★★❶沖縄を歪めた戦後史の大ウソ、
■第一章 『日本軍は沖縄県民を虐殺した』
沖縄タイムスは言うまでもなく、ほとんどの沖縄メディアでは、現在でも『鉄の暴風』といわれる苛烈な米軍の住民虐殺が語り継がれている。これについては、昨年上梓した拙著『沖縄「集団自決」の大ウソ』でも詳しく検証した。
しかし、これら戦後史は同書伝える検証した通り、ほとんどの沖縄メディアが大ウソで塗り固めている。その結果、多くの読者は言うまでもなく、沖縄県民ですら騙されている。
■残虐非道な日本軍は沖縄県民を虐殺するため沖縄に来た。
沖縄メディアが報じる大ウソ報道とは、「日本軍は沖縄県民を虐殺に来た」というイデオロギーに塗れた報道だ。
だが、経済面から沖縄戦について語る者は少ない。
沖縄のように戦前から本土復帰まで三度の通貨切り替えを体験した県は、歴史上稀有である。沖縄の経済に大変動を巻き起こした通貨の切り換えは次の通りだ。
➀戦前⇒日本円
②戦後(米軍統治下前半)⇒米軍軍票
③戦後(米軍統治下後半)⇒米ドル
④戦後⇒日本円
まさに事実は小説より奇、である。
祖国復帰を目前にして「通貨切り替え」と言えば「米ドルから円への切換え」が話題になる。
だが、米軍占領下の沖縄でもう一件の通貨切り替えがあった。「米軍票から米ドル」への通貨切り換えである。
この通貨切り換えは、米軍の広報紙として創刊された沖縄タイムスの創刊と深く関わっている。
沖縄を統治する米軍は広報紙を作成し県民を洗脳するため、沖縄タイムスの創刊を目論んだ。
沖縄タイムスの創刊日が、1948年7月1日になっているのは、創刊号発行三日前の6月29日、米軍占領下の軍票(B円)への通貨切り替えのスクープを号外で出し、これが実質的な創刊となったからだ。
米軍票と米ドルの交換というスクープ情報と米軍広報紙発刊を交換条件に沖縄タイムスを創刊した。
創刊日より号外発刊が先という世にも珍しい創刊号であった。
■ガリ版刷りの沖縄タイムス創刊号
1945年から1958年9月までの米軍占領時代、米軍占領下の沖縄や奄美群島で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍用通貨(軍票)B円の存在を知る県民は少ない。
軍票は米軍占領下の地域においては、1948年から1958年まで唯一の法定通貨だった。
琉球列島米国軍政府による正式名はB型軍票である。正確には連合国の共通軍票であるAMC(Allied Military Currency)軍票の1種であり他の連合国にも発行権があった。
だが、日本に駐留した占領軍はマッカ―サー率いるアメリカ軍が主体だったため、他の連合国の軍による円建ての軍票は発行されなかった。
当初のB円はアメリカ国内で印刷されたが、1958年9月16日に琉球列島米国民政府高等弁務官布令第14号「通貨」によって廃止され、米ドルに切り換えられた。
軍票(B円)を日本円ではなく米国ドルに切り換えた理由は、ただ一つしかない。
マッカーサーは将来沖縄をグアムやプエルトリコのように米国の領土に組み込む予定であったからだ。
当時日本円は1ドル=360円の固定相場であったため、1B円=120円で計算され、定価300円の日本書籍は3分の一の120B円で計算された。( レートは1ドル = 120B円)
■松本清張の西郷札
なお、これ以前に日本国内で流通した軍票には、西南戦争で西郷軍が発行した通称西郷札がある。
『西郷札』(さいごうさつ)は、松本清張氏の短編歴史小説で、『週刊朝日』が主催した新人コンクール「百万人の小説」の第三席に入選した作品で、松本清張の処女作と位置づけられ第25回直木賞の候補作となった。
松本清張氏のような推理作家が沖縄にいたら、軍票から米ドルへの切り換えという歴史的事実を題材に小説を書いていただろう。西郷札のように・・・。
