匹の犬と野宿しているときに、

夜六人の仲間と一緒に襲い、二匹の犬を殺し、富村さんに怪我をさせ、

富村さんが車椅子の生活をするようになったのは私達です。

私がそのリーダーでした。

その理由は、富村さんが書いた「座間味戦記 / 梅沢隊長は生きている

――自決命令はなかった」という『隠された沖縄戦記』を読みました。

沖縄には沖縄の偉い大学の先生や文化人が書いた『鉄の暴風』、

沖縄県教職員組合が書いた『沖縄戦の真相』、『沖縄県史』がある。

それらは何れも自決命令で、梅沢隊長は従軍慰安婦と爆死したことになっている。

 

だが富村さんは「隊長は生きている」と云う。

富村さんは右翼から金を貰って嘘の本を書いたに違いない。

このような沖縄人はいない方がいい。

二度と本を書けないようにしてやろうと、富村さんを襲い、袋叩きにしたのは

私達で、そのリーダーが私でした。本当に申し訳ありませんでした」

と云いながら鞄から一冊の本を取り出しました。

 

宮城晴美さんが書いた『母の遺したもの』という本でした。

十年以上も本と縁がなく、新聞も余り読みませんでしたので、

この本が出ていることも全く知りませんでした。

 

その本をテーブルの上に置き、「梅沢さんは自決命令を出していない、

ましてや、死んだといわれた梅沢さんが健在であることを知りました

。自分たちは取り返しのつかないことをしてしまった。

富村さん、本当に申し訳ありませんでした」と跪いて詫びたのです。

 

余りに突然のことで、私も宮城晴美さんが本を出したことも知らず、

どのように大城君に返事をしていいやら、言葉を失い、黙っていると、

大城君が

「富村さん、近い中に私は本を読めない所へ行くんだ。

富村さん、この眼鏡はフランス製です。いい眼鏡です。

もしレンズが合わなければ、レンズだけ替えてお使い下さい」

と眼鏡をテーブルの上に置きました。

彼は読書家でもあったので、私は「じゃあ、お前は好きな本を読まないのか」

と云ったところ、「本を読めない所へ行くんだ」と――。

 

 私はその意味をすぐには理解できませんでした。

それから一週間ほど経って、彼の友人が私の家に訪ねてきました。

 

 「実は大城明さんが自殺しました。

彼の部屋に富村さん宛の手紙がありました」と云いました。

彼はその手紙で何度も何度も「申し訳ありませんでした」と詫びていました。

またお母さん達にも、富村さんに迷惑をかけたから、お詫びするようにと

遺言があったようです。

その後、大城君のお母さんやお姉さんからも電話がありました。

「申し訳ない。何か困ったことがあったら連絡下さい。

可能なことはして上げます」ということでしたが、

私は「何も困っていません」と申し上げてお断りいたしました。

 

私は大城さんの自殺を考へ(ママ)た場合、まだ沖縄戦は終わって

ないんだと思うと同時に『鐵の暴風』や沖教組が捏造した

座間味戦記を書かなければ、このような自殺は出なかった訳です。

故に私は仮(たと)え手足が不自由でも、車椅子で外へ出かけることが出来る、

今度の大江裁判でも傍聴して、加納であれば事実を訴えようと思い、

裁判所へ行きましたが、残念ながら、傍聴出来ず帰ってきました。

 

 その後、大阪の関係者から二回ほど話を聞きに来ましたが、初対面であり、

どのような方かよく分からないので一部始終は話していません。

だが、先生のお手紙を読み、劇場のママからも、知ってること思ってる

ことを全部包み隠さず先生にお伝えするようにと云われておりますので、

私も知ってることを包み隠さず先生にお話しようと思います。

 (つづく)

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沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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「眼前の敵」 座間味で何があったか

2022-12-18 14:11:38 | ★原稿

 

 

 

 

 

 

■「死に所の森」の恐怖■

貧しかった昔の日本にはいたるところに「うば捨て伝説」があり,そこから生まれたのが鬼婆伝説だといわれる。

集団自決のあった座間味島にもうば捨て伝説がある。 だが、“その時”は鬼婆ならぬ鬼畜米軍の上陸に島全体が怯えていた。

座間味島のうば捨て伝説のある場所はシンジュの森という鬱蒼とした森の中にある。

シンジュという発音から鎮守の森を連想するが、実際は「死に所」という方言で、老いて働けなくなった老人が死に場所を求めて彷徨い入るという悲惨な印象の森だ。

1945年3月26日の未明の座間味島で、島を囲んだ米軍の艦砲射撃から逃げ惑う老人と子供の一行いた。

シンジュの森にある自分の壕に向かう途中、軍刀を持つ男に遭遇した。

未明の朝もやの中に立ちはだかったのは「鬼畜米兵」ではなかった。

その男が怒鳴った。

「なんでお前らはまだ自分で死ねんのか。自決できぬなら俺が斬ってやる」

と日本刀を抜こうとした。

2001年7月5日付毎日新聞を引用する。

「眼前の敵」~ 恐怖と緊張感が増幅

うばすての伝説を持つシンジュ(死所)の森
 
  「その明け方、僕は家族連れで整備中隊壕に行き、自決さすことを頼んで本部壕に帰ろうとしたら、内藤中隊長や幹部らにさんざん怒られた。「軍は住民と国土を守るためにある。住民を殺すことはできぬ。早く安全な所に避難して、必ず誰かが生き残り、亡くなった人々の霊を祭るんだ。それがお前の役目だろう」と言いながら、米、梅干、金平糖、カツオブシ等軍の糧食を袋に入れてくれた。「節約すれば一ヶ月は大丈夫。何としても生きろ」
 僕らはシンジュ(昔、老人の死所)の森の避難壕に向かう途中、日本刀を持つ国民学校の教頭に呼び止められた。「なんでお前らはまだ自分で死ねんのか。自決できぬなら俺が斬ってやる」と日本刀を抜こうとした。「なんでお前に孫やうちらが殺されねばならんのか」と祖父母が必死の形相で反抗したため事なきを得た」と宮平さん。敵は眼前にも居たのだ。のちに、彼は住民二人を斬殺した事が判明し島に住めなくなったという。「彼は跳ね上がりで、硬直した軍国主義的言動で住民に威張っていた。僕は余り信用していなかった。戦後しばらくして訪ねて来たとき、どこかの社長になったが座間味へは帰れなくなったと話していたよ」(梅沢裕さん談)
 住民や兵たちの恐怖と緊張館をますます増幅するかのような艦砲射撃の猛威のなかで、座間味島は3月26日の朝を迎えていた。(毎日新聞 2001年7月5日)

■本当の敵は誰だ■

憎むべき敵は「鬼畜米英」のはずだった。

だが、朝もやに霞むあの朝、死に切れない住民に軍刀を振るったのは日本語で怒鳴る軍服の男だった。

憎むべき敵は「日本兵」だと記憶に刻み込まれていた。

だが、「眼前の敵」は日本兵ではなかった。

軍人より軍人らしい男、「参謀長」と呼ばれる民間人だった。

軍人より軍人らしい男は、島で教頭をしていた山城安次郎氏だった。

   *

“山城安次郎”、でググルと321件出てくるが、そのほとんど全てが「渡嘉敷島の集団自決の証言者」としての記述のみであり、他の意味での記述はない。

一例を挙げると下記引用のようなものだが、本人は隣の座間味島での体験者ではあっても渡嘉敷島での体験者でないのが不可解だ。

山城氏の不可解な言動の一例として曽野綾子著『ある神話の背景』の重要な箇所が次のように記されている。


「太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。一人は、当時の座間味の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起こった事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。もちろん、二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった」

山城氏は、戦後一貫してマスコミ業界を歩み沖縄テレビの社長にまで上り詰めた著名人である。 それにしては、他に一切ネット上に名前が出てこないのは不可解である。

「集団自決」の体験者では、山城氏と対照的なのが渡嘉敷島の金城重明氏であり、同じくググルと何と13,800件も出てくる。

それだけ金城氏が自分の体験を語り続けたことを意味する。

金城氏は「集団自決」で自分の家族に留まらず他人の親子にまで手をかけたが、本人は幸か不幸か生き残り、戦後は自己の悲惨な体験を語り続けた。

金城氏は語り続けると同時に「軍の命令だった」と責任転嫁し続けた。そうしななければ戦後生きていくことは出来なかったのだろう。

一方の山城安次郎氏はその後自分の体験について一切語ることは無かった。

言うまでもないが『潮だまりの魚たち』に登場する「参謀長」と呼ばれた元教頭先生は後の沖縄テレビ社長の山城安次郎氏である。

 

大田記者が『鉄の暴風』の取材をしていた終戦直後は、米軍は沖縄を日本から永久分離するため「日本軍=悪玉、米軍=善玉」という世論作りを行っていた。

その尖兵となっていたのが沖縄タイムスを始めとする沖縄の新聞であった。

その空気は曽野氏の著書にも次のように書かれている。

「当時の社会事情は、アメリカ側をヒューマニスティックに扱い、日本軍側の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。」


 、数千人動員して民間人救出
「米軍より日本軍怖い」感覚へ

  沖縄戦に関する沖縄県民の手記には、しばしば「米軍よりも日本軍の方が怖かった」という感想が出てくる。言葉も通じない敵の軍人に、同じ日本人よりも親近感を覚えるということが果たしてあるのだろうか。それは、米軍が「日本の圧政に苦しみ、虐げられている状況を打開してくれた解放軍」という認識を、県民が抱くようになって初めて可能だ。(略)(世界日報 2007年10月30日) 

                     ◇

太田元沖縄県知事の一連の著書にはこのような記述が見られる。

≪その意味では、沖縄戦のあとに上陸してきたアメリカ軍は沖縄にとって解放軍のはずだった。≫
(大田昌秀著「沖縄の決断」朝日新聞社刊)http://www.kamiura.com/chuu18.htm

 

沖縄タイムスが極端な偏向を通り越し、

敵意剥き出しの反日報道をするのには理由があった。

 それは昭和25年に発行された『鉄の暴風』の初版の前文にはこう書かれていた。

「なお、この動乱を通じて、われわれ沖縄人として、おそらく終生わすれることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えたかれらの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更正第一歩を踏み出すことができたことを、特記しておきたい」 (『鉄の暴風』初版前文)

揉み手をしたような、この米軍へのおべんちゃら記事が『鉄の暴風』の記事だと知ると驚く人も多いだろう。

勿論、沖縄タイムス出生の秘密を暗示するこの前文はその後の重版では削除されている。

『鉄の暴風』は主として沖縄タイムス記者伊佐良博氏(後に太田に改姓)によって書かれたが、同書のもう一人の著者、牧港篤三氏によれば、

初版は2万部出版され「米軍に提出されるため英訳され、占領軍司令部でも話題になった」と記している。(沖縄タイムス平成14年6月12日付け)

そう、沖縄タイムスは戦後沖縄占領米軍のプロパガンダ紙として出発したのだ。

ここで言うプロパガンダ紙というのは比喩的な意味ではなく米軍情報部の下に作られた文字通りの広報紙という意味である。

勿論米軍情報部の目論む「沖縄住民を日本から永久分断する」情報作戦の一旦を担うのが沖縄タイムス紙創立の理由だった。

 

                      ◇

■老人と子供■

「集団自決」問題を難しくしている理由の一つは生き残りの殆どが老人と子供だということである。

島の成年男子の殆どが応召で外地へ派遣されており家を守るのは老人と子供だけ。

それだけに米軍の上陸を前にパニックになる要素も多かった。

従って生き残った証言者も老人と子供が殆どで、それを戦後半世紀以上も経ってから証言を求めることに「真実」解明の難しさがある。

 

「集団自決」当時子供だった証言者の証言が、周囲の大人達の噂話等によって本人の知らぬ間に間違って伝えられる例を専修大学の学生達が卒論のテーマとして座間味島を訪問し研究している。

彼らは2004年、当時の座間味村の宮里芳和教育課長へのインタビューから実例を引き出している。

8月2日に座間味村役場会議室で行われた学生のヒアリングに答えて宮里氏は次のような証言者の例を語っている。

手りゅう弾の操作を知らない家族が日本兵にその使い方を教わった。

日本兵は使い方を教えはしたが「できるだけ最後ま生きてください」と言って去った。

当時傍にいた子供には親と日本兵の会話を聞いたはいても、その真の意味は理解できない。

その後、親は手りゅう弾で自決した。

遺された子供は日本兵が家族を殺したと思い込んだ。

戦後61歳になった証人は「親は日本兵の命令で自決した」証言した。

宮里氏はこのように「集団自決」の生き残りが語る証言が誤解され、歴史記述となって残される危険性の例を学生達に語っている。

以下は宮里芳和教育課長(当時)の話。

 1945年3月25日の夜、忠魂碑前に集合という「軍命」が伝えられた。しかし、砲撃が激しいため人々は産業組合壕などに逃げ帰り、そこで「集団自決」に追い込まれた。

 産業組合壕では、兵事主任・宮里盛秀氏をはじめ村の幹部とその家族67名が亡くなった。生存者は一人もいない。
 

説明役の、宮里芳和氏は宮里盛秀氏の叔父の孫にあたる人だ。戦後生まれだが、当時の歴史を調べ平和ガイドをしている。


「眼前の敵」~ 恐怖と緊張感が増幅

うばすての伝説を持つシンジュ(死所)の森
 
  「その明け方、僕は家族連れで整備中隊壕に行き、自決さすことを頼んで本部壕に帰ろうとしたら、内藤中隊長や幹部らにさんざん怒られた。「軍は住民と国土を守るためにある。住民を殺すことはできぬ。早く安全な所に避難して、必ず誰かが生き残り、亡くなった人々の霊を祭るんだ。それがお前の役目だろう」と言いながら、米、梅干、金平糖、カツオブシ等軍の糧食を袋に入れてくれた。「節約すれば一ヶ月は大丈夫。何としても生きろ」
 僕らはシンジュ(昔、老人の死所)の森の避難壕に向かう途中、日本刀を持つ国民学校の教頭に呼び止められた。「なんでお前らはまだ自分で死ねんのか。自決できぬなら俺が斬ってやる」と日本刀を抜こうとした。「なんでお前に孫やうちらが殺されねばならんのか」と祖父母が必死の形相で反抗したため事なきを得た」と宮平さん。敵は眼前にも居たのだ。のちに、彼は住民二人を斬殺した事が判明し島に住めなくなったという。「彼は跳ね上がりで、硬直した軍国主義的言動で住民に威張っていた。僕は余り信用していなかった。戦後しばらくして訪ねて来たとき、どこかの社長になったが座間味へは帰れなくなったと話していたよ」(梅沢裕さん談)
 住民や兵たちの恐怖と緊張館をますます増幅するかのような艦砲射撃の猛威のなかで、座間味島は3月26日の朝を迎えていた。(毎日新聞 2001年7月5日)

■本当の敵は誰だ■

憎むべき敵は「鬼畜米英」のはずだった。

だが、朝もやに霞むあの朝、死に切れない住民に軍刀を振るったのは日本語で怒鳴る軍服の男だった。

憎むべき敵は「日本兵」だと記憶に刻み込まれた。

だが、「眼前の敵」は日本兵ではなかった。

軍人より軍人らしい男、・・・「参謀長」と呼ばれる民間人だった。

                      *

 

「眼前の敵」~ 恐怖と緊張感が増幅

 
うばすての伝説を持つシンジュ(死所)の森
 
 
 「その明け方、僕は家族連れで整備中隊壕に行き、自決さすことを頼んで本部壕に帰ろうとしたら、内藤中隊長や幹部らにさんざん怒られた。「軍は住民と国土を守るためにある。住民を殺すことはできぬ。早く安全な所に避難して、必ず誰かが生き残り、亡くなった人々の霊を祭るんだ。それがお前の役目だろう」と言いながら、米、梅干、金平糖、カツオブシ等軍の糧食を袋に入れてくれた。「節約すれば一ヶ月は大丈夫。何としても生きろ」
 僕らはシンジュ(昔、老人の死所)の森の避難壕に向かう途中、日本刀を持つ国民学校の教頭に呼び止められた。「なんでお前らはまだ自分で死ねんのか。自決できぬなら俺が斬ってやる」と日本刀を抜こうとした。「なんでお前に孫やうちらが殺されねばならんのか」と祖父母が必死の形相で反抗したため事なきを得た」と宮平さん。敵は眼前にも居たのだ。のちに、彼は住民二人を斬殺した事が判明し島に住めなくなったという。「彼は跳ね上がりで、硬直した軍国主義的言動で住民に威張っていた。僕は余り信用していなかった。戦後しばらくして訪ねて来たとき、どこかの社長になったが座間味へは帰れなくなったと話していたよ」(梅沢裕さん談)
 住民や兵たちの恐怖と緊張館をますます増幅するかのような艦砲射撃の猛威のなかで、座間味島は3月26日の朝を迎えていた。
                     写真~うばすての伝説を持つシンジュ(死所)の森
                  
                                                        
毎日新聞 2001.7.5

 

                     ◇

死者に鞭打つ気はない。

戦時中の異常な状況の出来事を、戦後に育ち、飽食・メタボが悩みの現代に住む人が批判することは出来ない。

山城氏は座間味島で起きた事件について何も語らず墓場まで持ち込んだ。

それを敢て取り上げた理由は次の二点にある。

①終戦直後、沖縄タイムスを訪問して、自らは経験もしていない渡嘉敷島での赤松隊長の暴状を訴えたのは何故か。

②タイムス訪問当時、山城氏は座間味村助役という公的立場にあり、その後も新聞編集、テレビ会社とマスコミ界を歩んでおり、体験者として沖縄戦史を遺す社会的責任があるのにも関わらず一切語らなかったのは何故か。

もし、山城氏が①の不可解な証言をしなかったら、山城安次郎氏の名前は一切ネット上に出なかった可能性もある。

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自決命令は「軍命」ではなく、島の長老の判断だった!「もうやめなさい!」 パニックに瀕した長老たちの悲劇

2022-12-17 16:54:54 | ★原稿
 

 

沖縄戦の再検証のため過去ブログ「もうやめなさい!」 パニックに瀕した長老たちの悲劇2008-07-14 

を一部編集して再掲します。

               ★

集団自決を決めたのは、長老たちの咄嗟の判断だった。

集団自決を決めたのは「軍命」ではなく、長老たちの判断だった。

昭和61年沖縄で開催された「海邦国体」は、全国1巡目の最後の国体であった。

その翌年の昭和62年、2巡目のトップとして「京都国体」開催された。

前年の沖縄国体の熱がまだ覚めやらぬ沖縄の老人会グループが郷土の選手団の応援に京都国体を訪れた。

その中の一人に座間味島の戦争体験者の長老がいた。

長老は、戦時中座間味島に駐屯していた旧軍人を訪ね、懐かしい昔話に花を咲かせた。

そのときの長老の談話が聞き取りされている。

「昭和19年の11月3日か12月8日のこと、(日付がどちらかは不明確)那覇市の護国神社で決起大会があり、そこで在郷軍人(沖縄出身の武勲者)たちが主となって、県民鼓舞の大演説をぶち上げた。 中でも印象に残ったのが直前まで那覇市長を勤めていた當間重剛氏は演壇で日本刀を振りかざし、『米軍が来たら、戦国時代の落城と同じ、女子供は自決させるべし』と演説をし、『決議』となり、それを参加していた座間味村三役がそれを帰島後、村民に伝えた」

座間味島に駐屯していた軍人たちはこの民間主導の決起大会には参加しておらず、この事実も戦後40数年を経ってから京都国体に応援に来ていた島の長老から初めて聞かされた事実だったのだ。

