Untrue Love(83)
ユミの指を触って、持ち上げ、眺めていた。ぼくらは午前のもう早くもない時間だが寝転がっていた。彼女はまだ夢のなかにいるのか、こちらにいるのかも分からない状態だった。その指は、たくさんの髪の毛を洗った。その割りには肌はなめらかだった。「この前、小さな子に、なぜだかスペイン人と言われた」と、昨夜、ふとしたときにユミは言った。その子どもが、どこでスペイン人という概念をつかんだのか分からない。テレビでも見たのか、それとも、コロンブスでも学校で教えてもらったのだろうか。その特徴を、ユミの顔に当てはめたのだろう。その鼻梁は眠っていたとしても変わらない。ぼくは鼻先を触る。彼女の腕は虫でも振り払うように自然と動いた。
それから数分して目が開いた。「起きてたの?」と、少ししわがれた声で聞いた。彼女の目は動き壁にある時計を見た。「こんな時間なんだ」とも言った。ぼくは彼女がぼくの家のなかの配置を覚えてしまっていることに驚いていた。目を開けて、直ぐに記憶は活動しないはずだ。それでも、壁のどこに時計が置かれているか知っている。ぼくは、逆に彼女の指も鼻の形も知らない気がしていた。「スペイン人」と言った子どもの方がユミの全体像を理解しているようにも思えた。だが、それは外見の一部でもあり、内面や、それよりもっと濃密な部分もぼくは知っていた。しかし、昨日の彼女は、もう完全に入れ替わり、滅亡したのだ。彼女の新たな再スタートの一日がはじまるのだ。と、無意味にぼくは考えていた。
「シャワー、借りてもいい? そうだ、あの蛇口、直った?」とも重ねて訊いた。部屋の問題も知っている。
「ちょっと小物を買って来て、この前、直したから大丈夫だよ」
「器用だね」
不動産屋に電話をして直してもらっても良かったが、そこまで手筈をかけるのも面倒だった。それで、自分でちょっといじくった。そこから湯が流れる音がした。彼女の指は自分の髪を洗う。それは当然といえば当然の作業だ。眠っていた彼女はもういない。ぼくはベッドのなかでその残像を探ろうとした。八時間近くもぼくらはそれぞれの世界にいる。夢のなかにまで入ることはできない。身体は密着していてもそれは不可能だ。そして、さらにいつもは別々に時間を過ごしている。その合間にぼくはユミのことを考える。考えるときもある。別の女性が脳を覆うこともある。それも、量というか分量では多くある。しかし、ぼくは、実際の身体は湯を浴びているはずなのに、さっきまでいたその身体を思い出していた。指先。伸びていない爪。その形状。鼻。空気を吸うかすかな音。無防備でありすぎる人体。受容し、拒絶する柔らかな身体。ある日、それは生命の最初の状態のものを受け入れるのだ。それから一年未満で、新たな小さなコピーが生まれる。それでも、それは完全なるコピーではない。ユミの遠縁にあたる誰かに似ているかもしれず、ぼくのおじさんあたりの誰かとそっくりなのかもしれない。ぼくは田舎で会ったおじさんの様子を思い出していた。母はそのひととぼくの性格が似ていると言った。そのときに会った咲子の姿も相変わらず、ぼくのまぶたの裏にあった。あの子は大きくなることを拒絶しているようでもあった。だが、大人になるのも待ち切れないようでもあるかもしれなかった。結局、大学生になりぼくの前に再度あらわれた。早間はぼくがユミの鼻や指を確認したように、彼女の一部を知って愛しているのだろうかと考えた。だが、あの土手にいた咲子のことは誰も知らないのだ。当然、ぼくもユミや木下さんのむかしの日の姿を見ることはできない。写真でならできる。木下さんは雪のなかで暖かそうな赤い上着を着て、恥ずかしそうに写真にうつっていた。そのあどけなさをぼくは傍らで見て成長することも可能だったのだと思おうとした。だが、できない。場所も年齢自体もぼくらは限定された場所でしか成長できない。成長した姿はどうだろうと想像することもできない。その役目は親や近所のひとのみに与えられている。
「直ってた。お湯が気持ちよくぶつかった。肌に」
ユミは成長した姿をぼくの前にあらわす。もう、胸の平らな少女ではない。唇もさまざまな表情を見せる。色も気分によって塗りかえられる。しかし、いまは石鹸で洗われたままの顔だった。それも、ぼくは知っている。あの町で、美容院のチラシを配っていた彼女の顔ではない。信頼に足るひとにしか見せない顔だった。それは、いつか変わる。これも今日に限定された美だった。
「スペイン人」
「どうしたの?」
「その子は、どこでスペイン人というタイプを教えてもらったのかなって」
「アメリカ人ならコーラを持って、ハンバーガーを食べてるよね。そう言ったら、食べたくなった。化粧するから待ってて」
その途中経過をぼくは知っている。器用に指は彼女の顔の表面をなぞる。ぼくは時間を持て余し、あらゆる国のひとびとの特徴をコント化した。それは無節操な結果を招く。着物を着て、脇に刀を差した自分がいた。ユミにはカルメンみたいなドレスをイメージ上で着せた。そこには一途に愛情を求める男性が横にいるはずだった。いるべきだった。ぼくにはその一途さを敬遠し、遠ざけて置こうという策略までがあるようだった。だが、鏡を見ながら完成に近付くユミの顔を見ると、その信念もいささか揺らいだ。留まる決意もどこかにあるようだったのだが。
