空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

「修論なし」修士課程は行われるか―「副専攻」必須にしてみたりとかどうか

2011-10-27 18:47:54 | Weblog
@nasastar nasastar  「今、大学院に在籍している院生が認識していたほうが良いことは、将来大学教員として就職できたとしても、今あなた方が受けてきた教育のやり方を再現すれば良い、というわけではなさそうだ、ということ。全然違うシステムの中で、今まで受けた教育の最善の部分を効果的に再現することができるかどうか」(2011/10/27)

 うん,民間さんに言わせれば,『そんなの当たり前じゃん』とくるだろうか,『だって商品はつぎつぎ革新していくんだぜ? 前のやり方を踏襲するだけの企業が生きていけると思ってるの?』と。しかしコロッケの揚げ方が毎年大変革をしているとも思えないわけで。

日経新聞 大学院、来年度から修士論文不要に 試験などで審査 2011/10/26 22:07

 文科省の方針。従来の修士論文執筆前提のシステムだと,”早いうちから専門に閉じこもりがちになる”ため,博士課程を経ても使いづらいと産業界からの不満の声があった。そこで幅広い教養があるかどうか―博士論文を書く教養があるかどうか,修士卒の段階で筆記試験を課してみよう,というもの。

 問題作るのが誰だと思ってるんだ,的なことは言ってもいいだろうか。

 つうか,「副専攻」制度を導入すればけっこー人材も多様化すると思うが。文化人類学+宗教学とか,哲学+美術史とか,学生側で事実上制度の骨抜きをすることもできるし―その骨抜きの結果,ちゃんとした教養が身につくので,あれ理想が実現されちゃいましたあれえ?ってことに。

 まー我々は隣の研究室所属の授業を占拠した過去があるからなあ。事実上の副専攻があるといえそうだが。…いやその,当の研究室の院生が2年に一回くらい,受講しようと4月第一回講義には出てくるんですよね。けど,我々があまりに出来過ぎたからか,二回目三回目にはもうでなくなっているという。
 その分野の新規に着任した先生の院生向け授業の最初の受講者は我々だったり。

 今どき,そのくらいでないとアカポス方面で生き残れないってことかもしれない。

@suhamma  「修士論文試験化の件、「専門バカ」どころじゃなくて、「専門のこともわからないバカ」を量産するだけだと思うけどね。」(2011/10/26)
@suhamma  「単純にさ、修士論文要らないったって、D1で雑誌論文に一本か二本は投稿するくらいじゃないと、どっちにせよこの世界じゃ生き残れないわけやん。だから試験の勉強はせなあかんわ、M2で(結果的に)論文の準備はせなあかんわ、で、特に単独論文メインの文系は、これキツいと思うけどね。」(2011/10/26)

 うん,D1で1-2本出るようでない人は消えていった。出た人は残ってる。つぅかアカポスについてる。だってその方が待遇,いいもの。
 だから民間さんは我々に対する待遇をもっとよくしてみるとよいと思う。うちの分野なんか,大して金もかからない。公務員並み給料+年間150万の研究費保障+八畳二間ほどの研究室で山ほど行くぞ。

 …いや,それで食い物にされてる某研究所とかあって,まー民間さんの怒り嘆きも理解する,うん。だからさあ,仕事できる人に予算と人手を回してよ。わたし,やってるやん…。

@shingon72 永松伸吾 「良い整理ですね。修論書かなくてもいいと言うのはすべての大学院が2を指向しなくてもいいよ、という事でしょう。@naokimed: 修士課程が、①学士後期課程、②博士前期課程、③専門職大学院の3種類になるということ。でも、制度的には一緒だから、現場が混乱する。」(2011/10/27)

 そういうことですね。
 昨晩の話に絡めて言えば,ここに(悪しき)横並び意識がある―「日本人が大学に行きたがるのは学問的向上心からではなく、皆が行けるのに自分が行けないことを理不尽と感じる民族だったから」―「私も大学(院)にいきたい(学生)」/「うちでも大学(院)が欲しい(経営側)」で。

 それで制度的には同じ「大学(院)」なものなので―「同じ水準のサービスが享受できないとおかしい」というのはまあ正論。だがそこから,全体のレベルを引き下げる方に圧力が出て来はしないか,というのが危惧のある点か。