 ちなみに抜刀して大演説した當間重剛氏とは戦後、米軍民政府により琉球政府の主席に任命された人物だ。

確認のため昭和19年の11月3日前後と、12月8日前後の「沖縄新報」を調べてみたら、11月3日前後の新聞自体が県立図書館などには保存されていなかたが、12月8日付けの新聞は保存されていた。

米軍が座間味、渡嘉敷両島に殺到して猛攻撃を開始する約二ヶ月前の「沖縄新報」(当時の新聞)(昭和19年12月8日)に次のような記事がある。

けふ大詔奉戴日

軍民一如  叡慮に応え奉らん

一人十殺の闘魂

布かう滅敵待機の陣

戦時の新聞なので見出しと記事がやたらと勇ましいのは何処の新聞も同じだが、沖縄新報の見出しによると、特に昭和19年の大詔奉戴日は10月10日の那覇大空襲の後だけに、県庁、県食料営団、県農業会などの各団体が主催して沖縄各地で関連行事が行われた様子が報じられている。

ちなみに大詔奉戴日とは日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことをいう。

真珠湾攻撃の翌月の1942年1月8日から、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされた。

そして、同記事では「鬼畜米英」についても各界の体験者の談話を交えて、次のような大見出しを使っている。

米獣を衝く  暴戻と物量の敵を撃て

お題目で獣性偽装

野望達成で手段選ばぬ

昔も今も新聞が国民を扇動するのは同じこと。新聞が舞い上がって県民を鼓舞しているのが分かる記事だが、慶良間島からも県庁で行われた「大詔奉戴日」式典には島のリーダーたちが参加している。

村長を始め村のリーダーたちはこの雰囲気に煽られて、島に帰った後数ヶ月で目前に迫った米軍上陸にパニックを起こし判断を誤ったのではないのか。

島のリーダーたちにとって、「鬼畜米英」の話は単なる新聞記事の見出しだけではない。その数ヶ月まえの7月ににサイパン陥落の際、鬼畜米兵から逃れた多くの日本人が、崖から身を投げた「集団自決」があり、その大部分は慶良間出身の沖縄県人であったという。

                  ◇

「集団自決は軍の居た所にのみ発生した」という「軍命あり派」の主張は軍人がいなかった読谷村チビチリガマの集団自決やその他の例で否定されている。

集団自決実行の分岐点は避難時のグループリーダーの判断の如何だった。

自決実行の間一髪、子供の泣き声で我に返ったリーダーの一瞬の判断で集団自決を免れたグループ。

その目撃談を紹介しよう。

座間味国民学校上級生(今の中学2年生)の宮里米子氏の体験談である

忠魂碑の前に集まった宮里米子氏の家族は敵の砲弾を受けて逃げ惑う。

<『潮だまりの魚たち』クリエイティブ21刊より引用

轟く艦砲の恐怖と寒さに震えながら、米子の家族は避難所を探して近くの山を目指して歩いていきました。 丘の斜面を登っている途中、砲弾のうなり声の合間から、ひそひそと人の声がもれてくるのに気がつきました。話がよく聞き取れないので、敵か見方かはっきり分かりません。おそるおそる声の方に近づいていきました。そして気づかれないように、雑木の間からのぞいてみました。すると、月明かりの下でひとつの家族が寄り添っているのが目に止まりました。年寄りと子供たちのようでした。うつむいた人たちの髪に雲間からもれてくる月が淡くさしています。 そしてすぐ側に銃を持った一人の兵隊が立っていました。米子は「どうするんだろう」と、息を殺して見ていました。長い沈黙をやぶったのは、群れの中の男性の悲壮な声でした。

「トー、ナマヤシガ(さー!今だよ)」

するとその日本兵はおもむろに家族の方に銃を構えました。腰には弾丸を詰めたベルトが重そうに巻かれています。銃身が月影に鈍く光ります。引き金に指をかけた時、一人の子が緊張に耐えられなくなったのか、突然わめき出しました。その瞬間、兵隊の指が引き金から離れました。泣き出した子どもは抱きしめている母親の両腕から抜け出ようと、もがきます。 母親も泣き声でさとしながら必死になって止めています。突然、この親子の姿を見ていたおばぁさんらしい人が、銃を向けていた兵を止めました。

「ナー、シムサ、シムサ(もう止めなさい、止めなさい)」

兵隊は間をおいて、銃を降ろしました。そして、その家族から目を背けるように、こちらを向きました。兵隊の姿をしていたのは、何と村役場の職員一人でした。>(『潮だまりの魚たち』クリエイティブ21刊、P149、150)

生きるか死ぬかの緊迫の瞬間。この家族の生死を分けた分岐点は「軍命令の有無」ではなく、その家族のリーダーの判断だった。

そのリーダーの判断に従った村役場職員は、銃の引き金から指を離した。

ところがこの哀れな村役場職員、別の壕で自決して果ててしまう。

<息も絶え絶えに着いたところは産業組合の壕でした。 そこは村の三役などの避難所で、書類や食料なども保管されています。村で一番大きな防空壕でした。そこにはちょうど誰もいません。ほっとした疲れがどっと押し寄せてきて、米子の家族はいつの間にか深い眠りに落ちていきました。「新神里の家族は出てください。新神里の家族は出てください。ここは役場の家族が入ります。出てください」  何度もそう繰り返されて目が覚めました。 その声の主を見ると、先程、銃を構えていたあの役場の男の人でした。 当時の役場の職員といったら、とても怖い存在だったので、米子たちは何も言わずに、素直に従うしかありませんでした。(略)米子たちが出た後、役場職員の家族を中心に大勢の人たちが、その壕の「集団自決」をしたのです。生き残った者は一人もいませんでした。>(p151、152)

村役場の職員は軍人より怖い人が多かったという証言があるが、助役が腰には弾薬帯を巻いて三八銃を持ち歩いていたという証言と役場には常に2~3丁の三八銃があったという証言から、座間味島の助役が、渡嘉敷島の金城兄弟のような役割りで銃で自決の「手助け」をして回ったことも推測できる。

「トー、ナマヤシガ(さー!今だよ)」

「ナー、シムサ、シムサ(もう止めなさい、止めなさい)」

いずれの発言もグループリーダーのとっさの判断である。

「軍命の有無」なんて彼らにとってはどうでもよかったのだ。

繰り返し述べよう。

野生の動物でも人間でも、グループのリーダーはパニックに瀕すると往々にして判断を過つ。

 

ここにもパニックで判断を誤った長老(リーダー)の悲しい話がある。

子供を殺し自分は生き残った長老と伯父。

金城重明氏は特殊な例ではなかったのだ。

慶良間島の集団自決には他にも数多くの「金城重明」がいたのだ。

ただ、彼らは「軍の命令」と責任転嫁することなく自分で贖罪の十字架を背負って生きた。

ここが、金城重明氏と他の「金城氏」との大きな違いである。

 整備中隊の壕 -3- (沖縄タイムス8月23日朝刊総合3面)
「父さんも来るんでしょ」
(40)子どものために伯父「自決」

 四月一日朝、座間味村阿護の浦に米軍の船団が近づいて来るのが見えた。「大変だ。速く逃げよう」。壕入り口に出ていた宮村文子(81)は、奥でひざを抱え一塊に座っている人々に呼び掛けた。
 伯父は「私は逃げない。やーん、死にぃー?(あんたも死ぬね)」。「いーいん、わんねぇ死なん(嫌だ、私は死なないよ)」。親にも家族にも会えずに、死ぬわけにはいかない。文子は即座に断った。

 一方の伯父は家族を失っていた。自らが手にかけた妻や二人の子の遺体は壕入り口に毛布を掛けて横たえられていた。伯父はポケットを探り、黒砂糖を取り出した。「これを食べて、お母さんに会いなさい。会ってから死ぬんだよ」と、文子に渡した。

 伯父は文子に「子どものためにも、自分はどうしても死ななければいけない」と話した。幼い息子に手をかけようとした時、「お父さんも来るんでしょ」と問い掛けられたのだという。伯父は「絶対に行くから」と安心させていた。伯父は子どもたちの遺体の場所を示し「僕が死んだら、そばに寝かせて」と言った。

 伯父はいつの間にか、壕の天井の丸太に掛けたひもを、自分の首に巻きつけていたようだった。文子を挟んで隣に座っていた老人にひもの先を押し付け、「おじー、へーくな、ひっぱてぃ、ひっぱてぃ(おじいさん、早くこの綱を引っ張ってください)」と懇願した。

 伯父が本当に死のうとしていることに文子は驚いた。「やるな、やるな」。老人を押し留めようと強くつねった。しかし返事をしなかった。

 暗闇の中、急に隣にいた伯父の体がパーッと上がっていく気配がした。「うっ、うっ、うっけけけけけ…」。うめき声が壕内に響いた。二、三分して声が途切れると、ひもが緩められたようで、伯父はドサリと地面にたたきつけられた。「なんで、そんなことするか」。文子が怒ると、ひもを引いた老人は「わんにん、なーふりむんなってぃよ、わきんわからんどぅやんどー(私はもう頭がおかしくなっている。訳も分からないんだよ)」と、泣き続けた。老人も伯父同様に、妻や子どもたち、親族たちを手にかけていたのだった。

 文子らは壕を出て、ユヒナの浜へ急いだ。老人を急かすと、「わんねぇーふりむんなとぉくとぅ、あっちんしーうさんろー(頭がおかしくなって歩くこともできない)」。老人は苦しげにうめいた。=敬称略(編集委員・謝花直美)

                      ◇

(私はもう頭がおかしくなっている。訳も分からないんだよ)」と、泣き続けた。老人も伯父同様に、妻や子どもたち、親族たちを手にかけていたのだった。

パニックで判断を誤り妻子や親族に手をかけ、なお且つ死に切れなかった人たち(別の「金城氏」)の心中は平和な時代に生きる我々の思慮の到底及ばない世界である。

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星雅彦氏の出版記念パーティに第三の奇人登場「沖縄戦の真実」を公表したばかりに

2022-12-16 17:30:19 | ★原稿

 

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加齢とともに考え方が固くなるのは人間の常。 典型的頑固おやじにありがちだ。

だがこの頑固おやじ、後で自分の間違いに気が付いても引っ込みがつかなくなり、老害と言われ始める。 そして上げた拳の下ろしどころを見失い、結局白でも黒と押し通してしまう。 

老害の典型だ。

これは老いていく人間の哀しい性でもある。

だが、老害は老人たちの専売ではない。

老若男女、老害はだれにでも起きる。

特に沖縄では、偏向新聞の記者に老害の症状が顕著だ。

イデオロギーで硬直した沖縄2紙の記者はまだ若いだろう。

肉体的老化と思考の老化は必ずしも一致しない。

肉体的に若くても思考は急速に硬直し、老化する。 常日頃自分の意見は常に正しいと信じている新聞記者、特に沖縄の新聞記者に顕著な例がみられる。

彼らは一旦自分が白と主張したら、後で黒と分かっても白だと押し通してきた。

辺野古の反基地活動家による座り込みに関するひろゆき氏の意見は真っ当であり、「座り込み」の実情を報道しなかった沖縄メディアにも責任の一端はある。

従って「誤解されないように表示を訂正すべき」と主張するひろゆき氏の提言を素直に受け止めておけばこれほど問題は炎上しなかった。

沖縄メディアが頑なに反基地活動家の言動は正しい、と老害をまき散らし、結局沖縄の米軍基地問題の虚構を全国に知らしめた。

次に沖縄の新聞が報道する硬直した意見の典型は、『鉄の暴風』の内容が正しいという報道だ。

沖縄タイムス編著の『鉄の暴風』は著者太田良博記者が、一度も現地取材することなく、見てきたような「講談」の類であることは、良識ある読者なら誰でも分かることだ。
 
その根拠を示そう。
 
➀著者の太田は集団自決の現場に取材することなく僅か3カ月で書き上げた。
②証言提供者は「身元不明」(➀の「伝聞取材」という批判に、「沖縄タイムスが集めた証言者から取材した」と太田は反論)
③取材メモはない
④直接取材した山城安次郎は座間味島集団自決の体験者であり、渡嘉敷島集団自決の体験者ではない。
⑤山城の取材を基に「梅澤不明死」の記事を書くが、これは伝聞と太田自身が自白。
⑥渡嘉敷島集団自決を体験していない山城の証言を基に、「赤松の暴状」を「見てきた」ように書いた。
 
              ★
先日沖縄の2奇人について紹介したが、その奇人の一人星雅彦氏の最近の著書『沖縄独立と憲法改正』(アートヴィレッジ出版)の出版記念パーティが行われ、仲程昌徳琉球大学が挨拶をした。
 
沖縄の奇人の筆頭であるドキュメンタリー作家上原正稔氏が指摘するように沖縄で捏造新聞沖縄タイムス、琉球新報に反旗を翻すと職を失う恐れさえある。
 
上原正稔、星雅彦の両奇人は「沖縄戦の真実」を公表したばかりに沖縄メディアに連載中の特集記事を全て廃止され、目下失業中である。
 
そんな閉ざされた言論空間の中に在る沖縄で、仲程教授は曽野綾子著『ある神話の背景』が出版された際、次のように沖縄メディアが捏造した「軍命の嘘」を真っ向から否定した。
 
筆者が仲程教授を第三の奇人にカウントする所以である。
 

仲程昌徳琉大教授はつぎのように述べている。

〈ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつき崩していくことであった。そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚(かんぷ)なきまでにつき崩されて、「命令」説はよりどころを失ってしまう。すなわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改訂をせまられたのである〉としている。さらにまた、仲程氏はつぎのように書いている。

◇定説化をおそれる

〈曽野は、そのことに関して「いずれにせよ、渡嘉敷島に関する最初の資料と思われるものは、このように、新聞社によって、やっと捕えられた直接体験者ではない二人から、むしろ伝聞証拠という形で固定されたのであった」と記載に対する重要な指摘をする〉

このように、『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録が、直接の体験者でない者からの伝聞証拠によって書かれたというのが『ある神話の背景』の論理展開の上でのもっとも重要な土台になっており、それが、そのまま信じこまれているのである。

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新(8)貶められた旧日本兵,エピローグ、上原正稔、「パンドラ訴訟」で勝訴確定

2022-12-13 12:06:44 | ★原稿

 

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貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実 (8)
エピローグ

  近年、沖縄戦関連で3つの裁判が行われ、そのうち1つは係争中である
 既に最高裁判決が出た「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判」(大江・岩波訴訟)と「沖縄靖国合祀取消訴訟」、それに福岡高裁那覇支部で係争中の「パンドラの箱連載掲載拒否訴訟」(以後、「パンドラ訴訟」)である。

 三つの訴訟はそれぞれ原告と被告、そして表面上の訴因は違っているが、実質の争点が沖縄戦をめぐる認識であり、さらに論点を絞ると「沖縄戦と援護法の関係」になるという共通項を持つ。
 「大江・岩波集団自決訴訟」は最高裁判断で原告側が敗訴した。一方、最大の争点である「軍命」については法廷で立証することができず、事実上、梅澤、赤松両氏の名誉回復は確定している。
 

2012年6月15日、「沖縄靖国合祀訴訟」で原告側である遺族の敗訴が確定した。この裁判は沖縄戦などで亡くなった戦没者の遺族5人が「家族を靖国神社に無断でまつられ、肉親を自由に追悼する権利を侵害された」と主張して、靖国神社のほか、神社に戦没者の名前を提供した国に、合祀の取り消しと慰謝料の支払いを求めたもの。
 

この裁判の原告は合祀の観点で言えば夫々立場が異なっている。軍属でない母親や幼い弟が合祀されている原告2人の場合は、原告側証人の石原昌家・沖縄国際大学名誉教授が主張する「国の歴史捏造」による“合祀不適格者”に相当する。

 一方、この裁判のリーダーである金城実氏の父親は兵隊として招集され戦死しているので、本来靖国に祀られるべき“適格者”である。金城氏は父親の戦死を「犬死」と罵る。父親の戦死を「犬死だ」と罵って原告団の先頭に立つのであれば、援護金を返納してから訴訟に踏み切るのが筋だ。

 「パンドラ訴訟」は、琉球新報夕刊に2007年5月から掲載中の連載「パンドラの箱を開ける時」が急きょ中断したことに対して筆者の上原正稔氏が損害賠償を求めているもの。未掲載の部分は、米軍兵士の手記に基づき、慶良間諸島における集団自決の真相を解明するもので、両隊長の名誉回復に向けてのメッセージでもあった。


 沖縄戦史の捏造は援護法のカラクリにより生み出された悲劇であり、その一番の被害者が「軍命で住民を自決させた極悪人」という汚名を着せられた梅澤、赤松両隊長ということになる

 上原氏は2011年1月、提訴時の記者会見の席で、梅澤、赤松両隊長に沖縄県民を代表して謝罪。「存在しない軍命令」で援護金を受給した沖縄人の複雑な心境を代弁した。

 しかし、沖縄のメディアはまるで申し合わせたように提訴の事実を黙殺し続けている。沖縄県民でさえ、この裁判のことを知る者はほとんどいないのが現状だ。

 援護法のカラクリにより多くの日本の将兵が援護金申請の際に利用された。中でも梅澤裕、赤松嘉次の両隊長は、「慶良間列島の住民に集団自決を命じた」と濡れ衣を着せられ、沖縄戦で沖縄住民を虐殺した「極悪人」として糾弾されている。両隊長の汚名返上こそが歪められた沖縄戦史を是正する第一歩ではなかろうか。
 上原氏は提訴に際し次のように述べている。
 

 <最終稿(181回目)で、赤松さんと梅澤さんは集団自決を命じておらず、それは援護法の適用外の住民が援護金を貰うために嘘の報告を出し、そのために赤松さんと梅澤さんをスケープゴートにしたのだ、という旨の原稿を出したら、新報はその最終稿をボツにするという前代未聞の暴挙に出た
 

パンドラ訴訟は7月29日、高裁判決が下される。(※パンドラ訴訟は上原氏の勝訴が確定した⇒【おまけ】参照)
(完)

 

写真 「パンドラ訴訟」の原告、上原正稔氏

                

愈々「貶められた旧日本兵」シリーズの最終回である。

これまで断片的に取り上げてきた上原正稔氏が琉球新報を提訴した「パンドラの箱訴訟」について総合的にまとめてみよう。

月刊誌「WILL」ttp://ueharashonen.web.fc2.com/pdf/04_koutoubenron_fuzoku14_kou.pdf

2011年2月24日(火)、「パンドラの箱掲載拒否訴訟」の第五回公判が那覇地裁で行われた。(最終的に、上原さんの勝訴が確定している)

この訴訟はドキュメンタリ作家上原正稔氏が、琉球新報の「言論封殺」を訴えるという前代未聞の裁判であるにも関わらず、これを知る県民はほとんどいない。

沖縄の2大紙、琉球新報と沖縄タイムスが、自分たちにとって「不都合な真実」は、決して報道することはないからである。

■上原氏怒りの記者会見■
2012年1月31日。県庁記者会見室でドキュメンタリー作家上原正稔氏が記者会見を行った。

 その日の午前中に、上原氏は琉球新報に対する損害賠償訴訟を那覇地裁に起こし、それを受けての会見であった。代理人の徳永信一弁護士が訴訟の概略を説明した後、マイクに向かった上原氏は、開口一番沖縄戦時に慶良間島で戦隊長を務めた赤松嘉次、梅沢裕両氏に対して「大変なご迷惑を掛けた。ごめんなさい。許してください。そして同時にありがとうと言いたい」と侘びの言葉を述べ、両隊長による「集団自決の命令がなかったことは火を見るより明らかだ」、「真実を伝えるのがマスコミの使命だ」と訴えた。
さらに、会場の記者団に向かい「琉球新報の記者は来ているか」と問いかけた。 若手の記者が「はい、来ています」と挙手で答えると、上原氏はその記者に向かって「君たち新聞記者は、都合の悪いことは報道しないが、この裁判で君の会社が訴えられたのだよ!」と一喝し、「これを明日の記事にしなかったら新聞社の恥だよ」と釘を刺した。気の毒にも、まだ若い新報の記者は、上原氏の気迫に押されたのか「ハイ」のひと言だけで返す言葉はなかった。上原氏は、2009年5月、『うらそえ文藝』(第14号)で、異論を封殺する琉球新報を激しく糾弾したが、琉球新報はこれに反論どころか、一切これを報道せず黙殺で通したことを琉球新報の記者に皮肉ったわけだ。