ところが事実は小説以上の展開を見せた。
■公職追放に逆らった男
沖縄出身のその男・宮里辰彦氏はGHQが支配する円経済の日本を後にして、ドル経済の沖縄行きの輸送船の甲板に立っていた。 宮里氏はマッカーサーの「公職追放」という歴史の流れに逆らった。彼は、非常に優秀で(国費制度が実施される以前の)戦前の東京帝国大学を卒業後、官僚となり軍需省に勤務した。彼は軍需省の生産課長として兵器の生産体制の整備に努めた。
さらに宮里氏は軍需次官として、日本の戦時経済の運営に辣腕を振るった。兵器の生産体制の整備や資源の確保など、日本の戦時経済の基盤を固めたのは宮里氏の功績である。また、宮里氏は戦時経済の運営において、民間企業との連携を重視した。民間企業の生産力を活用することで、日本の戦時経済の強化を図った。
日本を戦前のような「軍国主義国」にさせないため、「公職追放」を実行したマッカーサーにとって、宮里氏は「公職追放」の絶好の標的であった。
■公職追放のない沖縄へ転進
優秀で目先の利く宮里氏は、戦前日本の軍需省に勤務して戦争を煽ったのだから、GHQがいる限り日本では職にありつけない、と素早く判断した。そして米軍占領下の沖縄への「転進」を実行した。
占領下の日本では「公職追放」で、戦前・戦中の優秀な人材を震え上がらせたGHQだが、沖縄では「公職追放」は、行われなかった。 いやそれどころか、むしろ占領軍の手先として優秀な人材の登用を目論んだ。
沖縄民政府通訳官を経て琉球列島貿易庁総裁に
宮里氏は、1945年(昭和20年)にアメリカ軍が沖縄を占領した後に設置された沖縄民政府で通訳官として、アメリカ軍との交渉や沖縄住民の生活支援などに尽力した。
敗戦直後の沖縄では、英語が話せることは一種の特種技能であった。
元英語教師の比嘉秀平氏は、英語に堪能で米軍幹部と意志の疎通ができるという理由で琉球政府の初代主席を務めている。
「公職追放」という歴史の流れに逆行し、沖縄に転進した宮里は思わぬ幸運に遭遇する。
英語ができる上、東京帝国大学卒という優秀な頭脳を持つ宮里氏にとって、人材不足の米軍民政府は渡りに舟であった。
1950年(昭和25年)に琉球列島貿易庁が設立されると、宮里は琉球列島貿易庁の総裁に就任した。琉球列島貿易庁は、沖縄の貿易振興を目的とした機関であり、宮里氏は琉球列島貿易庁の総裁として、沖縄の経済復興に尽力し、1959年(昭和34年)に琉球列島貿易庁総裁を辞任し、その後は実業家として活躍した。
軍需省の幹部として「公職追放」の標的になるはずの宮里氏は、軍占領下の米軍民政府の貿易庁長官という沖縄経済の重要事項を一手に引き受ける米軍幹部にのし上がったのである。
■戦果とヤミ船
そして宮里氏にとってもう一つの行幸は、戦後米政府が実施したマーシャルプランの恩恵を受けた沖縄の好景気である。
戦争は儲かる産業(「産軍複合体」)と、米大統領アイゼンハウアーをして言わしめる程当時の沖縄は米国の好景気の影響を受けた。 例えばペニシリンの普及、脱脂粉乳の学校給食や、スパム(ポークランチョンミート)コーンビーフ等当時の平均的日本人には到底享受できない米国の豊富な食糧の恩恵に浴した。
祖国日本では食糧不足で餓死者が続出した当時、沖縄では餓死者出た話はあまりない。米軍統治下の沖縄では、米軍の食料提供の他「戦果」「ヤミ船」などが沖縄の経済を支えた。
沖縄戦の終結後、生活基盤を失った多くの沖縄住民はアメリカ軍からの配給に頼っていたが、必ずしも十分な質と量の物資が供給されていたわけではなかった。そんな中、アメリカ軍の倉庫に忍び込んで食料を中心とする物資を盗み出したり、軍雇用員が備品などをこっそり持ち出したりすることが横行し、人々はこれを「戦果」と呼んだ。「戦果」は困窮する人々に無償あるいは安価で分け与えられたため、住民から英雄視される例もあったとされる。厳密にいうと「戦果を挙げる者」を戦果アギヤーと称した一種の窃盗行為である。
