爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(45)

2013年04月21日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(45)

 妻はもう仕事へ出掛けた。一通り片付けも済ませ、由美は食卓を勉強机にして、宿題の追い込みをしている。ぼくは部屋に戻り、指を動かそうとしている。だが、すらすらとよどみなくは動かなかった。すると、外をバイクが停まり、一時的にエンジンの音が聞こえ、また走り去った様子だった。朝の九時ごろ。配達員の一日。

 由美は玄関のドアを開け、ポストの中味を点検したようだった。またドアがしまり、独特の足音をさせこちらにやって来た。

「パパ、お手紙が入っていたよ」
「便りがないのは、良い便りとむかしから申しまして・・・」落語家みたいな声音をつかい、ぼくは手紙を受け取った。見覚えのある筆跡もあり、印字された住所と名前のものもあった。見覚えのあるものは、児玉さんの字体だった。彼女に何か頼んでいただろうか? 由美は、そのまま後ろの椅子にすわっていた。
「開けてみないの?」
「開けるよ。きれいな文字で感心させられるように、由美もなるといいね。それだけで、賢く思われる。得だよ」
「見た目で判断したらダメだって、ママが言うよ」
「そういうママだって、きれいな洋服が好きだろう?」
「そうね」

 珍しくおとなしく意見を受け入れた。ぼくは封を開けた。長文の手紙が出てくる。ぼくは読まない訳にはいかない。物語のつづきを。そうか、彼女は初恋のひとに会うとこの前に宣言していたのだ。そのことをすっかり忘れていた。どうも、その報告らしい。クラスの前で発表するには生々しい題材だ。

「先日、決めていたことを実行することにしました。わたしには夫はいません。他界するまで彼のことを愛しておりました。別の男性のことなど考えてもみませんでした。だが、いまになると自分を鏡のように映していた夫がいなくなると、わたし自身の存在がぼんやりとしたものになっていきます。解決策もなく、仕方なしに自分のことを覚えていてくれそうなひとを探そうとしました。過去のわたしのある一日を正確に覚えてくれるひとが、わたしには単純に必要なのかもしれません」
「そうだろうね」ぼくは独り言をいい、コーヒーを飲んだ。

「わたしは電車に乗り、自分が育った土地にまた出向きました。ビルは乱立し景観を変えてしまっていますが、そうした新しいパッケージを剥いでみると直ぐに慣れ親しんだ景色が思い出されてきます。そこに立つわたしも、まだ十代の半ばです。今度こそは思い切って玄関のベルを鳴らすことを躊躇しませんでした。出て来た男性は直ぐに彼だと分かりました。相手は、わたしをどこの誰だか覚えていないようです。なにかの勧誘に来たおばさんのように、うっとうしいような少し失礼な態度を取りました。いままで読んでいたらしい新聞紙を無造作に握ったままの姿でしわの寄ったズボン。少し傷んだ靴下。目に映るものはロマンスを介在させないものたちで溢れていました」

「幻滅の瞬間」また、コーヒーを口にふくむ。

「わたしは名乗ろうかどうか考えました。でも、ものの数秒です。機転を利かしたのか、ただ恐れていたのか、わたしはなくなってしまっているそばの友人の家の方角を指差し、あの家の住人はどこかに引っ越してしまったのか訊ねることにしました」
「ほう。現実はつまらないものだね」
「彼はていねいに答えてくれました。段々とこの目の前にいるわたしのことを思い出している様子が垣間見られます。その友人の知り合いということは、あの子と同一人物ということもありえるという感じでした。その行き先を告げた後、もしかして、○○さん? と訊いてくれました」

「ばれちゃったのか」
「わたしは、そうだと答えました。彼はすこし嬉しそうな表情を浮かべ、お互いの近況を伝え合いました。同窓会が何度か行われ、わたしの家には何らかの理由で届かずに漏れているということも判明しました。彼は幹事のような役目を果たしていたので、もともと昔からリーダー気質なのでしたが、わたしの連絡先と住所をメモするため、奥に紙とペンを取りに行きました。わたしはそれらを受け取り、自筆で書き込みました。彼はわたしの旧姓でいままで呼んでいましたが、急に児玉さんかと自分を納得させるようにぼそっと言いました。これで無縁でもないし、逆に完全なる再会の喜びというものもない中間の位置に立ったことになります」

「まあ、スタートはね。それぐらいでしょう。物語はつづいて行くと。彼女にも書く題材に困ることはなしか」

「川島先生も突然の来客に備えて、いつも身だしなみには注意をはらい、家にいてもひげを剃り、頭にはクシをきちんと通し、万全の体制でいてください。そういうひとつひとつの配慮が文章にもあらわれてくると思いますよ」
「最後は警句で終えると。やっぱり、むかしのひとだよ」

「良い手紙? それとも、悪い手紙?」由美がいたことも忘れていた。文字の虜になりやすい自分だった。
「やぎなら、食べてしまうような内容だよ」
「きれいな字なの?」
「そうだろうね」ぼくは児玉さんの娘の文字を想像する。彼女はレストランで小さな機械に頼んだ品を打ち込んでいる。昔ながらにレシートに書き込んでほしいと思った。その筆跡でぼくは彼女への評価を左右させる。「さてと、パパは仕事をする。由美の冬の服のために。由美は宿題をして」
「はーい」愛想が良い娘の理由はどこにあるのだろう? やはり、女性たちは服への誘惑にいちばん弱いのだろうか。ぼくの物語はすすみそうになかった。画面には空白が、荒漠とした砂漠のような状態そのままになっていた。