Untrue Love(84)
「ここで、キヨシの野球をしている姿を見てたんだ」
ぼくは、いつみさんとある土手にいる。川面は穏やかだった。彼女はいまでもその姿が見えるかのように、一心にその方面に視線を向けていた。でも、そこには走り回る犬が一匹いるだけだった。その背中には「開放感」という文字がゼッケンのように貼られているみたいに感じられた。
ぼくにも開放感があった。土手の空気は新鮮で、いつみさんの過去と同調し、チューニングがきちんと合ったラジオのように、ぼくは音声をきちんと受け取る。彼女の過去のある日、ここに座り、弟の活躍に声援を通して後押しする。そこには家族という媒体がしっかりと営まれている証拠があった。だが、彼らの父は早いうちにいなくなった。それだからこそ、残されたもの同士の連帯は強まったとも言えるのかもしれない。そのうちの母もいない。彼らはその母の遺産でもある店をふたりで切り盛りしていた。
「ここで、デートらしきものも、はじめてした」
ぼくらは座っていた。ぼくは姿勢を変え、彼女の横顔をみる。
「そうなんだ」ぼくが今度は、彼女のそのときの立体像を作り上げなければいけない。「何才ぐらいですか?」
「何だよ。急にくいついて。わたしにも、それぐらいの若き思い出があるんだよ」照れたようにわざと強い口調で言った。
「髪を三つ編みにした少女だったりしてね」
「でも、なんで、あんなにドキドキしたんだろうね」何才という数値も、当時の髪型の答えも得られなかった。だが、その情報はなくても、およそ範囲は狭められる話題なのだ。「心臓が動悸の早さで壊れるかと思った。初々しいね」
「なに、してたんですか?」
「なにもしないよ。ただ、歩いて、他人のうわさ話をしたりとか、テレビのアイドルのことを誉めたりけなしたりとか。彼の好きなアイドルはわたしに全然、似てなくて、ちょっとさびしいなとか」
「可愛いですね」
「そう? でもね、あのあどけない女の子はいったい、どこに消えたんだろうかね? 教えて欲しいよ」
「いまでも、いるんじゃないんですか。内部には」
「いないよ。ただのすれっからし。ドキドキもしないしね。いまはちょっとしてるか。そう言わないと悪いよな」
ぼくらは笑う。犬はまだまだ走り回っていた。それが仕事なのだろう。老眼鏡をかけて、新聞をすみずみまで読むことなど、彼らに権利として与えられていない。足が棒になるまで、走り回る。靴も傷まない。ぼくは、また木下さんの足元も思い出していた。
「それから、どうなったんですか?」
「別々の高校に行って、終わり。そうだ、一度、駅で会った。会ってないな、見かけた。だって、わたし、逃げたから」
「どうして、逃げることになったんですか?」
「バカだな。女の子といたからだよ、そいつが。そう言って思いだしたけど、横にいた女の子は、あのアイドルに似てたんだな。だから、わたしと正反対。どうして、ここで、わたしはあのひととデートしたんだろうね」彼女の顔に苦笑いのようなものが浮かんでいた。
「若いときなんて、好みなんかがはっきりと作り上げられていないもんですよ。いわば、自分の気持ちですら、お試し期間」ぼくも同じ頃に好きになった女性のことを何人か浮かべた。そこには、まとまりもなく、目的も聞かされていないで集められたバラバラのひとたちで埋まっていた。「お試し期間が過ぎて、自分の好みを自分自身が認識するようになるんだから」
「じゃあ、順平くんも、分類できたんだ、もう?」
ぼくに即答を促す気持ちが内部の衝動としてあったが、実際の返事は簡単にでてこなかった。ぼくは、まだ数人の女性の間で揺れていた。自分の仮説は完全にくつがえされ、嘘が露呈する。ぼくは、また目の前の芝生に目を向け、犬が咥えている何かの物体に答えを見出そうとしていた。
