夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(39)
ぼくらは店を出て、帰り道が同じということで初めて佐久間さんとふたりで歩いていた。
「川島さんは慕われていますね。児玉さんにも狭山君にも、川崎さんにも」彼の顔には憧れという表情が浮かんでいた。「うらやましいな。ぼくは会社時代に誰からも慕われなかったし、誰からもからかわれなかった。喧嘩の相手にすらなれない」
「狭山君にも慕われてますかね、客観的に見て」ぼくは腑に落ちない。
「好きじゃなかったら、あんなに生意気な態度も取れないもんですよ、なかなか。喧嘩するほど、仲がいいとも言いますからね」
「そういう相手がいなかった、佐久間さんには?」
「いないですね。透明人間のように誰の視線も勝ち得ない」
「ここに来て、じゃあ、良かったと?」
「それは、もう」
エドワードは休日の町の中をひとりで歩いている。マーガレットの家に招かれることもない自分は、どうやって暇をつぶすのか手段も計画もなく、途方にくれていた。彼は孤独を感じている。部屋に戻ろうかと思った矢先、見知った顔を見つけた。学生時代の恩師だ。彼はなつかしさがこみ上げ、自然と手を振ってしまった。いつもの何事も行動に移す前に思案をする彼にとってはとても珍しいことだった。だが、その相手は怪訝そうな顔をしていた。自分の後ろに誰か知り合いでもいて、この未知の男性はそのひとに手を振っているのだろうと思い、振り返ってみるも、背中には誰もいなかった。
「お久し振りです」エドワードは成り行き上、立ち止まってそう言った。相手の名前を告げたので人違いであるはずもなかった。相手はその不意打ちらしい親しげな様子にたじろぎながらも話の接点を見つけようと焦っていた。自分の職業柄、教え子であるということに見当をつけたが、引越しも多かったので近所づきあいをしたひとの方向でも、空想のその場面に彼を置いて探した。しかし、自分の研究のことを持ち出したので、教え子であることが直ぐに知れた。
エドワードは不快であった。いや、不快という言葉は妥当でもなく、ぴったりとは当てはまらない。自分の存在の薄っぺらさが直接的に理解できた。早くこの状態を打破したかった。それには家庭という安住の立脚地を探すことを再び考え出して、そこに住まわる自分を思い描いた。それは、だが未来だ。その後の現在の家までの道中、彼は知り合いにも挨拶されないように伏し目がちで歩いた。
「川島さんは人気者のグループに属してましたか?」
「さあ、考えてみたこともない。普通にスポーツして、学校帰りに友人たちと無駄話をして」
「恋人ができて、結婚して、娘が産まれて」
「二日酔いに妻はなって、娘はおかしな言葉ばかり覚えて使ってるよ」
「それが、でも、人生ですよね。そういうタイプの小説があってもいいんじゃないですか」
「ドラマティックじゃないですね」
「ドラマなんか必要じゃないんじゃないですか」佐久間さんは思いつめたひとのように前を一心に見ていた。ぼくは彼を家にでも招待することを考えた。だが、その前に説明と了承がいる。独身ではないということは、こういうことなのか。
「お仕事のほうは?」
「探しています。これでも、そこそこ貯金があるんですよ。川島さんは独立する際に、資金はたまっていたんですか?」
「独立というほどのものでもなし、資金をつくって殖やすという類いのものでもないですしね。ただ、食い潰すだけ。いつか、芽が出るという可能性を無駄と知りながらも信じ、種を方々に投げるだけ」ぼくはその仕草をした。その頃には分かれ道に来ていた。彼は左に、ぼくは右に。ぼくは人気者であったのかもしれないという過去を想像し、華々しくゴールのテープを切る映像を思い浮かべた。そのような機会は実際にはない。最後の一文字をびしっと決めたぼく。しかし、やはり、昼寝かなと考えていた。