だが、米軍当局は警備を強化したものの、民警察(後の琉球警察)は積極的に取り締まらなかったため、略奪行為は徐々に大胆となり、その数も増加の一途を辿った。
沖縄を歪めた戦後史の大ウソ
~『沖縄「集団自決」の大ウソ』~発刊をめぐり~
沖縄の祖国復帰以来、約半世紀経過したが依然として沖縄には、二つのタブーがある。「米軍基地問題」と「沖縄戦」だ。
この二つのタブーは、いずれも「沖縄を歪めた戦後史の大ウソ」に関連している。
そこで、本稿では、「集団自決」を巡る最高裁判決で被告の大江健三郎・岩波書店側が勝訴して以来、一件落着と思われている沖縄戦の「集団自決」問題について検証して見る。
大江健三郎・岩波書店「集団自決裁判」(以後、大江・岩波訴訟)とは、元沖縄戦戦隊長および遺族が、大江健三郎・岩波書店を名誉毀損で訴えた裁判のことである。
沖縄戦の集団自決について、事実関係はこうだ。
ノーベル賞作家大江健三郎(岩波書店:1970年)の著書『沖縄ノート』に、当時の座間味島での日本軍指揮官梅澤裕元少佐および渡嘉敷島での指揮官赤松嘉次元大尉が住民に自決を強いたと記述され、名誉を毀損したとして梅澤裕氏および赤松秀一氏(赤松嘉次の弟)が、名誉毀損による損害賠償、出版差し止め、謝罪広告の掲載を求めて訴訟を起こした。本訴訟は最高裁に縺れ込んだが結局、2011年4月21日、最高裁は上告を却下。被告大江側の勝訴が確定した。
■沖縄タイムスの印象操作
沖縄には約20数年前の最高裁判決を盾に巧みに印象操作し続けている新聞がある。 その新聞こそ、「集団自決軍命説」の発端となった『鉄の暴風』の出版元沖縄タイムスである。
印象操作報道の一例として、2023年5月29日付沖縄タイムスは大江・岩波「集団自決」訴訟の最高裁判決について次のように報じている。
《沖縄戦時に慶良間諸島にいた日本軍の元戦隊長と遺族らが当時、住民に「集団自決」するよう命令はしていないとして、住民に命令を出したとする『沖縄ノート』などの本を出版した岩波書店と著者の大江健三郎さんに対する「集団自決」訴訟を大阪地方裁判所に起こした。国が07年の教科書検定で、日本軍により「自決」を強制されたという表現を削らせきっかけになる。11年4月に最高裁への訴えが退けられ、元戦隊長側の主張が認められないことに決まった。(敗訴が確定)》
沖縄タイムスの主張を要約すれば、「『集団自決』は軍の命令ではないと主張する元軍人側の主張は、最高裁で否定され、被告大江・岩波側の『集団自決は軍命による』という主張が最高裁で確定した」ということだ。
沖縄タイムスは、戦後5年米軍票から米ドルに通貨を切り替えるという米軍提供の特ダネと交換条件で、1950年に米軍の広報紙として発行された。
以後同紙編著の『鉄の暴風』は沖縄戦のバイブルとされ、同書を出典として数え切れない引用や孫引き本が出版され続けてきた。
しかし残念ながら元軍人らによる大江岩波集団自決訴訟は敗訴が確定し、集団自決問題は国民・県民の記憶から遠ざかりつつある。
このように、大江岩波訴訟で被告大江岩波側の勝訴が確定し国民の「集団自決」問題が一件落着した思われている昨年の9月、筆者は『沖縄「集団自決」の大嘘』と題する書籍を出版した。
さて、すでに決着済みと思われている沖縄戦「集団自決問題」に今さら本書を世に問う理由は何か。
確かに沖縄の集団自決問題は大江岩波訴訟の結果すでに決着済みと思われている。
この現実を見たら、多くの国民や沖縄県民は、集団自決論争は終焉したと考えても不思議ではない。
■軍命の有無と損害賠償は異なる
岩波大江訴訟で確定したのは、「軍命の有無」ではない。最高裁判決は大江健三郎と岩波書店に対する名誉棄損の「損害賠償請求の免責」という極めて平凡な民事訴訟の勝訴に過ぎない。