■『うらそえ文藝』での告発■
沖縄の文芸誌『うらそえ文藝』で上原氏は、県文化協会会長の星雅彦氏との対談で自分が琉球新報から受けたあからさまな言論封殺について詳しく話していた。 少し長くなるが上原氏が琉球新報を訴えた経緯を知る上で参考になるので、関連部分を抜粋引用する。

≪星: そうですね。現在でもある意味では(言論は)統制されているわけですからね。

 上原: もう完全に右も左も統制です。僕は琉球新報の前泊記者たちに「パンドラの箱…」の掲載をストップさせられた。怒鳴りつけてやった。「君らは表現の自由を知ってるか」ってね。しかし動じる様子もなかった。連載は二〇〇七年四月から四ケ月も中断した。

 星: 社の方針に反するということだろうね。それはまたその人たちも統制の枠の中にいるってことだが、意識してないかもしれない。

 上原: 彼らはまず沖縄の知識人、自分たちは文化人だと思い込んでいるんですよ。それで自分たちの発言や行動はすべて正しいと思っているわけです。

 星: 正しいかどうかは何十年か何百年か経たないと分からない。

 上原: いつも彼等は正しいと思ってる。だから、僕が本当のことを書こうとしたら、もう読みもしないうちからストップかけるわけです。これは新報の編集方針に反するからといってね。僕は二回にわたって四人組の記者から吊し上げられ、連載を申止させられた。一番腹が立ったのはM記者だったが、彼も新聞社をバックに空威張りしたのにすぎない。彼等も統制のオリの中にいるわけですよ。≫(2009年5月、『うらそえ文藝』(第14号)

 

原告上原氏の挑発が効いたのか、被告の琉球新報は記者会見の翌日2月1日の紙面で、ベタ記事ながら次のように報じた。

「連載掲載拒否」本紙を提訴
表現の自由を侵害されたなどとして、那覇市のドキュメソタリー作家、上原正稔さん(68)が1月31日、琉球新報社を相手に慰謝料など約1千万円の損害賠償を求める訴訟を那覇地裁に起こした。
2007年5月から琉球新報タ刊で連載された「パンドラの箱を開く時」をめぐり、琉球新報社から途中の原稿の掲載を拒否され、表現の自由侵害などで精神的苦痛を被ったと主張している。
琉球新報社は「連載を一方的に止めた事実はない。従って『表現の自由の侵害』には当たらないと認識している」としている。(琉球新報2011年2月1日)

徳永弁護士によると、裁判の要点はこうだ。 
上原氏が琉球新報に長期連載中の沖縄戦記「パンドラの箱を開く時」の、慶良間の集団自決問題の真相に触れる部分が、「社の方針に相違する」との理由で掲載日の直前になって突然中断に追い込まれ、大幅な原稿の改変を余儀なくされた。 

4カ月後に執筆を再開したが、最終章の原稿の掲載を拒否され、未完のまま終了した。徳永信一氏は「琉球新報が、原稿の受け取りを拒否し連載を打ち切ったのは、契約違反である。事実に基づく真相の探求を封じたことは個入の表現の場を一方的に奪ったものであり、公正で不偏不党な報道という社是に背反し編集権を逸脱する」と述べた。

裁判の名目は民事訴訟では良くある「損害賠償の請求」だが、裁判の根底に大きな争点が隠れていることは被告の琉球新報が一番承知しているはずだ。

その争点は日頃言論の自由を標榜する新聞社としては最も恥ずべき行為とされる「言論封殺」を琉球新報自らが行った事に対する訴訟ということだ

そして琉球新報による「言論封殺」の裏には、沖縄戦で長年論議されてきた「集団自決における軍命の有無」が最大の争点として潜んでいるであることを、原告、被告の両陣営が強く意識していることは言うまでもない。 

沖縄戦記を研究テーマにするドキュメンタリー作家上原氏と琉球新報の間に起きた裁判沙汰を振り返ってみる。 

両者の間に一体何があったのか。

■2007年、沖縄のメディアは集団発狂した■

ここで時間を5年前の2007年に巻き戻してみる。この訴訟の本質を見極めるためには、上原氏の原稿に何が書かれていたかという点と、もう一つ重要な点は、その原稿が掲載拒否された2007年5月の沖縄の社会的時代背景である

平成19年(2007年)3月、文科省が高校の歴史教科書の検定意見で、沖縄慶良間諸島でおきた集団自決に関し「軍の命令によるもの」という従来の記述を削除するよう求めた。

 地元2紙は連日、「集団自決」に関する特集を組み検定意見を撤回することを求めるキャンペーンを大々的に張った。

 そしてその年は、9月20日に行われた左翼勢力主催の「高校歴史教科書検定意見撤回を要請する県民大会(11万人集会)」へと狂気のように雪崩れ込んで行った年である。

各市民団体、労働団体が抗議声明が連日の紙面を飾る騒然とした状況の中、筆者はドキュメンタリー作家の上原正捻氏が琉球新報の夕刊に連載していた沖縄戦記「パンドラの箱を開ける時」を深い興味を持って愛読していた。

 
というのは実証的戦記を得意とする上原氏が当時話題沸騰であった集団自決の「軍命論争」に関し、どのように記述するかが関心の的だったからだ。

 上原氏とは面識はなかったが、従来の沖縄戦の研究者のように、戦争の持つ影の部分のみを捉えて無理やりイデオロギー問題にすり替える手法をとらず、沖縄戦の真実の物語を追及している異色の沖縄戦研究者として関心を持っていた。

上原氏が始めた1フィート運動を取り上げた沖縄テレビ制作『むかし むかし この島で』は、第14回FNSドキャメンタリー大賞ノミネート作品となり、沖縄テレビのサイトでは、上原氏の沖縄戦の記録発掘に対する姿勢がどのようなものかを垣間見ることができた。

 これも上原氏の「パンドラの箱を開ける時」に興味を持った一因であった。   http://www.fujitv.co.jp/b hp/fnsaward/14th/05-330.html

当時私と同じように上原氏の「パンドラの箱を開ける時」の連載に注目している人物がいた。

当時、産経新聞那覇支局長をしていた小山氏のことだ。 私は氏小山氏のブログを愛読していおり、6月16日のブログに第2話「慶良間で何がおきたか」が20日の夕刊から始まり、慶良間の集団自決がテーマになることが書かれていた。

 そこには上原氏は、「圧力に屈することなく執筆する」と話していたと記されていた。 私が長年関心を持っていた集団自決の軍命論争の核心が愈々上原氏の筆により語られる、と期待に胸が膨らんだのを記憶している。 

■パンドラの箱は閉じられた■


待ちに待った5月20日、琉球新報夕刊の紙面を隅から隅まで探したが「パンドラの箱を開ける時」は、何処にも掲載されていなかった。

 通常、何らかの理由で連載記事が予定日に掲載されない場合、執筆者か掲載紙の方から、休載の理由について断りがあるもの。

ところが、この予期せぬ休載については、上原氏はおろか琉球新報側からも一切何の説明もなかった。

突然の休載に愛読者として一抹の不安が胸をよぎった。言論封殺ではないかという不安だ。

 漫画家の小林よしのり氏が、沖縄の新聞のことを「異論を許さぬ全体主義」だと皮肉っていたことが現実のものとなって目の前に現れた、と考えた。

 筆者は、琉球新報に電話を入れて掲載中止の理由を問い質した。

 だが、最初に対応した琉球新報の記者は、連載記事が掲載中止になっている事実さえ知らない様子だった。

 「自分の新聞のことも見ていないのか」と難詰されれ対応に出た記者は、連載特集がが掲載されていないことを確認した。

その後、電話は編集部に回されたが、その時「上原さん、原稿が間に合わなかったのかな」という記者の独り言が聞こえた。

 上原氏の記事の突然の中止は記者にも知らされずに急遽「言論封殺」が行われたものと直感した。

 その後電話に出た編集部の担当記者も動揺を隠せない様子で「調整中です」を連発するばかりで、納得できる応答は出来なかった。

 その時のやりとりを、当時から書いていた政治ブログ「狼魔人日記」に「沖縄のマスコミは大政翼賛会か」というタイトルで書き、読者の支持を受けた。

翌日のブログには「琉球新報は報道機関としてのプライドをかなぐり捨て、連載中の記事を『削除』するという禁じ手を使ったことになる。自分の意見と異なるという非常に分かりやすい理由で」と書き、「沖縄の言論空間は、いよいよ異様な様相を呈してきたようだ。サヨクの方々が常用する『戦前のような言論弾圧』がメディア主導で今正に沖縄で行われている。」と続けた。

この琉球新報による唐突ともいえる「休載」に対し、私のブログ「狼魔人日記」の読者の反響は、予想以上に大きなものだった。

「琉球新報に抗議します」というタイトルで「琉球新報の言論封殺が今日で4日目です」「・・・今日で7日目です」と定期的にエントリーして琉球新報への抗議の意を表した。

■画龍点睛を欠く連載の再開■


それから四カ月が経過した10月16日、「パンドラの箱を開ける時」が突然再開された。

10月19日付のブログで書いたことを引用する。

《10月16日。 二回目の「教科書検定意見撤回要請団」が上京し、沖縄中を巻き込んだ「集団自決」に関する大フィーバーも一段落が着いた。地元2紙の紙面にも一時のような「新証言者登場」といった刺激的な記事も殆ど見なくなった。その静寂の合間をつくように、その日(16日)の琉球新報夕刊に、4カ月の長期にわたって中止されていた「沖縄戦の記録」がソッと再開されたまるで一目をはばかるように。 何の予告もなく。(略)新報側の突然の連載中止であるにも関わらず、新聞社側からは連載中止の知らせも、4カ月後の突然の再開の知らせも読者に対しては一言の説明もなかった。今後、琉球新報は「説明責任」で他人を責めることは出来ない。 結局、4カ月前に電話で問い合わせた答えの通りの長い「調整中」を、筆者の上原さんの「長い夏休み」としてゴリ押ししたのだろう。げに恐ろしきは新聞社の「調整」。これを別の名で言うと「言論封殺」と呼ぶ。長い「調整」の結果、内容も「調整」されている模様。

事前の予告では次は「慶良間で何が起こったか」を明らかにするとしており、集団自決の真実を白日の下にさらすとのことだったが、再開した第2話のタイトルは「軍政府チームは何をしたか」と変更されているではないか。「集団自決」が起きた1945年3月下旬の慶良間を飛び越えて、4月以降の沖縄本島の米軍上陸、投降住民の管理の模様を記しており、「慶良間で何が起こったか」については触れていない。》(「狼魔人日記」 2007年10月19日

■琉球新報の言論封殺■
不自然な連載中止と同じく不自然な連載再開だった。 

琉球新報が上原氏に対して言論封殺を行ったという疑念は確信に変わった。 

筆者が一読者として感じたことは琉球新報の読者の誰もが感じたことだと考えた。

琉球新報が言論封殺した上原氏の記事「慶良間で何が起きたか」には、一体、琉球新報を動揺させるどんな内容が書かれていたのか。

 地元を代表する新聞が、「集団自決」に関する連載記事を突然中止したことに対しては当然、いろんな憶測が飛び交った。

 「新聞を中心に展開されている教科書検定運動に水をかけることになる内容になるため」だ、とか編集担当者の態度に変化があり、今回の事態になった」とも言われた。

 偏向記事で知られる沖縄紙ではあるが、連載中止という非常手段に打ってでるのはよっぽどのことがあったに違いない。

 後にわかったことだが、琉球新報に封殺された原稿には、上原氏が慶良間島の実地検証で得た「軍命はなかった」という論考が赤裸々に綴られていた。

■月刊誌『WILL』が琉球新報の告発記事掲載■
上原氏の連載が中止された日の朝刊、文化面のトップに林博史関東学院大学教授の「沖縄戦」特集の第一回目が掲載されていた。

 林教授といえば日本軍は残虐非道だと糾弾するサヨク学者で、「集団自決訴訟」でも被告側の証拠を収集したことで知られている。私は当時の沖縄メディアの異様な有り様を同時進行でブログに書き続けた。

それが偶然雑誌社の目に留まり「沖縄紙の言論封殺」について原稿を依頼され、月刊誌『W ill』に「これが沖縄の言論封殺だ」というタイトルで掲載された。 

本文と重複する部分も有るが、有力月刊誌が沖縄メディアの異常性を告発したという意味で注目されるので関連部分を抜粋引用する。

≪・・・平成19年6月19日は、琉球新報の長期特集記事(火曜から土曜の夕刊に掲載)の第二話「パンドラの箱を開ける時 沖縄戦の記録」の掲載予定日であった。 第一話「みんないなくなった 伊江島戦」が前日で終了、19日からは第二話「慶良間で何が起きたか」が始まる予定であった。 筆者上原正稔氏は掲載日の前、知人に「集団自決」に関するもので、圧力に屈することなく執筆する」と語っていたという。
「集団自決」というテーマは地元二紙を中心に沖縄メディアが“民意”を煽っている最もホットなテーマのはずだった。 言うまでもなく慶良間とは「集団自決」に関する「軍命令の有無」が問題になっている座間味島と渡嘉敷島を含む、慶良間諸島のことを指す。 
だが、その特集記事は、読者に何の断りもなく、突然、中止になった。執筆者あるいは新聞社側の「お知らせ」や「弁明」等は一行も掲載されていなかった。≫(『WILL』2008年8月増刊号)

■竜頭蛇尾の最終回■
上原氏の「長い夏休み」が終わり休載中の記事が再開されたとき、私は琉球新報の言論封殺を直感的に感じながらも、執筆者の上原氏に対して一種の失望感を感じたことを記憶している。

 ひと言で言えば「上原正稔よ、お前もか!」という心境だった。

その年2007年は新聞に登場する識者と言われる人達の「集団自決」についての論評は一斉に横並びで、例外なく「軍命があった」の大合唱だった。すくなくとも私の知る限り、「軍命」を否定する識者の論文は見たことがなかった

 そんな風潮の中で「右も左も関係ない、反戦平和も関係ない」と「豪語」していた上原までもが、琉球新報の言論封殺に唯々諾々と従ったと考えたからだ。 

一読者であり上原氏とは面識のなかった私は、後に知ることになるが、上原さんと琉球新報との掲載拒否について繰り広げられた壮絶なバトルを知るよしもなかった。

 従って肝心な部分で何の断りもなく四ヶ月も休載しておきながら白々しく「長期休暇」としか言い訳の出来ない上原氏に、やはり「全体主義の島」では実証的戦記を得意とする上原氏ですら新聞の論調には迎合せざるを得ないのか、と落胆したのだ。
それでも、肝心の「慶良間で何が起きたか」を欠落したままでは画竜点睛を欠くと考え、最終回までには慶良間の記述に戻るだろうと失望しながらも淡い期待を抱きつつ、2008年の連載記事の最終回を迎えることになった。


「第13話 最終章そして人生は続く」と題する最終回は、「慶良間で何が起きたか」についての記述をフラッシュバックするどころか、本題とは外れる上原氏が始めた1フィート運動の経緯について紙面の大半を使っていた。


これでは「パンドラの箱を開ける時」というタイトルからしたら、まさに竜頭蛇尾の最終回であた。

 長期連載戦記「パンドラの箱が開くとき」は、皮肉にも箱のふたを閉じたまま最終回を迎えることになったのだ。

■読者を敵に回した琉球新報■
「慶良間で何が起きたか」の記述を欠落したまま終わるのでは、期待して最後まで読み続けた読者を裏切ったことになる。 読者は琉球新報によって「知る権利」を奪われたことになるのだ。


その後、上原氏が琉球新報の言論封殺に対し提訴することを知った一読者としての偽らざる心境は、こうだ。

「パンドラの箱掲載拒否訴訟」は、上原と琉球新報の間の損害賠償の訴訟ではなく、琉球新報が自己のイデオロギーのため読者の「知る権利」を封殺したことに対する上原氏の糾弾の訴訟と。


つまりこの訴訟は、実質的には琉球新報が全読者を敵に回した「言論封殺」訴訟ということが出来る。

【おまけ】

つづく

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沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を捏

2022-11-23 14:01:30 | ★原稿
 

沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける

2012-05-12

本記事は過去に何度も再掲したが、最近特にアクセスが多くなっているので一部編集の上再掲する。

■沖縄タイムス 1983年6月8日

故赤松大尉直筆の手紙を届ける

衆議院調査室の徳嵩力さんが本社東京支社に

住民に「申し訳ない」

虐殺については否定?

