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世界日報に連載された『「援護法」に隠された沖縄戦の真実』シリーズは、援護法を拡大解釈して沖縄住民に適用させようとする国側の「善意」に目をつけた反日左翼勢力の陰謀を暴くことが目的である。
遺族が、国の指導に従って方便として記入した「軍命」を、あたかも「残虐な日本兵」が実際に軍命で壕を追い出したり、軍命で集団自決を命令したなどと歪曲して報道されてきた。これらの歪曲・捏造された沖縄戦史を正すことにある。
日本兵を貶めるためには聞き取り調査を捏造してまで、歴史を歪曲した例を、過去記事から紹介する。
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沖縄縄戦を記した出版物が、一般刊行物から公的刊行物にいたるまで、虚偽の記述にあふれている事を再三指摘してきた。
市中に出回っている雑多の出版物に記載してある証言より、公的刊行物にある証言の方が正しいと考える人は多い。
ところが一般的に信憑性があるといわれる公的刊行物が歪曲と捏造に満ちているのだ。
沖縄戦を綴った公的出版物の編纂・監修に、安仁屋沖国大教授やその弟子の宮城晴美氏といった「大江・岩波手段自決訴訟」の被告側応援団が加わっており、意図的に証言を歪曲・捏造していた事実が判明している。
集団自決訴訟の第2弾ともいえる「パンドラの箱掲載拒否訴訟」では、公的刊行物を歪曲・編集した左翼学者の犯罪も白日の下に晒らされることになるだろう。
「残虐非道の日本兵」と「人道精神に満ちたアメリカ兵」というイデオロギーを強調するあまり、聞き取りした執筆者の主観で想像を交えた作文をした例は珍しくない。
だが、「日本兵」と「アメリカ兵」、つまり敵対した当事者そのものを、意図的に入れ替えて「残虐非道な日本兵」を作り上げた例は前代未聞である。
証言者が「(自分の父を射殺したのはアメリカ兵」であると二度も念を押したにもかかわらず、元琉球新報の記者の取材者は、公的刊行物である『那覇市史』に「射殺したのは日本兵」として記録しているのだ。
ことほどさように沖縄で発刊されている沖縄戦史はすべて眉につばして読む必要がある。
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沖縄県文化協会会長の星雅彦氏は、県の依頼を受けて県内の知識人として初めて、『鉄の暴風』の著者よりも早い時期に、集団自決の行われた座間味、渡嘉敷両村の現地取材をした人物である。
沖縄の文芸誌『うらそえ文藝』(15号)が、同誌編集長星雅彦氏の執筆による「『集団自決』 その真相を墓場まで」と題する論文でこの公的刊行物の捏造記事を紹介している。
例えば、次のような氏独特の婉曲な表現で、従来の沖縄戦史を批判し、集団自決の核心に迫っている。(引用文の太字強調は引用者)
《隊長命令や軍命の有無について考えてみる。 すると思い付くことは、根拠がないのに当然あるかのような形を示し得るスタイルで、うまく誤魔化している場合があるということだ。また根拠や理由は不明瞭でも当然起きた筈だと言うような、妥当性の範疇の推量でもって真実性を想像させ得る背景もある。 たとえば軍命令の有無が裁判で争点になっていようとも、その背景や根本問題に真摯にむきあっていると受け取られることによって、賛同が得られる場合もある。 そしてそれらの間隙に、「捏造」が挿入され得るのである。》
公的刊行物の記述に疑念を持った星氏は、その中から御存命の証言者を精力的に追跡調査し、改めてその証言を採録し、公的刊行物と実際の証言との矛盾点を指摘している。
ということは、ほとんどの証言者が、自分の証言が捏造されている事実を知らないままに長年過ごしてきたことになる。
そして今回の星氏の指摘によって初めてその事実を知ったというから驚きである。
