夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(35)
ぼくは逮捕されることもなく、お米を研いでいた。由美はおとなしく机に向かって勉強をしている。ぼくは炊飯器のふたをしめ、いくつかの表示を確認した。この機械が直ぐ先にある未来に向かって自動で働いてくれる。自分の思考もこのように簡単にキーボードを介さないで働いてくれないだろうかと思案したが、まだ無理な注文なので、半分だけ扉を閉め静かな環境で我が十本の指を待ち受ける祭壇に向かった。
ひとと接することが自分の仕事ではなかった。だが、空想だけのために頭を使うこともためらわれた。物語の主人公たちは一時停止のままで動かないでいる。もう一度、どこかの脳にある再生ボタンを押して、彼らを動かさなければならない。
レナードは一日の仕事の量をきちんと消化していたため、自分の気持ちの何かが磨り減っている感じを覚えていた。どこかで静かにこころを落ち着かせる音楽でも聴きたいと思っていたが、この地にそれにふさわしい場所はなかった。反対に、またどこかで船乗りに混じって笑いあって大酒を飲みたいとも思っていた。それで、上着を引っ掛け、外に出た。いまでは、夏のむせ返るような暑さも夜になれば穏やかになり、秋の気配が皮膚にも分かる形で漂って来ていた。
酒場の扉を開ける。重い扉の向こうには喧騒とエネルギーが充満していた。静かな音楽を聴きたいと思っていたのは嘘のようであった。この見知らぬ言葉も入り混じったノイズも彼には音楽に聞こえた。このどれかひとつの言葉が溢れる土地に自分は秋になったら出向くのだと考えていた。そのときに親しくなったマーガレットや彼女の母と別れる辛さを味わうことになるのだろうが、それも仕方がないと判断していた。自分はまだ落ち着ける環境にいない。まだまだ修行の時期なのだと自分自身を叱咤した。そして、最初のアルコールを勢いよく口のなかに放り込んだ。腹の奥が悲鳴と満足感を同時に告げる。この場所に似合う絵を描く約束をしていた。その途中の絵も同時に進行しており、まだアトリエで完成間近を保ち、彼の手が加わるのを待っていた。
「ただいま」と、玄関で妻の声がした。由美とジョンが迎える声もする。ぼくは、ぼく自身の過程を中断して、また自分の文字が加わる状態でとどめて席を立った。
「お帰り。もつよ」ぼくは彼女の手から荷物を引き取った。「なんか、ビンがあるね」
「仕事がうまくいったから、ワインでお祝いでもしようと思って」
「家で?」
「そう、家で。ほかにどこがあるの?」
「ないけど、ご飯も炊いたからね」
「ゆっくり食べるから」
彼女は着替え、服装も普段着になった。顔もいくらか穏やかなものになる。ぼくの顔は社会でもまれない所為か緊張感の欠けたような表情をしている。会うのは、行動範囲にいる店員の児玉さんや、公園にいる水沼さんに限られていた。それは対社会とも呼べないように感じられた。ぼくも外界をもっと知るべきなのだろうか?
「部屋、片付いているね。そうだ、お客さんの相談どうだった?」妻は部屋のなかを見回し、二本の指でつまんだチーズをかじった。
「うん、対象との取り組み方だよ。取材というのかね」
「アマチュアなのに? 経費も請求できないのに?」
「それは会社員の考え方だよ。芸術家は内なる衝動との戦いであり、葛藤だからね」
「笑わせないでよ」
「笑わす意図なんかないよ」
「由美は聞いてたの?」
「うん、聞えた。ゴンドラのふたの話をしていた」
「やっぱり、聞いていたのか。大人同士の秘密なのに」
「小さな声じゃなかったから」彼女は恐れるように耳を撫でた。まだ、そこにくっ付いている。
「ねえ、なに、ゴンドラって?」妻は不審そうな表情を浮かべる。話したはずのぼくにも直ぐには分からなかった。初恋のひとに会いに行く。その無垢な期待やチャンスを許してしまうのか。そうか。
「違うよ。パンドラの箱を開けるんですね、と訊いたんだった」
妻は笑う。誰もが理解できる慣用句のひとつのようでもあった。
「由美、大人には大事なものがあって、そっとしておきたいものがたくさんあるのよ。しかし、好奇心にかられて一回そのふたを開けてしまえば、いろいろと怖いものがでてくる仕組みになっているの。それを、パンドラの箱っていうのね。あなた、もう一本、わたしのビンのパンドラのコルクを緩めてちょうだい」そう言って、新しい冷えたビンとグラスを妻はすわったまま要求した。
「間違った使い方みたいだけどね」と言い残してぼくは椅子を引いた。
「なんで、開けるの?」幼い子の当然の疑問。
「プレゼントの箱、ダメだって言われても、由美は前もって開けない?」
「開けちゃう」
ぼくはキッチンの奥でコルクにスクリュー状のものを突き刺した。それからひねったり回転させたりして新しいビンを開けた。芳醇な香りが鼻にとどいた。
「どうぞ」ぼくはテーブルまで戻り、立ったままの姿勢で妻の前でワインを注ぐ。
「あなた、困ったらそういう仕事もできるかもしれないのね。頬は丹念にきれいに剃りあげてほしいけど」
「そうかな」ぼくの前にはレナードもいた。彼の太い腕が新しいグラスをつかむ。頬や顔が夏の日差しで赤らみ、無精ひげさえも精悍なものとさせた。由美の片耳もまだ赤いような気がした。しかし、今夜は妻の頬がいちばん赤らむのが早いようだった。ゴンドラを漕ぐひとのようにぼくは自分と航行するものを見守り、揺れる船に身をあずけている彼女を船上から抱えて、ベッドまで運ぶ役目も仰せつかるのだろう。
