冬の奈良に行ってきました。
今回は、以前から訪ねてみたいと思っていた「山辺の道」(やまのべのみち)を歩いてきました。
「山辺の道」は古事記や日本書紀にその名が登場する、記録に残っている道としては「日本最古の道」だそうです。
全域は無理なので、今回は中央部の「石上神宮」から南へ、桜井を目指しました。
石上神宮(いそのかみじんぐう) 奈良時代以前から「神宮」の号が使われていた最古の神社
境内には鶏が放し飼いされていて「神鶏」と呼ばれています
拝殿
内山永久寺跡から移築されたという日本最古の拝殿で、国宝に指定されています。
山辺の静かな古道
冬枯れの灰色の景色が続く中で、ひときわ目についた赤いマンサク(?)
集落の中を抜けて…
取り残された柿 いかにも大和路らしい風景
土だけの畦道
土だけの畦道で、仕切りにコンクリートなどを一切使っていません。この景色が新鮮であり、懐かしくもあり、そして驚きでもありました。昔の田んぼはどこもこうでした。
内山永久寺跡に建つ芭蕉の句碑
「うち山や とざましらずの 花ざかり」 松尾芭蕉
「今、内山永久寺に参拝してみると、みごとなまでの満開の桜にうめつくされている。土地の人々はこの桜の花盛りをよく知っているだろうが、外様(よその土地の人々)は知るよしもない。」
(パンフレット「『山辺の道』 なら記紀・万葉」 山辺の道美化促進協議会発行より)
本堂池(唯一の遺構)
内山永久寺はかって50余りの堂塔が建つ大寺院だったそうですが、明治の廃仏毀釈で絶滅したそうです。現在は広大な敷地跡にこの本堂池が残っているだけです。
先に述べた石上神宮の拝殿は、廃仏毀釈の難を逃れ、この地の一角から移築したものということがあらためてわかったとき、急に感慨深いものがわいてきました。
柿の木畑に変わった内山永久寺跡 どこまでも広く、その中を道が通っています。
夜都岐神社の鳥居と拝殿
鳥居横の句碑には次の歌が刻まれていました。
「山辺の 道ははるけく 野路の上に 乙木の鳥居 朱に立つ見ゆ」
夜都岐神社の拝殿
屋根の萱がきれいに葺き替えられていました。
竹之内環濠集落
集落のまわりに濠をめぐらせた中世の「環濠集落」の一部が現存していました。
竜王山
「衾道の引手の山」と歌にも詠まれた万葉人の心の山
衾田古墳(ふすまだこふん) 全長220mの前方後円墳
門柱には「手白香皇女衾田陵」と標記されています。
カラスがついばんであろう柿
道ばたの石仏
山辺の道には野仏が点在していますが、その多くに真新しいエプロンと生花が供えられていました。近所の人たちがお祀りしているのでしょう。
柿本人麻呂の歌碑
「衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けるともなし」 柿本人麻呂(万葉集)
「(柿本人麻呂が)亡き妻の屍を、引手の山(竜王山)に葬り、山路を帰ってくるとき、悲しくて生きた心地もしない」と、人の世の無情を嘆き悲しんだ歌。
石碑の後方の山が竜王山
大和神社御旅所の境内
長岳寺
静かな境内には桜、つつじ、もみじ、あじさい等が多く植えられ花の寺としても有名らしいのですが、残念ながら「見渡せば花ももみじもなかりけり…」でした。
彩りがなかったことが、そこに漂う静寂の気を濃くしてくれていたように感じました。
不動明王
(失礼ながら)石像の素人っぽい彫り方に、かえって庶民の信仰の厚さが感じられました。
十三重の塔
西大寺の中興の祖とされる叡尊上人の供養塔と言われています。叡尊上人については、前回の奈良の時に、西大寺で詳しく話を聞いていたので「あっ、つながった!」と感慨深いものがありました。塔の台座には叡尊上人ゆかりの菩薩が刻まれています。叡尊上人はその生前の高徳が称えられ、二度にわたり興正菩薩の号が贈られています。
興正菩薩叡尊上人については「叡尊を慕う」(http://wedge.ismedia.jp/articles/-/611)
にわかりやすく紹介されています。
石棺仏
長岳寺の山手の方に建つ石仏で2m近くありました。古墳の石材を使ったものだそうです。
猫の見送り
長岳寺を後にするとき、受付のお坊さんと一緒に猫も私たちを見送ってくれました。
この時点で4時45分でしたが、九州よりも早く夕暮れが迫っていました。予定では桜井まで、それが無理な場合は三輪までと思っていたのですが、さらに2駅手前の柳本駅にエスケープすることにしました。当初の計画の半分までですが、勇気ある撤退を決断しました。
ここからは、柳本駅に向かう途中の景色です。
黒塚古墳
夕暮れの竜王山
柳本駅
今回は石上神宮から長岳寺までの古道歩きでした。歩き残した半分はまたの機会にということでお宿に向かいました。翌日は、室生寺と長谷寺です。(続く)
今回は、以前から訪ねてみたいと思っていた「山辺の道」(やまのべのみち)を歩いてきました。
「山辺の道」は古事記や日本書紀にその名が登場する、記録に残っている道としては「日本最古の道」だそうです。
全域は無理なので、今回は中央部の「石上神宮」から南へ、桜井を目指しました。
石上神宮(いそのかみじんぐう) 奈良時代以前から「神宮」の号が使われていた最古の神社
境内には鶏が放し飼いされていて「神鶏」と呼ばれています
拝殿
内山永久寺跡から移築されたという日本最古の拝殿で、国宝に指定されています。
山辺の静かな古道
冬枯れの灰色の景色が続く中で、ひときわ目についた赤いマンサク(?)