肝心の「軍命の有無」については、一審、二審を通じて被告大江側が「両隊長が軍命を出した」と立証することはできなかった。
ほとんどの国民が集団自決問題を忘れた頃の2022年7月10日付沖縄タイムスは、こんな記事を掲載している。
《「軍命」記述を議論 9・29実現させる会 教科書巡り、2022年7月10日
沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」を巡り、歴史教科書への「軍強制」記述の復活を求める「9・29県民大会決議を実現させる会」(仲西春雅会長)の定例会合が4日、那覇市の教育福祉会館であった。3月の検定で国語の教科書に「日本軍の強制」の明記がされたことについて意見を交換。社会科の教科書で記述の復活がないことから、今後も活動を継続していく意見が相次いだ。》
■歴史は「県民大会」が決めるものではない
『沖縄「集団自決」の大ウソ』を世に問う第一の目的は、沖縄タイムス編著の『鉄の暴風』が歪曲した沖縄戦歴史を正し、「残酷非道な日本軍」を喧伝する沖縄タイム史観の教科書記述を阻止することである。最高裁による確定後、歴史の是正を巡る状況はさらに新たな展開があった。
『鉄の暴風』が主張する「軍命論」を粉砕する決定的証拠が出てきたのだ。 仮にこの証拠が大江岩波訴訟の前に登場していたら、裁判の判決も逆だった可能性すらある。
これまで「軍命論争」には、「手りゅう弾説」~大江健三郎の「タテの構造説」など数多くの証拠、証言が論じられた。その中で「援護法による軍命説」は、法廷では一つの推論に過ぎず決定的ではないと言われ、証拠として採用されなかった。
■「援護法のカラクリ」が暴く軍命の大ウソ
「戦闘参加者概況表」(裏の手引書)
ところが「援護法と軍命のカラクリ」を一番熟知する沖縄戦遺族会から決定的証拠を提供していただいた。 「軍命が捏造であることを示す」県発行の「戦闘参加者概況表」(裏の手引書)である。
この証拠を事前に入手していた「軍命派」の研究者達が、「軍命を捏造した」と白状し、さらに証拠の捏造に「恥を感じる」とまで言い切っている。これ以上の決着はないだろう。この一件こそが本書を世に問う最大の目的である。
次に「『沖縄集団自決』の大ウソ」を出版するもう一つの目的を述べておこう。
誤った歴史が教科書に載ることはあってはならない。読者の皆様は印象操作に惑わされず、事実を追求して欲しい。拙著がその一助になることを願っている。
〈■自由と民主主義の指南役ーGHQ
民主主義のショーウィンドー〉
ただし、1950(昭和25)年に出された沖縄統治の基本方針「琉球列島米国民政府に関する指令」に明記されているように、米国は「軍事的必要の許す範囲」において「民主主義の原則により設立された立法、行政、司法の機関による自治」を促進することとなっていた。沖縄における民主化政策には始めから制約があった。
沖縄県は、令和4年5月15日に本土復帰50周年を迎える。
この大きな節目において、島々の鼓動、人々の輝き、限りない可能性を存分に引き出し、国内外に向けて、「新時代沖縄の到来」を発信していくため、復帰50周年事業として様々な事業を実施することを予定しております。
この中で、1事業につきましては、次世代を担う子どもたちの興味・関心を取り入れ、魅力ある事業を構築することを目的に、復帰50周年記念事業案を広く募集します。
公職追放(こうしょくついほう)は、政府の要職や民間企業の要職につくことを禁止すること。狭義には、日本が太平洋戦争に降伏後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令により、特定の関係者が公職に就くことを禁止された占領政策をいい、本項で扱う。
「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」を参照
