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物語の連鎖
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(48)

2013年04月29日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(48)

 歩いている。信号で停まる。歩道橋を渡る。家の近くになった。ひとに会う。
「川島さん、こんにちは。こちら、うわさのお嬢さん?」

 そう言ったのは、加藤姉本好きであった。そういう趣味を有しているのが想像つかないほど、なんだか、少し派手な服装をしている。夜な夜な遊び回ることに執念と意気込みを感じているような容貌だった。
「加藤です」彼女は由美に手を差し出す。
「由美です。七才です」

 加藤姉は笑う。「本を買ったんですか? 今度はどんなのを?」ぼくが持っている袋には書店の名があり、その袋も角張っていれば証拠は明らかである。
「ぼくの分と、由美にはバラの栽培の本」
「あら、渋い」
「パパも同じことを言った。朝顔の次に花壇に咲かすものが必要だった」
「お庭があるのね?」

「庭というほどの大層なものじゃないよ」ぼくは言い訳がましいことを述べる。花を愛で、金魚を愛おしむ文豪。その金魚はとなりの家の久美子がくれ、それを夜店ですくったのは、この本好きの弟であるはずだった。
「だけど、お姉ちゃんは、どこのひとなの? パパのクラスのひと?」
「お姉ちゃんはただ本が好きなだけで、パパの本もたまたま読んだの。パパの才能、由美ちゃんは知っているの?」
「知ってるよ。パパだもん」
「意外と敵は内側にいて、味方は外にいるもんだけどね」

 レナードとマーガレットはまだ教会の前のベンチにすわっていた。こうしてふたりで居る時間も残りわずかになってきているのだが、それをふたりは有意義な会話で埋めようとも思っていないらしかった。反対にたくさんのことを語り合いたい欲求の裏返しとして、ふさわしいきっかけをつかめず、ずっと沈黙が支配しているのかもしれない。その沈黙も重苦しいものでは決してなかった。ただ緩やかに雲が流れていった。耳を澄ますと鳥が鳴いている音が通り過ぎていくように耳を撫でた。
「次に家に行ったら、もう一枚の絵も完成です」
「もう片方は?」
「すでに船便で画廊に送りました」
「じゃあ、どこかに飾られる?」

「運が良ければ」
「誰かが買うかもしれない」
「運が良ければ」

「運が悪ければ・・・」マーガレットはその絵が誰かの手に渡り、その所有者の居間か寝室で自分の分身が一生を過ごすかもしれないという事実を奇妙なことのように感じた。だが、それは誰もわたしだと思わないのかもしれない。画家が生んだただの女性像。人類を二分する片方の側に所属する一員としてしか意味のない存在。わたしという個性は必要ではないのだ。もしかしたら、誰の顔でも良かったのかもしれない。マーガレットは、いままで見てきた女性の肖像が誰であるかを確認することさえ怠った自分の好奇心を恥じた。いや、マリー・アントワネットぐらいはいただろう。だが、その顔は逆に名前がきちんとあっても、顔としては思い出せなかった。豪華な衣装と、反対に華奢な身体つきの持ち主としてしか。
「一生、自分のもとに置いておきたいようなものはないの?」
「あとで後悔するようになるかもしれないけど、自分の能力は見て評価されないことには始まらないから」

 レナードは自分で放った言葉を信じようとしていた。だが、舌のうえには苦味のような嘘っぽさも残っていた。
「川島さんの次の作品は?」
「いま、執筆中」
「途中でも読んだらダメ?」
「そうか、先ず誰かの評価を気にするということも考えていなかったな」ぼくは、唖然としていた。プレゼンされる自分の作品。
「どんな字なんですかね? コピーを取ってくれません?」
「字も、キーボードで打ち込んでるだけだし、コピーもなにもプリンターで印刷するだけだよ」
「味気ない。でも、気が向いたら読ませてください」

 活字中毒の女性はそう言うと去った。背中も布が覆う部分が少なく、彼女が自室で大人しく本を読んでいる姿を想像することを簡単に阻んだ。ぼくは別の部類の想像をすることを自分から抹消しようとしていた。
「あのお姉ちゃん、パパに期待している」
「そうだね」
「久美子ちゃんの初恋に顔が似てた」

「ほんと?」
「似てたよ。髪の長さと服装が違う。ママがテレビに出てる文句を言う若い女の子みたいな格好だったから」
「ママは、ママだよ」ぼくはどちらに立場を置くか決めかねている
「そして、パパはパパだよ。ママにも完成するまで本は読ませないと言ってたのに・・・」
「そうだったかな」
「自分の胸に訊いてみて」小さな妻。そして、遺伝子。

 マーガレットは完成された自分の肖像を想像していた。来年は顔や雰囲気も変わっているのかもしれない。いつか妻になり母になった自分のことも思い巡らしていた。その息子や娘の絵や写真をたくさん残そうと考えていた。つまりは思い出は記録の数なのだ。忘れることの多い自分のそそっかしい性分では、手元にのこる歴史が必要なのかもしれない。他の誰かにとっては価値がなくても、自分や家族にとってはそれは貴重なものなのだ。それを表現するレナードの能力や右手の技量も同じように貴重なものなのだろう。マーガレットは横にすわるレナードの手や腕を見た。昨夜の汚れなのか、絵の具のあとのようなものが点々と付着していた。
コメント
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