27歳-17
同じものに向かって対象を見るということが単純に幸せに近いと気付く。
ぼくは希美に誘われ、美術館に来ていた。彼女は一枚の絵を見たがっていた。ぼくらはその前にいる。ぼくは希美をまっすぐに見つめるということに飽きることはないだろう。だが、横にいるだけでもうれしいものだった。ぼくは別の絵にも感心している。素通りさせずに、立ち止まらせる力のあるものが数点あった。描くという衝動にかられ、それなりの時間をつかってから描き終えたという段階になり、誰かが購入して手を離れ、紆余曲折があって外国の美術館に保管され、いまは東京のここにあった。その変遷を経たわりに、どれもみずみずしさは失われていない。昨日、描き終えたばかりのように。
「これ、シャガール。この一枚」と、希美はうれしそうに言った。その場で飛び跳ねることはできないが、こころのなかではそうしているようだった。かかとが鳴って甲高い音を響かせなくても、全身で訴えていた。
ぼくは希美がよろこばなかったら、簡単に数秒だけ見つめて直ぐに印象全体を忘れてしまったかもしれない。だが、希美の動きに合わせるため、ぼくらは肩を並べ、その絵の前で立ち尽くす。
男女が手をつなぎ、空中を浮遊している。青が主張をしている。いや、主張という言葉をあてはめるには、あまりにも淡い色彩だった。ぼくは過去に自分もこのような気持ちになったことを思いだしていた。その過去というものには、ひとりしか出演できない。だから、あの少女だった。
「いい絵でしょう?」ぼくも見惚れていることに、自分との同調を感じた希美は感激をつつみかくさずにあらわした。
「そうだね」ぼくはこの絵の判断をわざと先延ばしにするように意味もなくそう言った。接して受ける影響がどういうタイプのものか、猶予が与えられる。もし、この絵が現実ならば、絶対に地面に足が着いているべきだ。しかし、この満足そうな表情には、この浮遊が不可欠だった。これは、それでも満足なのだろうか? 終わることが決められている間で最高に楽しもうとしていることなのか。悲劇が来るまえに、喜びをいただこう。
ぼく自身が画布に描かれていたとしたら、となりの女性は希美であるべきだった。ぼくはこの現在の幸福を、自分に起こり得た最高の地点と考えている。それは一足飛びに迎えた高みではない。一段ずつ階段をのぼり、ここに到達したのだ。これ以上の高さがもしないとすれば、あとはゆっくりと下降するだけなのだろうか。下降しかないのならば、それは当然ゆるやかにしなければならない。別の次元にもちこまないために。
いや、ぼくは嘘をついている。この女性は希美の投影ではない。ぼくの過去に出現したあの少女だった。ぼくらは彼女の家に通じる塀がそびえ立つ道路で、ひしと抱き合った。ぼくはこのように人間の身体を抱いたことも、また抱きたいとも思ったことはなかった。ぼくはずっとこの女性を愛するのだろう、という誓いの言葉を自分に念じた。すると、その肉体があろうが目の前からなくなろうが、その正当性は疑われるべきものでもなくなった。ぼくはシャガールの絵を前にして、その古びた誓いをいまになって思い出している。
ぼくらは抱き合った身体を数分後に離し、ぼくはひとりで浮遊するように帰った。そこで実際に居ない彼女の手の感触を認める。幸福は落下ではない。宙に浮くことなのだ。
だが、ぼくには希美がいた。ぼくを幸福にさせてくれるのは、いまでは彼女だけだった。彼女は絵と同じようにぼくの手を握る。
「この絵みたいに、ずっと、こうしていよう」
希美がそう言うと、長い髪を結んだ小学生ぐらいの女の子がうしろで笑った。異性に対して恥ずかしさというものが芽生えるような年代だった。その子にとって、ぼくらのこの姿はどのように映るのだろう。羨望なのか、それとも羞恥なのか。醜さなのか、あこがれなのか。
「ごめんね、ここ、ずっと占有していたね」希美は膝をかがめ少女の目線にあわせて謝った。
「せんゆうって?」
「一人占めしちゃうということ」
「お兄ちゃんを、一人占め?」
「違うよ。この青い絵」
「だったら、もっと見ててもいいよ」その子は、待つことに慣れているような達観した表情になったが、直ぐに好奇心で目を輝かせた。
「わたしたちの前で見て」
ぼくと希美は後ろに下がった。すると、その空いた空間に少女と母が並んで立った。ぼくらはそのふたりの頭越しに絵をふたたび見始めた。
少女は振り返り、「もう、いっぱい見ました」と急に大人びた口調になって言った。その年頃にしかできない笑顔も同時に見せた。希美は手を振る。しかし、ぼくらももう充分、堪能した。堪能し過ぎた。
ぼくらはゆっくりと次の絵に向かう。
「占有だって。一人占めだって……」と希美は楽しそうに口にする。
「戦時下の友の戦友かと思った」ぼくは、わざとふざける。
「それも、悪くないね」
ぼくらは最後の絵を見終わり、アンケート箱の横を通った。別の一室にポスト・カードやカタログが所狭しと並べられている。はじにさっきの少女がいた。後ろ姿は、あの十一年前の記憶と重なる部分があった。あと、四、五年もすれば、ぼくみたいな男に好かれるようになっているのかもしれない。彼女も一人占めにしたがる何かを見つける。誰かを探す。探すというのは意図的な言葉であり過ぎる。ぶつかるということが意味合いとしては近いのだろう。希美は何枚かのカードを手にしている。コピーという概念も無駄なほど、本物とは無関係のようにぼくには思えた。
