遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉 43 ちょっといい話 

2015-04-26 14:18:32 | 日記
          ちょっといい話(2013.7.7日作)


   都心からの乗換え駅

   郊外へ向かう電車の中 向き合った座席には

   剛毛の髪に 白いものが目立つ

   うだつの上がらぬ風情の小柄な

   サラリーマン風の男がいた

   午後七時半を過ぎて

   明りを灯した電車は ゆっくりと人影もまばらな

   周囲を闇に包まれたホームを 滑り出した

   都心から一時間 車内には

   空席もいくつか見える乗客数

   向かい合った座席の男は

   電車が動き出すと 膝の上に載せ 抱えていた

   茶色の色褪せた 手提げ鞄を開けて 中から

   小型の魔法瓶を取り出し 自分が座った座席の

   窓際の隅に置いた 続いて

   弁当箱大の 赤いポリエチレン容器と

   小さな透明グラスを取り出した 鞄は

   閉じて両膝の上に横にして置き その上に  

   グラスと赤い容器を置いた

   男は馴れた手つきで 赤い容器の蓋を取った 中には

   人参 コンニャク 椎茸などを煮込んだ 

   煮物が入っていた 格別 それに意を払う様子もなく 男は                                                                                             

   そばに置いた魔法瓶を手にして 蓋を開けると

   鞄の上に置いたグラスに 透明な液体を注(つ)いだ 

   魔法瓶は蓋を閉めて また 元の場所に戻した

   一連の作業が手馴れた様子で 手際よく行われると 男は

   左手で押さえたグラスを そのまま 口元に運んだ

   透明な液体を一口 口に含むと その味を満喫するように

   口元を引き締めて ゆっくりと 飲み下した 透明な液体は

   日本酒らしかった 男は続いて 赤い容器に入った煮物の人参に

   何処からか取り出していた 爪楊枝を刺して 口に運んだ

   電車は新興住宅街の それぞれに明りを灯した家々が建ち並ぶ

   夜の中を走っていた

   男は一口 グラスの液体を口に含むと 続いて一口

   爪楊枝で刺した煮物を口にした 静かにゆっくりと

   一連の動作が続けられて 男は 口を動かしている間

   見るともない視線を 車窓の外の夜の闇に向けていた

   やがて 時が過ぎ 顔がいくぶん 朱に染まって来た頃

   男は突然 話し掛けて来た

  「このつまみは 女房が日替わりで 作ってくれるんですよ

   毎日 二合の酒の燗をして この

   魔法瓶に入れてくれてね」


  「わたしに取ってはこうして 誰にも邪魔されずに

   一人で静かに一杯やる この電車の中の一時間が

   人生最高の時間なんですよ 生きる事の辛さも

   世の中の嫌な事も 何もかも忘れて静かに一人

   酒の味を楽しむ事の出来る 貴重な時間なんです

   家へ帰り着けば もう

   晩酌どころの時間ではないですからね」


  「二十年続く習慣なんです

   片道二時間の通勤電車 四十年になる

   サラリーマン人生も来年三月で定年です」


  「課長止まりの うだつの上がらないサラリーマン人生でしたが どうにか

   一軒の家だけは 購入して 二人の娘も無事 嫁がせました」


  「でも こうして一人で静かに呑んでいると 時々 ふっと

   虚しくなる事がありますよ いったい

   俺の人生はなんだったんだろうってね」


  「ろくな出世も出来ず 働きづめの人生でした

   楽しみらしい楽しみと言われても何一つなく 女房にも

   何一つ いい思いをさせてやる事が出来ませんでした」


  「でも もう 

   そんなサラリーマン人生も来年で終わりです」


  「定年になったら せめて一度ぐらいは

   女房を連れて何処か

   外国旅行でもしてみたいとも思っているんですが・・・・・・」


  「家のローンもまだ 残っているし」


  「実際 人間の一生なんて

   寂しいもんですねえ」


   男の眼には うっすらと 滲むものがあった

   電車が停まった

   電車は

   話し相手のいなくなった男を乗せて また

   夜の闇を走り出した

   

   

   

   


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