爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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Untrue Love(77)

2012年12月09日 | Untrue Love
Untrue Love(77)

 意図したわけではなかったが、何気なくのろのろと歩いていたら、河口付近までたどり着いた。海につながるという感覚ではなく、生活排水の集積場とでも呼べそうなところだった。それでも、気分は不思議と爽快になった。完璧な美など求められる場所にはいない。でも、ここから離れられないという足枷にも似た気持ちをもった。だが、それは勝手に自分を不自由な場所に押し込んでいるだけであり、逃げたければ、逃げればいいのだ。すべてを投げ出し、大事なものを見極める面倒も忘れて。

 となりにはユミがいた。そう思いながらも、ぼくはひとりでいるのも嫌だった。女性たちがハンドバックを片時も自分のまわりから離さないようにしている映像が浮かぶ。小さな子が、ぬいぐるみを手放すタイミングを失ったみたいにともいえた。だが、人物に対して用いる言葉や感情でもない。いや、人物だからこそ、それはより緊密になりたいという願望を抱けるのだろうか。

 ユミの首元は寒そうだった。以前だったら隠れていた箇所が、短くなった髪のせいで露出されている。そこに、ホクロがあることが確認できた。本人は、その場所だと、振り返ることもできず、知らないはずだ。身近にいるひとだけが、その事実を知っている。ユミの価値がそのことだけで、上下することはない。だが、ぼくはそのことに値打ちという言葉を当てはめていた。

 その視線に気付いたのかユミが突然、振り返る。目で疑問を訴えるかのようだった。ぼくは、何も答えない。足元の小さな穴に、カニかヤドカリのようなものが潜んでいるようだった。そのふたつを同系列に置いた。隠されて、暴かれる必要もないものたち。

 近くに店の明かりが見えた。ぼくらは、歩きすぎていた。それに喉も渇きをおぼえていた。さらには、誰かの存在が放つ自然な温もりみたいなものも欲していた。ぼくらふたりでは、濃度が薄すぎるようだった。別の遠慮がちな視線のなかに自分たちの立場を設定したかった。

 店に入ると、ゴッホのカフェの絵が飾られていた。ひとが集まることを目的にした場所にいる孤独なひと。誰かとの会話を望みながら、それが叶うかどうかを見届ける場所。ここも、そのようなところだった。

 室内にはコーヒーのにおいが充満している。先ほどまで感じていた潮のにおいはすでに消えかけていた。その香りに魅了されたかのようにぼくらはふたつ注文する。

 それを待ち侘びるかのようにユミの手がテーブルに置かれて動いている。指先がきょうはきれいに塗られていた。いつもは直ぐに剥げてしまうとも言っていた。会話の蓄積ができ、ぼくはそれを誰を相手にしたのか覚えている自分の脳を不思議なものと感じていた。得体のしれないものとも思っていた。もしかしたら、会話の中味だけを貯め込む部分でもあれば、そこが仮りに連動していなくて、相手が不在のままであるとすると、ぼくは誰の言葉かもう思い出せない。ユミの指先を見て、そのいつもと違う色彩を認識し、以前の言葉を取り戻している。その今日と、以前に語られた日の内容を照らし合わせてもいたのだ。不思議といえば大変に不思議だった。

 彼女の髪は、このぐらいだったのだということも記憶されている。それと違ければ、不自然さを当然に感じる。その不自然が似合うという感覚につながったが、反対に以前の方が良かったという反作用もあるのだろう。

 コーヒーが来た。ぼくは、ユミが使う砂糖の量や、ミルクの落とす度合いも知っていた。何回かの経験を通じて採取した値が働きかけている。違う。そのデータの体積が積み重ねの重石によって圧縮され、漬物のように法則となる。法則、そうだ、法則をぼくはそこに見つけるのだ。けれども、信念をつかまえたと思っていたのだが、ぼくはユミを前にしていながらも、いつみさんがカウンターに立っている姿を思い出していた。常連客が来る。ぼくにも、目の端あたりで挨拶ぐらいはしてくれるようになった。いつみさんは、酒の注文も訊かずに、彼の前にグラスを差し出す。酒のアルコールの濃淡の趣味も知っている。氷の分量の好みも弁えていた。そこがチェーン店との差なのだろう。そこに愛想があり、料金の上増しがあった。ユミもお客さんの好みの蓄積があるはずだ。カルテみたいなものに残しているのかもしれない。反対にぼくらにも選択肢ができる。このひとの腕前や客扱いを信頼する。また通う。一定の法則が両者のあいだに横たわる。

 ぼくは、もちろんバイトなので、そこまで精密に要望など考えたこともない。単純な作業に従事している。父や母のことも考えていた。父の仕事は自分(会社)の主張を通すことにあり、それを受け入れるかどうかは売り上げに直接、響くのかもしれない。母は自分の子どもの好みを覚えてしまう。ぼくらは母に、いつもの料理の味付けを望んでしまうのだろう。そこに変化が起これば、まずいという意思表示のしかめっ面や侮辱を受ける。面倒な仕事だ。

 いろいろと考えていたが、ここのコーヒーはうまかった。前と比べてうまいということでもない。他の店との比較ということでもない。ただ、前例もないほどにうまかった。しかし、カウンター内で働いている男性のことを見ても、そこに職人技があるようにも思えなかった。普通の、いや普通より劣っているような印象で、やる気が発散されないまま終わっているようだった。もうひと口飲み、ユミはぼくの口元を凝視していた。

「ここの、コーヒー、信じられないほどにおいしくない?」と、その目は告げているようだった。実際にその言葉は発せられたのかもしれなかった。それで、ぼくはもう一度、カウンターを見る。先ほどの男性の顔や表情は新聞で覆われていて、透き通りもしないので窺うことはできなかった。そのサービス精神や愛想笑いが排除されたなかで、居心地の良さや満足感もぼくらは得られていた。