爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 38歳-16

2014年02月20日 | 11年目の縦軸
38歳-16

 愛だって? それは一瞬にして燃焼するものでもなく、簡単に燃え尽きてしまうものでもなかった。ぼくは、ついちょっと前までそう考えていた。ぼくは望んでいなかったにも関わらず、花火のようなものとして認識していた。だが、頂上の景色をずっと見つづけることはできなかった。いずれ下山する。そして、あの頂での景色を大切にする。到達だけが愛でもない。過程も愛であり、失敗も愛である。

 しかし、ぼくはもう愛などというものを信じてもいなかった。Tシャツの着心地の良さや肌触りは決して定義するものではないように、あるべきものがそこにあればいいのだという解答になる。大して気にもしないことの集大成が愛らしきものである。あって当たり前ということとも違う。普段の何気なさがここちよかったり、親密さをもたらせばそれは正解であるのだ。多少の在庫をもっているという安心感は愛に勝った。いや、それが愛というものの総称にも思えた。

 絵美がいる。いなかったことも考えられる。目の前に存在するからこそ、付き合いたいという願望が生まれる。その感情を起こしたのは彼女でもあり、また自分のなかにあった燃焼物がふとしたきっかけにより点火されたのだ。燃やそうと思えば燃えるし、消そうと思えば消えた。ある時期までは。いなくなっても困らないという状況にはもう戻れないだろう。しかし、いなくなっても対処できるという判断はどこかで働いている。それがずるさでもあり大人になったことと引き換えに得た代償だった。

 では、純粋ではなくなったのか? もう大人に純粋さなど要求しないことを知っている。どうすれば、長持ちさせられるかを検討し、ある期間を楽しめるのかを分配という意味で均した。花火の結晶のような火ではなく、暖炉のなかで柔らかに暖かく燃える木材をぼくは求めていた。エキセントリックや狂気などということはぼくの生活に入る余地もなかった。

 でも、それをできるひともうらやましいとはどこかで思っていた。人目もはばからずに泣き叫ぶ女性をなだめたり、大喧嘩をしてあやまったりすることも不可能な状況ではないのだ。だが、求めていない。求めなければ大体のものは手に入らない世の中なのだ。

 では、求めたからここに絵美がいるのだろうか。その仮説も説得性に欠けた。偶然の産物を無限に積み上げることが幸福で、無限に奪い去られることが不幸だった。求めなければ、奪い取られることもないのだろうか。油断や隙が恋を終わらせ、油断しないヒリヒリとした関係もぼくが望んでいる状況ではなかった。

 ぼくと絵美は小高い丘からひとびとが住む屋根を見下ろしていた。その屋根の下のひとつひとつに無数の愛があるということを信じる気持になっていた。だが、そうさせるには情報があり過ぎた。情報というのは悲嘆のもとだった。大人は情報も悲嘆も避けられないことを知っている。いくつかには憎しみがあり、憎悪も屋根の下にはあることだろう。それは変化するにせよ、いつも良い方向に限って変化するものでもない。だが、自分の平安な気持ちがここでは勝っていた。穏やかな愛というものは潰えないのだとの信頼があった。ぼくらは声も出さずに、手を握って屋根と、その向こうの空を無心に眺めていた。

「なに、考えてるの?」と、絵美が訊く。
「あのひとつひとつの屋根の下には等身大の愛、違った言葉でいえば優しさみたいなものがあるんだなって」
「多分、あの家のなかでは赤ちゃんのおむつを替えている」と絵美は冗談まじりの口調で言う。

「じゃあ、あのなかではテストに合格したよろこびを息子から電話で告げてもらっている両親がいる」ぼくは左側の屋根を指差してそう言った。
「あの屋根のなかでは蛍光灯が切れて、仕事から帰ったOLさんが驚きながらも我慢して暗いなかで夕飯をつくる羽目になる」
「ローソクとかないのかね?」

「ある日の、わたしの話だよ」
「買いに行かないの?」
「面倒になって、明日の仕事帰りにしようと思ったから。テレビをつければ、それなりに明るくなったし」そして、笑った。「切れる直前に警告のように教えてくれればいいのにね」
「誰か、発明するだろう」
「楽観的」

 ぼくらは丘をあとにする。頂上にいつまでもいられない。それにしては小さな勾配は高さをもたらせてはくれなかった。これぐらいの位置がぼくの心境として正しく、身の丈にあった相応しい状態なのだろう。ぼくらは歩きながら赤ちゃんの泣き声をきき、電話の鳴りつづける音もきいた。幸福がかもす音であれば良いのにとぼくは考えている。ぼくは自分の家の照明のことを思いめぐらす。あれはいつ取り替えたのだろう? そんなことは一々覚えていないものだ。簡単に忘れる。いつか取り替える日が来る。それは訓練も技術もいらない簡単なことだった。手を伸ばし、はずして付け替える。古いものは処分する。痛みも悲しみも生じさせてはくれない。痛みというのはぼくの要求だったのだろうか。平気で別れることができていたら、ぼくはもっと平和で穏やかな人物だったかもしれない。しかし、あの痛みも確かに必要なものだったのだ。ぼくという人体の小指の第二関節から先ぐらいは痛みでできているのだろう。それぐらいで済むのなら、あと数回は乗り越えられそうにも思えた。
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