Untrue Love(73)
ぼくが船だとすると、その大きな物体は、いずれ港にたどり着く。使い古された常套句として。陳腐な抽象的な表現としても。揺れのなかにずっといた状態のひとは、船から地面に降りても、まだ体内は揺れを持続させているような錯覚があるそうだ。そういう体験と無縁であるぼくが正確さを見極めることなどできないが、あっても当然だという気もしている。普通、自分が多くの時間を割いている生の生活に身体は捉われやすい。身体がひとつのことに縛られていれば、思いも柔軟さはそれほど兼ね備えてもいない。肉体の苦痛や酷使は、感情にも重くぶら下がり、肉体の喜びや爽快感も気持ちを充足させるために十分に役に立つ。
ユミは素足でベッドから跳び下りた。後ろ姿で、自分のバックから小さな鏡を取り出して、自分の顔の前に当てた。何を見ようとしているのかぼくには分からなかった。ぼくにはその背中が見えるだけだ。肩甲骨が隆起している。自分自身では絶対に直視できない背骨や両脇につながる部分が、ぼくの目の前にあらわになっている。ぼくは同じ意味で自分の後ろ姿を見たいと思った。誰かを待っているときに、自分の背中はどういう表情や姿をしているのだろう。やはり、さびしそうに待つときはそれなりにどんよりとした様子を示し、期待して待ちわびているときは、喜びの予感のようなものを秘めているのだろうか。だが、当事者はなにも分からない。ユミの背中も多くは語らなかった。
「着替えて、どっか歩こうか? せっかくの休みなんだから太陽を浴びたい」
ふたりは歩く。駅前まで行き、開店したパン屋を見た。香ばしいにおいを発していて、それにつられてお客さんがたくさん出たり入ったりしていた。その横を通り抜け、駅ビル内の本屋に立ち寄った。太陽は窓ガラスをかすかにしか通り越してこない。そこで、ユミはパンの作り方の本を書棚から引っ張り出した。ぼくはとなりの一角でサッカーの雑誌を立ち読みするために移動した。彼女の背中は、とても無防備に見えた。そこにどこからか不意にあらわれた男性が彼女に声をかけた。彼女は聞こえないのか、それとも、自分ではないと思ったのか無視していた。
「さっき、男のひとから声をかけられちゃった」と、後で言ったので敢えて無視していたことが知れた。それから本を買わずにもとの棚に戻した。いつもより爪がきれいに塗られていた。
「よくあるの?」
「なにが?」ユミはとぼけたような表情をした。
「男のひとから声をかけられること」
「ぜんぜん。まったく。すこし妬いた?」
「どうだろう」
「妬いたといっときなさい」急に年上のような口調になった。ぼくは彼女との年齢差を感じたことがなかった。実際はほんの少しだが年上だ。でも、ぼくの前にはいつみさんや木下さんがいた手前、相対的に彼女は子どもっぽく見えた。そのユミを一人前の女性と認定して声をかける男性がいる。だが、その男性は彼女の何を知っているのだろう。それに、どのような美点のため、声をかけるまでの衝動にかられたのだろう。ぼくは、彼女の肩甲骨の動きを思い出していた。背中が物語るならば、あのときのユミはぼくに全幅の信頼を寄せているようだった。
「お茶でも飲もう」と手ぶらで本屋を出てから言って、彼女は駅ビルの休憩スペースにそれなりに作られた店の前で注文した。ぼくらはきちんと囲われていない場所で、ただぼんやりとしていた。ぼくの幼少のときを過ごした地元でもないし、ユミにとっても普段はいない場所なので、誰に会う心配もなかった。その無名性の貴重な時間をぼくらは楽しんでいた。
「あの子、風船をもってるね。どっかでくれるんだろうかね?」ぼくは疑問をそのまま口にした。
「ほしいの?」
「まさか」
「でも、仕事を離れて、こうしてぼうっとしている時間、とても楽しいね。そうだ、バイトたいへん?」
「もう馴れているから、なんとでもなる」
「もうすこしで就職とかも考えるんでしょう?」
「そうなるね」
「髪の毛、それなりに面接対策用とかにしてあげようか、そのときは」
「どんなの?」
「きちんと分けて」
「いま、そんなひといないでしょう・・・」