本文中の「避難壕の自決とその謎」という章から例を挙げてみる。
《去年(2009年)12月中旬に、筆者は那覇市の繁多川図書館で同地在住の知念勇(76歳)からミー壕(新壕)にまつわる話を聴かせてもらった。 そのいろいろ含みのある話の中には驚くべき事実が隠されていた。》
このような書き出しで始まるこの章には、当時国民学校6年生であった知念勇さんが、学校の授業はほとんどない毎日を壕掘り狩り出された様子が記されている。
そして昭和19年のいわゆる10・10空襲の時、警察署員と一緒に住民が逃げ込んだ壕に日本軍の将校が現れ、この壕は軍が使用するから民間人は移動せよと命ぜられた話を次のように記している。
《将校たちが去ったあと、壕内は打ちひしがれたように悄然となったが、それでも住民たちの多くは、身の回りの品をまとめはじめた。 署長代理は「今出て行くと危険だから、様子を見てから署員の誘導に従ってください」と告げた。
数時間後にはミー壕から次々と住民は出て行き、民間人は具志堅夫婦とその息子の古康さんと勇さん(証言者・引用者注)と父親の五名が残った。(略)
突然、歩哨が駆け込んで来た。 とすぐ、那覇署員たちは移動し始めた。 その後、日本軍も間もなく撤退して出て行った。 米軍が押し寄せてくる予報があったのだろう。 小一時間後に、数人の米兵がどかどかと入ってきた。 彼らはすぐ合図しあって、具志堅古康さんと勇さんの父親を黙って引っぱって壕から外へ連れ出した。
一人の米兵は残って勇さんたちを見張っていたかと思うと、2、3分もたたぬうちにカービン銃の音がバラバラと外から聞こえた。 すぐに米兵が立ち去った後、少し間をおいて勇さんたちは父親たちを探しに外へ出た。 一面瓦礫の空間には人影らしきものは見当たらず誰もいなかった。 勇さんの父親は50歳くらいで一般住民の姿をしていたが、古康さんの父親は軍服を着ていたからまぎれもなく日本兵に見られたのだろう。 二人は抵抗しようとしたのか分からないが、何かトラブルで射殺されたに違いない。 連れていかれた二人はその後永久に姿を見せなかった。
・・・年老いた知念さんの話はここまでである。》
■日本兵と米兵を故意に入れ替える悪質な歴史捏造■
この面談の後、星氏は公的史料である『那覇市史」に掲載された知念さんの聞き取り調査の記述に明らかな作為的捏造部分を発見し、確認のため再度知念さんに面談することになる。
その驚きに満ちた経緯を上記文に続けてを星氏はこう記述している。
《ところが、筆者は『那覇市史 資料編弟3巻7』の中に「子どもと沖縄 繁多川の警察壕で」と題して知念勇さんの手記が載っているのを見つけた。 「《前略》父親はある日突然日本兵に連れ出された。 父親が連れ出された後、2、3発の銃声がしたが、父と共に連れ出された20歳くらいの青年と共に、再び壕には帰ってこなかった(後略)」(410頁)と記されている。 末尾に採話者「嘉手川重喜」とある。 筆者の知人であるがすでに鬼籍の人である。
後日、再び知念勇さんに会って確かめてみた。 「自分も不思議に思っている。なぜ、米兵に連れ出されたということを、取材する人に2度も3度も言ったのに、どうして日本兵に入れ替わったのだろう?」と本人はいぶかしがるのであった。》
この部分を読んだ時、星氏が昨年、雑誌『正論』12月号に寄稿した『「鉄の暴風」はGHQの宣撫工作だった』と題する論文の次のくだりを、とっさに連想した。
沖縄戦の証言者がほとんど物故された現在、知念勇さんの例のようにご存命の方に証言を再確認して公的刊行物の意識的捏造を発見するのは奇跡に近い。
もし星氏の再調査が遅きに失し、不幸にして知念さんがなくなられていたら「知念さんの父親ら二人が、日本兵に壕から連れ出され射殺された」ということが、歴史の真実として刻まれることになる。
危うく沖縄タイムスが目論む「残虐非道な日本兵」の捏造の歴史に新たな頁が加わるところであった。
