本能寺の変の後、本当に信長を襲撃したのが実は明智光秀ではなかったのかどうか、には拘らず少なくとも明智光秀は征夷大将軍に祭り上げられてしまい、それを拒否もできずに信長襲撃首謀者となってしまってそのまま山崎の戦いに突入。
そしてどうも少し怪しい面も有る「中国おお返し」をして来た秀吉らの大軍に敗れたのですが、では光秀が落武者狩程度の者に討取られる程、果たして無能なのか?と言えばそれはやはり疑問、個人的には自然に思えてしまえます。
秀吉が畿内を制圧すれば当然のごとく公家衆や各武将らが秀吉の顔色を伺う事となってしまい、明智光秀が生き残っていると言う事はおそらく許されなかったのだろうと容易に想像できます。
なので名目上討取られたという話になっているのはわかるのですが、仮に落ち延びたとしてどこへ行けたのか?ですが、一つの候補として四国の長宗我部氏を頼った可能性は有るのかも知れません。
1584年に家康の徳川方と秀吉の豊臣方が戦った小牧長久手の戦いでは長宗我部氏が家康方に与しているので家康と明智一族とが繋がっていられたのかも知れません。
しかしその翌年である1585年には秀吉の四国征伐により長宗我部は没落して行きます。
仮に土岐氏である明智一族が四国にいたとすればそこにはおそらく居られなかったはずであり、脱出して落ち延びる先となればやはり上総土岐氏である可能性がゼロではないとは思っています。
小田原征伐(北条征伐)は1590年なので1585年当時であれば上総土岐氏はまだ健在だった事になります。
当時は北条方に与していた上総土岐氏は、同じく北条氏と親しかった親家康圏であったわけで、明智十五郎らが落ち延びていたとしても不思議では有りません。
名目上は落命した事になっていた明智光秀ですが、仮に生き残っていたとすれば果たしてどこにいたのでしょう。
そしてどうも少し怪しい面も有る「中国おお返し」をして来た秀吉らの大軍に敗れたのですが、では光秀が落武者狩程度の者に討取られる程、果たして無能なのか?と言えばそれはやはり疑問、個人的には自然に思えてしまえます。
秀吉が畿内を制圧すれば当然のごとく公家衆や各武将らが秀吉の顔色を伺う事となってしまい、明智光秀が生き残っていると言う事はおそらく許されなかったのだろうと容易に想像できます。
なので名目上討取られたという話になっているのはわかるのですが、仮に落ち延びたとしてどこへ行けたのか?ですが、一つの候補として四国の長宗我部氏を頼った可能性は有るのかも知れません。
1584年に家康の徳川方と秀吉の豊臣方が戦った小牧長久手の戦いでは長宗我部氏が家康方に与しているので家康と明智一族とが繋がっていられたのかも知れません。
しかしその翌年である1585年には秀吉の四国征伐により長宗我部は没落して行きます。
仮に土岐氏である明智一族が四国にいたとすればそこにはおそらく居られなかったはずであり、脱出して落ち延びる先となればやはり上総土岐氏である可能性がゼロではないとは思っています。
小田原征伐(北条征伐)は1590年なので1585年当時であれば上総土岐氏はまだ健在だった事になります。
当時は北条方に与していた上総土岐氏は、同じく北条氏と親しかった親家康圏であったわけで、明智十五郎らが落ち延びていたとしても不思議では有りません。
名目上は落命した事になっていた明智光秀ですが、仮に生き残っていたとすれば果たしてどこにいたのでしょう。