Untrue Love(76)
ユミの髪型が変わっていた。彼女はひとのヘアースタイルを変化させるのが仕事で、自分のをも変えるということに、ぼくは不思議と思い至らなかった。それまでも洋服は日々、いろいろなものを試していた。変化を嫌うという性格ではないことは、そのことからも知っていた。でも、結びつかないときは、どうやっても結びつかないものだ。
「似合ってるね。でも、それは誰が切るの?」
「新しく入った子」
「不安じゃない?」
「わたしのときは、どうだった?」ぼくは彼女に髪を切ってもらっている。ぼくに合う方法を既に彼女は入手し、かつ熟知していた。だから、最初のときのことは忘れかけていた。また、一回ぐらい失敗しても、いつか伸びるし、彼女の手を離れる方法だっていくらでもあったのだ。すると、馴れたものを探すのには、失敗をするという冒険も求められていることになるのだろう。最終的にぼくの髪の毛だけを介在させる間柄では終わらなかった。今日も彼女はぼくの部屋にいた。
ユミが新しいCDを貸してくれた。その音楽で部屋が充たされる。幸福とは、こうした甘酸っぱいメロウな曲がある場所のことを指すのだろうかと考えていた。ぼくらのことを真っ先に考え、自らの才能を押し付けるのを嫌う音楽たち。黙ったときに、そこにあったのだと思い出させてくれる自然なリズム。
ユミ自体は、実際はそうでもない。ある場面では押し付けがましく、個性もひとよりあった。それは外見からも分かった。だが、どこかでひとのために生きているという裏方のような役目も、自分に与えているようだった。自分はこうしたいと思っても、相手のある仕事をしていた。ぼくは自分の学生という身分を、少しだがじれったくも思った。だが、自分が忙しい会社員という身に置いたときに、相変わらず、こうした何事もない部屋のなかの居心地の良い状態を選ぶか、それとも、保つか、それは分からなかった。もっと、衝動的なひとを選ぶかも知れず、もっともっと気楽なことを前提にもってきているのかもしれない。誰も知らない。
音楽が終わると、次のものに変えた。トレイは音もなく開き、音もなく飲み込んでいった。ギターのリズムを刻む音に変わる。それはギターというよりハープを優雅に奏でているようでもあった。メッセージも主張もない。あるとしたら天上のものを求めたいという気持ちをあらわしているようだった。それは見つかりそうになり、また手放してしまったようにも思えた。ぼくらには苦痛というものが逃れられない、靴の中の微小な砂利のようなものであるのだとの認識を与えてくれた。ユミは自分の髪を点検するように鏡を見た。地上にいるからこそ、わずかな差異が自分の美醜を決定させることができる。ぼくは、ひげも剃っていないことを思い出していた。もう剃るタイミングも失っていた。洋服を着込み、部屋をあとにする。
土手を歩く。川には海のにおいの方が強かった。ユミのスカートの裾がそよいだ。それほど強風ではない。ただ、休日に相応しい日和だった。等しく、この太陽はぼくらに恩恵を受容させるように降り注いでいた。平等ということのみを厳格に守ることを望んでいるようでもあった。だが、どこかで、不平等に台風が起こっているのかもしれない。ぼく自身もそちらに傾いているのかもしれない。ユミには誠実さがあった。外見とはまったく違うところに、根っこの優しさや愛情の種があった。それはたくさんのものに覆われているので分かりづらい。だが、ぼくはそれに勘付くぐらい彼女と時間をともにしていた。だが、彼女はぼくの揺れることをやめない気持ちに気付かないようだった。ぼくは、こころのどこかで、いつみさんのことを考え、木下さんも求めていた。どこかという狭い範囲ではないのかもしれない。もっと大きな箱を用意し、そこに別のふたりとの思い出や愛情の痕跡を無節操に投げ込んでいた。ぼくはユミと歩きながらも、それを持ち歩いているようだった。引き摺るのにも重いトランクなのに。
ぼくらは土手の芝生のうえに座る。風はさらに海のにおいを運んだ。
「海まで、近いのかな・・・」ユミもそれに気付いたのか、そう言った。そこは眺望がさらにひらける場所であり、もしそこまで行けば、この関係の全体像もぼくは確認することが可能なのだろうかと思い巡らした。それを自分が望んでいるのかも分からず、さらにいえば、ユミはそうした迷いの根本を知らないままでいるのかもしれない。
「自転車でもあれば、たどり着く距離だと思うけど」ぼくは、標識を指差した。そこには距離を示す数字が書かれていた。ならば、どれぐらいで、ということが数式もなく理解できた。
「いっそ、船に乗るとか」
「船なんかないよ」ぼくは、観光船みたいなものをイメージしていた。
「あるよ、そこに」ユミの指の先には、漁師さんも何十年も前に廃棄したと思われる朽ちた木のものがあった。ぼくはふたりがそこに足を踏み入れた場面を思い出していた。間もなく、沈むことになるのだろう。ぼくは頭のなかで、ふたりでも耐えるのが無理な乗り物に、さらにいつみさんや木下さんを乗せようとした。全員が藻屑となる。ぼくはそれを望み、そのことを恐れた。だが、頭のなかのイメージは勝手に物語を延長した。ぼくだけが泳いで岸に着く。誰か分からない腕が一本だけ水中から伸びる。ぼくは後先のことなど考えずに、人間の持つ本能の発露として、その腕の手首あたりをつかんだ。浮き上がってくるのが誰かは分からない。だが、ぼくには選択権がないのだ。ただ、助けなければならない。彼女なのか。彼女のうちの誰なのか。それとも、自分自身なのか。まだ、潮のにおいが鼻腔にする。