星氏はさらに、集団自決の史料として研究者なら一度は目を通したはずの『座間味村史』下巻の「村民の戦争体験記」を取り上げ、そこに記された20数名の体験記を「それらすべては伝聞であるが、隊長命令があったと記された証言が多い」として、各証言者の動きを検証している。 ここでその内容は省略するが、沖縄で集団自決を研究するに当たり異論を述べることが、いかに困難であるかを自分の経験を基に次のように述べて、論を結んでいる。
《ここで、沖縄の新聞を代表する世相を端的に言えば、沖縄では一般的に、二人の隊長の命令によって、集団自決が決行され、惨たらしく多数の住民が犠牲になったという見解だ。 それでは、もっともらしいが、よく考えると奇々怪々にさえ思えてくる。 今や軍命に意を唱えて探求すると、変人扱いされるか、他人の傷跡を暴く悪趣味に過ぎないと批判されるのだろう。 しかし沖縄戦の真実は、隠蔽されない限り、見えてこないのであろうし、そのような視線にこそ重要な意味があるような気がしてならない。(了)》
星氏は、沖縄で沖縄紙を代表する論壇に異論をそえ文芸』14号で沖縄タイムスと琉球新報を真っ向から批判して以来、それまで両紙から定期的にあった原稿依頼も全く途絶えたと聞く。 これは同時に沖縄二紙に反旗を翻した上原正稔氏についても同じことが言える。
全体主義の沖縄で軍命に異論を唱えるのは変人扱いされるに止まらず、文筆で糧を求める人にとっては死活に関わる大問題でもあるのだ。
集団自決といえば沖縄タイムスやサヨク出版社の高文研や岩波書店によって発刊された本しか読まない人々にとって、星氏の今回の論文は是非とも一読を薦めたい最新の「集団自決研究」の書である。
■安仁屋教授の歴史捏造■
《私が同書に疑問を持つようになったのは、県資料編纂所が刊行する『沖縄県史第九巻 沖縄戦記録ー』の執筆のため、北谷村から南部・中部の集落を回って聞き取り調査をしたことがきっかけだった。
あれは確か1970年の暮れのことだった。 私は県資料編纂所の職員のAとBの訪問を受けた。 Aは私の書いた原稿について「なぜ日本兵の善行などを書き入れるのか」と詰問してきたのである。 取材は各区長の家に集まってもらい、これを記録するという形で行った。 取材は私一人ではなく資料編纂所の名嘉正八郎と一緒であった。
この取材で日本兵が住民を助ける話も幾つか出たので「そういうものも記録すべきだと思った」とだけ答えた。 県資料編纂所のA職員は県史編纂時の検閲の役割りを担っていたことになる。
因みにAはマルクス主義で、一つのイデオロギーに全ての物事をはめて判断しようとする傾向があったのだ。
この取材を通して私は『鉄の暴風』は、日本軍を「悪」とするために創作された、ノンフィクションを巧みに交えた推理小説風読み物ではないかと考えるようになった。 そこには日本軍部と国民、また日本軍と沖縄住民を二極に分離させ対立させる仕掛けが巧みに織り込まれているのである。 まさしく江藤淳が『閉ざされた言語空間』で指摘したように、日本と米国の戦いを、日本の「軍国主義者」と「国民」との戦いにすり替えようとする米軍の底意が秘められているのである。(190~191頁)》
これについて筆者はA氏の正体を続々・星氏が『鉄の暴風』を批判!県資料編纂所職員の正体のなかで次のように暴露しておいた。
1970年の暮れに星氏を訪問し、氏が提出した原稿に「なぜ日本兵の善行など書き入れるのか」と詰問したマルクス主義者の県資料編纂所のA職員のことである。
ご本人の星氏は「A氏はまだ元気で沖縄で活躍されている方なので・・・」と実名を語るのを憚っておられるが、沖縄は狭いところで調べればすぐ正体はばれるもの。
1970年当時に県資料編纂所の職員であり、しかもこのような過激な発言で星氏に詰問する人物は自ずと限られてくる。
