夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(47)
昼ごはんも終えて外に出る。快晴の空。汗ばむ身体。
「パパ、ちょっと本屋さんに用事があるから、遠回りするよ」
「いいよ」
世の中の動き。その尺度をどこに求めるのか。本屋の陳列台。ダイエット方法の流行。賢くなる、見られる生き方。
ぼくはフランシスコ・ザビエルというひとの名前を背表紙に見つけ、棚から引っ張り出した。恋愛も自分の気持ちの傲慢な押し付けなら、このひとの熱情もそう違わない気がした。宗教と布教という問題。わたしを見つけてくれ。
それに比べて本というのは穏やかである。慎ましさもあらわしている。本屋に並んで、多少の売り込みの店員さんの紹介の文字もあるにはあるが、それは全体と比較すれば少ないものだった。ただ、じっと手を取ってもらうのを毎日、待っている。いつか、廃刊になりやっと真価が発揮され、高価な値で取引される。それも価値があるならばの話だ。大体はゆるやかな破滅に身を任せている。
ぼくは立ち読みを止め、新聞の切抜きを取り出し、店員さんに一冊の本を探してもらった。受け取ったものをパラパラとめくり、値段を確かめる。広告のときから知っていたのだが、税の存在もまた思い出した。価格上乗せ税。本は消費なのか。横を見ると、由美はバラの栽培という本をめくっていた。
「随分と渋いものを読んでいるんだね」
「朝顔が育ったから好きになった。夏が終わってもなにか、育てたいなと思って」
「へえ、良い心掛け。買ってもいいよ」
娘はぼくにその本を手渡した。うまく行かなくてもいいこともあるのだ。難しくなったら、ぼくが手を貸してもいい。しかし、この子を育てるというのも、もっと大きなエネルギーがいった。いや、もう車輪は勝手に動き出しているので、意図しないでも、方向をちょっと調整するだけで自然と育つものなのだろうか。自分が外で働いているときは子育てにあまり参加もせず、協力もしなかったことを誰かに詫びたい気持ちがあった。だが、もう後戻りもできない。
レナードは教会の薄暗いなかにいた。受胎告知という場面が描かれている絵を、この地で発見して、もう残された滞在期間も減ってきたことから、もう一度だけ見ようと思っていた。女性は驚いている。天使がやってくる。あなたのお腹に子どもが宿りました。それも十把一絡げのような子どもではありません。選ばれた子どもが。まだ娘のような女性は驚愕している。なぜ、自分が。それは恩恵でもあり、責任が伴うものだった。レナードの横にはマーガレットがいた。彼女の感想はどういうものなのだろうか、女性の視点からの意見をレナードは聞いてみたかった。
暗いなかから外に出た。目は強い日差しになかなか馴染まなかった。教会の前にあるベンチにふたりは座った。
「女性には、男性と違う役目がある。何ヶ月もお腹に子どもがいる。対面するのはもっと後になるが、存在は一体感を迫るものでもあり、やはり、他者であることも認識しなければならない。日々、大人になればなるほど」
「いつまでも自分の所有物ではない?」
「そういうこと」
ぼくは小さな手を握っていた。いつか児玉さんの娘のようにどこかで働くことになる由美。愛想が良いので人怖じすることはないだろう。計画性や努力を惜しまないところはあるのだろうか。誰も、完全じゃない。このぼくも完全じゃないから。だが、完全さを求めてしまう。
「ぼくもそのようにして生まれた。記憶もないけれど、母の胎内にいた」
「そして、大きくなって、絵の才能を発見する。わたしには何があるのかしら」
「ひとを穏やかにさせる」
「そう?」マーガレットはなぜかレナードの顔をみつけられなかった。それで、ベンチの前の鮮やかな色の芝生を見ていた。「絵が自分には向いているなと気付いたのはいつのこと?」