「面接用に整形とかする女性もいるんだよ」彼女はそういったが、ただのワイドショー的な感想のようだった。実体がまったくともなっていない話題でもあった。それを誤魔化すようにユミは目や鼻を自分の指先で上げたり下げたり吊り目にしたりした。幼い彼女が友だちの前でしたであろう時間が想像できた。「どっか、顔とか変えたい?」
「これで、充分だよ」
「お、凄い自信」
「自信じゃないよ、妥協だよ」
「そう。でも、そのままがいいよ。性格とその顔、合ってるしね」
どのような性格で、どのような意味でこの顔に合っているのか、結局、ユミは告げなかった。それをしつこく訊くことも自分はしなかった。自分の容貌にこだわっているようにも思われたくなかったし、正直なところ、こだわってもいなかった。ぼくは相変わらず、いつみさんの元彼氏の服を着ることにも抵抗がなかった。もう、それはぼくに所有権がとっくに譲渡されていた。もらったという感覚さえすでに失っていた。
「もっと、大人になれば、もっと自分に似合った顔になるのかな・・・」ぼくは目の前を通り過ぎる少女の顔を眺めていた。彼女が優しい人間であるのか、意地悪を内包しているのか分析しようとしたが、時間的に無理だった。母らしきひとに強く腕を引っ張られ、宙吊りされたひとのように軽やかに歩がすすんでしまった。
「わたしのこと知らなかったら、どういう性格の持ち主に見える?」ユミはテーブルに頬杖をつき、うっすらと笑顔を表情に定着させて訊いた。
「むずかしいね。もう、知ってる部分も多いしね」それからしばらく思案した。「活発な人間に見えるけど、洋服にも判断が影響されるね」
ぼくは、さらに彼女の顔を眺めた。だが、ぼくは、あのぼくの部屋でこちらに向けた背中の方が多くのものを伝えてくれるような気がしていた。無防備でもあり、どこかで自分の意志や考えが充満している背中。ぼくはその背中を後ろから抱き、永遠につながるセリフを言ってしまうことも可能だったのだと仮定を考える。だが、いつものように言わない。いつみさんにも言わない。彼女が望んでいないことを恐れているという失敗への危険を避けるため。木下さんにも届かない。溶ける雪が夏までもつこともないということを経験則として知っているという馬鹿な自信や自負を胸にかかえて。
ぼくが船だとすると、その大きな物体は、いずれ港にたどり着く。使い古された常套句として。陳腐な抽象的な表現としても。揺れのなかにずっといた状態のひとは、船から地面に降りても、まだ体内は揺れを持続させているような錯覚があるそうだ。そういう体験と無縁であるぼくが正確さを見極めることなどできないが、あっても当然だという気もしている。普通、自分が多くの時間を割いている生の生活に身体は捉われやすい。身体がひとつのことに縛られていれば、思いも柔軟さはそれほど兼ね備えてもいない。肉体の苦痛や酷使は、感情にも重くぶら下がり、肉体の喜びや爽快感も気持ちを充足させるために十分に役に立つ。
ユミは素足でベッドから跳び下りた。後ろ姿で、自分のバックから小さな鏡を取り出して、自分の顔の前に当てた。何を見ようとしているのかぼくには分からなかった。ぼくにはその背中が見えるだけだ。肩甲骨が隆起している。自分自身では絶対に直視できない背骨や両脇につながる部分が、ぼくの目の前にあらわになっている。ぼくは同じ意味で自分の後ろ姿を見たいと思った。誰かを待っているときに、自分の背中はどういう表情や姿をしているのだろう。やはり、さびしそうに待つときはそれなりにどんよりとした様子を示し、期待して待ちわびているときは、喜びの予感のようなものを秘めているのだろうか。だが、当事者はなにも分からない。ユミの背中も多くは語らなかった。
「着替えて、どっか歩こうか? せっかくの休みなんだから太陽を浴びたい」
ふたりは歩く。駅前まで行き、開店したパン屋を見た。香ばしいにおいを発していて、それにつられてお客さんがたくさん出たり入ったりしていた。その横を通り抜け、駅ビル内の本屋に立ち寄った。太陽は窓ガラスをかすかにしか通り越してこない。そこで、ユミはパンの作り方の本を書棚から引っ張り出した。ぼくはとなりの一角でサッカーの雑誌を立ち読みするために移動した。彼女の背中は、とても無防備に見えた。そこにどこからか不意にあらわれた男性が彼女に声をかけた。彼女は聞こえないのか、それとも、自分ではないと思ったのか無視していた。
