爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(44)

2013年04月20日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(44)

 由美は新しい服を着ていた。まだ、それがぴったりと合うには、もう少し涼しくなる必要があるようだった。しかし、我が子ながら連れて歩けば、どんな詐欺でも可能にしてくれるような愛らしさをもっていた。口を開かなければだけど。限定される愛らしさ。

「パパ、玄関に新しい靴があるよ」娘は目敏く見つけた。まあ、急に新しい靴が脱いであれば、分かりそうなものであるが。
「買い物に行ったの?」その母の弁。
「映画を見てね、ひとりで食事をして、靴を買って」ぼくには秘められた生活がない。
「独身みたいね」
「たまには悪くないよ」ぼくは妻の手にたくさんの袋があることを見つける。「由美の分だけでもなさそうだね」
「これでも、一人娘だからまだまだ甘えられるのよ」

 ぼくは妻のクローゼットの中身を想像する。見たことはないが満杯に近い状態になっているのだろう。外で仕事をするにはきれいな服が必要で、髪型にも気をつけ、化粧もそれなりに流行を追わなければいけない。「おばさんが迫る」という脅威に対抗するため。だが、客観的に見ると、母と子はどこかのデパートのチラシにもなりそうな容貌をいまでもしていた。ぼくだけが場違いな世界にいる。それで、妻がデパートの食品売り場で買ったらしい惣菜を皿に盛り付けている間、我が宮殿に入り、文字を埋めることにした。

 レナードの片腕には布にくるまれた絵がかかえられていた。約束をしていた絵が完成したのだ。酒場の壁面を飾る一枚。殺風景な場所にいくらか鮮やかさがもたらされるかもしれない。その絵は古びた漁船の操縦席からの眺めが描かれたもので、木製のささくれだった操舵輪が絵の下部を占めていた。酒場に居ても彼らの所属する海を象徴するもの。レナードはその絵に満足感をもっていた。

 店主により壁に乱暴に釘が打ち込まれ、絵が吊るされた。左右の高低の調節が行われ、店主はカウンター内に戻り、その絵を確認した。

「悪くないね。でも、ひとが混んできたら、ここからはお目にかかれない。いつも、いつも目に入るようだったら、この店の売り上げが少ない証拠だからな」
 レナードは薄く笑う。酔って画家の存在そのものを見下したお客は当然のこと、いまは船に乗っているはずだった。彼がこの絵を見て、自分の才能をどう評価するか知りたかった。だが、待ち合わせをする仲でもない。さらに、この地にいる己の時間も減ってきていた。

「仕事のことを忘れるために、ここに来るのに、可哀想な気もしましたが、いちばん、落ち着くところも船の中なのかもしれないと思って、これを題材にしました」
「別の絵を持って来てくれる風変わりなひとが来るまで、そこに飾っておきます。いや、となりもまだまだ空いているか。それで、謝礼は?」
「いらないですよ。ただ、画家というものが女性のヌードだけを描くものではないことだけを認識してもらえれば」
「そんな絵がここにあっても良いのかな。でも、もっと雰囲気が荒ぶれてきてしまうか。そうだ、どうぞ」

 背後の棚からグラスを取り、店主は酒を注いだ。レナードは小さく例を言い、のけぞるようにして飲んで、また空になったグラスに茶色い液体がなみなみと注がれた。

「これで、充分。昼の酒はそこそこに。これから、まだ仕事が残っているもので」
 そう言い終わるとレナードは店を出た。片手には薄汚れた布だけが残っていた。彼は丸めてズボンの尻のポケットに突っ込んだ。あの絵が風化し、ずっとそこにあったようになればいいと思っていた。誰も注視しない。素晴らしい絵だとも思わない。ただ、ここにあるのが誰しもが当然だと思える日が意識もないままに来るのだ。それまでは、新しいものがあることに抵抗があり、波風があり、ざわつく。ひとは馴染みの酒場に新鮮さなど求めていないのかもしれない。いつものカウンター内の顔に、いつもの酒。なじみの船乗りたち。漁師たち。来年も、再来年も。

