空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

心のなかのマイ仏教

2011-09-16 18:00:00 | Weblog
 製薬会社と僧侶とが並行関係に置かれているのは,仏教が人を救うという点で医薬に譬えられるから―

@landcm ぼうぼぅ山 「人の身体の病気に薬を提供する製薬会社が儲かってるのだから、人の心の薬を提供する僧侶が儲からないのはおかしい! だからカルチャーセンターでガツガツ頑張って稼いでくださいww」(2011/9/15)

 ―なんでカルチャーセンターかというのは:

@landcm ぼうぼぅ山 「朝日カルチャーセンターから『ブッダに学ぶ瞑想法講座ご案内』のハガキが来た。会員価格5回で14700円。こういうのをみると、『仏教』も現代では飯の種でしかないのだとガックリくる。」(2011/9/14)

 …こう言うことらしい。
 いやまあカルチャーセンター云々については:

@landcm ぼうぼぅ山 「「カルチャーセンターで講師」という響きの安っぽさ。知っている人間は「あんなところで生徒集めしないと食べていけないのねー」と笑うが、、、檀家制度も崩壊しつつある昨今、僧侶が現れても全く不思議はないのかも。」(2011/9/14)

 そりゃまあ,安っぽいちゃあ安っぽいか。そういうところででも講師でもなんでもしないと喰う以前の問題だよ!というのが貧乏学者の見解だが。

 幸い―と言ってしまうが,私は幸いにしてそういう場所に出ずに済んだ。それはそれで生活に困ったが。何にせよ:

@naagita 佐藤哲朗 「@landcm @kstigarbha 内情をバラしますと、会費から講師の懐に入る金額はびっくりするほど少ないです。ボランティアの気持ちでないとやってられないと思います。場所代とスタッフの数考えるとあの値段設定も仕方ないのか……でも正直、疑問は感じますよ。」(2011/9/14)

 …講師謝礼なんかわずかなものだとか。
 実際,場所代・広報代・スタッフ給料…と考えれば,それなりの値段を取らざるをえない。

@landcm ぼうぼぅ山 「@kstigarbha 料率が一律なのかなど、講師への対価がどのようになっているかは知りませんが、客観的にみたらカルチャーセンターの講師なんて、以後お金を得るための人集めの場ですからねー。学者のみならず、僧侶もそういう場に現れるようになったか!という感じです。」(2011/9/14)

 学者の立場からは,「そうでもしないと本が買えないんだ」というところ。『図書館があるじゃないか』と言われても,学籍外れると図書館は使いづらいんだ,おっそろしく。書庫に入るのにも非常な手間だ。

 ともあれまあ,このひとは,「学者のみならず,僧侶もそういう場に」―カルチャーセンターに出てきたのかというわけで,学者・僧侶といった人々は知識を金銭で取引することに関わるべきではないとするものらしい。

@landcm ぼうぼぅ山 「@naagita @kstigarbha 懐にいくら入るかは聞いてはいないですが、書道の講師もそう言ってました。生徒をカルチャーセンター以外の教室に引っ張るためにやるだけだと。昨今はカルチャーセンターは「先生」だらけで、名前を売るための場なんだろうなぁという気がしていますが。」(2011/9/14)

 まあカルチャーセンターさんも御商売ですから。客寄せパンダを用意して,他の講座にもののついでで登録を―ということはお考えでしょう。

 上掲「ぼうぼぅ山」氏の論の注意点として,「料率が一律なのかなど、講師への対価がどのようになっているかは」云々とある。
 この「料率」とは,各講座で料金が違うことをまず指すものだろうか。勿論違ってくるだろう―材料費もそうだし,何人の助手を必要とするか,何人の受講者を見込めて,広告費に対する効率はどれほどか,など。
 もし講師謝礼について語っているものとすると,もしやこの人は一物一価の資本主義経済に慣れ過ぎてはいないか,知識の授受についても一物一価を,もしや想定してはいないかと危惧する余地がある。

 それは実は,杞憂に過ぎないのではあろう。なぜならこの人は:

@landcm ぼうぼぅ山 「出家にとって何らかの利益が絡む活動、要は在家的な要素は「汚れ」であろう。日本仏教の僧侶はすでに「汚れ」にまみれているから、カルチャーセンターあたりで活動しても心に何もひっかかるものがないのだろうか。伝道と称していても、やはり自分の中ではどこかひっかかりを感じるのだが。」(2011/9/15)

 およそ「何らかの利益が絡む活動」たる「在家的な要素」を一切「汚れ」と断じるのである。―乞食さえも,食料という利益が出るからまずいことになりかねないが,そこはクリアするとなると―…まあその,経済的な利得が出るのがマズイ,金銭が絡むと汚れだと,そういう理解なのだろう。というのも:

@landcm ぼうぼぅ山 「僧侶が自ら営利活動的なことに手を出すのではなく、あくまで在家の人間が活動を決めれば出家者は「手」を汚さずにすむ。某協会はこのへんの仕組みが実に上手くできていると思える。」(2011/9/15)

