38歳-15
「大丈夫だよ、生理があったから」絵美は無意識ながら自分の左手で腹部を抑え、そう言った。
「そう、やっぱり」
彼女は一年に何度、そうしたチャンス(あるいは失策)と向き合うのだろう。年におよそ十二回ほどのチャンス(あるいは失策)が巡ってくるのだろうか。女性としての自然な資質が及ぼすサイコロの目やルーレット。約数十年に亘って。
ぼくは喜びながらも、それは完全な喜びともいえない。反対に真剣な様子で絵美に異なった真相を打ち明けられたら、どういう率直な応対が待っているのか自分でも分からなかった。
ぼくは少なくとも今後一か月間は父親になるのを避けられ、彼女も同じ時間だけ母親、もしくは母親になる準備をまぬがれた。ぼくらの行為はそもそも、そうした決意は含まれていないのだ。
おそらく前のふたりの女性は誰かの母親になっているのだろう。ぼくは彼女たちが病院で出産する現場の幻想をもてあそぶ。化粧っ気のない顔。格闘をした証拠。生み出された小さなかたまり。泣き声。ぼくは、絵美の安堵した顔を見ながら、そのいくつものシーンを大切にしていた。
「うれしくないの?」
「うれしいよ。ガッツ・ポーズしたいぐらい」
「変なの」
ぼくらはまた一か月後に判明する賭けのために服を脱いだ。サイは投げられた。
実行するひと、分析するひと、批評するひと。楽しみと賢さの分野を分ける。能動者。受動者。父親になるひと。責任から逃れられるひと。酔いだけ手に入れて、二日酔いの苦痛からは無縁でいられるひと。ぼくは精神的なものの分量に比重を置いてきたつもりだったが、それは若さとともに段々と薄れていくようなものだった。ぼくはむかし、希美が横にいることでなぐさめられ、ある種の問題を乗り越えた経験があった。精神という単体とは別の次元で、肉体の接触がもたらす安らぎがあった。絵美はまた違う。ぼくらは時にぶつかり、その解決策としても身体をつかった。それは口ゲンカよりもっと皮肉な形で、お互いを理解する道具だった。ぼくは潔癖でもなく、当然、不潔という範疇はもう捨てた。極論をいえば絵美の忠節を問題にすることもやめていた。しかし、ぼくに妊娠の可能性の有無を告げる以上、ぼくには責任があり、ぼくが父親となる仮約束はあった。
厭世的ではいられないほどの喜びに包まれているのも事実だった。ぼくは行為者であり能動者であった。他人の批評も気にならず、ふたりだけがもちよった時間だった。ぼくらは外をいっしょに歩く。会話が重要であり、ぼくは彼女の声が好きだった。ぼくらは同じような仕事をしており、その手際の良さや能率を認め合っていた。どこが合わないというところもなく、犠牲にしていることもなにもない。完璧であるといえばそう思えたが、もう、完全さなど求めていないのもまぎれもない事実だった。
だが、事実という言葉の積み重ねで関係を分類し、分析することもできない。相性という不確かなものが多くを占め、匂いひとつとっても好悪は、はっきりとするものだ。
希美と話し合ったむかしのことを思い出していた。彼女はぼくとの関係を安心できるものと確認するため、さまざまな質問をした。ぼくはときには愚問だと思いながらも、誠実に答えた。そのぼくの口から飛び出したものは、切迫した状況でのぼくの行動としての答えと比較するならば、まったく違うものだと頭の奥で分かっていた。ぼくの答えは気に入られるように手を加え、秘伝のスパイスを入れて味付けをごまかした。いくら問いの答えを重ね合わせても安心を手に入れることは難しいだろう。どこかで答えと答えには漆喰でも埋め尽くせなかった隙間ができ、漏水をもたらすようだった。それが過去の希美の涙の原因だったのだろう。