「あなた、できたわよ。くれば?」
「おっ、豪華だね」
「手をかけた料理というわけにはいかないけど、たまには奮発するというのも良いものでしょう」
「ママ、奮発するってなに?」
「景気よく、お金を出し惜しみしないこと。たまにね」

「たまにとは思えないけど・・・」こう発言する娘のきびしい経済感覚はどこから来たのだろう?
「大人はそとの世界でちょっと疲れて、どっかで隠れてたまってしまっているストレスを発散しないと病気になっちゃうの」
「そして、翌日、二日酔いになったりするんだよ」
「そのパパは、じゃあ、うちにいるから病気にはならないんだ? たまらないんだ?」
「新しいものを作るということは大きなエネルギーがいるものなんだよ。これでも」
「パパは野良犬みたいに元気なのよ。いっしょに生活してても風邪も引かないし、病院にも行ったことがない。健康保険もいらないのよ、本当は。ジョンの方が治療代がかかっているのよ。予防注射もあるし」
「注射、きらい」

 いま、まさに現場に立たされたような様子で、由美は肩口をつかんだ。防御は最大の攻撃なり。

 壁にささった釘。そこに自分の絵が定位置を決めた。レナードは部屋に戻り、この夏に増えた絵の数々を梱包し懇意にしている画廊に船便で送る手続きをした。そこにマーガレットの肖像もある。二枚のうちの片方。彼女たちは途中の出来で一枚を既に選んでいた。あと数日でそれも仕上がる。そのために現実の人間を見る必要ももうないほどだった。ただ、自分はあの場所に通うことだけを求めているような気がしていた。愉快な談笑。その結果として満足の行く絵が整った。レナードは書類にサインし手放してしまった絵のぬくもりを忘れるようまた日差しのもとに出た。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(43)

2013年04月20日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(43)

 電車に乗って、町に出て、映画館に入った。子どもの視線を対象にしない大人の満足を得させるものを見るのは久し振りのような気がした。汗ばんだ身体も、空調の正しく効いた室内の座席にいることで不快感は解消され、これ以上の幸福などないという気持ちにさせた。さて、内容といえば・・・。

 主人公は後悔に包まれている。その無言の表情だけで、そのすべてを表している。幼い子どもを事故で失い、妻を置いて逃げるように別の場所で生活をしている。流れ者を好む女性がいて、いっしょに暮らすようになっていたが、ここも、この関係も永続するものではないということを互いが認識しているようだった。疑いもなく。かといって直ぐにきっぱりと関係を絶つわけでもなく、永遠性を帯びさせる何かしらの誓いも、ふたりは求めていなかった。世の中に投げ出されたふたり。そして、画面は元の妻の近況の場面になる。

 彼女は新しい生活に踏み出そうとしている。仕事の内容は同じだったが、別の会社に勤めはじめ環境を変えた。好意をもつ男性もいたが見向きもしなかった。いくつかの誘いを波風が立たないように断り、だが、次第に彼女の生活が陰でうわさにのぼるようになる。夫を表向きには忘れている素振りをしていたが、(実際にいない存在としか普段は思えない)仕事から帰り料理を作ると、いつも分量が多いことに気付き、半分以上を皿からゴミ箱に放り込み無駄にしていた。それは学習しないということではないようだった。あえて儀式のようにそのことを繰り返していた。スーパーでの買い物の場面になる。やはり、ひとりにしてはたくさんの食材をカートに入れてしまっていた。顧客に会った帰りにいつもの馴染みとは違う遠いスーパーでも同じことをした。レジを抜け、カートごと駐車場にもっていく女性。それから、車内で待つまだ離婚していない夫が別の車で片腕を窓から出して座っていることに気付く場面になった。

