批評対話3日目
対象作品は、
山の音楽舎
『うたのたね』
最初に演出家からの作品の意図が語られた。
全体に丸い形が入用二時にはふさわしいだろうということで、全体のコンセプトを既定した。角がなく、柔かいもので全体を統一しようと思った。
自分は専門は、“オイリトミュー”というダンスをしています。
音楽的要素がベースのコンサートというイメージがある。
それに対して、
まず子どもたちの感覚の領域は、思っているよりも、もう少し広いのでは?
対象が、0歳からとありますが、
コンタクトをとるのは、0歳の親子、
つまり、大人と子どものための劇のように思えた。
そうであるならば、大人を惹きつけることは大事な要素になりますが、
大人に対しては、少しゆっくり過ぎる気がしました。
もちろん、ワークショップのようなもので補える可能性はありますが、
しかし、作品は“見せるもの”ということは大事です。
それから、
ドラマには対立(conflict)があります。
しかし、それがありませんでした。
この理論のベースにあるものが、“わらべうた”でしたが、
そこにある祈りの心のようなものが、
いったい誰が、何を祈るのか、
矛盾のような、違いのある“願い”のようなものがなかった。
それに対して演出家からは、
そういう発想はなかった、との答えが。
しかしそれは、
ドラマを構築しようという発想がなかったのではないだろうか?
あくまで、演奏会である以上、
ドラマよりも重点が置かれたのが、うたである、ということではないだろうか?
もちろん、playとcommunicateのどちらもあるだろう、 とは講師の話。
そしてもう一つ特徴的だったのは、
荘厳的で、宗教的な感じさえしました。
通常よりも、息づまる雰囲気があり、
世界の中での調和ということが感じられました。
しかし、ルールが破られる、ということがなかった。
子どもの集中力をキープするのにも、
驚き(surprise)が必要であるべきです。
例えば、客席と舞台が入れ替わるとか、
大人の観客とだけコミュニュケーションする瞬間があるとか。
大人を招き入れるということも必要になってくる。
子どもにとって良い演劇は、
大人にとっても良いものです、とのこと。
至極当然だが、論議の流れからすると、
そこへのバランスが欠けているかもしれないとも思えた。
ある意味ストレートな演劇というカテゴリーには捉えづらく、
創造団体側もそれを狙っていると言える。
しかし、うたをベースに、そのストーリーを伝えようとしていることを考えると、
それは、ドラマを見せようとしているとも言えるのではないだろうか?
これに対して、創造団体側はあくまで音楽会だというのであれば、
この問題は平行線をたどってしまう。
しかし、演出家は、出された意見に対して、
おもしろそうに、言わば発展的に聞いていように思う。
その辺のバランスのとり方も、今後追い求めていただければな、と思うのである。
最後にキーワードだけ並べると、
対象年齢がどこにあるのか、
ドラマのあり方について、
子どものためということ、親子のためということ、
そして、
子どものために良い芝居とは、
大人にとっても良い芝居であるということ。
最後のそれは、本当に大切なことだし、
この仕事に携わるものすべてが、
そうありたいと思っている。
そういう話は、いつだって、何度だって、
話をしたらいいと思いました。
赤字=北欧講師2名の話
対象作品は、
山の音楽舎
『うたのたね』
最初に演出家からの作品の意図が語られた。
全体に丸い形が入用二時にはふさわしいだろうということで、全体のコンセプトを既定した。角がなく、柔かいもので全体を統一しようと思った。
自分は専門は、“オイリトミュー”というダンスをしています。
音楽的要素がベースのコンサートというイメージがある。
それに対して、
まず子どもたちの感覚の領域は、思っているよりも、もう少し広いのでは?
対象が、0歳からとありますが、
コンタクトをとるのは、0歳の親子、
つまり、大人と子どものための劇のように思えた。
そうであるならば、大人を惹きつけることは大事な要素になりますが、
大人に対しては、少しゆっくり過ぎる気がしました。
もちろん、ワークショップのようなもので補える可能性はありますが、
しかし、作品は“見せるもの”ということは大事です。
それから、
ドラマには対立(conflict)があります。
しかし、それがありませんでした。
この理論のベースにあるものが、“わらべうた”でしたが、
そこにある祈りの心のようなものが、
いったい誰が、何を祈るのか、
矛盾のような、違いのある“願い”のようなものがなかった。
それに対して演出家からは、
そういう発想はなかった、との答えが。
しかしそれは、
ドラマを構築しようという発想がなかったのではないだろうか?
あくまで、演奏会である以上、
ドラマよりも重点が置かれたのが、うたである、ということではないだろうか?
もちろん、playとcommunicateのどちらもあるだろう、 とは講師の話。
そしてもう一つ特徴的だったのは、
荘厳的で、宗教的な感じさえしました。
通常よりも、息づまる雰囲気があり、
世界の中での調和ということが感じられました。
しかし、ルールが破られる、ということがなかった。
子どもの集中力をキープするのにも、
驚き(surprise)が必要であるべきです。
例えば、客席と舞台が入れ替わるとか、
大人の観客とだけコミュニュケーションする瞬間があるとか。
大人を招き入れるということも必要になってくる。
子どもにとって良い演劇は、
大人にとっても良いものです、とのこと。
至極当然だが、論議の流れからすると、
そこへのバランスが欠けているかもしれないとも思えた。
ある意味ストレートな演劇というカテゴリーには捉えづらく、
創造団体側もそれを狙っていると言える。
しかし、うたをベースに、そのストーリーを伝えようとしていることを考えると、
それは、ドラマを見せようとしているとも言えるのではないだろうか?
これに対して、創造団体側はあくまで音楽会だというのであれば、
この問題は平行線をたどってしまう。
しかし、演出家は、出された意見に対して、
おもしろそうに、言わば発展的に聞いていように思う。
その辺のバランスのとり方も、今後追い求めていただければな、と思うのである。
最後にキーワードだけ並べると、
対象年齢がどこにあるのか、
ドラマのあり方について、
子どものためということ、親子のためということ、
そして、
子どものために良い芝居とは、
大人にとっても良い芝居であるということ。
最後のそれは、本当に大切なことだし、
この仕事に携わるものすべてが、
そうありたいと思っている。
そういう話は、いつだって、何度だって、
話をしたらいいと思いました。
赤字=北欧講師2名の話