「もう、分からない。いや、考えてみる。親のいいつけで、となりの家に行くことになったとき、となりの家といっても随分と離れていたから棒切れをひろって、おもちゃ代わりに振り回していた。まだ、雪解け間近の地面がぬかるんでいる頃だったので、試しに棒で、地面に目に見えるとなりの家の全景を描いてみたら、なかなか良くできていたので喜んだ。いいつけもあるし惜しいとは思いながらも、それは消える運命にあるものなのであきらめた。それ以来、家のなかで時間が空くと紙に描いた。学校でも思いがけなく褒められたので、そういう才能の一端が自分にもあるのかなと思って、せっかくの長所なんだし伸ばそうかなとまた勧められるままに描いた」
「誰か才能を引き伸ばしてくれるひとが必要?」
「当初は。だけど、その後は意固地さと頑固さだけが求められていると思う。それが取柄になったり、後悔ができなくなってしまうほどの時間の浪費になるのかも誰も分からない。受胎告知のような形では一般のひとの未来なんか決められないからね。具体的な形では」
マーガレットは、いまだにエドワードとケンの間で気持ちが揺れ動いていた。それは自分の決めるべき問題であり、その先の未来の責任はその選んだ結果がもたらしたものだとして、受け入れなければならない。いつか、もう片方のひとを思い出すことがあるのだろうか。いつか、時間が経って、そのもう片方のひとに会いたいと思う日がくるのだろうか。このレナードとも、どこかで再会する未来が決められているのだろうか。そう世の中は自分の予想通りにならないことは、マーガレットも薄々は気付いていた。だから、いまがとても大事なんだと思おうとした。
「あと一週間もすれば、また学校か」ぼくは独り言のように口走った。
「お昼、あそこで食べるの?」
「やっぱり、そうかな。でも、家でも食べるよ。ジョンの相手をしながら」
「本を書いて?」
「そう、本を書いて、棚に並べてもらって。バラを育てる方法ほど役には立たないかもしれないけどね。由美も役に立つとかを抜きにして、いろいろ勉強しないとダメだよ」
「するよ。パパが苦心することもないぐらいに勉強して、いっぱい働くよ。もう生活の心配をすることもないぐらいにお金を渡すよ。休みには遊んでもらわないといけないから。ママは外で働くのが好きだから、どうしようかな」ぼくは成長のあらわれの基準をもっていなかった。それで、黙ってただ歩いていた。
昼ごはんも終えて外に出る。快晴の空。汗ばむ身体。
「パパ、ちょっと本屋さんに用事があるから、遠回りするよ」
「いいよ」
世の中の動き。その尺度をどこに求めるのか。本屋の陳列台。ダイエット方法の流行。賢くなる、見られる生き方。
ぼくはフランシスコ・ザビエルというひとの名前を背表紙に見つけ、棚から引っ張り出した。恋愛も自分の気持ちの傲慢な押し付けなら、このひとの熱情もそう違わない気がした。宗教と布教という問題。わたしを見つけてくれ。
それに比べて本というのは穏やかである。慎ましさもあらわしている。本屋に並んで、多少の売り込みの店員さんの紹介の文字もあるにはあるが、それは全体と比較すれば少ないものだった。ただ、じっと手を取ってもらうのを毎日、待っている。いつか、廃刊になりやっと真価が発揮され、高価な値で取引される。それも価値があるならばの話だ。大体はゆるやかな破滅に身を任せている。
ぼくは立ち読みを止め、新聞の切抜きを取り出し、店員さんに一冊の本を探してもらった。受け取ったものをパラパラとめくり、値段を確かめる。広告のときから知っていたのだが、税の存在もまた思い出した。価格上乗せ税。本は消費なのか。横を見ると、由美はバラの栽培という本をめくっていた。
「随分と渋いものを読んでいるんだね」
「朝顔が育ったから好きになった。夏が終わってもなにか、育てたいなと思って」
「へえ、良い心掛け。買ってもいいよ」
娘はぼくにその本を手渡した。うまく行かなくてもいいこともあるのだ。難しくなったら、ぼくが手を貸してもいい。しかし、この子を育てるというのも、もっと大きなエネルギーがいった。いや、もう車輪は勝手に動き出しているので、意図しないでも、方向をちょっと調整するだけで自然と育つものなのだろうか。自分が外で働いているときは子育てにあまり参加もせず、協力もしなかったことを誰かに詫びたい気持ちがあった。だが、もう後戻りもできない。
