27歳-13
ぼくは嫉妬を繰り返す。
それは、このひとこそが、ぼくが出会うであろう最終的な理想に近いと思ったのが原因のもとだった。
ぼくは二十代の中盤から後半に向かい、自分の肉体的なピークも感情的なピークももう少し先だと感じていた。理想に近いことを語れば、ぼくの二十代の凡その期間を相手にも知っておいてほしいし、少なくとも数年はいっしょに過ごした月日が不可欠だった。なだらかな下り坂に入ったときに出会う相手は、ぼくの当時を知らない。ぼくは過剰なまでに自分の痕跡と自意識を大切にし、簡単に踏みつけられることを嫌った。
ぼくは大人というものが、はっきりと分からず、未熟な部分も相変わらず抱えていた。その未熟な個所を脱ぎ捨てる過程が必要だった。その証人として相手を求めた。つまりは希美に要求した。
ぼくはあのときと比べて、随分と多くの時間を好きなひとと過ごした。学校に通う相手と、きちんと働いている相手では時間の感覚はかなり違う。自由になる時間も段々と減っていく。それでも、どちらかの家で泊まることも可能だ。寝ていれば感情の交流などできないのかもしれないが、となりに寝ているという一体の事実があり、不確かな安心感も得られることになった。同時にここに現実に居ないということは、どこかで不安も生じさせることだって秘めることになるのだ。不在が限りない力を帯び、目に見えないエネルギーの芯がこころの奥で爆発した。水をかければ冷えるという単純な図式ではなく、占有する、問い詰めるという行程が不安を増大させない特効薬だった。その薬は、当人でもあるふたりを荒らす刺激ともなり、あとあと副作用で悩むこともあった。だから、ぼくは薬をあえて切らした。その結果、安心はぼくのもとにやって来なかった。
しかしながら、希美以外の女性のことをもう考えられなかった。スポーツ選手が愛用の道具を作る職人を失って次第に成績を落とすように、ぼくも別のもので代用するなどとは微塵も考えられなくなってしまった。この状態を失いたくないために、嫉妬は存在意義を見せ、その力を思う存分、発揮した。ぼくは嫉妬の主人ではない。大柄な犬に引き連れまわされる幼児のように、ぼくは道なき道、雑草が生い茂るなかを勝手に運ばれた。これが愛の最終形と思っていたものは、結果として、別の形を見せた。その変化は決して美しいものでもなく、みんなが感心し惚々れするようなものとも違っていた。地獄ということが表現として近かった。そして、幼児は犬の紐をどこまでも離さなかった。
相手のこころは離れるのだというひとつの揺るぎない公式がぼくのなかにあった。傷を縫い合わせた皮膚のようになめらかさは失われ、縒りが他の部分までこすって刺激した。だから、ぼくはもう簡単に誰かを好きになるのを止めようと決めかけた、その気持ちに抵抗しようとした数か月前までの自分をなつかしんでいた。
しかし、その支配下にない感情は、分量としてごくわずかなものだった。それにしても、支配する領域は刻々と変わる。暴風雨が過ぎ去ったあとの凪の時期が大半だったとしても、ちょっとした石ころが穏やかな湖面をさざ波だて、台無しにした。希美を手放せないという感情が、そもそもスタートであるのだ。かといって、それを許すほど、ぼくは自分の恋心に無頓着になれないでいた。
多くは根拠のないことで勝手に煩悶していた。ぼくが希美の右手を握っていれば、別の誰かは左手をつかむこともできた。二十代半ばの魅惑的な女性は誰かの目を奪った。
ぼくらは動物園にいる。パンダという愛らしい動物はみんなの歓声を浴びている。飼育員が餌を与え、ひとりだけ知っている時間も確かにあるのだろう。だが、それは裏方の役目で、たくさんの観衆のために備えているのだ。ぼくは希美の横顔を見る。ぼくが独り占めにしているものはどれだけあるのだろう。彼女がいることによって、どれほどの人数のひとが好影響を受けるのだろう。ぼくらは後方の列の勢いに押し出されるようにガラスの前を通過した。
「かわいいね」と言った希美は顔をほころばせている。
一匹のパンダは無数の観客を魅了した。飼育員に嫉妬もない。独占欲もない。まさに、すがすがしいことだった。希美は離れ離れにならないようにぼくの手を握る。幼少期の彼女もきっと父か兄弟の手を握ったことだろう。ぼくは、この日の希美を占有する。それで充分だと思った。それ以上を求めるから、話はこんがらがり、ややこしくなった。そのややこしさの束ねられた固まりを慎重に解きほぐせば、希美との関係の継続を熱心に願う自分が中心にあった。おにぎりのなかの梅干しのように、絶対に必要なものであった。ならば嫉妬は海苔のようなものであるのか。もし、周りを包まなければただの握りしめられた白いご飯。それも空腹時ならきっとおいしいのだろう。では、空腹とはどういうことなのだろう。飢餓とどう違いがあるのだろう。大きな差は、次の食欲を満たすものが準備されているか否かなのか。ぼくの愛は、どちらに比重があるのだろう。得ることもある空腹か、それとも永遠の飢えが待ちかまえているのか。
ぼくらは甲高く鳴く鳥の前にいつの間にか出ていた。その鳥もパンダの地位に嫉妬するのだろうか。ただ、この生き物の願いは上空にある檻を取り払うことだけのようにも思えた。飛び立つか、居残ったままなのかは度外視にしても。