 某協会がどこかはさておき,上掲の言葉からは,この非難されるべき「在家的な要素」というのは「営利活動的なこと」と理解して間違いあるまい。

 しかし,この出家者が”「手」を汚さずにすむ”というのには問題がないではない。

 一休かだれかの話であったが,
『和尚。武士が人に―主君に―命ぜられて他人を殺したとしましょう。その罪は誰にありましょうか』
『君。庭の木の雪を落としてくれるかね』
『はい…これでようございましょうか,和尚』
『さて,では雪は誰にかかったかね。拙僧か,それとも君かね』
 とゆーわけだが,この理屈から言えば,たとえばヒトラーにユダヤ人等などの殺害について一片の罪もないことにならんか。無論アイヒナーの如く「命令でした」もアウトだが(あーうん仏教的に”中道だよ”と言ってみよう,うん)。

 してみると,営利事業すなわち世俗であって罪であるとする立場からは,無論それによって生きる行為自体も罪を問われねばなるまい(非常に厳密には)。

@landcm ぼうぼぅ山 「@kstigarbha やってはいけないではなくて、やって欲しくないのです。スマナサーラ長老のに参加したことはありますが、内心ではものすごく抵抗があります。「金儲け」の手段として他人からはうつるので、そういうのと一緒にされてほしくないと思うのですよ。余計かもしれないですが。」(2011/9/14)

 (自分が尊敬する?)長老の行為が他人から金儲けの手段とみなされることは「ものすごく抵抗が」あるということでしょう。しかしその世俗の行為がなければ教団(等)は存続困難である。ではその世俗的行為をする人々に対しての”リターン”は何だろう?

 世俗の行為をしているからには汚れであって,覚りからは遠のくばかりとなろう―するとこの場合,そういう人々の上で僧侶たちは,世俗の民衆から労働を搾取する(※労働に対する報酬はない)存在と言わざるを得ないのではなかろうか。

 いや,仏法のためにコトをしている,これでよい業を積んで来世でよりよくなろうねというのが普通の見解なんだと思うが(”来世の存在”をダシに現世の労働を搾取しているのかもしれんが,リターンを確言するだけまだマシな気がする。私みたいな在家にとっては)。

@landcm ぼうぼぅ山 「商品開発では「必要は発明の母」、宗教サービスでは「人の不幸は金の味」 あー怖っ。宗教自体に嫌悪感がでてきそう。」(2011/9/15)

 …いや。
 そんな具合に,カネしか見ないのはどーかと。
 たぶん,そういう見解は,宗教サービスを金で見るという,唯「金」思想によるのだと思う。

ある学生が友人の下宿を訪ねて,彼の部屋にあがりこんだとしよう。しかし友人は寝床に眠ったままで,起きださない。そこでその学生は,眠っているのを起すのは気の毒だと思って,そのまま待つことにした。そしてそこに坐りこんで,電熱器でお茶をわかしたり,そこらにあった菓子をつまんだりしていた。のんびり待っていたが,いつまでたっても友人が目覚めないので,いいかげんに起きろ,とか言って,身体をゆりうごかしてみたところ,身体は冷たくなっており,それが死体であることがわかった。そうすると,今までは親しい友人の死体だと思っていたものが,いっぺんに気味のわるい死体に変ってしまう。もう二度とその身体にふれようとはしない。のんびりした部屋の空気も一変するであろう。つまり目で見る部屋の光景が変ってしまうのである。このように,認識は心によって作りあげられるのである」(平川彰「唯識と人生」『仏教の思想』月報11[1970年4月],1f.

 カネしか見ないのでカネによる関係しか見えない,そんな例ではあるまいか。
 同様に,”日本仏教の僧侶はすでに「汚れ」にまみれているから”という前提も,既に日本仏教の僧侶が汚れているという意識がそう見せるのではあるまいか(まあいろいろ生臭坊主がいるだろうことは否定しない)。

 だから他のところのお坊さん―どうも上掲某氏は南方仏教の(特定の?)お坊さんをキレイなものと思いたいようだが,それは”その人(ないし南方仏教)はキレイだ,キレイでなければならない”という”識”(判断)に執着しているのではあるまいか。そして仏教って,そういう執着を断じろと教える宗教なんではあるまいか。

 …でまあ,これも「人のいう大御心が,決して『陛下の大御心』ではなく,『本人の大御心』であること」の一変奏なのだろうとか雑なことを思ってみる次第。心のなかのマイ仏教への忠実さにかけてはマイ仏教ランキングでは上位確実的な。

 ところで『仏教、本当の教え - インド、中国、日本の理解と誤解』植木 雅俊 (著) ,中央公論新社 (2011/10/22) なんて本が出るそうですが,¥840でそんな大問題が解けるものなのだろうか。まあ著者の思うところのソレが述べられるだけのことと思うが。
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1 コメント

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追加 (teiresias)
2011-09-16 23:58:26
@landcm ぼうぼぅ山「「戒にないからやっていい」。仏教の実践者として「戒」を基準に話すのはまだまだだろう。己の胸に手をあてて「智慧」に尋ねてみたらよい。智慧あらば正しい答えが自ずとみえてくるはずである。」(ttp://twitter.com/#!/landcm/status/114193929968160769) 2011/9/15

…するとこの人の「智慧」は胸にあるらしい。重要事項なので十分検討すべき問題。
また,「胸(の部分にある智慧)」に尋ねれば「自ずから」「正答」が「見える」とする見解も批判的に再考すべきところだろう。

まあ「マイ天皇陛下」な文脈からすれば,諸師の見解を学びに学ぶことではなく,わが胸にたずねれば正解が得られるなんて見解,まさしくファンダメンタリストのパターンではある。
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