武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

武内ヒロクニ展 オンライン・ミュージアムのご案内(色鉛筆作品589・590)

2021-02-13 17:34:41 | Weblog

ただいま個展中になります。

ギャラリー島田にて、オンライン・ミュージアムでも開催中。

ギャラリー島田のHP→http://gallery-shimada.com/ にて

こちらのHPの上に、オンライン・ミュージアムのクリックするところがありますので、

こちらから入場下さい。

こちらのブログの左に、ギャラリー島田のHPをブックマークしていますので、

ここから、入って下さってもいいと思います。

こういう新しい試みも、コロナの影響が大きいと痛感しています。

変化を前向きに受け入れて行くことも大切だと思いました。

興味があれば、よろしくお願い致します。

そして、少し元気を取り戻せてもらえれば幸いです。

 

上記の写真は、入り口に飾られている絵。

ピンクの色の小さな作品は、少しエロティック。

描かれた年代が、さかのぼる作品になります。

額装のガラスにて、写真を撮っても反射してしまい紹介出来なくて残念。

エロティックなものを描いていた時期があったなぁ~と、突然思い出しました。

そう言えば、モデルもした。

わりと若い時だったので、なんだか面白いわ・・・。と、思っていました。

しかし、今はおばさんになったからか、今は嫌ドス、モード。

痩せたりしたら、皮膚にシワが寄っていたして、風呂場でびっくりして「えっ!」と言う、始末。

「何これ?」ですもの。

そんな私ですが、痩せ型のヒロクニさんが、更に痩せた時、

お腹に凄いシワを見つけて、

「ねぇ、段々が凄いのだけど、数えていい?」と言い、数えたりしていました。

お腹のところが3mmぐらいの幅で、皮膚が段々になっているのです。

しかし、痩せていることの象徴でもあり痩せ型の男性は好きなので、

「さすがですねぇ~。」と。

「さすが、ヒロクニさんですよね。侘び寂びを感じますよねぇ~。」と、

意味不明な褒め文句を言ったりしていました。

「太った人は、侘び寂びを語る資格がない。」と言われるのを聞いたことがあり、

確かにたらふく食って、楽々にふけり、怠惰で太っているとしたら、その資格はないと、思ったことがあります。

やはり、“侘び寂び”も精神性のことであるし、“禅”の精神から派生したものです。

禅の精神に沿うと、太ることはないと思います。

今でも「布団で寝るのは、嫌なんだ。」と、何故か毛布しか使わなくて、

家にいるホームレスのヒロクニさんは、重しとしてコートを毛布の上にのせています。

未だに、ここちよく寝るのを拒んでいます。

その臨場感を持っていたいらしいのです。

(よくわからない行為なんですけど・・・・)

絵には、そんなわけの分からない臨場感がどこかにあるかもしれません。

それとも、これがヒロクニさんの“侘び寂び”か?

どちらかというと、単なる侘しい生活の一環のニュアンスに思える。

このわけがわからない生活感がヒロクニさんの持ち味か?

あと、私はついやってしまうのですが、料理をてんこ盛りにして出してしまうときがあります。

そうすると、いつも「こんなに多くを、私は食べないのだ!」と怒られます。

下品で、嫌な感じがするそうです。

「俺は、たらふく食べるなんて、嫌なの。」とダメだしが・・・・。

そういう事もあって、太ったことがないのです。

私は、家族の人数が多い家庭環境だったので、山盛り感覚が身についていて、

寂しく感じる食卓だと落ち着かない癖があるようで、たくさん並べてしまいます。

まだまだ、お互い癖がすり合せられてないところってあるのですね。

つい、山盛り作り、山盛りにして出す。

まあ、ヒロクニさんは、ともかく日常の変な行為はあげていけばキリがない。

やっぱり、普通の絵じゃないですし・・・・。

そんな風な人が、描いた絵だと納得していただければ、幸いです。

 

 

久しぶりに見た絵から思ったのは、

最近は、エロティックなものからかなり外れていること。

私達、2人が歳を取ったのかもしれません。

 

↑こちらの絵も久しぶりに鑑賞することに。

この四角く仕切られたような絵は、けっこう数多くあり、

小さなものから、大きなサイズのものまであります。

ノートの切れ端に描いたものが、1番最所に出来上がった。

そこから発展していきました。。

タイトルは「ビート」と付けられていたと思います。

ちょっと、元気が出る感じの絵です。

 

↑こちらは、「モーテル」と題された作品。

寂びれた感じのモーテル。

人がいなくて、がらんとした感じ。

日常で見る景色ではなく、映画のあるシーンとか、外国のオアシスのような風景。

荒涼とした風景というのは、人にある種のエモーションを与えます。

砂漠の中の1シーンのようでもあり、孤独というか、寂しげな印象を受けます。

異常な淋しがりやである、ヒロクニさんのセンチメンタルな部分が出ているのかもしれません。

「淋しい」の専売特許のような人なんです。

秋になったら、「淋しい」の連発。

しかし、芸術家にとって、センチメンタルは重要な要素であると云うのが解ってきたのは、

ヒロクニさんを通してでした。

わかりやすい例をあげるとしたら、「竹下夢二」になります。

そこはかとない寂しさ、物憂げさ、そんなものを感じるさせる絵だと思いました。

 

 

↑庭では、絹さやにつぼみが付いているのを発見しました。

絹さやは、はじめて植えてみました。

収穫出来ることを楽しみにしています。

植えつけたときは、生育が悪そうで「期待をしてはいけない!」と自身に言い聞かせましたが、

こういうのを目にすると、ワクワクします。

2月というのに、暖かい日があって、春の到来を感じました。

チューリップも土から芽を出してきていて、季節の巡っていく過程を感じています。

移り変わり、すなわち時間というものを意識します。

 

 

 

 

コメント (2)
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