日本政府が1945年(昭和20年)9月2日に「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する」とあるポツダム宣言第6項の宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書に調印し、同年9月22日にアメリカ政府が「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」を発表し、第一部「究極の目的」を達成するための主要な手段の一つとして「軍国主義者の権力と軍国主義の影響力は日本の政治・経済及び社会生活により一掃されなければならない」とし、第三部「政治」と第四部「経済」の中でそれぞれ「軍国主義的又は極端な国家主義的指導者の追放」を規定していた。
同年10月4日のGHQの「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」で警察首脳陣と特高警察官吏の追放を指令し、同年10月22日の「日本の教育制度の行政に関する覚書」及び同年10月30日の「教職員の調査、精選、資格決定に関する覚書」で軍国主義的又は極端な国家主義的な教職員の追放を指令した。
1946年(昭和21年)1月4日附連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」により、以下の「公職に適せざる者」を追放することとなった。
戦争犯罪人
陸海軍の職業軍人
超国家主義団体等の有力分子
大政翼賛会等の政治団体の有力指導者
海外の金融機関や開発組織の役員
満州・台湾・朝鮮等の占領地の行政長官
その他の軍国主義者・超国家主義者
上記の連合国最高司令官覚書を受け、同年に「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」(公職追放令、昭和21年勅令第109号)が勅令形式で公布・施行され、戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者がその職場を追われた。この勅令は翌年の「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」(昭和22年勅令第1号)で改正され、公職の範囲が広げられて戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象になった。その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となった。
公職追放者は公職追放令の条項を遵守しているかどうかを確かめるために動静について政府から観察されていた。
一方、異議申立に対処するために1947年3月に公職資格訴願審査委員会が設置され(1948年3月に廃止、内閣が一時担当した後に1949年2月復置)、1948年に楢橋渡、保利茂、棚橋小虎ら148名の追放処分取消と犬養健ら4名の追放解除が認められた。
公職追放によって政財界の重鎮が急遽引退し、中堅層に代替わりすること(当時、三等重役と呼ばれた)によって日本の中枢部が一気に若返った。しかし、この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、学校やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、労働組合員などいわゆる「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になった。これは当初のアメリカの日本の戦後処分の方針であるハード・ピース路線として行われた。