安仁屋政昭沖国大名誉教授は、沖国大の前は1967年から5年間、沖縄県資料編纂所の職員であり、そのマルクス主義的発言は現在も衰えてはいない。
なお、安仁屋教授は「集団自決」訴訟の被告側応援団の理論的中心人物であり、宮城晴美氏の恩師であることは夙に知られたことである。
その後、星氏が聞き取りした「日本兵の善行」は、安仁屋氏により「沖縄県史」から削除された。
◇
【おまけ】
「繁多川の新壕でも威張っていたのは、警察だった」
以下は琉球新報に掲載された知念 勇さん証言
“収穫”たたり、地雷踏む
昼は壕内に隠れ、夜は食料探し、時には浜辺で語らう瀬底正賢さんらの共同生活が1カ月余たった7月下旬のことだ。海岸を中心に求めていた食料も、そのころには戦闘もなくなったこともあり、かなり遠くまで行っていた。米軍のキャンプからの“戦果”や近くの畑からの“収穫”があり、食料事情もよくなっていた。
その日も6人でイモ畑まで出かけ、袋に詰められるだけの“収穫”を得た。瀬底さんは月に照らされたみんなの顔に白い歯が浮かんでいたことを今でも覚えている。だが、“収穫”が大きなことが不幸につながった。重いので帰りは近道を選んだ。そこは敗残兵が出没するということで地雷が埋められている。
地雷に知識のあるという知念1等兵が先端になった。「次に私、当間、上前、夫婦連れと続いた」。10メートル間隔で進むことにした。慎重にしばらく進んだ瞬間、ものすごい爆発音。瀬底さんがおぼえているのはそこまでだ。
爆風で5メートルほど吹っ飛ばされ意識を失った。知念1等兵は即死、肉片しか残らなかった。夫婦連れの女性の方も死んだ。腹わたがはみ出していたという。
意識不明の瀬底さんを左足に傷を負った学友が30メートル余の断がいを背負って下まで運んでくれた。「当間嗣冠が背負ったが、今見ても1人で上り下りするのも難しい場所を、よく運んでくれたと感謝している」。
その当間さんも、地雷で受けた左足の傷がもとで亡くなる。死ぬ間際は顔が硬直、言葉もでない。体全体がけいれんする。けいれんを全員で押さえることぐらいしかできなかった。「生き残れば遺骨は渡してやるから」と瀬底さんが話しかけた時、目が安心した表情に変わったように思えた。
遺体は米軍の毛布で二重三重に包み、壕内の割れ目に葬った。瀬底さんはすぐに、移動が割と自由だったCP(民警)を志願、遺骨を親元に手渡した。それとともにCPもやめてしまった。
具志堅という工業生も8月上旬ごろ亡くなった。共同生活が始まって間もなく、傷を受けた腹部を三角布で巻き、さ迷っているのを瀬底さんが見つけ、一緒に行動するようになった。
「140センチぐらいと小さく、目がパッチリしてかわいかった。首里の人で言葉もはっきりしており、親せきに議員だったか偉い人がいると話していた」。
小さな工業生は「子どもと思って米軍は撃たない」と昼間から水くみに走った。しかし、3度目の昼間の水くみの時、丘の上の機関銃から狙われた。波打ち際に少年は倒れ、沖へ沖へとさらわれていく死体を目の前に見ながら、だれも壕から出ることはできなかった。瀬底さんは工業学校の戦没者名簿から具志堅という名を探してみたが見つからない。
◇ ◇
瀬底さんらが捕虜になったのは終戦からかなりたった10月3日だ。6月下旬の司令部壕の落盤で負傷した上前寛市さんも、かなり弱っていた。瀬底さんも地雷に吹き飛ばされた時、30カ所に大小の傷を負い元気はなかった。
南部の収容所に着いた時、元警察署長だった責任者に「上前君は弱っており、早く医者に見せてもらいたい」とたのんだ。だが、返って来た言葉は「学徒兵でも陸軍2等兵は陸軍2等兵。そんな言い訳は聞けない」と断られ、トラックで屋嘉収容所に運ばれた。2、3日して上前さんは傷口が悪化、死亡した。