【東京】戦時中、海上挺進第三戦隊の隊長として渡嘉敷島の守備につき、住民虐殺、集団自決のあの悲惨な「事件」に深く関与したといわれる赤松嘉次大尉(故人)が12年前、当時の陣中日誌とともに関係者に出した直筆の手紙がこのほど、沖縄タイムス東京支社に届けられた。渡嘉敷での数々の悲惨な出来事について赤松氏は「一部マスコミの興味本位な報道」と伝えられる事実関係については強い口調で否定。 敗戦の結果についてのみ「申し訳ない」とつづっている。折りしも、沖縄では三十八回目の「慰霊の日」をやがて迎える。

手紙を保管なしていたのは、衆議院外務委員会調査室に勤める徳嵩力さん(61)。復帰前、「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)を読み、そのなかで渡嘉敷島の住民虐殺、集団自決など悲惨な出来事を初めて知った徳嵩氏が、やっとの思いで赤松氏を探しあて、事実関係を尋ねたことに対する返書で日付は昭和四十五年十一月三十日。 
そのなかで赤松氏は「戦時中、現地の方々の献身的な協力にも拘わらず力足らず、あのような結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と敗戦の悔いを「つづっている。
ただ住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 同時に沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議についても“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している。
仕事上の関係もあって「沖縄に強い興味を持つ」という徳嵩氏は手紙と陣中日誌を読み返し「どうも後で理由付けした感があり、説得力に乏しい」と感想を語る。 さらに「赤松氏個人への感情は別として」と前置き、「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです。 教科書問題にしても、やはり虐殺の事実は事実として歴史にとどめるべきだし、それが生き残った私たちの使命」とも。
中学、高校の教科書で沖縄戦で住民虐殺の記述も復活の兆しにある。 赤松氏がどのような胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが、日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である。

             ☆

 

当日記を古くからの読者は上記引用の記事を読んで、アウトラインは理解できる読者もいるだろうが、複雑に絡み合った集団自決の整理のため、記事に書かれている事実の説明から始める。

ここに登場する徳嵩力氏は、1921年生まれ、長野県出身。戦後、国家公務員上級試験合格し1956年衆議院外務委員会調査になり、沖縄問題を担当。復帰の3年前の昭和44年(1969年)に衆議院職員初の沖縄調査団として沖縄視察をしたエリート官僚である。

徳嵩氏は戦後一貫して沖縄問題を担当した使命感から独自に沖縄問題の研究から発展し「鉄の暴風」、「秘録沖縄戦」(山川泰邦)、「沖縄ノート」(大江健三郎)などの沖縄戦の本を読み漁り、ついには赤松大尉を捜し当てて、ことの真相を問いただす。

ちなみに「鉄の暴風」が伝聞や噂の類を基に書かれた嘘まみれの本であり、「沖縄ノート」はその嘘のネタ本を下地にしたデタラメの本であることは、今では大方の知るところ。 「秘録沖縄戦」も、「鉄の暴風」の影響を大きく受けており、近年著者の故山川康邦氏のご子息が歪曲部分を削除した改定版を出したくらいである。

復帰前の沖縄戦の情報が少なかった当時としては仕方の無いことだが、徳嵩氏が沖縄戦を勉強した本が全て沖縄タイムスの偏向思想により歪曲された本だけだったのは徳嵩氏にとって不幸であった。

優秀で誠実な戦前の日本のエリート官僚の系譜を継いだと思われる徳嵩氏は、イデオロギーとは別の視点から、日本軍が沖縄に及ぼした被害の数々をこれらの「沖縄本」から勉強し、激しい贖罪意識に襲われる。

 そして政府の沖縄担当の調査官としての使命感から赤松大尉を探し出して当時の状況を聞き取るのだが、赤松大尉がそれに対する返事を手紙にして送ったのが記事に出て来る昭和45年11月30日付けの赤松氏の手紙である。 

今年は沖縄の日本復帰の40周年だが、赤松氏が手紙を送ったのは復帰の2年前、今から42年前の出来事である。

徳嵩氏は沖縄担当の官僚という職務上、沖縄紙の東京支局の記者と知り合うことになるが、ある席上偶々隣の席にいた沖縄タイムス記者に赤松大尉の手紙のことを話すことになる。

徳武氏としては赤松大尉の存在を知ったのが沖縄タイムス刊の「鉄の暴風」だったのだから沖縄タイムス記者に話すことに何の躊躇も無かったのだろう。

 当時の徳武氏としては「鉄の暴風」や「沖縄ノート」がイデオロギーまみれのデタラメな本と言うことを知る由もなく、沖縄戦史の解明の資料として沖縄タイムスに手紙を渡したのも仕方の無いことである。

沖縄タイムスが赤松大尉の直筆の手紙を入手したら、どのような行動にでるか。 

猫に鰹節とはまさにこのこと。

手紙の内容の如何に関わらず、イデオロギーによる歪曲した捏造記事を書くことは火を見るより明らかだった。

それが上記引用の記事である。

この記事は12面のトップを徳嵩氏の写真つきで大きく飾り。徳嵩氏の写真には「故赤松氏からの当時の手紙を見ながら住民虐殺について語る徳嵩氏」というクレジットが付いている。

沖縄タイムスの記事を見て、沖縄戦当時渡嘉敷島の駐在巡査を勤め集団自決の一部始終を目撃した比嘉(旧姓安里)喜順氏が記事のあまりにも酷い歪曲された内容に悲憤慷慨し、その日のうちに抗議の手紙を徳嵩氏に送った。

手紙の日付が沖縄タイムスの記事と同じなのは、それだけ比嘉氏が当時の生き証人として居ても立ってもおれなかった比嘉氏の心境を表している。

比嘉氏はその日の午後3時頃記事を読み、すぐ沖縄タイムスに抗議すると同時に徳嵩氏の連絡先を問いただし、その日のうちに手紙をしたため郵送している。

その手紙はご子息から公開の許しを得ているので、集団自決の真相解明の歴史的資料として下記に公開する。

その前にタイムス記事が触れている「同時に(赤松氏が)沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議」について事実を説明しておく。

当時の新聞には、沖縄県民や渡嘉敷住民が、赤松氏を空港に出迎えた抗議した、と報道している。(※【おまけ】に詳述)

が、実際に空港で抗議したのは僅か十数名の那覇市の市職労の組合員であり、渡嘉敷住民は慰霊祭に赤松氏が参加するのを歓迎していた。

1970(昭和45年)3月26日、赤松氏が那覇空港で、左翼集団に取り囲まれて渡嘉敷島には渡ることを阻止されたことは過去にも再三書いたが、親族関係者の話で次のことも判明した。

赤松氏は、空港で、抗議集団にもみくちゃにされ、背広のボタンも引きちぎられる酷い有様だったという。

このような激しい抗議に遭っては、普通の定期船ではとても渡嘉敷島に渡ることができないと判断し、渡嘉敷行きは諦めかけていたが、翌慰霊祭当日、伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれた。

たが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡ることはせず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託したという。

渡嘉敷の住民は赤松氏の来島を大変歓迎していたが、マスコミや抗議集団との混乱を避けるため渡嘉敷上陸は断念した。

なお、伊礼蓉子氏の娘さんは、赤松氏宅にも訪問したことがあり、赤松氏の家族と今も交流が続いているという。 
     
この事件を、沖縄タイムスをはじめ全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて、これを機に赤松氏の悪評が一気に広がった。

赤松氏の地元では、地元紙である神戸新聞の記事を見た人が多く、赤松氏の長女は後にクラスメートからこのことを教えられたという。 

なお、赤松氏を渡嘉敷に送る舟を手配した伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵)は、星雅彦氏の手記「沖縄は日本兵に何をされたか」(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)の中で証言者として登場している。

村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)(雑誌「潮」1971年11月号・星雅彦)》

 

赤松氏は当時の渡嘉敷村長の了解の下に沖縄訪問をした。

したがって「“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している」という赤松氏の心情は事実であった。

赤松氏に罵声を浴びせる組合員の中には赤松氏を出迎えにきた玉井喜八渡嘉敷村長がいた。

組合員の暴力的な実力行使で、結局赤松氏は慰霊祭に参加を断念するが、玉井村長は次のようなコメントを沖縄タイムスに伝えている。

「赤松氏は三年ほど前から慰霊祭に出席したいと連絡していた。ことしも村から慰霊祭のスケジュールを送ったらぜひ行きたいという返事があり、喜んでいたところだ。」 

集団自決論争が問題解決を困難にしている理由は次の点にある。

①「事件」が60数年前のことであり、体験者はほとんどが物故している。

②数少ない証言も、当時子供だった証人の曖昧な証言に頼らざるを得ない。

③物的証拠は一つもなく、証言あるいは証言記録のみを証拠としているの。

④意識的嘘の証言は論外としても、証言の「思い違い、記憶違い」等も考慮に入れなければならぬ。

これらに親族、地域社会などの人間関係、経済的要素の呪縛や、イデオロギーの呪縛が絡むと証言の信憑性の検証はますます難しくなる。

2007年の「11万人集会」の前後、沖縄紙は夥しい数の証言者を紙面に登場させ、連日「体験者証言」と大々的に報じたが、そのほとんどが、「毒おにぎり証言」の例のように客観的検証に耐える証言ではなかった。

卑近な例で、意図せざる「記録の過ち」を一つ例示しておこう。

玉井喜八渡嘉敷村村長がミニコミ誌に寄稿した『遺族会発足当時を想う』と題する手記の中に、玉井村長の記憶違いが見られる。

手記はここ⇒沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪

同手記には昭和53年赤松夫人が三十三回忌の慰霊祭に渡嘉敷訪問したとある

だが、これは玉井村長の記憶違いで、赤松夫人が慰霊祭に参加したのは昭和53年ではなく、正確には昭和59年に戦隊員や遺族の方々に同行し、赤松氏の遺品を寄贈している。

これは赤松氏の遺族関係者からご指摘を受けた。

玉井村長のような重要人物でさえこのような記憶違いを手記に書くくらいだから、故人が残した証言の記録が全て正しいとは限らず検証が必要なことは言うまでも無い。

実際に赤松夫人が渡嘉敷島を訪れたのは、手記にある昭和53年ではなく、昭和59年であるというから、赤松夫人は次の記念写真のどこかに写っているものと思われる。

和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

 

■比嘉喜順氏の手紙

 徳嵩様 謹んで申しあげます。

あなた様の東京支局によせられた故赤松大尉直筆の手紙を届けるの記事を読み、お便りを差し上げます。
私、当時(沖縄戦)昭和20年2月より昭和20年8月14日まで渡嘉敷村の巡査駐在所で勤務しておりました者であります。
それであなた様が「12年前より(まま)赤松大尉直筆の手紙」を届ける記事を6月8日の午後3時ごろ読みまして、早速沖縄タイムスに電話で貴殿の調査室の住所を知らして下さいと頼みまして、このお便りを差し上げます。 それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。
私も戦い終わって昭和二十年八月二十七日、捕虜で金武村屋嘉の収容所に収容され、同年十一月三日そこを出て、家族をさがしあてたのが昭和二十年十一月十五日でした。 それで戦争の話、友軍の行動等を分かりました。 
それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。 戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。
赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。 それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みにお読みになられたらと思います。
真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。
只々書かなければ止まない衝動にかられてこのお便りを書きました。
徳嵩様の重要な部所にお勤め鳴られてをり幸いと思います。
益々ご健康で、ご繁栄でありますと併せて我が国の繁栄に寄与なされますようご御祈りいたします。 乱筆で御免下さい。

                                                        敬具

昭和五十八年六月八日午後十一時三十分

沖縄県北中城字大城の自宅にて

旧姓 安里  比嘉喜順拝

徳嵩力 様

                ★

慶良間で何が起きたのか⑥ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 赤松さんは一九七〇年三月二十六日、渡嘉敷村民に招かれ合同慰霊祭に参加する目的で那覇空港に着いた時、抗議団の怒号の嵐の出迎えを受けた。「何しにノコノコ出てきたんだ。」「人殺しを沖縄に入れるな」「赤松帰れ」のシュプレヒコールが浴びせられた。赤松さんは結局、渡嘉敷に上陸することはかなわなかった。沖縄で殺人鬼と面罵され、故郷に戻ると、事件を知った娘から「お父ちゃんはなんで沖縄の人たちを自決に追いやったのか」と責められた。赤松さんは「娘にまで誤解されるのは、何としても辛い」と記している。読者は赤松さんの人格について知らないものと思う。赤松さんの「ひととなり」を伝える二通の手紙を僕は一九九五年比嘉(旧姓安里)喜順さんから預かったが、それをここで紹介しよう。一九七〇年四月二日付の赤松さんからの比嘉さんへの手紙は次のように綴っている。―(前略)今度の渡沖については全く合点が行かず、なんだか一人相撲を取ったようで釈然と致しません。(中略)村の戦史については軍事補償その他の関係からあの通りになったと推察致し、できるだけ触れたくなかったのですが、あの様な結果になり、人々から弁解のようにとられたことと存じます。しかしマスコミも一部不審を抱いているように感じられましたので、いつか正しい歴史と私たちの善意が通じることと信じております。―


 四月十七日付の手紙は次のように伝えている。―(前略)安里さんにはあのような俗説の流布されている中、ただ御一人で耐え忍び、ご心中のほどご察し申しあげております。(中略)先日、元琉球新報の記者より手記を書いてくれ、と言われ、聞いたところによりますと、現在マスコミの半分ほどは赤松さんを信じていると申されておりましたが、一度世に出し、これほど流布されてからでは難しいだろうから郷友会などを取材して新たに真実のものを出したらどうかと言っておきました。いづれにしても、私たちは真相が明白にされ、私たちの汚名が拭い去られる日を期待し、努力しております。一日も早く沖縄の人々にも理解していただき、私たちと島民が心を合わせて共に戦ったように、次の世代の人々が憎しみ合うことなく本土の人々と仲よくやってゆけることを祈ってやみません。安里さんも機会をつくって、ぜひ本土に来てください。皆、歓迎してくれると思います。また子供さんの勉学につきましても私たちをご利用下さい。いくらかでも戦時中のご恩返しができれば幸甚です。奥様はご病気のとのことですが、その後いかがですか。すでに沖縄は暑いと思いますので御自愛専一のほどお祈り致します。 敬具 赤松嘉次


 これが慶良間の〝集団自殺〟(集団自決という言葉は伊佐良博記者の創作であると、本人が記している)の真相だ。だが、沖縄タイムスの『鉄の暴風』は今も発行され続け、次のように伝えている。―恩納河原の自決のとき、島の駐在巡査(安里喜順さんのこと)も一緒だったが、彼は「自分は住民の最後を見とどけて、軍に報告してから死ぬ」と言って遂に自決しなかった。…赤松大尉は「軍として最後の一兵まで戦いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は全ての食糧を確保して、持久態勢をととのえ、敵と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している」ということを主張した。(中略)座間味の戦隊長梅澤少佐は米軍上陸の前日、忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた。住民が広場に集まってきたその時、近くに艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長はじめ役場吏員などその家族は各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。…日本軍は最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降。隊長梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げた。―


 この記述には真実の一カケラもないことは誰の目にも明らかだろう。正に「見てきたような嘘」でしかない。ノーベル賞作家の大江健三郎はこの『鉄の暴風』の記述をそのまま信じ、『沖縄ノート』で旧軍指揮官を糾弾したのだ。人は誰であれ、己の目の高さでしか物を見ることができない。だから、信じたいことを信じ、自分に都合のよいことを信じてしまうのだ。だが、慶良間の〝集団自殺〟については赤松嘉次さんと梅澤裕さんが命令したことはないことははっきりしている。


 人間の尊厳を取り戻す時
 僕は一九九六年六月琉球新報の『沖縄戦ショウダウン』の中で言明したが、もう一度ここで述べよう。―沖縄の新聞、特に沖縄タイムスの責任は限りなく重い。そして一人の人間をスケープゴート(生贄)にして、〝集団自殺〟の責任をその人に負わせてきた沖縄の人々の責任は限りなく重い。僕は長い間、赤松さんと梅澤さんは〝集団自殺〟を命令したとの先入観を拭い去ることができなかった。真実が明らかになった今、赤松さん、梅澤さん、そしてご家族の皆さん本当にご免なさいと謝罪しよう。そして今、僕は一つ脱皮して一つ大人になることができた。―


 2011年10月中旬、ぼくは兵庫県を訪れ、赤松嘉次さんの弟秀一さんに迎えられ、一緒に嘉次さんのお墓参りをした。ぼくには神も仏も遠い存在だったが、長年の重荷を下ろし、何だか心が軽くなった。


 だが、大きな問題が残されている。自分の親、子、兄弟を殺して遺族年金を受け取っていることは誰も語りたくないし、語れないものだ。僕は知識人でもなく、文化人でもなく、宗教家でもなく、道徳家でもない。だが、僕は知っている。自分が愛する家族に手をかけた者はいつまでも忘れず、心を痛めているのだ。だが、それを軍隊のせいにしたり、国の教育のせいにしたり、他人のせいにしてはならない。ましてや、無実の軍人のせいにしてはならない。自分のこととしてとらえない限り、心が癒されることはないのだ。そして、赤松さんと梅澤さんとそのご家族にきちんと謝ることだ。誰も彼らを責める者はいない。実際、座間味で母親に首を切られたという青年は「母親を恨んでいるか」との質問に「そんなことはありません。母を心から愛しています」ときっぱり答えた。赤松さんも梅澤さんも心の広い人間だ。きっと許してくれるはずだ。いや、きっと「ありがとう」と言ってくれるだろう。それが人間の尊厳を取り戻すということだ。僕はそう信じている。                                               (おわり)

             ☆

我々は「言論の自由」などと気軽に言うが、発表する場所の無い言論など一片の紙屑にすぎない。

だが弾圧され、言論封殺された言論が逆境を乗り越え一旦日の目を見ると、本来の価値に加えて輝きを増し、その反動で読む人の胸を打つ場合がある。

ドキュメンタリー作家上原正稔さんの著作「慶良間で何があったのか」が、それだ。

琉球新報が「社の方針と異なる」という理由で掲載拒否したことを、「慶良間で何が起きたのか」を本日の完結編まで読んだ人なら容易に理解できるだろう。

仮に琉球新報が読者を舐めきった暴挙に及ばず、そのまま上原さんの連載記事を継続していたらどうなっていたか。

勿論「言論封殺」で訴えられることもなかった。

「慶良間で何が起きたのか」の記事がネットに載ることもなかった。(琉球新報はこの種の連載記事はネットには載せない) 

したがってこのようにネットを通じて「幻の原稿」が全国に拡散されることも無かったはずだ。

琉球新報が必死になって封殺しようとした「慶良間の真相」は、皮肉にも、琉球新報自身の「言論封殺」により全国読者の耳目に触れる機会を与えられたことになる。

さらにもう1人、「幻の原稿」に輝きと弾みをつけた功労者の名を忘れてはいけない。

南の島の小さな新聞八重山日報だ。

沖縄の代表的新聞琉球新報に反旗を翻すことは、異論を許さぬ「全体主義の島沖縄」で同じ記者クラブに属する弱小新聞としては、かなり勇気の要ることだ。

さすがの八重山日報も上原さんが琉球新報を提訴した経緯を書いた拙原稿を寄稿したときは、琉球新報社の社名を「R社」にする気の使いようだった。

だが八重山日報はあえて上原さんという火中の栗を拾った。

八重山日報の決断は、閉塞した沖縄の論壇に風穴を開けたことになる。

八重山日報の勇気ある行動にはいくら賛辞を送って余りあるものがある。

           ☆

 

上原さんの原稿に登場する比嘉(安里)喜順さんは4年前の2008年、94歳の天寿を全うされた。

「集団自決」は安里喜順巡査にとってまことに不幸なめぐり合わせであった。

当時29歳の安里巡査は事件の僅か2ヶ月前に渡嘉敷島に赴任したばかりの単身赴任であり、島の様子にも不案内であった。

ところが、渡嘉敷着任の一ヶ月足らずで、本島に新設された塩屋警察署への転勤が決まり、本島へ戻るはずだった。

本島との船便の連絡が途絶えがちだったため、その辞令を受けるのが遅れ、結局島を出ることが出来なかった。

結果的に「集団自決に」に巻き込まれることになる。

昭和20年、大宜味村に塩屋警察署が新しくできて、私はそこに転勤することになっていたが、とうとう赴任することができなかった。
 2月12日の日付で辞令は出ていたが、私が渡嘉敷島で受け取ったのは40日も経過した3月22日であった。
 空襲などいろいろな事情があって相当期間が過ぎてから私に届いた。それを受け取って初めて自分が転勤になっていたことを知った。

 辞令を受け取ったので翌日にでも本島に渡ろうと思っていたが、その翌日の23日から渡嘉敷島は艦砲と空襲が激しくなり、沖縄本島に渡ることができず、そのまま渡嘉敷島にのこり戦争に巻き込まれ、島と運命を共にした。>(「沖縄県警察史」より)

軍隊の主たる任務が敵との戦闘で有るのに対し、警察の主たる任務は住民の安全と秩序を守ることである。

平時にあっては武力を持つ二つの組織、軍隊と警察は日本の官僚伝統のセクショナリズムでしばしばいがみ合うことがあった。

だが、たった一人で島に赴任してきた安里巡査にとって自分の属する警察機構の上部のセクショナリズムに考えが及ぶことはなかった。

新任の安里巡査は、

島を取り囲む敵の艦船の前では全く無力であり、住民を守るためには赤松隊長の守備軍に相談する以外に打つ手はなかった。

島の住民の中では、村長、助役、校長等の有力者が島民をリードする立場にあったが、安里巡査も勿論このリーダーの1人であった

ここで分かりにくいのは防衛隊員の存在である。

防衛隊員は現地招集の軍属である一方、村の助役や島民が兼任していた。

小さな島で島民と軍属の二つの顔を持つ防衛隊員という存在。

これが「集団自決」問題を複雑にしている。

防衛隊員は軍属として軍の陣地に出入りを許可されていたが、その一方で自宅には父として夫として頻繁に帰宅していた。

手りゅう弾を配ったとされる富山兵事主任がまさにこの防衛隊員だった。

 