 彼らのそれぞれ停めた車は二、三台分ぐらいしか離れていない。声を掛け合わない訳にはいかないぐらいの距離だ。無視する理由もない。かといって話す内容も思い付かない。ふたりの間は段々と狭まってきた。

「仕事で? その服装似合っているよ」もう目と鼻の先にいる長年連れ添った女性に、男性は、相手も知っている昔の面影を残したままそう言った。
「ありがとう。この近くに?」
「そう」すると、ふたりの後ろに小さく見えるスーパーの出入り口から蓮っ葉な女性が同じようにカートを押してくる姿が写り込んだ。徐々に彼らに近寄ってくる。まだ新しい女性は気付いていない。車を停めた場所を忘れてしまったようにキョロキョロしている。しかし、話す内容の費えたふたりは離れた。新しい女性は男性が暇を見つけて口説いていると誤解してなじった。日焼けした片腕が弱々しい華奢なこぶしで叩かれる。元の女性の車が発車する。曲がる際に彼の車に女性が乗り込んだのが見えた。バック・ミラーにその姿が写っている画面に切り替わる。そこで、ブランコに乗る子どもの背中を押す過去の母親の映像になった。ぼくは号泣していた。なにかが壊れてしまったように涙も、また鼻からも液体が止まらなかった。

 洗面所で顔を洗い、痕跡を消そうとしたが目はまだ真っ赤だった。泣いた後には空腹がやって来た。ぼくは店に入り、注文をして待っている間にノートを出した。

 レナードは絵をプレゼントした子どもと遊ぶようになっていた。ブランコの背中を押し、絵を描く方法を教えた。古くなって処分に困っていた画材もあげた。彼の部屋の荷物は段々と整理されていった。服もトランクにしまわれるものも増えた。かといってたくさんのものを準備し、用意している訳でもない。新しい土地で必要なものはまた買い足せばいい。いらないものは処分に悩む時間さえ惜しんだ。過去の堆積が多くなり、そのことに愛着をもつこと自体、成長を妨げるものとして恐れた。しかし、いつかそういう呪縛に甘んじてしまいたいとも思っていた。その象徴がブランコに乗る小さな背中を軽やかに押すことであり、絵を教え大傑作にならなくても自分の影響が誰かに目に見える形で伝わることだった。稚拙であればあるほど、なお良かった。

 食事を終え、あまりにも古びた靴のことを思い出した。大人はサイズの変化も乏しく、着られなくなることなどない。また、ぼろぼろになるまで買い足すことを躊躇しなくてもよい。それがおしゃれという資本主義の洗礼であり、経済の成り立ちであった。誰かは、ぼくの本か、洋服のどっちを買うかを選ぶことで迷っているのだろうか。そう考えると、近い未来には敗北しか待っていないような気がした。直ぐに見栄えとして反映されるもの。と、頭の片隅に少しだけ残り、満足や笑顔や悲しみの想起に、ささやかながら役立つもの。どちらが、より素敵なものなのだろうか。

 それで、ぼくはまっさらな靴を履いている。店員さんは笑顔で屈み、購買意欲を誘う。かかとに彼女のきれいな指が挟まれる。ぼくは、自分の体内と縁を切った古い靴を憎悪するように眺めた。あれが、ぼく自身なのだ。

 マーガレットは秋に着る服を試着していた。この地の陽気に映えるような色合いだった。暫くすればグレーの空に包まれる自分のいつもの居場所に似合うかどうかなどは念頭に置かず、ただこの日の気分を優先させた。そして、うれしいこの気分だけで今後の人生を乗り切りたいと漠然と思っていた。彼女は新しい服が入った袋を持って店の外に出た。まだ、夏が終わるということが信じられないほどの強い外気だった。まぶしげに彼女は顔をしかめ、この服を着た自分を誰に見てもらいたいのかだけを考えていた。
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