TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

吉井勇の見た精霊流し

2019年02月12日 | 吉井勇
  にぎやかに精霊船のゆくなかに童心丸はあはれなるかな (吉井勇歌集「天彦」より)


 詩にしても短歌にしても読み手がその作品から感じたものがすべてであって、いろいろと講釈しない方がいいのかも知れませんが、吉井の随筆「筑紫雑記」の中に長崎の盆の様子やこの歌にまつわることが書いてあったので紹介します。


 今から約80年前の昭和11年に、その精霊流しや長崎の盆を目の当たりにした吉井は次のように感想を随筆「長崎見聞抄」の中に記しています。(ちなみに長崎では、「精霊流し」は「しょうろうながし」と読みます。)

 「長崎の盂蘭盆会は、この土地の人達の言ふ通り、『盆まつり』といった方がふさわしい。それほどその晩は長崎の街中が、お祭気分でざわめき立つ。 -略- ちょっと想像では思い描かれぬ位、話に聴いていたより以上の壮観である。そのうへにまた箭火矢、音火矢などと称する花火を、そこかしこの街の周囲の山腹にある墓地から夜空に向かって打ち上げるかと思ふと、路上や街頭では至るところで、唐人鉄砲という爆竹花火が、まるで小銃を撃ち合っているやうな音を立てる。火焔の海を見ながら、花火の爆音を聞いていると、まるで市街戦でも始まったやうな騒ぎで、『盆まつり』というよりもむしろこれは、『火祭り』といった方がいいかも知れない。」


 長崎の盆は今も昔も変わっていないことが分かり、嬉しく思いました。さらに吉井の目にとまったのは次の光景でした。


 「夜が更けるに従って、街の雑踏はますます激しく、精霊船の行列もだんだん賑やかに威勢よくなって往った。喇叭を吹き鳴らしたり楽隊を前に立てたりするのがあるかと思ふと、法華太鼓をたたき立てて、大きな声で南無妙法蓮華経を唱えながら往くのもある。しかしまた中には、赤い小さな燈籠十数個つるし「極楽童心丸」と書いた幡を立てた、三四人で担げる位の可愛らしい精霊船もあったが、あとからついてゆく二十三四位の女が、しきりに涙を拭いているのを見ると、それはきっとわが子の新盆の魂送りをするのだらうと思われて哀れを覚えた。」


 冒頭の歌の情景はある程度想像はしていましたたが、ここまでとは思ってはいませんでした。我が子を亡くした悲しみに耐えながら船の後を歩いていく母親の姿が不憫でなりません。


  にぎやかに精霊船のゆくなかに童心丸はあはれなるかな


下の写真は、島原の精霊流しです(長崎のがなかったので)。




 島原も同じで、勇壮な掛け声や、けたたましい爆竹の音で表面上は賑やかです。悲しみは心の中に蓋をして故人の船の後をついて行きますが、幼い我が子を亡くした悲しみは蓋などできなかったのでしょう。



 この他に、吉井が長崎の盆を詠んだ歌を紹介します。
 
  長崎の盆のまつりにゆきあひし機縁かしこし念佛申さむ

  いつかまた見るとは思はむ長崎の盆の夜空はしみじみと見む

  夜はくだつ雨とやならむ空暗し精霊ながす大波止の濱 


 
以上の3首は「天彦」に収めてありますが、「形影抄」では後年、長崎の盆を懐かしく振り返り次のように詠んでいます。

  長崎の盂蘭盆の夜の爆竹の音も今もなほ忘られなくに (「筑紫路を思ふ」より)

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