エドワードは下宿の横の空き地でサッカーが行われていたので、外での孤独と部屋でひとりでこもる自分を比べ、ベンチに座り屋外でそれを眺めることにした。空き地の中で、ゴールが決まれば片側は抱き合って歓喜し、もう一方は捨て台詞を吐いたり、また悔しがって地面を蹴ったりしていた。キーパーをなぐさめる優しい子もいた。その過程が成長にとって、また、人間らしさにとってもいかに貴重な体験かと羨望の目をさらに向けた。彼らは家に帰っても友人や自分の活躍を両親や兄弟に報告したりするのだろう。そこには憎しみも、いままさにエドワードが感じていた無関心さへの恐怖もなかった。
ぼくは、バスケットのコートの横を通りかかる。なんとなく足を止めたわけでもないが、自然と目がそちらに向いた。すると、フェンス際までボールを拾いに来たひとりの青年から声をかけられた。娘の友だちにしては大きすぎるし、ぼくの行動範囲からいえば、いくらか幼すぎた。
「こんにちは、川島さん」ぼくの名前も知っている。やっと、気付いた。
「なんだ、久美子ちゃんの金魚か」
「いやな表現ですね」彼は振り返ってボールを待つ友人たちに投げてまたこちらを向いた。「散歩ですか?」
「いや、たまに、本の書き方を教えているんだよ。無免許なのにね」
「ぼくも買いましたよ。まだ、数ページしか読んでいないけど」
「君が?」
「そう、ぼくが。おかしいですか?」
「ううん。ただ、想像してなかったから」
「金魚をすくうだけとか思っていたりとか?」
「バスケもしてる」
「いっしょにやります?」
「まさか」ぼくは、それより我が読者の感想を望んでいた。つまらなかったら、何だか、久美子の名誉や清純な愛らしさまで傷つく気がした。そんなことはあり得ないのに。ちょっとだけ眠気が減った。ぼくは急いで帰ってキーボードを無心に叩くのだ。バスケットをして突き指なんかをしている場合ではないのだ。別れる際の言葉が口からもれ、ぼくは直射日光も避けずに、華やいだ気持ちで家にある架空のゴールに向かっていた。ゴールは、またスタートなり。
ぼくらは店を出て、帰り道が同じということで初めて佐久間さんとふたりで歩いていた。
「川島さんは慕われていますね。児玉さんにも狭山君にも、川崎さんにも」彼の顔には憧れという表情が浮かんでいた。「うらやましいな。ぼくは会社時代に誰からも慕われなかったし、誰からもからかわれなかった。喧嘩の相手にすらなれない」
「狭山君にも慕われてますかね、客観的に見て」ぼくは腑に落ちない。
「好きじゃなかったら、あんなに生意気な態度も取れないもんですよ、なかなか。喧嘩するほど、仲がいいとも言いますからね」
「そういう相手がいなかった、佐久間さんには?」
「いないですね。透明人間のように誰の視線も勝ち得ない」
「ここに来て、じゃあ、良かったと?」
「それは、もう」
エドワードは休日の町の中をひとりで歩いている。マーガレットの家に招かれることもない自分は、どうやって暇をつぶすのか手段も計画もなく、途方にくれていた。彼は孤独を感じている。部屋に戻ろうかと思った矢先、見知った顔を見つけた。学生時代の恩師だ。彼はなつかしさがこみ上げ、自然と手を振ってしまった。いつもの何事も行動に移す前に思案をする彼にとってはとても珍しいことだった。だが、その相手は怪訝そうな顔をしていた。自分の後ろに誰か知り合いでもいて、この未知の男性はそのひとに手を振っているのだろうと思い、振り返ってみるも、背中には誰もいなかった。
「お久し振りです」エドワードは成り行き上、立ち止まってそう言った。相手の名前を告げたので人違いであるはずもなかった。相手はその不意打ちらしい親しげな様子にたじろぎながらも話の接点を見つけようと焦っていた。自分の職業柄、教え子であるということに見当をつけたが、引越しも多かったので近所づきあいをしたひとの方向でも、空想のその場面に彼を置いて探した。しかし、自分の研究のことを持ち出したので、教え子であることが直ぐに知れた。
