27歳-16
冷蔵庫のなかのジャムがとっくに賞味期限が切れていることにいま気付いた。ぼくは瓶のふたを開け、中味をレジの袋に入れ、瓶をすすいだ。別々に捨てられる。日付だけの基準だが、見た目は傷んでいるようにも思えず、香ばしい匂いもした。新しいものを買い直すことを検討するが、特別、緊急を要する問題でもなかった。それに、朝、トーストを食べるという習慣もどこかに置き忘れてしまっていた。
何個ものジャムを買いためることも必須ではない。ひとつが終われば、ひとつを買う。ぼくは戸棚を開け、いらなくなったものを処分するために点検をはじめた。わざわざ開けなければそれらはいつまでも居続ける。当然のことだ。ぼくは何が入っているかも覚えていない。急に発熱でもすれば薬のことを思いだす。指でも切れば、絆創膏のありかも探す。家具でも買えば、ドライバーを見つける。その切羽詰まった必要もなければ、安らかに暗い冷ややかな場所で眠りつづけることができるのだ。
すると、玄関のチャイムが鳴る。そこに駅ビル内の店のロゴが印字された買い物袋を下げた希美の姿があった。
「どうしたの、こんなに散らかして。大掃除?」希美が床に散乱しているものを見つめて訊いた。
「いや、そうじゃないけど、急に気になって」
「気になると、やめられなくなるよね」そう言うと、いくつかのものをつかみ、ラベルや用途を確認した。
希美はしゃがむと乾いた布でほこりを拭い、ぼくに手渡した。もし、ぼくが十一年前の愛を継続していたら、この関係がそもそもなかったことを再度、思い出す。あれは賞味期限が切れた訳でもない。愛は確かに新鮮なままだった。正確には、まだ愛にもならないものかもしれない。産着でくるまれた愛の新芽。瓶のなかで発酵も起こっていなければ、もちろん、腐敗も生じていなかった。これからが甘味度を増す時期で、最高潮を迎えるはずだった。前奏が終わり、静かで穏やかな起伏がこころを高め、最終章に至る。だが、タクトは直ぐに置かれた。譜面も揃っていなかった。それは演奏と同時に書き足すようなものだった。自転車操業。ぼくは不似合いな言葉をあえて当てはめる。自虐の証拠として。ぼくは観客の立場になり指定のシートから、前方の一段高い舞台に陣取り演奏の指示を待ちわびるオーケストラの面々を呆然と見守る。あれが、過去の等身大のぼくの姿なのだろう。指示がないので微動だにできない。
「どれも、思い出がある」と、突然、希美が言った。
「とくにないよ、こんなものに」ぼくは何に使うか分からないコードの端を持った。
「じゃあ、捨てる?」
「何かに使うのかな?」ぼくのものでありながら、もう既にぼくのものとして使われなくなったものたち。引っ越しでもしなければ、ずっと、居座りつづけるものたち。捨てることさえ勇気がいるのだろうか。勇気はそのなかに拒むという要素を小さな芯として内在させているようだ。ぼくは、その拒みの理由をあれこれと考える。
結局、いくつかの袋に選り分けられ、残るものと捨てるものが決められた。ぼくは手を洗い、外出のついでにゴミ捨て場に持って行った。
「さようなら、過去のものたち」希美はわざと演技者のような声音を用い、きっぱりとそう言った。
ぼくらはスーパーでささいな未来を買う。今日の食材。紅茶のパック。明日のミルク。
「このTシャツ、ちょっと、えりがヨレヨレ過ぎない?」スーパーを出て家までの道を歩きながら、希美はぼくの首回りに手を入れた。
「そうかな、これも捨てるタイミングかな。気に入っていたのにな」ぼくは残念そうに告げる。
「わたしは、捨てないでね」希美はふざけている。
「なんだよ、今日は、一日、女優みたいなふりするのか」
「それぐらい、大切にしてくれればいいのに」
「してるよ」
多分、しているのだろう。ぼくには構想がある。譜面もちょっとずつ書き足している。おそらくこの女性と結婚するのであろうという淡い期待もある。その記号をどう表記するのかは分からない。まだ、紙のすみにメモ書きをしているぐらいだ。楽団員に教え込む。こういう音色で。もうちょっと官能的で、もうちょっと跳びはねるようにと。
ぼくの女優はシチューを作っている。安っぽい換気扇が頭上でまわっている。そこから外で遊ぶ子どもたちの声が侵入してくる。アクセント。完璧なる譜面があっても楽器を奏でるひとがいなければ宝の持ち腐れで、反対に演奏者がいても、ここちよいメロディーがなければ、ただの曲がった板を組み合わせたものの番人に過ぎなかった。ぼくらは演奏したり、自分たちの物語に出演もする。大まかな指示はあるのだろうか。ぼくら自身で力を合わせ生み出すことが重要なのだろう。ぼくは過去に破り捨てたものもどこかに置いていた。押し入れや引き出しの奥に隠されている。この希美にだって、成し遂げられなかった夢のひとつやふたつはあるのだろう。そこに新たな楽譜を継ぎ足していく。まっさらなものなど手には入れたくもない。いや、演奏次第では新鮮になるのだ。ぼくは料理の完成した匂いをかぐ。ここで、最高潮のシンバル。だが、鳴らない。ホールは静かなままだ。しかし、希美の暖かな声が響く。それは何よりも聞きたい音色だった。ぼくの部屋をみたし、こだまさせたい官能さも真実味も帯びたぼくの耳の鼓膜を揺らす素敵な音だった。
