「日本のエーゲ海」とも称される牛窓の景観。約10ヘクタールのオリーブ園ではオリーブの成木約2,000本が栽培され、小豆島オリーブ園と並んで日本最大規模を誇ります。展望所から見る瀬戸内海、海を隔てた先には小豆島から四国までが見渡せます。
眼下には寒々しい姿のオリーブの林。真冬のオリーブの木は何故かよそよそしくて。とても風が冷たくて・・空も海も灰色。
同じ年の夏、牛窓港へと至る道の展望所から、夏の日差しを受けて輝く牛窓の市街を見ました。真っ白な入道雲が真っ青な空に映えて、それはまるで絵葉書の世界のように見えました。
西日本でも最大級のスケールを誇ると言われる「ヨットハーバー」、通りすがりの車内から流し撮りをしたものです。
牛窓本土と前島の距離が最も近いという「唐琴瀬戸」。前島までは幅230~400m、東西800m、深さ13~30m、海底は大小様々な岩からなる岩礁で複雑な凹凸が形成され、大潮の引き潮時には渦ができるほどの奔流となるそうです。
こんなおだやか海面を見ていると、説明にある状況が想像できません。
「唐琴瀬戸」の入口、玉垣に囲まれた中に祀られているのは「神功皇后の纜(ともづな)石」。纜とは、船をつなぎとめておく綱のこと。
「「風土記逸文(ふどきいつぶん)」に「神功皇后のみ舟、備前の海上を過ぎたまひし時、大きなる牛あり、 出でてみ舟を覆さむとしき、住吉の明神、老翁と化りて、其の角を以ちて、投げ倒したまひき、故に其の処を名づけて牛轉(うしまろひ)と曰ひき、今、牛窓と 云うは訛れるなり。」とあります。大きな牛が転んだ所を「牛転(うしまろび)」と呼ぶようになり、やがて訛って「牛窓」になった。」瀬戸内市HPより
唐琴の瀬戸に面して建つのは「燈籠堂」。瀬戸内海を航行する公・私船舶の航行が頻繁となった延宝年間(1673~1681)に、夜間通航の標識として備前藩主池田綱政の命によって建設されました。
「燈籠堂の創建は不詳ですが、記録より延宝8年(1680)以前に建てられたと考えられています。文化6年(1809)の記録を見ると、燈籠に鯨油が使われたことも記されています。明治時代になって堂は壊され、石垣のみ残りました。現在の堂は昭和63年に江戸時代の絵図から推定復元したものです。」瀬戸内市HPより
燈籠堂の右手には、小さなお社を収めた覆い屋があります。軽く手を合わせての参拝ですませた為、社名などの詳細は不明。
海岸近くの小高い丘の上にある小さな神社は『五香宮』。御祭神は『住吉大神・神功皇后・応神天皇・,上筒男命・中筒男命・底筒男命』
由緒「神功皇后西国御遠征の砌、牛窓沖にて牛鬼の難に逢われ、危うき処を住吉大明神に救われた。皇后は、住吉大明神の御加護に感謝、此の地に古くから住吉宮の存する事を聞き、自ら住吉宮へ御参拝され、武運長久、航海安全、安産祈願等を御祈願なされた。下って江戸時代寛文6年7月、藩主池田光政公は牛窓神社に参拝され、その時に往吉宮の造営の由を仰せ出だされ、社殿が再建されるや、京都伏見の御香宮から改めて、神功皇后と応神天皇の御神霊を勧請し、往吉宮を五香宮と改称。以来、五香宮は池田家の守護神として崇敬を集め、武神、航海安全神、安産神として尊崇された。現存の社殿は、大正七年の大造営にかかる神明造り銅板葺きである。」岡山神社庁より
五香宮の奥にある高野山真言宗「妙福寺観音院」。瀬戸内三十三観音霊場第六番札所で、地元では東寺と呼ばれています。現在の本堂は延享3年(1746)に再建されたと云われています。
お参りの前にと手水舎を見れば、水の無くなった手水鉢の中に何とも可愛い先客。
真夏の焼き付けるような日差しの中で見つけた涼しい場所。人を怖がるでもなく、威嚇をするでもなく、穏やかな表情を浮かべていた猫さん。達者でいますように!
訪問日:2008年2月10日&8月15日
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