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6月7日、那覇市のホテルで行われた「集団自決」訴訟の原告側弁護団・徳永信一弁護士の講演会に参加しました。
裁判で使われる法廷用語には、一般には分かりづらいものが多いが、徳永弁護士は、解り易く裁判のポイントを解説して頂いた。
今日から何回かに分けて、そのポイントをエントリーしようと思うのだが、果たしてどれだけ徳永弁護士の真意を伝えきれるやら不明だが、講演内容を中心に、時折「独断と偏見」をまじえながら、挑戦してみたい。
*
■「まさか・・・!?」の不当判決■
テレビなどで見る裁判の判決シーンで、負けた側がいう決まり文句に「不当判決」という言葉がある。
担当弁護士である以上、敗訴を想定していたとしても、負けたらこのような決まり文句でも言わざるを得ないのは理解できる。
だが、3月28日の大阪地裁で深見裁判長が下した判決には、徳永弁護士も「まさか・・・!?の不当判決」という以外に、思いつく言葉がなかったようだ。
このような大きな裁判となると、判決前に弁護団はさまざまな判決パターンを想定し、コメントを用意するという。
それがまさかの「真実相当性」で敗訴するとは・・・全くの想定外であり、不当判決というしかなかったのだろう。
この「真実相当性」という分かりづらい言葉については後で解説がある。
原告弁護団は、勝訴を想定して、原告の娘さんやお孫さんを呼んであったが、想定外の判決に、急きょ記者会見の場から外してもらったという。
[独断と偏見=独断と推認?]
簡単に決まることでも、議論をして民主的に決めようとすると結論に至るまでややこしくなるもの。
友達とのグループ旅行の目的地を、A地かB地かで議論をしても,多数決でも決まらず、結論を議長役に委ねたとしよう。
その時は議長役は、民主的態度をかなぐり捨てて、次の枕詞を使えば何事も簡単に結論が出る。
「独断と偏見により私が決める」と。
だが、この便利な決まり文句も、深見裁判長は、神聖なる裁判所で使うには「躊躇を覚えた」のか、類似の新しい枕詞を発見した。
「独断と推論で私が決める」・・・by深見裁判長、at大阪地裁。
裁判長は始めに結論ありきの判決を下すのに三省堂の大辞林にもない造語を敢て使い大江健三郎や岩波書店の責任を否定した。
誰にも理解できない「罪の巨塊」という造語で法廷を煙に巻いた大江被告と、
理解しがたい「推認」という造語で、むりやり被告勝訴の判決を搾り出した裁判長は一つ穴の狢といえよう。
さて、「部隊長の命令の有無」を問う裁判に出た判決が、
「部隊長の自決命令があったと断定するのには躊躇を覚える。 自決命令がなかったと断定することも出来ない。 しかし、軍の深い関与はあった。 軍の関与から自決命令があったことが強く推認することが出来る。 だから自決命令による集団自決が発生したと信じても止むを得ない」・・・というもの。
素人が裁判に加わる裁判員制度を目前に控えて、裁判長がこのような国民に理解できないような意味不明の判決を下すようでは裁判制度そのものの拒否ともいえる。
事実の有無を求めた裁判に「自決命令があったと断定するには躊躇を覚える」、
・・・分かりやすい日本語に言い換えれば「自決命令を認めることは出来ない」、
と明確に言っておきながら、「推認」とか「関与」という曖昧な言葉で、軍に責任があったという判決では裁判長の国語能力に疑念さえ抱きかねない。
■真実相当性=誤診相当性?=「勘違いだが、仕方がない」?■
さて、百戦錬磨の徳永弁護士に想定外と言わしめた真実相当性という分かり難い法律用語はどういう意味なのか。
その説明に入る前に、先ず法廷で証言台に立った大江健三郎氏の詭弁を論破しておく。
この件については当日記でも何度か批判してある。
このノーベル賞作家の詭弁を今でも金科玉条のように奉ってブログ等で、
「曽野綾子の誤記・誤読説」という幻を追い続けている「売れない評論家」が、相も変わらず読者をたぶらかしているようなので、先ずこの事実関係を明らかにしておきたい。
ハッキリしていることは、どこのドンキホーテが何と言おうが、判決では大江氏の「誤記・誤読説」は否定されているということである。
無理筋を承知で被告側の責任を否定した深見裁判長も、
