しかし一般化した「オタク」は、社会に受容される一方で、特徴を失ってただの大衆になってしまいました。そこでアイデンティティとしての「オタク」を維持するために、「フェミ」という藁人形の仮想敵をでっち上げ、自分の存在意義を捏造しているのが、現今の「オタク」の「表現の自由」の大宗かと。
— 墨東公安委員会 (@bokukoui) January 26, 2021
せやろか? 「オタク」が好む諸表現が一般化し、社会に相当受容されているのは、ここ数十年の流れから見て、まあそりゃそうだろう。しかし果たして「オタク」と呼ばれる者たちは、大衆と一体となるほどまでに特徴を失っただろうか? いや、アイデンティティをまもろうとする程度には一体とはなっていないわけであり、「友-敵」といった構造を生み出し得るほどには特徴的ということにならんか。
いやまあ、大衆と一体化したくないから仮想の怨霊を想定してそれを祓う存在として己を妄想しているのだろうと言いたいことは分かるが、これ、論者当人にも同様の理屈が適用されちゃうしなあ。
「フェミが『萌え』を滅ぼそうとしている! フェミを燃やせ!」と喚く「オタク」は多いけど、じゃあその「萌え」表現から何を読み取れるのか、何を感じ取り、それによってこの世界の見え方がどう変わるのか、説明してくれる「表現の自由戦士」は、いないといっても過言ではないでしょう。
— 墨東公安委員会 (@bokukoui) January 26, 2021
比喩的にせよ「~を燃やせ」というのは、むしろフェミニストと想定される側かとは思われるが。具体的にはまず「俺たちの愛する宇崎ちゃんを消去させようとするのを止めろ」だろう。
…また、「その「萌え」表現から何を読み取れるのか、何を感じ取り、それによってこの世界の見え方がどう変わるのか」という要請は、いったい何を言いたいものかが不明瞭。そうしたメタ的情報価値がないものの存在は、擁護されてはならない、とでも?
だからまあ私は、「オタク」の大部分に「表現の自由」は関係ない、と思うのです。だって騒ぐネタとしてコンテンツを消費しているだけで、表現を受容した自己の内部から発せられる表現がない。表現しない人に「表現の自由」は関係ないでしょう。豚の嘶きは表現ではありません。
— 墨東公安委員会 (@bokukoui) January 26, 2021
コンテンツの消費をしているだけ―うんまあ、刹那的な快楽を得ているだけという評価は、うんまあそれなりに妥当な範囲がかなり、かなーり大きいだろう。とはいえそれは表現の自由と無関係と切って捨ててよいかどうか。「表現を受容した自己の内部から発せられる表現がない」、そんな豚の嘶きは表現ではない、従って擁護されるいわれはない? かなりマズいのでは。
例えばアイドルの一挙手一投足にキャー!と感動の叫びをあげることは、わりと普遍的な現象と思われるが、それらは豚の嘶きか。かなり多くの人を敵に回す―そしてそうまで貴族的な表現の自由を、いったい誰が何のために行使するのかという問題だって提起されるだろう。SMAPなりなんなり、ジャニーズアイドルを見てキャー!と叫ぶことは豚の嘶きでしょう―なんてのは、かなりどうかと思われる。自己の内部から発した表現でなければ表現とは言えない―となると、アイドルを好きになるにも大変そうだ。
もちろん、嘶きでなく言葉で語る「オタク」もいますし、若い層には少々酷言といわれればそうです。だから私は、もっとちゃんとコンテンツと向き合って、嘶くのではなく語ろう、論じよう、そうして人間になろうと主張しているわけです。そのためのロールモデルを若年層に供するのが年長者の務めです。
— 墨東公安委員会 (@bokukoui) January 26, 2021
とまあ、ここまでくると、なんとも。そうですかロールモデルですか、そりゃあご立派ですね年長者。
さらにいえば、生活のあらゆる局面でそういった張り詰めた意識を持っていられるかといえば難しいですから、特に重要な趣味でなく、暇つぶしにソシャゲをポチポチしている人が何も表現してなくても、それは構いません。ただ、「オタク」をアイデンティティにするなら、それは手抜きも甚だしいです。
— 墨東公安委員会 (@bokukoui) January 26, 2021
結局、手抜きして、あるいは頓珍漢な努力で、自分は respectable な存在だとアピールしているのが「オタク」の相当部分、とりわけ「表現の自由戦士」だと考えます。最初の鳳氏にしても、表現云々以上に、「オタク」たる自分は立派な存在として社会に受け入れられるべきという情念が強そうです。
— 墨東公安委員会 (@bokukoui) January 26, 2021
豚の嘶きをするだけの「表現の自由戦士」とは違って自分は「語ろう、論じよう、そうして人間になろうと主張しているわけです」と。そんな風な存在としての「「オタク」たる自分は立派な存在として社会に受け入れられるべきという情念が強そうです」。
その昔、飢饉で飢えが極まった村落では、生存者に家畜の皮を被せ、これは人では無い食用の家畜であるとして、食いつないでいたそうな。九段とか墨東さんみたいな人達も、きっと飢えているんでしょうね。
— 衛生兵(手を洗い、うがいをし、顔を触らない達磨) (@combatmedic) January 27, 2021
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