爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 27歳-14

2014年02月09日 | 11年目の縦軸
27歳-14

 希美のきゃしゃな白い腕には時計がはまっている。赤い革。それは刻々と変わる時間を確認することよりも、彼女を装飾するために用いられているようだった。ぼくは彼女の生まれたことを祝って、数ヶ月前にプレゼントをした。二十五年目。ぼくは二十五才の女性がこれほどまでに魅力的になれることを知った。つぼみではなく開花。完全な満開がどこにあるのかも分からないが、この日でも充分、ピークでもあるのだろう。ぼくはその瞬間に立ち会えた。

 彼女は愛用の時計ももっていた。ぼくは交際前にその時計をしている彼女のきゃしゃな手首も見ていた。日によって使い分けるようになる。ぼくのあげた方がカジュアル過ぎるので、休日はこちらをしていることが多かった。シックな平日の彼女。黙っていれば、理知的なものが彼女を占有し、全身を覆う。しゃべりだすと理知的なものがちょっとだけ破れ、ひとなつっこさが表面に出てくる。クリームで覆われた状態をスプーンですくうと下からコーヒーが出てくるように。

 今日はふたりとも休みだ。外はしばらく前から大雨になっていた。近場での買い物を二人で済ませ家に戻ると彼女は腕時計を外し、右手でその周囲をこすった。横殴りの雨は急に窓にうちつけて音をたてている。彼女は会社帰りに会うような化粧をしていない。黒い縁のメガネをかけていた。視力はそれほど悪くはないはずだ。むきだしの素顔をさらすのを避けるように、そのメガネが防御の役目を担っているようだ。

「きちんと、化粧をするようになったのって、いつぐらいから?」
「ちゃんと、毎日、するようになったのは勤めてから。なんで?」
「理由なんか、ないよ。毎日、毎日、大変だなって」
「だって、毎日、ひげを剃るでしょう? 今日は、伸びてるけど。おひげ」

「お、をつけるものじゃないけど。敬意に値しないし」
「敬ってるからじゃないよ。お薬、お財布、お箸。ね?」
「ちょっと、大事なものたちだね」
「ちょっと」

 ぼくら少年は普通に振舞っていたはずなのに、いつか、無防備な女性の姿さえ見られなくなる。過渡期。化粧をしていない顔の女性とは会えなくなり、指輪や、いくつかの装飾具が彼女たちを覆うようになる。爪は塗られ、髪も淡く染められる。同じ体育の時間にドッジボールのコート内を逃げ回った少女たちがなつかしかった。だが、ぼくは焦がれるという点で成熟していくのだ。その分、女性の靴のかかとも自然と高くなった。歩きやすさよりも、見栄えの方が重要であるようだった。

 ぼくは彼女のメガネをはずす。その権利がぼくには充分あった。彼女はぼくのアゴを撫でる。彼女にもそうする権利がある。そして、ひっぱる仕草までした。ぼくは痛みを感じる。ささいな痛み。痛痒という言葉には程遠い、一瞬の肌の緊張。彼女の顔の下半分には毛らしきものはない。つるりとしていた。ぼくは公平かどうかも考えている。ぼくはボールをもって少女たちを追いまわす。その結果が、どうもこれだった。この午後のひとときのために追いまわしていたようだった。

 その後しばらくすると、彼女は目をつぶって寝ていた。ぼくは薄い毛布を彼女の上にかける。寝ているはずなのに希美は毛布のはじをつかみ、引っ張りあげる動作をした。ぼくは洗面台の鏡の前まで行き、顔を洗った。ぼくの顔を両手ではさんだ希美の冷たい指。与えられた資産の効果的な活用としての化粧。そのままも美しいが、森や木々も剪定という手を加えて、新たな美しさを上積みさせることができるのだという証拠。だが、いまはすやすやと寝ている。利益も損失もまったくない無防備な寝顔。寝ている顔を見るということも、なかなか難しいことだ。ぼくは引き出しを開け、希美のカメラを取り出した。レンズのキャップを取り、フラッシュがつかないことを確認して、希美の顔に向けた。小さなシャッター音がする。そして、元通りにしまった。直ぐに見ることはできない。ぼくのまぶたの裏だけにその映像がいまのところはある。

 ぼくは彼女の化粧品の瓶をながめる。のこっている量は当然のことまちまちだ。大きさも不揃いで一致していない。あと数滴で終わりそうな瓶もある。これと同じものを希美は新たに買い足すのだろうか。それとも、同じ効果が見込める別の種類の新製品を選ぶのだろうか。ぼくには分からない。自分はその瓶の底にとどまっている数滴に愛着を感じようと決める。新製品というものは多くを期待される。このあどけない寝顔の希美は、ぼくにいったい何を期待するようになるのだろう。ぼくは、それに対してなにができるのだろうか。球をつかんで少女たちを追いまわすことでは決してない。もっと責任が伴うものだ。女性は輝けるもので身を飾り、男性たちは責任をつかんだ。だが、それも外側ではなく、もっと深い内面の話のようでもあった。ぼくは冷蔵庫を開け、冷たい飲み物を探した。小さな、小さなビールの缶があった。小鳥が水を飲む量ぐらいしかないほどの小ささで、ぼくはそのことで不思議と切なさを感じる。ぼくはもっと容積を必要としている。その缶の大きさが愛情と比例しているようにも思えた。だから、ぼくは希美に傾き過ぎていた。ぼくはその小さな缶をまた奥に仕舞い、もっと長い缶を見つけた。ぼくの丸い爪はなかなかふたを開けられず、カチカチという金属的な音がなった。ぼくは希美の動く姿を見たかったはずだが、この場では目を覚まさせないことだけが唯一の願いだったのだ。
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