ぼくは嫉妬を繰り返す。
それは、このひとこそが、ぼくが出会うであろう最終的な理想に近いと思ったのが原因のもとだった。
ぼくは二十代の中盤から後半に向かい、自分の肉体的なピークも感情的なピークももう少し先だと感じていた。理想に近いことを語れば、ぼくの二十代の凡その期間を相手にも知っておいてほしいし、少なくとも数年はいっしょに過ごした月日が不可欠だった。なだらかな下り坂に入ったときに出会う相手は、ぼくの当時を知らない。ぼくは過剰なまでに自分の痕跡と自意識を大切にし、簡単に踏みつけられることを嫌った。
ぼくは大人というものが、はっきりと分からず、未熟な部分も相変わらず抱えていた。その未熟な個所を脱ぎ捨てる過程が必要だった。その証人として相手を求めた。つまりは希美に要求した。
ぼくはあのときと比べて、随分と多くの時間を好きなひとと過ごした。学校に通う相手と、きちんと働いている相手では時間の感覚はかなり違う。自由になる時間も段々と減っていく。それでも、どちらかの家で泊まることも可能だ。寝ていれば感情の交流などできないのかもしれないが、となりに寝ているという一体の事実があり、不確かな安心感も得られることになった。同時にここに現実に居ないということは、どこかで不安も生じさせることだって秘めることになるのだ。不在が限りない力を帯び、目に見えないエネルギーの芯がこころの奥で爆発した。水をかければ冷えるという単純な図式ではなく、占有する、問い詰めるという行程が不安を増大させない特効薬だった。その薬は、当人でもあるふたりを荒らす刺激ともなり、あとあと副作用で悩むこともあった。だから、ぼくは薬をあえて切らした。その結果、安心はぼくのもとにやって来なかった。
しかしながら、希美以外の女性のことをもう考えられなかった。スポーツ選手が愛用の道具を作る職人を失って次第に成績を落とすように、ぼくも別のもので代用するなどとは微塵も考えられなくなってしまった。この状態を失いたくないために、嫉妬は存在意義を見せ、その力を思う存分、発揮した。ぼくは嫉妬の主人ではない。大柄な犬に引き連れまわされる幼児のように、ぼくは道なき道、雑草が生い茂るなかを勝手に運ばれた。これが愛の最終形と思っていたものは、結果として、別の形を見せた。その変化は決して美しいものでもなく、みんなが感心し惚々れするようなものとも違っていた。地獄ということが表現として近かった。そして、幼児は犬の紐をどこまでも離さなかった。
相手のこころは離れるのだというひとつの揺るぎない公式がぼくのなかにあった。傷を縫い合わせた皮膚のようになめらかさは失われ、縒りが他の部分までこすって刺激した。だから、ぼくはもう簡単に誰かを好きになるのを止めようと決めかけた、その気持ちに抵抗しようとした数か月前までの自分をなつかしんでいた。
しかし、その支配下にない感情は、分量としてごくわずかなものだった。それにしても、支配する領域は刻々と変わる。暴風雨が過ぎ去ったあとの凪の時期が大半だったとしても、ちょっとした石ころが穏やかな湖面をさざ波だて、台無しにした。希美を手放せないという感情が、そもそもスタートであるのだ。かといって、それを許すほど、ぼくは自分の恋心に無頓着になれないでいた。
多くは根拠のないことで勝手に煩悶していた。ぼくが希美の右手を握っていれば、別の誰かは左手をつかむこともできた。二十代半ばの魅惑的な女性は誰かの目を奪った。
ぼくらは動物園にいる。パンダという愛らしい動物はみんなの歓声を浴びている。飼育員が餌を与え、ひとりだけ知っている時間も確かにあるのだろう。だが、それは裏方の役目で、たくさんの観衆のために備えているのだ。ぼくは希美の横顔を見る。ぼくが独り占めにしているものはどれだけあるのだろう。彼女がいることによって、どれほどの人数のひとが好影響を受けるのだろう。ぼくらは後方の列の勢いに押し出されるようにガラスの前を通過した。
「かわいいね」と言った希美は顔をほころばせている。
一匹のパンダは無数の観客を魅了した。飼育員に嫉妬もない。独占欲もない。まさに、すがすがしいことだった。希美は離れ離れにならないようにぼくの手を握る。幼少期の彼女もきっと父か兄弟の手を握ったことだろう。ぼくは、この日の希美を占有する。それで充分だと思った。それ以上を求めるから、話はこんがらがり、ややこしくなった。そのややこしさの束ねられた固まりを慎重に解きほぐせば、希美との関係の継続を熱心に願う自分が中心にあった。おにぎりのなかの梅干しのように、絶対に必要なものであった。ならば嫉妬は海苔のようなものであるのか。もし、周りを包まなければただの握りしめられた白いご飯。それも空腹時ならきっとおいしいのだろう。では、空腹とはどういうことなのだろう。飢餓とどう違いがあるのだろう。大きな差は、次の食欲を満たすものが準備されているか否かなのか。ぼくの愛は、どちらに比重があるのだろう。得ることもある空腹か、それとも永遠の飢えが待ちかまえているのか。
ぼくらは甲高く鳴く鳥の前にいつの間にか出ていた。その鳥もパンダの地位に嫉妬するのだろうか。ただ、この生き物の願いは上空にある檻を取り払うことだけのようにも思えた。飛び立つか、居残ったままなのかは度外視にしても。