「軍部とともに威張り、私たちを戦場へ駆り立てていた警察幹部が、そのころには米軍の下で威張っている。たった1人生き残った学友も彼が奪った。今でも彼に対して怒り、うらみは消えない」―純心であるがゆえに、戦場での犠牲も大きかった学徒だけに、変わり身の早い大人たちの身勝手さは許せなかった。
(「戦禍を掘る」取材班) 1984年12月19日掲載
【追記】
沖縄戦記『鉄の暴風』、慶良間諸島の記述は嘘
世界日報 2020/8/05
終戦から75年 沖縄戦の真実を語る(上)
今年は終戦から75年。戦争の生き残りや当時を知る証言者が少なくなり、歴史の風化も懸念される。中でも、沖縄戦については、沖縄の復帰前後から自虐的な論調が目立ち、軍の命令による集団自決という事実と異なる概念が定着した。集団自決が起きた慶良間諸島で戦争聞き取り調査をした作家の星雅彦氏と沖縄戦ノンフィクション作家の上原正稔氏に沖縄戦の真実について語ってもらった。2回に分けて掲載する。(聞き手・豊田 剛)
沖縄県文化協会顧問 星 雅彦氏
ノンフィクション作家 上原 正稔氏
記者は現地取材せず、左翼が広めた造語「集団自決」
――星さんは沖縄戦の聞き取り調査をしているが、どういういきさつで仕事を引き受けたのか。
沖縄県文化協会顧問 星 雅彦氏(豊田 剛撮影)
――星さんは沖縄戦の聞き取り調査をしているが、どういういきさつで仕事を引き受けたのか。
沖縄県文化協会顧問 星 雅彦氏(豊田 剛撮影)
星 自分は那覇で生まれ育ったが、戦争で熊本に疎開し、その後、東京で暮らした。1965年に沖縄に戻り、美術の仕事をしている時、沖縄県史編纂(へんさん)所の名嘉(なか)正八郎所長に頼まれ、68年から1年半ほど聞き取り調査をした。
沖縄全戦没者追悼式の平和宣言!「愛の反対は憎しみではなく無関心」沖縄タイムス 6/24(木)
https://news.yahoo.co.jp/articles/73b8371cb66523861d2edb963a9bc4b74a90dd36
【デニー口説】衝撃の内容!!平和宣言を解説
https://www.youtube.com/watch?v=0ig-VYVFs7k
WoW!Korea 韓国マスコミの中では割と自由でやや中立的な報道も出来る存在でした。とうとうここまで文在寅大統領青瓦台の牙が喰い付いたと見做します。文在寅大統領、もう末期の暴走真っ盛りで在る。
文寅大統が得意の報道管制に因り韓国マスコミに強い悪影響を及ぼしている、文在寅大統領の指示に因る反日報道をしないと遺憾のだ。文在寅大統って人権派弁護士の市民活動家だが、変節したのだ。
とにかく、東京五輪・パラリンピック開催に不機嫌を執る文在寅大統領の悪しき性、今の惨たんたる自身の支持率を挽回する策が反日姿勢を現わして求心力を得ようとすることしか無い訳だ。
【韓国市民団体「VANK」】こそが、文在寅大統領の子飼いで在ること。
先ず、大手新聞の中央日報も文在寅大統領就任後から左派に変節したこと。右派から一夜にして左派だから、明治維新みたいなものか。
文在寅大統領政権青瓦台を批判すると、韓国のマスコミは最悪の場合は青瓦台から新聞社の運営に介入されることになる。
当時の韓国新聞は大人しくしていたが、日本語版韓国ニュースで文在寅大統領批判が満載だったことを問題視した青瓦台が、韓国のマスコミに報道管制を敷いた、日本では在り得んことでも韓国では“自由”だ。
その青瓦台の圧力に耐えられなかった中央日報が反日報道に転じた。変節とはこのことで在り、世界では翼賛新聞と指摘する。
(㊟右派新聞の朝鮮日報だけが青瓦台の圧力に屈せず耐えていること、こう言うマスコミが一社でも多く増えることを期待します。なお、反日報道に変節した中央日報を日本政府が2年前から監視対象に置く)
翼賛新聞とは時の政権に同調しておもねるマスコミのことを指す、即ち翼賛新聞は何時の世も記者たちだけが温かい晩御飯をよそおうことが出来る特権階級(いわゆる“上級国民”)で在ること。
