夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(44)
由美は新しい服を着ていた。まだ、それがぴったりと合うには、もう少し涼しくなる必要があるようだった。しかし、我が子ながら連れて歩けば、どんな詐欺でも可能にしてくれるような愛らしさをもっていた。口を開かなければだけど。限定される愛らしさ。
「パパ、玄関に新しい靴があるよ」娘は目敏く見つけた。まあ、急に新しい靴が脱いであれば、分かりそうなものであるが。
「買い物に行ったの?」その母の弁。
「映画を見てね、ひとりで食事をして、靴を買って」ぼくには秘められた生活がない。
「独身みたいね」
「たまには悪くないよ」ぼくは妻の手にたくさんの袋があることを見つける。「由美の分だけでもなさそうだね」
「これでも、一人娘だからまだまだ甘えられるのよ」
ぼくは妻のクローゼットの中身を想像する。見たことはないが満杯に近い状態になっているのだろう。外で仕事をするにはきれいな服が必要で、髪型にも気をつけ、化粧もそれなりに流行を追わなければいけない。「おばさんが迫る」という脅威に対抗するため。だが、客観的に見ると、母と子はどこかのデパートのチラシにもなりそうな容貌をいまでもしていた。ぼくだけが場違いな世界にいる。それで、妻がデパートの食品売り場で買ったらしい惣菜を皿に盛り付けている間、我が宮殿に入り、文字を埋めることにした。
レナードの片腕には布にくるまれた絵がかかえられていた。約束をしていた絵が完成したのだ。酒場の壁面を飾る一枚。殺風景な場所にいくらか鮮やかさがもたらされるかもしれない。その絵は古びた漁船の操縦席からの眺めが描かれたもので、木製のささくれだった操舵輪が絵の下部を占めていた。酒場に居ても彼らの所属する海を象徴するもの。レナードはその絵に満足感をもっていた。
店主により壁に乱暴に釘が打ち込まれ、絵が吊るされた。左右の高低の調節が行われ、店主はカウンター内に戻り、その絵を確認した。
「悪くないね。でも、ひとが混んできたら、ここからはお目にかかれない。いつも、いつも目に入るようだったら、この店の売り上げが少ない証拠だからな」
レナードは薄く笑う。酔って画家の存在そのものを見下したお客は当然のこと、いまは船に乗っているはずだった。彼がこの絵を見て、自分の才能をどう評価するか知りたかった。だが、待ち合わせをする仲でもない。さらに、この地にいる己の時間も減ってきていた。
「仕事のことを忘れるために、ここに来るのに、可哀想な気もしましたが、いちばん、落ち着くところも船の中なのかもしれないと思って、これを題材にしました」
「別の絵を持って来てくれる風変わりなひとが来るまで、そこに飾っておきます。いや、となりもまだまだ空いているか。それで、謝礼は?」
「いらないですよ。ただ、画家というものが女性のヌードだけを描くものではないことだけを認識してもらえれば」
「そんな絵がここにあっても良いのかな。でも、もっと雰囲気が荒ぶれてきてしまうか。そうだ、どうぞ」
背後の棚からグラスを取り、店主は酒を注いだ。レナードは小さく例を言い、のけぞるようにして飲んで、また空になったグラスに茶色い液体がなみなみと注がれた。
「これで、充分。昼の酒はそこそこに。これから、まだ仕事が残っているもので」
そう言い終わるとレナードは店を出た。片手には薄汚れた布だけが残っていた。彼は丸めてズボンの尻のポケットに突っ込んだ。あの絵が風化し、ずっとそこにあったようになればいいと思っていた。誰も注視しない。素晴らしい絵だとも思わない。ただ、ここにあるのが誰しもが当然だと思える日が意識もないままに来るのだ。それまでは、新しいものがあることに抵抗があり、波風があり、ざわつく。ひとは馴染みの酒場に新鮮さなど求めていないのかもしれない。いつものカウンター内の顔に、いつもの酒。なじみの船乗りたち。漁師たち。来年も、再来年も。
「あなた、できたわよ。くれば?」
「おっ、豪華だね」
「手をかけた料理というわけにはいかないけど、たまには奮発するというのも良いものでしょう」
「ママ、奮発するってなに?」
「景気よく、お金を出し惜しみしないこと。たまにね」
「たまにとは思えないけど・・・」こう発言する娘のきびしい経済感覚はどこから来たのだろう?