次は渡嘉敷島に上陸して来ると言うので、私は慌ててしまった。防衛隊員は軍と一緒に仕事していたので情報はよく知っていた。その防衛隊員の人たちが敵は阿波連に上陸して
 赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。
 
赤松部隊は特攻を出す準備をしていたが艦砲が激しくなって出せなくなり、船を壊して山に登ったと言うことであったので、私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。
 その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。

住民の避難誘導の相談
 このような状況の中で私は赤松隊長に会った。
 「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それでの住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐに引き返した
 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、「なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう」と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。から避難して行くときは大雨であった。
 私が本島にいた時もそうであったが、その頃は艦砲や空襲に備えてそれぞれ防空壕や避難小屋を作っていた。私が渡嘉敷に赴任する前から渡嘉敷島の人たちは、恩納河原に立派な避難小屋を作ってあった。
 
私は恩納河原にこんな立派な避難小屋があることを知らなかった。避難して行ったところは恩納河原の避難小屋の所ではなく、そこよりはずっと上の方で、赤松部隊の陣地の東側であった。を出発したのは夜で、しかも大雨であった。真っ暗闇の中を歩いてそこに着いたときには夜が明けていた。その時の人たちのほとんどが着いて来ていたと思う。避難して来た人たちの中には防衛隊員も一緒にいた。(「沖縄県警察史」より)

軍官僚と警察官僚の対立で有名な事件に、昭和11年に交通信号をめぐって起きたゴーストップ事件がある。

だが、戦時中それも敵の上陸を目前にして日本の巨大組織の末端にいる赤松隊長と安里巡査はお互いの主任務を超えて住民の安全を守るため相談しあっていた。

日本の官僚組織の末端で任務に就く若い二人にとって、

「集団自決」はまことに不幸なめぐりあわせであった。

その時赤松大尉は25歳、安里巡査は29歳である。
   

■安里巡査を取材していた地元作家■

安里巡査の証言が「沖縄県警察史」に採録されたのは昭和63だが、それより約20年前に安里巡査に取材をしていた沖縄在住の作家がいた。

「集団自決」について独自の取材をした詩人の星雅彦氏は『潮』(昭和46年11月号)で次のように書いている。

「そこで安里巡査は、赤松隊長に向かって、村民はあっちこっちの壕に避難して右往左往しているが、これからどうしたらいいのかわからないので、軍の方で何とか保護する方法はないものか、どこか安全地帯はないものか、と相談を持ちかけた。 そのとき赤松隊長は次のように言った。 島の周囲は敵に占領されているから、だれもどこにも逃げられない。 軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、村民は一か所に非難した方がよい。 場所は軍陣地の北側の西山盆地がいいだろう。  そこで、安里巡査は、早速、居合わせた防衛隊数人に対し、村民に西山盆地に集合するよう伝達してくれと告げた。 彼自身も、各壕を回って、言い伝えて歩いた。 防衛隊の1人は、いち早くほぼ正確な伝達をした。 そして村長からも、同様の伝達が出た。 

それは人の口から人の口へ、すばやくつぎつぎと広がって広がって伝わっていったが、村民のあるものは、赤松隊長の命令といい、あるものは村長の命令だと言った」(「集団自決の真相」より孫引き)

安里巡査の昭和63年の証言と20年前に独自の取材をしていた作家星雅彦氏の取材とは一致しているし、元琉球政府職員照屋昇雄さん、渡嘉敷島「集団自決」の生き残り金城武徳さんの証言とも一致する。

勿論、赤松隊長は敵の攻撃から避難する場所の助言はしたが(これを軍の命令する人もいる)、

「軍の命令で集団自決をした」という証言はない。

4年前の2008年、比嘉(旧姓安里)喜順さんは94歳の天寿をまっとうされた。

重要証言者の死

 

「集団自決」を分かりにくくしているも一つの要因に関係者の名前が当時と戦後で異なっている例が多いことである。

例えば手りゅう弾を配ったされる富山兵事主任も戦時中は新城の姓であった。

安里巡査も戦後比嘉家に養子に行き姓が比嘉に変った。

「集団自決」に軍の命令はなかった」と証言する証人たちに取材する沖縄のマスコミは皆無である。

これは上原さんの原稿を掲載拒否した琉球新報の言論封殺と軌を一にする。

 

安里巡査を取材した本土新聞記者■

「世界日報」の鴨野記者が安里元巡査を取材した記録がある。

記録保存のため同記事を以下にコピペする。

月刊ビューポイント ■ダイジェスト版世界日報

沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防

比嘉元巡査「地元紙一度も取材ない」

「軍の食糧、村民に与えた赤松氏」


戦火の渡嘉敷島で日本軍と住民との連絡役を任されていた駐在巡査、安里喜順氏(後に養子に入り、比嘉と改姓)。彼は赤松嘉次隊長の副官、知念朝睦氏とともに、当時を詳しく語ることのできる人物であり、存命ならば記者(鴨野)はぜひともお会いしたいと考えていた。

だが、知念氏や金城武徳氏からは「既に高齢であり、取材は難しいだろう」と告げられた。

別の関係者からは死亡説も聞かされた。しかし、比嘉氏の身近な人は、まだ元気なはずだと言う。

五月下旬、とりあえず自宅に向かった。家には誰もおらず、豪雨の中、二時間半はど粘ったが、会えなかった。ただ、近所の人から「お元気よ」という言葉を聞くことができた。夜、所在を確認できた。翌日、比嘉氏が入院中の病院を訪ねた。

古くからの友人である垣花恵蔵・わかば保育園理事長の姿を認め、比嘉氏の顔がはころぶ。

古くからの友人である垣花恵蔵氏(左)の見舞いに喜ぶ比嘉喜順氏
(沖縄県内の病院で)=5月30日、敷田耕造撮影

誕生日を聞いた。「大正四年四月二十九日です」。

「昭和天皇と同じ日ですね」と話すと、うれしげな表情を見せた。

二十分余りのインタビューで比嘉氏は、

「ただただ日本のためにと、生きてきました。何の心残りもありません」

「(沖縄戦のことについては)これまで自分が書いてきた通りです」と語った。

比嘉氏が昭和五十八年六月八日付で、衆議院外交委員会調査室に勤務し、沖縄問題を担当していた徳嵩力氏(当時六十一歳)にあてた手紙の内容を、

比嘉氏の子息の了解を得て、ここに公表する。

その日の沖縄タイムスには、徳嵩氏が赤松大尉直筆の手紙を同社東京支社に届けたという記事が掲載されていた。徳嵩氏は『鉄の暴風』を読み、赤松氏に事実関係を尋ねたところ、昭和四十五年十一月三十日付で返書が届いた。

その中で赤松氏は

「戦時中、現地の方々の献身的な御協力にも拘(かかわ)らず力足らず、あの様な結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と詫(わ)びている。

だが住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。

これに対して徳嵩氏は

「どうも後で理屈付けをした感があり、説得力に乏しい」「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです」

などとコメント。

記事は、「赤松氏がどんな胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な事件が渡嘉敷で起こったことはまた歴史的事実である」と結んでいる。

比嘉氏はすぐさま、徳嵩氏に反論の手紙を書いたのである。

「私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論(もちろん)自決場所のことも一々始終わかってをります。

あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。

責任者として天地神明に誓ひ真実を申し上げます。

……『鉄の暴風』が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せられて驚いた程であります。その時には既に遅く、全国に販売されてをったようです。

それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した而(しか)も責任ある私達に調査もされず刊行されたこと私の一生甲斐(原文のママ)の痛恨の極みであります。

沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べられたことは今もって一度もございません」

比嘉氏は、捕虜となり収容所に入れられてそこで友軍の行動などを聞くのだが、それを聞いて改めて

「赤松隊長のとった行動は本当に良かった」と振り返る。

「敵の海、空よりの抱撃のさ中で、軍の食糧(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さった、あの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。

あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚(はばか)りません」

そして徳嵩氏に、曽野綾子著『ある神話の背景』を読むようにと要望し、次のようにつづる。

「真実と云うのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一方的に出してそれで何も知らない人々はそれを信じるよう(に)なり、大方はそんなものではございませんか。私はそう思います」

その十日後、比嘉氏は徳嵩氏からの手紙を受け取った。

「拝復 お手紙深い感銘をもって拝見いたしました」で始まる丁寧な返事だ。

彼は『ある神話の背景』を読み、

「如何に勉強不足であったかを改めて痛感させられた」

と率直に吐露。

比嘉氏の証言で真相に触れたことが「非常に幸いであり、また救いでもあった」と感謝を述べ、「機会がある度に、赤松大尉事件の自決命令は伝聞であって真実はこれこれであるというように訂正して参りたいと思っております」と告げている。

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琉球新報の大嘘!集団自決訴訟で

2022-11-05 06:25:15 | ★原稿

 

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大嘘の社説!琉球新報、集団自決訴訟で

2015-06-22

 大嘘報道で、内外に悪名を轟かしている沖縄2紙。

慰霊の日(23日)を前に、集団自決に関し琉球新報が大嘘の社説を書いた。

ちなみに琉球新報はドキュメンタリー作家上原正稔さんによる「パンドラ訴訟」で二審で敗訴し、上告断念で敗訴が確定した事実を一行の報道もせず、読者を愚弄したままである。

琉球新報の大嘘社説に対し、前衆議院議員の山田宏氏が八重山日報で反論している。(【おまけ】参照)

琉球新報が、報道機関としての良心の欠片でも有するなら、山田氏の反論に再反論すべきだが・・・。

琉球新報に反論を求めるのは、大嘘つきに正直になれと説得するに等しい。

<社説>軍命削除 教科書検定意見を撤回せよ

琉球新報 2015年6月21日 6:01 

 

 沖縄戦から70年が経過する中で、安倍政権は沖縄戦の実相をゆがめようとしている。
 政府は2006年度の高校日本史の教科書検定で沖縄戦の「日本軍による集団自決の強制」という記述を削除したことについて、検定意見を撤回しないとする答弁書を閣議決定した。
 閣議決定は確定した司法判断を無視している。最高裁判所第一小法廷(白木勇裁判長)は11年4月22日、座間味と渡嘉敷両島で発生した住民らの集団死は軍が関与していたことを認定した。戦争を引き起こし、住民に多大な犠牲を強いた国家が過去に目を閉ざすことは許されない。検定意見の撤回を強く求める。
 沖縄戦で日本軍が住民らに死を命じたとする作家大江健三郎さんの著書「沖縄ノート」などの記述をめぐり、日本軍の座間味島元戦隊長や渡嘉敷島戦隊長の弟が名誉を傷つけられたとして、大江さんや版元の岩波書店を相手に出版差し止めなどを求めて提訴した。最高裁は一審・二審を支持し「上告理由にあたらない」として上告を棄却した。これにより軍の関与を認めた一、二審判決が確定した。
 今回の閣議決定は仲里利信衆院議員(無所属)の質問主意書に答えたものだ。政府は答弁書で「集団自決が住民に対する直接的な軍の命令により行われたことを示す根拠は現時点では確認できていない」としている。当時、軍命が口頭で行われ、命令書の類いが廃棄されたとみられる中で「根拠は確認できていない」と主張するのは、詭弁(きべん)にすぎない。
 最高裁判決は沖縄戦研究の蓄積、米軍資料、証言などに基づき「日本軍の深い関わりを否定できず、日本軍の強制、命令と評価する見識もあり得る」と判断した。座間味と渡嘉敷両島で発生した悲惨な出来事について「軍官民共生共死の一体化」の方針の下、日本軍の深い関与は否定できないとしている。
 大江さんらが提訴された時、当時を語れる証言者はほとんど存命していなかった。そこで裁判所はオーラル・ヒストリー(口述証言)を証拠として採用した。
 「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓をゆがめ、消し去ろうとする行為は犠牲者と歴史に対する冒涜(ぼうとく)である。沖縄戦の実相の書き換えを許さず、住民の犠牲から導かれた教訓を後生に継承していくことを誓いたい。

                   ☆

 最高裁判決以来4年経過した。 琉球新報が、読者が忘れた頃を見計らって大嘘記事を書いた。 それが上記社説だ。

集団自決論争の争点は「軍命の有無」の一点。 不幸な集団自決が行われたのは事実だが、それが軍の命令によるものであると一方的に読者に信じ込ます卑劣な社説がこの社説だ。

>最高裁判所第一小法廷(白木勇裁判長)は11年4月22日、座間味と渡嘉敷両島で発生した住民らの集団死は軍が関与していたことを認定した。

「軍命の有無」は、慰安婦問題は強制連行の有無が争点であることに酷似している。

慰安婦問題で、軍が慰安所を利用したため「関与」したと、あたかも「広義の関与」で強制連行があったと印象操作する手口と同じだ。

集団自決は戦時中のことであり、住民の一部に手榴弾で死んだ住民がいた。 この例外的事実をもって「軍の関与」としたのが最高裁判決だが、決して「軍が命令した」とは判断したわけではない。

軍命は、あったと主張する被告側に挙証責任がある。

だが、法廷で「軍命による集団自決」は立証できなかった。 

したがって最高裁判決では、原告・梅澤さんらが下したとされる軍命説は否定されたことになる。

つまり軍命の有無に関して言えば、琉球新報の大嘘ということになる。

琉球新報は、「関与」という文言であきらかに最高裁の判決を歪めている。

念のため、4年前の最高裁判決当時の琉球新報の記事を引用してみよう。

軍関与認めた判決確定 「集団自決」めぐる岩波・大江訴訟

琉球新報 2011年4月23日 9:51 

「曖昧にされてきた沖縄戦の真実が認められた」と語る大江健三郎さん=22日、東京・霞が関の司法記者クラブ

 沖縄戦で旧日本軍が「集団自決」(強制集団死)を命じたとする作家大江健三郎さんの著書「沖縄ノート」などの記述をめぐって、座間味島元戦隊長の梅澤裕氏や渡嘉敷島戦隊長の故赤松嘉次氏の弟、秀一氏が名誉を傷つけられたとして、大江さんや版元の岩波書店を相手に出版差し止めなどを求めた上告審で、最高裁判所第一小法廷(白木勇裁判長)は22日、一審・二審に続き、上告を棄却した。これにより軍関与を認めた一、二審判決が確定した。同小法廷は、原告の申し立てを「上告理由にあたらない」とした。21日付。
 棄却を受けて。大江氏は「自分たちの主張が正しいと認められた。訴訟で強制された集団死を多くの人が新たに証言し、勝利を得る結果になった」と述べた 同裁判では、2008年3月の一審・大阪地裁判決で、両隊長による自決命令は推認できるが、「断定できない」と判断。大江氏が隊長による集団自決命令を事実と信じるには相当な理由があったとして名誉棄損を退けた。
 同年10月の二審・大阪高裁判決は一審判決を支持した上で、「総体として日本軍の強制ないし命令と評価する見識もあり得る」とした。さらに、「表現の自由」に考慮し、公益目的で真実性のある書籍が新たな資料により真実性が揺らいだ場合、記述を改編せずに出版を継続しただけでは不法行為とはいえないとした。
 裁判原告の「隊長の自決命令は聞いてない」などとする陳述書が契機となり、06年度の教科書検定意見によって、高校日本史教科書の「集団自決」における軍強制の記述が削除された。記述削除に対し、「沖縄戦の実相をゆがめるもの」という反発が県内で起こり、07年9月に県民大会が開かれるなど、沖縄戦体験の正しい継承を求める世論が高まった。


「県民の思い受け止めた」/大城県教育長
 最高裁の上告棄却を受け、大城浩県教育長は「教科書検定問題については2007年の県民大会の結果、広い意味での『日本軍の関与』の記述が回復され、高校生がこれまで同様に学習できると考える。最高裁の判決は、県民の思いを受け止めた判決」とコメントを発表した。

沖縄でも大きな力に/大江健三郎氏の話
 自分たちの主張は高裁で正しいとされ、最高裁では憲法上の問題はないと認められた。沖縄戦の真実が曖昧になり、教科書からも取り除かれたが、沖縄からの反論で、沖縄戦(についての記述)が少しずつ真実に近づいている。強制された集団死を多くの人が新しく証言し、勝利を得る結果になった。(最高裁の判断は)力強い励ましだ。沖縄でも大きな力になる。

裁判の意義はあった/原告代理人・徳永信一弁護士の話
 名誉棄損が認められなかったのは残念。しかし、隊長の自決命令について高裁判決は「関与」とし、一審より控えめな事実認定。この問題は、集団自決に梅澤さんらの隊長命令がなかったという認識が重要だった。裁判を通して自決命令の根拠がないとの認識が国民に定着したので、意義はあったと総括している。

             ☆

>沖縄戦で旧日本軍が「集団自決」(強制集団死)を命じたとする作家大江健三郎さんの著書「沖縄ノート」などの記述をめぐって、座間味島元戦隊長の梅澤裕氏や渡嘉敷島戦隊長の故赤松嘉次氏の弟、秀一氏が名誉を傷つけられたとして、大江さんや版元の岩波書店を相手に出版差し止めなどを求めた上告審で、最高裁判所第一小法廷(白木勇裁判長)は22日、一審・二審に続き、上告を棄却した。これにより軍関与を認めた一、二審判決が確定した。

>大江氏は「自分たちの主張が正しいと認められた。訴訟で強制された集団死を多くの人が新たに証言し、勝利を得る結果になった」と述べた。

確かに原告側は名誉毀損、出版差し止め等では敗訴した。

だが、軍命による集団自決は立証されていない。 大江氏のコメントに「強制された集団死」とあるのは「軍命による集団自決」と言えないための詭弁である。

>「表現の自由」に考慮し、公益目的で真実性のある書籍が新たな資料により真実性が揺らいだ場合、記述を改編せずに出版を継続しただけでは不法行為とはいえないとした。

判決では「鉄の暴風」やこれを根拠に著した「沖縄ノート」に事実誤認があることは認めたが、当時の状況で大江氏がそれらの間違いを「真実であると信じてもやむ得なかった」とする「真実相当性」を適用して、大江氏による名誉毀損を却下している。

名誉毀損で敗訴したが、原稿苦代理人の徳永弁護士の「自決命令の根拠がないとの認識が国民に定着した」というのが軍命に関する最高裁判決のすべてである。

>裁判の意義はあった/原告代理人・徳永信一弁護士の話
>名誉棄損が認められなかったのは残念。しかし、隊長の自決命令について高裁判決は「関与」とし、>一審より控えめな事実認定。この問題は、集団自決に梅澤さんらの隊長命令がなかったという認識>が重要だった。裁判を通して自決命令の根拠がないとの認識が国民に定着したので、意義はあった>と総括している。

 

では当時の産経新聞はどのように報じていたか。

産経記事 2011.4.22
 太平洋戦争末期の沖縄戦で旧日本軍が「集団自決」を命じたとするノーベル賞作家、大江健三郎さんの「沖縄ノート」などの記述をめぐり、旧日本軍の元戦隊長らが名誉を傷つけられたとして、岩波書店と大江さんに出版差し止めなどを求めた訴訟の上告審で、最高裁第1小法廷(白木勇裁判長)は元戦隊長らの上告を退ける決定をした。集団自決についての軍の関与を認め、名誉毀損を否定した大江さん側勝訴の1、2審判決が確定した。決定は21日付。

 原告は元座間味島戦隊長で元少佐の梅沢裕さんと、元渡嘉敷島戦隊長の故赤松嘉次元大尉の弟の秀一さん。「沖縄ノート」と、歴史学者の故家永三郎さんの「太平洋戦争」の集団自決に関する記述をめぐり、「誤った記述で非道な人物と認識される」として提訴していた。