ユミの指を触って、持ち上げ、眺めていた。ぼくらは午前のもう早くもない時間だが寝転がっていた。彼女はまだ夢のなかにいるのか、こちらにいるのかも分からない状態だった。その指は、たくさんの髪の毛を洗った。その割りには肌はなめらかだった。「この前、小さな子に、なぜだかスペイン人と言われた」と、昨夜、ふとしたときにユミは言った。その子どもが、どこでスペイン人という概念をつかんだのか分からない。テレビでも見たのか、それとも、コロンブスでも学校で教えてもらったのだろうか。その特徴を、ユミの顔に当てはめたのだろう。その鼻梁は眠っていたとしても変わらない。ぼくは鼻先を触る。彼女の腕は虫でも振り払うように自然と動いた。
それから数分して目が開いた。「起きてたの?」と、少ししわがれた声で聞いた。彼女の目は動き壁にある時計を見た。「こんな時間なんだ」とも言った。ぼくは彼女がぼくの家のなかの配置を覚えてしまっていることに驚いていた。目を開けて、直ぐに記憶は活動しないはずだ。それでも、壁のどこに時計が置かれているか知っている。ぼくは、逆に彼女の指も鼻の形も知らない気がしていた。「スペイン人」と言った子どもの方がユミの全体像を理解しているようにも思えた。だが、それは外見の一部でもあり、内面や、それよりもっと濃密な部分もぼくは知っていた。しかし、昨日の彼女は、もう完全に入れ替わり、滅亡したのだ。彼女の新たな再スタートの一日がはじまるのだ。と、無意味にぼくは考えていた。
「シャワー、借りてもいい? そうだ、あの蛇口、直った?」とも重ねて訊いた。部屋の問題も知っている。
「ちょっと小物を買って来て、この前、直したから大丈夫だよ」
「器用だね」
不動産屋に電話をして直してもらっても良かったが、そこまで手筈をかけるのも面倒だった。それで、自分でちょっといじくった。そこから湯が流れる音がした。彼女の指は自分の髪を洗う。それは当然といえば当然の作業だ。眠っていた彼女はもういない。ぼくはベッドのなかでその残像を探ろうとした。八時間近くもぼくらはそれぞれの世界にいる。夢のなかにまで入ることはできない。身体は密着していてもそれは不可能だ。そして、さらにいつもは別々に時間を過ごしている。その合間にぼくはユミのことを考える。考えるときもある。別の女性が脳を覆うこともある。それも、量というか分量では多くある。しかし、ぼくは、実際の身体は湯を浴びているはずなのに、さっきまでいたその身体を思い出していた。指先。伸びていない爪。その形状。鼻。空気を吸うかすかな音。無防備でありすぎる人体。受容し、拒絶する柔らかな身体。ある日、それは生命の最初の状態のものを受け入れるのだ。それから一年未満で、新たな小さなコピーが生まれる。それでも、それは完全なるコピーではない。ユミの遠縁にあたる誰かに似ているかもしれず、ぼくのおじさんあたりの誰かとそっくりなのかもしれない。ぼくは田舎で会ったおじさんの様子を思い出していた。母はそのひととぼくの性格が似ていると言った。そのときに会った咲子の姿も相変わらず、ぼくのまぶたの裏にあった。あの子は大きくなることを拒絶しているようでもあった。だが、大人になるのも待ち切れないようでもあるかもしれなかった。結局、大学生になりぼくの前に再度あらわれた。早間はぼくがユミの鼻や指を確認したように、彼女の一部を知って愛しているのだろうかと考えた。だが、あの土手にいた咲子のことは誰も知らないのだ。当然、ぼくもユミや木下さんのむかしの日の姿を見ることはできない。写真でならできる。木下さんは雪のなかで暖かそうな赤い上着を着て、恥ずかしそうに写真にうつっていた。そのあどけなさをぼくは傍らで見て成長することも可能だったのだと思おうとした。だが、できない。場所も年齢自体もぼくらは限定された場所でしか成長できない。成長した姿はどうだろうと想像することもできない。その役目は親や近所のひとのみに与えられている。
「直ってた。お湯が気持ちよくぶつかった。肌に」
ユミは成長した姿をぼくの前にあらわす。もう、胸の平らな少女ではない。唇もさまざまな表情を見せる。色も気分によって塗りかえられる。しかし、いまは石鹸で洗われたままの顔だった。それも、ぼくは知っている。あの町で、美容院のチラシを配っていた彼女の顔ではない。信頼に足るひとにしか見せない顔だった。それは、いつか変わる。これも今日に限定された美だった。
「スペイン人」
「どうしたの?」
「その子は、どこでスペイン人というタイプを教えてもらったのかなって」
「アメリカ人ならコーラを持って、ハンバーガーを食べてるよね。そう言ったら、食べたくなった。化粧するから待ってて」
その途中経過をぼくは知っている。器用に指は彼女の顔の表面をなぞる。ぼくは時間を持て余し、あらゆる国のひとびとの特徴をコント化した。それは無節操な結果を招く。着物を着て、脇に刀を差した自分がいた。ユミにはカルメンみたいなドレスをイメージ上で着せた。そこには一途に愛情を求める男性が横にいるはずだった。いるべきだった。ぼくにはその一途さを敬遠し、遠ざけて置こうという策略までがあるようだった。だが、鏡を見ながら完成に近付くユミの顔を見ると、その信念もいささか揺らいだ。留まる決意もどこかにあるようだったのだが。