爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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Untrue Love(82)

2012年12月24日 | Untrue Love
Untrue Love(82)

 ぼくは座席にいる。座り心地の良いソファーだった。古い映画を見るために入る名画座の通過儀礼のような固いスプリングではなかった。そして、となりには久代さんがいた。飲み物のカップもふたつあった。

 時間はあっという間に過ぎる。久代さんは小さな声で、「あ」と言って驚いたり、また小さなうめきのようなもので悲しみを表現した。いや、悲しみの表現に賛同した。ぼくらは、同じ時間に同じことをしている。それを、いつか別々のタイミングで思い出すのだろう。それを相手に問いたずね、同じ共有した時間を取り戻す。

 ぼくは外を歩いている。こころはいくらか浮き足立っている。そして、となりには久代さんがいた。彼女は目的の洋服屋さんに向かっている。その道を前に、ぼくはユミと共に歩いたことを思い出している。思い出すという表現も妥当ではない。なぞっているとも言えたし、愛用の茶碗やコーヒーカップをいつものように取り出しているとも言えた。追体験でもない。ただの模倣に近いのかもしれない。だが、そこにはやはり新鮮味が加わる。物事が成熟するとか、もっとすすんで腐敗するということは、それでも考えられない。考えられないぐらいにぼくは若く、もっと端的にいえば未熟でもあった。

 彼女は、洋服が並んでいるバーのハンガーを左右にずらし、服を前に当てたり、鏡にむかって身体を左右に振ったりした。普段は、彼女はそれをお客さんにすすめる立場にいた。いまは、反対だ。その状態を楽しんでいる様子が傍目にも分かった。

 しかし、彼女の注目は次第に変わる。いや、元にもどっただけなのかもしれない。彼女は床にきちんと展示されている靴を熱心に眺めている。眺めているだけでは当然のこと物足りず、それに触れる。素材の違いみたいなものを手の上で確かめている。その後は、椅子にすわり、自分の靴を脱ぎ、新しいものに足を入れた。それから、また立ち上がり、かかとを床の柔らかな布の上で踏み鳴らす。さらに、くるっと身体を回転させ、また鏡のなかをのぞく。

 満足した様子だった。それを店員は一時、預かった。また、服が陳列されている場所に戻り、緑色を基調にした洋服を手に取り、試着室に消えた。ぼくは、その頃には飽き始め、外でぼんやりと町行くひとを見ていた。何かの配達のため、急ぎ足で台車を押し搬入しようとしているひとがいた。それはぼくが普段、見慣れている光景だった。それゆえ、その作業の効率の良さに見惚れていた。どこにでも、美学を見出そうと思えば、それは可能なのだという単純な真理のようなものを見つける。

 しばらくすると、久代さんは出てきた。荷物が増えている。二つの角張った袋。大きなものと小さなもの。大きなものは衣類で、小さな方はきっと靴だろう。
「持ちますよ」と、ぼくは手を久代さんに向かって差し出す。
「優しいのね。じゃあ、こっちだけ」彼女は大きな方の取っ手をぼくの手の平に乗せた。靴であろうものは大事に自分で握り締めていた。
「軽いですね」
「そう」久代さんは今日のいちばんの笑顔をする。「順平くんも毎日、身体を動かしているからどんな洋服でも似合うでしょう?」
「サイズ的なものはそうですけど」ぼくはいくらか思案するような顔をわざと作った。「でも、洋服って、最終的には色じゃないですか?」

「そういうもんかな」彼女もその言葉を反芻するような表情をした。「でも、靴はデザインだと思うよ」
 ぼくは、いま履いている彼女の靴を見た。確かに造型が変わっている。そして、自分の足元を見た。デザインはありふれたスニーカーだ。ただ、色の交錯とブランドを示す企業のロゴのマークが違うだけのようでもあった。

「ねえ、お腹空いたでしょう?」快活に久代さんが言う。「この辺で素敵なお店を見つけてあるんだ。そこにしていい?」
「もちろんですよ」ぼくは、まだユミと歩いたことのある地点にいた。人間同士が偶然に出くわす可能性のことを考えてしまうことになった。だが現在、彼女は働いている。それでも、以前にいっしょに入った店にでも行けば、どこかでぼくらのことを見知っているひとがいるかもしれない。ぼくは、何も隠すこともないはずだが、すべてを開けっ広げにする度胸も豪快さもなかった。その場しのぎの幸福の獲得だけを目指していた。いまの食欲を満たすだけに甘んじる愚鈍な動物たちと何も変わらないようだった。哲学もなければ、きっちりとした行動の抑制の姿もなかった。

 だが、食事はおいしい。そして、目の前には久代さんがいた。片手にナイフがあり、もう一方にフォークがあった。両手を有して食材を切り分け口にもっていくという過程が自然と行われている。それは、ある種の不自然さを伴うはずのものであったが、人間が生み出した、これも美の抑制のような感じがした。彼女は話し、ときどき笑う。ぼくの話を世界の神話が語られているかのように無心に聞き、さらに促す言葉を告げた。

 楽しい時間は早く過ぎてしまう。同じ時間帯のバイトではあまりにも長く感じられていたはずなのに。それで、夕方と夜の間の時間をぼくらはまるで恋人同士のように街中を歩き、荷物を久代さんの家まで運んだ。ただ受取りの証拠にサインをもらって帰るだけの立場じゃないことに感謝して、ぼくは彼女の部屋にいる。もちろん、久代さんは横にいる。
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