ぼくは自分の十一年後の世界にいた。その世界に希美は引っ張り込めなかった。代わりに絵美がいる。彼女はぼくを知るために、知り尽くすために質問を繰り返すことなどはしなかった。彼女にも経験があり、男性を見抜く目、あるいは、見過ごす目が発達してきているのだろう。ぼくはその快適さに甘える。そして、父親にもならず、夫にもならず、この甘美さを吸い尽くそうとしていた。
「どうしたの、大丈夫?」
夜中、ぼくは肩を揺すられ、起きる。
「どうしたの?」
「違うってば、なんだか、うなされていたから心配になって」絵美の深夜の顔。こわがった様子。
ぼくは夢を見ていたのだ。その中で、過去のある瞬間を再び経験し、謝るべきかどうか確かに迷っていた。そういう反省を自分に促そうとしている自分は悪人にはなり得ず、また実際に過去にしたのだから悪人とも呼べた。ぼくは別の時間軸で自分の行いを判断しようとしていた。完全に引き離すことなど同じ感情をもちつづけた人間には困難で、また同一だと思えるほどぼくら(ぼくと過去のぼく)は、はっきりと区別され他人という状態になってしまっていた。兄弟よりもより親密で、親友というには欠点を知り過ぎ、その長所や短所もふくめて愛することも不可能だった。
「こんなときに言うのも、なんだけど、子どもができても、どうにかするよ」
「え?」
プロポーズと呼ぶには悲観的過ぎ、関係を永続させるためのひとことだったら、ロマンチックとはほど遠かった。彼女は薄くなったTシャツを着ていた。その胸の小さなふくらみの上にアルファベットの文字が並んでいた。ぼくは目も見えず、点字でそれを読み取れればいいのにと利己的に考えていた。彼女は立ちあがって冷蔵庫から取り出した水を飲んだ。仕舞うかどうか悩んだ末、ふたをしめてからぼくのもとに持って来ようとしていた。ぼくの目は胸の文字が読めるぐらいに冴え、その分だけ夜は遠ざかってしまっていた。
「大丈夫だよ、生理があったから」絵美は無意識ながら自分の左手で腹部を抑え、そう言った。
「そう、やっぱり」
彼女は一年に何度、そうしたチャンス(あるいは失策)と向き合うのだろう。年におよそ十二回ほどのチャンス(あるいは失策)が巡ってくるのだろうか。女性としての自然な資質が及ぼすサイコロの目やルーレット。約数十年に亘って。
ぼくは喜びながらも、それは完全な喜びともいえない。反対に真剣な様子で絵美に異なった真相を打ち明けられたら、どういう率直な応対が待っているのか自分でも分からなかった。
ぼくは少なくとも今後一か月間は父親になるのを避けられ、彼女も同じ時間だけ母親、もしくは母親になる準備をまぬがれた。ぼくらの行為はそもそも、そうした決意は含まれていないのだ。
おそらく前のふたりの女性は誰かの母親になっているのだろう。ぼくは彼女たちが病院で出産する現場の幻想をもてあそぶ。化粧っ気のない顔。格闘をした証拠。生み出された小さなかたまり。泣き声。ぼくは、絵美の安堵した顔を見ながら、そのいくつものシーンを大切にしていた。
「うれしくないの?」
「うれしいよ。ガッツ・ポーズしたいぐらい」
「変なの」
ぼくらはまた一か月後に判明する賭けのために服を脱いだ。サイは投げられた。
実行するひと、分析するひと、批評するひと。楽しみと賢さの分野を分ける。能動者。受動者。父親になるひと。責任から逃れられるひと。酔いだけ手に入れて、二日酔いの苦痛からは無縁でいられるひと。ぼくは精神的なものの分量に比重を置いてきたつもりだったが、それは若さとともに段々と薄れていくようなものだった。ぼくはむかし、希美が横にいることでなぐさめられ、ある種の問題を乗り越えた経験があった。精神という単体とは別の次元で、肉体の接触がもたらす安らぎがあった。絵美はまた違う。ぼくらは時にぶつかり、その解決策としても身体をつかった。それは口ゲンカよりもっと皮肉な形で、お互いを理解する道具だった。ぼくは潔癖でもなく、当然、不潔という範疇はもう捨てた。極論をいえば絵美の忠節を問題にすることもやめていた。しかし、ぼくに妊娠の可能性の有無を告げる以上、ぼくには責任があり、ぼくが父親となる仮約束はあった。