レナードは教会の薄暗いなかにいた。受胎告知という場面が描かれている絵を、この地で発見して、もう残された滞在期間も減ってきたことから、もう一度だけ見ようと思っていた。女性は驚いている。天使がやってくる。あなたのお腹に子どもが宿りました。それも十把一絡げのような子どもではありません。選ばれた子どもが。まだ娘のような女性は驚愕している。なぜ、自分が。それは恩恵でもあり、責任が伴うものだった。レナードの横にはマーガレットがいた。彼女の感想はどういうものなのだろうか、女性の視点からの意見をレナードは聞いてみたかった。
暗いなかから外に出た。目は強い日差しになかなか馴染まなかった。教会の前にあるベンチにふたりは座った。
「女性には、男性と違う役目がある。何ヶ月もお腹に子どもがいる。対面するのはもっと後になるが、存在は一体感を迫るものでもあり、やはり、他者であることも認識しなければならない。日々、大人になればなるほど」
「いつまでも自分の所有物ではない?」
「そういうこと」
ぼくは小さな手を握っていた。いつか児玉さんの娘のようにどこかで働くことになる由美。愛想が良いので人怖じすることはないだろう。計画性や努力を惜しまないところはあるのだろうか。誰も、完全じゃない。このぼくも完全じゃないから。だが、完全さを求めてしまう。
「ぼくもそのようにして生まれた。記憶もないけれど、母の胎内にいた」
「そして、大きくなって、絵の才能を発見する。わたしには何があるのかしら」
「ひとを穏やかにさせる」
「そう?」マーガレットはなぜかレナードの顔をみつけられなかった。それで、ベンチの前の鮮やかな色の芝生を見ていた。「絵が自分には向いているなと気付いたのはいつのこと?」
「もう、分からない。いや、考えてみる。親のいいつけで、となりの家に行くことになったとき、となりの家といっても随分と離れていたから棒切れをひろって、おもちゃ代わりに振り回していた。まだ、雪解け間近の地面がぬかるんでいる頃だったので、試しに棒で、地面に目に見えるとなりの家の全景を描いてみたら、なかなか良くできていたので喜んだ。いいつけもあるし惜しいとは思いながらも、それは消える運命にあるものなのであきらめた。それ以来、家のなかで時間が空くと紙に描いた。学校でも思いがけなく褒められたので、そういう才能の一端が自分にもあるのかなと思って、せっかくの長所なんだし伸ばそうかなとまた勧められるままに描いた」
「誰か才能を引き伸ばしてくれるひとが必要?」
「当初は。だけど、その後は意固地さと頑固さだけが求められていると思う。それが取柄になったり、後悔ができなくなってしまうほどの時間の浪費になるのかも誰も分からない。受胎告知のような形では一般のひとの未来なんか決められないからね。具体的な形では」
マーガレットは、いまだにエドワードとケンの間で気持ちが揺れ動いていた。それは自分の決めるべき問題であり、その先の未来の責任はその選んだ結果がもたらしたものだとして、受け入れなければならない。いつか、もう片方のひとを思い出すことがあるのだろうか。いつか、時間が経って、そのもう片方のひとに会いたいと思う日がくるのだろうか。このレナードとも、どこかで再会する未来が決められているのだろうか。そう世の中は自分の予想通りにならないことは、マーガレットも薄々は気付いていた。だから、いまがとても大事なんだと思おうとした。
「あと一週間もすれば、また学校か」ぼくは独り言のように口走った。
「お昼、あそこで食べるの?」
「やっぱり、そうかな。でも、家でも食べるよ。ジョンの相手をしながら」
「本を書いて?」
「そう、本を書いて、棚に並べてもらって。バラを育てる方法ほど役には立たないかもしれないけどね。由美も役に立つとかを抜きにして、いろいろ勉強しないとダメだよ」
「するよ。パパが苦心することもないぐらいに勉強して、いっぱい働くよ。もう生活の心配をすることもないぐらいにお金を渡すよ。休みには遊んでもらわないといけないから。ママは外で働くのが好きだから、どうしようかな」ぼくは成長のあらわれの基準をもっていなかった。それで、黙ってただ歩いていた。