爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(34)

2013年04月06日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(34)

「例えば?」ぼくは水沼さんの過去を想像してみる。だが、その間もなく直ぐに返事がきた。
「例えば、親切にしてくれた、親身になってくれた先生とか、部活をいっしょに頑張った仲間だとか。川島さんは、そういうひとには、会いたくない?」
「あの先生には憎まれたな、とか、部活の先輩は厳しかったなとかは思うけど」

「意外と根に持つタイプなのね。こわい」と言って彼女は反対にケラケラと笑った。
「記憶を糧に作品をつくりあげる」と美的な理由を述べ、仮定を正当化させようと小声で言った。

 マーガレットはケンが自分に寄せた親切心のことを考えている。同時にエドワードの包容力のことも思い出していた。そして、世の中は素晴らしいところだという結論にいたった。そのどちらかを選ばなければならない厳しさも同時にあった。だから、世の中は完全な場所にはなりにくいとも判断していた。

「むかしの経験って、役に立つの?」水沼さんは、なぜだか挑みかかるような口調になっていた。
「ここにいるぼくも、同じく水沼さんも経験の集積じゃないんですかね。自分のしたこと、行ったことを忘れちゃうとか?」
「女なんか忘れてしまって後悔しない生き物なのよ」と哲学的な口調に、今度はなった。「でも、先輩や恩師には会いたいとも思っているのね。不思議ね」
「そうですね。あのふたりは、経験より希望や目標が重要になりますよね」

 たっくんは、すべり台の頂上で雄叫びをあげていた。
「恥ずかしさも後ろめたさもないみたい」自分が産み落としたものではないような客観的な意見だった。
「恥ずかしさって、段々と、減ります? 前は男の子の前でうじうじしてたなとか?」
「あら、失礼。いまでも恥ずかしさの固まりよ、これでも」と言い終わる間もなく、大口を開けて笑った。

 ぼくは自分の経験の数々が捨てられた墓場のようなものを想像していた。役に立たない経験の埋立地。そこを意地汚く漁り、自分の物語に使えそうなものを採集する。
「そういうわけでもないけど。結婚してからと、初恋のときの男性の前での行いって、やっぱり、違うでしょう? ガミガミ言うこともなく」
「奥さんはガミガミ言うの?」

「言わないですよ。まさか、うちのに限って・・・」
「ママは言うよ」いつの間にか、由美がとなりで息を弾ませる身体を殺しながら、聞き耳を立てていた。
「パパは、正直ということを知らないのよ、由美ちゃん」
「ほんと」と幼い少女は小さく呟いた。この子に、ぼくの遺伝子はドナウ川のように運ばれて流れたのだろうか。わたしには実感がなかった。預金の残高の数字のように実感に乏しいものだった。

 マーガレットは自分の気持ちに正直になろうと努めていた。朝、目覚めたときから、ひとりでベッドに入る夜の間まで。一瞬の偽りさえ許そうとはしなかった。だが、そうきちんと思い通りにもならない。絵筆に描かれる前で、このレナードというひとは正直ということをどう考えているのだろうかと思っていた。彼が対象にする自然も偽りが入り込む余地のないものだった。時には暴風を吹き荒らし、豪雨をも呼ぶ。それでも全体的に恩恵や安らぎを与えてくれるものだった。海は大荒れになっても、食材を提供する貯蔵庫でもあり、日差しを反射させ、海の鳥を育てる場所でもあった。ごまかしは効かない。すると、偽りとごまかしを持っているのは世界に自分ひとりだけのような気もした。その気持ちに耐え切れなくなり、レナードを送りがてら、いっしょに海岸沿いを散歩した。

「絵を描くことって、自分の気持ちに正直になることでしょうか?」

 彼は声が聞こえなかったように黙っていた。ただ、打ち寄せる波の音がいつもより大きくマーガレットの耳に届いた。
「自分の気持ちだけしか念頭にない時期もありました。偽って生活するには自分の人生って短すぎませんか?」彼の声はそこで反響した。「うちの生活は、そんなに裕福でもなかったので、その常として、親はひとの言い成りになる時間が多かった。子ども心にも彼らを可哀想に思っていました。けれど、相手を突っぱねてまで、自分に正直になる必要もないという心境にいまでは達しています。この海と同じように、自分を受け止めてくれるものをしっかりと守ることも大切なんじゃないですか」

 マーガレットにとって、それは今すぐ役立つ回答でもなかったが、こころの奥にずっしりと届く言葉であることには間違いなかった。自分の思いに捉われ過ぎていることも理解できた。その反面、相手のことを喜ばせることに専念するのも疲労が伴うものだとも感じていた。その相手の主なものは母親だった。彼女の考えにそのまま乗ることは、自分の気持ちと一致しない。いつか、早いうちに回答ができればいいのに、とマーガレットは無言のまま考えつづけていた。その時期の九月は間もなく足早にやって来るのだ。

「秋になる前に次の行き先を決めるの? もう、決まっているの?」
「いや、まだ。風の吹くままに生活するだけだから」

 わたしは、いつの日か、結婚生活の十数年を祝うためにどこか異国に旅するのだ、とマーガレットは想像した。そこである画家の個展に偶然に行き当たる。夫になったひととそこに足を踏み入れる。中はがらんとして少しかび臭い。そこに躍動的な絵が何枚も何枚も並べられている。絵の隅にレナードの署名がある。彼女はあの夏の日の悶々とした生活を思い出す。暗いなかで清潔なハンカチを取り出し、涙をぬぐう。わたしの数々の選択は正しかったのだ、という安堵による涙だったのだ。夫になったひとは心配をして振り返る。「どうしたの?」と優しく訊ねる。彼女は、「少し湿気とカビが目を痒くさせて」と言い訳を述べる。真実ではないものがあることをマーガレットは気付いていなかった。気付くのは表面にあらわれた夫の優しさであった。

「由美もいつも、正直かな? さっき、リビングの扉にその耳が見えたような気がしたけど・・・」そう言って、ぼくは幼き子の耳をつねった。
「痛い。幼児虐待」と、彼女は大声で絶叫した。どこか遠くでたっくんも同じ言葉を真似して叫んでいた。さらに遠くでパトカーか消防車のサイレンの音の幻聴がぼくには聞こえる。
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