徳川幕府に大きな影響を与えたと言われる天海ですが、明智光秀が天海に名を変えていたとする説については、以前に記事にした通り、年齢的にそれはまず有り得ないとする説も多く筆者も同様に考えています。
仮に明智光秀やその親族が家康に匿われて参謀として影響力を持っていたのだとしたら、天海はその代理人だったと思われます。
ですがその後、明智光慶(明智十五郎)について記事にした後からの事ですが、1615年の大阪の陣で豊臣氏が滅亡した後、明智光慶(明智十五郎)自身が天海になった可能性と言うのはもしかすると有るかもしれない、と思うようになりました。
何故かと言うと明智光慶は、次の通りだからです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E6%85%B6
生誕 生年不詳、一説に永禄12年(1569年)[注釈 1]
死没 天正10年6月15日(1582年7月4日)
または6月2日(6月21日)[1][生存説あり]
明智 光慶(あけち みつよし)は、安土桃山時代の武将。明智光秀の長男。母は煕子。通称は十五郎(異説に十兵衛[注釈 2])。
(中略)
本能寺の変の前後の行動は2説があり、亀山城に在城していて変の一報を聞き、父の無道を嘆いてその場で悶死(病死)したとする説[1][4][5]。変の前から近江国・坂本城(滋賀県大津市)にいて、山崎の戦いで父光秀が敗走中に討たれると、帰還した明智秀満が守る坂本城は中川清秀、高山右近らの攻撃を受けて、落城の際に他の一族と共に自害したとする説がある[5][注釈 4]。
なお、光慶には生存説があり、妙心寺の住職となった僧の玄琳が光慶であるという説や、光秀の唯一の肖像画がある和泉国の本徳寺を開山した僧の南国梵桂が光秀の子という説もある。系図のいくつかには他に相当する男子がいない[注釈 5]ことから、光慶が生存して出家し僧になったのではないかとする説もあるが、それぞれ特に信憑性はない。また千葉県市原市不入斗に明智光秀側室の墓と伝わるものがあるが、そこにも上総に脱出したとする十五郎の名がある。この墓は光秀の子孫と主張する一族に管理され、歴代の墓石には桔梗紋が刻まれている。
引用終了
定かではないのですが、生誕が1569年とする説が有り年齢的には天海が死去したとされる1643年なら74歳位となり僧などは当時長生きが多かった事から考えると大体辻褄が合うのです。
千葉県市原市は上記の明智光秀側室の墓と伝わるものだけでなく、最近は2次審査通過をしたチバニアンも有ります。
今年は台風による塩害の影響で紅葉が例年のようには見られない所も有るようですが、紅葉以外に見所が結構有るのかも知れません。
引用開始(一部抜粋)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2018111901001981.html
チバニアンが2次審査通過 国際学会、来年中に最終決定か
2018年11月19日 17時26分
茨城大や国立極地研究所のチームは19日、地球の歴史のうち77万~12万6千年前を「チバニアン(千葉時代)」と名付けるための申請が、国際学会の2次審査を通過したと発表した。審査は4次まであるが、早ければ来年中に決まる見通し。
地質学では地球の歴史を115の時代に区分。各時代の境界を示す代表的な地層が「国際標準模式地」として認定されている。日本チームは昨年6月、千葉県市原市の地層「千葉セクション」がふさわしいとして申請。イタリアの2カ所の地層と競った結果、投票で最終候補に選ばれた。
2次審査の投票では、22人中19人が千葉セクションを支持した。
(共同)
引用終了
市原市からはやや離れたいすみ市にはなりますが、上総土岐氏の居城、万木城が有る事は以前の記事で紹介いた通りです。
仮に明智光秀やその親族が家康に匿われて参謀として影響力を持っていたのだとしたら、天海はその代理人だったと思われます。
ですがその後、明智光慶(明智十五郎)について記事にした後からの事ですが、1615年の大阪の陣で豊臣氏が滅亡した後、明智光慶(明智十五郎)自身が天海になった可能性と言うのはもしかすると有るかもしれない、と思うようになりました。
何故かと言うと明智光慶は、次の通りだからです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E6%85%B6
生誕 生年不詳、一説に永禄12年(1569年)[注釈 1]
死没 天正10年6月15日(1582年7月4日)
または6月2日(6月21日)[1][生存説あり]
明智 光慶(あけち みつよし)は、安土桃山時代の武将。明智光秀の長男。母は煕子。通称は十五郎(異説に十兵衛[注釈 2])。
(中略)
本能寺の変の前後の行動は2説があり、亀山城に在城していて変の一報を聞き、父の無道を嘆いてその場で悶死(病死)したとする説[1][4][5]。変の前から近江国・坂本城(滋賀県大津市)にいて、山崎の戦いで父光秀が敗走中に討たれると、帰還した明智秀満が守る坂本城は中川清秀、高山右近らの攻撃を受けて、落城の際に他の一族と共に自害したとする説がある[5][注釈 4]。
なお、光慶には生存説があり、妙心寺の住職となった僧の玄琳が光慶であるという説や、光秀の唯一の肖像画がある和泉国の本徳寺を開山した僧の南国梵桂が光秀の子という説もある。系図のいくつかには他に相当する男子がいない[注釈 5]ことから、光慶が生存して出家し僧になったのではないかとする説もあるが、それぞれ特に信憑性はない。また千葉県市原市不入斗に明智光秀側室の墓と伝わるものがあるが、そこにも上総に脱出したとする十五郎の名がある。この墓は光秀の子孫と主張する一族に管理され、歴代の墓石には桔梗紋が刻まれている。
引用終了
定かではないのですが、生誕が1569年とする説が有り年齢的には天海が死去したとされる1643年なら74歳位となり僧などは当時長生きが多かった事から考えると大体辻褄が合うのです。
千葉県市原市は上記の明智光秀側室の墓と伝わるものだけでなく、最近は2次審査通過をしたチバニアンも有ります。
今年は台風による塩害の影響で紅葉が例年のようには見られない所も有るようですが、紅葉以外に見所が結構有るのかも知れません。
引用開始(一部抜粋)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2018111901001981.html
チバニアンが2次審査通過 国際学会、来年中に最終決定か
2018年11月19日 17時26分
茨城大や国立極地研究所のチームは19日、地球の歴史のうち77万~12万6千年前を「チバニアン(千葉時代)」と名付けるための申請が、国際学会の2次審査を通過したと発表した。審査は4次まであるが、早ければ来年中に決まる見通し。
地質学では地球の歴史を115の時代に区分。各時代の境界を示す代表的な地層が「国際標準模式地」として認定されている。日本チームは昨年6月、千葉県市原市の地層「千葉セクション」がふさわしいとして申請。イタリアの2カ所の地層と競った結果、投票で最終候補に選ばれた。
2次審査の投票では、22人中19人が千葉セクションを支持した。
(共同)
引用終了
市原市からはやや離れたいすみ市にはなりますが、上総土岐氏の居城、万木城が有る事は以前の記事で紹介いた通りです。