翼賛、これほど醜悪な新聞はこの世にいない。わが国では、その代表が朝日新聞で在ること。未成年に笑顔で戦場行を煽る報道に徹した。
そして、戦後になると途端に連合国進駐軍マッカーサー元帥の忠実な翼賛新聞に変節して、爾来、反日報道姿勢に徹して今に至る。
朝日新聞が変節動機は怖いものを見たからだ、明日は我が身かだ。
20歳前後の海兵隊員が占める関東区の進駐軍、手当たり次第に婦女暴行と来た。さらいに来るわけだ。
そのピークが関東区で3000人の被害者が出たことを驚愕したマッカーサー元帥が大統領に【この侭なら日本人が反撃して来る、至急解決を】電文を10年位前に米国公文書図書館が保管期限経過で公開した。
この結果、日米両政府の合意で地上戦部隊の海兵隊員だけを沖縄に一気に集積させることになった。
これで、関東区から婦女暴行が失せて、今度は沖縄が婦女暴行の地獄と化した。これが米軍性犯罪沖縄の原因理由で在る。
その性対象が身体障碍者の少女まで及んでいたと、当時13歳の本島北部大宜味村に暮らす【生まれつき耳が聞こえない西平ナヘさん】が2015年5月31日西日本新聞第16紙面に証言した。
よく、交戦現場から逃れる時に子供や老人が厳しい場面に置かれる様な表現を見掛けるが、そう言う考え方は机上の空論に過ぎない。
戦争でも自然災害でも何かの有事の際に、一番酷な立場の方は身体障碍者で在ることを、大抵の人が知らない。
この、大型戦闘機材と輸送手段だけをなぜか内地に残して来た海兵隊員の沖縄集積こそが、在日米軍に因る性犯罪の楽園沖縄と化した原因で在ったこと。
今はどうなのか? 米軍内発生率構図だけが同じです、在沖縄米軍兵と軍属及び家族に因る主要刑事犯罪の8割を海兵隊基地の隊員らが占めていること。
但し、現在の発生件数は沖縄の日本人が起こす犯罪件数よりも極端に少ないことをどうかお忘れなく。国内平均発生率よりかなり低い。
序に、しょっちゅう地元二紙が報じる米兵や軍属に因る交通違反に付いても、沖縄の日本人が起こす件数よりも極端に少ないのが事実ですが、ところが、地元二紙が「米兵が飲酒運転」と連日印象操作ネガキャンするから、購読者と内地の方がすっかり騙されていること。
なお沖縄には交通事故発生の5原則が在る、【週末、深夜、若者、2輪、飲酒】が揃うと事故発生になる、交通事故の半分が週末に起きる。歩行者の巻き添え死の4割が5原則のとばっちりで在ること。
ゆえに夜の街を彷徨う場合は後ろからバイクの気配がしたら、直ぐ身をかわしましょう。酔っぱらった時こそ、機敏に動ける様に心がけだ。
とにかく、琉球新報と沖縄タイムスに因る悪辣で悪意が在る印象操作で米軍に対する好い加減な報道に騙されない様にお願いします。
保管期限経過の公開公文書を真っ先に報じたのが西日本新聞です。沖縄は琉球新報か沖縄タイムスのどちらかが6か月後に公開電文を報じたが、それっきりで終わった。その理由がさっぱり判らない。
なお、朝日新聞が一夜にして進駐軍翼賛新聞に変節した動機は、時事通信社の前身で在る同盟通信がマッカーサー元帥の怒りに触れて即刻廃刊処分を受けたことに驚愕したためで在ること。
真面目一直線の連合国軍最高司令官マッカーサー元帥の職務は【戦後日本を経済復興させる事】に在り、その進駐軍の貢献を国民に喧伝してもらう役目を新聞に負わせたが ・・・ 然し、同盟通信が関東区で横行する婦女暴行事件発生の様を【昨日も婦女暴行事件が16件も起きた】と報道したので、これを見たマッカーサーが激怒して廃刊処分にした。
この直後から朝日新聞が反日新聞に変節した、実に身軽な新聞だ。
子供を戦場に笑顔で送りこんだ修身教育の教師が、マッカーサー元帥が創設した日教組に加盟した。加盟すると教師の戦争責任が免責になった。どいつもこいつも、口で綺麗ごとを言ってその実下心在りで在る。
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