快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  天海が明智光秀だった可能性は殆んど無い。がしかし・・・

2018-11-21 22:04:16 | 明智光秀
 徳川幕府に大きな影響を与えたと言われる天海ですが、明智光秀が天海に名を変えていたとする説については、以前に記事にした通り、年齢的にそれはまず有り得ないとする説も多く筆者も同様に考えています。
 仮に明智光秀やその親族が家康に匿われて参謀として影響力を持っていたのだとしたら、天海はその代理人だったと思われます。
 ですがその後、明智光慶(明智十五郎)について記事にした後からの事ですが、1615年の大阪の陣で豊臣氏が滅亡した後、明智光慶(明智十五郎)自身が天海になった可能性と言うのはもしかすると有るかもしれない、と思うようになりました。
 何故かと言うと明智光慶は、次の通りだからです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E6%85%B6

生誕 生年不詳、一説に永禄12年(1569年)[注釈 1]
死没 天正10年6月15日(1582年7月4日)
または6月2日(6月21日)[1][生存説あり]

明智 光慶(あけち みつよし)は、安土桃山時代の武将。明智光秀の長男。母は煕子。通称は十五郎(異説に十兵衛[注釈 2])。
(中略)
本能寺の変の前後の行動は2説があり、亀山城に在城していて変の一報を聞き、父の無道を嘆いてその場で悶死(病死)したとする説[1][4][5]。変の前から近江国・坂本城(滋賀県大津市)にいて、山崎の戦いで父光秀が敗走中に討たれると、帰還した明智秀満が守る坂本城は中川清秀、高山右近らの攻撃を受けて、落城の際に他の一族と共に自害したとする説がある[5][注釈 4]。

なお、光慶には生存説があり、妙心寺の住職となった僧の玄琳が光慶であるという説や、光秀の唯一の肖像画がある和泉国の本徳寺を開山した僧の南国梵桂が光秀の子という説もある。系図のいくつかには他に相当する男子がいない[注釈 5]ことから、光慶が生存して出家し僧になったのではないかとする説もあるが、それぞれ特に信憑性はない。また千葉県市原市不入斗に明智光秀側室の墓と伝わるものがあるが、そこにも上総に脱出したとする十五郎の名がある。この墓は光秀の子孫と主張する一族に管理され、歴代の墓石には桔梗紋が刻まれている。

引用終了

 定かではないのですが、生誕が1569年とする説が有り年齢的には天海が死去したとされる1643年なら74歳位となり僧などは当時長生きが多かった事から考えると大体辻褄が合うのです。
 千葉県市原市は上記の明智光秀側室の墓と伝わるものだけでなく、最近は2次審査通過をしたチバニアンも有ります。
 今年は台風による塩害の影響で紅葉が例年のようには見られない所も有るようですが、紅葉以外に見所が結構有るのかも知れません。

引用開始(一部抜粋)

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2018111901001981.html

チバニアンが2次審査通過 国際学会、来年中に最終決定か
2018年11月19日 17時26分
 茨城大や国立極地研究所のチームは19日、地球の歴史のうち77万~12万6千年前を「チバニアン(千葉時代)」と名付けるための申請が、国際学会の2次審査を通過したと発表した。審査は4次まであるが、早ければ来年中に決まる見通し。
 地質学では地球の歴史を115の時代に区分。各時代の境界を示す代表的な地層が「国際標準模式地」として認定されている。日本チームは昨年6月、千葉県市原市の地層「千葉セクション」がふさわしいとして申請。イタリアの2カ所の地層と競った結果、投票で最終候補に選ばれた。
 2次審査の投票では、22人中19人が千葉セクションを支持した。
(共同)

引用終了
 
 市原市からはやや離れたいすみ市にはなりますが、上総土岐氏の居城、万木城が有る事は以前の記事で紹介いた通りです。

仕組みとアプローチ -  明智光秀の土岐氏と家康の徳川氏の奇妙な共通点

2018-11-21 01:14:03 | 明智光秀
 明智光秀がおそらく家康を襲撃するつもりが無く寧ろ助けたからこそ日光に「明智平」と言う地名がつけられた、と言う見方は多いし個人的にもそう思っています。
 ところで明智光秀の明智氏は土岐氏の庶流のようですが、その土岐氏については次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%B0%8F

土岐氏(ときし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。清和源氏流摂津源氏系美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた軍事貴族の系統。

南北朝時代から戦国時代にかけて美濃国守護を務めるとともに室町幕府の侍所頭人として幕閣の一角を占め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の3か国の守護大名となった。戦国時代には近江の六角氏、京極氏、越前の朝倉氏・尾張の織田氏・伊勢の北畠氏など周辺大名と争うも、斎藤道三の下克上により没落した。庶流にあたる明智光秀・浅野長政・土岐定政(菅沼藤蔵)らは戦国武将として各地の大名に仕え頭角を現し、江戸時代には浅野家、土岐定政家が大名として存続した。
(中略)
目次
1 概要
2 美濃土岐氏
2.1 鎌倉時代
2.2 南北朝時代
2.3 室町時代
2.4 戦国時代
2.5 江戸時代以後
2.6 御所の変遷
3 土岐世保家
4 常陸土岐氏
5 上総土岐氏

引用終了

 それで徳川家なのですが、次の通りです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%BE%A1%E4%B8%89%E5%AE%B6

徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家のこと。単に御三家(ごさんけ)とも呼ばれる。
(中略)
 家系      藩   石高  藩庁       入府
尾張徳川家 尾張藩 62万石 名古屋城 元和2年(1616年)
紀州徳川家 紀州藩 56万石 和歌山城 元和5年(1619年)
水戸徳川家 水戸藩 35万石 水戸城     元和5年(1619年)

引用終了

 土岐氏が美濃土岐氏(尾張、伊勢を含む)、常陸土岐氏と上総土岐氏。
 徳川家が江戸の将軍徳川家と尾張徳川家、水戸徳川家(常陸に有る)、そして紀伊徳川家(伊勢を含む)。
 上総土岐氏は北条氏と組んで里見氏に対抗したようですので北条氏の江戸が該当と広義に解釈すればですが、土岐氏と徳川将軍家と御三家の位置が土岐氏の勢力圏だったエリアほぼ同じ位置に対応している部分が多いのがわかります。
 これが土岐氏と徳川氏の奇妙な共通点です。
 しかも徳川御三家が入府となったのは同じ1619年、つまり1615年に大坂の陣で豊臣氏が正式に滅亡した少し後です。
 そしてあの明智平。
 豊臣氏が滅亡した後に何かまるで土岐氏を復活させたようにも見えてしまいます。
 やはりこれは本能寺の変当時、明智光秀は徳川家康の敵ではなかった事を意味しているのではないでしょうか。