「いつみさんは?」
「女なんか、最終的には受身だよ。店と同じ。はじめて来てくれたひとが、常連客になり、そのなかから選ぶ。転勤とかで、どっかに移ったら、また終わり」
「好きって言わない?」
「言わなくても分かるよ。顔にも書いてある。余程、鈍感な人間でもなければ。それか、自分の表情を隠す訓練でもしてなければ」
ぼくは自然と自分の顔を触った。もちろん、そこに文字などない。剃り残したひげがあり、脂っぽさがあるだけだった。また、目を芝生に向ける。犬の身体には喜びというものが体現されていた。喜びと開放感。それがずっと続くことを願っている。しかし、その脳に明日という観念があるのかも分からない。明日、おいしいものを食べて、好きと言ってしまったことによる波及と責任感に充たされ、同時に苦しむ。やはり、その具体的な状況を予測する脳を持ち合わせているようには思えなかった。ただ、走る。ぼくも、この場が楽しいとも感じていたが、息苦しさもあった。逃げ出すということは、その対象を失うという実態につながった。失うべき階段をゆるやかに進むという方が近いのかもしれない。
「そうなんでしょうかね」と、ぼくは呟き、自分の発言の意図が分からないまま、緊張感の張り詰めをごまかした。
「書いてあるよ。顔に」いつみさんは、それだけをぼそっと言った。ぼくは返答をしなかった。「何が、どんなことが?」と、訊けばよかった。決然とするということはいまだに難しいことだと知った。
「駅で、逃げて、その後、どうしたんですか?」
「わたしには見せない笑い方をしてるなと思って、少し、悔しかった。でも、直ぐに忘れた。わたしにも好きなひとがいたからね。もう、彼じゃないことがはっきりとしたから」
犬はいなくなっていた。野球少年もいない。いまと同じ言葉を、いつみさんはぼくに対しても放つのだろうかと心配になった。それは、とても淋しい未来の状態だとも思っていた。
「ここで、キヨシの野球をしている姿を見てたんだ」
ぼくは、いつみさんとある土手にいる。川面は穏やかだった。彼女はいまでもその姿が見えるかのように、一心にその方面に視線を向けていた。でも、そこには走り回る犬が一匹いるだけだった。その背中には「開放感」という文字がゼッケンのように貼られているみたいに感じられた。
ぼくにも開放感があった。土手の空気は新鮮で、いつみさんの過去と同調し、チューニングがきちんと合ったラジオのように、ぼくは音声をきちんと受け取る。彼女の過去のある日、ここに座り、弟の活躍に声援を通して後押しする。そこには家族という媒体がしっかりと営まれている証拠があった。だが、彼らの父は早いうちにいなくなった。それだからこそ、残されたもの同士の連帯は強まったとも言えるのかもしれない。そのうちの母もいない。彼らはその母の遺産でもある店をふたりで切り盛りしていた。
「ここで、デートらしきものも、はじめてした」
ぼくらは座っていた。ぼくは姿勢を変え、彼女の横顔をみる。
「そうなんだ」ぼくが今度は、彼女のそのときの立体像を作り上げなければいけない。「何才ぐらいですか?」
「何だよ。急にくいついて。わたしにも、それぐらいの若き思い出があるんだよ」照れたようにわざと強い口調で言った。
「髪を三つ編みにした少女だったりしてね」
「でも、なんで、あんなにドキドキしたんだろうね」何才という数値も、当時の髪型の答えも得られなかった。だが、その情報はなくても、およそ範囲は狭められる話題なのだ。「心臓が動悸の早さで壊れるかと思った。初々しいね」
「なに、してたんですか?」
「なにもしないよ。ただ、歩いて、他人のうわさ話をしたりとか、テレビのアイドルのことを誉めたりけなしたりとか。彼の好きなアイドルはわたしに全然、似てなくて、ちょっとさびしいなとか」
「可愛いですね」
