「野呂邦暢古本屋写真集」の存在を知ったのは先日の講演会だった。
私も写真が好きなので、野呂さんに写真の趣味があったことを知り、ますます野呂さんに惚れてしまった。
講演会があった長崎図書館の4階では「野呂邦暢展」があっていたが、そこに野呂さんが愛用していたというカメラが展示されていた。
さて、標題の写真集は古本屋さんの店構えと店内の様子、そして古本が陳列されている書架だけで90ページというマニアックといういより病的な感じがする写真集である。よくまあこんなのを世に出したものだと感心してしまう。巻頭に野呂さんのエッセー「澄んだ日」、そして巻末にこの本を世に出した先日の講師である岡崎武志さんの魂のあとがき、本書の総ページ数は111で、値段は2500円、そして発行部数500部。2015年4月4日発行。
講演を聴いて興味を持ったのでネットで調べてみると「入手困難」と出ている。古本業界ではゆうに万を超える値段で取引されているという。地元諫早の図書館に行ってみるとさすが地元だけあって置いてあった。同じ諫早でも森山とか多良見の図書館だと館内閲覧だけで貸し出しはできないのだが、諫早図書館だけは貸し出し用があったのでさっそく借りてきた。
中身は本当に古本屋だけである。東京の古本屋の店構え、店頭の山積みされたワゴンセール(均一セール)、店内の様子、たまにお客さんの後ろ姿、そして陳列された本、本、本…。ほんとうにこれだけの写真集である。
私も写真は好きだ。何を写すかというと自分が感動したもの、惚れたもの、愛情を持ったものである。それは花であり、樹であり、山であり、ひたむきに活動している人である。それはとりもなおさず構えたファインダーの向こうにあるものが好きだと言うことにほかならない。野呂さんがカメラに残した数々の古本屋の写真、今のようにデジカメの時代ではないので、貴重なフィルムに無機質な古本屋だけ撮るというのはよほど好きでないとできないことである。また、この本に使われたのはその一部だろうから、野呂さんがいかに本に愛情を持っていたかがひしひしと伝わってくる奇跡の写真集である。
野呂さんが急逝して35年、普通なら彼が撮りためていた古本屋の写真など世に出るはずがない。彼を、そして彼の文学作品を愛してやまない人たちの努力で日の目を見たまさに奇跡の一冊としか言いようがない。
私も写真が好きなので、野呂さんに写真の趣味があったことを知り、ますます野呂さんに惚れてしまった。
講演会があった長崎図書館の4階では「野呂邦暢展」があっていたが、そこに野呂さんが愛用していたというカメラが展示されていた。
さて、標題の写真集は古本屋さんの店構えと店内の様子、そして古本が陳列されている書架だけで90ページというマニアックといういより病的な感じがする写真集である。よくまあこんなのを世に出したものだと感心してしまう。巻頭に野呂さんのエッセー「澄んだ日」、そして巻末にこの本を世に出した先日の講師である岡崎武志さんの魂のあとがき、本書の総ページ数は111で、値段は2500円、そして発行部数500部。2015年4月4日発行。
講演を聴いて興味を持ったのでネットで調べてみると「入手困難」と出ている。古本業界ではゆうに万を超える値段で取引されているという。地元諫早の図書館に行ってみるとさすが地元だけあって置いてあった。同じ諫早でも森山とか多良見の図書館だと館内閲覧だけで貸し出しはできないのだが、諫早図書館だけは貸し出し用があったのでさっそく借りてきた。
中身は本当に古本屋だけである。東京の古本屋の店構え、店頭の山積みされたワゴンセール(均一セール)、店内の様子、たまにお客さんの後ろ姿、そして陳列された本、本、本…。ほんとうにこれだけの写真集である。
私も写真は好きだ。何を写すかというと自分が感動したもの、惚れたもの、愛情を持ったものである。それは花であり、樹であり、山であり、ひたむきに活動している人である。それはとりもなおさず構えたファインダーの向こうにあるものが好きだと言うことにほかならない。野呂さんがカメラに残した数々の古本屋の写真、今のようにデジカメの時代ではないので、貴重なフィルムに無機質な古本屋だけ撮るというのはよほど好きでないとできないことである。また、この本に使われたのはその一部だろうから、野呂さんがいかに本に愛情を持っていたかがひしひしと伝わってくる奇跡の写真集である。
野呂さんが急逝して35年、普通なら彼が撮りためていた古本屋の写真など世に出るはずがない。彼を、そして彼の文学作品を愛してやまない人たちの努力で日の目を見たまさに奇跡の一冊としか言いようがない。