快気分析

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仕組みとアプローチ -  柴田勝家は明智光秀に勝つ事が出来たのか

2018-11-17 09:05:33 | 明智光秀
 柴田勝家についてこんなニュースが有りました。

引用開始(一部抜粋)

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181116/k10011712961000.html

「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる

2018年11月16日 12時24分

明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」の8日後に、信長の重臣として知られる柴田勝家が織田方に宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかりました。光秀の討伐に出遅れた勝家が、当時、京都から大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかったことがうかがえる内容で、専門家は「本能寺の変直後の勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ」と指摘しています。
今回見つかった書状は、本能寺の変の8日後の天正10年6月10日、今の福井市の居城にいた柴田勝家が、織田方の武将、溝口半左衛門に宛てて書いたものです。
郷土史に詳しい新潟大学の冨澤信明名誉教授が新発田市の溝口家に残る歴史資料の中から見つけました。
書状の冒頭には、「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」と、本能寺の変について勝家の驚きのことばが記されています。そして明智光秀が、拠点としていた江州、今の滋賀県にいるとみて、当時の大坂にいた織田方の重臣、丹羽長秀と連携して光秀を討伐する計画を明らかにしています。
調査にあたった専門家によると、本能寺の変のあと勝家が光秀の居場所に言及したものが見つかったのは初めてで、光秀討伐に出遅れた勝家が当時、京都から大阪に展開していた光秀の動きを把握できていなかったことがうかがえます。
調査にあたった三重大学の藤田達生教授は「本能寺の変のあとの勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ。今後は、そうした状況のなかでなぜ、豊臣秀吉が光秀討伐に素早く動けたのかという点に関心が高まるのではないか」と話しています。

引用終了

 では仮に柴田勝家の軍勢が秀吉の到着より早く、しかも明智方の動向や光秀の居場所を把握出来ていたとして、果たして明智方に勝てたのか?と言うとそれは甚だ疑問と思っています。
 一つの理由として柴田勝家の軍勢は当時戦闘状態だった上杉氏と和睦していたわけではなかった事が挙げられます。
 前田利家を前線に残して牽制しながら柴田勝家がそう多く無い軍勢で戻ったに過ぎなかったはずであり、上洛が遅れたのは確かに秀吉程早くなかったのもあるかも知れませんが、仮に早かったら軍勢で勝る明智軍の餌食になっていたのではないでしょうか。
 もう一つの理由は、上杉氏の所には足利義昭はおらず、「秀吉のように『明智光秀が信長を討っても正当化でき、大義名分となる征夷大将軍である足利義昭の上洛』を阻止する主導権が柴田勝家には無かった」、と言う事です。
 当時、明智光秀の与力であった、筒井順慶、細川藤孝・忠興親子、高山右近、中川清秀が明智方から離反したのは、秀吉による調略の段階で「足利義昭の上洛を必ず阻止する」と内々で強調して伝えていたからではないでしょうか。
 それと更にもう一つの理由は、秀吉との間の内誓紙が残っている中川清秀は秀吉方に当然鞍替えするはずであり、キリシタン武将であった高山右近、中川清秀がイエズス会経由や当時多かったキリシタン関係者らから得られた情報を秀吉に流していた可能性は高いと思われます。
 なので「柴田勝家がキリシタン武将ではなかったから」と言うのも明智方には勝てなかったはずであった理由の一つと考えられるのではないでしょうか。