爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(41)

2013年04月18日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(41)

 雨の勢いが急に増したので商店街のアーケードに逃げ込み一時的にしのいだ。しかし、ものの十分もしないうちに傘が邪魔になるほど雨雲は去ってしまった。ぼくの思い付いたアイデアのように。あのとき、捕まえておくべきだったのだ。そして、形あるものとして残して置くべきだったのだ。残念ながら、もうない。次の雨雲の到来を気長に待つか。

 ひとりでいるのも淋しくて、相手をしてくれそうなひとを探した。子ども時代なら、いきなり家のドアを叩くことも歓迎された。大人には何事も準備が必要だ。計画をして、待ち合わせの場所を決め、その未来の出来事のために時間を逆算した。カレンダーに仰々しく丸をつけることもなく。遠足間近。運動会まであと三日。

 ぼくは携帯電話をいじっている。今日、メモリに追加されたばかりの佐久間さんがいた。彼は、ひとりでいるのだろうか。試しに電話をかけてみた。
「妻と娘が、妻の実家に行ってしまって、お酒でもたまにはゆっくり飲もうかと思っているんだけど、ひとりもなんだしなと思って」
「いいですよ。どこですか? 待ってて下さい」彼にいる場所を告げて、ぼくは待つ運命になった。そして、わずかな時間で彼はやって来た。「傘、必要なくなりましたね」手ぶらの佐久間さんは、ぼくの手に握られている傘をあわれなものでも見るように眺めていた。

「ごめん、昼も夜も付き合わせて」
「いいですよ。八月の土曜の夜にはビールが似合いそうですから。ここ、どうですか?」彼は商店街から宅地に抜け出た場所で光りを放っている一軒の店を指差した。
「たまに来るんですか?」
「そうでもないです。けれど、ほんのたまに」佐久間さんはそう言いながら躊躇もない様子で重そうなドアを押した。

 ケンは友人とテニスをした後に、パブに入った。奥に座っていたので相手からは分からなかったが、マーガレットと親しい男性が店でなにかを購入して出て行ったのが遠くから見えた。ぼくがマーガレットに会えないのなら、彼も同じように接することができないと、友人と話しながらケンは考えていた。しかし、会話が楽しかったので直ぐにそのことを忘れた。テニスのあとの爽快な汗と渇きをビールによって体内と口内の潤いを取り戻していた。友人同士の気楽な語らいがあった。夏の夕暮れが窓のそとに見える。サッカーを終えた少年たちがふざけながら歩いている。恋の心配なども皆無なように、女性たちの視線も意識しないで、別の理由であるスポーツ後の高揚でひげもないきれいな頬がそれぞれ上気していた。

「では、クラスの生徒と先生の立場を離れた記念に」佐久間さんはグラスを捧げる。彼も読書家だった。その話に加わるべく店員がいた。彼はその話題に向いている女性とお勧めのものを提供し合うために、たまにここに来るようだった。ネーム・プレートがつけられないままカウンターに置かれていた。「加藤」と堅い感じの筆跡で記されていた。
「弟さんいません?」ぶっきらぼうな口調であることに自身で驚きながらぼくは訊ねた。
「います、高校生の。知ってるんですか? 夜、町を見回りする役目とか?」活字中毒者をついに発見した。努力もいらなかったけど。その女性の声はこういう類いのものなのか。だが、ぼくは、久美子を簡単に売ることはできない。
「そんなことはしていないけど。まあ、なんとなく。ぼくの売れない本の読者がどこかにいそうでね」
「ぼくが、そもそも、加藤さんに川島さんの本を紹介したんですよ。見つけられない原石。無冠のチャンピオンだって」佐久間さんの言葉に反応したぼくはビールを吹き出す。

「石の裏に眠れる、丸まることを願う虫」テーブルの上をおしぼりで拭きつつぼくは返答した。
「お茶らけないでも大丈夫ですよ。ぼくがそのクラスに通って、受けた印象を話しました。本はともかく、おもしろい先生なんだよ、脱線するときがとくにって」と、佐久間さんは感想を付け加えた。
「そして、わたしは、本屋さんに注文した。バイト代を握って」加藤さんは本のページをめくる動作をした。さすがに板についている。
「そう」それから、三人で本や文章の話をする。こんな場所が近いところにあったのか。いや、ぼくは遅くなった昼寝の真っ只中にもぐりこんでしまっただけなのか?