 争点は軍や元戦隊長らによる住民への命令の有無だったが、同小法廷は「原告側の上告理由は事実誤認や単なる法令違反の主張。民事訴訟で上告が許される場合に当たらない」として、判断を示さなかった。

 1審大阪地裁は「集団自決に軍が深く関与したのは認められる」と指摘して請求を棄却。2審もこれを支持し、控訴を棄却していた。(産経新聞)

 

繰り返すがこの裁判の最大の争点は、軍命令は有ったか無かったか、である。

軍による命令や強制の有無については、法廷で立証することができず、事実上の原告勝訴であり、最高裁においても軍命の有無は争われていない。

つまり最高裁で軍命令は無かったということが確定したわけである。

では、事実はどうだったか。

軍からは「自決するな」の要請であったが、結果的に集団自決が起きてしまったのは、米軍艦船に島を包囲され、極限状態でパニックに陥った集団リーダーの勧誘によるものであるが、手榴弾の配布などもあり、軍関係者による万が一のための支援は無かったとはいえない、という理由で「関与」としたもの。

【おまけ】

問題提起していただいた東子さんのコメントと山田宏前週議員議員の琉球新報社説への反論を引用する。

             ☆

東子さんのコメント

 「<社説>軍命削除 教科書検定意見を撤回せよ 2015年6月21日」
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-244570-storytopic-11.html

>最高裁判所第一小法廷(白木勇裁判長)は11年4月22日、座間味と渡嘉敷両島で発生した住民らの集団死は軍が関与していたことを認定した。
>戦争を引き起こし、住民に多大な犠牲を強いた国家が過去に目を閉ざすことは許されない。
>検定意見の撤回を強く求める。

新報が根拠としている最高裁の判決とは、どのようなものだったのか。


狼魔人日記「集団自決訴訟に最高裁判断 2011-04-22」
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/2bc55bda226e6ce35938afdc80fc1708

>確定した大阪高裁の判決はどのようなものだったか。
>裁判の核心である「軍による命令や強制の有無」については、立証することができず、事実上の原告勝訴が確定していた。

「軍による命令や強制」が「あった」とする証拠はないということ。
「軍による命令や強制」が「あった」とする証拠はないが、それだけでは、梅沢氏と赤松氏の両隊長の名誉棄損があっても、「軍による命令や強制」が「なかった」まで言わないと駄目と、最高裁は言った。

つまり、最高裁は、
 「軍による命令や強制」が「あった」とする証拠はない
と言っているのであって、新報が言う
 集団死は軍が関与していたことを認定した
では、ない。


【参考】
山田宏「八重山日報 4/23掲載コラム 『拝啓「琉球新報」社説どの』 2015.05.12」
https://www.yamadahiroshi.com/news/798/

>『琉球新報』が四月八日、『歴史教科書検定 事実を教えてこそ教育』という社説を掲げました。
>「事実を教えてこそ教育」――まったくその通りです。
>ついに『琉球新報』も慰安婦強制連行や南京事件などをあたかも疑うことのできない事実であるかのように教えてきた教育への批判を始めたのかと思って読み進めましたが、その期待は裏切られました。
>この『琉球新報』の社説は、来年の中学校の歴史教科書のすべてから沖縄戦の「集団自決」についての記述がなくなることへの異議でした。
>「これで沖縄戦の実相、軍の非人間性、ひいては戦争の愚かさ、平和の尊さを教えられるはずがない。1996年度検定では8社中6社の教科書が『日本軍は集団自決を強要したり』などの表現で、軍が住民に死を強制したことを明記した。しかしその後、軍の強制性を明記する教科書が次第に減り、ついに一冊もなくなるのである。教育の危機と言わざるを得ない」というのです。
>しかし、これは逆ではないでしょうか。
>事実を書いていないといいますが、では、「集団自決が軍による強要だった」とする根拠は、どこにあるのでしょうか。


宜野湾市議:呉屋ヒトシ「玉津博克氏前石垣市教育長の講演会 2015年06月17日」
http://goyahitoshi714.ti-da.net/e7679214.html

>去る 6月14日(日)那覇市内にて 石垣市教育委員会前教育長の玉津博克氏の講演会に出席しました。
>講演会では、「私と集団自決軍名説との関わり」では、当時、県教育委員会に席を置き、高校生の為の「沖縄の歴史副読本」を編成されたそうです。
>平成6年~平成19年まで高校で使用されましたが、その中には「集団自決の軍命については、軍命の記載はなかったそうです。」
>ところが、平成19年からこの副読本は使用されなくなったそうです。
>それから、軍命説第一弾 増悪のパフォーマンスとして、当時米軍の統治下としての「鉄の暴風雨」の出版
>軍名説第二弾 温情パフォーマンスとして「援護法」との関係と証言について、説明をされました。

(八重山日報(H27.4.23)より転載)

 ■2015.05.12 

八重山日報 4/23掲載コラム 『拝啓「琉球新報」社説どの』

前衆議院議員 山田宏

 

『琉球新報』が四月八日、『歴史教科書検定 事実を教えてこそ教育』という社説を掲げました。

「事実を教えてこそ教育」――まったくその通りです。ついに『琉球新報』も慰安婦強制連行や南京事件などをあたかも疑うことのできない事実であるかのように教えてきた教育への批判を始めたのかと思って読み進めましたが、その期待は裏切られました。

 この『琉球新報』の社説は、来年の中学校の歴史教科書のすべてから沖縄戦の「集団自決」についての記述がなくなることへの異議でした。「これで沖縄戦の実相、軍の非人間性、ひいては戦争の愚かさ、平和の尊さを教えられるはずがない。1996年度検定では8社中6社の教科書が『日本軍は集団自決を強要したり』などの表現で、軍が住民に死を強制したことを明記した。しかしその後、軍の強制性を明記する教科書が次第に減り、ついに一冊もなくなるのである。教育の危機と言わざるを得ない」というのです。

 しかし、これは逆ではないでしょうか。事実を書いていないといいますが、では、「集団自決が軍による強要だった」とする根拠は、どこにあるのでしょうか。

『琉球新報』の社説は、「『集団自決』での軍命の有無が争われた大江・岩波裁判判決は『集団自決には日本軍が深く関わっていた』と軍の関与を認定した。この間の検定結果はその判決を反映しておらず、看過できない」と決めつけます。

 しかし、その最高裁による上告棄却によって確定した大阪高裁判決自体が、こう書いているのです。

「このような歴史的事実の認定については、多くの文献、史料の検討評価が重要な要素とならざるを得ず、また、その当時の社会組織や国民教育、時代の風潮、庶民一般の思考や価値観、日本軍の組織や行動規範など多くの社会的な背景事情を基礎として、多様な史料を多角的に比較、分析、評価して事実を解明してゆくことが必要となる。それらは、本来、歴史研究の課題であって、多くの専門家によるそれぞれの歴史認識に基づく様々な見解が学問の場において論議され、研究され蓄積されて言論の場に提供されていくべきものである。司法にこれを求め、仮にも『有権的』な判断を期待するとすれば、いささか、場違いなことであるといわざるを得ない」

 判決がこう書いているのに、「判決を反映していない」と鬼の首を取ったように書くのは、「報道」機関としてはいささか見識に深みがないといわざるをえません。

 先の大戦では、沖縄や南洋諸島の島々など各地で、米軍の侵攻を受けて日本の民間人の自決が行なわれました。戦争中のことです。手榴弾で自決した例もあります。「軍の関与」といえば、そういえることも多いでしょう。しかし、それが「軍の強要」であったのかどうか。そこは慎重に精査せねばならぬ問題です。

 たとえば、貧しさゆえ身売りせざるをえず、慰安婦になった方々を気の毒に思う心情は、現代を生きる多くの日本人が共有するものでしょう。慰安所の管理に「軍が関与」していたことも諸史料から明らかです。しかし、だからといって「軍が強制し、性奴隷にした」という議論にはならないのです。

 また、『琉球新報』はこの社説で、「何より、軍の強制については数々の証言がある。事実を書かないことを『妥当』とすることはできない。文科省が歴史教育の大切さを考えるならば、06年検定意見を撤回すべきである」と書きます。

 私はこの文章を読んで、つくづく「待ってくれ」といいたくなりました。日本の新聞メディアが、吉田清治なる人物による「私が済州島で慰安婦狩りをした」という「証言」を元に慰安婦強制連行という虚報をあたかも事実であるように何十年間も書き続けたために、その結果として今日、日本と韓国が不幸な関係に陥ってしまったことへの反省がまったく見られないからです。「証言」がそのまま「事実」でないことは、慰安婦強制連行という虚報の例ひとつをとっても明白なことではありませんか。

 子供たちに戦争の悲惨さや平和の尊さを教えることは当然のことであり、大賛成です。戦争のない社会を築かねばならないことも、言うまでもありません。しかし、だからといって、事実かどうかに疑義が唱えられ、歴史的な検証が十分ではないことを子供たちに教えていいのでしょうか。

 沖縄がその地政学上、そして戦略上重要な場所にあったために、多大の犠牲を強いる結果になってしまった事実を、私たちすべての日本人は永遠に忘れてはならないし、教科書に沖縄戦の悲惨さについて記すことは必要なことだと思います。

 しかし戦争の悲惨さは、「米軍の侵攻によって、自ら命を絶った人たちがいる」という事実だけで、十分に伝わるのではないでしょうか。なぜ、わざわざ「日本軍が強制した」といわなければならないのでしょうか。日本を、そして沖縄を守るために命を落としていった日本軍の将兵を、なぜ、そこまで貶めなければならないのでしょうか。

 仮に自分の政治的な意図のために歴史を貶めるというのであれば、中国や韓国の一部政治勢力がやっていることと同じになってしまいます。私はそのような行為は、多くの良識ある沖縄の方々のプライドが許さないだろうと思います。まさに「琉球新報」社説のタイトルのように、「事実」にしっかり根ざした主張を貫くことこそ、報道機関のプライドであるべきでしょう。

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沖縄の言論空間に風穴を開けたひろゆき氏

2022-10-22 00:19:45 | ★原稿

第四の権力と言われるペンの権威を盾に嘘を吐き放題の沖縄タイムス阿部岳記者が、ひろゆき氏の「正論」(嘘はいけません)のツウィッターの前に、反基地活動家の暴状が暴露され、全国に恥を晒してしまった。

ひろゆき氏が風穴を開けた新聞の嘘つき体質について考えてみた。

人間は活字になった文字を無条件に信じる性癖がある。

古来文字や文書は、政治や国家、宗教とのかかわりが大きく、行政の記録や官報のほか、キリスト教、仏教など宗教に関連するものが大部分を占めていた。

つまり文字はそれ自体権威そのものだった。そして、複製する方法は、木版のほか石版なども使われましたが、書き写した写本が中心でした。

活版印刷が発明され新聞が登場すると、新聞は民主主義の根幹である三権分立を監視する社会正義を担う役目を担い、当初言論の自由は報道の自由、freedom of the pressと呼ばれ、第四の権力と位置づけられるようになった。

表現の自由を求め続けた歴史

 「自由に論評する」新聞は、「表現の自由」「報道の自由」を求めて闘い続けその公益性を主張するが、その一方、大東亜戦争で実像や反戦を伝えきれなかった反省もある。

現代の新聞は、その過去を重く受け止めたうえで、フェイクニュースとSNSの時代にあって、ジャーナリズムの正しい在り方を体現する、という重い社会的責任を負っていると言える。

新聞記者も人間である以上百%恣意的判断を押さえて社会正義を具現するというのは極めて困難だ。

■ひろゆき氏の正論「ウソはいけません」

ひろゆき(本名西村博之)氏が3、4日の両日、名護市辺野古のキャンプ・シュワブのゲート前を訪れた際、反基地活動家がおらず、ツイッターに「誰もいなかった」と書き込み、「新基地断念まで座り込み抗議3011日」と記す掲示板について「0日にした方がよくない?」とツッコミを入れた。

ひろゆき氏の言動を琉球新報と沖縄タイムスも大きく取り上げ、玉城デニー知事にまでコメントを求めている。沖縄タイムスはひろゆき氏に謝罪と撤回を求めているが、「ウソはいけません」は正論であり謝罪や撤回はあり得ない。

筆者も県外の知人を案内して問題の座り込み現場に行ったことがあるが、週末には誰もいないことが多い。ひろゆき氏のツイッター(提案)には同意できる。 行く前に想像していた「座り込み」と現場の景色と全く違うのだ。

これまで「沖縄米軍基地問題」をタブー化してきた沖縄メディアの総反撃にあったひろゆき氏のネット反響はすさまじい。座り込み抗議看板の写真付きの投稿は9日の時点で約3万7千人がリツイートし、約28万3千人が「いいね」を押している。「本当のことを言って何が問題なのか」など、ひろゆき氏に共感する書き込みが大半を占めている。

ひろゆき氏が辺野古を訪れて書き込んだことがきっかけで、ゲート前で実際は何が行われているのかが、多くの国民に知れ渡った。ひろゆき氏が沖縄ではタブー化されていたパンドラの箱をこじ開けた結果となった。

ひろゆき氏の「事実陳列罪」問題を、「子どもの喧嘩」(北村晴男弁護士)とか、「くだらん」「めんどくせー」(ほりえもん)などと矮小化し、自分はひろゆき氏より沖縄問題に詳しいと言ったマウント取りする「知識人」がいるが、かれら知識人が言いたくても言えなかった重要問題だ。反日活動家を擁護するために「ウソはいけません」というだけの話であり、「子どもの喧嘩」どころか県民栄誉賞の価値がある。

■沖縄タイムス―「新聞社が嘘を書くはずがない」お得意の印象操作

かつて伝聞記事満載の『鉄の暴風』を出版して、梅澤・赤松両隊長に「自決命令を出した残虐非道な日本軍」という濡れ衣を着せた沖縄タイムスの太田良博記者は、作家曽野綾子氏との討論で、現地取材もせず伝聞と噂のみで書いたと批判され、「新聞社が嘘を書くはずがない」などと開き直り、曽野氏に「素人の戯言」と一刀両断された。

太田良博記者の後輩である阿部岳記者は、沖縄問題をタブー化させウソ記事乱発しながら、記者の特権を使って他県の識者の批判を排除してきた。今回ひろゆき氏が、「嘘はダメよ」の発言に発狂した阿部記者。正論では負けるので論点をすり替えて「沖縄差別」などと、応戦したが負け犬の遠吠えは誰の目にも明らかだ。ひろゆき氏の速射砲のような弁舌に対し「構造的沖縄差別」などと論点ずらしの本土側左翼も返り血を浴びる有様だ。玉城デニー知事までもがひろゆき氏の「事実陳列罪」に反応し「現場でずっと3千日余り(抗議行動を)続けてこられた多くの方々に対する敬意は感じられない」と発言したが、これらすべてが論点ずらしであり、問題は「嘘をつく活動家を支援してはいけない」と極めて単純な問題である。

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3 日本本土の爆撃計画きまる 

2022-08-27 08:03:47 | ★原稿

 

 

 

3 日本本土の爆撃計画きまる  

 

 

 

 

 

 

日本は無差別爆撃と米側が抗議
対日報復爆撃案を検討
ドーリットルのB25東京初空襲
米大統領、蒋介石を激励
B29で日本本土壊滅の作戦
チャーチルヘの書簡
カムチャッカ基地案


はげしい空襲にさらされる重慶の市街:1940年5月から9月にかけて、日本海軍爆撃隊は168回の昼間爆撃、14回の夜間爆撃をくわえた

 一九四三年〔昭和十八年〕の春に、ウルフ将軍は新設の第五十八爆撃飛行団の指揮官に任命され、十二月までに、日本本土爆撃を開始できるように、中国へB29を配備するための準備を指令された。
 B29を極東に使用することは、ルーズベルト大統領みずからの考えであった。
 ルーズベルト大統領は、すでに一九四〇年〔昭和十五年〕十二月、パールハーバー攻撃の一年もまえに、中国によって日本本土が爆撃されるのをみたいもんだ、といっていた。
 三年以上にわたって、日本は陸と空から中国を攻め続けている。
 日本軍の爆撃機は、蒋介石の国民党政府が西にのがれて首都としていた重慶を、くりかえし攻撃してきた。
 重慶駐在のアメリカ大使ネルソン・T・ジョンソンは、一九三九年〔昭和十四年〕の夏までに六六回の空襲を体験していた。
 この無差別爆撃についてのワシントンの抗議に対して、日本側は敵の軍事目標に限定されていると回答していた。
 憤慨したアメリカ政府は、一九三九年の後半に、報復措置として航空機関係製品の輸出を禁止し、さらに一九一一年〔明治四十四年〕東京で締結され、一九四〇年一月二十六日で期限のきれる通商航海条約を更改しないと発表した。
 この条約の失効の翌日、国務長官コーデル・ハルは、ワシントン駐在日本大使に、日本軍飛行機によって爆撃された三五以上の中国の都市の名と、一部には日時までを明記してあるリストを手わたした。
 このリストには“中国にある米国資産で、日本軍の爆撃によって損害をうけ、しかもその位置は事前に日本当局側に通告され、米国国旗をかかげていたもの”の約二〇〇の事例も引用されていた。

1 日本は無差別爆撃と米側が抗議 top

 日本側が、中国側の軍事機関や施設以外のものを爆撃したことはないと否定するのに対して、ハル国務長官はこうのべた。
 「公的機関から、あるいは私的な情報や新聞などから、中国にある日本軍が、全く軍事的機関や施設のない場所で、住民を爆撃し銃撃をくわえた多数の事例についての詳細な報告が、わが国にきている。
 さらに、焼夷爆弾の使用は(必然的に戦闘員でない市民や、その財産に、むざんな損害を与えて)住民に大損害を与えてきた。多くのばあい、日本軍の航空攻撃は、武装してない住民たちを恐怖におとしいれようと意図しているとしか、考えられない」

フランクリン・D・ルーズベルト大統領:かれはドイツが新しく創設した空軍の真価をよく認めていた。

米国国務長官コーデル・ハル
アリ-シャンから東京を爆撃することを提案した。

 これにつづく数ヵ月、米国をなやませたのは、中国に対する日本軍の航空攻撃ではなくて、日本が、ヨーロッパにおけるドイツの勝利に刺激されて、新しい領土的野心を拡大していったことであった。
 ヒトラーの成功は、日本人の頭には“強い酒”のように作用した。
 日本軍は、重慶を爆撃することを続けたばかりでなく、一九四〇年六月十四日には、日本政府は東京のアメリカ大使に対して“これらの攻撃を強化しようと意図している“こと、中国内に残留しているアメリカ官憲あるいはアメリカ市民のうける損害には、責任をおえないと通告してきた。
 さらに六月二十日、パリがドイツの手におちたのち、インドシナのフランス当局をおどして、中国への軍需資材の輸送をおさえるために、インドシナ鉄道にそって日本軍の監視員を駐留させることに同意させた。
 そしてまた七月十八日、東京からの無言の威圧に直面して、苦悩する英国は、香港やビルマをへて行われている、蒋介石軍に対する軍需資材の輸送を停止することに同意した(この決定は十月に廃棄された)。
 一九四〇年の秋、日本はドイツ・イタリアと一〇年間の軍事的経済的同盟を結んだ。
 この三国同盟の目的は、ヨーロッパとアジアで“新しい秩序をうちたて、これらを維持する”ことであった。
 これらの出来事が、ルーズベルト大統領が、中国側に、なんとかして、日本を爆撃させたい、という希望を表明するようになった原因であると思われる。
 ルーズベルトと同じように、日本に対して怒りをかんじていたハル国務長官は、別の考えをもっていた。

