a letter from Nobidome Raum TEE-BLOG

東京演劇アンサンブルの制作者が、見る、聞く、感じたことを書いています。その他、旅公演や、東京公演情報、稽古場情報など。

批評対話2011 2日目 ドーナツ池のひみつ/劇団如月舎

2011-08-01 23:30:40 | The Play for Children & Young People



ドーナツ池のひみつ/劇団如月舎/代々木オリンピックセンター・リハーサル室

作 阿部夏丸(『ライギョのきゅうしょく』(講談社刊)より)
脚本 りさへ
演出 杜招徳

出演 開藤幸司 寺田和子 村上一弘 渡辺慶子 川西智也 森山悠太



まずは導入に劇団の紹介があり、
最初の質問はこの作品は教育的な作品か、芸術的な作品か、
ということでした。
言わばWhyである。

これには、どちらかというと非教育的とみられることが多い、
との答え。
しかし、デンマーク人講師たちは、
教育的な印象があったという。
(ちなみに僕も、そして、ほかの参加者も同意していた人が多かったようだ)
特にプロローグ。
先生役の俳優が、
池の中での生態系の話をし、
非常にリアルで、エコロジカルな話も交えて導入部があった。

ここで話題になったのが、
舞台と観客との合意の問題だ。

物語は池の中にある魚の小学校。
魚を含めた生態系の食物連鎖のシステムが語られ、
一方でそれを表現するために、
ありもしない魚の学校を使った。
このことを、どのように観客と合意しているか、
言い換えれば、
作り手が思うように観客が合意してくれるか、
ということだ。
その部分が伝わりにくかった。

例えば物語の中で、
いくつか選択肢があり、
選んだその選択肢がどうだったか、ということだ。
食物連鎖や、弱肉強食の厳しさや、
それでも元気に生きてほしいという願いなのか、
その世界観が人間の子どもを取り巻く状況に移し替えているのか、
どういう風にも取れてしまう危うさがあった。
そして、
レクチャーではなく、芸術として子供に届けるということや、
教育性と芸術性・娯楽性のバランスということについて語られた。
劇団側は、
「観終わった後に、勉強になったというよりは、
楽しかったと言われたい」ということだった。
しかし、それでは、どういうバランスを取りたかったのか、
ということと合わない気がした。

次に話されたのが、
Howの部分、どのような脚本の構造か。

とても端的に言ってしまえば、
イントロダクションがあり、
幼馴染との生態系の違いというジレンマがあり、
それでも違いを認め合おうということがあり、
ただ、元には戻れないということを知り、
解決されていく、
という構造だ。

問題とされたのは、
どこがNo Returnとなった部分か。
ここで興味深いには、
観客からは様々な意見が出たことだ。
食物連鎖を学んだところ、
小さい魚が食べられるところ、
ラストのところ、
それでも2匹は生き残ったというところ……等々。
前述の討論の展開を受ければ、
この部分に合意が得られていないともいえる。
そして、これは、
俳優たちも微妙に違っていたりもする。
もちろん、狙ってそういうこともあるだろうが、
やはり物語としては、
大事な部分である。
俳優の役作りが、
観客にどう影響があるか、
どういう効果があるかということで、
無意識でやられていたことを発見することになった。

役作りに関して、
俳優たちの答えは明確で、
例えば「元気に」であったり、
シンプルであった。
しかし、そのキャラクターが、この作品の中で、
どのような役割があり、
どのような効果があるのか、
ということはあまり意識されていないようだった。

最後に主演の俳優が、
照れ隠しもあったと思うが、
今日のような大人ばかりの観客ではなく、
反応がはっきりある大阪での子どもたちの前での公演の方が楽しい、
ということを話していた。
すごく率直な感想だと思う。
しかし、一方では、
彼の未来を憂いてしまったのも事実だ。

2日目には、
観客との合意、
意識的なキャラクター、
ということが中心に話されました。

批評対話2011 1日目 バイセクル the bicycle/人形劇団ひとみ座

2011-08-01 00:59:12 | The Play for Children & Young People
今年も昨年に続き、
児演協では、デンマークから2人の講師をお呼びして、
『デンマークの批評対話を学ぶ』を行いました。
1人は、一昨年岸和田でお会いしたピーターさん。
もう1人は、来日は6度目というヘンリックさん。
3日間の短期集中ですが、
記録をしておこうと思います。