集落の中を抜けて…
取り残された柿 いかにも大和路らしい風景
土だけの畦道
土だけの畦道で、仕切りにコンクリートなどを一切使っていません。この景色が新鮮であり、懐かしくもあり、そして驚きでもありました。昔の田んぼはどこもこうでした。
内山永久寺跡に建つ芭蕉の句碑
「うち山や とざましらずの 花ざかり」 松尾芭蕉
「今、内山永久寺に参拝してみると、みごとなまでの満開の桜にうめつくされている。土地の人々はこの桜の花盛りをよく知っているだろうが、外様(よその土地の人々)は知るよしもない。」
(パンフレット「『山辺の道』 なら記紀・万葉」 山辺の道美化促進協議会発行より)
本堂池(唯一の遺構)
内山永久寺はかって50余りの堂塔が建つ大寺院だったそうですが、明治の廃仏毀釈で絶滅したそうです。現在は広大な敷地跡にこの本堂池が残っているだけです。
先に述べた石上神宮の拝殿は、廃仏毀釈の難を逃れ、この地の一角から移築したものということがあらためてわかったとき、急に感慨深いものがわいてきました。
柿の木畑に変わった内山永久寺跡 どこまでも広く、その中を道が通っています。
夜都岐神社の鳥居と拝殿
鳥居横の句碑には次の歌が刻まれていました。
「山辺の 道ははるけく 野路の上に 乙木の鳥居 朱に立つ見ゆ」
夜都岐神社の拝殿
屋根の萱がきれいに葺き替えられていました。
竹之内環濠集落
集落のまわりに濠をめぐらせた中世の「環濠集落」の一部が現存していました。
竜王山
「衾道の引手の山」と歌にも詠まれた万葉人の心の山
衾田古墳(ふすまだこふん) 全長220mの前方後円墳
門柱には「手白香皇女衾田陵」と標記されています。
カラスがついばんであろう柿
道ばたの石仏
山辺の道には野仏が点在していますが、その多くに真新しいエプロンと生花が供えられていました。近所の人たちがお祀りしているのでしょう。
柿本人麻呂の歌碑
「衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けるともなし」 柿本人麻呂(万葉集)
「(柿本人麻呂が)亡き妻の屍を、引手の山(竜王山)に葬り、山路を帰ってくるとき、悲しくて生きた心地もしない」と、人の世の無情を嘆き悲しんだ歌。
石碑の後方の山が竜王山
大和神社御旅所の境内
長岳寺
静かな境内には桜、つつじ、もみじ、あじさい等が多く植えられ花の寺としても有名らしいのですが、残念ながら「見渡せば花ももみじもなかりけり…」でした。
彩りがなかったことが、そこに漂う静寂の気を濃くしてくれていたように感じました。
不動明王
(失礼ながら)石像の素人っぽい彫り方に、かえって庶民の信仰の厚さが感じられました。
十三重の塔
西大寺の中興の祖とされる叡尊上人の供養塔と言われています。叡尊上人については、前回の奈良の時に、西大寺で詳しく話を聞いていたので「あっ、つながった!」と感慨深いものがありました。塔の台座には叡尊上人ゆかりの菩薩が刻まれています。叡尊上人はその生前の高徳が称えられ、二度にわたり興正菩薩の号が贈られています。
興正菩薩叡尊上人については「叡尊を慕う」(http://wedge.ismedia.jp/articles/-/611)
にわかりやすく紹介されています。
石棺仏
長岳寺の山手の方に建つ石仏で2m近くありました。古墳の石材を使ったものだそうです。
猫の見送り
長岳寺を後にするとき、受付のお坊さんと一緒に猫も私たちを見送ってくれました。
この時点で4時45分でしたが、九州よりも早く夕暮れが迫っていました。予定では桜井まで、それが無理な場合は三輪までと思っていたのですが、さらに2駅手前の柳本駅にエスケープすることにしました。当初の計画の半分までですが、勇気ある撤退を決断しました。
ここからは、柳本駅に向かう途中の景色です。
黒塚古墳
夕暮れの竜王山
柳本駅
今回は石上神宮から長岳寺までの古道歩きでした。歩き残した半分はまたの機会にということでお宿に向かいました。翌日は、室生寺と長谷寺です。(続く)