逆に、官僚に対する追放は不徹底で、裁判官などは旧来の保守人脈がかなりの程度温存され、特別高等警察の場合も、多くは公安警察として程なく復帰した。また、政治家は衆議院議員の8割が追放されたが、世襲候補[注釈 3]や秘書など身内を身代わりで擁立し、保守勢力の議席を守ったケースも多い。
GHQ下で長期政権を務めた吉田内閣時代は、名目は別にして実質としては吉田茂首相とソリが合わなかったために公職追放になったと思われた事例について、公職追放の該当理由がA項からG項までに区分されていたことになぞらえ、吉田のイニシャルをとってY項パージと揶揄された。
その後、二・一ゼネスト計画などの労働運動が激化し、さらに大陸では国共内戦や朝鮮戦争などで共産主義勢力が伸張するなどの社会情勢の変化が起こり、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策が転換(逆コース)され、追放指定者は日本共産党員や共産主義者とそのシンパへと変わった(レッドパージ)。
また、講和が近づいた1949年、再び公職資格訴願審査委員会が設置。32089人の申請が受理されたが、1950年10月に発表された第一次追放解除者は10090人に留まった[1]この際、石井光次郎・安藤正純・平野力三ら政治家及び旧軍人らの一部も解除されている。翌1951年5月1日にマシュー・リッジウェイ司令官は、行き過ぎた占領政策の見直しの一環として、日本政府に対し公職追放の緩和・及び復帰に関する権限を認めた。これによって同年には25万人以上の追放解除が行われた。公職追放令はサンフランシスコ平和条約発効(1952年)と同時に施行された「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」(公職追放令廃止法。昭和27年法律第94号)により廃止された(なお、この直前に岡田啓介・宇垣一成・重光葵ら元閣僚級の追放も解除されており、同法施行まで追放状態に置かれていたのは、岸信介ら約5,500名程であった)。
小林よしのり著『新ゴーマニズム宣言SPECIAL沖縄論』で、著者の小林氏が犯した唯一の過ちは、元人民党委員長・瀬長亀次郎氏を、「沖縄の英雄」と祭り上げて書いてしまったこと、である。 小林よしのり『沖縄論』を一読してまず目を引くのは、第19章「亀次郎の戦い」である。
小林氏と思想的にまったく逆の立場の瀬長亀次郎氏を絶賛している内容に誰もが驚くはずだ。
日本共産党の機関誌「赤旗」七月三日付の書評でも、『沖縄論』を肯定的に評価しているくらいだ。
小林よしのりには沖縄左翼を取り込む意図があったのだろう。
だが、沖縄左翼のカリスマともいえる瀬長氏を沖縄の英雄に祭り上げてしまったことは、沖縄左翼に媚びるあまり、ミイラ取りがミイラになってしまったの感がある。
瀬長氏は、米軍政府と戦っていた姿勢と、方言交じりで演説する語り口で「カメさん」と呼ばれて年寄りには人気があったが、「沖縄の英雄」は沖縄左翼とマスコミが作り上げた神話である。
瀬長氏は共産党が禁じられていた米軍統治下の沖縄で、人民党でカムフラージュした共産党員であり、当時ソ連や日本共産党から密かに資金援助を受けているとの噂があった。
そのため、CICが情報取得の為本人は勿論、長女瞳さんの身辺をかぎまわっていたらしく、沖縄住民にも共産思想が入り込んでくることに神経質になっていた。
瀬長氏が沖縄に残した負の遺産が、現在でも日本共産党、社民党そして地元政党の社大党が沖縄県議会で与党を占める沖縄の特異性である。
瀬長氏は日本復帰と同時に日本共産党に正式入党し、共産党公認で衆議院議員に当選し、日本共産党副委員長も勤めている。
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米軍統治下の沖縄では、共産主義は禁じられていた。
だが、人民党という地元政党を隠れ蓑に共産主義者は増殖し続けていた。