厭世的ではいられないほどの喜びに包まれているのも事実だった。ぼくは行為者であり能動者であった。他人の批評も気にならず、ふたりだけがもちよった時間だった。ぼくらは外をいっしょに歩く。会話が重要であり、ぼくは彼女の声が好きだった。ぼくらは同じような仕事をしており、その手際の良さや能率を認め合っていた。どこが合わないというところもなく、犠牲にしていることもなにもない。完璧であるといえばそう思えたが、もう、完全さなど求めていないのもまぎれもない事実だった。
だが、事実という言葉の積み重ねで関係を分類し、分析することもできない。相性という不確かなものが多くを占め、匂いひとつとっても好悪は、はっきりとするものだ。
希美と話し合ったむかしのことを思い出していた。彼女はぼくとの関係を安心できるものと確認するため、さまざまな質問をした。ぼくはときには愚問だと思いながらも、誠実に答えた。そのぼくの口から飛び出したものは、切迫した状況でのぼくの行動としての答えと比較するならば、まったく違うものだと頭の奥で分かっていた。ぼくの答えは気に入られるように手を加え、秘伝のスパイスを入れて味付けをごまかした。いくら問いの答えを重ね合わせても安心を手に入れることは難しいだろう。どこかで答えと答えには漆喰でも埋め尽くせなかった隙間ができ、漏水をもたらすようだった。それが過去の希美の涙の原因だったのだろう。
ぼくは自分の十一年後の世界にいた。その世界に希美は引っ張り込めなかった。代わりに絵美がいる。彼女はぼくを知るために、知り尽くすために質問を繰り返すことなどはしなかった。彼女にも経験があり、男性を見抜く目、あるいは、見過ごす目が発達してきているのだろう。ぼくはその快適さに甘える。そして、父親にもならず、夫にもならず、この甘美さを吸い尽くそうとしていた。
「どうしたの、大丈夫?」
夜中、ぼくは肩を揺すられ、起きる。
「どうしたの?」
「違うってば、なんだか、うなされていたから心配になって」絵美の深夜の顔。こわがった様子。
ぼくは夢を見ていたのだ。その中で、過去のある瞬間を再び経験し、謝るべきかどうか確かに迷っていた。そういう反省を自分に促そうとしている自分は悪人にはなり得ず、また実際に過去にしたのだから悪人とも呼べた。ぼくは別の時間軸で自分の行いを判断しようとしていた。完全に引き離すことなど同じ感情をもちつづけた人間には困難で、また同一だと思えるほどぼくら(ぼくと過去のぼく)は、はっきりと区別され他人という状態になってしまっていた。兄弟よりもより親密で、親友というには欠点を知り過ぎ、その長所や短所もふくめて愛することも不可能だった。
「こんなときに言うのも、なんだけど、子どもができても、どうにかするよ」
「え?」
プロポーズと呼ぶには悲観的過ぎ、関係を永続させるためのひとことだったら、ロマンチックとはほど遠かった。彼女は薄くなったTシャツを着ていた。その胸の小さなふくらみの上にアルファベットの文字が並んでいた。ぼくは目も見えず、点字でそれを読み取れればいいのにと利己的に考えていた。彼女は立ちあがって冷蔵庫から取り出した水を飲んだ。仕舞うかどうか悩んだ末、ふたをしめてからぼくのもとに持って来ようとしていた。ぼくの目は胸の文字が読めるぐらいに冴え、その分だけ夜は遠ざかってしまっていた。