「川島さんのもっとも好きな言葉は?」しばらく経って佐久間さんが訊く。人生論を求めるまじめな気質。
「あらゆる差別を、自分のベストを尽くさない言い訳にしない。黒人のテニス選手の言葉だよ」
「差別とか、いじめに遭ったんですか?」金魚すくいの姉がつぶらな瞳できいた。一度も読書をしたことがなさそうなきれいな白目だった。いや、青かった。透明さを含む青。
「いいや、一度も」本当のことを白状しないわけにはいかない。同情をしてもらうために、一度ぐらいは差別されておくべきだったのかも。
「つまんない」
「ベストを尽くすか、尽くさないかが大事なんだよ」
「じゃあ、いつもベストを」

「そうしたいけど、なかなか。毎度、適温のビールにたどり着けるわけでもない世界だよ。ぬるかったり、冷えすぎたりでベストはないよ。しかし、ここは最高だね」ぼくはグラスを握る。本の話題とビールを楽しむ世界へようこそ、とこころのなかで言った。

 ケンは酔い始めていた。マーガレットのことを話すために、先ほどのひとがここに居てくれればいいのにとさえ考えていた。自分の知らないマーガレットの性格の一部を彼は持っているのかもしれない。また、反対にあの男性が見たこともないマーガレットの愛嬌ある表情を自分は脳にコレクションしているのだとも自負していた。だが、酔いが深まりつつある状況では一定して不動のものなど何もない気がした。そう思いながらも、友人が足取りもままならない状況でふたつのグラスをゆらゆらと運び、横揺れに頑迷に耐える表情で何度か背や椅子にぶつかりつつ時間をかけてケンの前まで歩いて来た。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(40)

2013年04月18日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(40)

 家の前まで来ると、駐車スペースに車がなかった。二日酔いの妻を心配していた自分は、余計なことに頭を奪われていたようだった。カギを開け、冷蔵庫から冷たい飲み物を取り出す。由美もいない。犬もいない。仕事にこの有意義な時間を充てれば良いのだろうが、そういう気も不思議と起こらなかった。

 エドワードはサッカーを見終わってから、パンとビールをパブで買い、部屋にもどった。ひとりの静かな時間を過ごすことに懲りごりとしていた。家というのはにぎやかさがあってこそ、家であるのだろう。静かなのは深夜のひとときだけでいい。その際にも隣で小さな寝息が聞こえるほうが安心するのだ。ひとりで別の家族と育った彼は、そういう家族観に達していた。

 ぼくは家にいる。もし、由美やジョンを奪われた自分は、どうなってしまうのだろう。時間は有り余るほどあるので、自分の能力を燃え尽くすように偉大な傑作を書き上げるのだろうか。そういうことにはなりそうもなかった。ぼくは喪失感の虜になり、なにも書けない。書こうともしない。ただ、失われたものを取り戻すべき嘆くのだ。

 空想にも飽きたので、家の小さな花壇に水を撒くことにした。容赦なく照りつける光り。それも、朝晩は秋の気配が漂うようになってきた。読書の秋。食欲の秋。ぼくは、ホースを片手に空いた手でウエスト周りをさすった。

 そこに久美子が自転車でやって来た。
「お帰りなさい。今日もスイミング?」
「はい、いつものように」自転車は止められ、彼女はヒレではない足ですっくと立った。
「今日、バスケ少年にあったよ。金魚すくいをボールに替えて。そうだ、名前、なんて言うの?」
「加藤くん」
「そう。加藤くんね。意外にもぼくの本を読んでくれているそうだね・・・」自負心という角砂糖を運ぶアリにも似た自分。プライドとジョイ。