ぼくは逮捕されることもなく、お米を研いでいた。由美はおとなしく机に向かって勉強をしている。ぼくは炊飯器のふたをしめ、いくつかの表示を確認した。この機械が直ぐ先にある未来に向かって自動で働いてくれる。自分の思考もこのように簡単にキーボードを介さないで働いてくれないだろうかと思案したが、まだ無理な注文なので、半分だけ扉を閉め静かな環境で我が十本の指を待ち受ける祭壇に向かった。
ひとと接することが自分の仕事ではなかった。だが、空想だけのために頭を使うこともためらわれた。物語の主人公たちは一時停止のままで動かないでいる。もう一度、どこかの脳にある再生ボタンを押して、彼らを動かさなければならない。
レナードは一日の仕事の量をきちんと消化していたため、自分の気持ちの何かが磨り減っている感じを覚えていた。どこかで静かにこころを落ち着かせる音楽でも聴きたいと思っていたが、この地にそれにふさわしい場所はなかった。反対に、またどこかで船乗りに混じって笑いあって大酒を飲みたいとも思っていた。それで、上着を引っ掛け、外に出た。いまでは、夏のむせ返るような暑さも夜になれば穏やかになり、秋の気配が皮膚にも分かる形で漂って来ていた。
酒場の扉を開ける。重い扉の向こうには喧騒とエネルギーが充満していた。静かな音楽を聴きたいと思っていたのは嘘のようであった。この見知らぬ言葉も入り混じったノイズも彼には音楽に聞こえた。このどれかひとつの言葉が溢れる土地に自分は秋になったら出向くのだと考えていた。そのときに親しくなったマーガレットや彼女の母と別れる辛さを味わうことになるのだろうが、それも仕方がないと判断していた。自分はまだ落ち着ける環境にいない。まだまだ修行の時期なのだと自分自身を叱咤した。そして、最初のアルコールを勢いよく口のなかに放り込んだ。腹の奥が悲鳴と満足感を同時に告げる。この場所に似合う絵を描く約束をしていた。その途中の絵も同時に進行しており、まだアトリエで完成間近を保ち、彼の手が加わるのを待っていた。
「ただいま」と、玄関で妻の声がした。由美とジョンが迎える声もする。ぼくは、ぼく自身の過程を中断して、また自分の文字が加わる状態でとどめて席を立った。
「お帰り。もつよ」ぼくは彼女の手から荷物を引き取った。「なんか、ビンがあるね」
「仕事がうまくいったから、ワインでお祝いでもしようと思って」
「家で?」
「そう、家で。ほかにどこがあるの?」
「ないけど、ご飯も炊いたからね」
「ゆっくり食べるから」
彼女は着替え、服装も普段着になった。顔もいくらか穏やかなものになる。ぼくの顔は社会でもまれない所為か緊張感の欠けたような表情をしている。会うのは、行動範囲にいる店員の児玉さんや、公園にいる水沼さんに限られていた。それは対社会とも呼べないように感じられた。ぼくも外界をもっと知るべきなのだろうか?
「部屋、片付いているね。そうだ、お客さんの相談どうだった?」妻は部屋のなかを見回し、二本の指でつまんだチーズをかじった。
「うん、対象との取り組み方だよ。取材というのかね」
「アマチュアなのに? 経費も請求できないのに?」
「それは会社員の考え方だよ。芸術家は内なる衝動との戦いであり、葛藤だからね」
「笑わせないでよ」
「笑わす意図なんかないよ」
「由美は聞いてたの?」
「うん、聞えた。ゴンドラのふたの話をしていた」
「やっぱり、聞いていたのか。大人同士の秘密なのに」
「小さな声じゃなかったから」彼女は恐れるように耳を撫でた。まだ、そこにくっ付いている。
「ねえ、なに、ゴンドラって?」妻は不審そうな表情を浮かべる。話したはずのぼくにも直ぐには分からなかった。初恋のひとに会いに行く。その無垢な期待やチャンスを許してしまうのか。そうか。
「違うよ。パンドラの箱を開けるんですね、と訊いたんだった」
妻は笑う。誰もが理解できる慣用句のひとつのようでもあった。
「由美、大人には大事なものがあって、そっとしておきたいものがたくさんあるのよ。しかし、好奇心にかられて一回そのふたを開けてしまえば、いろいろと怖いものがでてくる仕組みになっているの。それを、パンドラの箱っていうのね。あなた、もう一本、わたしのビンのパンドラのコルクを緩めてちょうだい」そう言って、新しい冷えたビンとグラスを妻はすわったまま要求した。
「間違った使い方みたいだけどね」と言い残してぼくは椅子を引いた。
「なんで、開けるの?」幼い子の当然の疑問。
「プレゼントの箱、ダメだって言われても、由美は前もって開けない?」
「開けちゃう」
ぼくはキッチンの奥でコルクにスクリュー状のものを突き刺した。それからひねったり回転させたりして新しいビンを開けた。芳醇な香りが鼻にとどいた。
「どうぞ」ぼくはテーブルまで戻り、立ったままの姿勢で妻の前でワインを注ぐ。
「あなた、困ったらそういう仕事もできるかもしれないのね。頬は丹念にきれいに剃りあげてほしいけど」
「そうかな」ぼくの前にはレナードもいた。彼の太い腕が新しいグラスをつかむ。頬や顔が夏の日差しで赤らみ、無精ひげさえも精悍なものとさせた。由美の片耳もまだ赤いような気がした。しかし、今夜は妻の頬がいちばん赤らむのが早いようだった。ゴンドラを漕ぐひとのようにぼくは自分と航行するものを見守り、揺れる船に身をあずけている彼女を船上から抱えて、ベッドまで運ぶ役目も仰せつかるのだろう。