2 対日報復爆撃案を検討 top

 一九四〇年十二月十日、ハル長官は財務長官へンリー・モーゲンソーと会談したときに、米国は五〇〇機の爆撃機をアリューシャンから出発させて、一回だけでいいから東京を爆撃して、日本人を痛い目にあわせるべきだといった。
 しかし、モーゲンソーが心にとめたのは、大統領の言葉のほうであった。
 彼はこのことを、ワシントンにいた中国の宋子文遣米特使にもらしており、のちに中国航空部隊の毛邦初将軍や蒋介石の軍事顧問であったクレア・シェンノート大佐たちと、中国軍による日本本土爆撃計画を検討した。
 毛将軍とシェンノート大佐は、一九四〇年の十一月末に、蒋介石の特使として、五〇〇機の米軍戦闘機と操縦士を中国増援のため派遣することを要請しに、ワシントンに到着した。


米国財務長官ヘンリー・モーゲンソー:
一九四〇年に中国にB17「空の要塞」を供与することを提案した

 航空機の購入計画を調整する権限をもっていた財務長官のモーゲンソーが、中国側が東京や日本の都市を攻撃するのに使うならば、B17爆撃機を供与しようと提案したときには、毛邦初とシェンノートはよろこんだ。
 蒋介石に電報で照会したところ、すぐにモーゲンソーの提案を受諾するという返事がきた。
 これにもとづいて、十二月中旬に、モーゲンソー・毛・シェンノートの三者が会談して、この計画をさらに協議し、シェンノートは地図によって、B17が日本を攻撃できる基地を指摘した。
 一九四〇年の十二月十九日にモーゲンソーは、この計画を大統領と数人の閣僚に提示し、ルーズベルトは喜んで同意を与えた。
 しかし、十二月二十二日、この全計画は陸軍長官スチムソン邸でひらかれた会議でダメになってしまった。
 この会合にはモーゲンソー、マーシャル参謀総長、それにノックス海軍長官も参加した。
 マーシャルは、米国はじゅうぷんな数のB17「空の要塞」を持っておらず、それに、すでに大統領から多数のB17をイギリスに派遣するよう要求されていると抗議した。
 モーゲンソーはただちに、このマーシャル将軍の抗議をうけいれ、長距離爆撃機のかわりに、一〇〇機の戦闘機を中国側に与えることにした。
 一方、一九四一年のはじめ数ヵ月間、シェンノートは 在中国米国義勇兵部隊の結成を急ぎ、米軍将兵のかりあつめに奔走した。
 これが、のちに“フライング・タイガーズ”〔空飛ぶ虎〕として有名になる部隊である。


1944年11月3日、中国昆明で:
クレア・L・シェンノート少将(左)とエドガー・E・グレン准将(右)


ドーリットルの爆撃機が東京を初空襲した。目標から煙がのぽる。

1942年4月18日 空母「ホーネット」の甲板を飛び立って日本にむかうB25B「ミッチェル」爆撃機

3 ドーリットルのB25東京初空襲 top

 パールハーバーに対して日本軍が奇襲をかけてからは、日本本土への報復爆撃の構想は、米国内で熱烈な支持をうけた。
 しかし一九四一年十二月七日〔日本では八日〕から一九四二年の春までは、日本軍はあらゆる抵抗をふっとばした。
 何万キロにもおよぶ大作戦を展開し、資源豊富な地域フィリピン、蘭領東インド、ポルネオなどを占領した。
 また香港、シンガポール、ラングーンを占領し、英軍をビルマからおっぱらい、中国への補給線であったビルマ公路を閉鎖し、グアム島、ウェーキ島、それにギルバート諸島を占領し、アリューシャン列島のアッツ、キスカ両島にも侵入した。
 わずかに、一九四二年四月十八日にジェームス・H・ドーリットル大佐の指揮するB25双発爆撃機が、空母から発進して東京を初空襲したことだけが、連合軍側の鬱憤をふきとばしたのであった。
〔この空襲は、一六機の陸軍双発爆撃機B25を空母「ホーネット」に搭載、東京から約一二〇〇キロの海上から発進し、東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸などに昼間爆撃をくわえた。空襲後、一機はソ連のウラジオストクヘ飛び、他は東支那海を横断し中国東南部の山間地帯へのがれた。日本側の損害は軽微であった〕
 ドーリットルの東京空襲は、米国ではカッサイをはくしたが、これで報復の痛い目にあったのは、作戦に協力した中国側であった。
 日本軍は報復措置として、中国中部で大きな攻勢〔昭和十七年五月からの浙カン(せっかん)作戦〕にでて、ドーリットル隊の着陸した麗水飛行場などを破壊し、広範囲にわたる掃蕩作戦を展開した。


左から蒋介石総統、宋美齢夫人、スチルウェル中将:1942年4月9日ビルマのメイミョーで

4 米大統領、蒋介石を激励 top

 中国の抵抗力のよわいことを心配したルーズベルト大統領は、四月二十八日、公式に中国政府に対して、ひきつづき支援を与えることを約束し
 「日本軍はビルマ公路を封鎖するかもしれない。しかし、わたくしは、勇敢な中国国民にこういいたい。日本軍がどこまで前進してこようとも、蒋介石総統の軍隊に、飛行機と弾薬をおくる方法はかならず見つけることができる。我々は、中国の国民が、侵略者日本に対して、最初に立ちあがって戦った、ということを忘れてはいない」
とのべた。
「中国を戦争から脱落させないようにし、米国に対する中国国民の友情をつなぎとめる」ためルーズベルトはインドからヒマラヤを越えて蒋介石軍とシェンノートの航空部隊に補給を続けることを決意した。
 このあと一九四三年〔昭和十八年〕一月のカサブランカ会談〔モロッコのカサブランカで、ルーズベルトは英国首相チャーチルらと会談し、枢軸国側に無条件降伏をもってのぞむことなどを決定した〕の席上、蒋介石の軍事顧問ジョゼフ・W・スチルウェル将軍の具申した、連合軍がビルマを奪回するための地上作戦の準備を開始する、という計画を支持した。
 この会議では日本を爆撃する可能性についても協議した。
 マーシャル将軍はこの件について陸軍航空軍〔AAF〕の見解を代弁し、日本の工業は「航空攻撃に対して弱いから、強力な攻撃をくわえれば、日本の戦力を破壊できるであろう」とのべた。
 ルーズベルトはこれに同意した。
 彼は「日本に対する散発的な爆撃」でも「中国国民の士気高揚に大きな効果をもたらす」と考えていた。
 一月十八日、この問題の検討の席上、大統領は爆撃機をふくむ二〇〇機か三〇〇機の飛行機を中国におくることを提案した。


1943年9月、北アフリカでの会談のときのジョージ・C・
マーシャル将軍(右)とドワイト・D・アイゼンハワー将軍(左)
マーシャルは、日本の工業は航空攻撃に弱いので、強力な攻撃で
日本の戦力を破壊できるであろうという陸軍航空軍の見解を代弁した

1941年8月大西洋会談のときの
ルーズベルト米大統領(左)とウィンストン・チャーチル英首相

 そして蒋介石に電報をおくり、自分としては「総統がただちに日本に対して攻勢をとれるように、シェンノート将軍の航空部隊を増強することを決意しているので、この米国の援助の問題を討議するため、アーノルド将軍を重慶に派遣する」ことを通告した。
 しかし、このあと数ヵ月間は、英米軍の計画はヨーロッパ作戦で忙殺されており、米国の資源の大部分もそこにつぎこまれていた。
 ヒトラー打倒が最優先するというチャーチルの意見に完全に同意していたルーズベルトとしては、一九四三年には、中国・ビルマ・インド戦域〔CBI〕の要求する大きな軍事的援助はできない、ということもやむをえないと考えた。
 さて一方、スチルウェルとシェンノートの二人は、中国にかんする戦略について重大な論争をおこなっていた。
 シェンノートは一つの前提(あとで誤っていたことがわかったのであるが)、すなわち「我々は中国に日本を攻撃させねばならない。もし我々が直接日本を爆撃しようとするなら、中国に基地をもたねばならない」というスチルウェルの考えは了解した。
 しかしシェンノートは、さしあたっては連合軍は中国にある日本軍にもっと航空攻撃をかけるべきであるとした。
 これに対してスチルウェルは強力な中国軍ができあがらなければ、日本軍はドーリットルの空襲のあとでやったような大攻勢をかけてき、中国本土の連合軍側の航空基地を占領するだろうと反ばくした。
 スチルウェルはいう。最も優先すべきことは、中国軍の増強である。
 両者の論議はルーズベルト大統領に提出された。大統領はシェンノートの見解に同意した。
 この航空作戦のほうが重慶に対して直接的な援助になると思われたからである。
 在中国の日本軍に対する航空攻撃を強化するため、インドからの物資空輸作戦の増強も認可された。


5 B29で日本本土壊滅の作戦 top

 B29爆撃機による日本本土爆撃の具体案は、一九四三年八月のケベック会談〔カナダのケベックで行われた米英首脳会談〕で、はじめて表面化した。
 この会議でアーノルド将軍は「日本打倒のための航空作戦計画」という、ウルフ将軍指揮下の第五十八爆撃飛行団を使用する計画を提出した。
 この飛行団には、この七月に第一号機が生産されたばかりの新爆撃機B29が配備されていた。
 アーノルドは、このB29を中国中部、できれば長沙周辺に展開することを提案した。
 B29の二五〇〇キロの航続距離をもってすれば、日本の軍需産業を破壊する継続的な攻撃を開始できるだろうとのべた。
 アーノルドと幕僚たちは、一たび爆撃行動が開始されれば――それは一九四四年〔昭和十九年〕十月ごろになるが――日本軍は、この爆撃機の基地に攻撃をかけてくることを予想したが、中国軍やシェンノートの航空部隊は、この攻撃に対抗できるものと考えていた。
 この航空攻撃計画の根底にある理論は“ビリー”ミッチエルいらいの伝統そのままであり、航空軍戦術学校の空軍力本来の役割にかんする見解そのものであった。
 アーノルドたちは戦略爆撃によって、アメリカの空軍力は日本の軍需産業を無力にし、その航空部隊を制圧し、海軍艦艇と商船を撃沈し降伏に追いこむことができる、と信じていた。
 彼らは、七八〇機のB29が、一ヵ月に五回出撃すれば、六ヵ月で日本を破壊しつくせると計算していた。
 また彼らは、一九四五年の八月の末までには、連合軍の日本占領を可能にすることができるとのべており、この期日は統合参謀本部が考えていた、ドイツ降伏後十二ヵ月で、日本を敗北させるという目標にも合致するものであった。
 スチルウェルと中国・ビルマ・インド戦域の航空軍司令官、ジョージ・E・ストラトマイヤー中将は、この計画について意見を求められた。
 ストラトマイヤーはこの計画をルーズベルト大統領がカサプランカで最初に提案した計画に近づくように修正した。
 つまり、B29の基地をカルカッタ地区におき、中国内の前進基地で余分な燃料をおろして爆弾を搭載し、日本に向うことを提案した。
 インドに基地をおく構想は、爆撃攘の安全が確保されると同時に、整備上の問題を容易にする利点があった。
 この改訂された計画は「マッターホーン」と名づけられ、ワシントンで承認された。

6 チャーチルヘの書簡 top

 このあと、大統領は一九四三年の十一月十日、つまり蒋介石を招いていたカイロ会談〔エジプトのカイロでひらかれたチャーチル、ルーズベルト、蒋介石の会談〕で、英国としてはヨーロッパ上陸作戦の主問題、ルーズベルトは蒋介石ともに中国救済のビルマ作戦などを論じた。
 日本の戦後の領土処理なども決定された〕の直前に、チャーチルに手紙を送ってこうのべている。
 「我々は来年早々、新しい爆撃機をもって、太平洋の敵に強力な打撃を与える計画を準備中である。日本の軍事力、海軍力、および海運力はその製鉄工業に依存しており、現在は限界ギジギリまできている。その製鉄工業の原動力となっている満州および九州の炭鉱地帯は、中国の成都地区を基地とする長距離爆撃機の行動範囲内にはいるし、またこれを破壊できる。この爆撃機は、カルカッタ付近に建設中の基地から飛ばせることができ、現在やっている航空輸送をさまたげることにはならない……」
 「この計画を実現するために、長距離爆撃機の四つの基地建設に、あらゆる便宜を与えられるよう、インド政府に指示されることを希望する……」
 「これは大胆ではあるが、実行可能な計画である。この作戦を遂行することで、日本の陸海軍の戦力を低下させ、アジアにおける我々の勝利を促進することができるであろう」
 この同じ日、十一月十日に、ルーズベルトは蒋介石に電報して、成都地区に五つの飛行場を、一九四四年の三月末までに、一ちがいなく建設するように要請した。大統領はこうのべた。
「このB29による奇襲によって、日本に破壊的打撃を与え得ると衷心から確信している」
 チャーチルも蒋介石もすぐに同意した。
 そこで、十一月十四日に米陸軍省は、インドでの飛行場建設に必要な航空技術者と、ダンプカー中隊の移動を命じ、その第一陣は、十日後には、もうインドに到着した。

7 カムチャッカ基地案 top

 一九四三年十一月二十九日、テヘラン会談〔ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三者会談で、イランの首都テヘフンでひらかれ、戦略の問題、戦後の問題などを検討した。スターリンはドイツ打倒後、日本を攻撃することを約束した〕のあいだに、大統領はジョゼフ・スターリンに、ソ連が約束した「日本に対する攻撃」を開始したらすぐ、日本を爆撃するためにB29を一〇〇機から一〇〇〇機を展開する基地をシベリアの沿岸地方に提供できないか、という意味の手紙をわたした。
 ソ連側は数ヵ月たってから回答した。
 カムチャッカにB29の基地を提供してもよいというものであったが、あいまいなもので、ついに実現しなかった。
 しかし、ソ連側はなんとかしてB29の機密を手にいれようと努力していたのである。
 これについては別の章でのべることにする。

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★大田昌秀の正体、 「二人の『少女』の物語」の大嘘   

2022-08-17 04:36:29 | ★原稿
 

 

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★❷読者の皆様へ★沖縄戦と米軍のジェノサイド

2022-08-06 00:39:52 | ★原稿

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読者の皆様へ

昨年来、沖縄タイムス編著『鉄の暴風』による歪められた沖縄戦の歴史を是正すべく、「慶良間島集団自決」を中心に長年当ブログで書き綴ってきた記事をまとめて出版する予定でした。 ところが思わぬ難問が続出して出版の足を引っ張りました。 

まず昨年末から今年の初めにかけて、思わぬ腰痛を患い寝たきり状態を余儀なくされました。 そのため、ブログを休載したり、今まで経験したことのないコロナ禍、ウクライナ戦争で思考が乱れ、加えて安倍元首相の暗殺というショッキングな事件で右往左往し、脱稿が遅れてしまいました。

最後のそして最大の難関が出版費用の問題です。

出版不況の折、すでに忘れ去られた感のある「沖縄集団自決」という地味な問題の出版に興味を示す出版社が無いという現実です。

 

■出版費用の献金のご協力願い

しかしながら、沖縄タイムスが、梅澤、赤松両隊長の名誉を傷つけ、同時に旧日本軍を「残虐非道」と決めつける反日史観に対し、万難を排し已むに已まれぬ思いで立ち向かう決意です。

出版の目的の詳細は下記引用の「前書き」(※)に、説明してあります。

皆様の献金ご協力を伏してお願い申し上げます。

献金額の多寡は問いませんが、一口1000円以上にして頂けると幸いです。

まことに勝手なお願いですが、宜しくお願いいたします。

狼魔人日記

江崎 孝

お振込先

  • 金融機関:ゆうちょ銀行
  • 名義:江崎 孝
  • 記号:17050
  • 番号:05557981

 

ゆうちょ銀行以外からお振り込む場合の振込先

  • 金融機関:ゆうちょ銀行
  • 金融機関コード:9900
  • 預金種目:普通預金
  • 名義:江崎 孝
  • 店名:708(読み ナナゼロハチ)
  • 店番:708
  • 口座番号:0555798

 

※「前書き」に続き、週一回の割りで本文の一部を抜粋、紹介して、皆様のご理解に供したいと思います。

沖縄戦と米軍のジェノサイド

■■沖縄戦と米軍のジェノサイド■■

■「東京裁判」と『鉄の暴風』の共通点

本章に入る前に「東京裁判」と『鉄の暴風』との関係について述べておかねばならない。しかし、戦勝国が敗戦国を戦時国際法で裁く「東京裁判」と、敗戦国日本の一地域である沖縄、それも離島で起きた事件に言及した『鉄の暴風』を関連付けるのは、いささか強引すぎるという意見もあるだろう。

しかし、両者には二つの大きな類似点がある。

先ず第一に両者はGHQ最高司令官マッカーサーの強大な支配下の下に行われた。 次に両者は最初から結論ありきの「残虐非道な日本軍」を断罪する目的で行われた。

「東京裁判」とマッカーサーの関係については数多くの研究書があるので、ここでは省略して、『鉄の暴風』とマッカーサーの関係について検証して見よう。

■マッカーサーが介入した『鉄の暴風』

『鉄の暴風』の発刊は、現地沖縄の米軍司令官の企画というより、沖縄の米軍を支配する上部組織の指示であったという証拠を挙げてみよう。

 例えば、『鉄の暴風』出版当時の沖縄タイムス紙は、日刊2頁建月ぎめ30円である。先発のうるま新報と違い、ほとんど自己資本が無かった沖縄タイムス社が、一冊200円売りの新書を初版からいきなり、20,000冊(朝日新聞社と各1万)を製作した。また、本土で調達してきた印刷資材の値段は、800万円の輪転機の他、平板印刷機、オフセット版、ジンク版、鋳造機、母型、等々、到底当時の沖縄タイムス社が調達出来る金額ではない。さらに、沖縄タイムスが当初紙や資金不足のため『鉄の暴風』の初版出版を朝日新聞に持ち込み断られたが、沖縄タイムスの座安専務がマッカーサーと面談し、出版に難渋していると訴えたところ、朝日新聞が出版を了承した。

 朝日の掌返しの出版協力の裏に、電話一本で済むマッカーサーの強力な介入があった。 

GHQの介入を示唆した決定的な新聞報道がある。これは、1950年6月5日付けの沖縄新民報(B)面の記事だ。原文のまま紹介しよう。

 ・・沖縄戦記〃鉄の暴風〃 沖縄タイムス社が沖縄戦の、なまなましい記録をひろいあつめたもの、―― 人間生死の血みどろな戦史として綴られ、万人に平和の尊さを説く、得がたき快著であり原稿は同社座安理事が空路携行し、朝日新聞出版局長嘉冶隆一氏が渡米にさきだち、親しく目を通し同社杉山出版部長山中刊行部長や杉山業務部次長等が協力してその筋と出版うちあわせ中であり、諸般の準備を整えて朝日新聞社から7月初頭堂々と出版される筈である、B6版三百頁を予定され、・・・。

 文中のその筋とは当時のGHQを指す隠語である。同様の隠語には、「関係各方面」などがある。『鉄の暴風』が発売される前日の1950年8月14日付け沖縄タイム紙には、同書が出来上がるまでの経緯を座談会で語り合っている記事がある。そこには、座安氏のコメントとして、GHQとの関わりを推認できる次のような表現がある。

それで朝日社が、一万、こちらから一万と話も決まったわけですが今頃出版パニックでせいぜい売れる本が二、三千だと嘉冶出版局長や杉山出版部長もはなしていました、・・中略・・鉄の暴風出版に当たっては種種各方面の援助もあり、有り難く思っている次第です・・。