流石に大江氏の法廷での誤読の詭弁までは救うことは出来なかったのだ。
徳永弁護士が「幻の誤記・誤読論」を論破しているので、以下に引用します。
第19133号 國民新聞 平成20年4月25日(金曜日)
不当判決にみる
山崎行太郎のお粗末と大江健三郎の黄昏
弁護士 徳永 信一
(前略)
山崎行太郎が擁護した大江健三郎の世迷い言
あまりの偏向判決に、憤懣やる方ないが、ここでは、山崎行太郎なる自称保守評論家がこの裁判を批判した論評に対して反論をしたい。
それは、『月刊日本』一月号に掲載された「月刊・文芸時評」に始まる。
山崎は、この裁判は、『ある神話の背景』を書いて隊長命令説の虚構を明らかにした曾野綾子が、『沖縄ノート』を誤読したことに始まるものであると主張したのである。
実のところ、この誤読説は、以前からある左翼が得意とするテキストのまやかしであったが、昨年、法廷に出てきた大江自身が、これを証言したときは正直驚いた。
いやしくもノーベル賞作家がこんな世迷い言を口にするとはと。
『沖縄ノート』の記述で、印象深いのは、「人間としてそれをつぐなうにはあまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」に代表される断罪の口吻と個人攻撃の凄まじさである。
曾野綾子は、これを人間の立場を超えたリンチであると評した。
ところが大江は、『沖縄ノート』は、赤松隊長を大悪人だとは一言も書いていないと強弁したのだ。
耳を疑ったが、自決者の死体の塊を指す「罪の巨塊」を曾野綾子が「罪の巨魁」だと誤読したことで、赤松隊長を大悪人だと批判したかのような誤解が世間に流布し、この裁判が提起されることになったというのだ。
断っておくが、曾野綾子の著書や文章のなかにそのような誤字、誤読はどこにもない(引用やインタビュー記事など他者が文責を有する文章に散見するだけである)。
他人による瑣末な引用ミスを針小棒大に騒ぎ立てて問題をすり替えるまやかしだ。
そもそも、『沖縄ノート』には、赤松隊長を大悪人だと詰る記述は、ほかに山ほどある。
例えば、彼が「およそ人間のなしうるものとは思えぬ決断」を下した「戦争犯罪者」として椰輸し、その無実の訴えを「ペテン」と呼び、ユダヤ人大量虐殺の責任者として絞首刑に処されたナチスの幹部になぞらえ、「アイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであった」と断罪し、「者」という差別語まで浴びせかけて誹誘したのだ。
山崎の呆れたテキスト批評
山崎は、そんな大江の世迷い言をテキスト批評の見地から擁護すると宣言し、保守派の論客たちや弁護士さえも、曾野綾子の誤読に影響され、『沖縄ノート』を読んでいないと断言する。
ところが、山崎が、「そもそも大江健三郎は『沖縄ノート』の中で、守備隊長(赤松)についてどう書いているのか、具体的にテキストにそって見ていくとする」として引用している文章からは、上記誹謗箇所の記述がきれいに抜け落ちているのだ。
いやはや。
「私の確認に間違いがなければ、これらが、大江健三郎が、集団自決や守備隊長(赤松)についてかなり詳しく記述した文章のほとんどすべてである」とはご丁寧なことだが、
哀しい哉、間違っていた。
テキストを読んでいないのは山崎であった。
大江を応援する左翼系ブログでは、『沖縄ノート』の凄まじい人格非難から人々の注意を逸らすために、曾野誤読説を登場させている。
それは大江の偽善を瞞着する仕掛けであった。
山崎は、「愚かな保守より、優秀な左翼から学ぶべし」を持論とするそうだが、テキストも読まずに、大江のまやかしを鵜呑みにし、その仕掛けにまんまと嵌まるという間抜けを演じたのだ。
曾野綾子が論破した沖縄タイムスの『鉄の暴風』ではなく、『沖縄ノート』を提訴したことに、「明らかに不純な動機が見え隠れする」とまで言い出す始末である。
『月刊日本』は、二月号でこの自称保守評論家の「『沖縄集団自決裁判』騒動に異議あり!」を掲載し、左翼系ブログのプロパガンダそのままの裁判批判に加担し、三月号では、なんと「保守思想の劣化を憂う」と銘打ち、佐藤優を巻き込んで山崎と対談させている。
企画した編集主幹の責任は重大である。
卑劣な外堀を埋める判決