「さっき、男のひとから声をかけられちゃった」と、後で言ったので敢えて無視していたことが知れた。それから本を買わずにもとの棚に戻した。いつもより爪がきれいに塗られていた。
「よくあるの?」
「なにが?」ユミはとぼけたような表情をした。
「男のひとから声をかけられること」
「ぜんぜん。まったく。すこし妬いた?」
「どうだろう」
「妬いたといっときなさい」急に年上のような口調になった。ぼくは彼女との年齢差を感じたことがなかった。実際はほんの少しだが年上だ。でも、ぼくの前にはいつみさんや木下さんがいた手前、相対的に彼女は子どもっぽく見えた。そのユミを一人前の女性と認定して声をかける男性がいる。だが、その男性は彼女の何を知っているのだろう。それに、どのような美点のため、声をかけるまでの衝動にかられたのだろう。ぼくは、彼女の肩甲骨の動きを思い出していた。背中が物語るならば、あのときのユミはぼくに全幅の信頼を寄せているようだった。
「お茶でも飲もう」と手ぶらで本屋を出てから言って、彼女は駅ビルの休憩スペースにそれなりに作られた店の前で注文した。ぼくらはきちんと囲われていない場所で、ただぼんやりとしていた。ぼくの幼少のときを過ごした地元でもないし、ユミにとっても普段はいない場所なので、誰に会う心配もなかった。その無名性の貴重な時間をぼくらは楽しんでいた。
「あの子、風船をもってるね。どっかでくれるんだろうかね?」ぼくは疑問をそのまま口にした。
「ほしいの?」
「まさか」
「でも、仕事を離れて、こうしてぼうっとしている時間、とても楽しいね。そうだ、バイトたいへん?」
「もう馴れているから、なんとでもなる」
「もうすこしで就職とかも考えるんでしょう?」
「そうなるね」
「髪の毛、それなりに面接対策用とかにしてあげようか、そのときは」
「どんなの?」
「きちんと分けて」
「いま、そんなひといないでしょう・・・」
「面接用に整形とかする女性もいるんだよ」彼女はそういったが、ただのワイドショー的な感想のようだった。実体がまったくともなっていない話題でもあった。それを誤魔化すようにユミは目や鼻を自分の指先で上げたり下げたり吊り目にしたりした。幼い彼女が友だちの前でしたであろう時間が想像できた。「どっか、顔とか変えたい?」
「これで、充分だよ」
「お、凄い自信」
「自信じゃないよ、妥協だよ」
「そう。でも、そのままがいいよ。性格とその顔、合ってるしね」
どのような性格で、どのような意味でこの顔に合っているのか、結局、ユミは告げなかった。それをしつこく訊くことも自分はしなかった。自分の容貌にこだわっているようにも思われたくなかったし、正直なところ、こだわってもいなかった。ぼくは相変わらず、いつみさんの元彼氏の服を着ることにも抵抗がなかった。もう、それはぼくに所有権がとっくに譲渡されていた。もらったという感覚さえすでに失っていた。
「もっと、大人になれば、もっと自分に似合った顔になるのかな・・・」ぼくは目の前を通り過ぎる少女の顔を眺めていた。彼女が優しい人間であるのか、意地悪を内包しているのか分析しようとしたが、時間的に無理だった。母らしきひとに強く腕を引っ張られ、宙吊りされたひとのように軽やかに歩がすすんでしまった。
「わたしのこと知らなかったら、どういう性格の持ち主に見える?」ユミはテーブルに頬杖をつき、うっすらと笑顔を表情に定着させて訊いた。
「むずかしいね。もう、知ってる部分も多いしね」それからしばらく思案した。「活発な人間に見えるけど、洋服にも判断が影響されるね」
ぼくは、さらに彼女の顔を眺めた。だが、ぼくは、あのぼくの部屋でこちらに向けた背中の方が多くのものを伝えてくれるような気がしていた。無防備でもあり、どこかで自分の意志や考えが充満している背中。ぼくはその背中を後ろから抱き、永遠につながるセリフを言ってしまうことも可能だったのだと仮定を考える。だが、いつものように言わない。いつみさんにも言わない。彼女が望んでいないことを恐れているという失敗への危険を避けるため。木下さんにも届かない。溶ける雪が夏までもつこともないということを経験則として知っているという馬鹿な自信や自負を胸にかかえて。