冷蔵庫のなかのジャムがとっくに賞味期限が切れていることにいま気付いた。ぼくは瓶のふたを開け、中味をレジの袋に入れ、瓶をすすいだ。別々に捨てられる。日付だけの基準だが、見た目は傷んでいるようにも思えず、香ばしい匂いもした。新しいものを買い直すことを検討するが、特別、緊急を要する問題でもなかった。それに、朝、トーストを食べるという習慣もどこかに置き忘れてしまっていた。
何個ものジャムを買いためることも必須ではない。ひとつが終われば、ひとつを買う。ぼくは戸棚を開け、いらなくなったものを処分するために点検をはじめた。わざわざ開けなければそれらはいつまでも居続ける。当然のことだ。ぼくは何が入っているかも覚えていない。急に発熱でもすれば薬のことを思いだす。指でも切れば、絆創膏のありかも探す。家具でも買えば、ドライバーを見つける。その切羽詰まった必要もなければ、安らかに暗い冷ややかな場所で眠りつづけることができるのだ。
すると、玄関のチャイムが鳴る。そこに駅ビル内の店のロゴが印字された買い物袋を下げた希美の姿があった。
「どうしたの、こんなに散らかして。大掃除?」希美が床に散乱しているものを見つめて訊いた。
「いや、そうじゃないけど、急に気になって」
「気になると、やめられなくなるよね」そう言うと、いくつかのものをつかみ、ラベルや用途を確認した。
希美はしゃがむと乾いた布でほこりを拭い、ぼくに手渡した。もし、ぼくが十一年前の愛を継続していたら、この関係がそもそもなかったことを再度、思い出す。あれは賞味期限が切れた訳でもない。愛は確かに新鮮なままだった。正確には、まだ愛にもならないものかもしれない。産着でくるまれた愛の新芽。瓶のなかで発酵も起こっていなければ、もちろん、腐敗も生じていなかった。これからが甘味度を増す時期で、最高潮を迎えるはずだった。前奏が終わり、静かで穏やかな起伏がこころを高め、最終章に至る。だが、タクトは直ぐに置かれた。譜面も揃っていなかった。それは演奏と同時に書き足すようなものだった。自転車操業。ぼくは不似合いな言葉をあえて当てはめる。自虐の証拠として。ぼくは観客の立場になり指定のシートから、前方の一段高い舞台に陣取り演奏の指示を待ちわびるオーケストラの面々を呆然と見守る。あれが、過去の等身大のぼくの姿なのだろう。指示がないので微動だにできない。
「どれも、思い出がある」と、突然、希美が言った。
「とくにないよ、こんなものに」ぼくは何に使うか分からないコードの端を持った。
「じゃあ、捨てる?」
「何かに使うのかな?」ぼくのものでありながら、もう既にぼくのものとして使われなくなったものたち。引っ越しでもしなければ、ずっと、居座りつづけるものたち。捨てることさえ勇気がいるのだろうか。勇気はそのなかに拒むという要素を小さな芯として内在させているようだ。ぼくは、その拒みの理由をあれこれと考える。
結局、いくつかの袋に選り分けられ、残るものと捨てるものが決められた。ぼくは手を洗い、外出のついでにゴミ捨て場に持って行った。
「さようなら、過去のものたち」希美はわざと演技者のような声音を用い、きっぱりとそう言った。
ぼくらはスーパーでささいな未来を買う。今日の食材。紅茶のパック。明日のミルク。
「このTシャツ、ちょっと、えりがヨレヨレ過ぎない?」スーパーを出て家までの道を歩きながら、希美はぼくの首回りに手を入れた。
「そうかな、これも捨てるタイミングかな。気に入っていたのにな」ぼくは残念そうに告げる。
「わたしは、捨てないでね」希美はふざけている。
「なんだよ、今日は、一日、女優みたいなふりするのか」
「それぐらい、大切にしてくれればいいのに」
「してるよ」
多分、しているのだろう。ぼくには構想がある。譜面もちょっとずつ書き足している。おそらくこの女性と結婚するのであろうという淡い期待もある。その記号をどう表記するのかは分からない。まだ、紙のすみにメモ書きをしているぐらいだ。楽団員に教え込む。こういう音色で。もうちょっと官能的で、もうちょっと跳びはねるようにと。
ぼくの女優はシチューを作っている。安っぽい換気扇が頭上でまわっている。そこから外で遊ぶ子どもたちの声が侵入してくる。アクセント。完璧なる譜面があっても楽器を奏でるひとがいなければ宝の持ち腐れで、反対に演奏者がいても、ここちよいメロディーがなければ、ただの曲がった板を組み合わせたものの番人に過ぎなかった。ぼくらは演奏したり、自分たちの物語に出演もする。大まかな指示はあるのだろうか。ぼくら自身で力を合わせ生み出すことが重要なのだろう。ぼくは過去に破り捨てたものもどこかに置いていた。押し入れや引き出しの奥に隠されている。この希美にだって、成し遂げられなかった夢のひとつやふたつはあるのだろう。そこに新たな楽譜を継ぎ足していく。まっさらなものなど手には入れたくもない。いや、演奏次第では新鮮になるのだ。ぼくは料理の完成した匂いをかぐ。ここで、最高潮のシンバル。だが、鳴らない。ホールは静かなままだ。しかし、希美の暖かな声が響く。それは何よりも聞きたい音色だった。ぼくの部屋をみたし、こだまさせたい官能さも真実味も帯びたぼくの耳の鼓膜を揺らす素敵な音だった。