車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

「三寺まいり」と「あゝ野麦峠」 in 岐阜県飛騨市古川

2020年04月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

浄土真宗本願寺派寺院「照耀山:円光寺」『阿弥陀如来』を本尊とし、.近隣の真宗寺や本光寺とともに「三寺まいり」の寺として知られています。創建は永正十一年(1514)。垣株堂という道場として開かれたのが始まりと伝えられ、山門は、天正年間(1573~1593)に築かれた「増島城」が廃城となった後に移築。飛騨市史跡 に指定されています。

本堂は寛文7年(1667)の建立。妻面に施された亀の彫刻は「水呼びの亀」と呼ばれ、明治37年(1904)の古川大火の際に、火災から本堂を守ったと云われています。

鐘楼と経蔵の後ろに見えているのは、瀬戸川用水沿いに見えていた洋風建築っぽい建物の一部。あれって、結局なんだったんだろう??

側の解説板に気付かなければ素通りしたかもしれない大石・・・「境内にある上町塔の腰塔心礎は上町廃寺の五重塔の塔心礎と推定されるもので飛騨国内に見つかっている塔心礎4基のうち柱穴が最大のものとされ飛騨市指定文化財に指定されています。」

荒城川河畔に建つ、浄土真宗本願寺派寺院「朝光山:真宗寺 」、同じく『阿弥陀如来』を本尊とします。 文亀2年(1502)に白川郷萩町に開創。天文11年(1542)に古川町に移転しましたが、金森氏が飛騨の領主になると、新しく作られた古川町三之町の現在地に移転しました。

本堂は明治37年(1904)に起きた古川大火によって「輪転蔵」だけを残し、他の伽藍と共に焼失。現在の本堂は明治45年(1912)に再建されたものです。

本堂脇に建つ輪転蔵経堂」は明和8年(1771)の建築で、飛騨市指定文化財。格子戸の小さな穴から見える仏の世界は、250年近い年月を経たとは思えないほど鮮やかで美しいものでした。

実は「三寺」の中で一番最初に立ち寄ったのは、荒城川に架かる「霞橋」を渡ってすぐ右手の「本光寺」。激しい雨の為に車内から山門を写し、目当ての銅像をデジカメに収めただけで、直ぐに車に戻ってしまいました。

激しい雨にも拘らず画像に収めたのは、『あゝ野麦峠』の文学碑と工女の像。
「二月もなかばを過ぎると 信州のキカヤ(製糸工場)に向かう娘たちがぞくぞくと古川の町へ集まって来ます。みんな髪は桃割れに、風呂敷包みをけさがけにして「トッツァマ、カカマ達者でナ」 それはまるで楽しい遠足にでも出掛けるように元気に出発して行ったのでございます」

お天気が回復したので本格的に町歩きをし、最後に立ち寄ったのは、国登録有形文化財で野麦峠にゆかりの老舗旅館「八ツ三館(はっさんかん)」。明治38年(1905)に建てられたもので、今も現役で営業されています。

「~そのころ、古川町の工女宿向町の八ッ三旅館の前は工女の荷物をとりに来た親たちで、毎日ごった返して、廊下や裏庭は足の踏み場もなかった。」あゝ野麦峠より

後で気がついたのですが、「八ツ三館」の川向こうに見えていたお寺って「本光寺」だったんですね😓   町歩きに思ったより時間を費やし、遠目で見ただけで確認さえしなかった・・・。これでは「三寺・・」ではなくて「二寺まいり」。でもってこちらの本堂、木造建築では飛騨地域で最も大きく、装飾も飛騨の匠の技巧をつくしたものだとか~~~~~💧💧

毎年1月15日に行われる「三寺まいり」。飛騨古川に200年以上も前から続く『親鸞聖人』のご恩を偲び、町内の3つの寺、円光寺・真宗寺・本光寺を詣でる独特の伝統風習として受け継がれてきました。

「その昔、野麦峠を越えて信州へ糸引きの出稼ぎに行った年頃の娘たちが着飾って瀬戸川の川べりを歩いて巡拝し、男女の出逢いが生まれたことから「嫁を見立ての三寺まいり…」と飛騨古川の小唄にも唄われ、縁結びが叶うおまいりとして全国に知られるようになりました。」飛騨市公式ウェブサイトより

「女工哀史」によって悲惨な面ばかりがクローズアップされてしまった飛騨の女工たち。ですが当時の日本には、過酷な出稼ぎの話はごく普通に転がっていました。家の為に身を売る事も決して珍しい事では無かった時代の女たちを、可哀そうだ、悲惨だ、残酷だと、現代人が賢しらに煽り立て、薄っぺらい正義感と同情をひけらかす。それは「驕り」以外の何物でもないと・・私は思います。

訪問日:2012年5月18日

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