エドワードは不快であった。いや、不快という言葉は妥当でもなく、ぴったりとは当てはまらない。自分の存在の薄っぺらさが直接的に理解できた。早くこの状態を打破したかった。それには家庭という安住の立脚地を探すことを再び考え出して、そこに住まわる自分を思い描いた。それは、だが未来だ。その後の現在の家までの道中、彼は知り合いにも挨拶されないように伏し目がちで歩いた。
「川島さんは人気者のグループに属してましたか?」
「さあ、考えてみたこともない。普通にスポーツして、学校帰りに友人たちと無駄話をして」
「恋人ができて、結婚して、娘が産まれて」
「二日酔いに妻はなって、娘はおかしな言葉ばかり覚えて使ってるよ」
「それが、でも、人生ですよね。そういうタイプの小説があってもいいんじゃないですか」
「ドラマティックじゃないですね」
「ドラマなんか必要じゃないんじゃないですか」佐久間さんは思いつめたひとのように前を一心に見ていた。ぼくは彼を家にでも招待することを考えた。だが、その前に説明と了承がいる。独身ではないということは、こういうことなのか。
「お仕事のほうは?」
「探しています。これでも、そこそこ貯金があるんですよ。川島さんは独立する際に、資金はたまっていたんですか?」
「独立というほどのものでもなし、資金をつくって殖やすという類いのものでもないですしね。ただ、食い潰すだけ。いつか、芽が出るという可能性を無駄と知りながらも信じ、種を方々に投げるだけ」ぼくはその仕草をした。その頃には分かれ道に来ていた。彼は左に、ぼくは右に。ぼくは人気者であったのかもしれないという過去を想像し、華々しくゴールのテープを切る映像を思い浮かべた。そのような機会は実際にはない。最後の一文字をびしっと決めたぼく。しかし、やはり、昼寝かなと考えていた。
エドワードは下宿の横の空き地でサッカーが行われていたので、外での孤独と部屋でひとりでこもる自分を比べ、ベンチに座り屋外でそれを眺めることにした。空き地の中で、ゴールが決まれば片側は抱き合って歓喜し、もう一方は捨て台詞を吐いたり、また悔しがって地面を蹴ったりしていた。キーパーをなぐさめる優しい子もいた。その過程が成長にとって、また、人間らしさにとってもいかに貴重な体験かと羨望の目をさらに向けた。彼らは家に帰っても友人や自分の活躍を両親や兄弟に報告したりするのだろう。そこには憎しみも、いままさにエドワードが感じていた無関心さへの恐怖もなかった。
ぼくは、バスケットのコートの横を通りかかる。なんとなく足を止めたわけでもないが、自然と目がそちらに向いた。すると、フェンス際までボールを拾いに来たひとりの青年から声をかけられた。娘の友だちにしては大きすぎるし、ぼくの行動範囲からいえば、いくらか幼すぎた。
「こんにちは、川島さん」ぼくの名前も知っている。やっと、気付いた。
「なんだ、久美子ちゃんの金魚か」
「いやな表現ですね」彼は振り返ってボールを待つ友人たちに投げてまたこちらを向いた。「散歩ですか?」
「いや、たまに、本の書き方を教えているんだよ。無免許なのにね」
「ぼくも買いましたよ。まだ、数ページしか読んでいないけど」
「君が?」
「そう、ぼくが。おかしいですか?」
「ううん。ただ、想像してなかったから」
「金魚をすくうだけとか思っていたりとか?」
「バスケもしてる」
「いっしょにやります?」
「まさか」ぼくは、それより我が読者の感想を望んでいた。つまらなかったら、何だか、久美子の名誉や清純な愛らしさまで傷つく気がした。そんなことはあり得ないのに。ちょっとだけ眠気が減った。ぼくは急いで帰ってキーボードを無心に叩くのだ。バスケットをして突き指なんかをしている場合ではないのだ。別れる際の言葉が口からもれ、ぼくは直射日光も避けずに、華やいだ気持ちで家にある架空のゴールに向かっていた。ゴールは、またスタートなり。