「そう? でもね、あのあどけない女の子はいったい、どこに消えたんだろうかね? 教えて欲しいよ」
「いまでも、いるんじゃないんですか。内部には」
「いないよ。ただのすれっからし。ドキドキもしないしね。いまはちょっとしてるか。そう言わないと悪いよな」
ぼくらは笑う。犬はまだまだ走り回っていた。それが仕事なのだろう。老眼鏡をかけて、新聞をすみずみまで読むことなど、彼らに権利として与えられていない。足が棒になるまで、走り回る。靴も傷まない。ぼくは、また木下さんの足元も思い出していた。
「それから、どうなったんですか?」
「別々の高校に行って、終わり。そうだ、一度、駅で会った。会ってないな、見かけた。だって、わたし、逃げたから」
「どうして、逃げることになったんですか?」
「バカだな。女の子といたからだよ、そいつが。そう言って思いだしたけど、横にいた女の子は、あのアイドルに似てたんだな。だから、わたしと正反対。どうして、ここで、わたしはあのひととデートしたんだろうね」彼女の顔に苦笑いのようなものが浮かんでいた。
「若いときなんて、好みなんかがはっきりと作り上げられていないもんですよ。いわば、自分の気持ちですら、お試し期間」ぼくも同じ頃に好きになった女性のことを何人か浮かべた。そこには、まとまりもなく、目的も聞かされていないで集められたバラバラのひとたちで埋まっていた。「お試し期間が過ぎて、自分の好みを自分自身が認識するようになるんだから」
「じゃあ、順平くんも、分類できたんだ、もう?」
ぼくに即答を促す気持ちが内部の衝動としてあったが、実際の返事は簡単にでてこなかった。ぼくは、まだ数人の女性の間で揺れていた。自分の仮説は完全にくつがえされ、嘘が露呈する。ぼくは、また目の前の芝生に目を向け、犬が咥えている何かの物体に答えを見出そうとしていた。
「いつみさんは?」
「女なんか、最終的には受身だよ。店と同じ。はじめて来てくれたひとが、常連客になり、そのなかから選ぶ。転勤とかで、どっかに移ったら、また終わり」
「好きって言わない?」
「言わなくても分かるよ。顔にも書いてある。余程、鈍感な人間でもなければ。それか、自分の表情を隠す訓練でもしてなければ」
ぼくは自然と自分の顔を触った。もちろん、そこに文字などない。剃り残したひげがあり、脂っぽさがあるだけだった。また、目を芝生に向ける。犬の身体には喜びというものが体現されていた。喜びと開放感。それがずっと続くことを願っている。しかし、その脳に明日という観念があるのかも分からない。明日、おいしいものを食べて、好きと言ってしまったことによる波及と責任感に充たされ、同時に苦しむ。やはり、その具体的な状況を予測する脳を持ち合わせているようには思えなかった。ただ、走る。ぼくも、この場が楽しいとも感じていたが、息苦しさもあった。逃げ出すということは、その対象を失うという実態につながった。失うべき階段をゆるやかに進むという方が近いのかもしれない。
「そうなんでしょうかね」と、ぼくは呟き、自分の発言の意図が分からないまま、緊張感の張り詰めをごまかした。
「書いてあるよ。顔に」いつみさんは、それだけをぼそっと言った。ぼくは返答をしなかった。「何が、どんなことが?」と、訊けばよかった。決然とするということはいまだに難しいことだと知った。
「駅で、逃げて、その後、どうしたんですか?」
「わたしには見せない笑い方をしてるなと思って、少し、悔しかった。でも、直ぐに忘れた。わたしにも好きなひとがいたからね。もう、彼じゃないことがはっきりとしたから」
犬はいなくなっていた。野球少年もいない。いまと同じ言葉を、いつみさんはぼくに対しても放つのだろうかと心配になった。それは、とても淋しい未来の状態だとも思っていた。