快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  東京オリンピックのトライアスロン水泳会場を「海の森水上競技場」にしてはどうか

2019-08-22 22:33:25 | 地震 津波
 前回記事の続きです。
 結論から書きますとそれは、東京オリンピックのボート会場である「海の森水上競技場」がお台場よりは水質の確保がより容易ではないか、と言う事です。
 ボート、カヌー会場なので観客席などは当然充実していて、しかも両サイドが陸地であり、そして両端は周囲の海域と仕切る事も容易なので適温で清潔な水を競技場内に給水したり貯水するにはより容易なはずと思えるのです。
 ですがタイミングとしてボートやカヌー競技と重複してしまう時間帯が発生してしまいます。
 この点についてはトライアスロン競技かボートやカヌー競技のいずれかを夜間や早朝にシフトしても良いのではないでしょうか。
 この方式だと夜間早朝の比較的気温が低い時間帯で競技ができる事が大きな利点の一つ。
 もう一つの利点は例えば日本時間の午前1時ならロンドンは16時、ニューヨークは昼間の12時となり特にテレビなどの視聴に悪い時間帯ではないと言えます。
 そもそも何故この真夏に東京五輪期間が決定されたのかと言えば、それはどうも米国のテレビ等の視聴関連も大きな要素だったと言われているようです。
 それならば日本時間の午前1時に競技スタートすると言うのは、悪い時間帯ではないはずで、2022年の冬季北京オリンピックも或いは一部の競技をこうした時間帯に設定する事も可能性としてはゼロではないのかも知れないと(個人的にと言う程度ですが)見ています。
 この方式ならば一石三鳥も夢ではないと思っています。

仕組みとアプローチ -  東京オリンピックのトライアスロン水泳会場 水質対策としてのバックアップ会場

2019-08-22 18:46:29 | 地震 津波
 今月16日の記事、サブタイトル「東京オリンピックのトライアスロン会場 水質や水温の問題」ではレストピラについてのリスクを例に採りましたが、調べて見るとレストスピラは塩分濃度が海水レベルでは生存が長くはないようで、ならばお台場のトライアスロン会場が外洋レベルか或いはそれに準じる塩分濃度ならば、そう心配するほどではないようにも思えます。
 しかしそれもこの海域の塩分の濃度次第であるわけで、大雨等で河川等からの淡水の大量流入で塩分濃度が河川レベルにまで低下した場合にどうなるか、と言うのは定かでは有りません。
 ですが所詮は塩分濃度ですからいざとなれば大量の安価な塩を投入して競技海域とその周辺の塩分濃度が外洋レベルまで上がれば、少なくともレストスピラに関しては何とかクリアできるレベルにできるかとは思えて来ます。
 では他の菌等について果たしてどうなのか?と言えばそれは現状では調べ切れていません。
 個人的にはと言う程度ですが、「如何なる対策をしても無理」とまでは言えないものの、ただその為のコストや時間などが果たして他の会場で開催する為のコストや時間などに比較して果たしてどうなのか?と言う点については今の所、全容を把握しきれていません。
 とりあえず少なくもお台場海域よりは水質の安全性確保の面で多少とも有利な所はないか?と思える会場候補について調べてみたところ、以外にも近辺に存在しているのではないか?と思えて来るエリアが有りました。
 それがどこかわかりますか?

仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 三好康長の軍勢も加わっていた可能性

2019-08-22 00:42:00 | 明智光秀
 山崎の戦いで秀吉勢の兵力が明智勢を圧倒していた事については多くの要因が有りますが、考えられる要因の一つに三好康長の軍勢も動員できた事も可能性としてゼロではないと考えています。
 当時の四国の北東部、淡路は三好康長が信長の支援を受けていて勢力を伸ばしつつ有りました。
 秀吉とはどれだけ関係が深かったのかについては諸説あり定かでは有りませんが、少なくとも本能寺の変の後には明智方ではなく秀吉方に加わる事は明らかなようでした。
 ならば当然、秀吉は三好康長へ将兵や武器弾薬、食料などを送るように要請したと思えるのですが、ここで当然気になるのは三好勢が軍事力を四国から有る程度離すと、その間に長宗我部氏が怒涛のように攻め始めるのではないか?と言う懸念です。
 しかしその懸念は無用のものであり、その一つの理由は最近の記事で書いた通り、当時の長宗我部氏は兵農が分離していない一領具足と言う方式を採っていた為、農繁期であった当時はすぐに兵を動員できる状況ではなかったはず、と言うのがまず考えられます。
 実際に長宗我部氏が四国制覇に向けて動き出したのは1582年の8月からでした。
 そしてもう一つの理由は仮に長宗我部氏が四国各地に攻め出して四国を制覇したとしても、その先である本州に勢力を拡大する程の力もそしてその気も無かったと思われる事です。
 何故かと言うと当時の長宗我部氏には瀬戸内海で水軍として戦力にできるような勢力がなかったからだと考えています。
 確かに長宗我部氏には長宗我部水軍と言うものが有ったようなのですが、その活動海域は土佐、阿波南部あたりで有る為、瀬戸内海で船を高度に動かし、そして水軍として村上水軍に勝つ程のノウハウが無かったはず、と言う事になります。
 なので三好氏の軍勢を畿内に有る程度移動させてしまってその間に長宗我部氏が四国を制覇したとしても、それ以上は拡大できないはずので、秀吉は「余裕ができてから後でゆっくりと長宗我部氏を料理すれば良い」、と考えていたのではないでしょうか。
 史実から構築できるロジックではそうなります。
 古文書では記録として残されていなくても、山崎の戦いでは内々に四国から迅速に移動して来た三好氏の軍勢も有る程度加わっていたものと考えられ、仮にそうだったとすれば、三好勢はあまり疲れてもいない為、それなりの戦力にはなっていた、とも考えています。


仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 秀吉が来島通総の調略に成功してからわずか半年も経ずに本能寺の変が発生

2019-08-21 00:56:23 | 明智光秀
 秀吉が来島通総の調略に成功したのは前回記事に有る通り、1582年前半。
 この時点で「毛利氏と和睦できれば来島村上家を動員して瀬戸内海の制海権を握る事ができ、それならば信長、信忠がもし討たれればその後の覇権争いでライバルを圧倒できるはず」と当時の秀吉が考えたのかどうか・・・・・その確証となる古文書などは現在見つかっていないので定かな事はわかりません。
 しかし現実には秀吉が来島通総の調略に成功してから半年も経たない内に本能寺の変が発生。
 そして本能寺の変の少し前、秀吉が信長に援軍要請をしたのが(偶然にも?狙った通り?)農繁期。
 一領具足と言う兵農分離がなされていないシステムを採っていた長宗我部氏の所領に於いて、兵を動員できない時期でもありました。
 そして明智光秀は長宗我部氏が殆んど動けないうちに兵力の差で短期大敗。
 個人的にこのタイミングをとても偶然とは思えないのですが、当時の有力武将達の中にも同様に考えていた人達が或いはいたのでしょうか。
 そして、明智光秀は果たしてどう考えていたのでしょう。
 

仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 瀬戸内海の制海権を握った秀吉の軍事力は海賊をも動員できて圧倒的だったはず

2019-08-20 22:30:20 | 明智光秀
 山崎の戦いでは秀吉方の兵力が明智方を圧倒していたとするのが通説ですが、その主な理由となる「中国おお返し」については以前の記事で書いた通り、「トコロテン方式」や「瀬戸内海の水運利用」の割合も少なくなかったと考えています。
 そして後者の水運については、更に調べて行くと興味深い事実が浮かび上がって来ます。

引用開始 2件(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E8%BB%8D#%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%B0%8Fあけち

村上水軍(むらかみすいぐん)は、日本中世の瀬戸内海[1] で活動した水軍(海賊衆)である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした中国地方と四国地方の間の海域であり、その後大まかに能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家へ分かれた。
(中略)
村上水軍の解体
来島村上氏は早くから豊臣秀吉についたため独立大名とされ、他の二家は能島村上氏が小早川氏、因島村上氏は毛利氏の家臣となった。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E9%80%9A%E7%B7%8F

来島 通総(くるしま みちふさ)は、安土桃山時代の伊予国の武将、大名。
(中略)
永禄4年(1561年)、村上水軍の一族である来島村上氏当主・村上通康の四男として生まれる。
(中略)
秀吉への接近
天正10年(1582年)、織田信長の重臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の勧誘を受けて織田方に寝返ったため、毛利氏や河野氏に攻められて本拠地を追われて一時は秀吉の元に身を寄せた。なおも兄の得居通幸が鹿島城に拠って戦い抜き、羽柴方として留まった通総は秀吉と毛利氏との和睦後に旧領に復帰した。

引用終了

 本能寺の変の発生前、村上水軍の一族である来島村上氏は既に秀吉方に加勢していました。
 これだけでは瀬戸内海の制海権を全て握るほどでは無いのですが、本能寺の変の後、すぐに毛利氏と実質和睦(実は密約で和睦と言うのは後から形にしただけである可能性についても以前の記事で書きましたが)したのです。
 これが何を意味するかと言うと、「中立ではあっても秀吉方に敵対する村上水軍はもういなくなった事になり秀吉は瀬戸内海の制海権を握った」と言う事です。 
 長宗我部氏にも長宗我部水軍と言うのは有りましたが、これは瀬戸内海側では殆んど勢力が無い上、当時において四国の北東部は織田方の三好康長が領していました。
 なので毛利氏が秀吉と実質和睦となった時点で瀬戸内海の制海権を握った秀吉はこの海域を自由に使う事ができたはずなのです。
 これが兵や武器弾薬、食料などの輸送の面で「中国おお返し」に於ける大きなメリットの一つになったと考えられるだけでなく、実は鉄砲等を使える来島村上水軍の将兵も山崎の戦いで有る程度の兵力であった事も十分に考えられます。
 更には、毛利氏が秀吉に「貸し」を作るには秀吉方に直接加勢するのも手では有るが、それは当時の混沌とした状況ではリスクが高いため、間接的に秀吉に加勢する手を考えたはずで、それはつまり毛利方だった能島村上家、因島村上家の軍勢を来島村上家の水軍に偽装して秀吉方に加勢させても、それはわからなかったはずであり、こうして毛利氏は秀吉にノーリスクで加勢できた事になります。
 つまり山崎の戦いでは有る程度の割合で村上水軍の将兵(海賊)らが混じっていたものと思われるのです。
 水軍ならば数日で兵や武器弾薬、食料などをかなりの規模で短期間の内に畿内に移動する事は十分可能だったとなります。
 更には和睦前であっても毛利方へわからぬように来島村上家の水軍を畿内に向かわせる事すらできたかとも思えますが、実際にそれが実行されたかどうかはわかりません。
 ルイス・フロイスが「秀吉が中国地方より引き連れてきた兵はいずれも疲れ果てていた」と言う旨の事を書いていますが、疲れていた兵もいたのは確かでしょうが、それだけではなく「水軍の将兵(つまり海賊)も有る程度の数はいたのでこれらの将兵には不慣れな陸上戦になるべく直接参加させたくなかった。がしかし鉄砲など武器の扱いなどがかなりできる将兵も多かったので敵方に兵力を見せつけるのには十分に効果が有った」と言う面も非常に大きかったのだと見ています。