 まあ試験の結果でばっちりハナシが分かるよねというのが:おおやにき「新司法試験(1)」,「新司法試験(2・完)」。

 前者のコメント欄,「三国 さんのコメント (2011年9月22日 00:08): 全てのLSが最善の努力を尽くして最高の教育を施したとしても、新司法試験が相対試験である以上LS間格差が生じるのは必然で、「何度受けても受からない受験者しか出せないLS」は出てしまいますよね。そういう意味ではLSの制度全体として問題があると思うのですが(以下略)」に対するおおや先生の
おおや@シアトル さんのコメント (2011年9月27日 06:46): ども。問題を根本的に解消するためには全体の定員を削減する必要があるという話と、LS間に大きな内容の格差があるということをあわせて考えると何が示唆されるかというのが読みどころではないでしょうか。よう口に出して言いませんが
 というのは,制度的に同じものなのに差があるのは制度の問題なんじゃないの?という立場と,制度的に同じものだけど,まあ,そのねえ,という立場との差ですね。

 猫も杓子も,の勢いで法科大学院を作っていった,その結果が割とヴィヴィッドに出ていますよね。地方に根差した法律家の必要,というのも大変に正論なのだと,私は確信しますが,現実が追い付くかどうかはまあその。

 …どうにかしろとか言われても,困るよね。
 国立・公立に限れば,お上から『研究者及び大学教員養成機関として****を指定する。*****については専門職大学院とする。他は一層の教養を学生につけるように』とやる可能性はないでもないだろうが,私立大にそれ強いるのは,どうしても国民的合意は取り付けられない気が。

 あとねえ,現実的には(国公立の範囲なら)旧帝大の人的物的資産的アドバンテージに敵うわけないんだが,だからといって旧帝大だから優秀な先生がいて優秀な教育者でもあるから(いや私のところはアタリだったと信じるしそう主張するが)優秀な学生が輩出するってわけでも(…先生ごめんなさい。うん,いや,ごめん),ねえ…。。。

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feeling (noga)
2011-10-27 22:08:23
日本人に関する '有ること' と '無いこと'。

感性があって、理性がない。
感想を述べるが、理想を語らない。

現実の内容はあるが、考え (非現実) の内容はない。
事実は受け入れるが、真理は受け入れない。

実学 (技術) は盛んであるが、哲学は難しい。
実社会の修復はあるが、理想社会の建設はない。

現実の世界は信頼するが、非現実の世界は信じない。
現実の内容を再現すれば、それは模倣である。
考え (非現実) の内容を実現 (現実化) すれば、それは創造である。
模倣力はあるが、創造力がない。

「今ある姿」を語るが、「あるべき姿」は語らない。
私語・小言は好むが、公言・宣言は好まない。
歌詠みは多いが、哲学者は少ない。

丸暗記・受け売りの勉強はあるが、考える力・生きる力がない。
学歴はあるが、教養はない。
序列判断はあるが、理性判断はできない。

学歴は序列判断の為にあるが、教養は理性判断の為にある。
学歴社会というのは、序列社会の言い換えにすぎない。
序列順位の低いことが恥と考えられている。サムライ社会のようなものか。
理性がなくても「恥を知れ」(Shame on you!) と叱責を受けることのない恥の文化が存在する。

民の声を代弁する議員は多いが、政治哲学はない。
総論 (目的) には賛成するが、各論 (その手段) には反対する。

理想 (非現実) は、現実に合わないと言って受け付けない。
現実の内容を根拠にして、理想を捨てる。
意見は個人個人で異なる。だが、小異を挙げて、大同を捨てる。

恣意 (私意・我儘・身勝手) が有って、意思がない。
恣意の力 (大和魂) に期待をかけるが、意思の力は認めない。
意思決定は困難を極め、多大な時間を浪費する。

「個人の意見は通らない」と言うが、個人を選出する意味が理解できていない。
意思があれば、手段がある。意思がなければ、手段はない。

この国には、何でもあるが、ただ一つ夢 (希望) がない。
この国には、現実はあるが、非現実がない。
日本語には現実構文の内容だけがある。日本語脳は、片輪走行である。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
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