バイセクル the bicycle/人形劇団ひとみ座/代々木オリンピックセンター・小ホール

原作 エドワード・ゴーリー
構成・演出 石川哲次・友松正人

出演 齋藤俊輔 冨田愛 木俣かおり 勝又茂紀 長倉理沙 亀野直美



批評対話1日目。
この作品は、
3つのパートに分かれており、
それが重層構造的に行き来しながら展開している。
また、セリフのない人形劇ということで、
デンマークからの2人の講師にも、
アプローチしやすいのでは、ということで取り組むことにした作品です。

最初の質問は、
どうして(Why)この原作を選んだのか。
そして、どのように(How)人形劇にしようと思ったのか、
ということでした。
基本的にこの3日間は、WhyとHowのよって対話することになる。

答えるのは、2人の作家兼演出家。
それぞれで、3つのパートを担当したとのこと。
とても特徴的な絵本を書いている原作者ということで、
演出家自身が求めていた世界観に似ていたからだ、ということ。
ずっとこういうテーマというか、世界観を持った作品を探していた。
それは、原作絵本が、
ストーリーがシンプルであり、作品世界が支配されてしまわないことのないもの。
絵と絵をつなぐものが読者に委ねられている。
そして、無言劇のとして成立しそうだったので、
今回のセリフのない人形劇という手法を選んだ。

この3つのパート、
主旋律はタイトル通り、“自転車の話”。
そして、この自転車の話を書こうと苦悩する“作家の話”。
で、間に挿入されるのが“プルーンピープルという話”。
物語は、“自転車の話”と“作家の話”を行ったり来たりしながら進み、
後半途中に“プルーンピープルの話”が入ってくる。
この物語の間をジャンプするというのが、
ひっかかってくる。

ここで、新たな質問。
何を描きたかったのか?
実にシンプルな問いに、
端的な答え。
「2人の子どもの生きる力を描きたかったのだ」と。
これはわかる。
つまり“自転車の話”がやはり主旋律であるのだ。
にもかかわらず、
その印象が薄いのが気にかかった。
そして、核心に迫る質問となる。
誰に見せようとしたのか、ということ。

この作品は、
もともと大人向けに作った作品だった。
それを香港の国際フェスティバルで上演したところ、
「なぜ、子どもに見せないのか?」
と問われたという。
それをうけて、子どもに見せられる形にしようと手を加えたのだ。
間に挿入される物語も、
以前のものは少しシビアすぎる内容だったため、
“プルーンピープルの話”に変更した。
そういう意味での未成熟さがあったのか。

さて、もちろんそういうこともあったのだろうが、
デンマーク人講師の2人が対話したかったのはその部分ではない。
大人向け、子ども向けによって、
作品創作の姿勢が変わってしまったのか、ということだ。
そしてそれに関しては、演出の2人よりも、
出演者の2人が、明確に答えていた。
それで変えることはない、と。
だとすれば、少し戻ることになるが、
主旋律にある“子どもをどう描くのか”ということになる。
大人が子どもをどう見ているか。
もっと言えば、芸術家が子どもをどう見ているか、ということだ。

出演者の2人は、
子どもを演じるのではなく、
自分の中にある子どもの心を表現した、
というような言い方をしていた。
それもまた、明確な答えだと思った。
創作された作品について、
対話の中で、言語化していくのはとても難しい作業だ。
アーティストにしてみれば、
言いたいことは作品ですべて語っているはずで、
それを後出しで説明して理解してもらうというのは、
じつは、恥ずかしく、つらいことなのだ。
にもかかわらず、
今回は、参加した方々からは、
参加して作品をより理解できた、という声が多く聞かれた。
そのことを真摯に受け止めるとしたら、
この作品が、まだ、さらに、進化することのできる作品だと言うことができる。

たしかに、
最初に演出家の話に合ったように、
観客の想像力に委ねる形で、提出されている作品ではある。
しかし、たとえセリフのない人形劇であっても、
人形たちは雄弁にその物語を語り、
彼ら自身を語っているのである。
それが演出家の意図するものであれ、
意図しないものであれ、
観客は何らかの意思を感じることになる。

デンマーク人講師の2人がこだわったのは、
この演出家の演出が、
意識的であったのか、
無意識的であったのか、
ということなのだ。
観客対象が変わろうと、
どんな複雑な構造の戯曲であろうと、
作り手の狙いが意識的に表現されているのかということが大切だ。

「批評対話」初日、
原作の扱いについて、
大人が子どもをどう見るかについて、
創造者の意識的な表現についてが語られました。