まったくの正論だと思うが:
これに対する適正な評価として:
人は有限な存在なので、それぞれの持ち場を適正に担い、類似する仕事・人々とできるだけ連携・協同・連帯する。昔はそうした「連帯」が語られた・実践されたと思われるのだが、どうも近年、運動の裏事情なり個々の運動家に対する個々人の嫌な思い出が吐露され共有されもするようになって、どうにも雰囲気か流れが悪い。
…結論的には、私はあの手のアレな向きを、日々の怒りの消費者と見做すことになる。恐らくは何ら実践的な運動・動きになることないほどに無益な、個人的な怒りの感情のぶつけかたを正義に偽装しているだけである、というように。それらは実際には、問題取り組みへの妨害であり、害悪なのだと評価することになる。
狂気に向かう怒りを避けて己の責務を果たすべきこと。できない人々が可視化されて、たぶんこうした向きの影響をできるだけ小さくして、実質的な仕事をすべきなのだと、そのように思うのだけど。
僕はガザで起きてることは虐殺だとずっと思っていますし、メディアでも度々そう言っています。しかし人間がこの世で起きていること全部に怒り始めたら狂気にしか行きつかないので「主に何に怒るのか」を選ばないといけない。あなただってこの世界の全部の理不尽に満遍なく怒っていないでしょう。… https://t.co/LYvlRoo8pX
— 電燈 (@OKB1917) October 10, 2024
これに対する適正な評価として:
小泉氏の、ウザ絡みしてきた人へのきちんとした返事。その内容と平易な言葉選びに彼の知性を感じた。
— 今宵のBBCワールド視聴者 (@Bbcbuta) October 10, 2024
「主に何に怒るのか」
「あなたが怒っている対象に、他人が同じ程度に怒っていない(ように見える)ことは、あなただけが正しく怒っていることを意味しない」
この二点は大事。素晴らしい言語化。 https://t.co/KvrcPMITW9
中学生のころ、「私は難病の人のために募金活動をしている。それで手一杯でアフリカのために活動することはできないが、これは恥ではない。どこかで誰かがアフリカのために動いていて、その人は難病のことには手が回らないはずだ。世の中はそういうものだ」というコラムを読んだ。今、よく分かる。
— おにぎらず (@yutaro_today) October 11, 2024
誰かが自分と同じくらい、あることを怒り、嘆いていないからと言って、それを責める謂れはないんだよね。その人はその人で、何かに対して怒りや嘆きを抱えているかもしれない。そもそも怒りや嘆きは表明しなきゃいけないものでもない。他人の怒りや嘆きは評価するものではない。
— おにぎらず (@yutaro_today) October 11, 2024
人は有限な存在なので、それぞれの持ち場を適正に担い、類似する仕事・人々とできるだけ連携・協同・連帯する。昔はそうした「連帯」が語られた・実践されたと思われるのだが、どうも近年、運動の裏事情なり個々の運動家に対する個々人の嫌な思い出が吐露され共有されもするようになって、どうにも雰囲気か流れが悪い。
…結論的には、私はあの手のアレな向きを、日々の怒りの消費者と見做すことになる。恐らくは何ら実践的な運動・動きになることないほどに無益な、個人的な怒りの感情のぶつけかたを正義に偽装しているだけである、というように。それらは実際には、問題取り組みへの妨害であり、害悪なのだと評価することになる。
狂気に向かう怒りを避けて己の責務を果たすべきこと。できない人々が可視化されて、たぶんこうした向きの影響をできるだけ小さくして、実質的な仕事をすべきなのだと、そのように思うのだけど。
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