1950年の朝鮮戦争や、中華人民共和国の成立等、「ドミノ現象」でアジア地域に共産主義が蔓延するのを恐れた米軍情報部は、CICを中心に沖縄の共産主義勢力の監視に神経を使っていた。
だが、とにかく、当時の米軍が共産主義の蔓延に対し、いかに神経過敏だったか知る上で、そしてその指導者としての瀬長亀次郎氏を要注意人物とみなしていたかを知る上で、この逸話は実に興味深い。
厳しい監視、家族まで 瀬長氏の長女にもスパイ
2006年5月31日
<米国の調査機関が1950年代、元沖縄人民党委員長で那覇市長、衆院議員を務めた故・瀬長亀次郎氏の長女・瞳さん(68)=カナダ在住=の周辺にスパイを送り、瀬長氏の健康状態や日常生活を探っていたことが30日までに、米国国立公文書館が保管する資料で明らかになった。同館は瀬長さんが「人民党事件」(54年10月)で逮捕された後、宮古刑務所に収監されていた55年3月7日、獄中から瞳さんに送った手紙の英語訳も保管。手紙は瞳さんに届いていない。米当局が瀬長さんの家族にまで監視を広げ、詳細な身辺情報を逐一探っていたことがうかがえる。
瞳さんに関する報告資料は2種類。ともに「極東空軍司令部が報告」と記され、情報源は瞳さん、提供者は「極秘の情報提供者」と記される。
情報収集日が1958年5月20日の報告は「瞳の情報では、父親は深刻な肝臓病で近く入院する」と記載。31日の報告は「瞳が言うには父親(瀬長さん)は退院して家に帰った。政治の本を書く約束をし、本を売って妻のフミさんを8月の原水爆総決起大会に参加させる資金を稼ぎたいと言っている」と記す。米当局は同年8月、東京・横浜でフミさんを撮影している。
瞳さんは「父から仕事や政治の話を聞いたことはなく、出版計画も当時は知らなかった。なぜ私が情報源なのか理解できない。スパイをした人が父の復帰闘争を弾圧するために無理に作ったのではないか」と話している。
瞳さんに届かなかった手紙の英訳には米国のCIC(諜報(ちょうほう)機関)の名称を記述。文面は「刑務所からあなたの活躍を期待と希望を込めて見守っている」と娘への思いが切々とつづられている。
沖縄テレビは同公文書館から収集した資料も盛り込んだ番組を制作。31日午後4時から55分間、逮捕、投獄、市長追放と時代に翻弄(ほんろう)された瀬長さんと支えた家族のきずなを描く「カメさんの背中」を放映する。>
◇
この「臨時琉球王」は、コカコーラの一手販売権をという美味しい果実を手にする前に悪事が露見して哀れな結末を迎えた。
だが、終戦直後には、通常では考えられないようなアメリカの大会社の製品の一手販売権手にした人が多くいた。
それは戦時中彼らがスパイとして米軍に協力した報酬だという噂を良く聞いたが、それが「火の無いところに煙は立たぬ」だったのか、それとも単なる噂に過ぎなかったのか、今では事情を知る者のほとんどが墓場で眠っており真実を知る術はない
■昭和20年3月26日の座間味■
時は38年前の座間味島にさかのぼる。
昭和20年3月26日日、米第77歩兵師団は、慶良間諸島の阿嘉島、慶留間島、座間味島へ上陸を開始する。そして逃げ場を失いパニック状態に陥った座間味島の住民172人がその日に集団自決をしている。
■集団の狂気■
時代が変わっても、人間が集団で行う狂気の行動に変わりはない。
平成17年、沖縄タイムスと琉球新報は、狂気に満ちたキャンペーンを張って、9月29日の「県民大会」(“11万人”集会)の動員に県民を追い込んだ。 地元テレビを含むマスコミは一斉に横並びで、これに反対するものは県民にあらず、といった論調で、職場でも異論を吐くものは、「あいつはヤマトかぶれ」だと、後ろ指を指されるような異常事態だったと知人の一人は当時を振り返る。
以下は評論家篠原章氏の「批評.COM 篠原章」からの引用である。
仲宗根源和と瀬長亀次郎 —カメジローは正義の人だったのか?