ユミの髪型が変わっていた。彼女はひとのヘアースタイルを変化させるのが仕事で、自分のをも変えるということに、ぼくは不思議と思い至らなかった。それまでも洋服は日々、いろいろなものを試していた。変化を嫌うという性格ではないことは、そのことからも知っていた。でも、結びつかないときは、どうやっても結びつかないものだ。
「似合ってるね。でも、それは誰が切るの?」
「新しく入った子」
「不安じゃない?」
「わたしのときは、どうだった?」ぼくは彼女に髪を切ってもらっている。ぼくに合う方法を既に彼女は入手し、かつ熟知していた。だから、最初のときのことは忘れかけていた。また、一回ぐらい失敗しても、いつか伸びるし、彼女の手を離れる方法だっていくらでもあったのだ。すると、馴れたものを探すのには、失敗をするという冒険も求められていることになるのだろう。最終的にぼくの髪の毛だけを介在させる間柄では終わらなかった。今日も彼女はぼくの部屋にいた。
ユミが新しいCDを貸してくれた。その音楽で部屋が充たされる。幸福とは、こうした甘酸っぱいメロウな曲がある場所のことを指すのだろうかと考えていた。ぼくらのことを真っ先に考え、自らの才能を押し付けるのを嫌う音楽たち。黙ったときに、そこにあったのだと思い出させてくれる自然なリズム。
ユミ自体は、実際はそうでもない。ある場面では押し付けがましく、個性もひとよりあった。それは外見からも分かった。だが、どこかでひとのために生きているという裏方のような役目も、自分に与えているようだった。自分はこうしたいと思っても、相手のある仕事をしていた。ぼくは自分の学生という身分を、少しだがじれったくも思った。だが、自分が忙しい会社員という身に置いたときに、相変わらず、こうした何事もない部屋のなかの居心地の良い状態を選ぶか、それとも、保つか、それは分からなかった。もっと、衝動的なひとを選ぶかも知れず、もっともっと気楽なことを前提にもってきているのかもしれない。誰も知らない。
音楽が終わると、次のものに変えた。トレイは音もなく開き、音もなく飲み込んでいった。ギターのリズムを刻む音に変わる。それはギターというよりハープを優雅に奏でているようでもあった。メッセージも主張もない。あるとしたら天上のものを求めたいという気持ちをあらわしているようだった。それは見つかりそうになり、また手放してしまったようにも思えた。ぼくらには苦痛というものが逃れられない、靴の中の微小な砂利のようなものであるのだとの認識を与えてくれた。ユミは自分の髪を点検するように鏡を見た。地上にいるからこそ、わずかな差異が自分の美醜を決定させることができる。ぼくは、ひげも剃っていないことを思い出していた。もう剃るタイミングも失っていた。洋服を着込み、部屋をあとにする。
土手を歩く。川には海のにおいの方が強かった。ユミのスカートの裾がそよいだ。それほど強風ではない。ただ、休日に相応しい日和だった。等しく、この太陽はぼくらに恩恵を受容させるように降り注いでいた。平等ということのみを厳格に守ることを望んでいるようでもあった。だが、どこかで、不平等に台風が起こっているのかもしれない。ぼく自身もそちらに傾いているのかもしれない。ユミには誠実さがあった。外見とはまったく違うところに、根っこの優しさや愛情の種があった。それはたくさんのものに覆われているので分かりづらい。だが、ぼくはそれに勘付くぐらい彼女と時間をともにしていた。だが、彼女はぼくの揺れることをやめない気持ちに気付かないようだった。ぼくは、こころのどこかで、いつみさんのことを考え、木下さんも求めていた。どこかという狭い範囲ではないのかもしれない。もっと大きな箱を用意し、そこに別のふたりとの思い出や愛情の痕跡を無節操に投げ込んでいた。ぼくはユミと歩きながらも、それを持ち歩いているようだった。引き摺るのにも重いトランクなのに。
ぼくらは土手の芝生のうえに座る。風はさらに海のにおいを運んだ。
「海まで、近いのかな・・・」ユミもそれに気付いたのか、そう言った。そこは眺望がさらにひらける場所であり、もしそこまで行けば、この関係の全体像もぼくは確認することが可能なのだろうかと思い巡らした。それを自分が望んでいるのかも分からず、さらにいえば、ユミはそうした迷いの根本を知らないままでいるのかもしれない。
「自転車でもあれば、たどり着く距離だと思うけど」ぼくは、標識を指差した。そこには距離を示す数字が書かれていた。ならば、どれぐらいで、ということが数式もなく理解できた。
「いっそ、船に乗るとか」
「船なんかないよ」ぼくは、観光船みたいなものをイメージしていた。
「あるよ、そこに」ユミの指の先には、漁師さんも何十年も前に廃棄したと思われる朽ちた木のものがあった。ぼくはふたりがそこに足を踏み入れた場面を思い出していた。間もなく、沈むことになるのだろう。ぼくは頭のなかで、ふたりでも耐えるのが無理な乗り物に、さらにいつみさんや木下さんを乗せようとした。全員が藻屑となる。ぼくはそれを望み、そのことを恐れた。だが、頭のなかのイメージは勝手に物語を延長した。ぼくだけが泳いで岸に着く。誰か分からない腕が一本だけ水中から伸びる。ぼくは後先のことなど考えずに、人間の持つ本能の発露として、その腕の手首あたりをつかんだ。浮き上がってくるのが誰かは分からない。だが、ぼくには選択権がないのだ。ただ、助けなければならない。彼女なのか。彼女のうちの誰なのか。それとも、自分自身なのか。まだ、潮のにおいが鼻腔にする。