「彼のお姉さんが活字中毒みたいなひとで、何でも読むんです。どんなものでも買わずにいられなくて、さらに、読まずにいられない。だから、家にあったんでしょうね。どんなものでもあるから」
「久美子ちゃんは、ときどき、正直すぎるきらいがあるね」ぼくは撒きすぎていた水を止めた。才能の浪費。ピンとキリ。どんなものも、お任せ下さい。「でも、ぼくのことは知っていた」

「わたしが話したから。身近なひとのものの方が頭に入りやすいと思いません?」
「裏切らないといいけど、どんなものでもあるお家なのに」ぼくはその姉に、いや、姉の蔵書に興味が湧いた。「久美子ちゃんはセールスの才能があるのかね。埋もれた商品を掘り起こして。何て、説明したの?」
「隣の可愛い子のお父さん。この前、会ったひとだけど、書くというより、目の前で笑わせてくれることに向いているおじさん」

「正直であることの美徳にも程度というものがあるんだよ。じゃあ、また」ぼくは、今日、うるさいクラスのなかのひとりを大道芸人みたいだと思っていたのだ。彼は、やはり、ぼくの間違いなき生徒だったのか。自分は書くという行為に根本的に向いていないのだろうか。違う、どんなものでも書く。文字こそが碑文にもなり、法律の条文をなし、伝達にもっとも適し、歴史がもたらす劣化にもさらされない唯一の耐久あるものなのだ。
 レナードはらくだが描かれた絵をとなりの子にあげた。母親はそのことに感謝し、父親は水浸しの部屋を食い止めてもらった事実に礼を言った。反面、慣例の薄い子どもは白いキャンバスが生まれ変わっていることに驚嘆の声をあげた。

「時間、かかった?」
「そうでもないよ。目に映るものも描けるし、そこにないものだって、どんなものでも描けるように訓練しているからね」
「いつか、こんな風に描けるようになれるかな?」
「なれるかもしれないね。でも、途中であきらめなければだけど」

 レナードは画家を志すことを何度もあきらめようとしていた。畑を耕して、実際に収穫物を手にするというのが妥当なまわりの社会の基準だった。しかし、いまのレナードはらくだの絵で笑顔と尊敬の眼差しを手に入れた。このひとりを喜ばすことが、もっと大勢に拡がればいい。いや、ひとりで充分なのかもしれない。ひとりの完全なる満足こそが永遠性につながるのだ。ひとりのこころを根底から打たないものは、どんな価値もないのかもしれない。

「どんなものでも描けるの?」
「大体はね。目に見えるものであれば。この世に存在するものであれば。例えば、月。屋根。空」レナードは上空を指差した。さらに思いつくまま、考えつづける。暗闇、静けさ、驚き、静謐。ただの状態というものも描けるのかもしれない。しかし、それは第三者の胸を奥底から捉えて放さないものだろうか。レナードにはまだ答えがなかった。

 明かりもつけないまま部屋は段々と暗くなる。テーブルに夕飯は両親と食べてくるので、ひとりで何か食べておいて、というメモが置かれていたことを思い出す。ぼくはシャワーを浴びて、新鮮なシャツに袖を通す。娘をもつ面白いおじさん。いつから、ぼくはそんな役回りを与えられてしまったのだろう。しかし、きれいな衣服に似合う上品な靴が玄関にも下駄箱にもどこにもないことに気付いた。佐久間さんは、まだスーツを大切にしているはずだ。社会の役割を果たす一員にもどれる日を思い描いて。その準備に必要な道具たち。ぼくは自分の部屋を思い出し、キーボードぐらいか、大切にしているものは、と自嘲しながら汚れたスニーカーを履き、玄関のカギを閉めた。途端に雷雨になり、また傘を取りに行った。
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