同じものに向かって対象を見るということが単純に幸せに近いと気付く。
ぼくは希美に誘われ、美術館に来ていた。彼女は一枚の絵を見たがっていた。ぼくらはその前にいる。ぼくは希美をまっすぐに見つめるということに飽きることはないだろう。だが、横にいるだけでもうれしいものだった。ぼくは別の絵にも感心している。素通りさせずに、立ち止まらせる力のあるものが数点あった。描くという衝動にかられ、それなりの時間をつかってから描き終えたという段階になり、誰かが購入して手を離れ、紆余曲折があって外国の美術館に保管され、いまは東京のここにあった。その変遷を経たわりに、どれもみずみずしさは失われていない。昨日、描き終えたばかりのように。
「これ、シャガール。この一枚」と、希美はうれしそうに言った。その場で飛び跳ねることはできないが、こころのなかではそうしているようだった。かかとが鳴って甲高い音を響かせなくても、全身で訴えていた。
ぼくは希美がよろこばなかったら、簡単に数秒だけ見つめて直ぐに印象全体を忘れてしまったかもしれない。だが、希美の動きに合わせるため、ぼくらは肩を並べ、その絵の前で立ち尽くす。
男女が手をつなぎ、空中を浮遊している。青が主張をしている。いや、主張という言葉をあてはめるには、あまりにも淡い色彩だった。ぼくは過去に自分もこのような気持ちになったことを思いだしていた。その過去というものには、ひとりしか出演できない。だから、あの少女だった。
「いい絵でしょう?」ぼくも見惚れていることに、自分との同調を感じた希美は感激をつつみかくさずにあらわした。
「そうだね」ぼくはこの絵の判断をわざと先延ばしにするように意味もなくそう言った。接して受ける影響がどういうタイプのものか、猶予が与えられる。もし、この絵が現実ならば、絶対に地面に足が着いているべきだ。しかし、この満足そうな表情には、この浮遊が不可欠だった。これは、それでも満足なのだろうか? 終わることが決められている間で最高に楽しもうとしていることなのか。悲劇が来るまえに、喜びをいただこう。
ぼく自身が画布に描かれていたとしたら、となりの女性は希美であるべきだった。ぼくはこの現在の幸福を、自分に起こり得た最高の地点と考えている。それは一足飛びに迎えた高みではない。一段ずつ階段をのぼり、ここに到達したのだ。これ以上の高さがもしないとすれば、あとはゆっくりと下降するだけなのだろうか。下降しかないのならば、それは当然ゆるやかにしなければならない。別の次元にもちこまないために。
いや、ぼくは嘘をついている。この女性は希美の投影ではない。ぼくの過去に出現したあの少女だった。ぼくらは彼女の家に通じる塀がそびえ立つ道路で、ひしと抱き合った。ぼくはこのように人間の身体を抱いたことも、また抱きたいとも思ったことはなかった。ぼくはずっとこの女性を愛するのだろう、という誓いの言葉を自分に念じた。すると、その肉体があろうが目の前からなくなろうが、その正当性は疑われるべきものでもなくなった。ぼくはシャガールの絵を前にして、その古びた誓いをいまになって思い出している。
ぼくらは抱き合った身体を数分後に離し、ぼくはひとりで浮遊するように帰った。そこで実際に居ない彼女の手の感触を認める。幸福は落下ではない。宙に浮くことなのだ。
だが、ぼくには希美がいた。ぼくを幸福にさせてくれるのは、いまでは彼女だけだった。彼女は絵と同じようにぼくの手を握る。
「この絵みたいに、ずっと、こうしていよう」
希美がそう言うと、長い髪を結んだ小学生ぐらいの女の子がうしろで笑った。異性に対して恥ずかしさというものが芽生えるような年代だった。その子にとって、ぼくらのこの姿はどのように映るのだろう。羨望なのか、それとも羞恥なのか。醜さなのか、あこがれなのか。
「ごめんね、ここ、ずっと占有していたね」希美は膝をかがめ少女の目線にあわせて謝った。
「せんゆうって?」
「一人占めしちゃうということ」
「お兄ちゃんを、一人占め?」
「違うよ。この青い絵」
「だったら、もっと見ててもいいよ」その子は、待つことに慣れているような達観した表情になったが、直ぐに好奇心で目を輝かせた。
「わたしたちの前で見て」
ぼくと希美は後ろに下がった。すると、その空いた空間に少女と母が並んで立った。ぼくらはそのふたりの頭越しに絵をふたたび見始めた。
少女は振り返り、「もう、いっぱい見ました」と急に大人びた口調になって言った。その年頃にしかできない笑顔も同時に見せた。希美は手を振る。しかし、ぼくらももう充分、堪能した。堪能し過ぎた。
ぼくらはゆっくりと次の絵に向かう。
「占有だって。一人占めだって……」と希美は楽しそうに口にする。
「戦時下の友の戦友かと思った」ぼくは、わざとふざける。
「それも、悪くないね」
ぼくらは最後の絵を見終わり、アンケート箱の横を通った。別の一室にポスト・カードやカタログが所狭しと並べられている。はじにさっきの少女がいた。後ろ姿は、あの十一年前の記憶と重なる部分があった。あと、四、五年もすれば、ぼくみたいな男に好かれるようになっているのかもしれない。彼女も一人占めにしたがる何かを見つける。誰かを探す。探すというのは意図的な言葉であり過ぎる。ぶつかるということが意味合いとしては近いのだろう。希美は何枚かのカードを手にしている。コピーという概念も無駄なほど、本物とは無関係のようにぼくには思えた。