傾向著しい不当判決だったが、当の深見敏正裁判長ですら、山崎が擁護したテキストの歪曲による大江の欺瞞までは擁護できなかった。
このことは、読者に知って頂いてよいと思う。
判決は、こと、大江のまやかしについては、これを論破した我が方の主張を全面的に認めているのである。
すなわち、大江は、『沖縄ノート』は、赤松、梅澤両隊長の実名を伏して守備隊長として特定しておらず、両人が自決命令を出したとの記述もないと強弁したのであるが、判決は、それが両隊長を特定するものであることをあっさり認めた上、その記述が「集団自決という平時ではあり得ない残虐な行為を命じたものとして、原告梅澤及び赤松大尉の客観的な社会的評価を低下させるものと認められる」と一蹴した。
裁判長が「命令」とは、軍のタテの構造の力であり、時限爆弾としての命令である云々といった大江のすり替えのまやかしに乗せられなかったことは幸いであるし、赤松隊長だけでなく、梅澤隊長に対する名誉毀損性を認めたことは特筆に値する。
さらに、判決は、曽野誤読説についてこういう。
「これらの表現のうち『人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう』との部分について、被告大江は、罪の巨塊とは自決者の死体のことであり、文法的にみて、『巨きい罪の巨塊』が渡嘉敷島の守備隊長を指すと読むことはできない旨供述する。
しかしながら、沖縄ノートは、全体として文学的な表現が多用され、被告大江自身、『巨塊』という言葉は日本語にはないが造語として使用した旨供述するように、必ずしも文法的な厳密さを一貫させた作品であるとは解されない」と。
そして、一般読者が普通の注意と読み方で沖縄ノートの各記述に当たった場合、「あまりにも巨きい罪の巨塊」との表現は、前後の文脈に照らし、「渡嘉敷島の守備隊長の犯した罪か、守備隊長自身を指しているとの印象を強く抱く者も存するものと思われる」として、これを完全に退けている。
判決後のテレビ会見で、大江は、「裁判長が私の『沖縄ノート』を正しく読んでいただいたことに感銘を受けています」などと能天気なコメントをしていたが、判決理由を読んで、青ざめているはずだ。
不当な敗訴判決であった、が、しかし、それは続く控訴審における大江の卑劣な外堀を埋める判決でもあったのだ。
◇
♪ 幻の影を慕いて雨に日に♪
幻の誤記・誤読論を追い続ける「売れない評論家」は、琉球新報に何とか取り入ったようだが、カスを掴んだと反省しきりの同紙にも今では見捨てられてしまったようだ。
何しろ、琉球新報といえば、曽野綾子批判の文には、何の検証もなく食らいつくダボハゼのような新聞。
でも、誤字批判のキャンペーン記事の大見出しを連続誤字で読者を爆笑させたとあっては、
ダボハゼ新聞と「売れない評論家」の蜜月関係も束の間の幻だったのだろう。
ところが、この「評論家」、今でも未練がましく、曽野綾子氏が自分の批判に答えないのが、誤字・誤読のあった証拠だといっているようだが、虚に咆える犬を曽野氏が知る由もないし、仮に知っても、一々虚犬に答えるいわれはない。
徳永弁護士が念のため大江氏の「曽野綾子誤読説」について、曽野綾子氏に尋ねてみたところ、
「大江さんの悪文のせいです」と一蹴されたという。
「曽野綾子誤読論」は、結局は、大江氏による曽野綾子氏の文章の悪質な誤読によるものということで決着している。
大江氏の法廷での詭弁は、この「誤読論」の他にも、
①匿名論、②軍命構造論(タテの構造云々⇒時限爆弾としての命令)
と奇妙な大江ワールドを展開するが、これについては次回に廻したい。(続く)
【おまけ】
悪女の深情けとでも言おうか、幻とは知りつつ、曽野影を、もとい、その影を追い求める男の悲しさを切々と歌った古賀政男の名曲「影を慕いて」。
この男の職業が「売れない評論家」だったとは・・・。
「影を慕いて」
古賀政男作詞・作曲
幻の
影を慕いて 雨に日に
月にやるせぬ 我が思い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦(こが)れつつ 忍び泣く
曽野綾子さんもこんなに思われても迷惑でしょうに・・・。
うーん、ストーカー規制法ででも訴えますか。(笑)
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