仲宗根源和の個性的な琉球独立論
仲宗根源和は、戦中に沖縄県議に当選し、戦後初の沖縄の自治行政機関・沖縄諮詢会の委員を務めた本部出身の人物で、後年「沖縄独立論者」として名を馳せるようになったが、若い頃は東京で教員を務めていた。教員時代には非合法期の日本共産党に参加し、『無産者新聞』の発行人など重要な役割を担っていた。共産党時代の仲間である瀬長亀次郎、徳田球一、野坂参三、佐野学との親交も厚かったという。
仲宗根の痛快なカメジロー批判
痛快なのは、仲宗根氏の瀬長亀次郎批判だ。仲宗根が描くのは、昨今の「カメジローブーム」の下で知られる過大評価の瀬長像とはまるで違う、共産党員・社会運動家としてもダメダメな亀次郎だ。仲宗根は、「県民・人民のため」ではなく「共産党のため、ロシア(ソ連)のため」に亀次郎は働いているとの認識だった。
仲宗根によれば、カメジローは、初代沖縄副知事で戦前の琉球新報社長だった又吉康和の腰巾着だったようだ。そのおかげで、又吉と諮詢会委員長だった志喜屋孝信(初代沖縄知事・沖縄県立二中校長)、沖縄統治の責任者だったワトキンス少佐(海軍/James Thomas Watkins Ⅳ)との内輪の話し合いで県議にしてもらったとのこと。又吉の工作とちょっとした不正によりカメジローが県議になったことは間違いないところだろう。カメジローはさらに又吉に琉球新報社長の地位を与えられている。琉球新報の前身はうるま新報で、当時はまだ米軍の御用新聞だった。その後、保守派だった又吉とは袂を分かち、カメジローは日本共産党やコミンテルンの意向を受けて人民党を結党して政治家として「成功」する。世間に流布されるカメジロー観からは、こうしたダークな側面が抜け落ちているのは残念だ。
★
■那覇市長を辞任して、大政翼賛会事務局長に就任した當間重剛氏
個人的には、ごく常識的な人物が、一旦なんらかのグループに属すると往々にして狂気に走る。そしてその背後に新聞の扇動がある場合が多いが、60数年前の沖縄も同じような状況にあった。
米軍が慶良間諸島に殺到して猛攻撃を開始する約二ヶ月前の「沖縄新報」(昭和29年12月8日)に「挺身活動へ 翼壮団長会議」といった見出しが躍っている。
昭和19年の大詔奉戴日は10月10日の那覇大空襲の後だけに、県庁、県食料営団、県農業会などの各団体主催の決起大会各地で行われ、「軍民一如 叡慮に応え奉らん」、「一人十殺の闘魂」といった勇ましい見出しが紙面を飾っている。
大詔奉戴日とは日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことで、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされ決起大会が行われていた。
沖縄では、これらの戦意高揚運動は、大政翼賛会沖縄県支部を中心に行われ、初代支部長には着任したばかりの早川元知事が努めた。
だが、驚くべきことに、当時の那覇市長であった当間重剛氏が、市長を辞職してこの会の事務局長を務めている。 現在の感覚でいうと那覇市長の方が一民間団体である大政翼賛会沖縄支部の事務局長より、重責であると思うのだが、当時の当間氏は、那覇市長として市民のために働くより、国や県のためになる大政翼賛会に意義を見出したようである。
当間重剛氏は、戦後、米軍に重用され米軍占領下の琉球政府で、主席(知事に相当)を務めることになり、日本復帰直前の昭和44年には「沖縄人の沖縄をつくる会」を結成して琉球独立党のリーダーになるのだから、人間の運命は分からないものである。
そして、翌昭和17年には、大政翼賛会の実働部隊として翼賛壮年団が結成され、平良辰雄氏が、初代団長に就任して県民鼓舞のため先頭を切ることになる。
平良辰雄氏も戦後米軍に重用され、沖縄群島知事(主席の前)や立法院議員(県会議員に相当)を努めている。
GHQは、戦前活躍した有能な人物を公職から追放する「公職追補」という愚策を断行したが、沖縄占領の米軍は、当間重剛氏や平良辰雄氏のように、戦前軍国主義を煽ったと思われる指導者たちを戦後も政財界に重用しており、日本全土を吹き荒れた公職追放は沖縄では行われなかった。
ところが、戦前の大政翼賛会沖縄支部の幹部を務め、県民を戦争に煽った著名人が他にもいた。
しして、その正体を隠したままにしている。
■瀬長亀次郎の正体、果たしてその正体は?