爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(47)

2013年04月27日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(47)

 昼ごはんも終えて外に出る。快晴の空。汗ばむ身体。
「パパ、ちょっと本屋さんに用事があるから、遠回りするよ」
「いいよ」

 世の中の動き。その尺度をどこに求めるのか。本屋の陳列台。ダイエット方法の流行。賢くなる、見られる生き方。
 ぼくはフランシスコ・ザビエルというひとの名前を背表紙に見つけ、棚から引っ張り出した。恋愛も自分の気持ちの傲慢な押し付けなら、このひとの熱情もそう違わない気がした。宗教と布教という問題。わたしを見つけてくれ。

 それに比べて本というのは穏やかである。慎ましさもあらわしている。本屋に並んで、多少の売り込みの店員さんの紹介の文字もあるにはあるが、それは全体と比較すれば少ないものだった。ただ、じっと手を取ってもらうのを毎日、待っている。いつか、廃刊になりやっと真価が発揮され、高価な値で取引される。それも価値があるならばの話だ。大体はゆるやかな破滅に身を任せている。

 ぼくは立ち読みを止め、新聞の切抜きを取り出し、店員さんに一冊の本を探してもらった。受け取ったものをパラパラとめくり、値段を確かめる。広告のときから知っていたのだが、税の存在もまた思い出した。価格上乗せ税。本は消費なのか。横を見ると、由美はバラの栽培という本をめくっていた。

「随分と渋いものを読んでいるんだね」
「朝顔が育ったから好きになった。夏が終わってもなにか、育てたいなと思って」
「へえ、良い心掛け。買ってもいいよ」

 娘はぼくにその本を手渡した。うまく行かなくてもいいこともあるのだ。難しくなったら、ぼくが手を貸してもいい。しかし、この子を育てるというのも、もっと大きなエネルギーがいった。いや、もう車輪は勝手に動き出しているので、意図しないでも、方向をちょっと調整するだけで自然と育つものなのだろうか。自分が外で働いているときは子育てにあまり参加もせず、協力もしなかったことを誰かに詫びたい気持ちがあった。だが、もう後戻りもできない。

 レナードは教会の薄暗いなかにいた。受胎告知という場面が描かれている絵を、この地で発見して、もう残された滞在期間も減ってきたことから、もう一度だけ見ようと思っていた。女性は驚いている。天使がやってくる。あなたのお腹に子どもが宿りました。それも十把一絡げのような子どもではありません。選ばれた子どもが。まだ娘のような女性は驚愕している。なぜ、自分が。それは恩恵でもあり、責任が伴うものだった。レナードの横にはマーガレットがいた。彼女の感想はどういうものなのだろうか、女性の視点からの意見をレナードは聞いてみたかった。

 暗いなかから外に出た。目は強い日差しになかなか馴染まなかった。教会の前にあるベンチにふたりは座った。
「女性には、男性と違う役目がある。何ヶ月もお腹に子どもがいる。対面するのはもっと後になるが、存在は一体感を迫るものでもあり、やはり、他者であることも認識しなければならない。日々、大人になればなるほど」
「いつまでも自分の所有物ではない?」
「そういうこと」

 ぼくは小さな手を握っていた。いつか児玉さんの娘のようにどこかで働くことになる由美。愛想が良いので人怖じすることはないだろう。計画性や努力を惜しまないところはあるのだろうか。誰も、完全じゃない。このぼくも完全じゃないから。だが、完全さを求めてしまう。
「ぼくもそのようにして生まれた。記憶もないけれど、母の胎内にいた」
「そして、大きくなって、絵の才能を発見する。わたしには何があるのかしら」
「ひとを穏やかにさせる」