「大人はそとの世界でちょっと疲れて、どっかで隠れてたまってしまっているストレスを発散しないと病気になっちゃうの」
「そして、翌日、二日酔いになったりするんだよ」
「そのパパは、じゃあ、うちにいるから病気にはならないんだ? たまらないんだ?」
「新しいものを作るということは大きなエネルギーがいるものなんだよ。これでも」
「パパは野良犬みたいに元気なのよ。いっしょに生活してても風邪も引かないし、病院にも行ったことがない。健康保険もいらないのよ、本当は。ジョンの方が治療代がかかっているのよ。予防注射もあるし」
「注射、きらい」
いま、まさに現場に立たされたような様子で、由美は肩口をつかんだ。防御は最大の攻撃なり。
壁にささった釘。そこに自分の絵が定位置を決めた。レナードは部屋に戻り、この夏に増えた絵の数々を梱包し懇意にしている画廊に船便で送る手続きをした。そこにマーガレットの肖像もある。二枚のうちの片方。彼女たちは途中の出来で一枚を既に選んでいた。あと数日でそれも仕上がる。そのために現実の人間を見る必要ももうないほどだった。ただ、自分はあの場所に通うことだけを求めているような気がしていた。愉快な談笑。その結果として満足の行く絵が整った。レナードは書類にサインし手放してしまった絵のぬくもりを忘れるようまた日差しのもとに出た。
由美は新しい服を着ていた。まだ、それがぴったりと合うには、もう少し涼しくなる必要があるようだった。しかし、我が子ながら連れて歩けば、どんな詐欺でも可能にしてくれるような愛らしさをもっていた。口を開かなければだけど。限定される愛らしさ。
「パパ、玄関に新しい靴があるよ」娘は目敏く見つけた。まあ、急に新しい靴が脱いであれば、分かりそうなものであるが。
「買い物に行ったの?」その母の弁。
「映画を見てね、ひとりで食事をして、靴を買って」ぼくには秘められた生活がない。
「独身みたいね」
「たまには悪くないよ」ぼくは妻の手にたくさんの袋があることを見つける。「由美の分だけでもなさそうだね」
「これでも、一人娘だからまだまだ甘えられるのよ」
ぼくは妻のクローゼットの中身を想像する。見たことはないが満杯に近い状態になっているのだろう。外で仕事をするにはきれいな服が必要で、髪型にも気をつけ、化粧もそれなりに流行を追わなければいけない。「おばさんが迫る」という脅威に対抗するため。だが、客観的に見ると、母と子はどこかのデパートのチラシにもなりそうな容貌をいまでもしていた。ぼくだけが場違いな世界にいる。それで、妻がデパートの食品売り場で買ったらしい惣菜を皿に盛り付けている間、我が宮殿に入り、文字を埋めることにした。
レナードの片腕には布にくるまれた絵がかかえられていた。約束をしていた絵が完成したのだ。酒場の壁面を飾る一枚。殺風景な場所にいくらか鮮やかさがもたらされるかもしれない。その絵は古びた漁船の操縦席からの眺めが描かれたもので、木製のささくれだった操舵輪が絵の下部を占めていた。酒場に居ても彼らの所属する海を象徴するもの。レナードはその絵に満足感をもっていた。
店主により壁に乱暴に釘が打ち込まれ、絵が吊るされた。左右の高低の調節が行われ、店主はカウンター内に戻り、その絵を確認した。
「悪くないね。でも、ひとが混んできたら、ここからはお目にかかれない。いつも、いつも目に入るようだったら、この店の売り上げが少ない証拠だからな」
レナードは薄く笑う。酔って画家の存在そのものを見下したお客は当然のこと、いまは船に乗っているはずだった。彼がこの絵を見て、自分の才能をどう評価するか知りたかった。だが、待ち合わせをする仲でもない。さらに、この地にいる己の時間も減ってきていた。
「仕事のことを忘れるために、ここに来るのに、可哀想な気もしましたが、いちばん、落ち着くところも船の中なのかもしれないと思って、これを題材にしました」
「別の絵を持って来てくれる風変わりなひとが来るまで、そこに飾っておきます。いや、となりもまだまだ空いているか。それで、謝礼は?」
「いらないですよ。ただ、画家というものが女性のヌードだけを描くものではないことだけを認識してもらえれば」
「そんな絵がここにあっても良いのかな。でも、もっと雰囲気が荒ぶれてきてしまうか。そうだ、どうぞ」
背後の棚からグラスを取り、店主は酒を注いだ。レナードは小さく例を言い、のけぞるようにして飲んで、また空になったグラスに茶色い液体がなみなみと注がれた。
「これで、充分。昼の酒はそこそこに。これから、まだ仕事が残っているもので」
そう言い終わるとレナードは店を出た。片手には薄汚れた布だけが残っていた。彼は丸めてズボンの尻のポケットに突っ込んだ。あの絵が風化し、ずっとそこにあったようになればいいと思っていた。誰も注視しない。素晴らしい絵だとも思わない。ただ、ここにあるのが誰しもが当然だと思える日が意識もないままに来るのだ。それまでは、新しいものがあることに抵抗があり、波風があり、ざわつく。ひとは馴染みの酒場に新鮮さなど求めていないのかもしれない。いつものカウンター内の顔に、いつもの酒。なじみの船乗りたち。漁師たち。来年も、再来年も。
「あなた、できたわよ。くれば?」
「おっ、豪華だね」
「手をかけた料理というわけにはいかないけど、たまには奮発するというのも良いものでしょう」
「ママ、奮発するってなに?」
「景気よく、お金を出し惜しみしないこと。たまにね」
「たまにとは思えないけど・・・」こう発言する娘のきびしい経済感覚はどこから来たのだろう?
「大人はそとの世界でちょっと疲れて、どっかで隠れてたまってしまっているストレスを発散しないと病気になっちゃうの」
「そして、翌日、二日酔いになったりするんだよ」
「そのパパは、じゃあ、うちにいるから病気にはならないんだ? たまらないんだ?」
「新しいものを作るということは大きなエネルギーがいるものなんだよ。これでも」
「パパは野良犬みたいに元気なのよ。いっしょに生活してても風邪も引かないし、病院にも行ったことがない。健康保険もいらないのよ、本当は。ジョンの方が治療代がかかっているのよ。予防注射もあるし」
「注射、きらい」
いま、まさに現場に立たされたような様子で、由美は肩口をつかんだ。防御は最大の攻撃なり。
壁にささった釘。そこに自分の絵が定位置を決めた。レナードは部屋に戻り、この夏に増えた絵の数々を梱包し懇意にしている画廊に船便で送る手続きをした。そこにマーガレットの肖像もある。二枚のうちの片方。彼女たちは途中の出来で一枚を既に選んでいた。あと数日でそれも仕上がる。そのために現実の人間を見る必要ももうないほどだった。ただ、自分はあの場所に通うことだけを求めているような気がしていた。愉快な談笑。その結果として満足の行く絵が整った。レナードは書類にサインし手放してしまった絵のぬくもりを忘れるようまた日差しのもとに出た。