 当時は、沖縄県でも本土でもまだまだ紙が自由に手に入らない時に、「『せいぜい売れる本が二、三千だ』ましてや今では売れない戦記ものは」と朝日新聞の役員が出版を断ろうとしていたのが、わずか一週間で、下へも置かぬ対応振りで、二万冊やりましょうと変わってしまった訳だから、何処からか「やれ!金は出す」と圧力がかかったと見る以外に解釈のしようは無く、この時代で、このようなことが可能なのは、マッカーサーの介入以外にはあり得ないことである。

マッカーサーと『鉄の暴風』の密接な関係をさらに検証しよう。

■首相も困難、マッカーサーとの面談。

日本滞在時のマッカーサーの生活は、日本人と会うことはほとんどなく、定期的に会っていたのは昭和天皇と吉田茂ぐらいであった。

他は不定期に閣僚や、女性参政権により初当選した35名の女性議員や、水泳の全米選手権出場の古橋広之進ら日本選手団などを招いて会う程度であった。

古橋らと面談したマッカーサーは「これ(パスポート)に私がサインすると出られるから、行ってこい。その代わり、負けたらだめだ。負けても卑屈になってはいけない。勝ったからといっておごってはだめだ。行く以上は頑張れ。負けたら、ひょっとして帰りのビザは取り消しになるかもわからない」と冗談を交えながら選手団を励ましている。

 
■マッカーサーと面会した沖縄タイムス専務

米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。

さて、沖縄タイムスの座安盛徳専務はシーツ司令官に出版を拒否された後上京し、GHQ最高司令官マッカーサーに面会し、『鉄の暴風』の出版を直談判して、マッカーサーのお墨付きを得て出版にこぎ着ける。

 
 

座安氏は昭和二十五年五月に東京に出て、『鉄の暴風』の出版を朝日新聞に依頼するとともに、同月二日、米極東軍司令官マッカーサー元帥との会見に成功する。座安氏は、自分が見たマッカーサーの素顔を次のような雑感記事にまとめている。


「あたかも遠方の不遇な息子の安否を気づかう慈父のような態度に一行はすっかり気をよくして歯に衣を着せないで実情を訴えた。記者が『終戦以来太平洋の悲劇は沖縄人だけで背負った形で前途頗(すこぶ)る悲観していた、今日ではゼネラルシーツの赴任によって希望をとり戻し明るく復興にまい進している、この際元帥のメッセージを』と云えば『君は僕と話しているから、それを書けば一片の紙切れにすぎないメッセージなど、どうでもよいではないか』と軽く打込んで一本参らすなど、すっかり父親の意地悪にベソをかかされた形で、いよいよ思い切り甘えてみたくなった」(昭和25年5月6日付沖縄タイムス)
 

当時は日本政府の要人でさえ面会の難しかったマッカーサー元帥に沖縄タイムスが容易に面会できた事実に驚かされる。


■「伝聞記事」に対する太田氏の反論■

著者の太田氏は沖縄タイムス昭和六十年四月十日付で「座安氏の活躍」について明言している。

後にこれをまとめて出版した『戦争への反省』の中で、この「関係者」の取材が伝聞取材だったと問われたことに対して、次のように弁解している。

直接体験者でもないものが、あんなにくわしく事実を知っているはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないもの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。  永久に残る戦史として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私は、そんな不真面目な態度でのぞんではいなかった≫((戦争への反省」225頁)

本職の記者でもない素人の筆者が読んでも、「~はずがない」とか、「記録者(記者)は・・・でたらめではない」とか、「新聞社が真剣に・・・」とかは子供の言い訳にしか取れないのだが・・・。

取材の基本は「裏づけ」だということは素人でも思いつくことだが、『鉄の暴風』の取材方針は「性善説」に徹しているようで、「詳しく知っていれば体験者のはずだ」、「新聞社や記者はでたらめでもなければ、不真面目でもない」と主張することで伝聞取材説への反論としているのは驚きだ。

『ある神話の背景』(『集団自決の真相』と題して再版)の著者曽野綾子氏は、太田氏の上記の反論を、「子供の弁解」とは言わないまでも「素人のたわごと」と斬り捨てている。

「いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない」。

太田氏の弁明は素人からは「子供の言い訳」と取られ、曽野氏からは、「素人のたわごと」と一蹴された。

至言である。

「関係者」を旅館に集め取材のお膳立てをした座安盛徳氏は、後に沖縄タイムス専務、琉球放送社長などを歴任した人物で、米軍占領後沖縄を襲った巨大台風「グロリア」の被害処理を通じて米軍情報将校と個人的に強力なコネクションを持つようになっていた。

このように『鉄の暴風』は影の執筆者とも言える座安氏の米軍との個人的つながりの下に、全ての資料は事前に準備されていたのである。

取材は現地に居なかった「関係者」の証言だけで充分だったのだ。

沖縄タイムス設立の目的は米軍のプロパガンダであり、「日本軍を悪し様に罵って沖縄住民と日本との永久分断を計る」という米軍の意図が広く沖縄中に浸透すれば、『鉄の暴風』出版の目的は達せられたことになる。

後に『鉄の暴風』の表現を指して、戦記ではなく講談だと決めつけられた意味がよく分かる。⇒「講釈師 見てきたように 嘘をつく」

 

続き⇒■『鉄の暴風』はGHQの指令と支援でつくり上げられた

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盗取された福建会館の祝賀会、那覇市で

2022-06-03 18:31:23 | ★原稿

 ■那覇市立中央図書館の言論封殺に、断乎抗議する (抗議文例はこちらで)

 

■「オスプレイ反対」抗議団の正体

普天間基地ゲートや辺野古テント村で近隣住民に迷惑を撒き散らしている傍若無人な集団が、地元住民ではないということは今ではよく知られた事実。 彼らが県外から流れ込んだ極左整理力であることは辺野古浜通信(2013年02月26日)から引用した次の写真を見れば明白である。

彼らの目的は「オスプレイ阻止」に名を借りた「日米安保反対」「独立」である証拠写真である。

普天間から辺野古へ、辺野古から普天間へ

夜明け前の普天間大山ゲートから辺野古へ…山口県から多くの人が訪れてくれている。辺野古から普天間大山ゲートでの、キリスト者を中心としたゴスペル集会へ…ヌチドタカラの讃美歌の作者、新垣さんがいらしてくださっている。毎日を闘っている、支援してくれている人々に感謝。≫

 

 

沖縄タイムス2/25

 

沖縄タイムスのクズ記事の中から久しぶりにガセネタ配信で知られた【平安名純代米国特約記者】の記事を紹介する。

■外交問題と国内問題

安倍首相が訪米し、民主党政権下でギクシャクしていた日米関係に信頼感が甦ったことが腹に据えかねるらしく、米紙が普天間移設に触れなかったことを日米関係が安倍首相が思い込むほど親密でない、という印象操作の囲み記事。

平安名記者は「普天間移設」が日米合意により決まった時点で外交案件から国内案件にスイッチしたことに気がついていない。

「辺野古」で県民を説得するのは国内問題であり、米国大統領が国内問題に口を挟むことになる。

したがって日米首脳会談の主要テーマが普天間移設であるはずはない。 

米紙が普天間移設に冷ややかなのは、さらにもう一つの理由がある。

普天間移設は元々日本側が言い出したことであり、米側がしぶしぶこれに応じた経緯を米紙が承知していることだ。

米側としては17年も前に合意した案件を、いまだに移設先も決められない日本側に呆れ帰っており、その結果「普天間の固定化」が続けば、それもまたよし、トイウ心境だ。 「危険な欠陥機オスプレイ」という大嘘で全市町村長が「東京行動」を起こすのを見た米側は「これでは当分固定化は続く」と判断しているのかもしれない。

いまさら「東京行動」の愚か者と同じレベルで「普天間移設」を報道するほど米紙はバカではないと言うこと。

同じく25日付沖縄タイムスは、「オスプレイ反対県民大会」の実行委員会事務局長である玉城義和氏が同委員会の解散の弁を大きな囲み記事で紹介している。

だがその弁明は実に涙ぐましい。

「一糸乱れぬオール沖縄」(翁長那覇市長談)のはずだったのに玉城氏のコメントには、「腹八分」だとか「最大公約数」の言葉で、自ら「オール沖縄」の失敗を暴露し、挙句の果てに「立場の違う人をまとめるのは微妙なバランスの上に成り立つ芸術作品」などと、ついには「東京行動」を実践的な抗議活動ではなく、見る人によっては訳のわからない「芸術作品」と言い出す始末である。

なるほど、翁長市長は政治家ではなく理解不可能な抽象画家とみれば,彼の奇異な言動も納得できる。

ちなみに翁長那覇市長ら「東京行動」の懲りない面々が今度は「米国行動」を起こして、オバマ大統領に直訴すると言う話が有るが、日米で既に合意された普天間移設やオスプレイの沖縄配備は国内問題である。

お門違いの抗議団が、文字通りの「門前払い」をされて世界へ沖縄の恥を発信しないように願いたいものである

 

■盗取された福建会館の祝賀会?

昨日(25日)の琉球新報に次のようなベタ記事を発見した。

沖縄と福建省交流・発展誓う

友好締結15周年祝賀会

県、福建省友好県省締結15周年新春祝賀会(主催・日本沖縄福建同協会、共済・県日中友好会)が24日、那覇市のロワジール・ホテル&スパタワー那覇で開かれ、約150人が親睦を深めあった。 (中略)協会締結時に県知事を務めた大田昌秀元県知事は「尖閣のきな臭ささを非常に心配しているが、そういうことが起こらないように友好を結んだ。今後も関係がさらに深まるよう」と挨拶をした。

             ☆

担当記者がこの祝賀会の意味をどの程度理解しているか知らないが、この記事には不可解な点がいくつかある。

先ず、県と福建省の友好県省締結15周年を祝う行事が那覇市で行われたのなら仲井真知事が出席していないのはどういう理由なのか。

次に福建省の第一の都市である福建市と友好都市締結をし、自らは名誉市民である翁長那覇市長が参加していないのも不可解だ。

それに沖縄県が「福建・沖縄友好会館」の建設に絡み、福建省に血税5億円余を盗取された責任者である大田昌秀元首相が白々しく「日中友好」の挨拶をするなど、事情を知るものなら怒り心頭の福建・沖縄友好会館噴飯ものの祝賀会だ。

大田氏といえば昨年、「朝生」に出演した大田元県知事が、中国と沖縄は昔から仲良くやってきた、と言いたいために、ついもらしてしまったひと言で筆者は深夜にも関わらず眠気が一気に吹っ飛んでしまった。

大田氏は確かこんなことを言った。

「沖縄と中国は福建・沖縄友好会館でも仲良くやってきた」

大田氏が中国との友好関係を強調したいために、ふともらし「沖縄・福建友好会館」。

大田氏が先導し、沖縄県民の血税をつぎ込んだ「沖縄・福建友好会館」を知る人は少ない。

福建・沖縄友好会館落成式典

~新たな経済交流拠点に期待が集まる~

http://www.pref.okinawa.jp/98/kouhouka/wa9809/zoomup.html (何故か県の広報室のリンク先は写真共々削除されている。)


福建省の賀国強省長と会談する大田知事

 沖縄県と中国福建省との友好の架け橋となる「福建・沖縄友好会館」が福州市の中心街に完成し7月28日、大田沖縄県知事、賀国強・福建省長ら多くの関係者が出席し盛大に落成式典が催されました。
 友好会館は、沖縄県と中国福建省が共同出資して1994年10月から着工しているもので、完成までに3年9ヶ月を要し、地下2階、地上12階の鉄筋コンクリート構造です。沖縄の物産を展示する1階と、沖縄企業の駐在事務所や県産業振興公社福州事務所、福建・沖縄友好交流歴史展覧館などを配した4階-7階が沖縄側使用部分で、1階-3階と8階-12階を福建側が使用する予定です。
式典後、完成間もない友好会館内で沖縄県と中国福建省が経済、文化など各種分野での交流策を話し合う「第5回沖縄県・福建省交流サミット」が3日間の日程で開催されました。農水産業や商工業・交通、学術・文化、衛生・環境保護、一般交流など5つの分野で互いの協力関係を話し合いました。最終日には、協議内容の共同コミニュケ(総括備忘録)を発表し、調印しました。

            ☆

沖縄と福建省の共同出資で建築された「福建・沖縄友好会館」は、結局「中国は外国に不動産の所有は認めない」という「核心的利益」のため中国側に一方的に乗っ取られてしまうことになる。

ヤクザ国家の中国にとって中国妄信教徒の大田氏を騙して県民の血税を脅し取ることなど赤子の手を捻るようななものであった。

 

「沖縄・福建友好会館」は、現在も福建省福州市にある(はず)。

沖縄紙が報道しなくなって久しいが、結局「友好会館」は、結局は中国に奪われることになる。

手続きの複雑さなど理由/福建・沖縄友好会館/13社保留/入居企業わずか1社1999年6月13日

県内企業入居数は6社/維持費ねん出が困難/福建・沖縄友好会館(2001.1.14)

親中国の太田昌秀元知事が中国に騙され、

「友好」の名に浮かれて、こんなバカ騒ぎをしていたことを、

沖縄メディアは忘れ去ってしまったのか。

紛争における中国との「話し合い」が、どんな結末になるかを忘れたわけではあるまい。

 

中国が赤子の手を捻るように沖縄県民の血税を詐取した経緯は、下記ブログに詳述してある。

消えた友好会館 沖縄と中国

 略奪された「福建・沖縄友好会館」、ヤクザ国家の本性

 

沖縄紙が報道しなくなって久しいが、結局「友好会館」は、結局は中国に奪われることになった。

県のウェブサイトからは削除されているので新報の関連記事を保存資料として下記に貼り付けておく。

手続きの複雑さなど理由/福建・沖縄友好会館/13社保留/入居企業わずか1社1999年6月13日
沖縄県と中国福建省の友好のシンボルとして、県などが出資し、中国福建省福州市に建設された「福建・沖縄友好会館」は、昨年7月28日に完成してから間もなく1年がたつが、現在までに同会館に入居した県内企業は一社にとどまっている。同会館には、県内企業の駐在事務所として25企業が入居できるスペースが確保されている。
開館当初入居を希望した企業は15社あった。しかし、実際に入居したのは比嘉製茶の一社で、13社は計画を保留、一社は撤退した。保留している理由としては「移転の書類手続きが複雑」「入居は時期尚早と判断」「県内で雇用するよりも賃金が割高になる。福建省政府の規制が多い」などを挙げている。「準備が遅れているだけで、入居の予定はある」という企業もあった。
県は、同会館内にある県産業振興公社福州事務所の活動費、県から派遣された職員や現地雇用の職員の給与、公共費(維持管理費)として年間約3500万円を支出している。このうち維持費など約650万円は賃貸収入で払われる予定だったが、県が現在全額負担。このまま入居企業がないと、入居者負担分まで県が払い続けることになる。
これについて、県商工労働部商業貿易課は、99年度から、入居手続きなどを行う窓口を一元化することで対応。今年に入って、新たに県内企業三社が入居を希望しているという。県内企業の入居希望が少ないことから、今後、県外企業に入居を呼び掛けることも検討している。

県内企業入居数は6社/維持費ねん出が困難/福建・沖縄友好会館(2001.1.14)

1998年7月に中国・福州市に建設され、県産業振興公社が管理運営する「福建・沖縄友好会館」に入居した県内企業数は、ことし1月現在で六社にとどまっている。県は本年度から、入居対象を「福建省や沖縄県に資する企業」に拡大、県外企業にも入居を促してきたが、企業の駐在事務所として用意された21区画の多くは依然として空き室のまま。「半分が埋まれば賃貸収入で維持費が賄える」(同公社)という目標には程遠い状況だ。
同会館は、総工費5億5112万円のうち52%に当たる2億8450万円(うち6500万円は民間からの寄付)を県側が、残りを福建省が負担して建設された。
現在入居しているのは、比嘉製茶、沖縄国際海運、EM研究機構、熱帯資源植物研究所、沖縄関ヶ原石材、ニューセンチュリーの六社。県外企業では、福州に工場を建設していた日本電気硝子(滋賀県)が、工場完成までの約3カ月間、暫定的に入居した。
県産業振興公社の仲里幸雄国際室長は「企業同士の情報交換の場として活用できるほか、事務所設置に関する法手続きなどで、県や省政府の支援を受けられる。保安面も、省政府が管理しているので安心だ」として、今後も企業立地説明会を通し、県外での宣伝活動を拡大していく方針だ。
県は、会館内にある同公社福州事務所の運営費として年間約2500万円、また、会館の維持費に本年度で約350万円をそれぞれ、支出している。入居企業からの賃貸収入は現在、修繕費として積み立てており、完了後は、維持費に充てる方針だ。入居企業が少ないため維持費は当分、県が負担する。

 福建・沖縄友好会館補正予算を可決1997年7月8日

  六月定例県議会は七日午前十時から総務企画委員会(伊波栄徳委員長)が開かれ、福建・沖縄友好会館の追加負担金となる八千四百五十万円の一般会計補正予算案が、与党の社会・護憲、社大、共産、結の会、公明と野党の新進党による賛成多数で可決された。野党の自民、新世会は「県の取り組みはずさん。納得できない」などとして反対した。同補正予算案は昨年十二月定例会で当初予算から削除されていた。十日の最終本会議で賛成多数で可決、成立する。
  質疑の中で、翁長雄志氏(自民)が「会館に本土企業を入居させるのは会館設立の趣旨に反する。為替差損の補てんを求められているが、追加負担はないのか」、渡久地健氏(自民)、金城繁正氏(新世会)は「入居企業の選考方法と管理運営はどうなっているのか」などと質問。これらをただすため、吉元政矩副知事の出席を要求し、与党側が受け入れた。
  吉元副知事は「為替差損は私と福建省の主任との間では議題になっていない。為替差損を含め、追加負担は一切ないものと思っている」と言明。本土企業の入居については「五月三十日に開かれた推進委で本土も入居させたらどうかという話があったので、可能性があるかどうかをぶつけたのが真相。県内企業を優先するのは当然のことだ」と説明した。
  総務企画委ではこのほか、沖縄特別振興対策調整費の第三次配分となる五億七千三百百万円の一般会計補正予算案、県職員の収賄事件で知事の給与をカットする条例など四議案を全会一致で可決。県収用委員会委員人事のうち、沖大教授・高良有政氏の再任については与野党可否同数となり、委員長裁決で同意された。
  また、沖縄開発庁の存続に関する意見書、郵政事業の現行経営形態堅持に関する意見書、尖閣諸島の領有権・漁業者の安全確保に関する意見書、那覇・中国(福州長楽国際空港)間の定期航空路線開設に関する要請決議を十日の最終本会議で全会一致で可決することを決めた。サミット誘致に関する意見書は、共産党を除く賛成多数で可決することになった。

                           ☆

>翁長雄志氏(自民)が「会館に本土企業を入居させるのは会館設立の趣旨に反する

さすがは「芸術家」の翁長雄志氏、県議の頃からその片鱗を見せ、中国とは一緒にやっていけるが「本土企業」とはやっていけないと言うのだろうか。 欲の皮を突っ張った翁長氏の主張の結果、本土企業はおろか県内企業さえも入居者なしで、結局は血税を中国に盗主される結果となった。

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【おまけ】

上原正稔日記は、一フィートに巣食う悪党どもの悪事を次々と暴いていく上原さんの舌鋒は、ますます快調で、今時クズの値打ちもない35ミリフィルムを県公文書館に贈呈し、その陰で本当の資産で商品価値のあるDVDは副会長石川元平氏が社長を務める会社に横流しすると言う悪だくみに鋭く切り込んだ場面である。

1フィート運動の暗部を知る上原さんの悪事糾弾は今まさに佳境に入った所である。

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