「そう?」マーガレットはなぜかレナードの顔をみつけられなかった。それで、ベンチの前の鮮やかな色の芝生を見ていた。「絵が自分には向いているなと気付いたのはいつのこと?」
「もう、分からない。いや、考えてみる。親のいいつけで、となりの家に行くことになったとき、となりの家といっても随分と離れていたから棒切れをひろって、おもちゃ代わりに振り回していた。まだ、雪解け間近の地面がぬかるんでいる頃だったので、試しに棒で、地面に目に見えるとなりの家の全景を描いてみたら、なかなか良くできていたので喜んだ。いいつけもあるし惜しいとは思いながらも、それは消える運命にあるものなのであきらめた。それ以来、家のなかで時間が空くと紙に描いた。学校でも思いがけなく褒められたので、そういう才能の一端が自分にもあるのかなと思って、せっかくの長所なんだし伸ばそうかなとまた勧められるままに描いた」

「誰か才能を引き伸ばしてくれるひとが必要?」
「当初は。だけど、その後は意固地さと頑固さだけが求められていると思う。それが取柄になったり、後悔ができなくなってしまうほどの時間の浪費になるのかも誰も分からない。受胎告知のような形では一般のひとの未来なんか決められないからね。具体的な形では」

 マーガレットは、いまだにエドワードとケンの間で気持ちが揺れ動いていた。それは自分の決めるべき問題であり、その先の未来の責任はその選んだ結果がもたらしたものだとして、受け入れなければならない。いつか、もう片方のひとを思い出すことがあるのだろうか。いつか、時間が経って、そのもう片方のひとに会いたいと思う日がくるのだろうか。このレナードとも、どこかで再会する未来が決められているのだろうか。そう世の中は自分の予想通りにならないことは、マーガレットも薄々は気付いていた。だから、いまがとても大事なんだと思おうとした。

「あと一週間もすれば、また学校か」ぼくは独り言のように口走った。
「お昼、あそこで食べるの?」
「やっぱり、そうかな。でも、家でも食べるよ。ジョンの相手をしながら」
「本を書いて?」
「そう、本を書いて、棚に並べてもらって。バラを育てる方法ほど役には立たないかもしれないけどね。由美も役に立つとかを抜きにして、いろいろ勉強しないとダメだよ」
「するよ。パパが苦心することもないぐらいに勉強して、いっぱい働くよ。もう生活の心配をすることもないぐらいにお金を渡すよ。休みには遊んでもらわないといけないから。ママは外で働くのが好きだから、どうしようかな」ぼくは成長のあらわれの基準をもっていなかった。それで、黙ってただ歩いていた。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(46)

2013年04月27日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(46)

 ぼくは読み終えた手紙をまた折り目どおりに畳み封に戻した。それから、引き出しにしまった。再び読み返すときはあるのだろうか。考えてみれば手紙という形態はつくづく不思議なものだ。肉声でもなく、そこにひとはいない。ただ文字を媒介にして思いを伝達させる。記号もなく、イラストもない。しかし、本も似たようなものだ。ひとは時間をつかって文字を書き、それをまた時間をつかって本を読む。誰に頼まれてもいないのに。孤独を楽しむためにひとりになり、そこで誰かの熱意の証を読む。

「初恋か」と、ひとりだと思ってぼくは声にだした。だが、後ろには由美がいた。
「どうしたの? 初恋って、なに?」
「ひとを初めて好きになること。自分以上に愛することかな。由美はいるのかな?」
「久美子ちゃんは、初恋?」
「さあ、どうだろう? そうかもしれないし、もっと、もっと前に好きなひとがいるのかもしれない。今度、訊いてみれば? それで、パパに教えて」
「でも、デリケートな問題だからな」と、由美は首を傾げ、虫歯でも痛むような表情をした。

 マーガレットは手紙を読んでいた。その筆跡はエドワードらしいものだった。アラビア数字を扱うことになれたひとの文字。二十六文字の組み合わせで手紙の内容があらわれ、十種類の数字をつなぎあわせることで情報が補足される。あと数日でここを去るのに、会ってとにかく話せる立場になるのに、マーガレットはその紙の束をうれしいものと実感していた。

 最近の出来事が綴られている。その裏面には、淋しさのようなものが内包されていないかマーガレットは探していた。だが、なかなか見つからなかった。可能ならば、その表情を見ながら会話したいと思っていた。顔を見たい、体温のあるものを近い距離で感じながら話したかった。そこには、手紙のような遠慮もなく、嘘もいっさい入り混じらない気がしていた。だが、何度も読むうちに、これも楽しい接触の方法だとも思っていた。

