車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

松本市歴史の里~Ⅱ~ in 長野県松本市島立

2022年08月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

旧松本区裁判所庁舎を出たら、左手に見える「石置き板葺き屋根」の建物へと向かいます。松本市歴史の里、そのⅡでは、明治時代の輸出総額の3分の1を支えていたと言われる、生糸の生産に関わる建物の紹介です。

明治から大正期にかけて生糸の生産に関わった工女と聞いて思い浮かべるのは、映画やドラマにもなった「あゝ野麦峠」のいくつもの場面。飛騨を望む位置に建立された二人の少女像。その傍らに建立された供養塔が胸を締め付けます。

明治~大正時代、信州へ糸ひき稼ぎに行った飛騨の若い娘達が吹雪の中を命がけで通った野麦街道の難所、標高1672mの野麦峠。「ツォッツァマ(お父さん)、カカサマ(お母さん)、まめでおってくれよ。といって、飛騨と信州の境で、みんなでしがみついて泣いたんやぜな」工女たちの証言より。

「工女宿 宝来屋」は松本市奈川地区川浦の、古来信州松本と飛騨高山を結ぶ旧野麦街道に面した位置にありました。江戸時代は尾州藩領の旅人宿として、また製糸業が盛んであった明治・大正時代には、飛騨高山方面から長野県、特に現在の岡谷・諏訪地方へ製糸労働のため往来した工女たちの宿として使われていました。

建物内で一番広い「いどこ」と呼ばれる部屋。現在でいう所の居間・茶の間といった位置づけでしょうか。

「工女宿 宝来屋  桁行8間半、梁間7間半、木造平屋一部2階建、切妻造、妻入、板葺(石置き)。間取りは乗鞍、御岳高原の農家で一般に使われた形式である。表の2室は工女宿として宿泊客が増えた明治時代の増築で、土間奥のネベヤと背後の半間分も明治以降に付加されたものとされるが、目立った改造もなく創建当初の形式が保たれている。」として2009年12月22日、松本市重要文化財に指定されました。

かって下諏訪町にあった「旧昭和興業製糸場」。カイコの繭から生糸をとりだす製糸工場で、当時の機械をそのまま移築しており、往時の雰囲気を体感できます。

建物には、糸をひく手元がよく見えるよう窓が大きく開けられているなど、製糸工場ならではの工夫が見られます。

博松本市歴史の里、最後は松本市北深志に江戸時代後期に建てられた下級武士の住宅『木下尚江(なおえ)』の生家。

木下尚江は、明治2年(1872)この家に生まれ、新聞記者・弁護士・小説家として活動しながら、普通選挙の実現など、社会改革をめざして活躍した人物です。

松本市中央に所在していた片倉工業のショッピングセンター:カタクラモールにあった『片倉製糸紡績副社長:今井五助』縁の「五助の松」。大日本蚕糸会会長、全国蚕糸業組合連合会長を務め、帝国蚕糸などの設立に尽力した人物です。

満開の桜に出迎えられ、満開の桜に見送られ、私たちはこの美しい歴史の里を後にします。

訪問日:2016年4月22日

 

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