 その数日前にエドワードはポストに手紙を投函した。その前日に書いたものだ。ポストに入れるまで躊躇していた。自分の感情をその細い横穴のなかに放り込んでしまうほどの勇気と、恥じらいとの決別が必要だった。

 マーガレットは手紙をしまった。これほど、自分の感情を押し殺した文もないものだと感じていた。好きだ、とか、愛しているという数語の文字を敢えて使わない意思が分からなかった。

 前日のエドワードは何度も文をひねくりまわしていた。ただ、愛という文字を書いてしまえば済む問題なのは分かっていたが、そう簡単に持ち出すのはあまりにも安易であった。

「ちょっと、大きな声だな」リビングから節回しをつけた由美の声がする。
「初恋の唄をつくったの」
「ママが帰ってくるまで、忘れないでいられるかな」
「大丈夫だよ。メモしてるから」
「メロディーには譜面というものが必要なんだよ」

「お仕事終わったら、教えて」
「教えられないよ」
「どうして?」
「譜面に書き記す記号が分からないから」
「本を書いているのに?」
「それらに関連性はない。まったくの別の問題。いとこでも、兄弟でもない」
「誰が知ってるの?」
「音楽の先生だろう。譜面が読めても、唄がうまいか分からないけど。せめて音は外さないか」

 マーガレットはハミングしていた。それは幼いときからの嬉しさを表す証拠だった。母はそのことに気付いていたが、あえてそのことは告げなかった。彼女はむかしもらった手紙のことを考えていた。夫になるひとが旅に出る前に手紙を残してくれた。その不在の間、何度もくりかえし読み返した。それだけしか、彼のいた痕跡を証明する手立てがなかった。直ぐに声が聞こえる機械でも発明されればよいのにと、そのときに思っていた。母は家のなかを見回す。そこに便利な黒いものがあった。なぜ、その小さなものが距離を縮める役割を担っているのか理解はできなかった。だが、便利さの恩恵にはあずかることはできていた。

「パパ、お腹もすいたよ」
 ぼくは時計を見る。もう、そんな時間か、と思い立って、席を立った。

 歩いて近い距離にあるいつものファミリー・レストランに行った。接客するのは児玉さん。彼女の母は、初恋のひとに会いに行った。娘はそのことを知っているのだろうか?

「お姉ちゃん、初恋のひとっていたの?」
「どうしたの、由美ちゃん? そうね、もちろん、いたわよ。恋って、素敵なものよ」彼女は演技が過多な女優のような口調で話した。
「どういうひと?」
「背が高くて、野球がうまくって」
「相場が決まってるよ。メガネをかけて、本の虫というのは若い頃には人気がないよ」
「ひがんでるんですか?」
「パパは、ママが初恋のひと?」
「どうかね」

「ひとり娘には大問題ですよ。答えに注意がいりますから。じゃあ、注文を通してきます。でもね、由美ちゃん、恋って、とっても、素敵なものなんだよ」

 そうだろうか? 恋なんか傲慢さを最大限にアピールするものでないのだろうか。自分の気持ちを勝手に伝え、好きになってくれとも頼まれないのに、好きになり、だから、わたしのことをこれから頭のなかにも目のなかにも片時も忘れないぐらいに居させてくれ。そして、デートに連れ出してくれ、好きだとたまには言ってくれ。責任をとってくれ。エトセトラ。

 児玉さんの若い方は、初恋のひととの間には産まれなかった。由美も産まれる必要があった。それにはいまの妻が産まれる必要があった。義理の父と母はぼくにもう少し優しくする方法を学習しなければならない。譜面を読み込むように。

 料理が来た。初恋って、いったい、なんなのだ? これからも六十億か、七十億の初恋が雨後のたけのこのように染み出してくるのか。なんだか、やりきれないものだ。でも、好きになったりしなければ、ぼくの職業のテーマも大部分が失われてしまう。ボヴァリー夫人は、ともかくも誰かを好きになるのだ。違反すれすれで。
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